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◇不思議惑星キン・ザ・ザに浸かる2021年09月13日 02時02分23秒



クー!キン・ザ・ザ公式ページ



不思議惑星キン・ザ・ザ公式ページ

「不思議惑星キン・ザ・ザ」は1986年のソ連の映画だ。 当時のペレストロイカ政策の中で崩壊するロシアのニュースが注目される中、カルト的な人気で世界中に配信されたこの映画は、ゲオルギー・ダネリヤ監督自らの手で『クー! キン・ザ・ザ』として2013年にアニメ映画としてリメイクされた。

不思議惑星キン・ザ・ザWikipedia

あらすじ(wikipedia概要より抜粋)
1980年代の冬のモスクワ。「ヴォーヴァおじさん」(дядя Вова)ことマシコフと「ヴァイオリン弾き」(Скрипач)のグルジア人学生ゲデヴァンは、異星人を名乗る裸足の男の持つテレポート装置によって、キン・ザ・ザ星雲の砂漠の惑星プリュクに飛ばされてしまう。地球へ帰るため、2人の長い旅が始まった。

星の住民は地球人と同じ姿をしており、見かけによらぬハイテクと、地球人類を風刺したかの様な野蛮な文化を持っていた。彼らはテレパシーを使うことができ、話し言葉は「キュー」と「クー」のみで、前者は罵倒語、後者がそれ以外を表す。しかし、高い知能を持つ彼らはすぐにロシア語を理解し話すことができた。この星の社会はチャトル人(Чатлане)とパッツ人(Пацаки)という2つの人種に分かれており、支配者であるチャトル人に対して被支配者であるパッツ人は儀礼に従わなければならない。両者の違いは肉眼では判別できず、識別器を使って区別する。

この星を支配しているのは、武器を使って好き勝手に威張り散らしている「エツィロップ」と呼ばれる警官たちである。プリュクの名目上の為政者はPJ様(ПЖ)と呼ばれ、人々は彼を熱烈に崇拝している。プリュクにおける燃料は水から作られたルツ(Луц)というものである。自然の水は取り尽くされ、飲み水は貴重品となっており、ルツから戻すことでしか手に入らない。プリュクでは地球のマッチ棒(の上の化学物質)が非常に高価なものであり、カツェと呼ばれて事実上の通貨となっており、所有者は特典が受けられる。

ディストピアな設定はソビエト社会の寓意的描写ではないかと言われる。実際ダネリヤの監督としての高い評価が、この奇妙で曖昧な映画がソビエトの厳しい検閲を通り抜けた唯一の理由であると言われている。作中では解説が若干省かれているので解りにくく、理解するには前後の伏線を注意深く頭に留めておく必要がある。

今回、そのアニメ版の日本公開に伴い、同時上映に1986年の「不思議惑星キン・ザ・ザ」も日本で上映された。
主なあらすじは、どちらもおおまかには変わらない。プリュクに存在するチャトル人からパッツ人への人種差別的な対応、権威的な社会構成や、賄賂や中堅的権力者の独断的な判断などはどちらの話でもかわらない。登場するチャトル人とパッツ人も多少の違いはあるにしろ、ストーリーに影響が及ぶほどの違いはない。

大きく違う点があるとしたら、キン・ザ・ザ星雲にある惑星プリュクに空間移動する二人のロシア人のシチュエーションが異なるくらいだ。
1986年版は、器用で判断力があり機転もきく建築家で技師の「おじさん」ことマシコフと、プライドは高いがキャリアのないグルジア人大学生の「ヴァイオリン弾き」ことゲデヴァンの二人。2013年版では、権威的でプライドの高い世界的チェリストのウラジーミルと、機転がきき交渉力もあるDJ志望のトリクの二人。
登場する二人のロシア人の位置づけが1986年版と2013年版とで逆転していること、1986年版では連邦国の出身地による立場の違いなどが垣間見えるのに対し、2013年版ではそれがキャリアと度胸の違いに置き換わっていることなどが注目すべきところだろう。
狭い世界での小さなプライドや常識などは、異世界ではまったく役に立たないこと。生き延びるには知恵と交渉力が必要であることは、この映画以外のアドベンチャー系のお話しでも共通するものだろう。

1980年代に入り、少しずつ西側よりの政策が意識される中で、1985年に就任したゴルバチョフのペレストロイカによりソ連ははっきりと崩壊への道を進むわけだが、同時に地方自治体にはびこる汚職体勢などの問題も表面化しており、ソ連崩壊後の連邦国離脱のきっかけになったという話も聞いたりする(ソースなし)。
そういう社会的な時流と照らし合わせてみると、汚職や賄賂がはびころこのプリュクで、日金を稼ぐだけの二人の芸人が、ステテコの色を目標とすることが生きる意味であることも、笑い以外の理解があると思う。

二人のロシア人が地球に帰還するために、二人のロシア人と二人のプリュク人の四人は、お互いをだましたり説得したりしつつ都会に出ていくわけだが、お互いにわりと人情に厚いのが意外だったりする。ロシア人というのは、こうまで情に厚かったのだろうか。1986年版では、地球人は拘束されたプリュク人のために2度も地球に帰るチャンスを自ら逃してしまうのだ。2013年版では、このあたりが少しだけ修正されているのだが、それでも地球に帰るチャンスを逃してしまうことには違いない。
まるで寅さんなみの人情のやりとりに、ロシア映画をあることを忘れてしまう。

プリュクの言語は、大きく分けて「キュー」と「クー」。「キュー」は公言可能な罵声語で、「クー」はそれ以外。
判断基準がこの2つしかないわりに、「クー」の範囲はやっぱり広い。劇中でも「キュー」はそれほど多く出てこない。プリュク人にとって「キュー」な状況というのは耐え難いものなのだろう。
そう考えると、この俗悪な社会構成の中で「クー」と思っていればわりと居心地は悪くないということなのだろうか。
不満もたくさんあるし、できれば上流の証である赤いステテコをはいて2回挨拶される存在になれたらどんなにいいだろう。

1986年版は135分、2013年版は97分と余計なところはそぎ落とされて、より洗練されわかりやすい内容。
この合計232分を、続けてどっぷり浸るのはなかなか「クー」な経験だった。
自分がこのロシア人だったら、このときどういう選択をするだろう。そもそも、最初の段階で迷子の浮浪者風の宇宙人に声をかけたりするだろうか。

機会があったらまた観たいと思いつつ、Amazonのポイントがたまっていたので、結局BDも購入してしまった。
これでいつでもプリュクに行けるわけだ。




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