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◇猫介護生活2010年06月06日 00時17分04秒

まだバランスがとれていた頃の食事。
 
今日、なじみのパン屋に久しぶりに買い物に行ったら、「なんか疲れた顔してますけど、大丈夫ですか?」と言われてしまった。

ここ一ヶ月、我が家の猫の具合が悪い。
先日、昔の記録が出てきて、うちの猫は1987年の夏生まれであることがはっきりした。
これまで「だいたい22歳」だったのが、はっきりと「今年の夏で23歳」であることが判ったわけである。
猫の23歳といえば、人間でいうと108歳らしい。

これまで病気も怪我もなくすごしてきたのだが、去年くらいから足の関節が少し曲がってきており、かかりつけの獣医は「猫の関節湾曲症はめずらしいから」と言っていたのだが、どうもその関節湾曲症らしい。
鼻も目も耳も悪いようで、水を飲むときに水面の位置がわからず、顔を突っ込んでおぼれかける。
名前を呼ぶと反応していたのも、近くまで行かないと気がつかないこともしばしば。
しかし、それくらいなら歳だからと笑っていられたのだが、ここ一ヶ月くらいは笑っていられる状況でなくなりつつある。

今年に入ってから食事をとるときにバランスをくずすようになり、足を体の下に入れた状態での猫すわりが現在では完全にできなくなった。
トイレも行ったときには出ないで、あらぬところで粗相をする回数が増え、とうとうトイレで排泄することができなくなった。
食事は前足の負担を軽くするために専用のテーブルと椅子をあてがい、トイレはオムツを余儀なくされている。

今年の春ころまでは、それでも今までとおり生活していたのだが、連休すぎくらいから食事の量がこれまでの3倍量食べるようになった。
今までは朝と夜に一回づつレトルトパックを与え、途中は自由に食べられるようにドライフードを用意していたのが、ドライフードはまったく食べられなくなり、その代わりにほぼ3時間おきの食事を要求するようになった。
食事も、食べ物がうまく口に入らないので、勢いばかりが先にたってテーブル前ででんぐり返ってしまうため、食事の間中ずっと体をささえていなければならない。
うまく後ろ足でバランスをとれることもあるのだが、でんぐり返って水の容器をひっくり返して水浸しになることもあるので、ずっと見張っていなければならない。
食事の量が少なくなると、スプーンで山を作って食べやすくしてやったり、口に入れるのをサポートしてあげたりもする。

食事のたびに顔中にペットフードの油が付着し、胸のあたりまで汚れてしまうため、濡れタオルで拭いてあげるのだが、油までは完全にとりきれず、それが毛穴に詰まって外皮ごと毛が抜けてしまい、今では胸元から顔にかけてほとんど毛がなくなってしまった。

水もひとりでは十分に飲めないので、脱水を防ぐためにスポイトで毎回水を飲ませる。
今では自分で飲むよりも確実なせいか、喜んでスポイトで水を飲んでいる。

水分も十分に吸収がうまくいっていないためか尿の量が多く、ペット用のオムツでは一回量で飽和してしまう。
そのため、オムツをしているのに部屋中におしっこコロニーができていて、外出から戻ったときには地雷を踏む思いでコロニーを探すことになる。
また、家中におしっこのにおいがこもってしまい、いい臭い取りを探したりもした。
オムツ自体には慣れたようだが、おしりが濡れるのは気持ち悪いせいか、排泄したときには報告にくるようになった。

徘徊もあり、これは人間に比べれば家の中のことなのでずっと楽だとは思うのだが、具合が悪いときのようにいつも暗いところに行こうとするので、目を離すとタンスとふすまの間に挟まって動けなくなっていたり、テレビ台の下で開きになっていたりすることもしばしばで、新しく開拓された隙間を発見するのは、ちょっと骨が折れる作業だったりする。
先日は、家の中で泣きながら三時間も捜索しなければならなかった。

子供を育てた経験のない私は、ふと「子育てってこんな感じなのかしら」と思うのだが、子育てなら子供の成長が楽しみなのにうちの猫はそうではない。
どんどんと弱っていく姿を見ながら、近い将来に確実に来るであろうその日が今日か明日かと思いながら介護している。
しかも、猫の時間は人間の4倍。三ヶ月に一つ歳を取る計算なので、今年の春からは確実に一つ歳をとっていることになる。

野生の状態や野良であれば、ひとりでご飯を食べられない状態は確実に死につながる。
そんな中で、これまでの3倍量の食事を要求するということは、体がそれだけ食べないと維持できない状態であるということだろう。人から食事を与えられることで、他の猫よりもずっと長生きできることを、うちの猫は知っているのではないかと思うこともある。
年寄りが突然大食らいになったとか、転びやすくなったとか、失禁だとか、徘徊だとか、うちの猫を見ているとそれはそのまま人間の老いをハイスピードで見ているような気持ちにもなって、とても切ない。

先日、危篤かと思われる状態になったが、ご飯を水でといたものをスポイトで食べさせ、病院で栄養剤を打ってもらったときには「三日続けて栄養点滴して、だめなようなら諦めるとき」と言われたのだが、一回の注射でほぼ回復し、次の日注射を受けにいった獣医師を驚かせた(うちの猫はこの獣医師が嫌いで、この獣医師による再三の危篤勧告に反発するように復帰を遂げている)。
うちの猫の「ぎりぎりまで生きてやる」という根性には、本当に脱帽する思いであり23年生活を共にしてきた飼い主としては感謝したい気持ちであり、時には励まされることもある。
しかし、それでもこれまでよりは確実に弱ってきているのを実感する。

今年の夏で23歳。
介護が必要になり、今が一番飼い主との意思の疎通があるのではないかと思う。
人間の言っていることは確実に理解しているとはっきり感じるし、時には念を送ってきているような気がすることがある。
電話などで他人に「うちの猫ももう歳だから」などと話すのを聞いて、抗議してくるのは歳をとっても女心か。
猫が100歳になると、しっぽが二つにわかれて猫又になるというが、それは猫の年齢のことでなのか人の年齢でのことなのか。

しかし、猫介護に精神的にもかなり疲れ気味なのも事実で、パン屋のおやじ(年下)はもうちょっと遠慮というものを知らないといけないと思う今日この頃である。



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