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◇ミッシェル・ルグランとヌーヴェルヴァーグの監督たち2020年06月08日 00時53分45秒


デジタル・リマスター版 特集上映「ミシェル・ルグランとヌーヴェルヴァーグの監督たち」予告編

コロナ渦の前に行こうと思いつつ、行くことがかなわなかった「ミシェル・ルグランとヌーヴェルヴァーグの監督たち」。
緊急非常宣言が解除となった横浜で上映が決定され、2日続けて4本一気に観に行った。
最初の日はジャン=リュック・ゴダールの「女と男のいる舗道」と「女は女である」。
次の日は、ジャック・ドゥミの「シェルブールの雨傘」と「ロシュフォールの恋人たち」。

本当は全部観たいけれど、6月から新しい仕事がはじまったので、今までのように平日に行くことができない。
この4本、どれも恋愛映画でフランスの結婚制度を知らないとよく理解できないところもあるけれど、決定的に日本の感覚と違うところは「子供ができたから自立する」という女性の価値観が存在するというところ。
夫はあくまで自分のパートナーで、子供の父親とイコールではないということ。
これは少し衝撃的だった。

自立したフランス女性というのは、フランス映画ではわりとよくあるテーマのように思うけれど、テーマとして取り上げるくらいだからそれはある意味「特別なこと」なのだろう。
ただ、その感覚はやはりフランスの文化のベースがあってこその感覚だろう。
それは日本の女性と比較して考えた場合、フランス人にとっては当たり前に受け止められることでも、日本人からすると少し理解が遠いものがあるようにも感じる。
戦争が終わって十数年のこの時代。自由を謳歌し、自己を主張し自分の人生を見つめる女性というのが当たり前であるというのは、21世紀になった今でもまだまだ果たせえない感覚。
女性の社会参加があたり前の現代の日本でも、やっぱり日本人のそれとは違うように感じる。

それにしても、ミシェル・ルグランという音楽家のすばらしさを改めて感じる。
どの曲をもってしても、必ず耳にしている。
そして、この曲はだれだれのどの曲とそっくり、これはあの曲にそっくりがたくさん出てくる。

それはゴダールの映像もドゥミの映像も同じで、この時代の文化やファッションが、その後の時代に大きな影響をもたらしたのかが理解できる。
「ロシュフォールの恋人たち」なんか、まんま70年代の少女漫画の世界だ。

これらの映画はもう何度も再上映されているし、ブルーレイでも販売されているので、観ようと思えばいつでも観ることができる。
でも、やっぱりスクリーンで観たかった。
そんな話を2月に友達としていて、ミッシェル・ルグランの企画はとても楽しみだった。
しかし、その友達とはもう話をすることができなくなってしまい、こういう映画を共有できる友人はいないので、それだけが残念でならない。

◇東京で神田日勝の思い出にひたる2020年06月14日 22時13分52秒


神田日勝回顧展 大地への筆触

去年の今頃は帯広に帰省して、鹿追町にある神田日勝美術館に足を運んでいた。
すでに、今年からはじまる東京ステーションギャラリー、神田日勝美術館、北海道立近代美術館との巡回展が決まっていて、ふだん道立近代美術館にある新聞紙に囲まれた部屋にいる男の「室内風景」や、門外不出の「半身の馬」を一同に会して観る機会を楽しみにしていた。
その間、鹿追の神田日勝美術館では絵がなくなってしまうので、ふだんあまり出てこない絵を観る機会でもあると知って、今年も何度か帰省して足を運ぶ予定にしていた。

しかし、今回の新型コロナ渦のため4月から東京ステーションギャラリーで予定されていたものが延期、緊急非常宣言が解除となった6月はじめから時間を決めた入場制限つきの観覧ができるようになったが、東京では半月だけの会期となった。
今回、東京で神田日勝と対峙するにあたり、個人的には望郷の念が強く出てしまい、前半は涙があふれてとまらなくなってしまった。

今の状況では実家に帰ることもままならず、鹿追と札幌に観に行くことができるのかどうかは、現段階では定かではない。
都市間移動が推奨されていない状況では、帯広でも札幌でも内地からの客を歓迎してくれるとは思えないからだ。

父は絵が好きで、たまに名もない画家の絵をふらっと買って帰ることがあった。
一時期、かつて私の部屋だったところに、4畳半ほどもあるベニヤに描かれた裏寂しい木造の開拓者住宅の絵をおいてあったことがあり、なぜそんなものを購入したのか聞くと、「それはもらったものだ」と父ははっきりと理由をいわなかった。
その絵はいつのまにか姿を消していて、あの絵はどうしたのか聞くと「別な人にゆずった」と答えていたが、あんな絵をほしがる人がいたのだろうかと疑問に思う。
しかし今から思えば、あの絵は初期の神田日勝の絵の雰囲気に似ていなくもなかったような気がする。


自画像/神田日勝[神田日勝美術館

今から50年くらい前、妹の産まれる少し前のことだ。
駅前から稲田の国道沿いに引っ越したばかりの頃。
国道に面している大きな窓のある家の東側の方から、一人の男性がうちへ訪ねてきた。
玄関は西側にあるのだが、その人は庭からやってきて、ちょうど窓の外を眺めていた子供の私に窓をたたいて開けるよううながし、「とうちゃんはいるか」と聞いてきた。
その人は、鼠色のシャツに黒いズボンに黒い長靴をはいていた。顔は浅黒く日焼けしていて、全体的に黒っぽい印象が少し怖く思えた。
私の家を知る人であれば、私に父のことを「とうちゃん」と聞く人はいない。我が家に「とうちゃん」と呼ばれる人はいないからだ。
父は家の表側にある職場にいて、母はちょうど家にいなかったと思う。
私が「今いない」と答えると、「そうかまた来る」と言ってその人はその場を去ってしまった。
しばらくしてその人は母と一緒に家に来て、庭で二三話していたかと思ったら、家にはあがらずに来た方向に帰っていった。
母に誰が来たのか尋ねると、「絵描きの人だ」と答えた。
この記憶は子供の頃の記憶で、母はまったく覚えていないといい、父に確認しないまま父は亡くなってしまったので今となっては確認のしようもないのだが、私はその時の男の人の顔が神田日勝に似ていたような気がしてならないのだ。

父は蕎麦が好きで、鹿追や新得方面にふらっと蕎麦を食べに行くことがあった。
私が一緒のことはめったになかったが、私が一緒のときは必ず神田日勝の絵を観につれていってくれた。
神田日勝美術館は、今でこそ整備されて綺麗な建物だが、昔は神田日勝のパトロンだった福原氏の美術館の方が見やすいくらいだった。


室内風景/神田日勝[美術手帖

絶筆となった「半身の馬」もさることながら、私は現在は北海道立近代美術館に所蔵されている、新聞紙でうめつくされた部屋の風景が描かれた「室内風景」の圧倒的な世界が印象に残っている。
どこも見ていないようで、こちらをずっと凝視している男の目が怖かった。
横たわる人形が怖かった。
神経質なほど緻密に描かれた新聞の描写が怖かった。
それでも、この絵は強烈な印象として私の中に残っている。
観る機会があるのであれば、必ず対峙したいと思う絵のひとつだ。


家/神田日勝[神田日勝デッサン集表紙

そして、父の好きだった世界は、神田日勝の初期のモノクロームの世界だったのではないだろうかと思う。
板うちされた貧しい家は、北海道の開拓者住宅の一般的な姿で、今でもその姿をあちこちで見ることができる。
それは北海道に移住した人間の原風景でもあるような気がする。
今回の東京ステーションギャラリーでは、最初の展示でこれらの絵を観ることができる。
私は、祖父母から聞いた開拓時代の話や、今は帰ることのできない実家のことを思い、涙があふれて泣きながらこれらを観た。

華々しい都会にあこがれつつ、それでもこの貧しい風景から離れることができない。
情報の伝達が遅かった昔に、できる限りの情報を入手して表現しようとする情熱が、神田日勝からは感じられる。
それは、私が上京する前に感じた、このままここにいて何も知らず、何も見ずに生きていくことの恐怖と似ているのではないかと思えてならない。
あの頃は、ちょうど一番の親友を交通事故で亡くしたばかりで、将来に不安を感じ、このまま何もせずに生きることは死ぬことと同じなのではないかと思えてならなかった。
そんな狂気にも似たものを、私は神田日勝の絵から感じ取る。

絵が好きで、音楽が好きで、一人でそれを楽しんでいた父が、同じようなことを感じていたかどうかはわからない。
父が神田日勝と知り合いで、昔うちに訪ねてきた黒い絵描きの人が神田日勝だったかどうかもわからない(現実のことかも定かではないのだけど)。
いつの間にかなくなったベニヤの暗い木造の家の絵が、神田日勝の絵だったかどうかもわからない(これはたぶん違うだろう)。

自分の産まれた土地で、土地を思いながら表現することをやめなかったこの人の絵を、今後もおいかけずにはいられないだろうと思う。
半身の馬は、約束どおり東京に来てくれた。
もし秋までに都市間移動ができるようになるのであれば、私は約束どおり北海道にまた会いに行こうと思う。



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