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◇帯広市の“まち”のシンボル広小路2010年06月17日 06時11分03秒

大通り側からの広小路アーケード

先日、従姉が送ってきた春掘りの長いもをくるんであった十勝毎日新聞に、「広小路“出店ラッシュ”」という記事が掲載されていた。
長いもがくるまれていたので新聞はちょっと破れたりしており、ネット調べてみると2010年3月4日の記事だったらしい。

去年の暮れに、長年会っていなかった友人とコンタクトが取れ、なんとなく昔話に花が咲いている。
その友人が、最近の帯広の様子を写真に撮って送ってくれた。
「何かのネタに使っていい」とのお許しが出たので、帯広の今と昔を少し考えようかと思いつつ、いろいろと状況がそれを許さず、友人をずっと待たせたままにしてしまった。 ここでその写真を使用させていただこうと思う。

「広小路“出店ラッシュ”」の記事は、ネット上で『十勝めーる』というところで発見した。

十勝毎日新聞2010年3月4日の記事
「広小路“出店ラッシュ” アーケード再生へ弾み」

http://www.tokachimail.com/obihiro/100308index.html

この記事によると、「老朽化の進んだかつての広小路で、軒並み路面店の撤退が進んでいたが、ここに来てラーメン店などその他2店舗の出店があって、関係者は胸をなでおろしている」ということらしい。
2011年には、アーケード再生事業として「まちなか」の活性化基本計画が推進されるとのことらしい。

しかし、冬の景色だからというのもあるのだが、友人から送られてくる広小路の風景は、30年くらい前にここでカセットを持ち込んで若者が踊り狂っていた場所とはとうてい思えない様相を呈している。

当時、50sファッションの流行で、原宿にクリームソーダという50sファッションのお店があり、その影響からか原宿のホコ天でカセットデッキを持ち込んで踊る50sファッションのローラー族という若者が話題になった。
ちょうど竹の子族などがもてはやされるちょっと前の時期で、そのうち竹の子族とローラー族の場所取りの抗争が話題になったりもした。

キャデラックスリム 「孤独のメッセージ」
広小路西一条
その影響で、帯広でも昼間は歩行者天国になる広小路で、50sファッションのローラー族が踊りを踊ったりして話題になった時期があった。
西二条の裏通りか西一条の11丁目(記憶不確か)に、50sファッションのお店もあったりしたのだ。
後に帯広出身の50s風バンド「キャデラックスリム」のメジャーデビューを境に、私が高校を卒業する頃にはローラー族もすっかりなりをひそめていたが、キャデラックスリムのメンバーが広小路で踊っていたとか、いろいろ噂はつきなかった。

私が帯広で一度就職したときの同僚がローラー族で、彼女のBFが乗っていた昭和40年代のフェアレディ(Zではない)のオープンカーの荷台に乗せてもらったりした(フェアレディのオープンは2シーターなので、荷台に乗るのは違法である。今考えるととんでもない)。
荷台に乗ると、一段高いところに座ることになるので、オープンカーの開放感プラス全身で風を切る感じがとても気持ちよかったのを今でも覚えている。

私が高校を卒業する1984年か1985年頃には、とくらビルの地価が一億になったというのがニュースだったような気がする。
広小路には、DCブランドの店が軒を連ね、その間に老舗の店が混在していた。
私も毎日のようにここに通ったが、広小路はアーケードをくぐるだけでちょっとわくわくするような場所だった。
藤丸が7丁目に移転し、ホシビルが広小路の西側にできて、広小路から駅をつなぐ二条通りは本当の意味で帯広のメインストリートであり、広小路はその屋台骨を支えるアーケード街だった。
帯広の七夕祭りには、広小路に仙台の七夕をもっと庶民的にした手作り感満載の七夕飾りが飾られ、平原祭りには花笠音頭のパレードが広小路をメインにまちなかを闊歩した。
広小路は、帯広市民と「まち」の活性化にはなくなてはならない場所だったはずなのだ。

帯広広小路の歴史は長い。
ネットに公開されている帯広の歴史年表(pdf)を見ると、1924(大正12)年に「現在の広小路に露天商組合が設立された」となっている。
1930(昭和5年)には店舗数が90店舗になり、この年の12月に二条8丁目に藤丸デパートも開業している。
1945年(昭和20)年の終戦時に木造の屋根がつけられ、その6年後の1951(昭和26)年に正式に帯広広小路と命名された。
店舗もそれまでは振興マーケット形式だったのが、1953(昭和28年)年には現在の店舗形式の商店街に作り変えている。
その後北側が火事で焼けたり、アーケードが大雪で倒壊したりもしたが、何度も改修を重ねて市民の憩いの商店街として存続してきたのだ。

現在、アーケードの老朽化に伴い、広小路アーケードの撤去の計画も聞かれる。

帯広の「まち」の象徴である広小路が、変わり果てたとはいえ今でも帯広市民の心に「まち」の象徴として残る形なのであれば、昔のようにとはいわないまでも、新しい形で継承していくような場所になるといいのにと、願わずにはいられない。





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