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◇東日本大震災より三年目2014年03月12日 13時34分23秒

昨日、東日本大震災より三年目を迎えた。
地震の起きた時刻、午後2時46分には私の住む地域でも、自治体の有線放送で黙祷を促す放送がなされた。
新宿のアルタ前ではこの時間に、アルタのモニタにセレモニーの様子が映し出され、信号待ちをしている人が黙祷を捧げる姿がニュースにもなったし、東急電鉄などの電車でも全車両で黙祷が捧げられる旨の発表があった。

まだまだ復興が進まない中、まだまだ仮設住宅で暮らす人がいたり、被災補助金が一部打ち切られたりしているとのこと。それでも、少しづつでも被災者の意識も前向きに変わって動きだしているというニュースに触れ、やっと3年まだ3年と思ってしまう。
除染がすすんで食は安全なものが流通しているといわれても、放射能汚染水の流出が未だに流出しているといわれているし、除染した土の捨て場がなく、そのまま家の庭に積み上げられているというニュースを聞くと、復興予算の行き場がないと未だに言っている現実が信じられない。

関東に住む被災の現実に触れつつ何もできずにいたなんちゃって被災者の私たちも、除染が進みいざ東北の食が流通されはじめると、色々な選択を余儀なくされた。
スーパーに福島、茨城産の野菜などが陳列されると、一年前までは「福島のものは買えないね」とわざわざ口に出して通り過ぎていく人がいたりした。
流通する食物については厳しい検査が施され、国の基準よりもずっと厳しい基準を設けて流通しているから「安全です」と言われる。
現地の農家や漁業の方々も、半端でない努力をしていることもニュースで見ている。
しかし、それでも心配な人は東北の食べ物は選ばない。東北の食べ物が心配な人は、一年前はそれをいちいち口に出さないといられなかったが、今はそういう姿をほとんど見ることはなくなった。
私の家では、子供がいるわけでもないし、東北の食べ物を食べることも復興の一躍を担っているのだと思うと、何もできない中それくらいしかできないのなら積極的に東北の食べ物を食べようと震災直後から考えていた。今でもそれは変わらない。

ただ、子供がいる家庭などで未だに心配だという考えがあることも理解できるし、個々でそれは選択すればいい問題である。
東北産の食べ物を拒否している人が、だからといって東北の被災のことを蔑ろにしているとは思わないし、心を痛めているからこそ苦渋の選択をしている人もいるのだ。
現状では、中国などから輸入されているものも安全ではないものも流通されているし、安いからという理由で外食産業では東北産の野菜などを積極的に利用する会社も多い(それ以上に安全に疑問のある食材も使われているが)。
あまり神経質に考えると外食もできない。
それが理由かどうかはわからないが、スーパーで「私は福島産は買わないわ」と声高に宣言する人は見なくなったし、自分が震災に関しての食に対してどういう考えであるかということは、わざわざ話題にしない限りは暗黙の中でタブー視されている感がある。
しかし、わざわざ話題にしたとしても、概ね自分の立場と相手の立場をそれぞれ認識できるくらいまでは、冷静に話ができるようにはなってきたようにも思える。

被災から3年が近くなると、NHKは震災関連の番組ばかりになった。
その中で、外国への食べ物の輸出は、まだまだ日本の信頼が快復されていない現状が報道されていた。
外国でどの程度の日本の状況が報道されているかは判らないが、チェルノブイリの事故があった当時、日本では周辺諸国の被災状況や、食の安全が国によってまちまちで、安全の確保に時間がかかっているという報道が数年続いていたことを思い出す。
外国の日本の復興状況も、汚染水の流出などネガティヴな情報が大々的に報道され、現地の食の安全確保に対する取り組みなどはほとんど報道されていないのだろうなと感じる。
それが原因なのかどうかは確かめてはいないが、日本で報道されているのとは違うクオリティと内容の情報が流布されていることで、日本の食べ物はまだまだ危険であるという判断がなされているのだろうと思ったりもする。
日本の食べ物は優秀だが、わざわざ日本の食べ物を利用するだけの理由がなければ、再び輸出再開までこぎつけるのは難しいだろう。
それは商売においては普通のことだろうと思う。

私の友人のドイツ在住のご夫婦は、定期的に来日される。
震災のあった日も来日されていて、電車の中で地震も経験された。奥様は日本人だが旦那様はドイツの方なので、ショックは大きかったようだ。
その後もご家族の関係で定期的に来日されているのだが、それまでは親日家という印象のあったお二人が、あの日を境に日本に対する意識が変わってしまったのを感じる。
特にドイツ人のご主人は未だに被災した時のショックがあるようだが、それ以上に日本の食べ物は危険であるということが端はしに態度に出ているのが悲しい。
ご本人はその意識があるのかないのかは判らないし、何より私たちを悲しまされるためにそうしているわけではないことも重々承知だ。
ただ、私たちも震災にあったショックもあるのだろうと震災後ずっと黙って聞いていたが、あまりにもそれが頻繁で、しかも嫌悪感を持って食に対峙されると、それを日常的に食べている私たちさえも汚いものであるように思ってるように感じてしまう。

そのきっかけは、今年の正月に来日されてお会いしたときのことだ。
友人夫妻は、来日すればだいたい一ヶ月は滞在されるが、先日は帰国する直前にお会いした。
食事に誘われたので出向いたのだが、いざ会ってみると旦那様が野菜を食べたくないと言っている。
食に関しては年配のわりには偏食の多い人たちではあるが、野菜を食べたくないと言われたのは初めてだったので、彼が日本の野菜に対して震災後はずっと神経質になっていることを思い出した。
野菜を食べたくないという彼があまりにも疲れた様子だったので、私が手を差し伸べると、瞬間的に振り払われてしまった。私としては、その態度が「汚いものを食べている汚い存在に対する瞬間的な態度」のように思えたのだ。
彼に差別的な意識があったかどうかは判らないが、私は自国で友人に差別的な感情をぶつけられたような気がしてひどく悲しかった。

私たちはここで生活をしなければならないし、日本のどこへ行っても放射線汚染の脅威や地震の恐怖は変わらない。
食べ物に関してだって、信じなければ生活できないから情報を基に選択しているだけで、東北の食べ物を食べていてもいなくても、不安でないわけではないのだ。

ドイツの友人のことを別な日本の友人に話すと、その人の更に別な友人でしょっちゅうイギリスに行く人の話を聞かされた。
イギリスでは戦争で敵国だったせいもあり、もともと日本人に対して差別的な意識を持っている人もいるのだけど、その要素に放射能というのが加わったとの話だ。
差別意識なく親切にしているつもりの会話でも、日本は放射能で汚いからイギリスはいいでしょうというような言葉があって、ちょっと返答に困るという話を聞かされた。

もちろん、日本の現状を理解しようと積極的に日本に来て、ボランティアに参加したり日本との交流を図ろうと働きかけてくれる外国人が多くいることも知っている。
ロシアのフィギュアスケートの大会で、日本の災害に対して黙祷を捧げるセレモニーを用意してくれたように、たくさんの国が日本の現状を心配してくれていることも知っている。
私のドイツの友人や、友人の友人がイギリスで会った人も、悪意を持っているわけでもないのだろうとも思いたい(イギリスの例は、日本でもこんなことを言う人はいそうだし)。

ただ、文化も常識も違う交流の中では、様々なすれ違いが生じ、それが基で小さな軋轢も生じることもあるように思ったりする。
それはお互いに性格な情報を共有していないことや、正しい情報がどこにあるのか非常に不明瞭であることも原因の一つなのだろうと思う。
日本人同士でさえ、スーパーで東北の食べ物を利用するかどうかは、個々の立場や状況で判断しなければならないのだから、それがワールドワイドになれば対応はそれだけ広がるということだ。

日本という国がは本当に努力家でまじめであるということは、この震災で本当に痛感した。
それと同時に日本という国が外国に対してどれほど情報発信ができていなく、外交がヘタクソなのかを、自分を含めて痛感している。
生産者がどれだけ努力をしていても、なんちゃって被災者の微妙な位置にいる私たちは、100%安全であると胸をはって外には発信できないことも痛感した。

被災者の置かれている現実を考えると、私たちは早い時期から普通に生活をしている。その生活は震災前とそれほど大きくは変わらない。
変わったのは、現在ある情報の信憑性に対する猜疑心と、これから来るだろう災害の恐怖がより現実的なものになったことだ。
そして、外国との付き合いも個人レベルと微妙に違いが出ていることも、震災前とは違うところなのかもしれないと思ったりする。

◇カルピスのアレルケア2014年03月13日 01時35分13秒

40歳を過ぎたあたりから、それまで顕在的に持っていたであろうアレルギーの症状が具体的に顔を出してきた。
花粉症は言うに及ばず、冬になると寝るときにくしゃみがとまらなくなり、同時に咳も併発して、喉をつまらせてしまうのだ。
この症状がアレルギーからくる喘息だということに気づくには、非常に時間がかかった。
何故なら、当時私は喫煙者だったからだ。

35歳を過ぎたあたりから、常に喉の調子が悪く、呼吸器に慢性的な違和感を感じていた。
呼吸器科を訪ねたが、当時は禁煙外来が一般的でなかったせいか、呼吸器科の医師は私にこう言った。

「喫煙者の人は呼吸器疾患を治す意思がないのだから、私は診ません」

この言葉を言われてから数年、私は呼吸器科を受診できずにいた。
別な病院に行くことも考えたが、同じようなことを言われるのが怖かったのだ。

その後私は、成人歯列矯正をして欠損していた奥歯にインプラントを入れることを決意した。その時に、私の周囲にいた唯一の喫煙者の友人がタバコを辞めたのをきっかけに、私も禁煙を決意した。
インプラントには歯周病が大敵であり、それを予防する第一歩が禁煙だったからだ。

それから5年数か月、私はただの一本もタバコを吸っていない。
いや、吸いたくても吸えない状況に陥ったのだ。
禁煙した当時はそうでもなかったのだが、禁煙して2年くらいした頃に、タバコの臭いを感知するだけで、吐き気をもよおし、涙目になって呼吸が乱れ、声が出なくなり、動悸が激しくなって人事不正に陥る。
タバコの煙の有無はどうでもよく、タバコの臭いがダメなのだから始末が悪い。
自分の昔吸っていたタバコの臭いが持ち物にしみこんでいて、物の整理をすると具合が悪くなるほどだった。

調べると、タバコのアレルギーというのは存在しないらしい。
あるのは、化学物質過敏症という病気らしい。
タバコの臭いと同じように、新建材にも同じような反応をする。
ある建売住宅の内見では、5分とそこにいられなかったこともある。

自分ではどうしようもない上に、認知度も低いせいか他人に説明するのも大変である。
タバコがダメというと、ただ単純に嫌煙を疑われたりするだけで、タバコの煙がなければいいだろうなどと、勝手な判断をされることが多いからだ。
それから常にタバコの臭いから逃げて生活する毎日が続き、花粉の季節にはダブルで刺激を受けるため、春先はあまり外出しなくなってしまう。

今回引越しをすることが決まり、私は新しい家に越すことよりも、新建材の臭いの中での生活に心を重くしていた。
そんなときに、カルピスのアレルケアの広告を見たのだ。
通常なら、この手のサプリメントはあまり信用しないのだが、その時は試してみようと思ったのだ。

アレルケアを摂取して4ヶ月が経つが、3月に入っても花粉の飛散量がいつもの年より少なめではあるものの、今のところいつものように箱ティッシュを持ち歩くような事態には陥っていない。
耳鼻科に行ってヒスタミンの注射は一本だけ受けたが、一週間以上経っても症状が重くなる兆候はまだない。
また、現在我が家の前の家が建築中で、作業員の人が外でタバコを吸うので大変迷惑をしている。
それでも、タバコの臭いを感知して自分でそこから逃げるだけの余裕ができた。
相変わらず発作は起きるものの、マスクをしたりハンカチを口元にあてるなどのケアができるくらいにはなった。

これらが“改善”となるのかどうかはわからない。
全てがアレルケアのおかげかどうかもわからないが、少なくともいつもの花粉の季節とは圧倒的に違う生活を送っているし、タバコに対しても心に余裕ができたことは確かだ。
今年は花粉症の症状が軽いせいか、耳鼻科での飲み薬はでなかったが、鼻炎スプレーと目薬は処方されたし、通年を通して喘息の治療は受けている。
入居するときに、新建材の臭いなどを軽減するために、窓ガラスに光触媒を塗ってもらったのだが、この効果の高さにも驚き、そして安心しているせいもあるのかもしれない。

いずれにしても、アレルケアを飲み始めてから少し体調が変わった実感があるのは事実なので、もう少し飲み続けてみようと思ったりしている。

カルピス アレルケア

◇流行を無視したヘアスタイルの戦い2014年03月19日 23時42分33秒

ショートカットにした。
ショートにするのは十年ぶりくらい。
以前は三叉神経に帯状疱疹が出来て、泣く泣く髪を切ったのだった。

それからずっと髪をセミロングにして、ストレートにしたり、ゆるふわパーマにしたりしてきた。
しかし、それらの髪型は決して自分の好みのスタイルではなかった。
私が要望するスタイルは、最近の美容師さんはやったことがないから出来ないとぬかすのだ。
写真を持っていこうが、美容師さんの中でイメージができないようで、失敗を恐れて要望に応じてくれようとは決してしなかった。
そういうわけで、2000年に入ってから2013年くらいまでは、私は自分の気に入ったヘアスタイルにしたことがない。
もともと若い美容師さんに、自分の話しているイメージがまったく伝わらないということを感じていたので、40代の美容師さんがいる美容院に行くようになって、そこそこ自分のイメージが伝わるようになったのだが、その人はそこのオーナーではなかったので、失敗を恐れて冒険することはなかった。
そのうち、私のタバコアレルギーがひどくなり、彼女のヘビースモーカーが苦痛になって行けなくなってしまった。

1980年代は、パーマの技術やヘアスタイリング剤は今よりもずっとよくなかったが、流行する多様なヘアスタイルに対応すべく、帯広の田舎にいる美容師さんでも、カットの技術は非常に優れていた。
ヘアデザインに意欲を持つ人も私の出会った美容師さんには多く、ヘアカタログに載っていないようなデザインでも、アレンジしていろいろとチャレンジしてくれたりもした。
別に都会の最前線にいなくても、それくらいの技術を持っている人はたくさんいたのだ。

ところが、パーマの技術が発達し、ありとあらゆるヘアスタイリング剤が登場し、自宅で自由にヘアスタイルを自分でアレンジするのが主流になってくると、多くの美容師さんはそれに頼るようになってきたように感じるのだ。
とりたてて致命的なのは、スタイリストだのと適当な肩書きをつけて高い料金をとっているのに、自分なりの主張やイマジネーションを微塵も持ち合わせていない人が多いことだ。
ヘアカタログに載っている髪型は、どれも長いか短いか、アレンジを変えたりの違いで、基本的にはどれも同じ髪型だったりする。
そこから逸脱した髪型を希望すると、とたんにそれには対応できず、まったく違う場所に無理に誘導しようとするのだ。
そしてそれが違うと指摘すると、二の句は「これはヘアアレンジしているから」とくる。

この原因は、私がイメージしているものと、美容師さんがイメージしているものが違うのが原因で、それがたとえ希望の髪形のサンプル写真を提示したところで、そこに思い描いている到達点が違えば、おのずとそのイメージも異なってくる。
それは年代的なものも大きく左右してくるだろう。

80年代の美容師さんは、美容学校でありとあらゆる髪型を勉強したらしいが、その内容にも時代が現れているのだと同年代の美容師さんに教えてもらった。
40代後半のその人は、自分たちの時代は刈り上げ、レイヤー、ツーブロックはあたり前だったけど、最近はそういうのは教わってこないようだと言っていた。
80年代に流行っていた髪形を今やりたいと思っても、それを納得いくように再現するには、そういった技術を習得している美容師さんを探さなければならないらしい。
さらに、そのイメージをきちんと把握している人が必要なのだ。

thewho.com
The who 右から二番目がロジャー・ダルトリー(thewho.com)

2年前、私はロンドンオリンピックを見てロックな気分になり、The Whoのロジャー・ダルトリーの70年代の写真を持って美容室で「この髪型にしたい」と言って、25年ぶりくらいにほぼカーリーヘアにした。
ちょうどそれまで通っていた美容室に行けなくなったときで、新しい美容室に事前に電話で喫煙者かどうかを確認し、こういう髪型にしたいという要望をあらかじめ伝えて行ったのだ。
もちろん髪質の違いなどでまったく同じにならないことは理解しているが、担当した30代前半の美容師さんはかなりがんばって近い髪型にしてくれた。
しかし、その時の美容室のパーマ液は私には合わなかったらしく、パーマの後のかぶれがひどかったので、私はまた次の美容室を探しすことになる。
たまたまニューオープンで顧客開拓していた店で、ロジャーは全頭スパイラルでLed Zeppelinのロバート・プラントに変貌した。
その後、ロックの後はニューウェイヴだとワンレン全頭スパイラルの頭は、そのまま裾をざっくり切って茅葺屋根のひさしのようにしてもらった。

茅葺屋根
茅葺屋根(フリー素材無料写真 森の父さん花鳥風穴「茅葺屋根の民家」)

この髪型は非常に気に入ったのだが、それまでずっとデジタルパーマをして、その後全頭カーリー、全頭スパイラルと続き、エアウェーブパーマでもその傷みはいかんともし難い状態にまで陥り、とうとうシャンプーのときに指が入らないくらい傷んでしまったのだった。

あまりの傷みにストレートにするしかないといわれ、数ヶ月間ストレートで生活をした。
一年半ほどかなりきつめのパーマになれてしまっていたので、さらさらストレートヘアはなんの面白みも感じず、ひどくつまらない上に毛先は相変わらず傷んでいるし、これが切れる長さになったらショートにしようとずっと思っていた。
そしてその日がやってきたのだ。

ブリキの太鼓 / JAPAN
「ブリキの太鼓」(TIN DRUM)/ JAPAN
(こころとからだがかたちんば「Japan & 坂本龍一  「Ghosts」(Live)'82」)


ラ・セゾン / アン・ルイス
アン・ルイス(Pink Cloud の独りよがり「アン・ルイス「ラ・セゾン」 (シングル盤)」)

ニューウェイヴの次はニューロマンティックスだろうと、私は無謀にもJAPANのディヴッド・シルヴィアンの写真を持っていった。写真は「ブリキの太鼓」のジャケット。
補足としてアン・ルイスの写真も提出した。
ただし、私だって45をとうに過ぎたおばさんがディヴッド・シルヴィアンの写真を持っていったところで、ディヴッド・シルヴィアンになれないことは知っている。
実際には彼とはかけ離れた仕上がりになることくらいは予想していたのだが、予想ははるか上空を駆け上っていた。
今回担当した美容師さんは、30代後半。
カット技術よりはパーマの薬剤などに凝る美容用品オタク的な人だったが、茅葺パーマもきちんとイメージどおりにしてくれたし、彼の美容院で扱っている薬剤は肌にやさしいものを揃えているので、ちょっと高いけれど彼にまたお願いすることにしたのだ。

しかし、ニューロマンティックスをリアルで経験しない彼は、このニュアンスがわからない。
最近流行りのボブスタイルの変形から、髪の毛を根元から立ち上げるパーマではなく、髪の流れをつけるだけのパーマをほどこした。
仕上がりを見て、「なんかこれちょっとイメージと違う」と言ってディヴッド・シルヴィアンの写真をもう一度確認する。
彼はこの流れがこうで、ここはこうでと説明するが、もともとのカットがそもそも違うような気がする。
何故このようなカットにしたのか、今の私の顔に合わせたイメージだったのかディスカッションするのだが、結論から言うと美容師のお決まり文句「これはセットしているから」。

そんなことは知ってるよ。この髪型になるのに、どういったカットが必要なのかも、30年前に見て知っているよ。それがどうしてニュアンスが伝わらないのか。
しかし、これは仕方がないことなのか。彼はニューロマンティックスを知らない。
ディヴッド・シルヴィアンもアン・ルイスも知らない。
当然、この当時流行ったレイヤードカットや当時のツーブロックも知らないのだ。

そして仕上がった髪型は、楳図かずおの「のろいの館」に出てくる“たまみ”か、NHKのドラマで三上博史が演じた「実験刑事トトリ」のトトリ君のような頭だった。

「のろいの館」たまみ
「のろいの館」たまみ / 楳図かずお(時間だぜ!!薄汚ねぇピーターパン!!「はやく人間になりたい!!」)

「実験刑事トトリ」三上博史(c)2013NHK
「実験刑事トトリ」三上博史(c)2013NHK
(クランクイン!!「三上博史&高橋光臣の凸凹コンビが完全犯罪に挑む!『実験刑事トトリ』DVD化決定」)


美容師本人は、「かわいい感じでいいですよ」「おしゃれな感じ」と言うけれど、私はイメージと違うのでちょっとがっかり。 三上博史ならそりゃおしゃれだろうけど、私がしたらイタイおばさんじゃないか。
くれぐれもその路線は避けてくれとお願いしたのだが、もともとが無謀な要望だから仕方がないのだろうか。
私が「おしゃれと思わなければ、それは失敗ということではないのか」と思ったが、せっかくかけたパーマをここからやり直すには時間がない。
この美容院に入って、すでに6時間が経過していた。

イメージと違うと、服やスタイルをどう選んでいいのかまたな悩まなければならないのだが、それほど多岐に渡る服装をしているわけではないので、しばらく“トトリたまみ”として生活していくしかなさそうだ。
いやいやそれ以上に、こういう髪型にすると、母にそっくりな自分が顔を出して驚いてしまった。

それにしても、カットの技術は30年前よりも多様な技術があるのだろうと思うし、さまざまな表現ができるようになったと思うのだが、それがヘアカタログに載っている髪型のただ一方にだけ発揮されている現実は、非常にもったいないと思う。
昔の美容師は、ない技術の中でいかにさまざまな表現をしようかとがんばった。
今の美容師さんは、二の句を告げば「それはアレンジで」と言う。
自分のカット技術で表現しようとは思わないのだろう。それを逃げにしてしまえば、そこから先はないと思うのだが。
それとも、私のイメージの伝え方が下手なのか。
それとも、今の「スタイリスト」という肩書きの美容師さんは、クリエイターではないのだろうか。
イマジネーションを持たないクリエイターなど、ありえないだろうと個人的には思うのだが。

ただ、どんなに愚痴を言っても、ヘアカタログに載っていない流行を無視した戦いはこれからも続く。



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