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◇花粉症突入2011年03月02日 23時25分21秒

目が痒い。
目のふちがただれたように痒い。

今年は1月の末からヒスタミン添加グロブリン注射というのを受け、症状の出始める前から薬を飲み、しかも夏から続いた薬疹の治療に使われていた薬が花粉症の薬でもあったこともあり、かなり早期の段階で花粉対策を行っていた(結果的に、かなり早期から)。

1月の末にめがねを作るために眼科へ行ったついでに、アレルギー点眼薬も処方してもらった。
準備はある程度できていたはずだったのに…。

2月26日に気温がとても暖かくなり、春一番が吹き荒れ、4月上旬の気温であると発表された日。
この日に今年の花粉デビューとなった。
しかし、症状がひどくなったのは、27日である。
暖かかった前日を待ちわびた杉がいっせいに開花したため、この日は一気に飛散量がアップしたらしい。
目のふちのただれは、この日一日で悪化した。

ふだんは花粉を感じるとくしゃみが止まらなくなるが、いつもの年と比較するとまだまだ序の口といったところ。
去年からの早期予防が功を奏しているのか、それとも注射がきいているのか。
今年は鼻よりも、目や喉に症状が強く出ていてる。

目はただれると、花粉の飛散が少ないときでも常に痒い。
手を目にもっていかないよう気をつけてはいるが、ついがりがりとかいてしまいたい欲求にかられる。

しかし、今年の花粉のピークはまだまだこれからだ。
春一番の後は雨が降って寒の戻りがきているので、花粉の量もそれほど多くなく、快適な一日を過ごすことができている。
そんな一日の中でも、目のかゆみだけは春一番と共に訪れて、たぶん今年の花粉のシーズン中ずっと私につきまとうのであろう。

ああ、気持ちがいい春の日差しを喜べないのであれば、いっそ早く夏になってほしいと願うばかりである。

◇Innovatorのカレンダー 2011年に入って2011年03月04日 19時03分17秒

去年の暮れに、それまで18年に渡って我が家の壁を彩ってくれていた、Innovatorのカレンダーが、入手不能になってしまったことを記事に書いた。
その後、カレンダーが入手できないショックを受けた方々が、いろいろな情報を寄せてくださり、代替品はこんなのがいいのではという記事も書いた。

◇Innovatorのカレンダー ― 2010年11月04日 22時39分28秒

◇2011年カレンダー その後 ― 2010年11月07日 11時39分21秒

◇Innovator 2011年カレンダーの代替品 ― 2010年11月24日 02時05分04秒

そして先日、「2011年カレンダーその後」の記事に、Innovatorの日本代理店だった村田合同
の元社員と推測される方から、こんなコメントをいただいた。

2011年03月04日 15時48分00秒
innovatorのカレンダーは村田合同が社内でデザインして販売していたものなので
本国からの輸入では無い事だけ情報提供しておきます。(元社員)


この投稿は、「◇2011年カレンダー その後」の2011年3月4日付けのコメント欄で、ご確認いただける。

これらの記事を書いてから、アサブロ(このブログスペース)の閲覧数トップ100内に、このブログがとどまっている。
他にたいして有効な記事も書いていないので、Innovatorのカレンダーについての関心が、非常に高いものであると痛感する。

私は当初あのカレンダーは、日本版をItoyaが業務委託されて作製していたものなのかと思っていた。
また、輸入ものなのであれば海外製のもの、Innovatorはスウェーデンの会社なので、スウェーデン製のものを輸入して使うなどと探してみたりもした。
しかし、元社員さんの情報提供により、これらの推測が間違いであることを知ることができた。
元社員さん、貴重な情報提供感謝いたします。

あのカレンダーが日本オリジナルのものであると考えると、輸入品を入手すればという一縷の希望も絶たれてしまったわけだが、いつまでもないものねだりをせずにすんだともいえる。

今、我が家の居間の壁には、itoyaのカレンダーがかかっている。
innovatorのカレンダーよりもずっと地味なので、予定がわかりやすいDMなどを上のペーパーホルダーのところに挟めたりしている。
innovatorを使っていたときには、そのデザインを隠すのがいやで、印刷物などをカレンダーに貼り付けたりすることなど皆無だった。
itoyaのカレンダーが悪いわけではないが、生活観あふれる使い方をしてしまっているのが、自分でもちょっとあれだなーと思いつつも、便利なのでつい… という感じである。

◇新横浜ラーメン博物館2011年03月07日 00時51分54秒


新横浜にあるラーメン博物館には、定期的に足を運んでいる。
ラーメンが好きというのもあるが、この博物館の目玉のひとつである「昭和30年代の街並み」の雰囲気が好きなのだ。
ここでは昭和30年代となっているが、昭和40年代の地方都市の街並みもだいたいこんな雰囲気だった。

2歳~3歳当時、帯広市の大通りにあった弧線橋の近くに住んでいたので、たまに母に連れられて歩いて街に行くことがあった。
夕暮れ時の帯広駅前の北側の、当時駅前のシンボル的建物だった十勝バスの本社ビルのあたりは、なんとなくこういう雰囲気があったように記憶している。
子供の頃のことなので記憶に錯綜があるかもしれないが、最初のここに来たときにそう感じたのだ。

ここは日本全国の特徴のあるラーメンを、ひとつの場所で楽しめるというところだか、オープン当時とは少し仕様がかわっている。
当時は「ラーメン博物館」の名前に恥じないくらいの展示があり、日本のラーメンの歴史を、現在の一階の売店がある場所で観ることができた。
発売当初のチキンラーメンや、チャルメラなども展示されていた。
地下のレストラン街も、ラーメン店以外に駄菓子屋や、焼き鳥屋、カフェなどもあり、人ごみに疲れた中で、ちょっとラーメンから離れる空間もちゃんと確保されていた。

しかし、ある時期からそのような空間がなくなってしまい、中央広場に露店などが出てお酒や軽食はそちらで食べるようになった。
ここは一番ラーメン店が集中してるところで、あちこちで行列ができている雑踏の中にずっといることになり、ちょっとゆっくりという雰囲気ではない。
人ごみが嫌いな人には、かなりきつい場所だ。

かといって一度外に出てしまうと、せっかくの雰囲気が興ざめしてしまう。
ここにいる間は、十分に昔の日本の雰囲気の中にいたいと思ってしまう。

新オープンのカフェスナックの看板
新オープンのカフェの看板。
ソフトクリームは濃厚ミルク味でおいしかった。

ここにカフェがなくなって久しかったのが、今日行ってみると「本日オープン」という喫茶&スナックが、交番横に登場していた。
中に入ると、赤い電球色の照明に、赤いソファで、昔のスナックの雰囲気。
女給さんも和服でいい雰囲気だ。

メニューにはカクテルなどのアルコールもあるが、看板にもなっている北海道濃厚ミルクのソフトクリームと、コーヒーが嬉しい。
この日は、ラーメン好きのドイツ在住友人夫妻と一緒だったので、特に「食後には甘いもの」は必須だ。

さっそくソフトクリームとコーヒーを注文する。
コーヒーにはクッキーが一枚づつついていて、コーヒースプーンは桜の形だった。

ところで、同行の友人夫妻の旦那様はドイツの方だが、彼の目から見ると、昭和30年代の雰囲気を表現したこの街並みは、今の日本もあまり変わらないように見えるらしい。
確かに今でも、建物自体は小さくこまごましていて、神奈川の住宅地では細い路地が多いし、終戦後の昭和の古い住宅も未だ健在で残っている。
街並みの全体像をあまり考慮せずに街を作っているので、いろいろなタイプの建物がひしめいているし、表側に生活臭のある商店もめずらしくはない。
横浜の伊勢崎町付近の繁華街は、今でもこんな雰囲気のある街並みだったりもする。

私たちからすると、特徴的なそば屋ののれんや、病院のドア、飲み屋街の路地の看板の雰囲気など、ポイントポイントで雰囲気を楽しめるが、そういうポイントがない人には、今も昔もあまり変化を感じられないのかもしれないと思う。

ごみごみしたお客さんの中からは、中国語や韓国語など、外国からの観光客とおぼしき人の声も聞こえてくる。
ドイツ人の友人の感じたことと、日本の昔をいろいろな形で知識として知っているであろう近隣諸国の観光客の感じたことが、同じなのか違うのか。

ラーメン博物館の駅長さん
この日の博物館内は、昭和33年3月6日であった。
写真は体感ゾーン入り口にある駅の駅長さん。


それ以前に、高度成長期の入り口である昭和30年代の街並みの中で、まだまだ生活に不安があったであろう戦後の日本人と、ここにも戻れず先にもいけない今の私たち日本人は、やっぱりそんなにかわらないのか、もしかしたらもっと複雑な袋小路に押し込まれているのではないかと思ってしまった。

家に戻ってテレビを見ていると、前の日までは「職務まっとう」と言っていた外務大臣が、数万円の不正な政治資金のために辞任したというニュースが流れてきて、なんだかこのとき感じた袋小路がさらに現実味を帯びてきたような気がしてならなかった。


◇無事です2011年03月12日 02時45分43秒

旦那と伊豆の日帰り旅行中の出来事でした。
現在、海側道路侵入禁止が多く、帰宅できません。
山側道路の様子がわからず、チェーン規制もあるため、伊豆高原の民宿に避難しています。

とりあえず、家族一緒で無事です。

◇お礼とお見舞い2011年03月13日 12時51分33秒

昨日帰宅していましたが、あまりに疲れていたのと、とりあえず何かあったときのそなえの準備のために、書き込みできずにいました。

コメントくださった方々、メールをくださった方々、そしてご心配くださった方々、本当にありがとうございます。
そして、被災された皆様には、この場をお借りしてお見舞い申し上げます。

そして私が今までに住んだ地域の中で、茨城県が一番被害が大きいです。
茨城の友人とも連絡がとれましたが、余震が続く中ライフラインが完全に確保できない地域もあるようで、大変心配です。
ただ、とりあえずみなさんがご無事であるということで、それだけは安心です。
不安な時間を過ごしていると思いますが、無理をせずがんばってください。

◇計画停電開始2011年03月15日 23時16分52秒

11日の地震で、被災地への電力供給のため、被害が軽かった地域では計画停電が行われた。
最初の予定から二転三転して、一部地域では14日から、私たちの地域では15日から一日一回から二回、三時間ほど停電する。

1グループの私たちの地域では、15日の午後3時50分から午後7時の間の3時間ほど停電するということだったが、実際に停電になったのは4時3分。

停電前に、その間使う分程度の水を鍋に溜め、懐中電灯などを用意しておいた。
ガスは乾電池で着火するタイプなので、停電中でもお茶くらいなら沸かして飲むことができる。
電気ストーブを利用している我が家では、暖房がなくなるので、停電がおきたときは、布団に入って本を読んでいた。
外はまだ明るく、本を読むくらいの明かりは窓から入ってくる。

4時30分頃旦那が帰宅し、ラジオをつけていろいろと話したりして過ごした。
暗くなってから外に出てみると、外は住宅も街頭も灯りがなく、道路を走る車のヘッドライトだけがまぶしく、せわしなく通り過ぎていく。
なんだか、夜汽車の窓から見た、遠い町の暗い景色のような感じ。

災害が直接原因の停電ではなく、停電から開放されることが判っているので、それほど不安ではない。
これが災害による停電だったら、こんな準備もできていないだろうし、もっと不安なのだろうと思う。
ただ、これが今後毎日のように続くことを考えると、ちょっと心が重い。
旦那が、「昔しょっちゅう停電があったとき、なにして過ごしていたんだっけ」と言うので考えてみたが、夜に停電になったという記憶があまりなく、私も思い出せなかった。

自治体の広報車が、「停電時間中は水が濁るので、水道使用も控えてください」と拡声器で回っていた。
現在では水道の蛇口からお湯が出るのは“普通”のことだが、給湯器も電気で動いているので使えない。
私たちの生活の中には、見えないところでも電気に頼る部分がたくさんあることを思い知る。
でも、少しくらいの不自由なら、便利さにどっぷりつかった生活を、見直すきっかけになるのかもしれないと、思ったりもした。

この計画停電、停電になる時間帯も、エリアごとにグループわけされた地域ごとに毎日変更されるらしい。
停電になる時間帯によっては、食事時期などはやはり困るし、企業などでは停電の間は仕事にならない。
だから時間帯を毎日変更するのだろうけど、商店などは時間が毎日変わると商売しづらいというのもあるようだ。
個人的には、午前中の方がいいなあと思ったりするが、午前中だと一日に二回停電になるようだ。

ところで、この計画停電グループ分けの資料やその他の資料は、東京電力ホームページで公開されている。
Yahooなどでも案内があるのだが、携帯からでも東京電力のPC用のホームページにリンクされていて、携帯からはわからないのだ。
PDFが見られない人のためにエクセルのデータも公開されているが、いずれにしても“普通”の携帯では閲覧できない。
東京電力は大変だろうが、もうちょっと情報公開に気を使ってほしいと思ったりする。

今回の最初の停電で、自分の住んでいるエリアはわかっただろうから、今後に発生する停電時間をもっとわかりやすい形で公開してほしい。できれば、24時間の電話案内とか、回覧板とか、さまざまな方法で発信してほしい。
生活にかかわるものだから、周知は徹底的に行ってほしいと思う。

ちなみに、明日の予定は

第4グループ 6:20~10:00
第5グループ 9:20~13:00
第1グループ 12:20~16:00
第4グループ 13:50~17:30
第2グループ 15:20~19:00
第5グループ 16:50~20:30
第3グループ 18:20~22:00

らしい(3月15日23時現在)。

◇計画停電二日目。茨城県の友人から連絡が来て、原発の話をする。2011年03月17日 01時44分41秒

2011年3月16日水曜日 計画停電二日目。

今日は昼から夕方までなので、旦那は午前中で仕事を引き上げて帰ってきた。
昼食の用意をしなければと思ったけれど、暖房もなく寒いので布団に入っていたら、そのまま停電の間中旦那と昼寝をしてしまった。

夕方からスーパーに行くと、物がないのは相変わらずだが、野菜や肉などは多少入荷してきている。
ティッシュペーパーが切れていたのだが、紙物の棚はすっからかんだった。しかたないので、古布ティッシュを強化することにする。

停電が終わった直後に、ずっとメールが遅れなかった大洗出身で現在は県内のK市在住の友人から連絡が入った。
地震のあった日にメールで連絡して以来、メールも電話もつながらなくなっていたのだ。
最後のメールは、彼女の去年生まれた子供が40度近い熱を出しているというもの。

昼寝の間にメールが入っていたので、返事をしたら電話がかかってきた。
子供は幸運にも地震直後に病院で治療を受けることができ、なんとかなったらしい。

彼女の家は去年新居を建てたのだが、そこが断層の上だったようで、その近所では断層の上に線を引いたように一直線に崩壊したり破損したりしていたらしい。
彼女の家は壁にヒビが入ったが、そのヒビが入ったおかげで崩壊をまぬがれたとのこと。近所にある築数十年の旦那の実家は、断層からずれたところにあったので、ビクともしなかったらしい。

彼女の実家は大洗にあり、私も一度遊びに行ったことがあるのだが、海からほど近い場所にあった。
大洗が津波の被害を受けたと聞いていたので心配していたのだが、みなさん無事であるとのこと。

その後の話が茨城らしいのだが、このあたりは家庭で自家発電機を持っている家もあるらしく、彼女の家でも電気が戻るまでそれで暖をとっていたらしい。
水は今も断水しているのだが、井戸水で生活している人が近所にけっこういるので、そこで水をもらえたからなんとかなったとのこと。
「なんかすごいね~」というと、「ここいらでは普通ですよー」と言われてしまった。

しかし、石油の不足で自家発電装置があっても安心というわけではなかっただろうし、水だってそうそういつももらえるとは限らないだろう。
今は彼女のいる地域でもライフラインが復活したことで、ひとまず安心のようだ。

茨城に住んでいたとき、地元の人からは「ここはりんごの南限、みかんの北限。食べ物はなんでも取れるし、水は地下水と霞ヶ浦があるから、災害には強い」とさんざん聞かされた。
異常気象で世間的には野菜がないと大騒ぎしているときに、「野菜あまってるんでもらってもらえませんか」と、茨城の友人から連絡がきたこともあった。

つくば市に越したときにも、防災案内には「東海地震とは関係のない土地である」と強調して書いてあった。
しかし実際住んでみると、地震がものすごく多くてびっくりした。
それでも、「首都圏に何かあれば、茨城が助けるのだから」とみんな言っていた。

彼女の家庭のような家が全てではないだろうし(避難所で、頼る人もいなくて困っている人も、たくさんいると思う)、もともと地元で隣近所親戚でふだんから助け合って生活している賜物だろうが、今回も茨城県のすごさを改めて思い知る。

私の知る茨城県民は、みんな強くてのんきな人ばかりだった。
“のんき”というと怒られそうだが、力の抜き方を知っているという感じだ。

彼女とは、11年前の東海村の事故のときにも、一日中つくばで一緒にいた。
彼女も私たちも、事情があってつくばから離れることができなかったのだ。
つくば市は東海村から40kmほどしか離れていない。
大洗は東海村のすぐそばで、彼女はたぶんすぐにでも家族と会いたかっただろうと思う。

当時避難勧告が出たのは、周囲500m(!)。
もっと近い場所の人たちが避難していないのに、40kmも離れた場所への影響がどういうものなのか情報もほとんどなく、ただ「東海村で原子力事故が起きて人が死んだらしい」ということしか、当時は判らなかった。

その時学生だった彼女は、その後東海村の原子力施設で働くことになった。技師ではなく、事務職員としてである。
電話で「原子力施設にいて半端な知識があるので、福島原発事故による都内の放射能数値で、大騒ぎしているのが不思議に思える」と言っていた。
私もつくばの研究所にいて、原子力関係の研究者と友達になったりして、東海村の事故の話をいろいろと聞いたりしていた。

本当かどうかはわからないが、東海村の放射能と今回の福島のものはちょっと種類が違っており、東海村のときの方がやばいものだったという話も聞く。
少なくとも今日都内や神奈川あたりで飛んでいた放射能よりも、ずっと多い量をつくばであびているだろうと思われる。
それでも、この11年特に放射能が原因で身体の具合が悪くなったということはなく、花粉やタバコが原因の症状の方がよっぽど辛い。

昨日の夜に放送していたNHKの放射能の説明で、CTスキャンなどの被爆の量を見ると、今日あちこちに飛んでいた放射能の量の話ではない量であることを知る。
腸閉塞で入院したとき、医局とレントゲン室との連絡ミスで部位を間違えて撮影してしまい、何度もレントゲンとCTを取り直したことがあるが、あれは一日でどれだけの被爆をしたのだろうかと思うと、ちょっとぞっとしない。

それよりも何よりも、東海村のときは、人が死んでるのに誰も事故をどうにかしようとしなかったらしい。
誰かが「おまえらがやらないで誰がやるんだ」と叱咤したことで、やっと事態収拾に動いたらしい。
もんじゅのときも、柏崎狩場のときも、会社は極力情報を隠そうとしていた。
正しい情報など、事故が収束してからポロポロと出てきた。

今回は原因が地震だとはっきりしているとはいえ、東京電力のエンジニアが全力で作業にあたっている。
地方の原子力発電所の作業員にも募集を募り、定年まで半年の技術者が志願して福島に向かったとのニュースも読んだ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110316-00000018-jij-soci

情報が少なすぎるとか、遅すぎるとかいろいろ批判はあるが、政府も必要と判断された情報を流している。
こういう事態で少なすぎる情報も不安だが、多すぎる情報はパニックのもとだ。
いろいろと批判のある政府だが、今は信じるしかない。

こういう事態になって、放射能が気になるのも理解できる。
逃げることができてその場所がある人は、逃げればいいと思う。
でも、さわいだところで私たちには何もできないのだ。
それよりも、自分の身を挺して作業にあたっている技術者や自衛隊の人たちが、無事に作業を終えて、最善の結末を迎えられることを祈ることしかできない。
そして、原発事故で避難勧告が出た地域の、一回り外側の地域の人たちの方が、それより遠く離れた地域よりもずっと恐怖であることも、認識すべきだと思う。

東海村の事故の時も、事故の後は地元の人たちはみんなどっしり構えて、慌てた様子はなく、外から入ってきた人がそわそわと落ち着かない様子だった。
でも、地元の人があわててないのだから、とみんな平静を取り戻していったのだ。
地元の人たちが不安じゃなかったわけではないだろうが、あの人たちは原子力施設ができたときに、ある程度の覚悟みたいなものがあったのかもしれないと、今は思っている。
騒いでも落ち着いていても結果は同じだと、茨城県で被災した彼女と電話で笑いあえたことが、とても心強く嬉しかった。



明日の停電は9時20分から13時。
旦那の会社は停電エリア除外区域に指定され、明日から通常勤務となるらしい。
私も午前中から病院に行くが、ちょうど停電時間内なのでどうするのか。
車は使いたくないから、バスと電車で行くか、原付で行くか。
電車が通常運転していないので、不確実性が多すぎてちょっと不安。

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☆3/18補足
今日、くだんの彼女から携帯にメールが入った。
パソコンを立ち上げる余裕が少しできたので、一番最初にここを見てくれたらしい。
そこで、内容の不備を指摘されたので、この文章を今日少し書き直した。
最初の文章だと、福島原発の現地の数値がたいしたことがない思っているように、誤解される恐れがあった。

私たちが感じていたのは、この日(3月16日)の時点で福島の原発の影響で都内や神奈川などの現地から半径150km以上ある場所で、いたずらに放射能の量が平常時よりもどれだけ高いとか、ミリとマイクロを言い間違えて大騒ぎしているけれど、その幅がどれだけのものか、それをどの程度の人が理解しているのだろうかということが疑問だった。

もちろん、普通のことではないことが起きているので、怖くないわけがない。
つくばにいて東海村で事故が起きたとき、私たちが怖くなかったわけでもない。
つくばよりももっと東海村に近い人たちは、もっと怖かっただろうと思う。

今現在、茨城県内にいる彼女も、今は子供の母親になり、以前よりも遠いところで起こっていることとはいえ、やはり怖いだろうと思う。私はそこからさらに遠くに引っ越しているけれど、怖くないかといえばうそだ。たぶんみんな同じ気持ちだろうと思う。
でも、ただいたずらに騒いだり、東京電力を避難したところで、放射能が止まるわけではないということを言いたかった。

この福島原発の事故で、遠く離れた関西や中国地方の人たちも、放射能が不安だと訴える人がいるというニュースも目にする。
そんな遠い土地でも、不安が伝染してしまっているのは、とても悲しいことだと思う。
そして何より、風評被害によって福島に物流が途絶えてしまっていることに、心が痛んでならない。

最初の文章が、誤解を与える文章になってしまっていたことを、茨城の友人とこれを読んでくださった方々に、改めてお詫びいたします。


☆3/20補足
今日、茨城北部の避難所が孤立しているニュースを見た。
私が書いたこの記事が、茨城北部で被災した地域が、それほど深刻でないような印象を与えたのではないかと感じ、それについても多少文章を書き直した。

茨城県は、北部と南部では被災の度合いが大きく異なり、内陸と海側とでも異なる。
北部の海側では甚大な被害があり、死者も出て、避難所では今も多くの人たちが避難生活を送っている。
福島の原子力発電所から距離的に近いせいもあり、福島南部と共に放射能被害が懸念されてか、物流が滞り、茨城北部や福島南部では孤立した状態になっているところも多いようだ。

私の友人は、地域の人たちの助けで、早い段階で被災当時も暖をとることができたし、断水の中でも水を確保することができたのだ。それはあくまで不幸中の幸いであり、他の茨城の被災者が全てそのような恩恵にあずかれたわけではないことを補足する。

前にすでに文章修正をしたことも含めて、誤解のある文章であったことを、重ねてお詫びいたします。

◇計画停電三日目。その状況でなければ感じない感情。2011年03月18日 01時26分13秒

2011年3月17日木曜日 計画停電は、今日で三日目。

今日は、9時20分から13時までと、16時50分から20時30分までの二回。
二回目の停電は、必要に応じて行うといっていたのだが、二回目を行うのか行わないのかの周知が徹底されていなかったらしい(でも、夕べはどこのテレビ局のニュースでも、二回目やるかもって言っていたのだけど)。
ネットで見ていると、知らずにいて急に停電したという人もいるらしい。

うちの自治体は、広報車で停電の有無を事前に伝えて回っているが、この広報車けっこう声が反射して聞きづらかったりする。
東京電力のホームページはアクセスしにくい状況が続くし、あいかわらず携帯からは情報が入手しにくい状態が続いている。
もちろん、東京電力のカスタマーセンターなぞ、まったく電話が通じない。
神奈川県は、計画停電の週間予定表というのを、15日の時点で公開している。
もちろん予定なので、当日変更の可能性もあるのだが、あらかじめ予定がわかるのは安心だ。
また、tvk神奈川テレビでは、地デジのデータ放送でも、計画停電の時間帯などを確認することができる。

今日は午前中、病院の検査予約があった。
病院自体機能しているのか、検査は通常通り行われるのか不明だったので、前日に電話で確認したら「検査できない患者さんには、事前にご連絡しています」とのことだった。うちには連絡がきていないので、検査は行われるらしい。
検査といっても、ちょっと動悸やめまいがするので、一日中心電図をつけているホルダー検査というのを行うため、心電図の装着に行くだけのことだ。

予約時間は、これから計画停電に入るという時間帯。
業務中の停電にそなえて、自動受付システムや、料金の支払いシステム、電子予約確認システムなどあらかじめストップされていて、確認業務が行えないため、現場は多少混乱している様子だった。
装置を装着するときに、技師さんが「10時から停電になるから、あらかじめ電気消しておきますね」と言って照明を消したが、白いカーテンごしに外からの明かりが入ってくるので、それで十分明るかった。

明日はこの装置を取ってから、トレッドミルというスポーツクラブにある歩く器具で、実際に運動しながら心電図をとるという検査をする予定なのだが、ちょうど明日も二回停電がある予定で、その二回目の停電の時間帯に予約が入っている。
「もしかしたら、トレッドミル検査は延期になるかも」といわれた。

会計のためロビーに行くと、病院は自家発電がなされているため、電気がついていて(車椅子の人や、ベッドでの移動ができるように)エレベーターも使える。
院内はいつもよりも薄暗く、患者もいつもよりも少ない。
会計をすると、「会計システムが動いていないので、次のときに一緒に会計させてください」と言われた。

昨日の停電の後に、近所で火事があった。
停電が解除されるときに、一気に電気が流れるためにコンセントなどに負担がかかり、火が出ることがあるらしい。
広報車では「コンセントをぬいてください」と呼びかけているが、家具の後ろなどに隠れているコンセントを、全てひとつひとつ抜くなど不可能に近い。
この状況がいつまで続くのかわからない中で、毎日家中のコンセントと格闘するなんて…。
パソコンなどは、スイッチつきのコンセントを使っているから、そのスイッチをオフにすればいいが、そうじゃないものはどうすればいいのか。

せめて留守中に停電解除になったときのため、停電中に外出するときは、ブレーカーを落としていくことにした。
これなら、帰宅したときに任意で通電できるし、なにかあれば対処することもできる。
うちのブレーカーは、メインのものと部屋ごとの個々のものがあるので、その全てを落として行く。
週末に電気屋に行って、スイッチつきのコンセントが店頭にあるのか確認してみるが、この全てが品薄状態の中で期待は薄いだろうと思う。

先日、母が物資を送ってくれるというので、こちらで必要なものをお願いした。
しかし、一番欲しい燃料を送ってもらうのは難しい。カセットコンロのガスは危険物だし、電池は陸送になるので時間がかかる。しかも、北海道から関東までの陸路って…。
とりあえず、米やレトルト食品、乾麺などをお願いした。紙類もないのだが、こちらはとりあえずなんとかなる。
すると、「家にあるうどんを送る」というので、「うどんは調理時間が長くなるので、できれば素麺の方がいい」というと、「わがままだ」と笑って言われた。

こういうことを気にする生活をしているのと、いつもとほとんど同じ生活をしている人の間で、感覚の差が生じるのは仕方ないことだ。
避難所などで生活しなければならない人たちから比べれば、私たちの生活など「いつも通り」といってもいいくらいのものだ。
しかし、微妙に被災した立場の私たちにとって、この微妙な状況は非常にストレスである。
物が思うように買えず、交通も通常にはまだ遠く、毎日停電に対処して生活しなければならない。
ものすごく困っているわけではないが、普通の状態ではないというのが、今の私たちの生活だ。
そんな中で、「わがまま」であるといわれたことで、私は非常に憤ってしまった。

「帰省したら」という友達もいるが、子供がいるのであれば別だが夫婦二人だけの家族で、毎日危険な中でも仕事に行く旦那をひとりにして、自分だけ安全な場所に行くことなどできない。
首都圏で働く会社員の多くは、地震明けの月曜日から会社に出て会社に復旧に力を注いでいる。

しかも、当初よりは少し落ち着いてきてはいるけれど、この先何があるかわからない。
11日の地震があったとき、たまたま休みをとって二人でいることができたことを幸運に思ったのだから、これから先もしかしたらあるかもしれない災害の中で、離れている方が悲しいとさえ思う。
それに、今私たちは家にいて、直接命の危険にさらされているわけでもない。

避難したい人はたくさんいる。それが可能で行きたい人は行けばいいと思う。それを非難もしない。そういう選択もあると思う。
ただ、今の私にとっては「帰省したら」という言葉は、「家族を捨てて、あなただけ安全なところに行きなさい」といわれているのと同じなのだ。会社で働くことで生活している私たちにとって、会社が休みでない以上は、会社に行かないという選択肢はない。

私を思って言ってくれているのは承知だが、今の私にはとてもひどいことを言われているように聞こえてしまう。
「わがままだ」といった母の言葉も、「帰省したら」といった友達の言葉も、私を傷つけようとしているものではないことは重々承知だ。
いつもだったら流すこともできるかもしれないし、相手の思いやりの方を強く感じて「ありがとう」という言葉が素直にでてくるかもしれない。
でも、今まで気がつかなかっただけで、今の私はそういう場所にはいないのだと、強く感じる。

私も、被災した友人たちに、気づかないでそういう言葉を発したかもしれない。
その場所にいなければわからない状況の中で、その場所でなければ感じない感情があるのだと、今ものすごく痛感している。


明日18日金曜日の第1グループの停電は、午前6時20分~10時と13:50~17:30。
さっき東京電力のプレスリリースを見たら、17日から一週間の予定表を公表している(ものすごく見づらいけど)。
あくまで予定だしグループ分けも変更になるかもとか言っているが、ないよりましだと思う。

東京電力プレスリリース2011年 3/17
http://www.tepco.co.jp.cache.yimg.jp/cc/press/11031712-j.html

17日以降の予定表
http://www.tepco.co.jp.cache.yimg.jp/cc/press/betu11_j/images/110317g.pdf

◇計画停電四日目。病院めぐりをして、スーパーに疑問を持つ。2011年03月18日 23時06分24秒

2011年3月18日金曜日 計画停電四日目。

今日は朝一の停電の日だったので、午後からも停電がある予定。
6時過ぎから始まり10時前に停電が終わり、13時30分予約まで時間があるからとのんびりテレビをつけると、みずほ銀行がシステムの不具合を起こしてATMが止まっているという。

今日は午後から歯医者もあるので、現金が必要だ。
そういえば、歯医者の予約は16時からだが、ちょうど午後の停電の最中である。
歯医者に電話をすると、「停電中は診療ができないので、明日に予約をずらしてもらえないか」というので、了承した。

だったら、花粉症の注射を打ちに午後は耳鼻科に行こう。
それでも現金は必要だ、などと考えているうちに自治体の広報車が何か言っている。

「本日予定されていたぁぁぁ~、午後の停電はぁぁぁ~、中止になりましたぁぁぁ~」

午後の停電が中止になったら、トレッドミル検査は実施される、
そう思って準備をしているうちに、銀行に行く時間がなくなったのでそのまま病院へ。

今回の心臓の検査は、喘息の影響以外で、不整脈などの心臓疾患の兆候がないかどうかを調べるものだ。
2年前にも一度やっているので、今回で二回目だ(前回は喘息とは無関係だったが)。
前回のホルダー検査用の心電図は、昔のカセット式ウォークマンくらいの大きさがあったが、今はデータ用のウォークマン程度の大きさで楽だった。

トレッドミル用の心電図に付け替え、腕に血圧計を装着して、トレッドミル(検査用ウォーキングマシン)に乗る。
最初はゆるやかな傾斜で、速さもそれほどではないが、徐々に負荷をあげていく。
2年前は楽勝だったのに、今回はけっこう息が上がっている。

ホルダー心電図装着中、家での行動チェック表というのをつけていたのだが、それを忘れてしまい、後で持参すると約束する。
支払い窓口で昨日の停電中の支払いと合算して請求されたが、銀行に行けず財布のお金が足りなかったので、「次回支払い」にしてもらった。
みずほのシステム事故で、けっこうそういう人がいたらしく、窓口の人も「いいですよ~」と言ってくれた。
いつもは自動支払機で清算するので、こういうやり取りはなんとなく懐かしい。

病院に行く途中の細い路地で、車の大渋滞があったのが、帰りもそのまま大渋滞中だった。
中には、車を列に放置して運転手も誰もいない車もある。
なんだろうと思ったら、ガソリンスタンドの給油の列だった。
病院から行って帰って1時間半くらい。それから列の状況は行きと帰りと変わりない。
列はガソリンスタンドから、1km以上続いていた。

午後に耳鼻科の予約を入れると、まだ診療前なのに77人待ち。順番は2時間半後だ。
毎年花粉のアレルギー症状がひどいので、今年は注射で抗体をあげるという治療を受け、一週間に一度注射に通っているのだが、これが非常に調子がいい。
全部で6回で、症状の重い人は10回まで延長ができるらしい。
今日は6回で切り上げるか、10回まで延長するかの相談の日だ。

予約をした後で、病院近くの大手スーパーT(ちょっと高級店。でも、普段は西友などと値段は大きく変わらない)に行き、みずほのATMを見ると「中止」のランプがついている。
しかたないので、ドトールでちょっとお茶をした後で店内を見回すと、トイレットペーパーが入荷している。お一人様1個限りだが、値段を見てびっくり。
12ロールで498円。
キャベツが西友で一昨日までは189円だったのに、ここでは298円。

市場に物はあるというのに、ガソリンがないばかりに物流が滞っていると聞いている。
市場では、普通の値段で取引されているというのに、なんでこんな値段がついているのか。
地震前までは異常なデフレ傾向だったのに、突然インフレのはじまりか? 第二次オイルショックか?
お店の人に聞くと、トイレットペーパーは突然入荷になったが、ティッシュペーパーはないという。
うちでは、ティッシュペーパーが切れているのだ。

駅前のみずほ銀行へ原付で移動すると、駅前は自転車とバイクの駐車禁止区域になっていて、バイクをどこに停めたらいいのかわからない。
お金をおろしに来て、バイクで駐車禁止などとられるとわりにあわない。
宝くじ売り場の人に聞くと、「裏にないですか?」と言うので行ってみると、車椅子用の車両とみずほの社用車の駐車場があったので、そこの脇に停めさせてもらおうと入っていくと、スタッフ専用ドアの中から人が出てきた。

「バイク置き場がないので、ATM使う間のちょっとだけここにバイク停めてもいいですか?」
と聞くと、ちょうどそこに現金輸送車が入ってくるタイミングだったようで、
「えー、ちょっと今ここに車が入ってくるんですよね」
と迷惑そうな様子。
「だって、みずほさんでシステムダウンするから、コンビニでもよそのATMでもお金おろせないんですよ。スーパーTからわざわざ来たんですよ。ガソリンだってないのに、どうしてくれるんですか?」
と居直ると、しぶしぶ駐輪を許可してくれた。

今思えば、フルフェイスヘルメットにマスクをしたおばさんが、10年以上前の原付をひきずって文句言っている図は、けっこう怖かったのではないだろうか。
いずれにしてもお金を無事出金し、心臓検査の病院に提出しわすれた行動チェック表を届け、耳鼻科に戻ったときに順番の30分前だった。

注射を6回以上続けるか否かについて相談し、「薬の入荷とか考えると、6回受けられたし遠慮した方がいいですか?」と言うと、医師は笑って「心がけは立派だけど、そんなに遠慮しなくてもいいよ」と言ってくれた。

診察と注射が終わり、薬をもらう間に、またスーパーTに行く。
今日は旦那が仕事の打ち合わせで上司と食事をしてくるので、弁当を予約してあったのだ。
また店内を見回すと、さっきまではなかった米2kgとティッシュペーパー5個セットが山積みになっている。どちらもお一人様ひとつ限り。
「さっき入荷したばかりです~」とお店の人は叫んでいる。ほんとかよ、出し渋ってるだけじゃないのか?

米は母に頼んだが、通常は今日届くのがいつになるかわからないらしい。
お米はこのままだと、来週中には底をつく。
急場しのぎに、あきたこまちの無洗米を2kg購入980円。ティッシュペーパーも498円だった。
レジの人に「みんな買い占めるから高いのよね~」と言われたが、本当はお店で出し渋ってるのも原因なんじゃないかと思えてきた。

薬をもらって19時頃家に着くと、歯医者から留守電話があった。
「停電中止になったので、ご都合よければ夕方来てください」とのこと。
急いで歯医者に電話をかけて、「今日は行けなかったので、予定通り明日行ってもいいですか?」と言うと、「明日来てください」とのこと。
歯医者はインプラントの検診と、歯石取り。病気で行くんじゃないので気が軽い。

こうして病院に行けるのも、薬をもらえるのも、目に見えない幸福の上に成り立っているのだと、被災地のことを考えるとありがたく思える。
うどんのことで文句を言ったのに、父から「荷物が着くけど、もし何か足りなければなんでも言ってくれ」と電話があり、ありがたさで涙が出てくる。


3月19日土曜日の計画停電は、終日中止の予定らしい。
日曜日と祝日の月曜日は、土曜日の動向を見て決めるとのこと。
停電のストレス、物のないストレス、なによりガソリンのないストレス。
できるだけ考えないようにしたいが、生活に直面しているから、いやでもストレスがかかる。

被災地よりはまだ温暖だけど、ここ数日は冷え込んでいる。
それでも我が家では、暖房を控えて室内で厚着をするようにしている。
都内の停電のないところでも、暖房を控えたりしている人も多いようだ。
それなのに、ドームで野球をやろうなんていう話もあったりして、私たちの努力は水の泡なのか?
「被災地を元気付けるために」という大義名分で開催するなら、しばらく関西方面でだけやってほしい。
今関東で電力のかかる球場を動かすということは、結局は手前の儲けだけの話なんじゃないかといわれてもおかしくないと思うのだが。

◇月齢13.3 月暈2011年03月18日 23時30分32秒

2011年3月18日の月暈
 
満月はあさっての20日だが、低気圧が近づいているのか、非常に大きな月暈を確認。
横にある棒のようなものは、となりの建物のテレビアンテナである。

今日の月暈は、白っぽい光を放ってぼんやりしている。
先週は関東でも、早朝に幻日(太陽が二つに見える現象)が見えたり、大きな地震の前後で珍しい現象が確認されている。

明日とあさっての月は、地球と月の距離が一番近く、いつもより14%大きく30%明るく見える、「スーパームーン」と言われているらしい。
明日19日の月齢は14.3、あさって20日の月齢は15.3。

exciteニュース
NASA「3月19日のスーパームーンは14%大きく30%明るく見える」
http://www.excite.co.jp/News/net_clm/20110317/Rocketnews24_81158.html

スーパームーンの前後は、天災がおきやすいなどというジンクスもあるらしいが、科学的根拠は一切ない。
地震との関連を言う人もいるが、月の干満による影響はあるかもしれないが、それがプレートなどに直接関係するという根拠はどこにもないらしい。

いずれにしても、明日から22日まで4日続けての大潮になるので、海に近い被災地の人たちは、十分注意が必要だ。



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