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◇1400日に思うこと2012年10月01日 19時51分03秒

今日は、禁煙をしてからちょうど1400日らしい。
このブログの右エリアのブログパーツも、最初に設定したものが一時期使用不可能になったので、途中で違うものに替えたのだが、新しいのは節約されたタバコ代が換算できるようになっている。
このタバコ代が一箱いくらの設定かは知らないが、1400日の間に80万円のタバコ代が節約されたことになっている。
80万円あったら何ができるかなと、ちょっと考えたりしてしまった。

タバコをやめると太るといわれて覚悟はしていたのだが、私は幸いにして特に体重の変化はなかった。
一番変化したのは、喘息が喘息であるとはっきりしたことだった。
喫煙者だった頃は、寝ているときにも気道狭さくをおこして呼吸困難になって目覚めたりすることもしばしばあった。
当時喘息を疑って呼吸器医に行ったが、私が行った医師は「喫煙者は病気を治す気持ちがない人だから、私は診ない」と言ったのだった。
病院で禁煙をするという時代はまだ先の頃だったから、この医師の発言は腹立たしいけれど納得はできるものだった。
しかし、私が実際に禁煙できるまではここから数年かかっているので、もしこのときに禁煙して治療を受けることができていたら、もう少し喘息もましだったのではと思ってしまう。
喫煙できない苦しさよりも、喘息の苦しさの方が大きかった。
これが、私が禁煙を成功させた一番の理由だと思っている。

禁煙してよかったのは、身体の不調がはっきりしたせいで、きちんとした治療を受けることができ、身体のコントロールもできるようになったことだった。
喫煙していたときは、確かにメンタル的には喫煙することでリラックスできていたと思っており、禁煙できない理由も概ねそんなところだったけれど、そのリラックスは実は全くリラックスされていないことに気づいたのも、禁煙してわかったことだった。
喫煙することで、私の身体のあちこちは悲鳴をあげ、不調になっても「タバコ吸ってるから仕方ないか」と思って適切な処置をしないできた。
それは身体も心も無理をした状態であったのだと思う。
タバコを吸っても身体に異変もなく死ぬ人もいることも知っているが、私は不調の原因の大半がタバコであったことを、喫煙中にも薄々気づいていて気づかないふりをしていたのだった。
自分に自分で嘘をついて喫煙していたことに対し、なんのためにそんなことをしていたのだろうと、マインドコントロールから開放されたかのような清々しい気持ちで今は振り返る。

だが、禁煙してもいいことばかりではない。これはちょっと困ったことだった。
最初の一年くらいは、同じ空間にタバコを吸う人がいたとしても、比較的平気にしていられたのに、年々タバコの煙にアレルギー反応が起きるようになり、今ではタバコの煙というよりはタバコの臭いだけで反応してしまう。

先日、20年ぶりにあるレストランに行ったときのこと。
神奈川県では分煙か禁煙が一般的なので、当然そういうレストランであると思って行ったのだった。
しかし、そのレストランは「喫煙レストラン」であった。お店の入口にもそれを示すステッカーが掲示されていたのだが、私はそれを見逃して入店してしまった。
入店して、隣の席の人がタバコを吸いだし、私は喘息の発作を起してしまった。お店の人が機転をきかせてくれ、タバコの煙の影響のない席を作ってくれたので、私はその店で食事をすませることができた。
しかし、その間店主のママがずっとこちらの様子を確認しに来て、そのときの表情がとても怒っているような感じだったのだ。
会計するときに、私は初めてママから「ここは喫煙できるレストランです」と告げられた。
「ちゃんとステッカーも貼って告知してあるんですよね」と、タバコが苦手なのにこの店を利用したことか迷惑であった、という意思表示をされたのだった。

これは完全に私のミスで、「神奈川県のレストランだから」という思い込みで安易に入店すべきではなく、自分自身がタバコアレルギーという病気を持っていることをもっと注意すべきだと痛感した出来事であった。
それでも、タバコの煙に対して配慮してくれ、食事をさせてくれたウエイトレスさんには感謝したが、ママが嫌煙者である客を監視するほど苦々しく思っているのであれば、私が発作を起したときにはまだ料理もできていなかったのだし、そのとき言ってくれればよかったのになあと、ちょっとだけ思った。

タバコの分煙、禁煙が徐々に浸透しつつある神奈川県だが、まだまだ飲み屋関係ではなかなかそこまでいかないのが現状である。
おかげで、常連さんが圧倒的に喫煙者が多い馴染みのすし屋では、私たちが行くとお客さん総出で気を使わせてしまうので行けなくなってしまった。
焼き鳥屋に行きたくても、焼き鳥の炭火焼の煙は平気でも、その中でタバコを吸われてしまうと、発作が起きてしまう。煙の中だからいいだろうは、アレルギーには通用しないのだ。

一番困ったのは、あちこち吟味した末にやっと見つけた美容院の担当者が、喫煙者であることだった。目の前でタバコを吸うことはなくても、パーマの途中で喫煙されて戻ってくると、手にヤニがついていて、非常に苦しい思いをしなければならない。
一度、目にパーマ液が入ってしまい、担当者が濡れたティッシュを持ってきてくれたのだが、そのティッシュがヤニ臭く、「これはもうだめだ」と思い行けなくなってしまった。
技術も施設も気に入っていたので、これは痛恨の極みだった。

喫煙レストランの一件で、喫煙者は、嫌煙者に対しては憎しみのような感情を持ち合わせていることも知った。
私が喫煙者だったときも、あまりにも過剰反応する嫌煙者が何人かいたが、その大半は過去に喫煙経験のある人ばかりだ。
その反応を見て喫煙者だった私は非常に困った気持ちになったりもしたが、喫煙可のところにわざわざいて嫌煙を叫ぶ人の気持ちに賛同はできなかったので、そういう人には構わないでいた。でも、特に憎いと思ったこともなかった。
私は今は嫌煙者だが、病気なので「わざわざタバコを吸える場所に行って嫌煙を叫ぶ」なんてことはできない。
タバコを吸う人とは、たとえ目の前でタバコを吸っていなくても、できるだけ近づきたくないと思うだけだ。
公共の灰皿の近くに行ってわざわざ嫌煙を叫ぶ嫌煙者は、同じ嫌煙者でもあまり歓迎するものではない。
そんなことをするから、喫煙者と嫌煙者との理解が遠くなるばかりなのだろうとさえ思うからだ。
でも、喫煙者にとっては、そんな嫌煙者もタバコアレルギーで近づけない人も、嫌煙者であることにはかわりなく、嫌な存在であるのだろうと感じる。
自分が喫煙者のときには、そこまで考えていなかったが、タバコアレルギーの人が近くに来られなかったので知らないだけだったのだろうと思う。

タバコのアレルギーは嫌煙ではあるものの、気持ち的に「嫌い」ということではなく「身体が受け付けない」ので結果的に「嫌い」ということなので、我慢して喫煙者と同席できるようなものではないのだ。
小麦アレルギーの人に無理てしパンを食べさせる人はいないだろうし、蕎麦アレルギーの人を蕎麦屋に誘う人もいないと思う。
だけど、タバコは喫煙者が私の影響がでる範囲でタバコを吸う限り、私は発作と戦わなくてはならない。

家の中を掃除をしていて古いものを引っ張り出すと、たまにタバコの臭いがすることがある。それを感じて、発作の心配をしなければならない私は、過去の自分に復讐されているような気がしてならないのだ。



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