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◇レシピ覚書:ホワイトデーの夫の手作りクッキー2015年03月14日 22時46分25秒


夫作ホワイトデーのクッキー

毎年バレンタインデーには、私の食べたいチョコレートを購入して二人で食すというのが、わが家の恒例行事であったが、バレンタイン商戦に参加するのもいい加減面倒くさくなってきたので、今年は妻の手作りチョコレートをプレゼントして二人で食べたのだ。
手作りチョコレートは思いのほか簡単で、余ったチョコレートをフルーツグラノーラにまぶして固めたのは、意外な美味しさだった。
そんなわけで、今年のホワイトデーはちょうど土曜日でお休みだし、プレゼントのクッキーは手作りだよね、と言ってみたら、本当に作ってくれたのだった。

レシピは、NHKのBSプレミアムで放送している、『グレーテルのかまど』「桐島かれん・洋子のフローズンクッキー」
放送を見たとき、忙しい母が子供でも簡単に調理できるという理由で、生地を冷凍して作り置きしていたというもの。
基本のクッキーのレシピは、

NHK BSプレミアム『グレーテルのかまど』「桐島かれん・洋子のフローズンクッキー」より引用
●材料〈基本の生地〉35~40枚
バター(食塩不使用)70g
グラニュー糖60g
一つまみ
卵黄1個分
薄力粉100g
ベーキングパウダー小さじ1/2


番組のレシピでは、バジルとかオレンジピールとかでアレンジしていたが、夫が作ったものはくるみのくだいたものと、ココアとチョコ、そして何故かあごダシと昆布の三種類であった。
バターは普段有塩のを使用しているので、それを使うようにお願いしたのだが、有塩バターの塩分を考えずに塩一つまみを投入したようで、できあがったクッキーは甘じょっぱかった。
でも、あごダシと昆布は意外なおいしさで、この甘じょっぱい味がなかなか良かった。
夫はこれまでも、ホットケーキに青汁を入れて私に青汁を食べさせたりと、色々と工夫をこらして謎なものを作ってくれるのだが、あごダシと昆布クッキーもそのうちの一つであろう。

写真はだいぶ食べてしまった後のものである。
右手前のがあごダシ昆布クッキー。

調理時間は金曜の夜に帰宅してから一時間くらいで、一晩冷凍して次の日の朝に焼いてくれた。
クッキーなど私も焼いたことがないのだが、これくらならいつでも作れるくらい簡単だったと言っていたので、きっとまた作ってくれるだろうと信じることにする。

◇20世紀末に置き忘れたものとは何かという雑感2015年03月20日 02時57分11秒

最近、新しいものが出てきても、まったくわくわくしなくなってしまった。
年をとったと言ってしまえばそれまでなのだが、私の中で新しいものを新しいものとして受け入れていないような気がしてならないのだ。

例えば音楽にしても、全てが昔聞いたようなメロディだったり、歌詞にしても繰り返し繰り返し同じようなことが歌われているような気がしてならない。
昔聞いたような気がするのなら、昔聞いた歌を聞いた方が自分にとっては居心地がいい。新しいものを追いかけるよりは、傾向と主張がはっきりしているものの方がとっつきやすいし、「これは何々のどこどこのリフだ」とかいちいち分析せずとも、気楽に聞くことができる。

昔は、プロが人の真似をするということを、亜流だとか模倣などと、まるで三流扱いされてきた。
もちろん、60年代の音楽ですらその前のブルースだとかジャズだとかの模倣であるといえるし、後で聞いて「ああ、これってこの曲のパクリだったのか」と気づくこともしばしばある。
しかし、亜流や模倣でも、それがそれを発信する人の魂の込められたものとして存在することを、見ている人が容認できるような作品であれば、それはそれで受け入れられてきたのだ。
パクリといわれようと、それが元と同じかあるいは越えたと思わせる力があれば、自然とそれはそのアーティストの作品として認知されてきたのだ。

だが、最近はそういう気概さえも感じず、ただただ同じようなことが繰り返されてきているようにしか感じなくなってきたのだ。

まして、以前のカルチャーは、主流であってもサブカルチャーであっても、その周囲の文化までも巻き込んで、一つの渦のようなものを感じることができた。
音楽、ファッション、アート、アドバタイジングなどが一つになり、それは連動して動いていた。
ヘアスタイルやファッションを見れば、その人の文化的傾向を見ることができたし、そういうものに興味のない人でもファッション雑誌の傾向で多少なりともその好みの主張を見ることができた。

今はそういったパッションもムーブメントも感じることはない。
ムーブメント自体が簡単に作られて捨てられてしまうものになって気づかないまま過しているのか、それともそんなものはすでに存在すらしていないのか。

そんなことを近年考えているうちに、そういう風になってしまったのはいつ頃からだっけと考えるようになった。
気づくとそんな世の中になっていた。
そういえばそんな風に思うのは、21世紀になってからではないだろうかと最近感じている。

90年代ですらすでに20年前という時代に入り、懐かしいあの曲などラジオで聴いたりすると、その時代背景が頭に自然と浮かんでくる。
自分が好きだとか嫌いだとかに関わらず、ああ、この頃はこんなファッションが流行っていたなとか、こんな遊びをしていたなとか、こんなニュースがあったななどと思い出すことができるのだが、21世紀に入ってからはまったくそういうことを、音楽やアートから思い出さなくなっている。

2000年頃の思い出というと、2000年問題でコンピュータが一斉に壊れるとか、結局1999年にはハルマゲドンも彗星衝突も人類滅亡もなくて、普通にミレニアムとかいって21世紀に突入してしまった。

エンジニアかオペレーターしかいじらなかったコンピュータが家庭に普及し、1人に1台携帯できる電話が普及し、そのうちスマートフォンという名の持ち運べる簡易コンピュータを持つようになったのだ。
すでに人々は家からでずとも、世界中とコミュニケートできるし、世界中の文化に触れることができる。
あれだけ情報に枯渇して、ラジオや雑誌をむさぼるように新しい情報に触れたい、感じたいと思っていたものが、何もしなくても情報が向こうからやってくるようになった。
いまや、人々は何かほしいと思わなくても、思う前にそれが手に入る準備が整ったのだ。

こうなると、イマジネーションなどなくても、コンピュータが個人の好みを分析し、流行を作り上げるだろう。いや、すでにもうそうなりつつあるのだ。
そうなると、人々は何も枯渇することなく、常に満足・満腹の状態で、流行を追うこともなくなり、藤子不二夫の漫画に出てくる未来人のように、制服のようなみんな同じような服を着て生活する日も遠くないような気がしてくる。

古来からある文化は継承され、保存されていくだろうが、ポップカルチャーは衰退の道をたどるばかりではないのだろうか。
ハルマゲドンがやってきて、人類が滅亡すると予言された20世紀の終末に、本当の意味で人類がなくしたものとは、実は文化と倫理だったのではないかと、最近思えてならない。
文化がなぜ発生したのか、倫理とはいったいなんなのか、それらが崩壊したことで、実は人類の生きる意味がなくなってしまっているのではないだろうか。
人類は種としては生き残って21世紀を迎えたが、人類が人としての証を失ってしまったのではないだろうか。

最近のテロや内戦などのニュースとあいまって、そんなことを最近漠然と考えてしまうのだった。



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