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◇2017年年の瀬2017年12月27日 14時27分55秒

2003年冬、つくばの自宅で。
2003年当時、つくばの自宅で。

年の瀬の大掃除には、ふだん掃除の行き届かない部屋もちょっと丁寧に掃除をする。物を整頓し、目に付いていらないものはゴミに出す。
今年は手術もしたし、寒さがことさら堪えるので、掃除はごく簡単にすることにした。

昔使っていた遠赤外線の電気ストーブをつけて掃除をしていてふと見ると、ストーブの遠赤パネルの下の方から、わたのような塊がはみ出ている。危ないので細いブラシで掻き出してみると、綿ぼこりにしては細かい毛のそれは、猫の毛のようだった。

そういえば、昔いた猫はこのストーブが大好きで、いつもストーブの足にはまって寝ていたのを思い出す。
この猫が亡くなってからも、すでに7年。
猫が亡くなって震災の影響で電気の消費を気にするようになり、次の年からわが家ではガスストーブを使うようになった。
なので、ドライヤー並みに電気を喰うこの電気ストーブは、たまにしか使わない。
すでに猫が亡くなった家も出て、4年前から新しい家で生活もしている。
それでも猫がいた痕跡は、あちこちに残っていてたまに顔を出してくる。

今年ももう残りわずか。
カレンダーの、残り少ない日にちをなくして新しいカレンダーと架け替えてしまうのにも躊躇しつつ、今年は本当にいろいろあったなあとつい感慨にふけってしまう。
そして、ぐずぐずしていると掃除が終らないのに、なんとなくブログを更新してみたりする。

こんなことはしていられないのだ。

◇高校のクラス会雑感2017年11月21日 01時20分26秒

このひとつ前の「気ぜわしい夏」にコメントをいただいて、高校の同窓会の流れで私のブログにたどりついたという話を見て、私はそういえば高校の同窓会というものに一度も出席したことがないなと思った。
関東に出てきて30年の月日が経ったが、出身校が甲子園に出たときと、同窓会名簿を作りなおすので連絡先を教えてほしいという連絡だけは、関東にいる私のところにも届いた。
もっとも、名簿を作るから連絡先を教えてほしいといいつつ、実家ではなく当時の住所に郵便で連絡があったのだから、知っているじゃないかという邪推もあったにはあったが、当時はまだ担任だった先生が母校に在籍されていたし、年賀状のやり取りもあったので、個人情報の意識の薄い当時は誰かとつながっていればどこからともなく連絡があったりしたものなのだ。

同窓会は、もともと遠くに住んでいるので、実家に連絡があってもそこでストップしているから、一度もお誘いのハガキを見たことがない。
今年、同じ高校に通った妹が、同窓会の全体幹事を担当すると言っていたが、遠くにいる姉に幹事からの連絡はなかった。

クラス会はというと、出席して良い思い出がひとつもない。
卒業した年の冬に一番仲良くしていた友人が亡くなり、そのお葬式がクラス会のような感じだった。
私は友人の死がショックだったが、お通夜の席で後ろの方から「すんごい久しぶりだよねー」「クラス会がお通夜になっちゃったよねー」という声がいくつか聞こえていて、当時はそれが許せない気持ちだった。
私が怒ってると聞いたクラスメイトの何人かは、申し訳なかったと私の職場にあやまりに来てくれた。

友達の一周忌と三回忌が終ったあたりで、最初と2回目のクラス会をやった。
クラス会があると知った友人のご両親が、クラス会にカンパをしてくださったのだが、担当幹事はそのお金を二度ともうやむやにしてしまったのも許せなかった。
三回忌のあとのクラス会のときには、もう亡くなった友人の話もなんとなくしづらい雰囲気だった。
私は、友人のご両親の気持ちを踏みにじられたような気持ちになり、とても嫌な気持ちだったのだけ覚えている。

3回目に誘われたときは、私はすでに上京していた。
クラス会に誘われたが、なぜかクラスが二分していて、同じ日時に違う会場でクラス会をすると、それぞれの幹事から連絡があった。
何があったのかは知らないが、本筋ではない会の幹事が、本筋に出席する人を勧誘するような行動もあったりして、出席して非常に不愉快な気持ちになったのだ。
そして私は、両方の幹事に「こういう形のクラス会は不愉快なので、これで今後もやるのであれば誘わないでくれ」とタンカを切った。

それから30年、一度もクラス会の連絡はない。
今は二分していた会も一つに戻ったようだが、私のタンカは有効なようだ。
一度だけ、担任の先生が退職されるということで、別な幹事が選定されて連絡があったが、私はお花を贈って出席はしなかった。
思えば、あれが私のクラス会に出席する最後のチャンスだったのかもしれない。
担任の先生もすでに亡くなられているし、関東在住だった人も帯広に戻る人が多く、唯一残っていた人は政治活動を始めたので疎遠にしてしまった。
今、年賀状のやりとりをしているクラスメイトも、一人だけになってしまった。

この年齢になると、ふと高校の頃の友達が頭にうかぶことがある。
夢みがちで変わり者な自分は、クラスにまったく馴染まず、各クラスに話し相手がいて、みんなとそれなりの距離で友達だったけど、その誰とも仲良しではなかった。
休み時間にあちこちふらふらしていた私を、みんな優しくしてくれたが、それは私以外の人がみんな大人だったからなのだろうと今は思う。

グループは違っていたけど、唯一仲の良かった友達はもういない。
亡くなった彼女が生きていたらどうだったろうと思うけれど、卒業してからの彼女は私が帯広を出ることを全力で反対していたので、彼女が生きていたら関東にいる私も存在しなかったかもしれない。
彼女が亡くなって、やりたいことをやらない人生など考えられなかったから行動したのだから。

もしも今クラス会に誘われたら、交通費を払ってでも出席するかどうか悩むだろうなとも思う。
でも、私の高校の思い出の中で、やはり亡くなった友達のことをなしにすることはできないので、今更亡くなったクラスメイトのことを話しにクラス会に出席するのも、どうなんだろうと思ったりする。
クラスの中で私よりもクラスに馴染めなかった彼女が、生きていてもクラス会に出席するなど考えられないので、たぶん死んでからダシにされて思い出話をされるのは嫌だろうなと思ったりする。
私自身についても、楽しかった思い出と一緒に、むかつく思い出も同じくらい思い出すので、やっぱり私はいなかったものとして扱われて正解なのかもしれないと自分を納得させてみる。

そういえば、多少名前の知られた音楽家の友人が、50過ぎて一度も高校のクラス会に誘われないと言っていたのを思い出す。
もっとも、彼は高校の友人達とバンドを組んでデビューしたのだから、世界の違ってしまったクラスメイトよりは、同じ世界のクラスメイトといるほうが自然なのだろうけど。

私も友達の死と上京によって、クラスメイトとは違う世界にいるのかもしれないなと、彼の言葉の中で少し考えたりする。

◇気ぜわしい夏2017年09月05日 03時00分15秒

5月の終わりに、10日間ベルギーに行ってきた。
ベルギーは素晴らしかったが、自分がアジア人であること。
英語圏でない人間であることを、痛感する旅行でもあった。

その旅行記をブログに書きたいと思っているのに、なんだか気ぜわしくてなかなかゆっくり取り組む事ができない。
ブログでやりたいことは沢山あって、数年前に取材してそのまま放置しているものも多い。
でも、なんだかゆっくりと時間をとることができないのだ。

ベルギーに行く前から身体の調子が思わしくなく、5月の終わりだというのに暑かったり寒かったりしていたのは、ブリュッセルに着いてからも同じだった。
5月の終わりだというのに、30度を越す気温かと思えば、20度前後と肌寒い日もあったりした。
帰国してからも関東地方は似たような感じだったので、身体の感覚を取り戻すのには丁度良かったのだが、毎日の気温の乱高下は旅行などしなくても体調を崩すのにはうってつけだった。

6月の終わりに長年の懸案事項だった小腸の癒着に決着をつけるべく、消化器外科のいる病院に直接入り、そのまま手術をしてもらったのは収穫だったが、ちょうど梅雨の暑い時期に病院にいたせいか、退院してからの肌寒さや長雨で、私は夏をすっかり感じないまま終ってしまった。

涼しければ多少なりとも身体も動かしやすいのだろうが、身体にのしかかる湿気は、手術後の体力を奪うには容易で、経過は良いもののなんだかすっきりしない生活を送っている。

何をしているわけでもないのだが、あれもしなければこれもしなければと、気ばかりせいて、結局何もしていない。
早くこの状況から抜け出たいとあせっても仕方がないので、体力が回復するのとあわせて、気持ちものんびりとありたいのだが、なんだか落ち着かない。

ここ数年、何かしようとすると腸閉塞になり、体力をうばわれて何もできないというのが続いているので、行動する準備をするのが先決だと思ったり、このまま何もせずに過ごすのだろうかと思ったり......

早くこんな気ぜわしいだけの状況から、どっちに行こうとも抜け出たいと願ってやまないのだ。

◇腸閉塞入院日記(長文)~手術編~2017年07月19日 18時33分31秒

入院札


そろそろ医療保険の見直しをしようと思っていた矢先に、相変わらずの腸閉塞を発症して入院した。
腸閉塞は一年に何度か起こるのだが、常に「義」とか「亜」とか「サブ」というのが頭につき、完全に閉塞していないという理由から手術せずにやり過ごしてきたのだが、あまりにも頻繁になることで生活にも支障をきたしていた。
いつもは救急で消化器内科のお世話になるのだが、内科じゃもうらちがあかない。今回はいきなり消化器外科にお願いすることで手術をしてもらえることになった。

腸閉塞では何度も入院しているが、今回は入院期間の食事を記録してみたい。
入院期間は15日間だった。
長くなるが、まったりと閲覧してもらえたら幸いである。

●入院1日目~4日目
絶飲食。全ての水分と栄養は点滴で吸収している状態。
体重が4キロ減る。
絶食はもう慣れっこになっていて、あまり辛く感じない。

●入院5日目~6日目
手術前に体力が落ちすぎるのもなんだしーということで、無残渣(胃腸に食べ物のカスが残らないということらしい)タイプの高栄養食のジュースが昼から出る。
高栄養食は、以前やはり腸閉塞で入院中に出されたが、ドロドロで薬くさくて、それをコーヒーとかいちごとかバナナ味でごまかしてあるのがさらに気持ち悪く、とても飲めるものではなかった記憶が蘇る。
栄養士さんが来て、「りんご味と青りんご味とあるけどどちらがいい?」と聞くので、どちらが美味しいか聞くと、どちらもどっこいどっこいであるとのこと。
とりあえず一般的なりんご味を試してみることにする。

昼から出てきたのは、TERUMO「ペプチーノ」という飲料。想像していたのとは違い、さらさらのりんごジュースのような感じだが、りんご味の向こうから顔を出す薬臭さはかなり辛かった。

ペプチーノ表
TERUMO ペプチーノ

アルジネード
ネスレ アルジネード

夜は青りんご味のネスレ「アルジネード」を試す。
こちらはアルギニンが入っており、手術の際の傷の治りを良くする効果があるらしい。
味もペプチーノよりはさっぱりしているが、やはり薬くささは同じである。まだこちらの方が量が少ないのでましという感じ。
とりあえず、5日目の昼だけペプチーノ、5日目の夜と6日の三食まではアルジネードにしてもらった。

5日目あたりから、手術の緊張で夜眠れなくなってくる。

●入院7日目

手術のお知らせ


手術当日。私は朝一番の手術だったので、待たされることなく手術室へ。
背中の部分麻酔と全身麻酔を併用すると、前日に麻酔科の医師から説明があった。
背骨に沿ってまず麻酔をして、そこにチューブを入れる。その後全身麻酔に切り替わり、すぐに意識がなくなった。
手術時間は3時間くらいだったらしい。
手術が終って声をかけられて目がさめたときに一番最初に思ったのは、友人に貸してその後連絡がこなくなっているお金が戻ってくるだろうかという心配だった。

手術後個室に移される。傷よりも腰が痛くて難儀した。寝返りがうてないのが辛い。
痛み止めのせいか、足の付け根から太ももにかけてしびれが強く、特に右が冷たくなっているような感覚。

●入院8日目~9日目
手術の翌日の午後から、4人部屋に移動する。
病棟の西側から東側に歩いて移動する。腰が痛かったので、立っている方が楽だ。
食事は絶食だが、飲水は許可される。
腹には消毒用のチューブ。背中には痛み止めのチューブ。尿パックと点滴がついていて盛りだくさん。

リハビリのため病棟の回廊を歩くように言われる。廊下に出てみると、そんなリハビリをしている人がたくさんいたりする。
9日目から回廊を10周する。寝ているより歩いたほうが楽だ。
足のしびれは、左は歩くことで少なくなっていくが、右はだまっているとぶり返してくる。

●入院10日目
傷は切ったところが痛いくらいであまり辛く感じない。
背中にチューブで入れていた痛み止めがなくなったので、尿パックと痛み止めのチューブが外される。
痛み止めを外したので傷が痛くなるかと思ったが、傷自体はたいして痛くないものの中の膨満感の圧迫感が痛く感じる。痛み止めは錠剤で処方された。
この日は清拭の後シャンプーをしてもらった。

足のしびれはだいぶいいが、やはり右だけ残っている。
冷房の吹き出し口に近い場所だったので、冷えが辛い。

この日の朝から食事が出て、点滴が一日3パックだったのが2パックに減った。
以前アレルギーが出た経験があるので、サバ、カニ禁。
食事の30分くらい前に、とろみのついた味のしない焙じ茶が配布されるようになった。

◎朝食 アルジネード
手術前にも飲んでいた高栄養ジュース「アルジネード」。

スマホで検索してみると、アルジネードにはみかん味ときいちご味もあるようだが、ここの病院では「青りんごよりもまずい」という理由で採用されていないらしい。

◎昼食 易消化食・流動
重湯150g
塩5g
具の入っていない味噌スープ
メイバランス・ミニ コーヒー味
ヤクルト。

重湯には5gの塩がついていて、1/3くらい入れて食べた。他の水物が多すぎて、重湯は半分ほど残す。
味噌スープはシジミ風味のダシが利いているが、塩辛く感じる。
そして、これも高栄養食品の明治「メイバランス」
10年くらい前に入院したときも、流動食の初期段階で出されたのだが、これが超絶にまずい記憶しかない。
味のバリエーションはチョコレート、いちご、コーンスープ、キャラメルなどと様々な展開があるのだが、10年前はあまりにも粘度が高くてなかなか口に入ってこない上に、独特の薬臭があってギブアップした一品。
しかし、今回のメイバランス・ミニは比較的粘度が抑えられて飲みやすい上に、独特の薬臭もうまくカバーされていて飲みやすかった。

メイバランス
明治 メイバランス

◎夕食 易消化食・流動
重湯150g
塩5g
具の入っていない中華スープ
メイバランス・ミニ コーンスープ味
ジョア プレーン
ぶどうジュース100cc

これでもかというくらいの水物。
半分くらい食べると、腹が張ってきて痛くなる。
中華スープはやはり痛いくらい塩辛く感じる。
他のものはすべて食べたが、重湯は半分ほど残す。

●入院11日目
手術後、この日初めて排便があった。
腸は順調に動いている。食事は昼から五分がゆになった。
この日の昼過ぎより、とうとう点滴がはずれて晴れて自由の身に。

◎朝食 易消化食・流動
重湯150g
塩5g
具の入っていない味噌スープ
牛乳200cc
りんごジュース100cc

汁物オンパレード。
牛乳がことのほか辛い。
味噌スープはやはり塩辛い。
重湯は3分ほどしか食べられなかった。

◎昼食 易消化食・5分
11日目昼食
11日目昼食

五分がゆ200g
塩5g
鶏団子と白菜の煮込み
マカロニサラダ(アレルギー対応済み)
バナナプリン

昼から五分がゆに変更。
鶏団子は白菜と春雨が入っていて、スープにとろみがついている。味はやはり濃い目。
マカロニはシェルタイプでマヨネーズが薄くコーティングされているもの。これにアレルギー対応済みの注意書きがされているのだが、本来ならカニカマがつくのかもしれない。
バナナプリンは、最初コーンスープかと思うほどたっぷりと容器に入っている。
味も手作りお菓子っぽくて、これはちょっとテンションがあがった。
しかし、あまりにも量が多くて食べられない。お粥を残してもバナナプリンは全部食べられなかった。

◎夕食 易消化食・5分
11日目夕食
11日目夕食

五分がゆ200g
塩5g
煮魚
かぼちゃの煮物
おひたし(軟)

おひたしはたぶんほうれんそうだと思うが、かなりくたくたに煮つぶされている。
かぼちゃは甘辛く煮たもの。
魚は白身でタラだろうか。とろみのあるしょうゆ味のタレで煮込んだもの。熱を通しすぎて硬くなっている。
おかゆが多すぎて半分ほど残す。

●入院12日目
この日の昼より全粥。全粥を食べ始めると、急に腸が活発に動き出し下痢をするようになった。
便秘よりはましだが、何度もトイレに駆け込むので辛い。
尿パックをとった副作用で、膀胱炎のようになり頻尿にも悩まされる。
この日は手術の傷口に入っていた消毒用のチューブがはずされ、シャワーが解禁となる。

足のしびれは歩くうちに、いつのまにか気にならなくなっているが、まったくない状態ではない。

◎朝食 易消化食・5分
12日目朝食
12日目朝食

五分がゆ200g
のりの佃煮
卵とじ
じゃがいもと玉ねぎの味噌汁
ヨーグルト

この日から味噌汁に具が入るようになった。
また、おかゆには塩だけだったが、のり佃煮がつくようにもなった。
卵とじは玉ねぎとにんじんと鶏のひき肉をだしと卵でとじたものだが、やはり味が濃く感じる。

◎昼食 易消化食・全
12日目昼食
12日目昼食

全粥250g
塩5g
蒸し魚の味噌マヨネーズ にんじんのグラッセと煮たブロッコリー添え
さつま芋の甘煮
おひたし

この日の夕食から全粥。五分がゆと比較してもご飯感がかなりアップする。全体の量が多いので、半分くらいしか食べられない。
前日はかぼちゃでこの日はサツマイモと甘い煮物がおいしい。
蒸し魚はタラだったが、この味噌マヨソースが強烈に塩辛い。つけあわせのブロッコリーに味がついていなかったので、それにつけて食べたがやはり塩辛かった。にんじんのグラッセはコンソメ風味で、芸が細かいと思った。
おひたしは多分ほうれん草とにんじん。くたくたでなんだか判らないくらいやわらかく煮てある。

◎夕食 易消化食・全
12日目夕食
12日目夕食

全粥250g
つくねの照り煮 にんじん、キャベツ添え
卵豆腐
果物(缶詰)

つくねは胸肉のミンチで、とろみのある醤油味のタレがかけられている。付け合せのにんじんとキャベツには、薄く塩味がついている。味は突然薄味になってびっくりする。
卵豆腐もしょうゆ味のとろみのタレがついていて、なんだか同じような味。
果物はりんごとみかんの缶詰。缶詰の果物は一度熱が入って繊維が壊れているので、お腹にやさいしいらしい。しかし、みかんは腹に悪いイメージがあり、全部食べられなかった。
おかゆはやはり半分くらいしか食べられなかった。

●入院13日目
この頃から、食べると蠕動痛がするようになる。胃に食べ物が入ると腸が動き出すのがはっきりと自覚でき、食べ物が腸のどこにあるのかも自覚できる。これが痛くて食が進まない。絶食期間が懐かしく思われるほど痛い。
医師に告げても回復期のよくある症状なのでとりあってくれない。
食事は量が食べられないので、極力たんぱく質をとるように心がける。
便も、朝の最初は普通だが、その後下痢を繰り返すようになる。併せて膀胱炎のような頻尿が起こり、トイレの住人と化す。

◎朝食 易消化食・全
13日目朝食
13日目朝食

全粥250g
塩5g
炒り豆腐
おひたし
麩とさといもの味噌汁
牛乳200cc

炒り豆腐はやはり味が濃い目。おひたしもほうれん草がこれまでよりも多少ほうれん草とわかる状態で出てくる。
味噌汁は麩とさといも。ここの味噌汁は具が入ると塩気が治まるような気がする。
最後に牛乳を飲むのが辛いが、筋肉が落ちて体がポヨポヨなので、せめてたんぱく質をとろうと全部飲む。

◎昼食 易消化食・全
13日目昼食
13日目昼食

全粥250g
塩5g
白身魚の照り煮 カリフラワー添え
菜の花の卵とじ
フルーツヨーグルト

白身魚はたぶんタラ。とろみのあるしょうゆ味のタレ。付け合せがこの日はブロッコリーではなくカリフラワーだった。
菜の花の卵とじはおいしかったが、何故にこの時期の菜の花なんだろうと不思議に思う。さといもなどは冷凍でも売られているが、菜の花はあまり聞かないので栄養的に別な食材はなかったのだろうかと考えたりする。
フルーツヨーグルトはミカンの缶詰とバナナをヨーグルトで和えたもの。缶詰ではない果物を食べたのが新鮮だった。

◎夕食 易消化食・全
13日目夕食
13日目夕食

全粥250g
塩5g
はんぺんのそぼろあん
大根のきんぴら
キャベツの醤油あえ

はんぺんのそぼろあんは、一見大根餅かと思った。食感も大根餅をもうちょっとねっぱりした感じ。はんぺんをこのようにして食べるのは、なんだか新鮮だった。
大根のきんぴらとキャベツの醤油和えは相変わらずの醤油味。

●入院14日目
食事はやはりおかゆを全部食べられない。
膀胱炎がだいぶ治まってきたが、下痢は相変わらず。朝食の後しばらく下痢してあとはぴったりというパターン。
おまけに咳が出てきているのが気になる。咳とくしゃみと鼻かみやタン吐きは、傷に響いて満足にできないからだ。
気づけば病室の他の人も咳き込んでいる様子。
年寄りの入院患者が多く、見舞い時間になると孫が病室に入ってきて騒いだり廊下を走り回ったりするのが気になる。
去年に入院した病院では、病室に小学生以下の子供は入室が禁じられていた。
見舞い客もできるだけ病室には入らず、デイルームなどを利用するような注意をされている。
小学校で手足口病が流行しているニュースもあり、子供の見舞いは極力遠慮してもらいたいと思うが、そういう人に限ってデイルームなどを利用しないのが困る。

傷の痛みがそれほど気にならなくなり、歩くのも普通に歩く事ができるようになる。
連日の猛暑で飲水の量が多くなり、一日1リットルほど飲む。
朝の回診のときに医師から「そろそろ退院」の打診があり、レントゲンと血液検査が実施され、その結果翌日退院許可がでる。

◎朝食 易消化食・全
14日目朝食
14日目朝食

全粥250g
塩5g
そぼろ煮
のりの佃煮
菜っ葉と卵の味噌汁
牛乳200cc

そぼろ煮は豚挽き肉の肉じゃがという感じ。こんにゃくなどは入っていなかったが、にんじんと玉ねぎが入っている。
味噌汁の菜っ葉の素性がわからない。

◎昼食 易消化食・全
14日目昼食
14日目昼食

けんちんうどん(易)
オムレツ ブロッコリー添え
ぶどうゼリー

この日、初めて麺類が出た。うどんと汁が別々に供され、うどんは柔らかく加工されていたが、表面が乾いて固まってしまっている。
別な容器のけんちん汁をうどんのどんぶりにぶっかけるが、汁が少なくて十分にうどんに回らない。
けんちん汁には、腸につまりやすいごぼうなどの食材は省かれており、大根とにんじんがメインの具だった。
オムレツは、メニューにはシュウマイと書いてあったが「アレルギー対応」となって変更されたようだ。
冷凍食品のオムレツにたっぷりケチャップがかかっている。
ぶどうゼリーがバナナプリンについでたっぷりとしていたのが印象的。

◎夕食 易消化食・全
14日目夕食
14日目夕食

全粥250g
塩5g
ハンバーグ ほうれんそうとにんじんのグラッセ添え
大根のコンソメ煮
キャベツのおひたし

ハンバーグは豚肉と鶏肉の合びきだろうか。豆腐ハンバーグのようにも感じるさっぱりさ。ソースはケチャップ。
大根のコンソメ煮はコンソメの風味がなく、ハンバーグなどの付け合せについてくるにんじんのグラッセの方がコンソメ風味が強かった。
おひたしはキャベツだが、前に出てきたキャベツの醤油和えと何が違うのかいまいちわからない。

●入院15日目
この日は退院。退院許可が出るのが遅かったので、午後からの退院とすることにする。
食事は普通食になることがなかったので少し不安だったが、午前中に栄養士さんが食事指導をしてくれた。
しばらくは麺類などには注意。脂っこいものもしばらくは控えたほうがいいので、うどんはいいけどラーメンなどはだめらしい。
根菜は常に注意が必要。あとはきのこ類。
これまで何度となく腸閉塞をしてきて学んだ知識を確認する形となったが、しばらくは病人食のような食べ物がメインになる。
普段、夕食のご飯は100gくらいであると話すと、成人の平均は一食茶碗一杯150gで計算しているとのこと。
おかゆだと、全粥で250gが150gに相当するらしい。
栄養士さんに、炭水化物を減らすのはいいけど、一食100g以下に減らさないよう注意された。

シャワーは解禁になったが、風呂は次の外来受診くらいまでは不可なのもがっかり。

入院中、テレビを見たのは一度きり。1000円のテレビカードで760円あまっていた。
ここの病院は病室でのWEBとメールは許可されているので、主にネットの閲覧をしていたのだが、ふだん契約している3Gを半分以上余らせて翌月繰越にして全部で5.5Gデータがあったが、手術前には2G使ってしまい、500MB補充した。
退院時結局は1.5Gあまっていたので、後半なくならないように注意しながら使用することになる。
ちなみに、WOWOWのオンデマンドの90分番組を閲覧したところ、一気に500MB使用してびっくりした。
その他、Youtube、comicoなどのweb漫画の閲覧がことの他データを使う原因になった。

◎朝食 易消化食・全
15日目朝食
15日目朝食

食パン2枚
りんごジャム
マーガリン
オムレツ ブロッコリー添え
キャベツとにんじんのマヨネーズ和え
バナナ2/3
ジョア(プレーン)

この日初めて食パンが出たので、本当は普通食でもいいくらいなのではないかと思った。
オムレツは冷凍食品のものにケチャップがかかっているが、前に出たときよりも大きかった。つけあわせのブロッコリーは正体がわからないくらいやわらかくなっていた。
パンにつけるのはりんごジャムとマーガリン。ふだんマーガリンを好んで食べることはないが、なんとなく給食みたいでたくさんつけて食べた。
パンは茶色のパンだった。
キャベツとにんじんのマヨネーズ和えにもたっぷりとマヨネーズがついている。この日の朝食は、これまでより脂質が高い印象。
バナナを全部食べるのが苦しかった。

◎昼食 易消化食・全
全粥250g 肉団子の中華煮
かぼちゃの煮物
豆腐と卵の中華スープ

この病院での最後の食事だが、退院で少しせかされていたので写真を撮り忘れた。
おかずは中華系。肉団子の中華煮は、醤油味のとろみのたれに肉団子と白菜、人参が入っているいつものパターン。
中華スープは、最初の具のない中華スープと味が違い、ものすごく味が薄かった。




夫が来て会計をすませ、巣のようになっていた私物を運んで帰宅。
外は猛暑でむわっとしているが、長い間冷房で身体が冷え切っているので、あまり暑く感じない。
久しぶりの車の運転は少し怖かった。

家に帰宅して最初にしたのは、テレビの録画を整理すること。
腸閉塞で緊急入院し、そのまま手術だったので何も準備をしていなかった。
夫にも毎度世話をかけてしまい、しかもこの期間二度も出張に出かけなければならなかったので、感謝に絶えない。

切った小腸は、卵巣膿腫ができているところに癒着して団子になっていたらしい。
はがすときに卵巣膿腫から膿を出して綺麗にしてくれたので、卵巣膿腫もなくなったかっこうになる。
外に出て小腸と癒着していた子宮筋腫は、専門外なのでそのまま。本音を言えば一緒に切ってもらいたかったが、とりあえず小腸の軌道をきれいにしてもらったことで気持ち的にもすっきりした。
心配した足のしびれも、ほとんど気にならなくなり、歩けなくなるのではという心配はまったくの杞憂に終った。

あとは、手術をしたせいで新たな腸閉塞のリスクを減らすべく運動をしなければならない。
私は基本机に座りっぱなしの生活なので、腹が圧迫されてくっつきやすい環境なのかもしれない。
夕方に30分ほど散歩に行き、スクワットなどの簡単な筋トレからはじめている。

体重は残念ながら3キロほどしか減らなかったが、筋肉が落ちて皮がたるたるにあまっている。顔もかなり細くなってしまった。
このまま太らず痩せていくといいなあと思う。

一大決心をして臨んだ開腹手術。吉凶の結果が出るのは老後の話にしたいところだ。

◇入院2017年07月09日 14時02分50秒

ただいま入院中。
コメントにレスポンスできませんので、ご了承ください。

◇観劇のマナーを守れない人は劇場に入る資格はないと感じる2017年04月29日 02時23分33秒

ここ数年、演劇や映画を観る機会が増えている。
隣り町の小さな映画館で、昔の観たかった映画が続けざまに上映されたり、ここ一年ほど地元の演劇鑑賞会に参加しているからだ。

演劇鑑賞会は演劇を観続けることが目的で、自分で観る演目はあらかじめ前の年に決められているので、自由な演目を観ることはできない。
しかし、大きな劇場で公演することがだんだんと難しくなってきている昨今、若い演劇人を育てる環境も厳しく、こういう地方の演劇鑑賞会と相互に協力しながら劇団が育っていくことを参加して知った。
個人的には前衛演劇の方が好みだったりするのだが、新劇も改めて観ると面白いものも多い。毛嫌いしていたミュージカルやオペラも、悪くないと思えてしまう。
こういった鑑賞会に参加することで、今まで知らなかった心境地が開拓できるのも面白いと思えるのだ。

好きな演目かどうかを度外視して、純粋に演劇を観続けるという会に参加する人というのは、当然演劇が好きな人なのだろうと私は思っていた。
そういう人は、演劇という文化を大切にしたい人なのだと思いたい。

それなのに、観劇中に必ず光るブルーライト、そして携帯電話の呼び出し音。
観劇するのに、何故そんなものが必要なのか。
最近はモバイル機器を時計がわりにしている人も多いが、時間もすでに一年も前から決められているのだし、観劇中に時間を気にしなければならない理由もわからない。
そういうマナーの欠如が、演劇をだいなしにしていることが理解できないのなら、それは演劇に対する冒涜であると思う。
そういう人には演劇を観てほしくないとさえ思ってしまう。

去年は最悪な人が隣に座ったことがあった。
二幕目が始まってから遅れて入場したその人は、俯瞰で舞台全体を観たくて後ろの席に座っていた私の横の席に座った。
走ってきたのか息が切れていて、フーフーいっている(これはまあ、仕方がないのかも)。
スーパーの袋をガサガサならしながら、ペットボトルの水を探す音がうるさい。
私は一幕から観ているので冷房の入った会場が寒いのに、扇子をバタバタさせて隣の私まで冷やしてくれる。
あげくに携帯が鳴ると、そのまま出て話し出す始末。
「いい加減にしてください」と思わず声が出てしまった。

この間も友人と映画を観ていたら、友人の隣の人がスマホを取り出して何かを調べている。
画面はLINEの画面だったりする。
友人の隣の隣なのに、目の横がいやにまぶしくて気になって仕方がない。
私の隣の人は、映画の後半の半分たっぷりしくしく泣いて涙と鼻水の洪水と闘っているし(いや、それは仕方がない)、後ろの席の人はいつまでもポップコーンをガサガサしているし、まったく興ざめしっぱなしだった。

演劇鑑賞会のお題目としては、演劇を通じて大切なことを未来につなげていきたいという想いがあるようだが、参加する人がマナーを守るという最低限のことが守れない人が一人でもいる限り、舞台で大切なことを謳っていても意味は半減してしまうということを知るべきだと思う。
それはたとえお金を払って観ている客だとしても、舞台の意味を台無しにする権利などひとつもないのだから。

◇北方領土問題に漠然と考えること2016年12月15日 02時51分03秒

今、ニュースではロシアのプーチン大統領の来日に併せて、北方領土の領土問題の解決に向けての会議が話題になっている。
北海道、特に道東、オホーツク海に面した地域の人達にとっては、並々ならぬ思いがあるだろう。
昔は、北海道の至るところに大きな看板があり、そこには「島を返せ!」という文字があった。
大抵は手書きのペンキ絵の看板だったが、その迫力は尋常なものではなかった。

北海道を離れて暮らし始めると、北海道以外の人達の北方領土に対する意識は道民のそれとはかなり違うことに気づく。
何故、島がソ連の実効支配になったのか、樺太は何故日本の領土ではなくなったのか。
歯舞、色丹、国後、択捉の名前すら知らない人も多い。
もちろん、道民だって全ての人が知っているわけではない。
北海道でも西に行くにつれてその意識は希薄になっているだろうし、今の若い人達は北海道以外に暮らす人達と同じような感覚を持っているのかもしれない。
東西冷戦の真っ只中にいた私達の世代でも、なんとなく漠然とソ連の脅威の前に得体の知れない恐怖を感じていただけだったかもしれない。
北方領土に関するニュースは、頻繁に北海道のニュースになっていたし、日本の漁船がソ連に拿捕されて戻ってこないというのも日常茶飯事だった。

北海道の人が内地のことに無頓着だったりすることもあるのだから、内地の人が北方領土のことを知らずにいたからといって、それを責めることもできないことは承知だ。
それはお互い様なのだ。

北海道では“内地”と呼ばれる土地に住んで、いろいろな土地の人達と出会う機会があった。
その中で、広島出身の人に出会うと半分くらいの人が、私にこう問いかける。
「広島が世界で最初の被爆地であるということはご承知ですよね」

もちろん知っている。
小学校のときにも社会の授業で習ったし、私はエノラゲイの悲劇に関して6年生のときに新聞などを調査して作文として提出してこともある。
広島出身の人は、自分達が被爆地で生まれたことをある種特別なことのように話す。
それは他の地域の人が、広島の悲劇を理解しているかを確認するかのよう。
それは老いて実際に被爆した人ばかりではなく、私達世代の人から若い世代の人もそのような話をするのだ。

あるとき私は多少の疑念を感じて、こう問いかけてみた。
「それではあなたは、何故北方領土がロシアの実行支配を受けており、樺太が日本の領土でなくなったかをご存知ですか?」
当然のように、ほとんどの人は知らないと答える。
中には、そんなことは重要ではないという人もいる。

広島と長崎が世界中で唯一の被爆地であることはゆるぎようもない事実であるし、それは日本にとっても重要な出来事だ。
その地に生まれた人は、そのことを叩き込まれ被爆地に生まれたという意識を学んで世に出るのだろう。
でも、個人的にはある意味とてもうらやましいことだと思う。

もちろん、原爆が落とされたことがうらやましいわけではない。
そのことを世界中の人が知っていることが、それを広島の地に生まれたアイデンティティとして後世に受け継がれていることがうらやましいのだ。

北方領土はどうだろう。
樺太の問題はどうだろう。
「七人の乙女」の話が8月の終戦記念日付近に、何年かに一度放映されたりするが、それが樺太の話だと認識している人は少ないように思える。
「氷雪の門」が映画化されたのはもう50年近く前のことで、稚内にある「氷雪の門」がソ連の樺太侵攻に関わるものだと知っている人と会うことも少ない。
けっこうな年配の人でも、そんなことは忘れてしまっているかのようだ。

北海道の領土問題は、70年間忘れかけては思い出したように、引き出しから取り出して眺めてみる遺品のようだ。
そんな遺品はよその土地の人には興味もないものだろう。
だが、広島が戦争の悲劇によって特別な地になり、その物語は今もまだ続いているのと同じように、戦争を未だに引きずっている土地もあるのだ。

歯舞、色丹、国後、択捉の四島全てを返還することに拘ってきた70年の中で、今回初めて歯舞、色丹だけ分けて返還することも検討されるという話もある。
それでは、これまで拘ってきたものはなんなのか。
帰ってこないよりは、4つのうちの2つでも帰ってきたほうがいいのだろうか。
日本にとって領土問題とはなんなのか。
島に住んでいた人が死ぬのをまるで待っているかのように、話は一向に進展させずにきたのだ。

今回の会談でどのように話が進展するかは興味深いところだ。
それ以上に、この問題がアメリカの基地問題と同じように、他の領土問題と同じように、周知され、認識され、例え無事に島が返還された後でも、このような事実があったということを忘れないようにならないものか。

今回の会談に向けて、そんなことを考えたりしている。

◇実家の押入れ整理2016年11月03日 02時24分28秒

魔法の煙ブックレット裏
魔法の煙についていたブックレット「ミステリーマガジン」

今回帰省した理由の主たるは、押入れの整理だった。
実家を出て30年。
すでに生れ育った帯広よりも外に出ての生活の方が長くなっているわけで、数年前にリフォームした実家に残された青春の残骸をどうにかしろと言われ続けていたのだった。
ミニマリストと化した妹は、惜しげもなく自分の物を処分した後で、残されたものはコレクターである姉のものであると家族は言い張るわけである。

私は高校を卒業して、一度地元で就職してから進学した。
進学を決めたのは19歳の秋のことだったから、家を出る半年前のことである。
当時から物を捨てられない私は、その半年間で思い出のあるものをほとんど家に残してきた。
親からはいらないものは処分するように言われていたが、どれもこれも捨てられない物ばかりであった。
半年くらいで断捨離できるようなものはなかったのだ。
そんなガラクタを私はそのまま放置して上京したのだが、両親は「捨てるな」という私の言葉を忠実に守って、その荷物をそのままにいていてくれたのだった。

押入れには、数年分のMUSIC LIFE、音楽専科、シンコーミュージックのJAM、その他の雑誌、スクラップしていた新聞、映画のポスター、映画やコンサートのチケットの半券、映画のチラシ、旅行先のテナント、キーホルダーなどがぎっしりと詰まっていた。
祖母からもらったお茶箱には、私のつたない落書きが描かれており、その中には当時なかなか買ってもらえなかった漫画雑誌を従姉妹などから譲り受け、中でも気に入った作品を切ってホチキスで止めたものが入っていた。
山岸涼子の「妖精王」や小椋冬美のりぼん時代の作品。
一条ゆかりの「風の中のクレオ」に掲載されている作品は、セリフに今は差別用語とされるものが多用されているせいか、作品集の中にも見かけないものがあったりするので、これは捨てられない。
ジョージ秋山の「ガイコツくん」や「まことちゃん」の初版本などもあったが、まことちゃんは今でも再販されているので、泣く泣く処分した。
日記や手紙の恥ずかしいものは処分したが、雑誌はすでに廃刊になって久しいものも多く、捨てるには忍びなかった。

本来であれば1週間じっくり時間をかけて中身を確認しようと思っていたのだが、私が帰省する日の前々日に父が腸閉塞で緊急手術を受けることになり、今回の帰省は結局お見舞いになってしまった。
母と二人で朝に病院に行き、食事をして帰るとすでに午後2時くらいになる。
なかなか進まない断捨離作業は、結局は全て終えることができずに終了した。

結局、雑誌の目次を見て気になる記事のものだけピックアップしたが、MUSIC LIFEは全て処分した。
音楽専科は、80's全盛期はJAPANをはじめとしたニューウェイブからニューロマンティックスへの流れにシフトしていったが、70年代後期あたりはまだまだ日本のニューウェイブにも注目していて、それらの記事の中でめぼしいものは同じくコレクターの友人に進呈した。
それでも、自分でも残しておきたい記事のものや、JAMは全て保管要員となった。

そういうわけで、実家の押入れから出てきたお宝(ガラクタ)を送料かけて自宅に送ったのであった。
その中でも、よくこんなものが残っていたなと思うものの一つが、冒頭のミステリーマガジンである。
随分久しぶりのブログ更新だが、今回はお金を出して自宅に送り、夫に「どうすんの?これ」と呆れられたお宝(ガラクタ)について触れたいと思う。

◇夫の手作りクッキー20162016年03月24日 03時14分22秒

2016年のくっきー
2016年のクッキー


少し前の話になるが、今年のホワイトデーのクッキーも夫の手作りだった。
夫はホワイトデーをすっかり忘れていたらしく、前日になって「今年もクッキー作ってくれるの?」と聞くとびっくりした顔をして「忘れていた」と言った。
今年のホワイトデーは月曜日だったが、ちょうどその日は夫が出張で留守にしていたので、クッキーは13日に作られた。
レシピは今年もNHK BSプレミアムの「グレーテルのかまど」で見た『桐島かれん・洋子のフローズンクッキー』
去年は有塩バターを使用して更に塩を加えたせいか、少ししょっぱいクッキーだったが、今年は無塩バターをわざわざ買いに行ったらしい。

今年の変り種はのり+ゴマ。
これはなかなかのヒットで、焼きたてだとあまり感じないが、冷えてくると風味が楽しい。
それと、うちで採れた金柑のクッキーとココアクッキーの三種類。
去年の変り種は昆布だったが、のり+ゴマの方がいいと思う。

クッキー種は冷凍しておけるので、まだまだ楽しめるらしい。
写真のクッキーは13日ではなく2度めに焼いたときのもの。
13日のはうっかり写真を撮り忘れたのだった。

私も今年のバレンタインには、ガトーショコラを焼いてふるまった。
一度手作りしてしまうと、手作りの楽しさにはまってしまう。
自分のためと相手のために作るのは楽しい。

◇寸詰まりのチューリップ2016年03月12日 05時35分43秒


購入3日目

近所のJAでチューリップの苗が売られていたので、なんとなく一個購入して平たい鉢に植えてみた。
最初から葉からつぼみのようなものが出ていたのだが、3日目から頭を出し始めた。
しかし、なんとなく私の知っているチューリップとは違う。
チューリップって茎が長いんだと思っていたのだが、どうもこれは茎がないようにさえ見える。
私が買ったのはクロッカスだったのだろうか?それにしてもおかしい。



購入4日目

購入4日目になると、つぼみはますます膨らんでいるのだが、茎らしきものがますます見当らない。
調べてみると、寒さに十分にさらされていないチューリップは、茎が短いまま花を咲かせてしまうようだ。
2月も後半は暖かかったせいか、このチューリップは十分に茎を育てることなく花が咲いているようだ。



購入5日目

5日目になると、本の少しだが茎らしきものが顔を出した。
しかし、十分な長さにならずに花を咲かせそうな勢いで成長をしている。



購入6日目

花が咲いたのだが、茎は短いまま。
なんかこれもまあかわいいといえばそうかもと納得することにした。





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