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◇訃報 ベーシスト 松永孝義さん(元MUTE BEAT)2012年07月13日 00時42分30秒


「Mama Shile Oga」松永孝義 & The Main Man Special Band

また一人、日本を代表するミュージシャンが亡くなった。
元MUTE BEATのベーシストの松永孝義さんが、54歳で肺炎で亡くなったとニュースになっている。

ナタリー
http://natalie.mu/music/news/72860

私はバンド形式のグループの中では、優れたベーシストのいるバンドが好きだ。
ベースがしっかりしていると音に奥行きが生まれるし、どっしりと聞きやすい。
それは、ジャズでもロックでもパンクでも、もちろんレゲエ系でも変わらないと思う。
特にレゲエやダブはリズムがゆっくりしている分、ベースやパーカッションの重要性が際立つ。ホーンセクションのきらきらした音にとらわれがちだが、実はベースが大黒柱であることが判りやすい音楽だと思う。
冒頭に貼った動画は、去年の震災直後のステージのものらしい。
これを見ていると、レゲエのリズムがいかにベース重視の音楽かが理解できる。
優れたベーシストが在籍するバンドは心惹かれるし、そのバンドの色があまり好みでなくても、印象に残っていたりする。

MUTE BEATは、日本の中ではダブビートのバンドとしては先駆的な存在であったし、音楽シーンで名前が売れ始めた当時は、非常にかっこよかった。
アップビートが好きな私としては、ダブビートは個人的には苦手な部類の音楽ではあったが、当時いろいろ登場してきたこの手のバンドの中では、MUTE BEATは異彩を放っていた。
ホーンセクションのメンバーだった小玉さんや増井さんが人気があったが、今音を聞くとベースとドラムが非常に印象的なのだと気づく。
あまり得意ではない分野の音楽が、印象に残っていたのもそのためなのかなと思ったりした。

松永孝義さんのベースを、彼と認識して聞いたのは、ゴンチチのサポートをしているステージを見たときのことだ。
私はそれまで、ゴンチチのベースのサポートメンバーは、渡辺等さんが参加しているのが印象にあったのだが、その時見たステージでは松永さんが参加していた。
渡辺等さんがベースでのゴンチチも好きなのだが、松永さんのベースが加わるとまた色が変わる。当たり前のことなのだけど、それを意識して聞くと、いかにベースというパートが、音楽にとって重要なものなのかを痛感してしまうのだ。

横浜の病院で肺炎で死亡されたということで、今、神奈川でマイコプラズマが流行っているということを、先週病院で聞かされたことを思い出した。
百日咳も流行しているとかで、風邪が治ってもいつまでも咳だけが残ってしまう。
梅雨だというのに、じめじめするだけで雨もふらないし、気温もなかなか上がらない。
体調を崩しやすいので、本当に気をつけなければならないと、肝に銘じたニュースでもあった。

松永孝義さんのご冥福をお祈りします。

◇映画「グスコーブドリの伝記」を観る(ネタバレ注意)2012年07月16日 14時49分36秒


映画『グスコーブドリの伝記』予告編【HD】 2012年7月7日公開


昨年の東北地方の震災と、それに伴う原子力発電所の事故などから、私はずっと「グスコーブドリの伝記」に出てくるような研究者が日本を救ってくれないだろうかと、ちょっと本気で思っていた。
現実は、自身の企業生命を維持するために消費者を省みない電力会社と役立たずの政府だけがクローズアップし、原子力発電所の事故を解消・解明するために投入された技術はほとんどが役立にたたないというニュースばかりで、ブドリやペンネン所長、クーボー博士のような人が表に出てくることは今のところ聞こえてはこない。
つくば時代に国の研究所で働いていて、多くの研究者がどのような人たちで、それを管轄するお役所がどのようにふだん仕事をしているのかは、いやというほど見てきたのだから、こんな甘い幻想をするほうがどうかしていたのだと思ったりもするのだが。

それでも、今この時期に宮沢賢治のグスコーブドリの伝記を映画化することには、ものすごく大きな意味があるように思っていた。
キャラクターデザインが、ますむら・ひろしのものであることも、楽しみの一つでもあった。彼は宮沢賢治に感銘を受け、自身の猫のキャラクターで、ずっと宮沢賢治の物語を漫画化してきたからだ。

しかし、映画を観た感想として、宮沢賢治の原作を読み、ますむら・ひろしの漫画に非常に感銘を受けた私にとっては、この映画は非常に残念でならない。がっかりしたを通り越して、宮沢賢治の名前を語った違う宗教に勧誘されたくらいの違和感を覚えた。

ネタバレも含む内容かもしれないので、これから読む人で楽しみにしている人は、この先は読まないでほしいと思う。
というか、これから観るのを楽しみにしている人は、こんな一般人のレビューなど検索して読んではいけない。せめて公式ホームページであらすじと出演キャラのチェックをする程度にしておいたほうが無難だ。
この文章は、映画を観てがっかりしたという人にだけ読んでほしい。
この文章を読んで、「先入観植え付けられた」とか後で文句を言われても、私は一切責任をとらないので、ご了承のほどを。

グスコーブドリの伝記公式ホームページ
http://wwws.warnerbros.co.jp/budori/
※澤 穂希は、オリンピック前にこんなところで余計な仕事してんじゃねーよ、とアクセスしたときに思ってしまった(^^;)。


映画の世界観は、これだけとってみればまあ素晴らしいものだろうとも思うし、映像も違和感を感じる部分はあっても、美しいと思えるものであった。
ブドリの顔がこれほどまでに、声を担当した小栗旬に似ているように感じたのも面白かった。彼の演技やバラエティなどで見るキャラクター性などは好きではないが、この声の淡々とした演技ははまっていたようにも思える。

実際、同じ映画館で見た家族連れの子供は、映画が始まるまではポップコーンの箱をがさがさとしてうるさくしていたのが、映画が進むにつれて静かになり、帰るときには両親にブドリの無事を質問するまでになっていた。
原作を知らない様子の両親は、ブドリが実際どうなったのかを説明できる状況にはなく、笑ってごまかすばかりだったのも印象的ではあったのだが。
大人の中には泣いている人もいた。
テーマとしては感動的だし、現代社会を啓蒙した内容であっただろうとも思う。
しかし、私はその中で一人怒り狂っていた。

この物語を宮沢賢治のお話としてとらえるならば、これは宮沢賢治の物語ではないだろう。
彼が物語の中で語っていた重要性の方向がまったく違うところに存在するし、メッセージも違うものに置き換えられている。
宮沢賢治の時代と違うからとかそういうものではなく、今この時だからこそ「グスコーブドリの伝記」が必要であるということが、まるっきり無視された内容になっているのだ。

ますむら・ひろしの「グスコーブドリの伝記」は、できるだけ宮沢賢治のメッセージを壊さないように細心の注意を払われて作成されているのが、読むと手に取るように解る。それなのに、この映画にはその繊細ささえもぶち壊しているようにしか感じられなかった。
この映画で、ますむら・ひろしのキャラクターを使用する必然がどこにあるのか。

「銀河鉄道の夜」のときと同様に、ますむら・ひろしが今回の映画でも、キャラクターデザインとして採用されている。彼のキャラクターは印象的だし、その特異性から絶対に他の人のキャラと間違えたりすることはない。
すでに公開から20年近い年月が経っている、「銀河鉄道の夜」のイメージを壊さないようにするためなのか。
それとも、「銀河鉄道の夜」にもつなげ、宮沢賢治の世界を広げようと言い戦略か。
その両方なのか。
監督が同じ杉井ギザブローであることや、「グスコーブドリの伝記」の中にも「銀河鉄道の夜」つながるモチーフがちりばめられていることを考えると好意的に受け取りたいが、何か商業的な戦略が見え隠れする。


映画の世界観としては、宮沢賢治やますむら・ひろしの描いた田舎の風景と田舎の地方都市イーハトーブとは異なる。これは映像的にもう少し具体的な世界観を描く必要があるせいもあるから、物語や漫画と違っていても仕方がない部分はあると思う。
だが、どこかレトロ感漂う近未来的世界は、なんだか宮崎駿を意識させ、ブドリの見る夢の世界は「千と千尋の神隠し」みたいだった。
アニメーションは手塚プロが手がけている。
監督 杉井ギサブローが手塚プロを使って宮崎駿の世界をますむら・ひろしのキャラクターで表現したのがこの映画だが、それくらい統一感のない違和感の残る映画だった。
(この夢の世界の監修として、旧友の名前をエンドロールで見つけてびっくりしたが。彼はこのような世界観に使用されることを知っていたのだろうか。映像的にはうまくできていたが。)


原作には映画ではカットされてしまった重要なシーンがいくつもある。
ネリがさらわれた後、家をテグス工場にのっとられたところや、その後のこと。
赤ひげが山師ばった農業を行なった時間感覚。
クーボー博士の講義に出たときに質問された、煙突から出る煙の特徴を語るシーン。
火山局の研究員として活躍するブドリの元に、離れ離れになっていたネリが訪ねていくシーン。
森に行ってしまった両親のその後の情報。などなどなど・・・・

最後の火山のエピソードにしても、ブドリは研究者として非常に勇敢な行動をとるし、ペンネン所長もクーボー博士も決してブドリの考えに耳を傾けなかったわけではない。
原作のラストは、あくまで火山局の職員として、ブドリは行動するのだ。
あれは火山局がイーハトーブの住民のために、総力を決して行動する結果のことであり、火山局がいかに人々の暮らしに密着した存在であるのか。そこで働くブドリが、どれだけ人々のことを考えて日々研究に従事しているのかが表現されているはずなのだ。
名もない研究員が、人々の暮らしを守るために自らの命を呈して、自分の職務を遂行した。それこそが名もない人の伝記としての役割であり、ブドリの救いでもあると思う。

それなのに、この映画のラストだと、ブドリはまるでネリがさらわれてから、ずっと夢の中にいたのではないかと誤解されても仕方がないようにさえ思う。
ブドリの行動が夢ではなかったのだとしたら、ブドリは火山局の職員として上司の意思を無視した行動をとるという、一番やってはならないことをしてしまっているようにも見える。
これでは、ブドリはお世話になったペンネン所長やクーボー博士、火山局のスタッフの人に対して、自らの信念を貫くがために音を仇で返してしまったようにも受け取れる。
ブドリの意思と勇気と、研究者としての決断力が、この映画にはまるで表現されていない。
ネリの無事も確認できず、両親がその後どうなったのかも知らず、ただただ自分の諦念のために、実際に死んだのか生きているのか、夢なのか現実なのかも解らずに最後を迎えるブドリが、これではあまりにもかわいそうだ。

まして、ところどころに宮沢賢治の「雨ニモマケズ」がモチーフとして語られているのだが、その言葉のひとつひとつにとらわれすぎ(例えば「デクノボーと呼ばれ」のところとか)、その詩全体の意味さえもゆがめられてしまっているようにさえ感じる。
これではすっかりブドリはただの「デクノボー」でしかないようにも感じる。

確かに自然環境における人間の無力さなども、この物語のテーマではあると思うが、原作が言いたかったことはそこだろうか。
農業を愛し、自然を愛し、火山を愛し研究してきた宮沢賢治の言いたかったことが、ますむら・ひろしが猫にのせて語りたかったことが、この映画では何も語られない。
百歩ゆずって宮沢賢治の物語を独自の視点でアニメ化したとしたのなら、この物語にますむら・ひろしのキャラクターを使用する必然性は皆無ではないのか?
ますむら・ひろしの世界観をとても好きなものとしては、彼の世界観をこんな形にされて、こんな残念なことはない。

この映画が持つテーマが悪いわけではない。ただ、宮沢賢治が物語を通して言いたかったことが何も伝わらないのなら、せめてこの映画を見た人が宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」を読むきっかけにしてもらえたらいいのにと、切に願うばかりである。
映画を観る前にこの文章を読んでしまった気の毒な人は、せめて宮沢賢治の原作か、ますむら・ひろしの漫画を映画の後でも先でも構わないので、合わせて読んでほしい。
この映画で言っていることだけが、この物語で残すべきことではないことが理解できると思う。



宮沢賢治全集〈8〉注文の多い料理店・オツベルと象・グスコーブドリの伝記ほか (ちくま文庫) [文庫]

    
グスコーブドリの伝記―猫の事務所・どんぐりと山猫 (ますむら・ひろし賢治シリーズ)/ますむら・ひろし(amazon)


最後にひとつ思ったこと。
グリム童話の「ヘンゼルとグレーテル」は、飢饉のときに親に森に捨てられる。
グスコーブドリとグスコーネリは、飢饉のときに親が森へ行ってしまう。
このような状況下において、子供にとって、親にとって、どちらが辛い判断だろうか。
やっていることは同じなのだが、今の時代の立ち位置から見たならば、ブドリの両親の方が愛情があるように感じられるのだろうなと、なんとなく思った。


◇早起きしてロンドン・オリンピック開会式を観る2012年07月28日 14時35分23秒


David Bowie - Heroes
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ロンドンオリンピック開会式。
昨日の夜は10時に寝て、早起きして観た。

ずいぶんとこじんまりした会場だな、というのが第一印象。北京やアテネと比較すると、スタジアムがちょっと小さく見えるのは、やはり古くからの大都市であるせいなのか。

今回のオリンピック。ブリティッシュ・ロック好きにはたまらない企画が盛りだくさんという下馬評もあり、開会式・閉会式に関しては実に様々な噂が飛び交っていた。
ポール・マッカートニーがすでに引退宣言をしたリンゴ・スターとミック・ジャガーと、彼等と対極にあるようなジョン・ライドンと一緒に共演するとか、すでに30年以上前に亡くなっているThe Whoのキース・ムーンに、オリンピック委員会からステージオファーが正式にあったとか、ポール・マッカートニーと、ジョン・レノンの二人の息子ショーンとジュリアン、ジョージ・ハリスンの息子、引退したリンゴを引っ張り出すのか、それとも彼の息子であるザック・スターキーを引っ張り出すのかはわからないが、そのメンバーで新生ビートルズを画策しようとしたりとかなどなど…。

実際、前回の北京オリンピックの閉会式には、次期オリンピックの予告としてレッド・ツェッペリンのジミー・ペイジが登場したりと、ロンドンオリンピックとブリティッシュ・ロックとのコラボは4年前から予想されていたものだった。
しかし、蓋を開けてみると、次期予告をしにわざわざ北京まで出向いたジミー・ペイジには招待状も届かずビートルズもローリング・ストーンズもレッド・ツェッペリンにもことごくオファーを断られたという噂も耳にした(ジミー・ペイジが招待されないのに、ツェッペリンにはオファーがいったのか?そのへんは謎。あくまで噂の範疇だし)。
キースにはオファーがあったのに、実際The Whoへのオファーはどうだったのだろうかとか、The Whoにオファーがないのであれば、キンクスだとか80年代の第二次ブリティッシュ・インベイションを支えたたくさんのバンドは、ビートルズあたりから比較すれば小物扱いなのだろうかとか、いろいろと邪推はつきなかった。


Mike Oldfield - Tubular bells
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実際に蓋を開けてみると、セレモニーで最初に演奏したのは、マイク・オールドフィールド。
彼の代表作は、往年のホラーの名作映画「エクソシスト」の印象的な曲として世界中に知れ渡る結果となり、彼の曲を一度は耳にした人も多いとは思うが、このような場所で抜擢されるような人だとは思ってもみなかった。
実際にベースとギターを自ら演奏して、「チューブラー・ベルズ」での登場。
この人は人嫌いだったり精神疾患にかかったりしている割には、クイーン・エリザベス二世石庭号のアルバムを作ったりと、何かとイギリス王室との関わりは強い印象。

ベッドの上に乗った子供達が、チューブラー・ベルズのオープニング曲に乗って移動していく様子を見て、「ホラー好きでブラック・ジョーク好きのイギリス人のことだから、これで子供の首がいっせいに360度回ったりしないだろうか」と一瞬思ってしまったが、これはイギリスが医療に貢献したことへの表現であり、不謹慎な考えを恥じた。
それでも、この後のピーターパンのネヴァーランドからメリー・ポピンズに至るファンタジーの世界へと続く序章として、この曲の中で一番幸せそうなイメージのメロディ部分がきちんと使用されているところは、とてもよかったと思う。エクソシストでの意図せぬ使用によって、この曲に悪魔的イメージがついてしまったことに、マイク・オールドフィールド自身は歓迎はしていなかったのだし。


Sex Pistols - God Save The Queen
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セレモニー中、イギリスの歴史を表現する中でも、ブリティッシュ・ロックはあらゆる場面でちりばめられていたが、懸案だったセックス・ピストルズの「God Save the Queen」は、歴史紹介の中で一瞬タイトル部分のみが流れるにとどまった。
次期としては女王が007に伴われて、パラシュートで会場入りする前のことなので、女王はこの曲を直接耳にしていないということになっているようだが。


The Jam - Going Underground
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Millie Small - My Boy Lollipop
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イギリスの歴史とは別に、イギリスのロックの歴史を紹介するセレモニーの中では、地下鉄で出会った二人の男女のドラマ仕立てのダンスパフォーマンス中で、ブリティッシュ・ロック三昧。
時系列は一応ビートルズの60年代からということになっているが、主人公が出会う地下鉄の場面では70年代後半のザ・ジャムの「Going Underground」がかかったり、70年代初頭の途中でスペシャルズが挿入されたりと、時系列はわりと適当な印象。
わりと有名どころが紹介されていたが、イギリス初のロック/ポップ音楽専門番組「レディ・ステディ・ゴー」のテーマ曲も担当したマンフレッド・マンだとか、モッズのアイドル サンディ・ショー、マンチェスターのスターともいえるザ・スミスやストーン・ローゼスなんかが欠けていたような印象を受けた。
レディ・ステディ・ゴーの映像で、ミリー・スモールなんかの映像が出ていたのは、60年代好きには嬉しい収穫だったのだが。


炎のランナー テーマ曲(ヴァンゲリス)Chariots of Fire - Vangelis
※ここにはMr.ビーンはいません。
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その後、パリ大会の陸上選手を描いたヴァンゲリスの「炎のランナー」が、ミスター・ビーン付きで演奏されたり、選手入場ではブリティッシュ・ロック・メドレーにアレンジされたさまざまな世代の楽曲が会場にあふれていた。
選手入場では、「えーと、これはなんだっけ」「これは誰だっけ」と記憶ののろいのオンパレード。曲は覚えているのに、曲名が出てこない。PVは頭に出てくるのにアーティスト名がわからない。個人的に、非常にフラストレーションを貯めつつも楽しめた。
最後の、イギリス代表選手入場でのデビッド・ボウイの「Heroes」は、入場した選手全員が「Heroes」であるということなのか、それとも英国選手こそが「Heroes」であるということなのか。その両方だと思いたいが、なんとなくかつての“英国至上主義”みたいなものが、こういうところで表現されたのかななど、勝手に思ったりしていた。

初盤のセレモニーは、英国がもともとはいくつかの国に分かれていたところから、各地の民族音楽の子供の聖歌隊の合唱から始まり、産業革命などを経て国が一つになっていく歴史が表現されていたのだが、産業革命で多くの移民が英国内に入ってきたというくだりを、各国の英国領であった国や、現在でも英国領である国はどう思ったのだろうか。
どこの国でもそうだろうが、移民の歴史にはいろいろな闇の部分も含まれる。事実、未だに英国内でも外国人排斥運動などは普通に存在している。

英国に行ってそういう歴史に詳しいわけではないからなんともいえないが、セレモニーダンサーの中には有色人種の人たちも多く見受けられたし、移民の存在あっての英国であることを認めているような印象を受けるセレモニーだったと思う。
ただ、英国のロックの歴史の中には、常にアイルランドの問題は大きく存在していることは確かで、そこのところは微妙にぼやかされていたように感じた。
各国選手の入場する中で、ひときわ長くU2が流れていたのが印象的だった。流れた曲ができれば「Sunday Bloody Sunday」であってほしかったけれど、平和の祭典には似合わないか。
せめて「Beautiful Day」だったらよかったか。それとも実際にかかっていたのは「Beautiful Day」だったろうか。U2も何がかかっていたのかはっきり覚えていない。

U2に関しては、開会式に出るのではなど噂が流れていたが、アイルランドのスターである彼等が実際オファーがきたとしても受けるかどうかは微妙だと思った。
それにしても、いつの間にかU2はアイルランドのスターであると同時に、英国のポップスターになってしまったのだなあと感じた。


Arctic Monkeys - I Bet You Look Good On The Dance Floor (2005)
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選手入場が終わり大会宣言まで、鳩のバイシクルレーサーと登場したのは、2000年以降の英国を代表するアークティック・モンキーズ。
オリジナル曲とビートルズの「Come Together」をかなり忠実に披露した。
彼等がRockin'onの表紙に登場した頃は、まだ高校生だったんだよなあ、とこのあたりはなんだか隣の子供の成長を見るような気持ち。


ポール・マッカートニー / HEY JUDE
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この後、オリンピック委員の挨拶だとか、オリンピック旗の掲揚などを経て、最後の最後で御大ポール・マッカートニー卿の登場。
ビートルズのヒット曲「ヘイ・ジュード」を熱唱するも、ステージにはショーンも、ジュリアンも、リンゴさえもいなかった(ドラムをたたいていたのは、柔道の選手かつのだ☆ひろかと思われるようなドラマーだった)。

花火でテレビ放映は終ったが、実際この後何かステージが続いたのか、それともマッカートニー卿で終ったのか、なんとなくはっきりしない幕切れであった。

それにしても、ブリティッシュ・ロックのラインナップってこんなものだっただろうか。
開会式の後で放送している、28日土曜日と29日の土曜日午後から半日かけて放送される、NHK-FMの「今日は一日“ブリティッシュ・ロック”三昧」を聞いていると、「ああ、このバンドもいなかった」「この人も聞かなかった」と思うものばかり。
暗いヒット曲しかないアニマルズはしかたないにしても、ロッド・スチュワートは完璧スルーだし、エリック・クラプトンはかかっていただろうか、ジェフ・ベックは?  ディープ・パープルは? ボウイはかかったけど、ロキシー・ミュージックは? Tレックスは? ザ・ジャム、クラッシュはありでポリスはスルー? エコー&ザ・バニーメンは小物すぎる? ハッピー・マンデーズとニュー・オーダーはかかっていたけど、マンチェの大物オアシスは? フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドはかかったのに、ニューウェイヴ勢は総スカンだったような ベッカムが007に聖火を渡すところでかかったのはパルプ?
考えればつきないから、今日明日はどっぷりFM聞いて、ブリティッシュロックにどっぷり漬かろうと思う。(ちなみに、今かかっているのはザ・ゾンビーズにキンクス。番組開始後、まだ60年代中盤から抜けない。)


追記: それにして、ローリング・ストーンズをはじめ、往年のスター・バンドは軒並み結成50周年らしい。
ほとんど人前に現れなくなったデビッド・ボウイをはじめ、体調戻れば世界ツアーに出発するストーンズ。今年来日したThe Whoのロジャーはまだまだ元気いっぱいだし。
一概に50周年といってもピンとこないが、加山雄三が去年50周年だったといえば、なんとなくそういう時代なんだなと思う。

前述したマイク・オールドフィールドのコンサートは、すでにほとんどクラシックのコンサートの様相を呈しているとも聞くし、ロックの楽曲がクラシックの技法で演奏されることも少なくない。
ロック=若者の文化など、もう今は昔の話なのだ。
エルビスに熱狂し、ビートルズに奇声をあげていた人たちもすでに80歳近くに突入している人も少なくない。ポール・マッカートニー卿だって70歳だという。

ロックスターが還暦を迎えたというので驚いていたのが、ほんのちょっと前のことだったように思うのに。

◇ロンドン・オリンピック開会式の一日2012年07月28日 22時18分56秒

オリンピックの開会式を朝5時前に起きてテレビ観戦し、今日はNHK-FMで一日ブリティッシュ・ロック三昧!
途中70年代初めのラインナップでダレたけど、こんだけブリットばかりの日は久しぶり。
今日は60年代70年代だったから、明日はいよいよ80's。楽しみです。

今日の司会の森田美由紀アナウンサーは、札幌出身。大島弓子の漫画などで、ボウイファンであったことを告白されたりと、70年代日本女子の正しいロックファンの王道を行く方であることが判明。一日お疲れ様でした。

解説の和久井光司氏は、最後の「Pinball Wizard」の頃にはぐったりした声をしていた。明日にそなえて、英気を養っていただきたい。


ところで、昼にオリンピック開会式でかかったかかからないか判断できなかったバンドをずらずらと並べ立ててみたが、調べてみたところプリイリストが事前にリークされていたらしいが、実際はそのままかかったりはしなかったらしい。

「ブリティッシュ・ミュージック炸裂!オリンピック開会式で流れた曲・ミュージシャン #プレイリスト」というサイトで確認したところ、オアシスはかかっていたらしいし、ニューウェイヴ勢もデュラン・デュランなんかもかかったらしいユーリズミックスとペットショップ・ボーイズは確認できたけど、デュラン・デュランはまったく印象に残らなかった。サイモン・ル・ボンは会場で歌っていたらしいが、まったく気づかなかった。

リークされたというプレイリストを見ると、OMD(オーケストラル・マヌーバーズ・イン・ザ・ダーク)とかがラインナップに入っているが、このあたりもまったく印象にない。
もしかしたら、記憶ののろいのえじきになっていたのかもしれない。



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