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◇猫介護生活2010年06月06日 00時17分04秒

まだバランスがとれていた頃の食事。
 
今日、なじみのパン屋に久しぶりに買い物に行ったら、「なんか疲れた顔してますけど、大丈夫ですか?」と言われてしまった。

ここ一ヶ月、我が家の猫の具合が悪い。
先日、昔の記録が出てきて、うちの猫は1987年の夏生まれであることがはっきりした。
これまで「だいたい22歳」だったのが、はっきりと「今年の夏で23歳」であることが判ったわけである。
猫の23歳といえば、人間でいうと108歳らしい。

これまで病気も怪我もなくすごしてきたのだが、去年くらいから足の関節が少し曲がってきており、かかりつけの獣医は「猫の関節湾曲症はめずらしいから」と言っていたのだが、どうもその関節湾曲症らしい。
鼻も目も耳も悪いようで、水を飲むときに水面の位置がわからず、顔を突っ込んでおぼれかける。
名前を呼ぶと反応していたのも、近くまで行かないと気がつかないこともしばしば。
しかし、それくらいなら歳だからと笑っていられたのだが、ここ一ヶ月くらいは笑っていられる状況でなくなりつつある。

今年に入ってから食事をとるときにバランスをくずすようになり、足を体の下に入れた状態での猫すわりが現在では完全にできなくなった。
トイレも行ったときには出ないで、あらぬところで粗相をする回数が増え、とうとうトイレで排泄することができなくなった。
食事は前足の負担を軽くするために専用のテーブルと椅子をあてがい、トイレはオムツを余儀なくされている。

今年の春ころまでは、それでも今までとおり生活していたのだが、連休すぎくらいから食事の量がこれまでの3倍量食べるようになった。
今までは朝と夜に一回づつレトルトパックを与え、途中は自由に食べられるようにドライフードを用意していたのが、ドライフードはまったく食べられなくなり、その代わりにほぼ3時間おきの食事を要求するようになった。
食事も、食べ物がうまく口に入らないので、勢いばかりが先にたってテーブル前ででんぐり返ってしまうため、食事の間中ずっと体をささえていなければならない。
うまく後ろ足でバランスをとれることもあるのだが、でんぐり返って水の容器をひっくり返して水浸しになることもあるので、ずっと見張っていなければならない。
食事の量が少なくなると、スプーンで山を作って食べやすくしてやったり、口に入れるのをサポートしてあげたりもする。

食事のたびに顔中にペットフードの油が付着し、胸のあたりまで汚れてしまうため、濡れタオルで拭いてあげるのだが、油までは完全にとりきれず、それが毛穴に詰まって外皮ごと毛が抜けてしまい、今では胸元から顔にかけてほとんど毛がなくなってしまった。

水もひとりでは十分に飲めないので、脱水を防ぐためにスポイトで毎回水を飲ませる。
今では自分で飲むよりも確実なせいか、喜んでスポイトで水を飲んでいる。

水分も十分に吸収がうまくいっていないためか尿の量が多く、ペット用のオムツでは一回量で飽和してしまう。
そのため、オムツをしているのに部屋中におしっこコロニーができていて、外出から戻ったときには地雷を踏む思いでコロニーを探すことになる。
また、家中におしっこのにおいがこもってしまい、いい臭い取りを探したりもした。
オムツ自体には慣れたようだが、おしりが濡れるのは気持ち悪いせいか、排泄したときには報告にくるようになった。

徘徊もあり、これは人間に比べれば家の中のことなのでずっと楽だとは思うのだが、具合が悪いときのようにいつも暗いところに行こうとするので、目を離すとタンスとふすまの間に挟まって動けなくなっていたり、テレビ台の下で開きになっていたりすることもしばしばで、新しく開拓された隙間を発見するのは、ちょっと骨が折れる作業だったりする。
先日は、家の中で泣きながら三時間も捜索しなければならなかった。

子供を育てた経験のない私は、ふと「子育てってこんな感じなのかしら」と思うのだが、子育てなら子供の成長が楽しみなのにうちの猫はそうではない。
どんどんと弱っていく姿を見ながら、近い将来に確実に来るであろうその日が今日か明日かと思いながら介護している。
しかも、猫の時間は人間の4倍。三ヶ月に一つ歳を取る計算なので、今年の春からは確実に一つ歳をとっていることになる。

野生の状態や野良であれば、ひとりでご飯を食べられない状態は確実に死につながる。
そんな中で、これまでの3倍量の食事を要求するということは、体がそれだけ食べないと維持できない状態であるということだろう。人から食事を与えられることで、他の猫よりもずっと長生きできることを、うちの猫は知っているのではないかと思うこともある。
年寄りが突然大食らいになったとか、転びやすくなったとか、失禁だとか、徘徊だとか、うちの猫を見ているとそれはそのまま人間の老いをハイスピードで見ているような気持ちにもなって、とても切ない。

先日、危篤かと思われる状態になったが、ご飯を水でといたものをスポイトで食べさせ、病院で栄養剤を打ってもらったときには「三日続けて栄養点滴して、だめなようなら諦めるとき」と言われたのだが、一回の注射でほぼ回復し、次の日注射を受けにいった獣医師を驚かせた(うちの猫はこの獣医師が嫌いで、この獣医師による再三の危篤勧告に反発するように復帰を遂げている)。
うちの猫の「ぎりぎりまで生きてやる」という根性には、本当に脱帽する思いであり23年生活を共にしてきた飼い主としては感謝したい気持ちであり、時には励まされることもある。
しかし、それでもこれまでよりは確実に弱ってきているのを実感する。

今年の夏で23歳。
介護が必要になり、今が一番飼い主との意思の疎通があるのではないかと思う。
人間の言っていることは確実に理解しているとはっきり感じるし、時には念を送ってきているような気がすることがある。
電話などで他人に「うちの猫ももう歳だから」などと話すのを聞いて、抗議してくるのは歳をとっても女心か。
猫が100歳になると、しっぽが二つにわかれて猫又になるというが、それは猫の年齢のことでなのか人の年齢でのことなのか。

しかし、猫介護に精神的にもかなり疲れ気味なのも事実で、パン屋のおやじ(年下)はもうちょっと遠慮というものを知らないといけないと思う今日この頃である。

◇猫介護生活:おむつカバー2010年06月09日 04時48分31秒

後ろから見たところ
おむつカバー装着後姿。

猫がおもらしをするようになり、紙おむつを使用するようになったのだが、なかなか猫用に作られた紙おむつというのは見当たらなく、ペット用の紙おむつはほとんどが犬用に作られている。
布おむつも検討したのだが、装着するときにじっとしていてくれないので手間がかかり、その間に第二弾が床の上にということもしばしばなので、紙おむつを使用している。

ユニチャームのペット用紙おむつは犬猫兼用とされてはいるが、うちの猫にはあまり具合がよくなく、足の方から横漏れしたり、しっぽ穴からうんちやおしっこが漏れてくる。
現在は、人間の新生児用の紙おむつにはさみで穴を開けて使用している。ペット用よりも吸収帯が腰まで長くあり、足の動きもペット用よりも自由度が高く、ギャザーの具合も良い。
吸収帯もペット用よりしっかりしていて、一晩おいても毛がさらさらなのには、最初感動してしまった。
しかし、これでもまったく漏れないということではないのだ。

寝ているときは、猫ベッドの中に吸水シートをしいて防水するようにしているのでまだいいのだが、起きて部屋を徘徊している間に排尿した場合、量が多いと床にそのまま漏れてしまい、おむつの意味がまるでなくなってしまう。
いろいろ考えておむつカバーを探してみたりしたが、これまた犬用ばかりで猫用のはなかなかない。
あっても上半身までサポートするようなタイプで、関節が湾曲しているうちの猫には、ちょっと負担が多くなってしまうような気がするのだ。
それでなくても、おむつの締め具合によっては股関節を圧迫して動きを阻害してしまい、後ろ足がほとんど動かなくなってしまうこともある。
後ろ足が動かないときは前足だけで動いているのだが、そのときに必要以上に身体をかがめたりするため、上半身で固定するタイプは負担が大きいような気がした(試してないのではっきりしたことはいえないのだが)。

そこで、おむつカバーを検討。
全体をカバーしなくても、漏れの部分のみ吸収してカバーしてくれればいいと考えた。
当初は、子供用のカバーパンツと腹巻が一体になったようなものがいい思ったが、なかなかぴったりくるようなものには出会えなかった。
子供用の衣服など、他人様の出産祝いに購入するくらいしか見ないので、実際にどんなものが存在しているのかさえわからない。
現在子育て真っ最中の、帯広のKさんに相談して子供の衣服のことについて聞いてみたところ、それは最初から作った方が無難ではないかとのアドバイス。
大人用のトレーナーでズボンを作ったなどの経験談を聞いて、別な友人が子供のズボンを大人用の靴下で作ったという話を思い出し、調べてみたら意外に簡単に作れることが判明した。ウールソーカーというおむつカバーらしい。
これにしっぽ穴をつけたらいいのではないかと考えた。

作り方
おしっこ漏れをしたときの吸収性を重視し、冬用のマイクロファイバーの靴下を採用。
季節商品なので今はあまり見かけないが、寒い時期は100円ショップにもあるし、ホームセンターで3足500円くらいで売っている。
今回は試作ということで、私の3年もののピンクの靴下をおろして作成。
製作時間2時間弱。もともと不器用ということもあるのだが、生地がもこもこしているので、ミシンの糸の具合が難しかった。

人間の子供用だと、靴下の底の部分を開いて縫い合わせるだけでいいのだが、猫用だとしっぽ穴が必要になる。
そのまま穴をくりぬいてもいいのだが、着脱を考慮して背中側は縫わずに留めるようにする。
靴下を一度全て開き、お腹側は縫い合わせて、背中側はまたのところまで縫い合わせた。
全て開いたのは、当初足を少し細く縮め、裾をゴムで締めようと思ったのだが、そのままでも足を伝っておしっこが漏れることはなさそうなので、切りっぱなしにした。
この場合は、靴下の足首より上の部分は切らないでもよかったかもしれない。
背中の部分も切りっぱなしで、腰の部分でななめに合わせるように大きなベロクロテープをつけた。ななめに合わせることで、自然とお尻に穴ができるので、しっぽ穴を開ける必要もないし、おしっこを確認するときにもいちいち全部脱がせなくてもいいので楽である。
ただ、背中側をななめにすることで、またのところに穴があいてしまったので、切り落とした靴下の先っぽを丸く切って補強した。

洗うと切り口がぼそぼそになるが、特にほつれてくることもないので現在もそのまま使用している。
洗濯は、今のところこれひとつなので、毎回手洗いしている。

新生児用の紙おむつにしてからはダダ漏れということは少なくなったので、現在は私がちょっと外出してこまめに面倒を見られないときに装着。
オムツカバーが漏れたおしっこを吸ってくれるので、帰宅したときに床におしっこ地雷があることもなくなった。

ただ、婦人用24cmの靴下だとちょっと腰のところが心もとないので、次に作るときはくるぶし丈の紳士用の靴下にしようと、主人の夏用の3足1000円の26cmの靴下を一足もらうことにした。
今度の素材は、夏でも蒸れないさらさら素材。
マイクロファイバーよりは吸水性が期待できないと思うが、蒸れないというのは夏場は重要だと考え採用。
果たしてどんな使い心地か。うちの猫が気に入ってくれるといいのだが。

※2010年6月9日17時頃改定しました。

◇帯広市の“まち”のシンボル広小路2010年06月17日 06時11分03秒

大通り側からの広小路アーケード

先日、従姉が送ってきた春掘りの長いもをくるんであった十勝毎日新聞に、「広小路“出店ラッシュ”」という記事が掲載されていた。
長いもがくるまれていたので新聞はちょっと破れたりしており、ネット調べてみると2010年3月4日の記事だったらしい。

去年の暮れに、長年会っていなかった友人とコンタクトが取れ、なんとなく昔話に花が咲いている。
その友人が、最近の帯広の様子を写真に撮って送ってくれた。
「何かのネタに使っていい」とのお許しが出たので、帯広の今と昔を少し考えようかと思いつつ、いろいろと状況がそれを許さず、友人をずっと待たせたままにしてしまった。 ここでその写真を使用させていただこうと思う。

「広小路“出店ラッシュ”」の記事は、ネット上で『十勝めーる』というところで発見した。

十勝毎日新聞2010年3月4日の記事
「広小路“出店ラッシュ” アーケード再生へ弾み」

http://www.tokachimail.com/obihiro/100308index.html

この記事によると、「老朽化の進んだかつての広小路で、軒並み路面店の撤退が進んでいたが、ここに来てラーメン店などその他2店舗の出店があって、関係者は胸をなでおろしている」ということらしい。
2011年には、アーケード再生事業として「まちなか」の活性化基本計画が推進されるとのことらしい。

しかし、冬の景色だからというのもあるのだが、友人から送られてくる広小路の風景は、30年くらい前にここでカセットを持ち込んで若者が踊り狂っていた場所とはとうてい思えない様相を呈している。

当時、50sファッションの流行で、原宿にクリームソーダという50sファッションのお店があり、その影響からか原宿のホコ天でカセットデッキを持ち込んで踊る50sファッションのローラー族という若者が話題になった。
ちょうど竹の子族などがもてはやされるちょっと前の時期で、そのうち竹の子族とローラー族の場所取りの抗争が話題になったりもした。

キャデラックスリム 「孤独のメッセージ」
広小路西一条
その影響で、帯広でも昼間は歩行者天国になる広小路で、50sファッションのローラー族が踊りを踊ったりして話題になった時期があった。
西二条の裏通りか西一条の11丁目(記憶不確か)に、50sファッションのお店もあったりしたのだ。
後に帯広出身の50s風バンド「キャデラックスリム」のメジャーデビューを境に、私が高校を卒業する頃にはローラー族もすっかりなりをひそめていたが、キャデラックスリムのメンバーが広小路で踊っていたとか、いろいろ噂はつきなかった。

私が帯広で一度就職したときの同僚がローラー族で、彼女のBFが乗っていた昭和40年代のフェアレディ(Zではない)のオープンカーの荷台に乗せてもらったりした(フェアレディのオープンは2シーターなので、荷台に乗るのは違法である。今考えるととんでもない)。
荷台に乗ると、一段高いところに座ることになるので、オープンカーの開放感プラス全身で風を切る感じがとても気持ちよかったのを今でも覚えている。

私が高校を卒業する1984年か1985年頃には、とくらビルの地価が一億になったというのがニュースだったような気がする。
広小路には、DCブランドの店が軒を連ね、その間に老舗の店が混在していた。
私も毎日のようにここに通ったが、広小路はアーケードをくぐるだけでちょっとわくわくするような場所だった。
藤丸が7丁目に移転し、ホシビルが広小路の西側にできて、広小路から駅をつなぐ二条通りは本当の意味で帯広のメインストリートであり、広小路はその屋台骨を支えるアーケード街だった。
帯広の七夕祭りには、広小路に仙台の七夕をもっと庶民的にした手作り感満載の七夕飾りが飾られ、平原祭りには花笠音頭のパレードが広小路をメインにまちなかを闊歩した。
広小路は、帯広市民と「まち」の活性化にはなくなてはならない場所だったはずなのだ。

帯広広小路の歴史は長い。
ネットに公開されている帯広の歴史年表(pdf)を見ると、1924(大正12)年に「現在の広小路に露天商組合が設立された」となっている。
1930(昭和5年)には店舗数が90店舗になり、この年の12月に二条8丁目に藤丸デパートも開業している。
1945年(昭和20)年の終戦時に木造の屋根がつけられ、その6年後の1951(昭和26)年に正式に帯広広小路と命名された。
店舗もそれまでは振興マーケット形式だったのが、1953(昭和28年)年には現在の店舗形式の商店街に作り変えている。
その後北側が火事で焼けたり、アーケードが大雪で倒壊したりもしたが、何度も改修を重ねて市民の憩いの商店街として存続してきたのだ。

現在、アーケードの老朽化に伴い、広小路アーケードの撤去の計画も聞かれる。

帯広の「まち」の象徴である広小路が、変わり果てたとはいえ今でも帯広市民の心に「まち」の象徴として残る形なのであれば、昔のようにとはいわないまでも、新しい形で継承していくような場所になるといいのにと、願わずにはいられない。


◇民放の報道番組を久しぶりに見る2010年06月19日 03時33分47秒

最近はほとんどNHKでしかニュースを見ないのだが、たまに気になる話題があるときだけ民放のニュースを見る。
しかしNHKのニュースを見慣れてしまうと、民放のニュースはふざけているのかと思ってしまうほど、キャスターの振る舞いや言葉使いが気になってしまう。
これが一般の人であれば、テレビに出ていて間違っていたとしてもまあしようがないと思ったりもするし、気になっている当の本人も正しい言葉遣いをしているかといえば、そうではない。
だが、公共の電波で言葉でお金をもらっている人は、そういうわけにはいかないだろうと思う。

先日も、(当時)鳩山総理と小沢幹事長と平野官房長官との“対談”が行われたと、日本テレビのニュースで司会者とおぼしき人が発言していた。 しかし重箱の隅をつつくようだが、“対談”というのは二人で行われるもので、三人であれば“鼎談”になるのではないか。

私は今日、惑星探査機「はやぶさ」の特集をするということで、BSフジの報道番組を初めて見た。
フジテレビのニュースは番組と番組の間の5分ニュースくらいしか見たことがないが、この5分ニュースも時間内にアナウンスが終わらず、途中でぶち切れて終了というのを何度も見た。なので、ものすごく興味のある話題だったのにも関わらず、録画したものを見るのがちょっと怖かった。
今日私が見た番組、はかつてのアイドル女子アナと強面の政治部キャスターがメインの番組。

第一印象は、地上波のニュース番組よりもセットのモニターや設備は良いように思うが、セットがなんだかごちゃごちゃして狭苦しい。

そして、メインの女子アナのコメント時の笑い声や相槌が非常に気になる。
結構堅苦しい話題のときでも、いちいちきゃぴきゃぴ声で相槌し、相手のちょっとした冗談にもオーバーアクション気味のハイテンションな笑い声が飛び交い、非常に耳障りでならない。
しかもインタビュー中に相手の言葉に、「ふーん」という相槌はないだろうと思う。「ふーん」は相手の言葉にあまり興味を示していないように感じられ、インタビュアーの使う相槌ではないように思える。

さらに、強面キャスターの言葉使いが乱暴すぎる。
ゲストとのインタビュー中に「言葉が乱暴ですが」と自分で言うくらいなら、乱暴な言葉を控えるべきでは。
この人は決して人相がいいわけではないのだから、公共の電波でまともなことを言うのであれば、せめて言葉遣いをきちんとしてほしい。
視聴者からの質問や意見を募集する際に、「このことはすでにみなさんお知りになっていると思いますが」はないだろう。“知る”の尊敬語は“ご存知”だと思うのだが。

「はやぶさ」の特集としての内容的には、「はやぶさ」の特徴や苦労話、視聴者からのリアルタイムでの質問などを盛り込み、解りやすく楽しい内容だったが、メインキャスターの重箱の隅つつきの方が気になって、結局ゲストのコメント以外は早送りで見てしまう。
たいていの報道番組や、プロのナレーションだけの番組の場合、アナウンサーの話す言葉は2倍速にしても聞き取れるのだが、フジだけは聞き取れないというのも特徴的であるといえる。

それにしても「はやぶさ」関連の話題はもっとメディアで取り上げていいと思うのだが、何故これがBSで放送され、地上波ではほとんど相手にされていないのかが不思議である。
ワールドカップ中だからサッカーの話題でかき消されているのかもしれないが、日本の技術の集大成を世界へと思う気持ちがあるのであれば、スポーツの話題だけでなく科学技術にももっと目を向ける努力も必要だと思うのは、うちだけなのだろうか。
こんなすばらしい内容なのだから、もっとまともな局の地上波で見たいと切望する。

◇はやぶさ帰還に思う不謹慎でどうでもいい想像2010年06月19日 04時36分23秒

小惑星「イトカワ」から何か持ち帰ったという、惑星探査機「はやぶさ」。
つくばにいたときの集合住宅の窓からは、つくばエキスポセンターのH2ロケットがいつも西の窓から見えていた。
このロケットの後継機ではやぶさを飛ばしたのだなあと、当時は思っていたのだが、イトカワに到着して一時行方をくらましたというニュースの後は、意識しなければさっぱり話題にものぼらなかったので、今回その奇跡をあらためて確認すると、本当によく戻ってきたと思えてならない。

それにしても、イトカワ着陸後に消息をくらまして、一ヶ月ちょっと後に再び通信が再開したと聞いたとき、ちょっと不謹慎な想像をしてしまった。

実は、イトカワは他の宇宙生命体による基地で、そこに侵入してきた探査機を一時捕獲した後、なんでもなかったかのように元に戻した。
そしてはやぶさのカプセルには、その生命体からのメッセージが含まれている。
しかし、そのメッセージに「はずれ」とか書いてあったらいやだなあ…

と思ったりしたのだった。

◇深夜のガソリンスタンドの思い出2010年06月23日 00時45分21秒

国道38号線沿いにある、現在のアラブ石油のスタンド跡(写真提供:TS)

都会はどうだったのかは知らないが、1985年当時の帯広の田舎では、まだまだガソリンスタンドの深夜営業はまれなことで、ガソリンスタンドが行楽の日曜日に平然と休んでいるのも珍しいことではなかった。
平日でも、早くて午後6時、遅くても8時には営業が終了してしまうところが多かったので、夜中に突発的にドライブなどに行きたいと思ったときに、ガソリンがないということもしばしばあった。

普通の人たちはどうだか知らないが、私たちの友人はみんな車があるとすぐにドライブに行きたくなってしまう。それが軽であろうがソアラ(誰も持っていなかったけど)であろうがお構いなしであった。
行き先はいろいろで、近場だと当時は24時間営業していた十勝川温泉の大平原だったり、余力があれば大津の海まで行くこともあった。

だいたい人が集まる場所は決まっていて、そこで集った仲間で条件が合い意気投合して行動を始めるのが夜も10時過ぎのことである。
馴染みのお店の店員の仕事が終わるのを待つときは、行動開始が0時を過ぎることもしばしば。 そこで車を調達して、お金を出し合ってガソリンを入れるのだが、そんなときに重宝していたのがアラブ石油だった。

私の記憶では、国道38号線沿いの周囲に街灯も何もない場所の暗闇に、こつぜんとガソリンスタンドが存在しているのが頭に焼きついている。実際にそういう場所だったのかどうかは不明だが、そういう印象だったのだ。
屋根のない二方向の敷居だけの敷地に、給油機と薄暗い明かりがぽつんとあり、車を給油機の前につけると、どこからともなく痩せたおやじが出てきて給油してくれる。

大抵お金がないので満タンなどとは言わず、千円札を取り出して「これで入るだけ」と言って給油するが、千円では10リッターも入らなかったように記憶している。
調べてみると、1985年当時のレギュラーガソリンの1リットル当たりの価格は、146円だったらしい。普通のガソリンスタンドで10リッター入れると1460円(当時は消費税がなかったので、提示価格のまま)なので、深夜営業のアラブ石油では倍くらいの値段だったのではないか。せいぜい千円で給油できたのは、4~5リッターくらいのものだったと推測する。

友人とふとしたことでアラブ石油のことで盛り上がったときに、ちょっと調べてみたところ、古い新聞記事をアーカイブしているサイトで、アラブ石油の名前を見つけることができた。


『太古の新聞記事など』
ウエートレス強盗強姦事件(昭和43年1月4日深夜の札幌市のビル内)の中の記事
http://63164201.at.webry.info/200901/article_4.html

アラブ石油は、1975年から帯広と釧路に深夜営業のガソリンスタンドを営業していた。帯広店は、東一条南8丁目と国道38号線沿いにあったらしい。 東一条店は1977年と1982年に、釧路店は1982年に強盗事件に合い、1982年の強盗事件後に帯広店は東一条店の24時間営業を取りやめ、国道38号線沿いの店舗でのみ三人交代制で24時間営業を続けていたとある。
※『太古の新聞記事など』内ウエートレス強盗強姦事件(昭和43年1月4日深夜の札幌市のビル内)の中の「十勝毎日新聞 昭和57年(1982年)2月16 日 火曜日 9面」と「十勝毎日新聞 昭和57年(1982年)3月9日 火曜日 11面」より抜粋引用。

この記事を読んだときに、あの暗闇の中で客がこないときに給油のおじさんはどうやって過ごしているのだろうと思ったことを思い出す。
お金がないときに千円ぽっちの給油でもいやな顔もせずに給油してくれた、50過ぎくらいの浅黒いおじさんの顔がうっすらよみがえるような気がする。
当時一度だけ、友人の用事につきあって昼間にあのあたりに行ったことがあったが、スタンドの周囲は住宅もまばらで野っ原だった。

友人が送ってくれた写真を見ると、アラブ石油の周囲には立派な社屋が建っていたり、決して新しそうでない住宅も立ち並んでいる。
昔は国道からはずれると砂利道だったと記憶する道も、当然のごとく今ではアスファルト舗装されている。
私の記憶では、給油機しかないスタンドだったが、写真を見ると小さな小屋があって、おじさんはそこにいたのだということが判る。

その後ガソリンスタンドの深夜営業が、一般のガソリンスタンドでも行われるにつれてアラブ石油の需要は激減したものと見られる。
アラブ石油が帯広からひっそりと姿を消したのが、いったいいつのことなのかは知ることができなかった。

ガソリンスタンドの跡地というのは、ガソリンタンクが埋蔵しているので再利用にお金がかかり、そのまま土地活用されずに廃墟になるケースが多いと聞く。
田舎に行けばいくほど、ローカルの小さな昔のガソリンスタンドの廃墟を多く見かけるが、特に目印になるシンボルマークも何もなかったアラブ石油の跡地が、このような形で残っていることに、ちょっとした感動を覚えたのだった。

◇猫介護生活:食事の仕方に翻弄される2010年06月27日 06時47分30秒

今年の夏で23歳になる我が家の猫だが、おむつを余儀なくされ、満足に歩くこともできないときもあるのに、自分の欲求を強く感じるときだけは、颯爽と走ったりする。
さっきまではよぼよぼと立てないそぶりを見せていたのに、ご飯を見るや足がすばやく動き出すらしい。
目も耳も遠くなって、近くまでいかないと呼んでも気づかないというのに、けっこう遠くにいてもご飯のパウチを見せるだけで飛んでくる。
食欲は大変旺盛で、お腹のすいた時間になって食事の用意ができていないと、私のところに来て食事がほしいとアピールすることも忘れない。
欲求というのは、本当に生きるために必要なものなのだと痛感する。

猫の介護をされている飼い主さんのブログなどを拝見すると、食事が自分でできないために、強制給餌をしているというのを見かける。
その理由はいろいろのようだ。

我が家の猫は、舌が自由に動かないらしく、昔は鼻の頭に練り薬をつけたりすると、舌でぺろぺろとそれをなめてしまったのだが、最近は食事中でも水を飲むときでも、舌が口から出ているのを見ない。
舌が溶けてなくなってしまっているのではないかと、口をこじ開けて見るとちゃんとある。
しかし、昔のように舌を出して鼻の頭をなめることさえできないくらい、舌の自由は失われているようだ。

舌で食べ物を口に運ぶことができないので、食事はかじりつくように食べることになる。皿の上にレトルトパウチのご飯を盛り上げて、そこに口をもっていき、がぶりと食べやすいようにしてあげるのだ。
食欲だけは満点なので、がぶりがぶりとやるうちに、上半身が皿からぶれて皿のふちを噛んでいたりする。猫は、食べ物でないものをかじっていることには気づかない。
やわらかいプラスチック製の皿やスプーンは、たちまち傷だらけにされ、割れてしまう。
下手をすると、プラスチックのかけらが口に入ってしまうので要注意だ。

便秘予防のために、毎日夜にビオフェルミン(人間用)を一錠飲むのだが、食事の後に投薬しようと仰向けに抱えて口元を見ると、下唇がぱっくり割れている。ちょうど、下のはぐきが歯からはがれて、口をあけているかのような傷口だ。
口内炎のようで痛いはずなのに、本人はけろっとしている。傷口をさわっても、痛がる様子もない。
すでに痛みの感覚もにぶってしまったのだろうかと思うと、涙が止まらなくなる。

自分で食べられるうちは自分で食べるようにしたいと考え、できるだけ強制給餌はしないようにするつもりであるが、近い将来必ずくるであろうその時のために、準備だけはしておこうと思う。

今朝、朝ごはんをあげたところ、口の痛みもそこそこにいつも以上にがっついて食べる姿に、少しだけ安堵する。
口が痛くて食べられない状況になると、危険だと思っていたからだ。

しかし、昨日から少し元気がなく、ずっと自分のベッドにもぐって食事の時間になっても起きてこないので、状況は安心できるものではないようだ。
食べさせれば食べるが、今までのように自分からほしがるということをしなくなってしまったのだ。

がつがつと食べる姿を見ていて、途中から口に含むばかりで飲み込んでいないことに気づく。
水の入った皿に口を移して水を口に含んでうがいをさせるのだが、口から大量にご飯が出てくるも、それ以上に口に入ってどうにもできなくなってしまっている様子。
シリンダで水を口に含ませても、水が全部出てきてしまう。

口の中をこじ開けて、少しずつ口の中の食べ物をかき出すが、下手をすると指をかじられてしまうで要注意である(今までに何度となく穴があいた)。
下唇も傷がついているので、これ以上傷を広げないようにもしなければいけない。

いろいろ考えて、割り箸を口の横方向から突っ込んで、反対側に出して、口を開けたまま固定しようと考えた。
すると、予想以上に食べ物は口いっぱいだったらしく、割り箸を突っ込むと半分以上の食べ物が口から出てきて、残りは無事に飲み込むことができたようだ。
水の皿に口を持っていくと、つたないながらも水を飲むことができたので一安心だ。

ふと、人間の老人が餅を喉に詰まらせて死亡するというニュースを思い出して、また涙が出てきてしまう。

◇Tuesday Afternoon / Moody Blues2010年06月29日 04時17分09秒


The Moody Blues Tuesday Afternoon Live 1968 Jazz Blitzen


昨日久しぶりに、Moody Bluesの「Tuesday Afternoon」を聞いた。
この曲を始めて聞いたのは、1984年か1985年にNHKで放映された、ロックヒストリーのドキュメンタリー番組の中で流れた、1960年代のプロモーション・ビデオでだった。

Moody Bluesの曲はこの時2曲紹介されており、古い曲として「Tuesday Afternoon」が紹介されていたのだ。
この時の映像をYouTubeで探してみたのだがなく、冒頭にあるのは白黒の古いライブの映像らしい。

私の見た映像は、サイケデリックな色合いのスタジオの中にバンドセットが組まれていて、王子様のような衣装を着たヴォーカルのジャスティン・ヘイワードが、憂いをこめた表情でこの歌を歌い上げる。
バンドメンバーはその周囲で黙々と演奏を続け、後半のフルートのソロのときにレイ・トーマスがクローズ・アップされるというカラー映像である。

このときのボーカルのジャスティン・ヘイワードが、まるで一条ゆかりの漫画に出てくる男の子のようで、面食いの私にはど真ん中だった。
しかし、ジャスティン・ヘイワード以上に興味を惹かれたのは、彼の声にまとわりつくような、オルガンの音色と後半のフルートだった。
オルガンの音色がボーカルのけだるさを増幅させて、この曲に風景を与えているようにも感じた。

この曲が見せるボーカルとオルガンの風景は、家の近所だったり、会社での外回りだったり、学校の帰りだったりというなんとなく中途半端な場所で昼下がりという中途半端な時間に、今週もまた一週間が始まってまだ二日しか経っていないなとか、そんな感じの軽い疲労の中、空は少し曇ってきて雲間から太陽の光がこぼれおちるのをなんとなく眺めているような、そんな気だるさである。
そして後半に入るフルートが、“火曜日の昼下がり”から夕暮れに変わっていく中で、理由のない不安を表現しているように感じた。
まるで、カミュの「異邦人」を読んでいるかのような印象でもあった。

歌詞の内容を確認したわけではないので、実際にこの曲がそういう風景を表現しているのかどうかは知らない。
ただ、私の頭に勝手に浮かんできたこなんてことのない昼下がりの一面に、私はすっかり魅了され、ずっと忘れることができなくなってしまった。

1985年頃は、ネオアコースティックといわれたインディーズ系のものと、ニューウェイブ系の音楽がまだまだ流行している時期で、この後に流行するハモンドオルガンを駆使したカフェミュージック系の音楽は、それほど私たちの耳に届いてはいなかった。
しかも、70年代に活躍していたプログレ系のバンドは、軒並みニューミュージックに押されてどんどんとポップ路線を邁進していた時期だったので、「Tuesday Afternoon」を聞いたときに、Moody Bluesがプログレなのだという認識はまるでなかった。
当然、周囲の友人たちでMoody Bluesが好きだという人は皆無だったし、知っているという人さえ少なかった。

録画した番組の中の曲は、途中で切れてしまって全部は聴くことができない。
そのうちレコードからCDに以降してベスト盤などを探したりもしたが、「Tuesday Afternoon」の入ったものには出会えずにそのままきてしまった。

今、YouTubeの中であの時見たプロモーション・ビデオではないにしろ、あの時期のMoody Bluesを見ることができる。
そして、この白黒のジャスティン・ヘイワードは、あの時見た映像よりも更に若い頃のものらしく、そのかわいさに再びノックアウトされつつ、なんとなくちょっと疲れつつもどきどきするような火曜日の昼下がりを感じるのだった。



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