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◇稚内観光協会のハッピーゴマちゃん2006年09月13日 03時03分44秒

ハッピーゴマちゃん。
マトリョーシカとストラップ。



つい最近のニュースで、キューピーから出ている「かけるパスタソースたらこ」のCMに出てくる「たらこキユーピー」が人気である、と書かれているのをちらほら見かける。世の中どうやらキグルミブームらしい。たらこキューピーのCMソングは、オリコンで2位になっているらしい。

あちこちの観光地では、数年前からお土産物屋でご当地キャラのキグルミを着たキューピーやキティちゃんなんかも見かけたりする。
北海道の阿寒湖だったら、まりもをかぶったキユーピーなんかもいたりする。
ちょっとほしいと思ったりすることもあるが、絶対に使うことはないだろうと思うので今までこの手のものを購入したことはない。


稚内商工会議所「ハッピーゴマちゃん」
稚内商工会議所のハッピーゴマちゃんストラップ
ハッピーゴマちゃんのロシア製のニセモノ
ロシア製“ニセモノ”ハッピーゴマちゃんマトリョーシカ
「稚内へようこそ」とロシア語で書いてある。
ロシア製マトリョーシカの裏。
ロシア語で「稚内へようこそ」と書いてある。
今回、法事で稚内に三年ぶりに行ったのだが、稚内では冬期の観光客獲得のために「ハッピーゴマちゃん」なるキャラクターを作成したらしい。
色は黄色と青とオレンジの三色。冬に稚内沿岸に姿を見せるアザラシが、ロシアとの国境の町でもある稚内のお土産物屋に必ずある、ロシアのこけし人形マトリョーシカのキグルミを着ている。そして、それぞれが大沼の白鳥、ゴマフアザラシ、稚内沿岸で見られるフウセンウオを持っているのだ。写真では見えないが、ちゃんとしっぽもついている。足の裏にはひらがなで「わっかない」と書かれている。

稚内市内でも、一部のホテルでしか販売していないらしく、市内のお土産物屋でも置いてある店はまだ少なく少し残念だが、このキュートさに悩殺されてしまい即効で購入した。色が落ちるため使うつもりは今の所ないので、茶だんすの上にかざってある。

稚内観光協会HPのブログによると、このキャラクターのグループ名を公募してこの一月に「ハッピーゴマちゃん」に決定したとのことだ。

ストラップは稚内観光協会のものらしいが、フェリー乗り場から市場へ向かう途中の新しくできた「うろこ市」なるお土産物屋で、ハッピーゴマちゃんマトリョーシカを発見した。人形は3体で、一番大きいのにゴマフアザラシ、二番目に白鳥、三番目がフウセンウオなのかどうか不明な魚を抱いている。抱いているというよりは、「貼り付いている」といった方が正しいかもしれない。一番大きい人形の裏にはロシア語で「稚内へようそこ」と書かれている。

察するに、これはハッピーゴマちゃんを模して、サハリンかどこかで作られたものらしい。顔の造形もストラップから見ると少し雑な感じもする。私が買ったハッピーゴマちゃんマトリョーシカは、ちょっと困った顔をしているように見えるが、これはこれでかわいらしいので許すことにした。
それにしても、このマトリョーシカがロシア製のまがい物だとすると、一月にグループ名が決定したばかりなのに、すでにコピー商品がでているとは恐るべしハッピーゴマちゃん。

稚内は、数年前までは東京からの冬期の飛行機がなかったり、旭川から北では電車が通らずディーゼルエンジンの汽車しか走っていなかったせいもあり、札幌からも汽車で8時間もかかっていた。私が最初に行ったときは、千歳からYS機(プロペラ機)が飛んでいて、落ちるのではないかという恐怖の振動とともに稚内に降り立ったのを覚えている。

今では一年を通して東京からの飛行機も飛んでいるし、札幌からも特急が走るようになったので、昔からくらべると格段にアクセスしやすくはなっている。

夏場は利尻・礼文の自然や北海道最北端の温泉を目当てにした観光客でにぎわっているが、それでも冬期には観光客は激減してしまう。冬場は北海道の内陸よりは気温的には暖かいものの、北緯45℃の冬の気温は内地(本州)からは比べ物にならないものだし、稚内の冬の地吹雪は下手をすると目の前が見えなくなるので、土地の人でも閉口するのだ。

それでも、流氷着岸の最北端の土地だったり、冬には海岸にあざらしが来たり、空港近くの大沼ではたくさんの白鳥が土地の人の努力で飛来するようにもなった。
個人的には、流氷以前に港の海自体が凍り付いているのもなかなかの見物だと思ったりする。

冬のかんかんに凍った空気の中で見る夜空はそれはそれは綺麗だし、月夜の日はしんとした空気の中で雪がかちかちと凍る音だけが響いて、月の光が本当に凍りながら落ちてくるようにさえ感じる。
冬の晴れた日には小高い丘からサハリンが見えたりもする。夏よりは冬の方が島影がはっきりと見えるようにも思う。

坂の下に行く途中の展望台から見る利尻富士も、冬の夕焼けの中で見る島影は冬は空気が澄んでいるせいで、夏とは比べ物にならないほどはっきりと見える。

稚内に限らず、北海道は冬が一番美しいと思うのだ。

数年前には、市で助成金を出して東京発の「タラバガニ食べ放題と日本最北端の温泉ツアー 一泊二日29,800円」というツアーもあったりしたが、やはり春や夏のようなさわやかさにかけるためか、いまいち成果は上がっていないのではというのが地元の人の見方らしい。
確かに冬の稚内は、観光客の姿はほとんど見えず、老人とロシア人ばかりが町中を歩いているのだ。

春や夏の花の季節の稚内もすばらしいが、ハッピーゴマちゃんの町起こしで冬の稚内にももう少し観光客が来ればいいのにと思ったりする。


稚内観光協会

ハッピーゴマちゃんグループ名決定

たらこキューピーCM

◇十勝の風景2006年07月29日 02時27分03秒

北海道の風景の夏のイメージとしては、広大な牧草地に青い空とかそういったものがあると思うが、十勝の風景は北海道の風景そのものだと思う。
十勝に限らず、牧草地だとか畑が延々と続く風景は、北海道の郊外であればどこにでもあるが、十勝の空はいつまでも眺めていてあきない。
十数年前のAERA(朝日新聞社)に、十勝という土地は晴れが大変多い土地だという記事が載っていた。私が子供の頃は、確かに長雨といっても数日降るのがせいぜいで、数週間も晴れのない日が続くことは考えられなかった。最近では、気象の変化のせいか、長く晴れがない日もあるようだが、十勝の晴れの日は空が広く広がっていて、雲がさまざまな時間帯で色々な表情を見せてくれる。
自分の生まれた土地の風景であれば、誰でもそう思うのかもしれないが、十勝の晴れの風景は特別なのだと思っているのだ。

帰省したときは、帯広市内から空港までの間に続く田園風景を眺めていくのだが、ここの景色が私はとても好きだ。
なだらかに広がる丘陵地帯には畑が延々と続き、道をはさんだ反対側には広く畑が広がり、遠くには日高山脈が見える。
春の夜であれば、凍る月の光が青く落ちてきて、しんとした暗闇からきしきしとどこからともなく聞こえる音は、月光の音のようにさえ感じる。
夏の夕刻であれば、低い場所にある雲がその影を落としている。
秋の日暮れには、日高山脈がどこまでも赤く照らし出され、東の空には大きな月が顔を出している。
冬の朝には、延々と続く白い大地に湯気が立ち篭めている。

上京した当時は、東京の大きさを新鮮にも感じたが、空の狭さと空気の汚さには辟易し、半年で身体の具合が悪くなった。澄んだ帯広の空気が懐かしく思った。
今では、帯広の人にとって私は「内地の人」あるいは「東京の人」(帯広の人に限らないかもしれないが、東京近郊に住んでいる人のことを帯広の人は「東京の人」という呼び方をする)であり、すでにここは私のいた場所であっても、私のいる場所ではないのだとつくづく感じてしまうのだが、この景色を見ると、今でも自分は風に吹かれてここに立っているような感覚に襲われてしまう。

◇20年前の帯広駅前2006年07月15日 04時43分58秒

1986年当時の帯広の北側駅前。
青い色の場所は、これまでの記事に登場した店。赤い色の場所は良く行った場所。
画像をクリックすると大きな画像が別ウインドウで表示され、当時のお店の説明がでてきます。

 

 
   
  2006年現在の西2条通り。
平日の夕方5時というのに、車も人もほとんどいない。
   

このblogをはじめた当初、自分の原点である帯広の町のことから書きはじめたのだが、懐かしく思うのに名前が思い出せないお店や、すっかり忘れていた場所などがかなりあることがわかった。それで、当時の記憶をはっきり思い出すヒントになるのではと思い、帯広図書館で1986年当時の帯広駅前の住宅地図を入手した。
 入手した地図をそのまま掲載すると簡単なのだが、著作権の関係からコピーするのにも、ページの半分までという規定があるらしい。その地図を起こした人と連絡をとるわけにもいかないので、自分で地図を起こしてみることにしたのだ。

帯広の町は、町を造るときに京都を参考にしたとされるだけあり、碁盤の目のような構造なので、比較的地図には起こしやすい。
 1986年当時はまだまだこのへんは「まち」と呼ばれていた地域で、一番の繁華街だった。
 帯広は、大手企業の新商品の販売モデルタウンにもなっており、商店街の形式もこの当時はショッピングセンターや百貨店形式の店鋪よりも、専門店が多いのが特徴とされていた。 入手した地図には、建物一つ一つのお店の名前が掲載されていたが、いちいち記入するのが面倒だったので、自分の思い出深い場所と、目印になるような場所だけ記入することにした。
 西1条通りの東側に大通りという国道が走っており、その東側は飲み屋街とホテル街、そして住宅街へと移行していく。
 中心地となる「まち」と呼ばれる地域は、西5条通りと南9丁目通りまでが繁華街で、その先は商店と住宅地が混在する地域になっていた。
 条のつく東西に延びる通りは、それぞれメインストリートになっており、その東側に裏通りがある仕組みである。駅からまっすぐ延びる西2条を中心として、西側には商店、東側と裏通りには飲み屋街が多く存在するのは、現在でもあまり変わらない。
 ただ違うのは、現在はメインストリートが閑散としていて、テナント募集のビルが目立ち、西2条通りには人がほとんど歩いていないのだ。20年前には、このへんは一般の企業も多く入っており、平日の夕方の5時頃には買い物帰りの人や学生が家路につくバスを待つ人でいっぱいだった。
 今でも、飲み屋街だけはにぎわっているようなので、もう少し遅い時間だと人が出てくるようになるのだろうと思う。

帯広は、線路を高架化すると共に、それまでほとんど何もなかった駅の南側の開発により、図書館やホテルが南側に移動してしまった。また、それまでは西2条通りで地味な存在だった長崎屋が、駅の南側に大きなショッピングモールを構えたため、帯広の「まち」は一気に南側に移行してしまったのだ。
 それに伴い、西5条にあったイトーヨーカ堂が南側郊外に移転したのをきっかけに、帯広市内の大手スーパーがこぞって郊外型ショッピングモールを展開し、買い物をするのにいちいち「まち」に出て行かなくても良くなってしまった。

学生時代は長期の休みに帰省することができたが、仕事をするようになると往復7万円近い交通費を捻出するのは難しく(当時は安い航空券がなかなかなかった)、しばらく帰らないでいるうちに帯広は私の知らない街になってしまった。
 人が大きく変わっていくのもちょうどこの時期で、その頃の私の故郷に対する喪失感は相当なものだったのを覚えている。
 このあたりは今でも「まち」と慣例的に呼ばれてはいるが、昔の「ちょっとおしゃれしてお出かけする場所」という意味ではなくなってしまった。
 今このあたりにいるのは、テレビを見て駅前のぱんちょうの豚丼を食べようとやってきた、観光客だけのような気がする。
1986年当時の地図を起こすにあたり、本当なら南8丁目あたりまで作りたかったのだが、あまりにも巨大な地図になりすぎるので断念した。
 西2条南8丁目周辺には、六花亭の本店もあるし、劇団しらかばの本拠地(?)であったスケアクロウもあったが、掲載することができず残念である。

 

 
今も昔も変わらない、かじのビルの入口   マルヒロセンター入口看板

 

 
現在のかじのビル外観  

それでも、すでになくなってしまっていると思われていた、かじのビルと「西2条通りの廉売」マルヒロセンターは未だ健在であった。しかし、かじのビルは一階には昔からあった食器屋一店があるだけで、1986年当時あった魚屋や乾物屋などの店鋪はもうなく、閑散とした中に「懐かしの昭和展」なるものを展示してあり、ちゃぶ台に茶箪笥、足付きテレビといった昭和当時の再現ディスプレイがあった。Piccoのあった2階はサラ金が入っているようだった。
 マルヒロセンターは、西2条に面した入り口に、昔からある博多屋という靴屋があるだけで、年寄りのおしゃれの店が並んでいた場所はほとんどテナント募集中であった。ところどころに、新しい飲み屋が入っており、マルヒロセンターを抜けて西1条の裏通りに出ると、最近帯広で話題だという屋台街に出る。屋台街には、昔ながらの一杯飲み屋風の店から、中国人による本格中華、イタリア料理屋、ブラジル料理屋(?)などめずらしいお店も並び、おいしそうな匂いがただよってくる。この次帯広で遊ぶ時間のあるときは、是非立ち寄ってみたいと思った。そして、ここを中心にまた帯広の「まち」が活気を取り戻してくれるといいと思う。
 マルヒロセンターも、この屋台街の延長として新しく変わろうとしている最中のようで、帯広の「まち」が誕生した当時からあるマルヒロセンターが、そのきっかけを作るかもしれないと思うと、なんとなく感慨深いものを感じた。

◇北海道日高のししゃも寿司2006年07月12日 06時28分08秒

味処 西陣のIC開通記念ランチとししゃも寿司
味処 西陣のIC開通記念ランチとししゃも寿司

日高の二風谷に行った帰り、すっかり昼食を食べ損なった私達は、平取町から国道237号線を南に移動していた。
二風谷から富川までの間、気のきいた食事処などまったくなく、町のはしっこを通りすぎるだけである。
237号線から235号線にぶつかる三叉路の手前に富川町があり、ちょっとした商店街があったので、そこで食事をすることにした。2時近くなっており、ランチ終了にはぎりぎりの時間だ。

いくつか店がある中で、私達は「ししゃも寿司」の大きな看板が出ている「味処 西陣」という寿司屋に入ることにした。
「ランチの時間はまだ大丈夫でしょうか」と声をかけると、時間ぎりぎりなれどお店の人は快く受けてくれた。

日高では、札幌方面に向かう高速道路が開通し、近くにICができたらしく、西陣では「IC開通記念ランチ 700円」をやっていたので、ランチを一人1人前づつとししゃも寿司を三人で一人前だけ注文する。

しばらくして出てきたお盆を見てびっくりした。
手前にある突き出しに、ししゃもの寒露煮、なめこ漬け、日高昆布の佃煮。
まん中には、天主が言うには幻の魚で普段はまかないに出しているという、おおばかれいの煮付け。
そして右上にはかれいのフライと、卵焼き、デザートのすいか、左上にはおひょうとつぶ貝のさしみ(つぶ貝は一人一個!)。
お盆に乗り切らないテンプラは、えびとししゃもとなすである。
これにご飯と味噌汁がついて700円(この他にも2品ついていたのだが、何がついていたのか失念した。とにかく盛り沢山だったのだ)。
ししゃも寿司も7貫ついて700円である。
この時期はししゃもの時期ではないので、ししゃもは冷凍ものだということだったが、それでも本場のししゃもは大変おいしかった。樺太ししゃもとかいうニセモノとはまったく味が違うのである。とにかく味が濃い。
普段ただ焼くだけでしか食べたことがないししゃもが、生で寿司で食べられるということに、富川まで我慢して本当によかったと、同行した父と母も大満足である。また、ししゃもはテンプラにしても甘露煮にしても美味しいという、新しい発見もあった。

それにしても700円…。ちょっとした市街地だったら、1500円でも納得できる量と質である。安すぎる値段と、そのおいしさに、大満足の昼食であった。

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味処 西陣
門別町富川北1丁目1-8
午前11時〜午後9時
水曜日定休

◇萱野茂 二風谷アイヌ資料館2006年07月05日 00時56分47秒

萱野茂二風谷アイヌ資料館前にあった看板

萱野茂二風谷アイヌ資料館前にあった看板

二風谷アイヌ文化博物館から国道237号線を挟んだ林の中に、萱野茂二風谷アイヌ資料館がある。
 萱野茂さんは、子供の頃祖母のユカラを聞いて育ち、アイヌが差別に苦しみそのアイデンティティを失っていた頃、登別で観光アイヌ(観光地でアイヌの民芸品などを売って生計をたてていた人たち)をしていた時に、アイヌ語の研究で北海道を訪れていた金田一京介氏と出会い、アイヌ文化の継承と保存に尽力した人である。アイヌ民族で初めて国会議員になり、アイヌ研究で博士号も取得した。惜しくも先日亡くなられてしまった。
 その萱野茂さんが、故郷の二風谷でこれまでの研究成果を資料館として残したのがここだ。

 
 
萱野茂資料館に
展示されているムックリ

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入口には「あなたの家から ここまで来るのに10万円 入館料は400円 時間がありましたらどうぞ!! ご入館ください」という看板が立っている。アイヌの人は明るくユーモアのある人が多いが、これも萱野さんの人柄が忍ばれる看板だ。
 小さな資料館だが、アイヌの生活用具から萱野茂さんが生涯をかけて編纂したアイヌ語辞典などが、所狭しと展示されている。アイヌの衣装も、コタンごとに違う紋様を地域別に分けて展示されていて、とても興味深い。

ムックリも数本まとめて展示されていた。その説明文には、「アイヌが持っている楽器は少ない中で、楽器らしいのはこれだけですが、人に聞かせるというより、その音色を自分で楽しむものでした」と書かれている。
 資料館の奥には広いホールがあり、壁にはアイヌの様子が描かれた絵画がかざってある。その中でも、ムックリを演奏する女性の図が圧倒的に多い。

 アイヌ語は聞けば聞く程、メロディアスで、普通の会話でさえ歌っているかのようだ。文字を持たなかったアイヌの人たちは、自分達の文化を語り(ユカラ)に託して後生へ伝えたらしい。ユカラもまた大変メロディアスだし、シントコの蓋をたたきながらリズムをとって歌を歌ったりというものはあったようだが、ムックリでさえごくごくプライベートな相手とのコミュニケーションの道具であったことを考えると、アイヌの音楽というのは楽器というよりは歌を中心としたものなのだろうと想像する。
 あくまで推測の域をでないが、神話などを読んでも、一度口から出た言葉は翻すことはできないという教えが何度となく出てくる。厳しい環境の中で人と人、あるいは人と神(自然)との契約がいかに重大なことかということを表しているように思う。 日常の会話や言葉のコミュニケーションを大切にしてきた民族だからこそ、楽器よりも人間が直接奏でる「歌」を重要視してきたのではないだろうか。

 二階には、カナダ、ロシア、中国、インド、アフリカ etc...の世界の民具が展示されている。どれも有志で集められたものらしく、目新しいものはあまりなかったが、鮭の皮で作られたマオカラーの中国風の服が印象的だった。アイヌ民族は、黒龍江沿いに住む民族と交流があり、その文化も酷似しているが、その周辺の民族のものだろうか。説明がないのではっきりしたことはわからない。

2階展示室の中央のケースには、世界の口琴も展示されていた。イタリア、欧州、フランス、中国、フィリピンなどの口琴があった。
 しかし、イタリアの口琴とされているのは、カザフスタンかキルギスタンの口琴のように見えるし、フランスの口琴とされているものは、どう見てもオーストリアの口琴にし見えない。フィリピンの口琴「クビン」は、ミンダナオ島のチボリ族のものと説明があるが、これだけなぜか口琴ではなく「ムックリ」と表記されている。こういう表記のひとつをとっても、口琴がいかにマイナーな楽器であるかがうかがえる。

帰宅してテレビをつけてみると、NHKで以前放映した萱野茂さんの番組が再放送されていた。資料館の横にあるチセの前でインタビューを受けたものだ。資料館にいったばかりだったので、萱野さん話していることが、資料館を見ただけではわからないことの補足になったようで大変面白かったが、突然のことで録画をするのを忘れてしまったのが悔やまれる。

 
カザフかキルギスの口琴のように思える
イタリア共和国の口琴
欧州の口琴
 
Please click the image.
     
 
オーストリアの口琴だと思う
フランスの口琴
フィリピンのムックリ「クビン」

 

萱野茂二風谷アイヌ資料館
http://www.ainu-museum-nibutani.org/html/sryo0N.htm

◇二風谷アイヌ文化博物館2006年07月04日 23時13分58秒

二風谷アイヌ文化博物館で出会った猫

二風谷アイヌ文化博物館で出会った猫

 


二風谷工芸センターでもらった、
二風谷アイヌ文化博物館周辺マップ
Please click the image.
   
 

ソフトクリーム

2006年6月27日、帯広から日高方面に日帰り旅行に行った。

今回の目的は、平取町二風谷にあるアイヌ民族の博物館に行くことだ。二風谷にはアイヌ文化博物館をはじめ、アイヌ語の第一人者でアイヌ民族で初めて国会議員になった萱野茂さんの資料館、アイヌ民族の文化に深く関わってきた沙流川歴史館、スコットランドの医師で、アイヌの研究に尽力したマンロー博士の記念館などがある。

帯広の実家から国道38号線を抜け、日勝峠を抜ける。天気はあいにくの雨で、底冷えのする小雨が降り続く。峠に近くなると、雨は霧に変わり、数メートル先が見えない。
 私の知っている日勝峠は、道が狭く下手をすると崖から落ちそうな道だったが、さすがに20数年前から比べると道はずっとよくなっており、霧でもゆっくり走れば怖いことはない。
日勝峠を抜けるとにわかに晴れてきて、山の緑がまぶしい。途中ドライブインに寄り、ソフトクリームを買うのは旅のお約束。同行した母は夕張メロン味、私はミルク味を食べた。濃厚で大変美味しい。

道に沿って沙流川の清冽な流れがあり、中流のダムまでは高原の景色が美しい。
山を下るにつれまた天気が悪くなってきた。
 信号がほとんどなく、途中日高町の商店街に入るまではほとんどノンストップで入ることができる。スピードがだせないだけで、高速道路など無意味だとしみじみ思う。

国道237号線に入り、沙流川に沿って南下していくと、アイヌの工芸品などを販売するお店がちらほら目につくようになる。帯広の自宅から2時間ちょっとで、平取町二風谷に到着した。

駐車場に車を入れると、二風谷工芸センターの前にひとだかりがあり、学生風の人たちが猫をかまっている。どうやらここのマスコットらしい。
 工芸センターでは、アイヌ民族の工芸品の体験をすることができる。入口付近では最近製作されたらしいみごとな工芸品が陳列されており、奥の部屋では観光客が木彫りのアイヌ紋様彫りの体験をしていた。
 受付の女性に「ムックリを売っているところはどこでしょうか」と尋ねると、「ここいらのムックリはみんな阿寒からきているものなんですよ。二風谷ではムックリ作る人が少なくなっていてねぇ」と話しながら、近辺の民芸品店の説明をしてくれた。
 ムックリは我が家に数本あるが、その全ては阿寒のムックリ製作者「鈴木紀美代さん」のものである。今回の旅行で展示のチセ(アイヌの人たちの住宅)の前でムックリでも演奏し気分にひたろうと思っていたのだが、うっかりして口琴を持ってくるのを忘れたのだ。
 せっかくの旅の思い出に二風谷産のムックリを購入したかったが、阿寒産しかないと言われちょっと残念に思う。

教えてもらったお店の中から手短かな民芸店に入り、「ムックリありますか?」と尋ねると店頭にあるムックリを見せてくれたが、どれも弁ががたがたで品物が良くない。一本一本吟味する私に、お店のおばさんは「ムックリなんてどれも同じだよ」と言い放った。その言葉に、アイヌ文化を伝える気持ちが感じられず、がっかりしてその店を後にした。

 

二風谷アイヌ文化博物館

気を取り直してアイヌ文化博物館に行く。
 思ったより小さい博物館だが、博物館のわきには何棟かのチセもあり、イベントの時などはこのチセの中でアイヌの伝統儀式を見ることができるらしい。残念ながら、この日は何もイベントがないようで、チセの扉は鍵がかけられてた。
 受付を抜けると、「伝承サロン」というステージがあり二風谷のアイヌの歴史を綴ったビデオが放映されている。展示室は、「アイヌ<人々の暮らし>」「カムイ<神々のロマン>」「モシリ<大地のめぐみ>」の三つのスペースに分かれており、アイヌ語を簡単に学べる音声機などアイヌの文化を解りやすく展示されている。

興味深かったのは、アイヌの暮らしを記した文献などの写真やイラストを大きく展示してあることだ。
 アイヌの口琴ムックリは、女性の楽器である。女性が愛の意思表示をする時に使用されたロマンチックな楽器である。写真におさめられているのは、何かの儀式の時のものらしいが、口の周囲に入れ墨をほどこしているのがアイヌ女性の特徴でもある。
 一番右のイラストには、左上にムックリについての説明が簡単に書かれており、左下のイラストの横にムックリの演奏方法が説明されている。

   
二風谷アイヌ文化博物館に展示されている、ムックリ関連の画像
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重要有形民俗文化財指定のムックリ
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宝石のように展示されるマキリ
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アイヌゾーンには、ふだんの生活に必要な民具や彫り物、コタン(村・部落)ごとに異なるというアイヌ紋様の刺繍がほどこされた服などが飾られている。その中に、国の重要有形民俗文化財指定のムックリが展示されていた。今のムックリと違い、比較的細身に作られている。
 以前、横浜でマンロー展が行われた時にも展示されていたが、マンロー展に展示されていたものの方が細身で小さかった。演奏時に本体を固定するための糸(ムックリの本体にある糸)もマンロー展のものは存在していなかったが、重要有形民俗文化財のムックリは、この糸が存在している。よく見ると、糸は後からつけられたもののようで、新しいものだ。現在のムックリは本体を固定する糸があるので、糸をつけかえる時に現代のものに近い形にしてしまったのだろうか。それとも、糸のあるものとないものが存在するのだろうか。

アイヌの生活用品には、日本のそれととても近いものがたくさんある。食器を収納する「シントコ」はお雛様のお道具にも見られるものだし、小刀「マキリ」は北海道の一部で同じ呼び名が一般的に使われている。
 特に、マキリは狩猟民族であるアイヌの道具としては大変重要なもののようで、美しい彫刻を施したマキリがまるで宝石のディスプレイのように展示されているのが印象的だった。

博物館の受付の人に先程行った民芸店での対応を話し、「鳴るムックリを売っている店を知らないか」と尋ねると、「だったら、北の工房つとむに行ってみるといいですよ。私の名前を出して紹介されたと言えば、きっと良いムックリを見てくれますよ」と教えてくれた。さっそく「北の工房つとむ」へ行き、「博物館のKさんの紹介で来たのですが、鳴るムックリがほしいのですが」と話すと、お店にあるムックリを全てだしてきてくれ、「自由に音を試すといいよ」と言って、弁のけずりなどを一緒に見てくれた。
 ここでは、ムックリの製作体験などもやっているようだが、「実際にお店で売っているのは、阿寒のものなんだよ。二風谷のアイヌもだんだんと数が少なくなってきて、私くらいの人間が若手と言われるんだよ」と、私より幾分年上かと思われるお店のご主人は話してくれた。
 いくつか音をためさせてもらい、良く音のなるムックリを2本購入した。「製作体験があるということは、削る前のムックリもあるんですか?」と尋ねると、それも分けていただけるとのこと。体験工房の方で、竹の具合のよさそうな、調整前のムックリを2本選んで購入した。製品になっているのは500円、削る前のは350円だった。

「北の工房つとむ」のご主人と奥さんと20分ほど話をして博物館に戻ると、博物館の扉の前に観光客にかまわれていた猫が座っていた。中で両親を待たせていたので、扉をあけて中に入ろうとするとついてこようとする。ちょっと追い払って中に入り、両親と共に再び外に出ると、猫は私達を待っていたようについてくる。博物館前のチセを見学していると、自分がさも案内係のようにずっと同行してくるのだ。
チセの前での記念写真でも一緒に写っている。

 
チセを案内する猫
 
記念写真も一緒に
Please click the image.

 

二風谷アイヌ文化博物館HP
http://www.ainu-museum-nibutani.org/html/haku0N.htm

◇アイヌ民族への差別に思うこと2006年07月04日 17時38分42秒

アイヌ民族の口琴「ムックリ」
アイヌ民族の口琴「ムックリ」


今回の旅の目的の一つに、アイヌの文化を閲覧できる博物館に行くというのがあった。
私が小学校の頃、クラスにアイヌ出身の子が数人いたが、アイヌであるという理由でいじめられていた。私はそれまでアイヌ民族の存在を知らなかったので、小学校一年生にして初めてアイヌの人たちと接したわけだが、何故いじめの対象になっていたのか判らなかった。ただ、子供の多くがそうであるように、私も他の人と同じようにアイヌの人たちを差別の目で見てきたことは確かなのだ。

私が北海道を離れる前に、私の祖父母が何故北海道に入植してきたかという話を、今は亡き母方の祖父から聞いた。
戦時中の苦しい生活の中で、産まれた土地を捨て北海道に新天地を求めて移住した話は、私は大変良い話のように思えたが、その時は北海道に移住した多くの入植者のためにアイヌの人たちが土地を奪われたということと結び付けて考えることができなかった。

北海道を離れて生活するうちに、口琴という楽器に出会い、以来口琴関係の仕事や人付き合いが多くなってきた。そして、日本ではアイヌ民族が口琴文化を持っていることもあり、アイヌ民族の人たちとも交流を持つようになってきた。

以前、茨城県つくば市に在住していたとき、筑波大学の先生がアイヌ民族の文化を学ぶイベントを開いたときに私も多少お手伝いをしたのだが、北海道札幌市在住のSさんというアイヌ出身の方が世話係として招かれていた。
Sさんは私が小学校1年生〜3年生の頃同じクラスだった男子と同じ名前だったため、それとなく出身を聞いてみると帯広であると言う。しかし出身の小学校を聞いてみると、私の出た小学校とは違うというのだが、話を聞くにつけSさんは同じクラスのS君と同一人物であるとしか思えなかった。しかしSさんはそれは頑なに否定し、そして「あなたの住んでいた地域は、帯広の中でも差別がひどい地域なんですよ」と言った。
S君は学年では唯一のアイヌ出身の男子だったため、女子からも男子からも手酷い差別を受けていたのを思い出した。他のアイヌ出身の人たちよりも、よりアイヌらしい顔だちをしていたせいもあるのだろうと思う。
彼も幼いながら抵抗はしていたようで、フォークダンスの時にわざと鼻くそをほじって手につけていたりするので、よけい女子からは無視されていた。たまに遊びに誘ったりすると大変楽しそうにしていたことを考えると、本来はとても明るい少年だったのだろう。
しかし、彼の小学校時代の多くは差別との戦いの日々だったのだろうと思う。いくらアイヌ文化をみんなに知ってもらうイベントの付き添いであったとしても、突然出現した小学校時代の同級生と会って、昔の思い出を語り合うというわけにはいかなかったのだろう。

その時のことで、私は少なからずショックを受けた。
物の判断が狭かった時期のことであったとしても、自分が差別の目で見てきた人たちのこと。そして、直接的ではないにしろ、私達の祖先が国の政策により北海道へ入植したことで、アイヌ民族全体が民族の危機に陥り、大変辛い差別との戦いを強いられていたこと。
小学校の時には、北海道開拓や屯田兵、入植者の生活のことなどは郷土史の勉強として習ったが、アイヌの人たちがそのことでどういう生活を強いられることになったなどは、ほんの少し触れる程度でしかなかった。
学校のバス学習などでも阿寒湖に行って、バスの中でアイヌの歌を歌い、アイヌ民族の文化に触れるというイベントがいくつかあったが、本当の意味でのアイヌの人たちの生活にはまるで触れていなかったことも知った。

自分の産まれた土地にまつわる歴史の中で、もともとそこの土地に住んでいた人たちと後から入ってきた人たちとの間に摩擦があることは、世界中の例を見ても北海道も例外ではないのだ。だからといって、入植者の子孫である自分が、祖父母が北海道に入植しなければならなかった経緯や、入植後の苦労を考えると、入植してきた人たちを否定することもできない。
しかし、自分がこれまで行ってきた差別の目を見直し、自分の産まれた土地に昔から住んでいた民族のことを知ることが必要なのではないかと思った。

私の従姉妹などは、北海道での生活の中で、ごく当たり前のようにアイヌの人たちに対して差別の目を向けている。差別のために職もなく生活保護を受ける人たちも少なくない中で、酒を飲んであばれたりするアイヌの人たちが多いからだという。アイヌでなくても、そういう人は嫌われて当然だと思うが、なぜそうなってしまったかを考えると、やはりそこには「差別」という目に見えない壁があるからなのだと思う。

私がアイヌ民族の文化について学んだからといって、こういう状況が打開されるわけでもないだろう。
しかし、理解しなければ何も生まれないと思うのだ。
今回二風谷に行って、アイヌ民族博物館の方やムックリを売ってくれた民芸店の方は、私に大変親切にしてくれた。民芸店の方は、私が「自分は入植者の子孫だけれど、入植者の子孫の立場からアイヌの文化を知りたいと思う」と話したところ、とても嬉しそうにしてくださった。
それを見て、私も大変嬉しくなった。

◇老夫婦の喫茶店2006年06月02日 02時41分40秒

場所もどこだかはっきりしないが、帯広の西一条南5丁目あたりだったのではないかと思う。
このへんは帯広の中心街からも少し離れた場所だったが、1985年当時一件の古い喫茶店があった。
店の名前も思い出せないが、老夫婦が二人で経営していた。

店に入ると、古い大きなストーブがあり、お茶請けに六花亭のベビーチョコレートを出してくれた。
派手なBGMもなければ、派手な装飾もないその店は、おいしいコーヒーとしんしんとした落ち着いた雰囲気の、居心地の良い場所だった。

店にいた老夫婦は、客に話しかけるでもなく、自分の仕事を終えるとさっさと店の奥にひっこんでしまう。
しかし、お冷が少なくなったりすると、すっとやってきて水を足してくれる心配りはちゃんとしていた。
客を適当にほったらかしてくれるので、落ち着いてコーヒーを楽しむことができたのだ。
いつもわさわさとにぎやかな場所にいたので、たまにしずかな場所でコーヒーを楽しむことのできるその店は、憩いの場所でもあった。

3年ほど前に記憶をたどって探してみたが、とうとう見つけ出すことはできなかった。

◇十勝川温泉 大平原2006年06月02日 02時23分11秒

十勝川温泉は、世界でもめずらしいモール温泉という泉質の温泉で、美人の湯としても有名だ。
風呂の中にもやもやとした「湯の花」があり、入ると肌がつるつるになる。

帯広市内から、今でこそ30分程度で行くことができるが、1985年当時はもう少し時間がかかったような気がする。
今では、帯広よりもずっと開発されている十勝川温泉のある音更町も、当時は場所によっては民家もまばらなところが目立った場所だった。

昼間仕事をしたりだらだらしたりして、だいたい夜に活発な行動をしていた私たちは、さんざん遊んだ後夜中に突如として「風呂はいりてーな」と誰かが言う。
メンバーの誰かが車で来ていれば、それが夜中の2時であろうが3時であろうが、すぐに十勝川温泉ツアーが慣行される。

今では、日帰り入浴のある温泉ホテルもめずらしくないが、この当時は日帰り入浴さえもめずらしかった中、十勝川温泉の「大平原」は、1985年当時24時間日帰り入浴可の貴重なホテルだった。
夜中はすいていて、私たちのほかに客がいないことの方が多かった。
1時間ほど入浴し、だいたいロビーでテーブルゲームをして、4時か5時頃までだらだらし、家路につくというのが定番だった。
このころ、大平原のロビーにあったのは「パックランド」だった。

十勝川温泉も、観光地開発の一環として老舗のホテルも軒並みリニューアルしていく中、大平原もその例にもれず綺麗に改装されているらしい。
風呂も今では、サウナやウォータースライダーなんかもあるようで、日帰り入浴の営業時間も24時間ではなくなってしまっている。

現在の十勝川温泉大平原のHP
http://www.daiheigen.com/index.html

◇フードセンターの思い出2006年06月02日 01時55分28秒

帯広の繁華街のど真ん中に、フードセンターというスーパーマーケットがある。
通りをはさんだ向いがわにも同じような規模のスーパーマーケットがあり、1985年頃ではめずらしく夜中まで営業していた。
当時の帯広には、コンビニエンスストアというものは存在しておらず、市内でも24時間営業している店は郊外に2件ほどしかなかった。

1985年のある日、帯広市民会館に戸川純さんのコンサートが行われた。「好き好き大好き」ツアーだったと思う。

当時の市民会館の関係者出入口は、一般でも簡単にいける場所にあったため、コンサートに出向いた人の多くは、コンサート終了後出待ちするためそこにたむろしていたが、私と友人Kはそのままカラオケかどこかに行ってしまった。

時間は12時近かっただろうか。
私たちはお腹がすいていたけど、お金もなかったので、白飯と桃屋のザーサイを買って帰って食べようということで、フードセンターに向かった。白飯に桃屋のザーサイは、当時貧乏だった私たちのごちそうでもあった。

惣菜コーナーでふとふりかえると、見たような顔の男性が通り過ぎる。
あっちにももう一人。
当時の戸川純さんのバックバンドであったヤプーズのメンバーがうろうろしているのだ。
私たちがじっと彼らを凝視していると、泉水敏郎さんが通り過ぎ、吉川洋一郎さんが「なんなんだ?」と戸惑った顔をしてそそくさとその場を立ち去っていった。

私たちは惣菜コーナーの前で、白飯を片手に抱えて振り返りざまに彼らを見ていたので、その様子は異様なものだったのかもしれない。

「純ちゃんが買い物に来ているはずだ」

そう確信した私たちは、パンフレットにサインをしてもらおうと「マジック! マジック!」と叫ぶと、惣菜コーナーのおじさんがすっとマジックを差し出してくれた。
そのかっこよさは、今でも後光がさしている印象で記憶に残っている。

歯ブラシ売り場で戸川純さんが歯ブラシを抱えているのを見つけ、私たちはその日のコンサートのパンフレットにサインをしてもらった。
戸川純さんの指にゴールドのマニキュアが輝いていたのを、今でもはっきりと覚えている。

翌日、コンサートに行って出待ちをした別の友人に話を聞くと、出待ちしていたけど結局会えなかったのだという。
私たちはなんと幸運だったのだろうか。
そして、マジックを貸してくれた惣菜コーナーのおじさんには、感謝しても感謝しきれない。
なぜなら、そのときマジックを買っていたら、私たちは桃屋のザーサイが買えず、おかずなしの白飯を食べなければならなかったからだ。

今でもそのときのパンフレットとコンサートチケットは、私の宝物だ。

※修正20100617
その後、このお店はフードセンターではなく、向かいのフクハラであることが判明。



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