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◇東日本大震災より三年目2014年03月12日 13時34分23秒

昨日、東日本大震災より三年目を迎えた。
地震の起きた時刻、午後2時46分には私の住む地域でも、自治体の有線放送で黙祷を促す放送がなされた。
新宿のアルタ前ではこの時間に、アルタのモニタにセレモニーの様子が映し出され、信号待ちをしている人が黙祷を捧げる姿がニュースにもなったし、東急電鉄などの電車でも全車両で黙祷が捧げられる旨の発表があった。

まだまだ復興が進まない中、まだまだ仮設住宅で暮らす人がいたり、被災補助金が一部打ち切られたりしているとのこと。それでも、少しづつでも被災者の意識も前向きに変わって動きだしているというニュースに触れ、やっと3年まだ3年と思ってしまう。
除染がすすんで食は安全なものが流通しているといわれても、放射能汚染水の流出が未だに流出しているといわれているし、除染した土の捨て場がなく、そのまま家の庭に積み上げられているというニュースを聞くと、復興予算の行き場がないと未だに言っている現実が信じられない。

関東に住む被災の現実に触れつつ何もできずにいたなんちゃって被災者の私たちも、除染が進みいざ東北の食が流通されはじめると、色々な選択を余儀なくされた。
スーパーに福島、茨城産の野菜などが陳列されると、一年前までは「福島のものは買えないね」とわざわざ口に出して通り過ぎていく人がいたりした。
流通する食物については厳しい検査が施され、国の基準よりもずっと厳しい基準を設けて流通しているから「安全です」と言われる。
現地の農家や漁業の方々も、半端でない努力をしていることもニュースで見ている。
しかし、それでも心配な人は東北の食べ物は選ばない。東北の食べ物が心配な人は、一年前はそれをいちいち口に出さないといられなかったが、今はそういう姿をほとんど見ることはなくなった。
私の家では、子供がいるわけでもないし、東北の食べ物を食べることも復興の一躍を担っているのだと思うと、何もできない中それくらいしかできないのなら積極的に東北の食べ物を食べようと震災直後から考えていた。今でもそれは変わらない。

ただ、子供がいる家庭などで未だに心配だという考えがあることも理解できるし、個々でそれは選択すればいい問題である。
東北産の食べ物を拒否している人が、だからといって東北の被災のことを蔑ろにしているとは思わないし、心を痛めているからこそ苦渋の選択をしている人もいるのだ。
現状では、中国などから輸入されているものも安全ではないものも流通されているし、安いからという理由で外食産業では東北産の野菜などを積極的に利用する会社も多い(それ以上に安全に疑問のある食材も使われているが)。
あまり神経質に考えると外食もできない。
それが理由かどうかはわからないが、スーパーで「私は福島産は買わないわ」と声高に宣言する人は見なくなったし、自分が震災に関しての食に対してどういう考えであるかということは、わざわざ話題にしない限りは暗黙の中でタブー視されている感がある。
しかし、わざわざ話題にしたとしても、概ね自分の立場と相手の立場をそれぞれ認識できるくらいまでは、冷静に話ができるようにはなってきたようにも思える。

被災から3年が近くなると、NHKは震災関連の番組ばかりになった。
その中で、外国への食べ物の輸出は、まだまだ日本の信頼が快復されていない現状が報道されていた。
外国でどの程度の日本の状況が報道されているかは判らないが、チェルノブイリの事故があった当時、日本では周辺諸国の被災状況や、食の安全が国によってまちまちで、安全の確保に時間がかかっているという報道が数年続いていたことを思い出す。
外国の日本の復興状況も、汚染水の流出などネガティヴな情報が大々的に報道され、現地の食の安全確保に対する取り組みなどはほとんど報道されていないのだろうなと感じる。
それが原因なのかどうかは確かめてはいないが、日本で報道されているのとは違うクオリティと内容の情報が流布されていることで、日本の食べ物はまだまだ危険であるという判断がなされているのだろうと思ったりもする。
日本の食べ物は優秀だが、わざわざ日本の食べ物を利用するだけの理由がなければ、再び輸出再開までこぎつけるのは難しいだろう。
それは商売においては普通のことだろうと思う。

私の友人のドイツ在住のご夫婦は、定期的に来日される。
震災のあった日も来日されていて、電車の中で地震も経験された。奥様は日本人だが旦那様はドイツの方なので、ショックは大きかったようだ。
その後もご家族の関係で定期的に来日されているのだが、それまでは親日家という印象のあったお二人が、あの日を境に日本に対する意識が変わってしまったのを感じる。
特にドイツ人のご主人は未だに被災した時のショックがあるようだが、それ以上に日本の食べ物は危険であるということが端はしに態度に出ているのが悲しい。
ご本人はその意識があるのかないのかは判らないし、何より私たちを悲しまされるためにそうしているわけではないことも重々承知だ。
ただ、私たちも震災にあったショックもあるのだろうと震災後ずっと黙って聞いていたが、あまりにもそれが頻繁で、しかも嫌悪感を持って食に対峙されると、それを日常的に食べている私たちさえも汚いものであるように思ってるように感じてしまう。

そのきっかけは、今年の正月に来日されてお会いしたときのことだ。
友人夫妻は、来日すればだいたい一ヶ月は滞在されるが、先日は帰国する直前にお会いした。
食事に誘われたので出向いたのだが、いざ会ってみると旦那様が野菜を食べたくないと言っている。
食に関しては年配のわりには偏食の多い人たちではあるが、野菜を食べたくないと言われたのは初めてだったので、彼が日本の野菜に対して震災後はずっと神経質になっていることを思い出した。
野菜を食べたくないという彼があまりにも疲れた様子だったので、私が手を差し伸べると、瞬間的に振り払われてしまった。私としては、その態度が「汚いものを食べている汚い存在に対する瞬間的な態度」のように思えたのだ。
彼に差別的な意識があったかどうかは判らないが、私は自国で友人に差別的な感情をぶつけられたような気がしてひどく悲しかった。

私たちはここで生活をしなければならないし、日本のどこへ行っても放射線汚染の脅威や地震の恐怖は変わらない。
食べ物に関してだって、信じなければ生活できないから情報を基に選択しているだけで、東北の食べ物を食べていてもいなくても、不安でないわけではないのだ。

ドイツの友人のことを別な日本の友人に話すと、その人の更に別な友人でしょっちゅうイギリスに行く人の話を聞かされた。
イギリスでは戦争で敵国だったせいもあり、もともと日本人に対して差別的な意識を持っている人もいるのだけど、その要素に放射能というのが加わったとの話だ。
差別意識なく親切にしているつもりの会話でも、日本は放射能で汚いからイギリスはいいでしょうというような言葉があって、ちょっと返答に困るという話を聞かされた。

もちろん、日本の現状を理解しようと積極的に日本に来て、ボランティアに参加したり日本との交流を図ろうと働きかけてくれる外国人が多くいることも知っている。
ロシアのフィギュアスケートの大会で、日本の災害に対して黙祷を捧げるセレモニーを用意してくれたように、たくさんの国が日本の現状を心配してくれていることも知っている。
私のドイツの友人や、友人の友人がイギリスで会った人も、悪意を持っているわけでもないのだろうとも思いたい(イギリスの例は、日本でもこんなことを言う人はいそうだし)。

ただ、文化も常識も違う交流の中では、様々なすれ違いが生じ、それが基で小さな軋轢も生じることもあるように思ったりする。
それはお互いに性格な情報を共有していないことや、正しい情報がどこにあるのか非常に不明瞭であることも原因の一つなのだろうと思う。
日本人同士でさえ、スーパーで東北の食べ物を利用するかどうかは、個々の立場や状況で判断しなければならないのだから、それがワールドワイドになれば対応はそれだけ広がるということだ。

日本という国がは本当に努力家でまじめであるということは、この震災で本当に痛感した。
それと同時に日本という国が外国に対してどれほど情報発信ができていなく、外交がヘタクソなのかを、自分を含めて痛感している。
生産者がどれだけ努力をしていても、なんちゃって被災者の微妙な位置にいる私たちは、100%安全であると胸をはって外には発信できないことも痛感した。

被災者の置かれている現実を考えると、私たちは早い時期から普通に生活をしている。その生活は震災前とそれほど大きくは変わらない。
変わったのは、現在ある情報の信憑性に対する猜疑心と、これから来るだろう災害の恐怖がより現実的なものになったことだ。
そして、外国との付き合いも個人レベルと微妙に違いが出ていることも、震災前とは違うところなのかもしれないと思ったりする。

◇新横浜ラーメン博物館2011年03月07日 00時51分54秒


新横浜にあるラーメン博物館には、定期的に足を運んでいる。
ラーメンが好きというのもあるが、この博物館の目玉のひとつである「昭和30年代の街並み」の雰囲気が好きなのだ。
ここでは昭和30年代となっているが、昭和40年代の地方都市の街並みもだいたいこんな雰囲気だった。

2歳~3歳当時、帯広市の大通りにあった弧線橋の近くに住んでいたので、たまに母に連れられて歩いて街に行くことがあった。
夕暮れ時の帯広駅前の北側の、当時駅前のシンボル的建物だった十勝バスの本社ビルのあたりは、なんとなくこういう雰囲気があったように記憶している。
子供の頃のことなので記憶に錯綜があるかもしれないが、最初のここに来たときにそう感じたのだ。

ここは日本全国の特徴のあるラーメンを、ひとつの場所で楽しめるというところだか、オープン当時とは少し仕様がかわっている。
当時は「ラーメン博物館」の名前に恥じないくらいの展示があり、日本のラーメンの歴史を、現在の一階の売店がある場所で観ることができた。
発売当初のチキンラーメンや、チャルメラなども展示されていた。
地下のレストラン街も、ラーメン店以外に駄菓子屋や、焼き鳥屋、カフェなどもあり、人ごみに疲れた中で、ちょっとラーメンから離れる空間もちゃんと確保されていた。

しかし、ある時期からそのような空間がなくなってしまい、中央広場に露店などが出てお酒や軽食はそちらで食べるようになった。
ここは一番ラーメン店が集中してるところで、あちこちで行列ができている雑踏の中にずっといることになり、ちょっとゆっくりという雰囲気ではない。
人ごみが嫌いな人には、かなりきつい場所だ。

かといって一度外に出てしまうと、せっかくの雰囲気が興ざめしてしまう。
ここにいる間は、十分に昔の日本の雰囲気の中にいたいと思ってしまう。

新オープンのカフェスナックの看板
新オープンのカフェの看板。
ソフトクリームは濃厚ミルク味でおいしかった。

ここにカフェがなくなって久しかったのが、今日行ってみると「本日オープン」という喫茶&スナックが、交番横に登場していた。
中に入ると、赤い電球色の照明に、赤いソファで、昔のスナックの雰囲気。
女給さんも和服でいい雰囲気だ。

メニューにはカクテルなどのアルコールもあるが、看板にもなっている北海道濃厚ミルクのソフトクリームと、コーヒーが嬉しい。
この日は、ラーメン好きのドイツ在住友人夫妻と一緒だったので、特に「食後には甘いもの」は必須だ。

さっそくソフトクリームとコーヒーを注文する。
コーヒーにはクッキーが一枚づつついていて、コーヒースプーンは桜の形だった。

ところで、同行の友人夫妻の旦那様はドイツの方だが、彼の目から見ると、昭和30年代の雰囲気を表現したこの街並みは、今の日本もあまり変わらないように見えるらしい。
確かに今でも、建物自体は小さくこまごましていて、神奈川の住宅地では細い路地が多いし、終戦後の昭和の古い住宅も未だ健在で残っている。
街並みの全体像をあまり考慮せずに街を作っているので、いろいろなタイプの建物がひしめいているし、表側に生活臭のある商店もめずらしくはない。
横浜の伊勢崎町付近の繁華街は、今でもこんな雰囲気のある街並みだったりもする。

私たちからすると、特徴的なそば屋ののれんや、病院のドア、飲み屋街の路地の看板の雰囲気など、ポイントポイントで雰囲気を楽しめるが、そういうポイントがない人には、今も昔もあまり変化を感じられないのかもしれないと思う。

ごみごみしたお客さんの中からは、中国語や韓国語など、外国からの観光客とおぼしき人の声も聞こえてくる。
ドイツ人の友人の感じたことと、日本の昔をいろいろな形で知識として知っているであろう近隣諸国の観光客の感じたことが、同じなのか違うのか。

ラーメン博物館の駅長さん
この日の博物館内は、昭和33年3月6日であった。
写真は体感ゾーン入り口にある駅の駅長さん。


それ以前に、高度成長期の入り口である昭和30年代の街並みの中で、まだまだ生活に不安があったであろう戦後の日本人と、ここにも戻れず先にもいけない今の私たち日本人は、やっぱりそんなにかわらないのか、もしかしたらもっと複雑な袋小路に押し込まれているのではないかと思ってしまった。

家に戻ってテレビを見ていると、前の日までは「職務まっとう」と言っていた外務大臣が、数万円の不正な政治資金のために辞任したというニュースが流れてきて、なんだかこのとき感じた袋小路がさらに現実味を帯びてきたような気がしてならなかった。


◇マクドナルド・藤沢プラザ店の閉店2010年12月01日 02時58分18秒


大きな地図で見る(google map)

先日用事で、久しぶりに藤沢市の藤沢プラザ周辺に行った。
結婚当初はよくここのイトーヨーカ堂で買い物をしていたし、当時は東急ハンズもあったので、駅から少し離れていてもこのあたりは藤沢の中心地でよく利用した。

しかし駅前のデパートも老朽化し、西武デパートも撤退して久しい。藤沢のシンボル的存在の一つだったはずの、日本で最初の東急ハンズである藤沢店も数年前に店じまいをして、現在はユニクロが入っている。
イトーヨーカ堂とユニクロの向いに位置するマクドナルドは、本当に昔からここにあった。黒マックになってからもいつも混雑していて、なかなかゆっくり座ることもできないくらい繁盛店だった。

久しぶりにこのあたりを訪れ、マクドナルドの上の駐車場に駐車して降りてきて、目に入ったのは「29年間のご愛顧ありがとうございました」の貼り紙と、ウインドウに貼られた白いシートだった。
マクドナルドの黒い看板も、すでに取り外されている。

私は今はマクドナルドに行くことはほとんどない。特にここのマクドナルドは、いつも混んでいるので、カフェとしても利用することもなかった。
しかし、長い間ここにあったものが突然なくなってしまったことに、ちょっとしたショックを受けた。
地元の人は、学生の頃からここにあって、あるのが当たり前だという人もいる。
それは東急ハンズにもいえることで、まさか東急ハンズが藤沢からなくなってしまうなんて、夢にも思わなかったという人は多い。

またひとつ、藤沢からみんなのお馴染みの風景がなくなってしまった。
今週末から、辻堂駅前の再開発地区に新しいお店がオープンする。
藤沢駅は小田急線とJR線とのキーステーションであるにも関わらず、駅前はどんどん閑散とし、なんとなくいろんな思惑から取り残されているような気がする。

◇湯河原・真鶴観光をする2010年10月18日 17時44分29秒

湯河原萬葉公園の中にある、足湯施設「独歩の湯」

ドイツ在住の友人Eご夫妻が帰省されたので、一緒に湯河原に遊びにいった。
いつもは横浜などの近場で遊ぶことが多いのだが、いつも伊豆方面に日本のご家族と旅行されるので、湯河原あたりは気軽に行けることをお知らせしたかったのと、自分自身ちょっとのんびりしたかったので、お誘いしたのだ。

週間天気予報では午後から雨の予報だったのだか、秋の天気は女心に例えられるがごとく、当日はすこぶるつきの良い天気だった。

ドイツでの生活が長いお二人の生活スタイルは、夕飯がとても早い。
以前、夕方から横浜方面に遊びに行くついでにお届け物を届けにうかがったところ、4時過ぎにはお風呂をすまされ、これから夕飯であるとのことだった。
普段、夜9時過ぎに夕飯になることも多い我が家では考えられないことだ (なので、夕方5時くらいに「次の日の仕事に差し障る」とご心配をいただいたりして、夕方5時などまだまだ私たちにとっては活動時間帯であることを説明しなければならなかったりする)。
日本にいるEさんのご家族も、夜8時には就寝されるとのことだったので、できるだけ早く家に帰ることができるようにしたい。

当初、午前中の遅い時間に出発予定だったが、行楽の秋の日曜日のこと。いつも渋滞に泣かされ、帰りの時間が計れないので、早めに出発し早めに帰ることを提案。10時のところを8時30分に変更して、待ち合わせ場所を出発。
ルートは海の眺めを楽しめる海側の道、国道1号→新藤沢バイパス→国道134号→西湘バイパス→新真鶴道路である。
ふだんは、新藤沢バイパスから134号に出るあたりから混雑しており、平塚の相模川を抜けるまでが平日でも大変だったりする。

ところがいざ出発してみると、国道1号も新藤沢バイパスもものすごくすいている。
藤沢バイパスの出口の産業道路から国道134号に出る三叉路も、いつも信号2回待ちもざらではないのだが、出てすぐに交差点の先頭に出ですいすいと134号に出てしまった。
この先にある相模川にかかる新湘南大橋が、今年の3月から2車線から4車線に拡張された。134号も新藤沢バイパスの出口である産業道路のところから、今までは4車線から2車線に減ってしまい、それが渋滞の原因となっていたのだが、新湘南大橋が4車線になったことで134号は西湘バイパスまでずいぶんと走りやすくなったようだ。
しかし、普段休みに早朝に箱根までバイクを走らせに行く旦那も、この道の空いている状況には驚いたらしい。
西湘バイパスに入って、ツーリングのバイクにあおられ泣かされつつも、目的地の湯河原萬葉公園には1時間半かからず、10時前に到着してしまった。

萬葉公園は、紅葉にはまだまだというところ。秋風がさわやかで、山の空気が心地よい。
気温は23度ほどであろうか。山の中なのに、10月半ばとしてはちょっと暖かい。ドイツではこの気候だと夏だと話していた。
萬葉公園の中は、渓流が流れ森の中を散策するする遊歩道が設置されている。
渓流の感じが、ドイツの森に似ているとE夫妻は話していた。
これで紅葉がはじまると、その美しさは倍増する。

萬葉公園の一角にある独歩の湯は、以前は町営プールか何かだった。それを自然公園内の足湯施設にしたことで、湯河原の観光の目玉になった。
湯河原萬葉公園 足湯施設「独歩の湯」(湯河原観光協会web内)

施設は風水に基づいた作りで、9つの温泉足湯プールがあり、プールの底に石が突起するように配置してあり、プールの底の形状と石の刺激で、足裏のつぼを刺激する構造。身体の部位ごとに刺激されるつぼが異なるようになっている。
「自分はどこどこが悪いから」などと話つつも、一時間半ほどそこで足湯を楽しんだ。

ドイツでは、冷たい水に足をつけたりすることはあるらしいが、足だけを暖めるということはないとのこと。温泉自体も医療施設であることが多いので、いろいろと決まりごとがあるらしい。
しかし、ここは身体にいい温泉施設だけど、アミューズメント的な要素も方が大きいので、たいした決まりはないというと、ちょっと驚いていた。
帰りは身体がぽかぽかして暑いくらいで、足裏もふわふわで気持ちよかった。

お昼は当初は蕎麦を食べることを提案していたが、E夫妻の旦那様が実は軽い蕎麦アレルギーをお持ちであることを聞き、行こうとしていたところは蕎麦の専門店だったので、急遽変更。

中華料理が大好きであるお二人はやはり気分は麺であるとのことで、湯河原のB級グルメの「たんたんたぬきの担々焼きそば」を食べることに。
湯河原商工会議所 担々焼きそばのページ

担々焼きそばはお店によって味が違うものの、ビリ辛の味が特徴とのこと。湯河原特産の柑橘類がトッピングされていたり、隠し味に使われていたり、温泉玉子の玉子がトッピングされていたりと特徴があるらしい
湯河原駅前の観光案内で地図をもらい、最初の目的の店に行くと日曜でお休み。駅前に戻って、駅に車を停め、日曜も営業の駅前の「一番亭」に向かう。
担々やきそばお店一覧では、14種類の野菜のハーモニーが楽しめる逸品とのこと。

注文すると、固麺とやわらか麺があるとのこと。私は固麺、旦那はやわらか麺を注文した。
麺の上に大量の野菜のあんかけがかかっており、味は薄い塩味でピリ辛という感じはまったくなし。玉子のトッピングや柑橘類の添え物はなし。薄味だったので隠し味に使用されているのかもしれないが、あまりよくわからなかった。
他で担々焼きそばを食べていないのでなんともいえないが、焼きそばとして見ると、味もしつこくなく、脂っこい感じもなし。野菜が豊富でさっぱり食べられる焼きそばという感じで、美味しくいただいた。好みとしては、固麺の方がさっぱり食べられる印象か。

お店を出たところでまだちょっと時間があったので、真鶴港まで足を伸ばす。
真鶴港では商工会のお祭りが開催中で、クルーザーがいくつも港内に出ていた。
魚座前の漁協組合の売店で鰆の西京漬けを購入し、真鶴半島の先にある「お林展望公園」に行く。
真鶴町 お林展望公園

展望台があることは知っていたが、何度も真鶴に来ていて一度も行ったことがなかった。

ここは去年の秋まではサボテンラントという施設だったらしいが、今年の春から展望公園にリニューアルされたばかりらしい。
入り口には綺麗な軽食レストランがあり、トイレも綺麗で使いやすい。
駐車場には、石原プロモーションが西部警察で使用した消防自動車を寄贈したものが、展示(?)してある。

入口に咲いていたノボタン。“天使のトランペット”チョウセンアサガオ。
食事中のシジミチョウ。

広すぎない敷地内には、さまざまな花と木が植えられていて、秋の花が見事に賑わい、虫たちが冬がくる前の支度に余念がなかった。
リュウゼツランやソテツ、アロエ、やしの木などもあり、ソテツやリュウゼツランの一部は花を咲かせる準備中のものや、花が終わってしまったソテツもあって、巨大なパイナップルが横たわっているようだった。
黄色い彼岸花は珍しいと話していたのだが、帰って調べたところそれはリコリスという花らしかった。遠くにぽつんと咲いていて、近づけなかったのが残念。
入口に見事な紫色の花が盛りで、その花の名前がわからず施設の人に聞くと「ノボタン」であるとのこと。
ぼたんの華やかさとは程遠い可憐さだったので聞くと、その人は詳しくはわからないとのことだった。

花の終わったリュウゼツラン。巨大なパイナップルのよう。彼岸花だとばかり思っていたリコリス。
ソテツのつぼみ。

花が賑わう広場を通り抜けると、海を一望できる展望台があり、初島や伊豆半島の大室山や小室山が一望できた。横には真鶴の石碑がいくつか置かれている。
少しかすみがかかって大島までは見えなかったが、海は凪いで穏やかで、夕方に入った海風が心地よかった。
展望台といっても、望遠鏡があるとかそういうとろこではない。ベンチが少しあって、のんびり海を眺める場所である。
余計なBGMもなく、時間が少し遅かったせいか、それとも展望台があることを知られていないせいか、人もまばらで静かで良いところだった。

展望台からの景色。天気がよければ、大島まで一望できるだろう。

3時過ぎに真鶴を出て、西湘バイパスの出口まではすいすいといったが、出口前の数100mで渋滞。ここの出口もすぐに2車線になるので、慢性的に渋滞している。
しかし、その後は134号で少し渋滞があった程度で、すいすいと気持ちよく走ることができた。帰宅も5時半とそれほど遅くならずにすみ、E夫妻のご家族にもご迷惑にならずにすんで一安心。
お二人にも楽しんでいただけて、今度はご家族を連れて遊びに行きたいと話していた。
私たちも久しぶりにのんびりすることができ、山と海の空気を堪能できて楽しかった。

◇春の鶴岡八幡宮2010年03月17日 13時58分56秒

鶴岡八幡宮の寒桜

春の鎌倉は特に花が満載で、いつ行っても飽きない。
この日は、寒桜が満開になっており、境内入り口中央にある太鼓橋の前の寒桜は、観光客のいいターゲットになっていた。
梅はあいにくピークを過ぎてしまっていたが、雪柳やこぶし、木蓮、朱木蓮も花盛りだった。



鶴岡八幡宮は、先日の荒天でシンボルの樹齢800年とも言われる大銀杏が根元から折れてしまい、その修復作業が行われている。
鎌倉はもともと都心からも気軽に行ける行楽地だが、春休み中で大銀杏の話題もあったことから、若い人から年配の人まで観光客でごった返していた。

いつもは大銀杏を左手に上る、本宮への大石段も、復旧作業のために閉鎖されていて、舞宮前に賽銭箱が設置されていて、そこで拝殿するようになっていた。
しかし、みんな大銀杏の復旧作業の様子を写真に収めるのに夢中で、賽銭箱の前に陣取って写真撮影に没頭する人がいたりと、おちおち参拝もできない状態。

鎌倉幕府にゆかりの深い大銀杏は、DNAを残すべく若芽を保存され、折れてしまった箇所よりも上の方を根付かせるべく、植え替えをしている。
折れてしまった根元は、中が空洞になっていたらしい。
銀杏は鶴岡八幡宮のシンボルでもあり、歴史ある鎌倉のシンボルでもあるので、地元の人にとってはないとさびしく思うもののようだ。
これも寿命なので、そのまま天寿をまっとうさせるという意見はあまり聞かない。



源平池に足を向けると、鶴が池の中で立っている。
最初は鷺だと思ったのだが、飛び立つ姿を見ると鶴であった。
カメラを忘れてしまったので、携帯のカメラ機能を使ったが、遠すぎて画素が荒くなってしまったのが残念。

弁天様の島から、対岸の牡丹園の桜も遠くに見えて、風情があって美しかった。
若宮大路の桜並木は、まだまだつぼみの状態。
あと半月もすれば、花盛りだろう。

◇横浜中華街春節 民族衣装パレードに行く2010年03月08日 04時21分45秒

横浜春節祭民族衣装パレード


私たちは、十数年前の春節の日に、横浜中華街で結婚式を挙げた。
当時は、中華街で結婚式を挙げるといっても、特別中華的な衣装のレンタルがあるわけではなく、レストランの結婚式をたまたま中華街の中で行うという程度のものだった。
しかし、春節祭の真っ最中に挙式したということでなんとなくご縁を感じ、中華街の春節祭に足を運ぶことが多い。
今年の春節は、ちょうどバレンタインデーと同じ2月14日だったが、あいにく雨模様だったので、夜中に行われる奉納獅子舞も中止だったのではないかと思う。

横浜中華街民族衣装パレード
昔は、関帝廟が建築中だったせいか、春節祭自体もそれほど長い期間行われるわけではなく、春節のある週とその次の週の二週間くらい行われる程度だった。
現在は、春節の日から一ヶ月近く、週末には何かしらのイベントを行って、観光客を取り込もうとしているようだ。

春節当日の獅子舞パレードも楽しいのだが、今年は2月21日の日曜日に行われた民族衣装でのパレードが楽しみで、ちょうどドイツ在住の友人ご夫婦が里帰りされたので、ご一緒に横浜中華街の春節祭民族衣装パレードに行った。

春節当日のパレードは主に獅子舞が主役なのだが、この日の主役は神戸の中華街と横浜中華街の中学生・高校生による交流龍舞と、宮廷の民族衣装を身につけた人々が楽しみなのだ。
10年ほど前は、民族衣装も宮廷の民族衣装と共に、少数民族の民族衣装もパレードにあったのだが、今は宮廷の衣装のみになっている。

私たちが中華街に到着したのが、パレードの始まるちょうど10分ほど前。開会式の進行が遅れているらしく、パレードはまだ出発していない様子。
しかし、シルクロード通りから関帝廟通りに曲がる道は封鎖されていて、たくさんの人だかりができている。
やっと龍舞の龍が見えたときには、人人人で一歩も歩けない。
人ごみの中で、一眼レフを手にしたおっさんが数人、人を押しのけ、人の上にのしかかりながらカメラを撮影していてうんざりしてしまい、一時はパレード見物を諦めて元町散策でもしようかと言っていた。 あちこちの店をひやかして時間をつぶしていたら、パレードが街を一周して戻ってきた。
シルクロード通りから関帝廟通りに曲がる郵便局の角の最前列を陣取り、やっとパレードを見物することができたのだった。

横浜中華街民族衣装パレード
 
横浜中華街民族衣装パレード
横浜中華街民族衣装パレード

神戸の高校生によるピンクの龍舞。見物客の中から「加油!(頑張れ!)」の掛け声がかかる。
色とりどりの獅子舞にちびっこ龍舞、虎の張子などが次々とやってくる。
しばらくして、横浜中華街の中学生による黄色の龍舞がやって来て、その後に三国志に出てくるような衣装を着けた人々が、一本歯の高下駄を履いて来る。
高下駄といっても、日本の下駄のようなものではない。どちらかというと、靴に竹馬が装着されているといった感じ。
女性は金属製のちょっと太めの高下駄だが、男性は木製の椅子の足のようなものが、靴にくっついている。

私たちの立っていたところは、ちょうどゴールになる公園の手前の曲がり角だったため、パレードはその角でちょっと渋滞気味になる。
宮廷衣装の人たちは、写真撮影のためにそれぞれポーズをつけて撮影に応じてくれた。
京劇の役者のようなメイクに、豪華な装飾がちりばめられた衣装は大変豪華だ。

前日が雨だったので天気が気がかりだったが、曇天の中それでも雨も降らずに住んで、鐘と爆竹の音の中で中国情緒を堪能したのだった。

◇サンドブラストで口琴時計を作る2008年03月22日 00時26分02秒

 
 
箱根強羅の強羅公園内にある、クラフトハウスでサンドブラスト体験をしてきた。サンドブラストとはガラスに模様をマスクし、そこに砂を吹きかけて模様を彫りこむという手法である。
ガラス素材としてはグラスやジョッキなどの中に時計があったので、私は行く前から時計を作ろうと模様の素材を用意していった。もちろん、現地でもさまざまな模様が用意されてはいるのだが、せっかく作るのだから好きな模様を彫りこみたいと思い、文字盤のところに口琴をあしらった口琴時計を作ることにしたのだ。
Illustratorで口琴の画像を取り込み、ベクトルでアウトラインをとって模様の素材を作る。せっかくだから、色々な国の口琴の特徴を出せるように作ってみた。最初はきっちりとデザインしようと思ったのだが、時計の素材になるガラスのサイズがわからなかったので、だいたいの予想をたてて画像を作っていった。

いざ現地に行ってガラスを見ると、時計用に用意されていたガラスは思ったより小さかった。出されたガラス素材の中から比較的大きめ18cm×11.5cm程度のガラスの板を選んだ。しかし、私がデザインしたのは正方形か円形用のものだったので、文字盤にあたる部分のみ抽出して作ることにした。

作業方法の説明では、まず鉛筆でトレイシングペーパーに模様を写し、それをガラス一面に貼り付けたゴムテープに転写する。転写した部分のテープをカッターで切り取り、切り取った部分に砂を吹きかけて白く彫りこむというもの。
私が用意した口琴の絵は、18cm×11.5cmの時計としてはかなり大きめだったのだが、なんとかレイアウトを変更すれば絵を縮小せずに入れ込むことができたので、そのままトレイシングペーパーに写しこむ。だがすぐに鉛筆の先が丸くなって細かいところがなかなか書き込めない。鉛筆の芯をけずりながら作業をするが、すぐにその作業自体無駄であることが判明する。ゴムテープを切り取る際に、細かいところがうまく抜けないので、ディティールをかなりデフォルメする必要が出てきたのだ。
スタッフの人の話だと、テープを切り取るときは一筆書きをするように一気に切り取るほうが綺麗にできるといわれたが、そんな器用なことはできない。カッターは細かい作業ができるようなものだったが、細かい個所のゴムテープがなかなかうまくはずせなかったり、切り始めと切り終わりの個所が微妙にずれていたりしてなかなか上手にできない。細かい模様であればあるほどこの作業は大変だった。
なんとかごまかしながら、約一時間半ほどの作業で砂の吹きかけまでこぎつけた。スタッフの人がサンドブラストの機械にかけてくれた後、全体を覆っていたゴムテープをはずし、いざけずられたところを見ると、カッターのエッジがでてギザギサしてしまっている。でも、全体のバランスもそこそこだし、初めての作品としてはまあ良いほうだろうと妥協したのだった。

ちなみに、一時の位置からサハのホムス、ノルウェーのムンハルペ、フィリピンのクビン、アルタイのコムズ、ベトナムのンチャン、旦那のオリジナルデザインの口琴、中国雲南省のホホ、オーストリアのマウロトロンメル、アイヌ民族のムックリ、キルギスのテミルコムズ、インドのモルチャンとなっている。本当は国の名前と口琴の名称も入れたかったのだが、細かすぎてちょっと難しかったのと時間がなかったので断念した。時計の針も金色の方がよかったのだけど、金色の針は短いのしかなかったので、銀色になってしまった。

帰宅してから時計のムーブメントを取り付け飾ってみると、まあまあ良いのではないかと思ったりする。


箱根強羅公園 クラフトハウス
http://www.crafthouse.org/index.html

◇まつだ桜まつりに行く2008年03月09日 03時46分51秒


まつだ桜まつり会場から見た風景。咲いているのは、早咲きのかわづ桜と菜の花。


なんだか天気もいいので、かわづ桜を見に行こうということになり、車を走らせて神奈川県松田町にある、松田山ハーブガーデンのまつだ桜まつりに行くことにした。

朝は早く起きたものの、いろいろ用事をしているうちに11時半になり、結局昼頃の出発。東名高速に乗って大井松田ICで高速を降りる。HPの案内では会場までは車で5分と書いてあるが、誰でも考えることは同じのようで、細い国道はものすごい渋滞である。やっと山の入り口までたどりつくと、駐車場が満車なので第二駐車場に行くようにと誘導の人に指示される。山とは反対にある川沿いの駐車場に行くが、駐車場に入るまでに30分ほど時間をとられる。
川沿いの駐車場のまん前に黄色い小屋があり、でかい文字で「おとり」と書いてあるのが、なんだかわからず不思議である。よく見ると“おとり”の大きな文字の下に“北村おとり”と書いてある。そういう名前なのだろうか。それとも鮎釣りか何かのおとり漁用の鮎でも売っていて、今は時期ではないので店を閉めているのだろうか(たぶん後者)。

「おとり」の謎を残しつつ、川沿いの駐車場からシャトルバスに乗って会場に行く。シャトルバスの料金は一律150円。途中の松田の町並みを見ていると、魚屋さんの前にあるベンチに「天然ぶり入荷」「おしつけ入荷」というプレートが貼ってある。「“おしつけ”ってなんだ?」と旦那に聞くと、旦那の後にいた知らないおじさんが「“おしつけ”って書いてあるねぇ」と旦那の代わりに返事をする。そのおじさんが“おしつけ”の正体を知っているのかと思ったら、そのおじさんは自分の奥さんに「“おしつけ”って書いてあるのがなんだかわかんないんだよ」と会話を続けている。こちらの会話をとられてしまったみたいで、なんだかおかしい。松田町は謎の多いところである。



 
“おとり”の看板。   “おしつけ”入荷のプレート。


山のふもとの方から会場を見ると、菜の花の黄色い色とさくらのピンクが整然と並んでいてきれい。バスの中から途中のコンクリートの塀のすきまからふきのとうが顔を出している。20分くらいでバスは会場へ着いた。
会場はものすごい人だかりで、食事をする場所も桜の植えてある場所も身動きがとれない。13時を過ぎていたのでまず腹ごしらえをしようと、大食堂と書いてあるほうへ行く。お土産の桜まんじゅうや、かまぼこの串焼き、ごへい餅などを売る売店が並ぶ奥に食堂がある。中にはそばやうどん、お好み焼きを売る屋台が並んでいるが、屋台の前のテーブルには座る場所はないようだ。大食堂の手前に、テントの中に大きな囲炉裏をしつらえそこで魚を焼いているお店があり、ちょうどお客が出たところだったのでそこへもぐりこむ。山芋のだんご汁というのが美味しそうだったので、そばとだんご汁を注文する。醤油で薄く味付けされた魚ダシの汁の中に、山芋をすってつみれのようにしたものが入っているのだが、これがもちもちして大変美味しい。そばも田舎そば風できちんとダシがとられている。山菜のトッピングも嬉しい。




食堂の簡易囲炉裏の中。串にさされて真っ黒になっている小さな魚は「かじっか」という魚らしい。これも不思議に思っていると、隣で酒を飲んでいたおじさんが教えてくれた。春に川底にくっついている魚とのこと。食べてみようかと思ったら「500円は高いよ」とおじさんに言われてやめてしまった。


会場へ入ると、遊歩道からはずれた立ち入り禁止区域でお弁当を食べている人、写真を撮っている人など無秩序状態。ふだんこの山は子供の遊び場として山肌を利用した滑り台やジャングルジムなどがある場所のようで、滑り台をすべりたい桜そっちのけの子供がぐるぐるしていてなんだかすごいことになっている。唯一通路に左側歩行の決まりがいつのまにかできていて、昇ってくる人と降りる人がスムーズに行き交えるようになっている。
食堂のおばさんが、「こんなに混むなんて予想外。昨日朝日新聞に載ったし、テレビでも紹介されたから仕方ないねえ」と言っていた。新聞をとっていないのでそんなことは知らなかったのだが、旦那はasahi.comに載っていたと後で白状していた。

人のいないすきをついて写真を撮ったり、景色を眺める。菜の花は満開で、その上にかわづ桜がたわわに咲いている。普通の桜よりもずっと花の色が濃くなんだか力強い印象がある。しばらく遊歩道を歩きながら桜を楽しんでいたのだが、とてもじゃないがゆっくり花を観賞できる雰囲気ではないので早々に引き上げることにした。
遊歩道の脇に小さな春の花がたくさん顔を出していて、本当はそういう花も一緒にゆっくり見たかったのだが…。



 

かわづ桜。ソメイヨシノよりも花の色がだいぶ濃いが、木の幹とたわわに咲く感じは桜そのもの。
 
桜の木の下に群生している菜の花。今が満開。
     
 

オオイヌノフグリ。可憐な花なのに、どうしてこんな名前なんだろう。

 
名前を知らない花。小さな蘭といった感じ。赤くてきれいだった。


帰り道にあちこちで「リピーターが多いSA」と話題の海老名サービスエリアに寄ったのだが、いったい何がいいのかちっともわからず、無料サービスのお茶と化学調味料の味のするしそチーズかまぼこと焼きドーナツを食べる。高速を降りてから出かけに飲んだ花粉症の薬が効いてきてモウレツに眠気がさしてきて、帰宅してすぐに寝てしまった。

せっかくいったのに人だかりだったのは残念だったが、来年は平日に休みをとっていけたらきっとゆっくり見られてきれいだと思ったのだった。
まつだ桜まつりは、今週いっぱいの予定だったのが16日まで延長されているらしい。夜にはライトアップしたりしているらしい。


松田町 まつだ桜まつりHP
http://www1.biz.biglobe.ne.jp/~matsuda/06sakura.htm
※上記リンク切れのため、下記のリンクを参照してください(2010.02.10)

松田町観光協会ホームページ
http://www1.biz.biglobe.ne.jp/~matsuda/

◇バリカ~ン2007年01月21日 23時02分00秒

寒川の散髪サロンバリカ~ンの看板
 
毎年、寒川神社にお祓いをしてもらいに行くのだが、神社に行く途中に気になる看板を見つけた。

「散髪サロン バリカ~ン」

なんだか強そうな名前である。ここで一発バリ入れてもらったら、無敵になれるような気もする。

◇七沢温泉に行く2006年08月08日 20時03分39秒

 
大山に沈む夕日  
   

ここのところしばらく天気の悪い日が続き、久しぶりのお天気の週末だったので、どこかに行こうかという話になった。その日はお昼過ぎまで寝ていたので、そう思ったのは1時も回ったあたりだった。
 準備をして取りに行くのを一週間忘れていたクリーニングを引き取りに行き、実際にうちの近所を出発したのは、2時半も回ったあたりだった。

この時間から行くとなると、近場しかない。新婚時代、よくバイクでいった大山に行こうということになり、伊勢原方面に向かった。大山は昔からの霊山で、大山山頂の大山阿夫利神社には酒造の神様が祀られている。ロープウェーで途中の下社に行くことができ、そこから山頂の本社に行くには徒歩で山をのぼる。ロープウェーの駅までの山道は参道になっており、大山名物の独楽を売る店や豆腐を食べさせてくれる店が軒を並べ、風情があってとてもいい。
 途中座間の友人の家に、渡しそびれていた北海道のお土産を届けに寄ったので、多少遠回りをしたが、海老名から246を抜けたあたりはすいすいと快調に進んでいく。このあたりの246はバイパスになっているので、高速道路を走っている気分だが、厚木のあたりから道は混みだしてくる。ここですでに3時半を回っていた。
 渋滞の中、「この時間から大山に行っても、お店はどこも開いていないし、ロープウェーにも乗れないのではないか」という疑問が頭をよぎる。大山に行くなら、豆腐懐石を食べたいのだ。
 「大山で豆腐を食べられないのなら、七沢に行こう」と言うと、旦那も「行ったことがないから行ってみよう」と賛成してくれた。246の本線から七沢方面に向かう道に入ると、混雑もなくなりすいすいと進んでいく。

 
  ネポンの看板

神奈川といえば横浜、東京のとなりにある都会のイメージがあるが、神奈川もこのあたりになると田園風景が広がる田舎町の様相が濃くなってくる。田んぼが広がる道を行くと、ネポンという看板が目につく。「ネポンってなんだろう」。言葉の響きが面白く、なんとなくネポンの看板がある方向に向かってしまう。しばらく行くと、ネポンの社屋が見えて来たが、結局このときは「ネポン」がなんなのかは判らなかった。後で調べたら、施設園芸用暖房機関連、 住宅設備関連の総合メーカーとのことらしい。

厚木の山奥までくると、森の里という新興住宅地を通る。緑が広がる中に新しい家がたくさん建てられており、米軍の飛行機の影響を如実に受けている我が家のあたりとは違い、空気も綺麗だしとても静かで閑静だ。夕方近くで、山から鳥の声や蜩の鳴き声だけが響いている。神奈川で家を建てるなら、こんなところに住みたいとうらやましく思うが、交通の便を考えるととても無理だと思う。

森の里を抜け、トンネルをくぐると七沢の入口に消防署の隣に設けられた七沢観光案内所の看板が見えた。時計はすでに4時半時近くになっている。中に入り「七沢で今から日帰り入浴できるところはありますか?」と尋ねると、案内所の人は地図をくれて親切に教えてくれた。トイレを借りて案内された場所に行く。
 案内所で教えてくれた旅館は4つ。一本道に旅館が並ぶ中、その一つ一つの外観と料金を確かめて回り、七沢で一番名前を聞く「七沢荘」に行くことにした。七沢温泉の中でも泉質は単純泉とアルカリ泉とあるようで、七沢荘はアルカリ泉の源泉をひいているようだ。
 昔は七沢温泉というと、箱根や熱海と違って「沸かし湯」というイメージが強かった。温泉の温度が低いので、温泉に加熱しているためだ。これは今でも変わらないのだが、加熱しているからといって温泉の効果に変わりがあるわけではない。ただ、昔は「加熱している」という理由だけで、なんとなく「沸かし湯だし」という感覚があったのだ。来てみると、山の中のひなびた温泉郷という雰囲気があり、メジャーな箱根や熱海などと比べると親しみやすい感じがする。
 七沢荘に入ると、露天風呂の脱衣所はロビーを抜けたすぐのところにあったのだが、最初は内湯に入りたくてそちらに回った。古い旅館を建て増し建て増ししているようで、婦人の脱衣所までの間迷路の中をぐるぐる回っている感じだ。風呂に入ると、足にびりっと何か感じたが湯に入ってしまうと気持ちがよい。アルカリ度が高いのかとてもつるつるしている。温度はさほど高くなく長くつかっていられる。
 露天に移動しようとドアをあけると、そこは露天の脱衣所になっていた。なんだ脱衣所もつながっていたのか。露天風呂は、せまいながらも3種類あり、竹のまくらのある寝湯、子宝の湯と称した男根の鋳型がある風呂、そして岩風呂とある。岩風呂の露天の真ん前に、さっき入った内風呂とは違う内風呂があり、「波動の湯」と名付けられている。波動の湯には、気功の力を入れた岩盤がしいてあるらしい。特にアトピーなどには効力があるという。その他にも、外傷や打ち身などにもいいらしい。この日私は、寝違えて首が痛かったのだが、お湯に入ったことで帰りにはだいぶ楽になっていた。お肌もつるつるで、悩みのがさがさのひじもつるつるになっていて嬉しかった。

 
分れ道の表札  

6時近くに七沢を出ると、道すがら大山を臨むことができる。ちょうど日没の頃で、運転しながらもうっとり見入ってしまいたくなるほど綺麗だ。
 途中、伊勢原に出る道で「分れ道」という交差点に出る。確かに分れ道なのだが、なぜわざわざ「分れ道」なのか。近くのバス停も「分れ道」バス停になっている。ここは厚木から伊勢原神社方面、寒川神社方面、大山方面と神社にお参りする人が使用した街道のはずなので、どの神社に行くかの分れ道ということなのだろうか。
 分れ道から伊勢原を抜けて、寒川を通って帰ろうとしたところ、寒川に入ったあたりでものすごい渋滞。30分で1キロちょっとしか動いていない。仕方ないので、Uターンをして1号に抜ける道に向かった。
 家に着いた頃、寒川の方から花火が上がるのが見えた。そうか、寒川の花火大会のための渋滞だったのだ。あのまま止まっていたら、花火の見える渋滞だったのかもしれないと思うとちょっと惜しかったが、お腹がすいていたので早く移動できてよかったと思う。

途中、茅ヶ崎で閉店まぎわのバイク屋に寄り、以前から購入を考えていたヘルメットを物色したが、あまり品物が揃っていなくがっかりした。親切な店員さんが、横浜にバイク用品の専門店があると教えてくれたので、次の日に行こうと決めた。

 

七沢温泉HP   http://www.tanzawa.or.jp/nana.html
 七沢荘HP    http://www.tanzawa.or.jp/~nanasawa/
 大山阿夫利神社  http://www.afuri.or.jp/




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