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◇ベトナム旅行記06 ~ホテルの朝 一日目~2012年05月02日 03時42分25秒

■ホテルの朝 一日目
ホーチミンの朝
ホテル・ニッコー・サイゴンの部屋から見た、ホーチミンの朝

ホテルの私達の部屋は東向きだったので、窓から日の出の風景が楽しめた。
ホーチミンは、いまや経済発展の過渡期。遠くには高いビルなどが見えるが、ホテルの周辺はまだ開発地域で、あちこちにがれきの散乱する空き地が見られる。
香港返還の年に行った上海を思い出す。

朝日がきれいで、天気はよさそうな雰囲気。しかし天気が良くても、楽観はできない。
前日空港の外に一歩出たときのムッとした熱気を思い出す。前日の夜の気温が30度を超えていたので、日中の気温はもっと高そうだ。
日本で確認した天気予報では、晴れときどきスコールの予報。
雨季を直前に控えたベトナムでは、ときどき思い出したように雷雨になることもあるらしい。
水分補給と体力調節をしないと、実質二日しかない日程で最初にばててしまう可能性がある。

前日の夜、ホテルの空調が寒いのでエアコンを消したら、見る見るうちにテーブルにおいていた紙が湿気ってくる。風呂にはまだ入っていないし、なんだろうと思っていたら、ベトナムの湿気なのだった。
窓のガラスも、あっという間に結露していく。
実はスイッチが日本の感覚と逆で、1から3まで強弱があるうち、3が一番弱いらしかった。それを知らずに、スイッチは1で弱だろうと止めてしまったのが間違いだった。

しかし、これでベトナムの湿気の恐ろしさを思い知ったのだった。
あっという間に発生する湿気に、当日の蒸し暑さを想像させた。
湿気に弱く、上京して二十数年経った今でも、関東の梅雨と夏の湿気が身体に合わない私としては、次の日どんな気候が待っているのかと、現地に到着してちょっとナーバスから開放されたものの、またちょっと気分が逆戻りしてしまった。

朝起きて、空調が3でもやはり肌寒く感じ、お風呂に浸かりたかったけど時間がなくて断念する。
服が湿気るといやなので、もったいないと思いつつも空調は常につけっぱなしだった。

ベトナムの麺“ブン”とサラダ
ホテルのプレートには「ベトナムの麺」と書かれていたが、ベトナムでは朝食に「ブン」という細い麺を食べるのが定番とガイドにあったので、たぶんこれは「ブン」であると思う。
喉越しの強い素麺という感じ。


この日は、午前中に半日市内観光の予定を入れていたので、7時頃朝食を取りに行く。
ホテル2階の朝食ビュッフェは、日本食の白米、納豆、梅干、漬物、焼き魚から、そばやキムチなどもある。中国風のおかゆ、ホテルの定番である卵を好みで焼いてもらうサービスや、ベーコン、ソーセージ、チキンの焼いたもの、ヨーロッパ風のいろいろな種類のパン、そしてベトナム風の麺があり、好みで注文したり用意してあるものを取ってきて食べる。
デザートも、ケーキからいろいろなフルーツの入ったヨーグルトのパック、ベトナムのフルーツなど盛りだくさん。

いろいろ迷うが、やはりベトナムのものが食べたかったのでスタッフに聞くと、ベトナム食は麺くらいしか用意していないという返事。唯一ベトナムの朝食である、「Vietnamese noodle」と書いてあるのを選ぶ。
最初、自分でいろいろとトッピングするのが判らなく、ヌックマムなどの調味料も見えなかったので、そのままの素の麺を持って席に戻ってしまった。
後で旦那が「いろいろと自分でトッピングするらしい」と教えてくれたので、再びどんぶりを持って引き返す。
本当はたっぷりとパクチーをのせたかったのだが、トッピングにはなかったので、ゆでた鶏肉や、青ねぎなどをたっぷりのせる。
スープは鶏のダシでさっぱり。麺は細めで喉越しの強い素麺という感じ。
サラダもたっぷりもらってきたが、トマトとにんじんの味の濃さには感動。野菜がとても美味しい。葉っぱものも、日本ではあまりなじみのない種類のレタスなどが、数種類あった。

デザートのヨーグルトは、日本のものと同じあらかじめ甘味料とフルーツが入っているもので、プレーンのものも甘い味がついていた。
フルーツは、ジャックフルーツ、ドラゴンフルーツ、ライチなど味が濃くてとても美味しい。

一日目のコーヒーは勝手がよくわからず、ベトナム風の練乳入りにできなかったのが残念。
ふだんはコーヒーに砂糖もミルクも入れないが、その土地に来たらその土地の飲み物が一番気候に合っていると思う。

正直に言うと、化学調味料が苦手な私は、テレビで見る「味の素」が束になって売られている商店などを見て、東南アジアの料理は恐怖にも近かった。
知らないで食べても、化学調味料を取りすぎると頭痛がして気分が悪くなる。
隠し味程度ならいいのだが、日本のラーメン屋などでカレースプーン山盛り一杯がどんぶりに入れられるところを見ると、ぞっとしてしまう。そういうのを想像していたのだ。
しかし、少なくとも私が食べたベトナム料理は、そんな心配は杞憂だった。
特にホテルの朝食は、化学調味料の存在をほとんど感じることはなく、薄味でとても美味しかった。

パンもいろいろと食べたかったが、ベトナムヌードル「ブン」が気に入ってしまい、パンやご飯を食べる機会を逸してしまったのが残念。
とにかく野菜の美味しさに感動して、朝から野菜とフルーツでがっつり朝食をとり、いろんなナーバスから少しづつ開放されていったのだった。


つづく

◇金環日食2012年05月21日 12時40分00秒



今日は、待ちに待った“世紀の天体ショー”金環日食の日。
前回の皆既日食のときには、完全なる曇り空でまったく観測ができなかったので、今回我が家の期待は大きかった。
旦那は休暇をとり、老眼鏡を駆使した観察器まで自作していた。

しかし、関東地方の天気はあいにくの曇り。6時過ぎには局地的な豪雨まで降りだす始末。
この雨は6時20分になってもやむことはなく、あきらめムードの中で食の始まりはテレビで見ることにした。
和歌山県串本町や、高知県、長野県など、各地域での観測の状況がNHKで放映されるのを見て、うらやましく思う。


しかし、7時過ぎに雨はやみ、東の空には光芒が下りてきて、雲の切れ間が期待できる状況になり、7時25分過ぎに待望の太陽が見え始めた。
雲が厚いので、切れ切れでの観測。それでも金環の状況での撮影に成功した。

最初の写真は、食の撮影に成功した画像をアニメーションにしたもの。
とびとびだが、食が進む様子が観察できる。
残念ながら、旦那作の観察器の出番はなかったが、世紀の天体ショーに立ち会うことができて満足だった。

◇ドナ・サマー、ビージーズ ロビン・ギブの訃報2012年05月22日 15時27分56秒


Donna Summer - Hot Stuff


Bee Gees - Stayin' Alive

昨日、金環日食のブログを書いているとき、ラジオからロビン・ギブの訃報飛び込んできた。
最近のニュースはたいていネットのニュース配信で知ることが多いので、ラジオで最初のニュースを得たことが、なんだか新鮮だった。

その数日前には、1970年代後半のディスコ・ブームを牽引したドナ・サマーが、5月17日に亡くなった。
「昭和は遠くなりにけり」とはよく言うが、昭和の一時代を築いた人たちの訃報が続くと、やはり寂しくなってしまう。

ロビンのニュースはこのちょっと前に、持病が悪化してこん睡状態に陥ったが、数日後に回復したというニュースを見ていた。
1988年にビージーズとは別に活動していた末っ子アンディが亡くなったのは知っていたが、ビージーズのメンバーでロビンの双子の兄弟であるモーリスが2003年に亡くなっていたのは知らなかった。
昔は毎日ラジオで聞かない日はなかったビージーズも、今は遠い存在になっていたのだなと感慨深かった。
歌手として活動していたギブ兄弟のうち、アンディとモーリスが亡くなり、残ったうちのロビンが亡くなり、ビージーズは長兄のバリー一人になってしまった。

ホイットニー・ヒューストンが亡くなったのは、グラミー賞の前日のことで、彼女もその式典にゲストで出場することが決まっていたうちの死であり、その死因も謎に包まれていたりと、なかなかショッキングだったせいか、このニュースはしばらく話題になっていたが、ドナ・サマーの訃報はなんとなくさらりと行過ぎていった感触がある。
彼女のディスコ・ブームの中での活躍は、ホイットニーよりもずっと華やかだったような記憶があるのだが、やはり年月とは残酷なものなのだろうかと思ったりもした。


私が小学生の頃は、ビージーズの曲は毎日ラジオで流れていた。
ディスコ・ブームの火付けともなった「サタデー・ナイト・フィーバー」という映画をきっかけに、主人公のジョン・トラボルタの衣装とポーズは、私の両親さえもが真似をするほど流行したし、映画で使用されたビージーズの曲は、聞かない日がないほどヒットした。

ここで使用された曲は、ディスコチックなリズムにビージーズのファルセットヴォイスが印象的な曲なのだが、私はこの曲が当時嫌いだった。
彼らの粘りつくような高音が、何度も何度も聞いていくうちに、非常に耳障りに感じられたからだ。
特に中心にいたバリーは髭面で、「髭なんかはやしているのに、こんな高音で歌って信じられない~」と、意味不明な理由で嫌っていた。
彼らのファルセットが受け入れられないということから、オフコースも嫌いになったくらいだったので、オフコースにしてみれば小学生女子のファンを自らとは別な理由で失ったのだから、ちょっと迷惑なことだったかもしれない。

黒人風のディスコサウンド風のリズムの中で、黒人風のファルセットを、白人である彼らが歌うという設定も、なんとなく腑に落ちなかった。
曲調も黒人バンドのシックに似ているようにも感じていたし、当時はまだ音楽の中でも黒人差別がはっきりと存在していた時代だったので、そんなことを勉強したての小学生の私は、なんとなく許せないものを感じていたのかもしれない。


The Bee Gees 映画「小さな恋のメロディ」 Melody Fair

そんなビージーズが、1971年の「小さな恋のメロディ」という映画の中で、「メロディフェア」という曲を歌っていたのを知り、その曲を聴いたときはちょっとびっくりした。メランコリックな曲調に彼らの声がマッチして、とても美しい曲だと感じたからだった。
この曲は私の嫌いなファルセットヴォイスでは歌っていないし、彼らのハーモニーがとても美しく、聞きやすかったのだろうと思う。

空前のヒット曲となった「ステイン・アライブ」と「サタデー・ナイト・フィーバー」は嫌いだったが、「メロディフェア」は好きになった。
今聞くと懐かしさの方が先にたっているので、そんなに耳障りには感じられない。当時の時代を象徴する曲であったことは確かだし、嫌いだった曲だけど懐かしい。


ビージーズの曲が空前のヒットで毎日ラジオで流れる中、黒人のディスコクイーンであるドナ・サマーの大ヒット曲「ホット・スタッフ」が北海道のラジオでもかかるようになり、一時ラジオはディスコソング一色になっていく。
ディスコソングがあまり好きでなかった私には、歓迎する状況ではなかったが、ドナ・サマーの曲は好きだった。
当時の黒人女性歌手の多くは、アレサ・フランクリンのようなゴスペル風か、ティナ・ターナーのような力強い歌い方の印象的な人が多く、あまりに力が入りすぎていて、私は苦手だった。
でも、ドナ・サマーの歌は適度に力が抜けていて、とても聞きやすかった。聞きやすいといっても、彼女から黒人シンガーのパワーを感じなかったわけではない。当時、どこか押し付けがましささえ感じていたリキミのようなものが、彼女の歌からは感じられず、楽しく踊る歌というのが一番に感じられて好感が持てた。

当時は、ビージーズ以外はアバやオリビア・ニュートンジョンなどのポップスグループのヒット曲が主流だった。それまで苦手意識がった黒人音楽だったが、ドナ・サマーの登場で、その他の黒人ミュージシャンの曲もラジオで聴くようになった。いわば私の黒人音楽の入門的な人物だった。

1990年代に入り、ダンス・ミュージックの様相が一変するにしたがって、彼女のニュースも耳にしなくなり、そのうちその存在もだんだん薄くなってしまっていたが、彼女がやはり一時代を築いた人物であることは否めない。
彼女が亡くなったことで、あの時代を思い出す人は多いようで、例えマスコミの扱いが淡白だったとしても、人の心の中にはしっかりと根付いているのがネットでわかった。
これも時代の表れなのかもしれないと、やっぱり感慨深くなってしまう。

彼女が亡くなったというニュースを聞いて、彼女の一番のヒット曲「ホット・スタッフ」をYouTubeで聞いてみたら、私はとてつもない間違いに気づいた。
この曲のサビのところの歌詞を、「アイ ニード “マッチョ”」と言っているのだとずっと思っていたのだ(ビデオの1分10秒すぎくらいの箇所)。
当時、マッチョという言葉が流行りだした頃で、そういう要素が入っているのだと勝手に思っていたのだった。これも、小学校高学年~中学生女子の勝手な妄想である。
真実は、この曲のタイトル「HotStuff」と歌っているので、ちょっと考えればわかりそうなものだが、今の今まで気が付かなかったのだから、ちょっと恥ずかしい思い出である。

また、この話を旦那にしたところ、「ホットスタッフってどういう意味だろう」というので、真顔で「熱い従業員」と言って笑われた。それは「staff」でスペル違いである。
ディスコソング「熱い従業員」。踊れないかもしれない。

いろんな思い出を残してくれた彼らに、ご冥福をお祈りいたします。

◇ベトナム旅行記07 ~半日市内観光ツアー その1~2012年05月23日 02時33分48秒

■半日市内観光 バスの中で
朝食後、あまり時間がないので急いで支度をする。
トイレに行きたかったのだが、旦那がこもっていて使えない。
外の気候がいまいちわかりづらく、半そでで出かけるべきかどうか迷ったが、日焼けを懸念して半そでのTシャツの上に薄い長袖を着ていく。
汗をかいて化粧崩れも面倒なので、下地にUVクリームを塗り、ファンデーションと眉だけ整え、ファンデーションと口紅だけ持って歩く事にした。

ホテルのロビーに行くと、同じオプショナルツアーの人たちがすでに集まっていた。年配のご夫婦と、年配の女性二人のグループに、若い女性二人のグループ。
みなさんはすでに昨日も別なオプショナルツアーに参加されていたようで、その話をうかがって話がはずんでしまい、ここでもトイレに行くのを忘れる。
旅行会社のガイドは時間ぴったりにやってきて、参加者は迎えに来た小型バスに乗り込んだ。

外はものすごくいい天気だが、多少蒸すものの思ったよりは暑くない。
もう一軒、別なホテルでお客をピックアップし、観光バスはホーチミンの中心街へと走る。

この日のガイドは、フーンさんという女性。
年齢は聞かなかったが、たぶん私と同年代だろうと思われる、日本語がとても流暢な人だ。
ホーチミンを歩いていると、女性はだいたい長い髪を束ねるか、ショートカットにしていることがほとんどだったので、フーンさんが長くきれいな髪をしばらずに流していたのが、後になって印象に残っている。

ホーチミンの朝の通勤風景
ホーチミンの朝の通勤風景(写真をクリックすると、動画(mp4)が立ち上がります。音声なし)

バスの中からは、ホーチミンの街の風景が見える。
小さな路地の商店街では、野菜や果物を売るお店や屋台が見られる。朝食やジュースなどを売る屋台もちらほらあり、屋台の周辺で地べたに座って麺のようなものを食べている人がいる。
ベトナム特有の三角の傘をかぶり天秤棒を担いで、何かを行商しているおばさんも見える。
人々はだいたい小柄で、痩せた人が多い。

大きな道路では、前日の夜にも増して車や大量のバイクが行き交い、バイクの二人乗り三人乗りは当り前の様子。大きな建物の裏手には、ずらっとバイクが駐輪されており、街の雑多な雰囲気とは違い大変秩序正しく駐輪されている。
バイクはほとんど原動機付きスクーターで、スーパーカブ風のものよりは、最新型のデザインのカラフルなものが大半を占める。日本製のバイクは高級なので、韓国製や中国製が最近人気なのだとか。
本当にごくごくたまーに大型のバイクが走っていると、「おーっ」と歓声を上げたくなる。イタリア製のべスパの旧型のものを何台か見かけたが、たぶん日本製バイクの比ではないくらい高級なのだろうと思った。


■サイゴン聖母大聖堂よりも公衆トイレ

サイゴン聖母大聖堂
サイゴン聖母大聖堂

20分ほどで、ホーチミンの中心地に到着する。
まずは、フランス統治時代に建造された、サイゴン聖母大聖堂を見学。ここの隣りのエリアには、フランス統治時代に駅舎として利用されていた建物をそのまま郵便局とて今も利用している中央郵便局もあり、それぞれ一緒に見学する。

ここで私は、再度トイレに行きたくなった。
教会に入る前にフーンさんに、「このあたりでトイレに行ける場所はある?」と聞いた。
観光の最初の場所でトイレを尋ねるなど愚の骨頂だったが、大きな建物のある場所以外ではトイレ事情が悪いことを聞いていたので、とりあえずここで聞いてみることにしたのだ。
フーンさんは、「えーっ」という表情を一瞬見せたが(とても正直な反応である)、中央郵便局の角を指差し、角を曲がったところに公衆トイレがあるので、そこを利用するように教えてくれた。「2000VDいるよ」と言われ、高額紙幣しか持っていないことを告げると、「これを使って」と1000VD札2枚を渡してくれた。
とりあえず、「後で必ず返します」と叫んでトイレへと走る。
他のツアー客は聖堂の中へ。

中央郵便局横のトイレの案内板
中央郵便局横のトイレの案内板

郵便局の角までくると、青い「WCと矢印」の案内板を発見した。角を曲がってみると、そこは聖堂や郵便局の前とはうって変わった、細い路地の雑踏だった。
これまでバスの中で見ていたような、ディープな街並に一瞬戸惑うが、まずはトイレだ。

角を曲がってすぐのところに、雑踏には似合わないロココ風のしゃれた白いフェンスがあり、そのフェンスには似つかわしくない作業場のような場所があった。
そこの中にいたおじさんが、うろうろする私に「ここだよ」と手招いてくれた。見るとそこにも「WC」という手書きの案内が貼り付けてあり、そこがトイレであることが判った。
フェンスの中に入ると、右手に白い木造の建物があり、その奥にドアがあり、ドアの前にはおばさんがいた。
私が近づくと、それまで半分寝ていたおばさんが、びっくりしたように目を開けたので、日本語で「いいですか?」と聞くとベトナム語で何か言われた。何を言っているのか判らないので、2000VDを渡すと、トイレットペーパーの切れ端30cmほどを渡されドアを指差されたので、すぐに中に飛び込んだ。

どんなトイレだか覚悟していたが、古いけれどきちんと清掃されている感じの普通のトイレだった。
ネットの情報では、「ホーチミンの公衆トイレには、便座がないものが多い」と書いてあったが、そこのトイレには便座がちゃんとあった。特に新しくした感じもなかったので、ここのトイレ利用者は便座の使い道を知っている人たちだったのであろう。
写真を撮るか用を足すかで迷ったが、まずは用を足すことに。用を足したら満足してしまい、写真を撮るのをすっかり忘れてしまった。

紙は渡されたものでは足りず、持参したティッシュペーパーも利用した。
使ったトイレットペーパーは、備え付けのゴミ箱の中へ。これは中国でも同じマナー。
便器に捨てて水で流すのが当り前の日本人には抵抗があるが、下水事情の悪い場所では、トイレの紙を流すと詰まってしまう。
トイレというのはどこか油断してしまう場所なので、うっかり失敗してしまうこともあるが、ここではきちんとゴミ箱を利用した。

外にある小さな洗面台で手を洗い、「しんかむおん(ありがとう)」とおばさんにお礼をして急いで聖堂に戻った。

聖堂前には旦那が立っていて、ちょうどフーンさんとツアーの人たちが聖堂から出てきたところだった。
旦那に「中に入ったの?」と聞くと、私が困ると思って入らなかったらしい。
フーンさんが、「中に入って見てきたら?」と言ってくれたが、これ以上迷惑をかけたくなかったのと、中央郵便局で両替をしたかったので、結局サイゴン聖母大聖堂では、聖堂前のマリア像の前で写真を撮っただけだった。



つづく



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