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◇Way Of The World - Cheap Trick2012年03月04日 07時54分25秒


Way Of The World - Cheap Trick - 1979 Promo

AKB48の歌ではないが、気分がすぐれない時間が長いと、その間に無意識のうちに昔の曲が頭の中をヘヴィローテーションしていることがある。
理由はわからないが、ずいぶんと長いこと耳にすることもなかった曲が、ふっと頭をよぎったりする。
そして、そのままいつまでも頭の中を流れ、ときには口をついて歌っていたりもする。
たいてい、いつの間にかまた忘れてしまうのだが、時にはその曲を聴いていた頃に感じた感覚が、まざまざとよみがえってくることがある。
この曲は、そんな曲のひとつだ。

この曲を初めて聴いたのは、中学1年生のときだった。
Cheap Trickはラジオなどで聞いて知っていたが、この曲が収録されている「Dream Police」が初めて購入したCheap Trickのアルバムだった。

Dream Police以前のCheap Trickの曲は、埃臭いアメリカの雰囲気があり、メロディもそのイメージも、非常にわかりやすかった。
当時の他のアメリカンロックバンドとは異なり、男臭く汗臭いイメージが皆無だったのは、小学生女子には非常に入りやすかったと思う。
ヴォーカルとサイドギターのRobin ZanderとベースのTom Peterssonがルックス担当で、リードギターのRick NielsenとドラムのBun E. Carlosがキャラクター担当という雰囲気。
私のお気に入りはトムだった。修学旅行にもロック雑誌を持参し、海外ロックなどそれほど興味もない友人に無理やり見せて、「ロビンとトムとどっちがいい?」などと聞いていた。

面食いなのは今も変わらないが、Cheap Trickに関してはメンバーのルックスもさることながら、バンドの持っている雰囲気や、サウンドのバランスなど、ルックス以上に楽曲の方が身体に浸透しているような気がする。
当時「80年代のThe Beatles」などと騒がれ、彼ら自身もThe Beatlesの曲をカヴァーしたりもしているが、今改めて聞くと、ベタなアメリカンロックの中に、The WhoやThe Kinksなどの影響の方が色濃く感じられるような気がする。
The WhoもThe kinksもこの頃の私はまったく知らない存在であった。その後The Jamをはじめとしたモッズ系のバンドに傾倒することで、さかのぼってファンになるのだが、最初にサウンド主体で気に入ったバンドにもこの傾向が見られるのは、自分でも少し驚いたりもする。

この曲に最近再会したきっかけは、Van Halenにデイヴ・リー・ロスが戻ってきたというニュースを観たからだった。
YouTubeで当時の曲を探しているうちに、彼らの曲を最初に聞いた「レベルポイント」という映画のことを思い出したのだ。
この映画は帯広では上映されなかったのだが、Van HalenやThe Cars、Cheap Trickなど、当時話題になっていた新鋭のバンドがサウンドトラックに参加しているので、Cheap Trickだけでなく色々聞けるサウンドトラックのレコードとして、特に気に入っていた。
それで懐かしくなって、Van Halenからたぐっていくうちに、この曲にたどり着いたというわけだった。

実を言うと、Cheap Trickのアルバムで唯一持っているのはDream Policeだが、Dream PoliceはCheap Trickに失望したアルバムでもあった。
それまで持っていたCheap Trickらしさがなんとなく失われていて、どこかドラマチックで作り上げた感があったからだ。
しかも、このアルバムが発表された後、お気に入りのペースのトムが脱退してしまったのだ。

「Way Of The World」は、日本ではちょうどトムの脱退のニュースがあったかないかのタイミングでの発売で、私はDream Policeでシングルカットされた曲の中で、この曲だけシングルレコードを持っていない。
でも今聞くと、Dream Policeの曲の中では、この曲が一番当時の感覚を感じられる曲なのだ。
シングルカットされた「Dream Police」や「Voices」など別な曲のPVも見たが、なぜかこの曲に魅かれてしまう。

この映像はPVなので、音源はレコードの録音のものである(たぶん、シングルカットしたバージョンと思われる)。
でもこの映像は、当時「動くロックアーティスト」なんてほとんど見ることなど叶わなかった自分のイメージを、当時の印象をまったく損なうことなく映し出しているように思えたのも嬉しかった。

コーラスのところで、いちいちトムがメインマイクに入り込んでくるところが、ちょっとうざいと思ったりもするが、イケメン二人がメインマイクで歌う姿は、なんとなくセサミストリートのマペットのようだと思った(口がカパっと開くところが、なんとなく…)。
それと、ロビンのイギリス的でない素直なこぶし回しと伸びやかな声が、とてもすんなり発せられるところが、見ていて非常に気持ちいい。たまに彼の癖で、目を上にむけて歌う姿が、なんともなくかわいらしいと思えてしまう。
このPVを見ていると、ロビンののびやかな声と、再三挿入されるコーラス、それとわかりやすいサウンドが、初期のCheap Trickを彷彿させるのかもしれないと思ったりする。

この頃、自分の将来のことについていろいろと考えることが多くなり、漠然と音楽雑誌の編集者になりたいなどと思い始めていた。
雑誌の編集になるには、当然北海道を出る必要があったし、当時は女子は大学に行かず地元で仕事を見つけて結婚するというのが普通であり、多くの親がそれを望んでいたため、北海道を出て就職するなど夢のまた夢のようなことだった。
それでも、当時は毎日のようにレコードをかけて、音楽雑誌を読み漁り、音楽に携わる仕事をすることを夢見ていた。

Cheap Trickの曲は、ちょうどそんな時代に聞いていたバンドだ。
半分忘れかけていた曲が、昔の気持ちを思い起こさせる。
「Way Of The World」を聞いたとき、大げさなようだが、なんだか強烈な光のようにその頃の記憶がよみがえったのだ。
それは、自分にとっても大事に感覚だったのだと再認識させられる。
そういう音楽に出会えたことを、あの感覚を思い出せたことを、今は感謝したいと思う。

2012年03月14日改訂

◇Tuesday Afternoon / Moody Blues2010年06月29日 04時17分09秒


The Moody Blues Tuesday Afternoon Live 1968 Jazz Blitzen


昨日久しぶりに、Moody Bluesの「Tuesday Afternoon」を聞いた。
この曲を始めて聞いたのは、1984年か1985年にNHKで放映された、ロックヒストリーのドキュメンタリー番組の中で流れた、1960年代のプロモーション・ビデオでだった。

Moody Bluesの曲はこの時2曲紹介されており、古い曲として「Tuesday Afternoon」が紹介されていたのだ。
この時の映像をYouTubeで探してみたのだがなく、冒頭にあるのは白黒の古いライブの映像らしい。

私の見た映像は、サイケデリックな色合いのスタジオの中にバンドセットが組まれていて、王子様のような衣装を着たヴォーカルのジャスティン・ヘイワードが、憂いをこめた表情でこの歌を歌い上げる。
バンドメンバーはその周囲で黙々と演奏を続け、後半のフルートのソロのときにレイ・トーマスがクローズ・アップされるというカラー映像である。

このときのボーカルのジャスティン・ヘイワードが、まるで一条ゆかりの漫画に出てくる男の子のようで、面食いの私にはど真ん中だった。
しかし、ジャスティン・ヘイワード以上に興味を惹かれたのは、彼の声にまとわりつくような、オルガンの音色と後半のフルートだった。
オルガンの音色がボーカルのけだるさを増幅させて、この曲に風景を与えているようにも感じた。

この曲が見せるボーカルとオルガンの風景は、家の近所だったり、会社での外回りだったり、学校の帰りだったりというなんとなく中途半端な場所で昼下がりという中途半端な時間に、今週もまた一週間が始まってまだ二日しか経っていないなとか、そんな感じの軽い疲労の中、空は少し曇ってきて雲間から太陽の光がこぼれおちるのをなんとなく眺めているような、そんな気だるさである。
そして後半に入るフルートが、“火曜日の昼下がり”から夕暮れに変わっていく中で、理由のない不安を表現しているように感じた。
まるで、カミュの「異邦人」を読んでいるかのような印象でもあった。

歌詞の内容を確認したわけではないので、実際にこの曲がそういう風景を表現しているのかどうかは知らない。
ただ、私の頭に勝手に浮かんできたこなんてことのない昼下がりの一面に、私はすっかり魅了され、ずっと忘れることができなくなってしまった。

1985年頃は、ネオアコースティックといわれたインディーズ系のものと、ニューウェイブ系の音楽がまだまだ流行している時期で、この後に流行するハモンドオルガンを駆使したカフェミュージック系の音楽は、それほど私たちの耳に届いてはいなかった。
しかも、70年代に活躍していたプログレ系のバンドは、軒並みニューミュージックに押されてどんどんとポップ路線を邁進していた時期だったので、「Tuesday Afternoon」を聞いたときに、Moody Bluesがプログレなのだという認識はまるでなかった。
当然、周囲の友人たちでMoody Bluesが好きだという人は皆無だったし、知っているという人さえ少なかった。

録画した番組の中の曲は、途中で切れてしまって全部は聴くことができない。
そのうちレコードからCDに以降してベスト盤などを探したりもしたが、「Tuesday Afternoon」の入ったものには出会えずにそのままきてしまった。

今、YouTubeの中であの時見たプロモーション・ビデオではないにしろ、あの時期のMoody Bluesを見ることができる。
そして、この白黒のジャスティン・ヘイワードは、あの時見た映像よりも更に若い頃のものらしく、そのかわいさに再びノックアウトされつつ、なんとなくちょっと疲れつつもどきどきするような火曜日の昼下がりを感じるのだった。

◇深夜のガソリンスタンドの思い出2010年06月23日 00時45分21秒

国道38号線沿いにある、現在のアラブ石油のスタンド跡(写真提供:TS)

都会はどうだったのかは知らないが、1985年当時の帯広の田舎では、まだまだガソリンスタンドの深夜営業はまれなことで、ガソリンスタンドが行楽の日曜日に平然と休んでいるのも珍しいことではなかった。
平日でも、早くて午後6時、遅くても8時には営業が終了してしまうところが多かったので、夜中に突発的にドライブなどに行きたいと思ったときに、ガソリンがないということもしばしばあった。

普通の人たちはどうだか知らないが、私たちの友人はみんな車があるとすぐにドライブに行きたくなってしまう。それが軽であろうがソアラ(誰も持っていなかったけど)であろうがお構いなしであった。
行き先はいろいろで、近場だと当時は24時間営業していた十勝川温泉の大平原だったり、余力があれば大津の海まで行くこともあった。

だいたい人が集まる場所は決まっていて、そこで集った仲間で条件が合い意気投合して行動を始めるのが夜も10時過ぎのことである。
馴染みのお店の店員の仕事が終わるのを待つときは、行動開始が0時を過ぎることもしばしば。 そこで車を調達して、お金を出し合ってガソリンを入れるのだが、そんなときに重宝していたのがアラブ石油だった。

私の記憶では、国道38号線沿いの周囲に街灯も何もない場所の暗闇に、こつぜんとガソリンスタンドが存在しているのが頭に焼きついている。実際にそういう場所だったのかどうかは不明だが、そういう印象だったのだ。
屋根のない二方向の敷居だけの敷地に、給油機と薄暗い明かりがぽつんとあり、車を給油機の前につけると、どこからともなく痩せたおやじが出てきて給油してくれる。

大抵お金がないので満タンなどとは言わず、千円札を取り出して「これで入るだけ」と言って給油するが、千円では10リッターも入らなかったように記憶している。
調べてみると、1985年当時のレギュラーガソリンの1リットル当たりの価格は、146円だったらしい。普通のガソリンスタンドで10リッター入れると1460円(当時は消費税がなかったので、提示価格のまま)なので、深夜営業のアラブ石油では倍くらいの値段だったのではないか。せいぜい千円で給油できたのは、4~5リッターくらいのものだったと推測する。

友人とふとしたことでアラブ石油のことで盛り上がったときに、ちょっと調べてみたところ、古い新聞記事をアーカイブしているサイトで、アラブ石油の名前を見つけることができた。


『太古の新聞記事など』
ウエートレス強盗強姦事件(昭和43年1月4日深夜の札幌市のビル内)の中の記事
http://63164201.at.webry.info/200901/article_4.html

アラブ石油は、1975年から帯広と釧路に深夜営業のガソリンスタンドを営業していた。帯広店は、東一条南8丁目と国道38号線沿いにあったらしい。 東一条店は1977年と1982年に、釧路店は1982年に強盗事件に合い、1982年の強盗事件後に帯広店は東一条店の24時間営業を取りやめ、国道38号線沿いの店舗でのみ三人交代制で24時間営業を続けていたとある。
※『太古の新聞記事など』内ウエートレス強盗強姦事件(昭和43年1月4日深夜の札幌市のビル内)の中の「十勝毎日新聞 昭和57年(1982年)2月16 日 火曜日 9面」と「十勝毎日新聞 昭和57年(1982年)3月9日 火曜日 11面」より抜粋引用。

この記事を読んだときに、あの暗闇の中で客がこないときに給油のおじさんはどうやって過ごしているのだろうと思ったことを思い出す。
お金がないときに千円ぽっちの給油でもいやな顔もせずに給油してくれた、50過ぎくらいの浅黒いおじさんの顔がうっすらよみがえるような気がする。
当時一度だけ、友人の用事につきあって昼間にあのあたりに行ったことがあったが、スタンドの周囲は住宅もまばらで野っ原だった。

友人が送ってくれた写真を見ると、アラブ石油の周囲には立派な社屋が建っていたり、決して新しそうでない住宅も立ち並んでいる。
昔は国道からはずれると砂利道だったと記憶する道も、当然のごとく今ではアスファルト舗装されている。
私の記憶では、給油機しかないスタンドだったが、写真を見ると小さな小屋があって、おじさんはそこにいたのだということが判る。

その後ガソリンスタンドの深夜営業が、一般のガソリンスタンドでも行われるにつれてアラブ石油の需要は激減したものと見られる。
アラブ石油が帯広からひっそりと姿を消したのが、いったいいつのことなのかは知ることができなかった。

ガソリンスタンドの跡地というのは、ガソリンタンクが埋蔵しているので再利用にお金がかかり、そのまま土地活用されずに廃墟になるケースが多いと聞く。
田舎に行けばいくほど、ローカルの小さな昔のガソリンスタンドの廃墟を多く見かけるが、特に目印になるシンボルマークも何もなかったアラブ石油の跡地が、このような形で残っていることに、ちょっとした感動を覚えたのだった。

◇帯広市の“まち”のシンボル広小路2010年06月17日 06時11分03秒

大通り側からの広小路アーケード

先日、従姉が送ってきた春掘りの長いもをくるんであった十勝毎日新聞に、「広小路“出店ラッシュ”」という記事が掲載されていた。
長いもがくるまれていたので新聞はちょっと破れたりしており、ネット調べてみると2010年3月4日の記事だったらしい。

去年の暮れに、長年会っていなかった友人とコンタクトが取れ、なんとなく昔話に花が咲いている。
その友人が、最近の帯広の様子を写真に撮って送ってくれた。
「何かのネタに使っていい」とのお許しが出たので、帯広の今と昔を少し考えようかと思いつつ、いろいろと状況がそれを許さず、友人をずっと待たせたままにしてしまった。 ここでその写真を使用させていただこうと思う。

「広小路“出店ラッシュ”」の記事は、ネット上で『十勝めーる』というところで発見した。

十勝毎日新聞2010年3月4日の記事
「広小路“出店ラッシュ” アーケード再生へ弾み」

http://www.tokachimail.com/obihiro/100308index.html

この記事によると、「老朽化の進んだかつての広小路で、軒並み路面店の撤退が進んでいたが、ここに来てラーメン店などその他2店舗の出店があって、関係者は胸をなでおろしている」ということらしい。
2011年には、アーケード再生事業として「まちなか」の活性化基本計画が推進されるとのことらしい。

しかし、冬の景色だからというのもあるのだが、友人から送られてくる広小路の風景は、30年くらい前にここでカセットを持ち込んで若者が踊り狂っていた場所とはとうてい思えない様相を呈している。

当時、50sファッションの流行で、原宿にクリームソーダという50sファッションのお店があり、その影響からか原宿のホコ天でカセットデッキを持ち込んで踊る50sファッションのローラー族という若者が話題になった。
ちょうど竹の子族などがもてはやされるちょっと前の時期で、そのうち竹の子族とローラー族の場所取りの抗争が話題になったりもした。

キャデラックスリム 「孤独のメッセージ」
広小路西一条
その影響で、帯広でも昼間は歩行者天国になる広小路で、50sファッションのローラー族が踊りを踊ったりして話題になった時期があった。
西二条の裏通りか西一条の11丁目(記憶不確か)に、50sファッションのお店もあったりしたのだ。
後に帯広出身の50s風バンド「キャデラックスリム」のメジャーデビューを境に、私が高校を卒業する頃にはローラー族もすっかりなりをひそめていたが、キャデラックスリムのメンバーが広小路で踊っていたとか、いろいろ噂はつきなかった。

私が帯広で一度就職したときの同僚がローラー族で、彼女のBFが乗っていた昭和40年代のフェアレディ(Zではない)のオープンカーの荷台に乗せてもらったりした(フェアレディのオープンは2シーターなので、荷台に乗るのは違法である。今考えるととんでもない)。
荷台に乗ると、一段高いところに座ることになるので、オープンカーの開放感プラス全身で風を切る感じがとても気持ちよかったのを今でも覚えている。

私が高校を卒業する1984年か1985年頃には、とくらビルの地価が一億になったというのがニュースだったような気がする。
広小路には、DCブランドの店が軒を連ね、その間に老舗の店が混在していた。
私も毎日のようにここに通ったが、広小路はアーケードをくぐるだけでちょっとわくわくするような場所だった。
藤丸が7丁目に移転し、ホシビルが広小路の西側にできて、広小路から駅をつなぐ二条通りは本当の意味で帯広のメインストリートであり、広小路はその屋台骨を支えるアーケード街だった。
帯広の七夕祭りには、広小路に仙台の七夕をもっと庶民的にした手作り感満載の七夕飾りが飾られ、平原祭りには花笠音頭のパレードが広小路をメインにまちなかを闊歩した。
広小路は、帯広市民と「まち」の活性化にはなくなてはならない場所だったはずなのだ。

帯広広小路の歴史は長い。
ネットに公開されている帯広の歴史年表(pdf)を見ると、1924(大正12)年に「現在の広小路に露天商組合が設立された」となっている。
1930(昭和5年)には店舗数が90店舗になり、この年の12月に二条8丁目に藤丸デパートも開業している。
1945年(昭和20)年の終戦時に木造の屋根がつけられ、その6年後の1951(昭和26)年に正式に帯広広小路と命名された。
店舗もそれまでは振興マーケット形式だったのが、1953(昭和28年)年には現在の店舗形式の商店街に作り変えている。
その後北側が火事で焼けたり、アーケードが大雪で倒壊したりもしたが、何度も改修を重ねて市民の憩いの商店街として存続してきたのだ。

現在、アーケードの老朽化に伴い、広小路アーケードの撤去の計画も聞かれる。

帯広の「まち」の象徴である広小路が、変わり果てたとはいえ今でも帯広市民の心に「まち」の象徴として残る形なのであれば、昔のようにとはいわないまでも、新しい形で継承していくような場所になるといいのにと、願わずにはいられない。


◇帯広Docco-InnおよびPICOのスパゲティ2010年01月07日 02時10分14秒

とんねるずの「みなさまのおかげでした」で、石橋がスパゲティのことを「ゲッテイ」と呼ぶのを聞いて、パスタとスパゲティの違いについて考えたりしていた。
正しくは、パスタはイタリアでの小麦を使用した麺などの総称で、スパゲティはそのひとつの種類であることは知っている。
しかし、石橋はそういうことを言っているのではないだろう。

70年代、日本でのスパゲティといえばママーで、麺の太さは一種類、そして料理はナポリタンかミートソースと相場は決まっていた。
我が家では、ナポリタンよりミートソースが圧倒的に多かった。
作る手順としては、ゆでたスパゲティをうどんのごとく水で洗い(ぬめりをとると言っていた)、油をひいた鉄板かフライパンで炒めた後、なんらかの味付けがされたり、ソースがかけられたりするのだった。
具が入る場合は、麺を炒める前に具をあらかじめ炒めてから麺が投入される。
ポイントは、「麺を炒める」というところである。
当時、私は友達にも聞いたりしたのだが、私の周辺にいる友人の家でも、「スパゲティは炒めて食べる」というのが主流だったように記憶する。
スパゲティは子供に人気のメニューではあったが、まだまだ本格的に作るというよりは、新しい洋風なメニューが登場してそれにチャレンジくらいの感じだったのだろうと思う。

80年代に入り、友達と喫茶店などに入るようになって、外でスパゲティを食べる機会が多くなった。
子供の頃は「スパゲティといえばナポリタンかミートソース」だったのが、あちこちでたらこスパゲティだとか、醤油味などいろいろな味のバリエーションが増えだしてきたが、「麺を炒める」という基本的なところに変わりはなかった。
また、喫茶店などでは厨房がせまいところも多かったせいか、お客さんの少ない時間帯に大きな寸胴で大量のスパゲティをゆでておき、それを冷蔵庫に保管して、注文が入ったときに炒めて調理する方式が大多数だったように思う。
「麺はゆでたてが一番」が常識の今であれば、「麺をゆでて保管しておく」なんて考えられないことだが、昔はこれが一般的だった。私が後で勤めたいくつかの喫茶店でも、同じようなことがしばらく行われていた。

私が1984年くらいから通っていた広小路にあったDocco-Innとカジノビルにあったピコは、同じオーナーの「O川珈琲店」の姉妹店であったので、メニューの内容はほぼ同じものだった。
ここのスパゲティのメニューは、独自のレシピでいくつかのソースが自慢だった。
ナポリタンなどの定番のものもあったが、納豆ののった醤油味ベースのジャポネや中華風のチャイナなど、独特なメニューが多かった。
しかし、ここでもスパゲティは当然のごとく「炒めた」ものであった。
ジャポネやチャイナも、ソースは上からかけるのではなく、ナポリタンのように麺に絡めて炒めてあるものだった。

納豆ののったメニューはピザもあり、納豆とチーズのミスマッチのマッチングがなかなか絶妙だった。
スパゲティのジャポネは人気メニューだったが、ピザのジャポネはある種ゲテモノ的な印象を受けていたので、これを注文するのはなかなか勇気のいることだった。でも、一度食べるとやみつきになる。
私がピザのジャポネを初めて食べたとき、ピコのカウンターでオーナーのO川さんが「これ、おいしいでしょ」と独特の語り口調で顔を近づけてきたのを、強烈に記憶している(かなり嫌な記憶ではある。でも美味しかったのは事実)。

帯広の他の喫茶店に多く行っていたわけではないので詳しいことは知らないが、たらこスパゲティが美味しい店、ホワイトソースが自慢の店など、帯広には当時独自のレシピを売りにする店が多かったように思う。
そんな中でも、Doccoとピコのスパゲティは、他にはないオリジナリティがあった。
納豆をトッピングしていたり、醤油ベースのスパゲティは、今ではさほど珍しくもないが、Doccoとピコのジャポネやチャイナ(他にもいくつかあったはずだが、思い出せない)は、ただ、醤油で炒めただけのものではなかった。
常連連中はそのレシピを知りたがったが、当時Doccoの店長だったK森さんは絶対にそのレシピを教えてくれなかった(ピコでは、いつもオーナーのO川さんがいたので、聞きづらかった)。
唯一、友人Tがレシピを聞き出したと言っていたが、他に聞いたという話を聞かない。

1985年当時、東京などの都会ではどうだったのかは知らないが、少なくとも田舎にありながら、札幌よりもかっこよくという欲望渦巻く帯広の町で、「本当のスパゲティは炒めない」という概念が定着するのは、もう少し先のことである。
1986年か87年に、帯広の西二条9丁目か10丁目あたりに「本格ゆであげスパゲティの店」がオープンするまでは、「炒めたスパゲティ」が圧倒的に多かった。

ゆであげスパゲティが主流になるにつれ、喫茶店の「炒めるスパゲティ」は徐々に姿を消していくのだが、それでも本格的なイタリアンのスパゲティと平行して、日本独自の味付けのスパゲティは定着していく。
それは、今でも「街のパスタ屋さん」みたいな店で食べることができる。
しかし、Doccoやピコがなくなってしまった帯広で、あの頃のメニューが懐かしく思われることもしばしばあるし、当時の友人と話しても必ずといっていいほど話題に上るのが、Doccoとピコのスパゲティの話だ。
あれらのメニューは、今の「街のパスタ屋さん」みたいなところでも、なかなかお目にかかることはできないからだろう。

しかし、どこか「本格的なスパゲティは炒めない」という事実をつきつけられたとき、「今まで炒めていたのはなんだったんだ? うはーかっこわりぃ」という意識がどこかにあったのだと思う。
それは日本全国、共通した感覚だったのではないか?
そして、スパゲティは「パスタ」という言葉を知ると共に、「日本風のはスパゲティ、本格的なのはパスタ」という、日本人独特の区分けが生まれたように思うのだ。

とんねるず石橋の「ゲッティ」を聞くと、そんな「ちょっとかっこわりぃけど、実は美味しいんだよ」というスパゲティをなんとなく体言しているような気がしてならないのだ。
そして、「ゲッティ」と聞くたび、今は食べることができなくなったDoccoとピコのジャポネたちを思い出し、ちょっと食べたくなったりするのだった。

◇音と匂いの記憶2008年03月07日 04時29分16秒

三歳頃のことは比較的よく覚えているほうだと思うのだが、普段はほとんど思い出すことはない。
この頃、私は線路沿いのちょっと奥まったところにある家に住んでおり、道路を出るとすぐに踏み切りがあった。線路沿いのちょっと離れたところには、木材を汽車で運んできたものを積んでおく木場があり、風のある日は遠くから木材の匂いがしたりしていた。
夜になると二階で一人で寝かせられるのだが、夜行列車の走る汽笛の音や、木場で夜間作業をする音が遠くから聞こえてきて、なんとなく怖かったり、その音があることで安心したりした。
この頃は子供だったので夜出歩くことは稀だが、たまに母と出かけて暗くなってから帰ってくると、闇の中に果てしなく続く踏み切りのずっと向こうが気になって不安になったり、闇の中から木場の匂いがしてきたりしたことを思い出すのだ。まだまだ街中でも暗い場所が多く、闇が怖いと感じていたのだ。

現在は家の前を幹線道路がはしっており、そこはトラックの主要道路となっていて、夜間でもトラックの走る音がよく聞こえる。トラックが走るとき汽笛のような音がすることがあるのだが、夜寝ているときにこの音を聞くと、その頃の記憶がよみがえってくることがある。
暗い闇の中に続く線路と、その向こうから聞こえてくる汽笛、そして木場の匂い、そして闇の向こうに感じる気配やそのとき自分を包んでいた感覚が一気に自分の周囲を包んでしまう。木の匂いなどするはずもないのに、実際に嗅覚は木の匂いを感じていたりする。

音や匂いの記憶は、何かに関連されて印象づけられていることが多く、それが記憶の引き出しを開く鍵になっていたりするのだろうと推測している。このこと以外でも、音や匂いがきっかけで思い出すたわいもない記憶というのは、けっこう多い。
ある曲を聞いていて、なんとなく別な曲を思い出して聞きたくなったり(でも、タイトルやアーティストが思い出せなかったり)、ある匂いをかいで忘れていた人を思い出したりする。

先日テレビで、「亡くなった人の記憶は声から忘れていく」という話をしていたが、このことを聞いたときに24年前に亡くなった友人の声や、死んだ祖父母の声を思い出してみた。
正しいかどうかは別として、私を呼ぶときの声や、話し方などまだうっすらながら思い出せるような気がしてちょっとほっとした。
友人の声を思い出したら、当時流行っていた曲が頭に浮かんできて、もうれつに聞きたくなってたまらなくなった。

◇バイクになった鹿の思い出2008年02月22日 01時51分19秒

ある日突然、ぱっと頭に昔の記憶がよみがえることがある。そのときだけでまた忘れてしまうことも多いのだが、ずっと忘れていたのに思い出したとたんに頭から離れなくなってしまうこともある。
「バイクになった鹿」の思い出は、ずっと忘れていたのにある日テレビを見ていたらぱっと頭によみがえり、その後ふっとまた思い出すということを繰り返しているのだ。そのテレビがどういう内容だったかは、すでに覚えていないのに。


この思い出は、鹿が実際バイクになったという話ではない。
二十数年前のある日、私は20年来の旧友Kと帯広の西二条通りを、広小路の西一条八丁目にあったD・Iという喫茶店に行くために歩いていた。
広小路に入り歩道のわきに停めてあったバイクをふと見ると、一台のバイクのシートに唐突に石が置いてあった。
石はそのへんにあるような小さな石だったし、バイクも特に変わったバイクというわけでもなかった。
しかし、街中で石を見るというのも唐突だったが、なぜ石がバイクのシートに乗せてあったのか大変不思議に思え、私たちの目はしばらくそこに釘付けになった。
シートが汚れないために何かかぶせてあり、それを止めるために置いてあったのが石だけ残ったのかもしれないし、道端に落ちていた石を誰かが無造作にバイクのシートにのせたのかもしれない。
いや、もしかしたら何かの目印かもしれない。誰かがバイクの持ち主に合図するためのものかもしれない……。
と、私たちの想像は膨らんでいく。

D・Iに到着するまでの間に、「あれはもしかしたら封印かもしれない」という話になった。もともとあれは鹿で、バイクに化身しているのを元に戻らないよう石で封印しているのだと。

D・Iに到着した私たちは、お店にあったお客さん用の落書きノート(昔の喫茶店には、こういうものがよくあった)に、二人で鹿がバイクに化けた話を交代で書いていき、コーヒーを飲み終えて帰る頃には一大話が出来上がっていた。しかし、どういう理由かは思い出せないが、その話は途中で終わってしまったのだ。

その後私が一人でD・Iに行ったとき、ある顔見知りの常連さんに「あの鹿の話の続きはないの?」と聞かれた。最初はなんのことかわからなかったのだが、落書きノートに書いたその話が常連さんの間で小さな話題になっていたらしい。話をKと二人で書いているときにそれを見ていた従業員が、私たちが書いたものだと話したらしいのだ。
後で再びKとお店に行ったとき、その従業員が「あの話の続きが楽しみなのに」と私たちに言ったのだが、その話に対するテンションは二人の間ではすでに終わっていたので、想像力も尽きていたのかもしれない。結局私たちがその話の続きをノートに書くことはなかった。


と記憶はここで終わっている。
私が気になるのは、あの話がどんな内容だったかなのだ。話の大筋は覚えているのだが、ノートに書いた物語の詳しい筋は覚えていないし、D・Iはすでに閉店しているのでそんな昔のお客様ノートが残っているとも考えにくい。一緒に書いたKがこの話を書いたこと自体覚えているかどうかは不明だし、たとえ彼女が覚えていたとしても、確認したところで昔話に花が咲く程度のことで、どうということはないのだろうとも思う。

ただ、なんとなく思い出して確認する術のないものが、ちょっと気になるだけのことなのだろう。
それでも、この思い出自体はなんとなく私の中ではいい思い出だったりするのだ。

◇ムーンライダーズの思い出2007年03月22日 05時23分38秒

ムーンライダーズの30年: ミュージックマガジン増刊
ムーンライダーズの30年: ミュージックマガジン増刊

書店で「ムーンライダーズの30年: ミュージックマガジン増刊」という本を見つけたので購入した。

ムーンライダーズは、劇団白樺のメンバーの一番のお気に入りのバンドで、当時メンバーの溜まり場だったY姉弟の家でレコードをかけては一緒に歌ったりした。当時洋楽にどっぷりはまっていた私としては、10代後半の日本のバンドの中では一番印象深いバンドである。

当時は、音楽は常に自分のそばにあるものと思っていて、自由に好きなレコードを買えるほどお金があったわけではないけれど、なんとなくいつも音楽を聴いていることが普通だと思っていた時期だった。
ムーンライダーズは、自分から好きになったわけではなく、そんな生活の中でなんとなくいつもそばにあったようなバンドだった。

東京に出てきてからは、自分から聞いたりすることもなくなってしまったが、20年近く前にパソコン通信をはじめて、参加したフォーラム(当時は、各パソコン通信会社が運営する中で、それぞれテーマに沿ったフォーラムというものがあり、決められた場所で思い思いの意見を発表したりするのが主だった)で親しくなった人たちも、何故かみんなムーンライダーズが大好きだった。私より年上の人たちは、はちみつぱいの頃からのファンの人も多かった。
「最後の晩餐」が前のアルバムから6年経過した後に発表された1991年頃、そのフォーラムの仲間とみんなでムーンライダーズのライブを見に行ったこともある。

当時はレコードからCDに入れ替わって久しかったが、CDプレイヤーを購入するお金もなかったので、自分から音楽を追及したりすることから少し離れていた時期だった。自分が生涯で一番好きな音楽家のコンサートがあっても、それに足を運ぶこともできずにいた。
パソコン通信をはじめて音楽好きな仲間とめぐり合い、そこにいた人たちの知識量のすごさに影響され、CDプレイヤーを購入し、その中にあったたくさんの情報と、自分の中にあった枯渇した音楽への欲求が爆発するように、ありとあらゆる音楽を聴きまくっていた時期でもあった。
当時見たムーンライダーズの最後の晩餐ライブは、やっぱり自分は音楽と共に生活したいという気持ちを再確認するものだったのだろうと思う。
60年代~70年代の日本の音楽が好きだったこともあって、はちみつぱいを勧められて聞いたりもした。
いつも自分からは求めないでも、何かしらムーンライダーズは誰かがそっとそばに置いていってくれる届け物のような形で私のそばにあったのだ。

1998年か1999年に、つくばで糸井重里と鈴木慶一があるイラストレーターのイベント応援に駆けつけた時も、やはりそのライブハウスの常連さんの一人が熱狂的なムーンライダーズファンで、最初は最近の曲を演奏したりしていた鈴木慶一も、私たちが古い作品のCDを持ち出し(常連さんは火の玉ボーイを、私はマニラマニエラを)、サインをねだったりしたものだから、後半はマニラマニエラにある糸井重里と鈴木慶一の作品である「花咲く乙女よ穴を掘れ」を歌ってくれたり、はちみつぱい時代の曲を演奏してくれ、感激でふだんはあまり仲良くもないその常連さんと、手を取り合って歓んだりしたのだ。

パソコン通信からインターネットに移行するにつれ、パソコン通信のフォーラムにもいかなくなり、そこにいた友人達も少しづつそこから離れていって会わなくなってしまったが、参加していたフォーラムで最後に見たのは「ムーンライダーズ20周年記念特設会議室」だったように記憶している。
あれから10年。そのフォーラムで知り合った人と結婚し、つくばのライブハウスで鈴木慶一と会ってから、ムーンライダーズからもなんとなく離れていたけれど、思えばムーンライダーズはずっと私のそばにあったのだなあと、購入した本を読むとその時期その時期の出来事とオーバーラップして思い出されたりする。

◇ライポン、ゼロックス、ホッチキス2006年11月15日 14時39分43秒

ほんの何年か前に、旦那の従姉妹と台所洗剤の話をしていたときのこと。その人は旦那よりも何歳か上で、私とも10も歳は離れていないのだが、「ライポン使ってないの?」と言うのだ。
ライポン。ものすごく懐かしい響きで、一瞬新しい台所洗剤の名前かと思ったがそうではない。ライポンとは、昭和30年代にライオンから発売されていた「ライポンF」という商品名である。
現在の台所洗剤は液体のものが圧倒的に多いが、ライポンFは粉状で水などで溶かして使うものだったらしい。私が物心ついたときは「ママレモン」が主流だったので、私の記憶には「ライポンF」はないのだが、昔年寄りが同じようなことを言っていたので覚えていた。
ライオンが「ライポンF」を発売した頃、台所洗剤と言えば「ライポン」だったため、台所洗剤のことをライポンであろうがなかろうが「ライポン」と呼んでいた時期があったらしい。旦那の従姉妹は「台所洗剤は使っていないの?」という主旨の質問をしたのだろうと思うが、私とそれほど歳の離れていない人がこの代名詞を使用することに驚いた。
私の幼い頃は、ライポンにかわって液状洗剤「ママレモン」が台所洗剤の主流だった。当然、ママレモンはライポンに替わって台所洗剤の代名詞となったようで、すでに台所からママレモンが姿を消した頃になっても、母の年代の人は台所洗剤のことを「ママレモン」と呼んでいた。

この手の話では、先日最近友人になったMさんが「今年入ってきた新人の女の子が上司に「ゼロックスして」と頼まれて、大変困っていた」という話をしていた。
「ゼロックス」と言えば、現在ではただの会社名でしかないが、ゼロックスが日本で初めて複写機を発売してからしばらくは、オフィス街では「コピーする」ことを「ゼロックスする」といったのだ。この言葉は90年代初めまで聞かれたが、私も当初はなんのことやらわからなかった。

ライポン、ゼロックス共、今では死語になっている言葉だと思うが、その商品が発売されたときの印象があまりにも大きいためにそのまま商品名が固有名詞的使用方法をされている例は他にもたくさんある。
たとえば、ホッチキスなどもそうだ。ホッチキスの固有名詞は「ステープラ」あるいは「ステープル」なのだが、「これステープルして」といったところで、何をすればいいのかわからない人の方が多いのではないかと思う。
ホッチキスも、アメリカでホッチキスという人が開発し、ホッチキス社というところから発売されたため、この名前がついたもので、それがそのまま日本に固有名詞として定着したものらしい。

パソコンなども、昔はIBMと呼ぶ人がいた。日本ではNECの98シリーズがMS-DOS時代に爆発的に普及したため、パソコンを98と呼ぶ人もいる。Windowsが発売されてWindows98という製品が出た頃、まだパソコンのことを98と呼ぶ人がいて、「98買おうと思っているんだけど」という話をしているときに、私はOSを買うのだろうと思って話をしていたのだが、当の本人はパソコンのことを指しているのだという勘違いもあったが、この勘違いはなかなか気づくことができなかった。

もっとすごい人になると、パソコンのことを「ワープロ」と呼ぶ人もいるのだ。80年代初めまでは、和文タイプライターの代わりに日本語ワープロ専用機が普及した時代があったのだ。日本語ワープロ専用機は基はパソコンと同じようなものだったが、パソコンはまだまだ高価で使い勝手も素人には難しかったため、難しいパソコンの知識を必要としないワープロ専用機は根強い人気があった。
もっとも、パソコンが普及しだした当時は、一般的にはワープロか表計算ソフトくらいにしか活用されていなかったので、ワープロ専用機とパソコンの区別がいまいち判別できなかったということもあるのではないかと思う。

そういえば、ワープロソフトのことを「ワード」と呼ぶ人も最近では多いかもしれない。MS-DOS時代にはワープロソフトといえば「一太郎」だったが、MS-DOSとWindowsにとってかわるとマイクロソフトの陰謀でワードがワープロソフトとしては一般化ていった。

商品名を固有名詞として使う場合に、その人の年齢的要素も大きく関係してくる。今では、こういう現象もなかなか定着しないので、この手の言葉もホッチキスのような例がなければどんどんと死語化していってしまうのだろう。
物がなかった時代、新しく便利なものが発売されると、自然に一番普及した商品名がそのまま固有名詞として使われたことが多かったのだろうが、物が氾濫した今ではあまり考えられないような気がする。新しい商品が発売されても、すぐに対抗他社が同じような商品を発売するし、そのスピードも昔とは比べ物にならないくらい早いせいもあるのだろう。

ついこの間、電車の中で若い子が「俺、i-Podほしいんだよな」と言っている。しかし、彼の胸にはi-Podがさがっているので、別なi-Podがほしいのだろうと思っていたら、彼が言っているのはちがうメーカーのi-Podの類似商品のことらしい。
思わず「それはi-Podじゃないんじゃないか?」といいたかったが、話し相手の友達は何の違和感を持つ様子もなく会話をしているので、彼らの間ではi-Podが携帯型音楽再生HDDのことを指しているのだろう。一般的ではないが、ごくごくローカルには新規にある商品名がそのまま固有名詞的使用をされているらしいことに、ちょっと興味を覚えた。

◇革製品のお手入れの思い出2006年09月06日 06時12分05秒

革の定期入れのお手入れ方法www


うちの旦那は、革製品の手入れが好きだ。
靴から鞄に至るまで、自分で使用する革製品は定期的に汚れを落とし、つや出しに精を出している。
たまに私の靴なども手入れしてくれるので、こういう趣味は歓迎したい。
しかし、つい昔あった恐怖の体験を思い出してしまうこともあるので、その度に背筋が寒くなるのだ。

まだ独身の頃なので、十数年前の話である。
当時、東海道線で藤沢から品川まで通勤していた時のこと。
その日の電車は満員とまではいかないまでも、適当に混んでいた。
川崎を過ぎたあたりで、4人掛けの椅子の前が空いたので、私はそこに移動してつり革につかまり立っていた。
私の隣には50代くらいの女性が立っており、私達の前にはくたびれた感のある会社員らしいおじさんが座っていた。

横浜を過ぎて、おじさんがおもむろに茶色の革の定期入れをかばんから取り出したので、私も隣の女性も「こいつは戸塚で降りるな」と思ったのだ。
すると、おじさんは鞄から取り出した定期入れの辺で顔をなぞりはじめた。ぞぞぞぞぞと定期入れで顔をなぞると、こんなに顔の脂が取れるものなのかと驚くほど、定期入れの端に脂がたまっていくのがわかる。脂取り紙なら一瞬にして透明になり、十枚やそこらでは取りきれないのではないかと思うくらいの量である。
そしておじさんは、定期にたまった脂を指で革になすりつけ始めたのだ。
左ほほ、右ほほ、額とまんべんなくなぞってはなすりなぞってはなすりしていくうちに、茶色の革の定期入れはみるみる黒くつやつやになっていく。

私がふっと隣の女性に目をやると、隣の女性も私の顔を見て「気持ち悪いわね~」といいたげな顔で苦笑した。私もつられてひきつった笑顔で応じたが、戸塚に着くやいなや隣の女性は笑いながら逃げるようにして電車を降りていってしまった。
定期を用意したおじさんは戸塚では降りず、私達のことなどはまったく気にする気配もなく、定期入れのお手入れに余念がない。

おばさんの後を追うようにして、私も別な車両に移動した。
藤沢で下車するとき、ちらっと見るとおじさんはまだ電車に乗っている。どこまで行くのかわからないが、その後そのおじさんに会うことはなかった。

革製品のお手入れを見ると、この時のことを思い出してしまう…。



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