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◇キース リチャード タバコをやめる2020年02月08日 02時47分17秒


ローリング・ストーンズのキース リチャーズといえば、タバコをくわえてステージに立ち、ギターを演奏する姿がトレードマークのようなものだった。
少なくとも、私はそんな印象をもっていた。
そのキース リチャーズがタバコをやめたというニュース。
もうタバコがかっこいい時代は終わりをつげた。
ロックのアイコンも、いまやタバコは除外される世の中を歓迎したい。

◇北方領土問題に漠然と考えること2016年12月15日 02時51分03秒

今、ニュースではロシアのプーチン大統領の来日に併せて、北方領土の領土問題の解決に向けての会議が話題になっている。
北海道、特に道東、オホーツク海に面した地域の人達にとっては、並々ならぬ思いがあるだろう。
昔は、北海道の至るところに大きな看板があり、そこには「島を返せ!」という文字があった。
大抵は手書きのペンキ絵の看板だったが、その迫力は尋常なものではなかった。

北海道を離れて暮らし始めると、北海道以外の人達の北方領土に対する意識は道民のそれとはかなり違うことに気づく。
何故、島がソ連の実効支配になったのか、樺太は何故日本の領土ではなくなったのか。
歯舞、色丹、国後、択捉の名前すら知らない人も多い。
もちろん、道民だって全ての人が知っているわけではない。
北海道でも西に行くにつれてその意識は希薄になっているだろうし、今の若い人達は北海道以外に暮らす人達と同じような感覚を持っているのかもしれない。
東西冷戦の真っ只中にいた私達の世代でも、なんとなく漠然とソ連の脅威の前に得体の知れない恐怖を感じていただけだったかもしれない。
北方領土に関するニュースは、頻繁に北海道のニュースになっていたし、日本の漁船がソ連に拿捕されて戻ってこないというのも日常茶飯事だった。

北海道の人が内地のことに無頓着だったりすることもあるのだから、内地の人が北方領土のことを知らずにいたからといって、それを責めることもできないことは承知だ。
それはお互い様なのだ。

北海道では“内地”と呼ばれる土地に住んで、いろいろな土地の人達と出会う機会があった。
その中で、広島出身の人に出会うと半分くらいの人が、私にこう問いかける。
「広島が世界で最初の被爆地であるということはご承知ですよね」

もちろん知っている。
小学校のときにも社会の授業で習ったし、私はエノラゲイの悲劇に関して6年生のときに新聞などを調査して作文として提出してこともある。
広島出身の人は、自分達が被爆地で生まれたことをある種特別なことのように話す。
それは他の地域の人が、広島の悲劇を理解しているかを確認するかのよう。
それは老いて実際に被爆した人ばかりではなく、私達世代の人から若い世代の人もそのような話をするのだ。

あるとき私は多少の疑念を感じて、こう問いかけてみた。
「それではあなたは、何故北方領土がロシアの実行支配を受けており、樺太が日本の領土でなくなったかをご存知ですか?」
当然のように、ほとんどの人は知らないと答える。
中には、そんなことは重要ではないという人もいる。

広島と長崎が世界中で唯一の被爆地であることはゆるぎようもない事実であるし、それは日本にとっても重要な出来事だ。
その地に生まれた人は、そのことを叩き込まれ被爆地に生まれたという意識を学んで世に出るのだろう。
でも、個人的にはある意味とてもうらやましいことだと思う。

もちろん、原爆が落とされたことがうらやましいわけではない。
そのことを世界中の人が知っていることが、それを広島の地に生まれたアイデンティティとして後世に受け継がれていることがうらやましいのだ。

北方領土はどうだろう。
樺太の問題はどうだろう。
「七人の乙女」の話が8月の終戦記念日付近に、何年かに一度放映されたりするが、それが樺太の話だと認識している人は少ないように思える。
「氷雪の門」が映画化されたのはもう50年近く前のことで、稚内にある「氷雪の門」がソ連の樺太侵攻に関わるものだと知っている人と会うことも少ない。
けっこうな年配の人でも、そんなことは忘れてしまっているかのようだ。

北海道の領土問題は、70年間忘れかけては思い出したように、引き出しから取り出して眺めてみる遺品のようだ。
そんな遺品はよその土地の人には興味もないものだろう。
だが、広島が戦争の悲劇によって特別な地になり、その物語は今もまだ続いているのと同じように、戦争を未だに引きずっている土地もあるのだ。

歯舞、色丹、国後、択捉の四島全てを返還することに拘ってきた70年の中で、今回初めて歯舞、色丹だけ分けて返還することも検討されるという話もある。
それでは、これまで拘ってきたものはなんなのか。
帰ってこないよりは、4つのうちの2つでも帰ってきたほうがいいのだろうか。
日本にとって領土問題とはなんなのか。
島に住んでいた人が死ぬのをまるで待っているかのように、話は一向に進展させずにきたのだ。

今回の会談でどのように話が進展するかは興味深いところだ。
それ以上に、この問題がアメリカの基地問題と同じように、他の領土問題と同じように、周知され、認識され、例え無事に島が返還された後でも、このような事実があったということを忘れないようにならないものか。

今回の会談に向けて、そんなことを考えたりしている。

◇追悼 巴里夫2016年12月15日 02時02分14秒


「5年ひばり組」傑作選 / 巴里夫(復刊ドットコム)

今年の7月に、巴里夫という漫画家が亡くなった。
私はりぼんで掲載されていた「陽気な転校生」などで知ったが、最初はあまり好きな作家ではなかった。
絵が古臭いのと、少し幼いストーリーが馴染めなかったからだ。
時は70年代初頭。小学生女子もこまっしゃくれていた時代だった。
しかし、どこか共感が持てるところがあったりして、なんとなく印象に残る作品も多くあった。
友達とささいなことで仲たがいしたり、しゃれっ気が出てきてみたり、親に反抗したり。
作品の中の少女達も、時代が進むにつれてクラスの中で大きな貧富の差があったりするのはなくなってきて、少しずつおしゃれで活発な少女達が登場するようになると、テンポのいい作品に親しみを持つようになった。
しかし、私も中学生になり、高校生になるにつれ、巴里夫の作品は読まなくなった。
そして、しばらくは忘れていたのだ。

20年くらい前に、古本屋で「5年ひばり組」の単行本がセットで売られているのを見て、思わず購入した。
あまりにも懐かしい絵柄と印象深いストーリー。
個性豊かな5年ひばり組のクラスメイトとやさしい大ユリ先生。そして生徒と共に成長するお母さんやお父さん。
ぷっくりしたくちびると大きな目、ちょっと上を向いた鼻は、巴里夫の作品に共通して登場する主人公の特徴だ。
悲しい物語も楽しい物語も、主人公はだいたいこのタイプ。


巴里夫先生 おまけ

ここ数年、彼がどうしているかが気になって調べてみたら、ご自身で自分の作品を復刻し公式サイトで通販し、コミケなどにも参加されていたというので驚いていた。
セットで購入したと思っていた「5年ひばり組」は全8巻のうち6巻までしかなく、最後の2巻を購入すべきかどうか逡巡していた。
ちょくちょく公式サイトは覗いていたのだが、しばらくみないうちに訃報が発表されていたらしい。
朝日新聞でもニュースになっていたが、私のところにそのニュースは届かなかった。

今は公式サイトも見ることができなくなっているが、Little Spot NEWSによると、

「巴里夫(本名・磯島重二)は、平成28年7月1日に永眠いたしました。ファンの皆さま、これまでのご厚情に厚くお礼申し上げます。本サイトは、今月一杯で閉鎖しますが、近々、巴里夫マンガを伝承するサイトを立ち上げる予定です」


と書かれていたとのこと。
復刊ドットコムからも「5年ひばり組」の傑作集が発売された。
もうこんな気持ちになる漫画に出合うことも少ないだろう。
近々立ち上げる予定という伝承サイトが、予定通り立ち上がることを願うばかりである。
巴里夫さん、安らかにお休みください。

◇訃報 - デヴィッド・ボウイ2016年01月12日 16時30分55秒


David Bowie - Lazarus

デヴィッド・ボウイが2016年1月10日に亡くなった。
享年69歳。
ネットのどのコメントを見ても、「信じたくない」「信じられない」という言葉が踊り、新作を1月8日の誕生日に発表したばかりの悲報に驚くばかりだ。

私もニュースを見たときには、信じられなかった。
でもそれ以上に、デヴィッド・ボウイが死んだというニュースに衝撃とショックを覚えた。
悲しみよりも驚きの方が先にあって、悲しいという気持ちは正直まだ心に到達されていない。
なんとなく、デヴィッド・ボウイは死なないような気がしていたからだ。
その理由は、私の中で彼は人間としての存在よりは、ポップアートの作品としての存在の方が大きかったからだ。
つい先日亡くなった、水木しげるもなんとなく死ぬ事などないんじゃないかと思っていたが、彼はデヴィッド・ボウイのそれとはまたちょっと違う印象。

去年、「David Bowie is」という、イギリスで行われた大回顧展の映画を見たときに、この人は自分自身をアート作品として常にプロデュースしつづけてきている人なのだと、強く思った。
ジギー・スターダストの頃の舞台装置のスケッチや、衣装の細部にいたるまで、自分自身の持つ素材を最大限に利用して、表現するという貪欲な意識を感じて、真に稀代のアーティストであるのだと痛感したのだった。
私たちが見ているデヴィッド・ボウイ自身は、彼の表現している作品であり、私たちの前からなくなることはない。
心臓疾患でステージで倒れ、その後作品を発表しなかった10年間がひどく長いものに思えたし、死ぬならそんな風に世間から隔離された状態でひっそりといなくなるんじゃないかと思っていたのだ。

イギリスで行われたこの回顧展は、誰もが引退したと思っていた10年の空白のあとの2013年に発表した「The Next Day」に合わせたものだった。
「Heroes」のジャケットの自分の姿を白い四角で隠したジャケットのこのアルバムは、PVも若い自分(のイメージ)と歳をとった自分とが出てくるもので、過去の自分と現在の自分とは違うものであるということを、私たちに訴えているように思えたので、この回顧展が「The Next Day」に合わせたものであるということが、少し複雑な気持ちだった。
私たちのもっているデヴィッド・ボウイのイメージは、常に回顧展の中にあるものであることは疑いようがないのだが、当時のデヴィッド・ボウイはこのイメージの中にいることはないと言いたかったのだろうかと思ったりしたからだ。
老いという避けがたい変化の中で、素材としての自身をアートに昇華することの難しさをPVを見て感じた。
そして、「Heroes」のジャケットを打ち消しているかのような「The Next Day」のジャケットも、色々と想像をかきたてられるものだった。

今年の1月8日のニューアルバム「Blackstar」を私はまだ聞いていないが、発表されているPVなどを見る限りでは、老いと死をテーマにしているのではないかと思えるような、そんな印象を受けた。
ネットのどこかで、死んだのはデマでニュースで販促しているのではないかとか、死んだことで「Blackstar」をアートとして完成させたのではないかという話をしている人がいた。
彼が亡くなったのは真実のようだが、見方としては私はそのどちらでもあるのだろうなと思った。
デヴィッド・ボウイが死ねば、彼の古いファンで新しいのは知らない人も耳にする機会が増えるだろうと思う。
それくらい、多くの人に彼の作品を示しておきたかったのだろうと思った。
デヴィッド・ボウイという生き様の中でも、ものすごく計算された死に様。
老いや死さえもアートとして昇華する、彼のアーティストとしての覚悟に感嘆するばかりで、なんとなく悲しんでいられないのが正直な気持ちだ。
というか、やっぱり死んでなんかいないんだろうなと、そんな風にも思ったりする。

死のニュースの前日、イギリスで行われた大回顧展「David Bowie is」の展示が、日本でも2017年に開催決定したというニュースを見た。
配信は「Blackstar」の発売日である、1月8日である。

デヴィッド・ボウイ、新作『★』を69歳の誕生日にあたる本日発売!!
大回顧展『David Bowie is』が来年、遂に日本上陸!!


来年の開催だから大回顧展も追悼展になってしまうのだろうが、あの見事なプロデュースの軌跡を映像ではなく実際に見てみたいと思う。
「Blackstar」もあちこちのCDサイトでは売り切れ続出のようだし、デヴィッド・ボウイの作品の多くも品薄になっているようだ。
これから追悼企画版などが出てくるのだろうけど、それを目にする都度、耳にする都度、やっぱり死ぬ事などないんじゃないかと何度も思うと同時に、その頃には死んでしまった悲しみも押し寄せてくるのだろうかと、今は漠然と考えている。

◇鬼怒川水害のお見舞いを申し上げます。2015年09月15日 04時07分56秒

十数年前、茨城県つくば市に住んでいたときのこと。
自治体のパソコン技能推進事業の講師を請け負い、水海道市で講習会を行った。
生徒さんは30人弱ほどで、このときの授業は非常に楽しく、数回の講義の後、生徒さんからも楽しく授業を受けられたと手紙をくださった方もいらした。
私が楽しく授業をすることができたのが、生徒さんも同じ気持ちで受講していたことを知りとても嬉しかったので、このときのことは今でも時折思い出す。

水海道市はその後、自治体の統合によってその名を失い、現在は常総市という名前になっている。
今回の水害のニュースで、最初は常総市がどこにあるのかわからず、地図で確認してびっくりした次第だ。
つくば周辺には、すでに疎遠になった人もいるけれど、それでも知人が多く暮らしている。
水海道のパソコン教室の生徒さんとはあれきりのお付き合いだったが、それでも災害があったと知れば、みなさんご無事だろうかとあの時の教室の様子が目に浮かぶ。

鬼怒川の水害で被災された方が、一日も早く生活を取り戻せますよう、お祈り申し上げます。

追記:
この十年ほとんど交流のなかった遠方の知人の方から、つくば市は大丈夫だったか、水害地域が近いから心配したと電話をいただいた。
後で笑い話になったものの、長く交流がなくともこうして心配してくださる方がいらっしゃるのは、とてもありがたいことだ。
それでも、すでにつくば市にいない私たちのために無駄なご心配をおかけするのは心苦しいので、改めてすでにつくば市から転居しており、ご心配にはおよばないことをご報告いたします。

◇ソチオリンピック 男子フィギュアメダリストがアジア系であることについて2014年02月15日 06時07分55秒

2014ソチ五輪男子フィギュア メダル受賞者

今回のオリンピック男子フィギュアは、日本人選手の成熟した技術なども見所だったが、個人的には前回のバンクーバーからの世代交代に注目していた。
それはロシアの帝王プルシェンコの棄権によって現実味を帯び、バンクーバーで上位にいた選手は、若い選手におされ気味な結果に終わった。

結果としては、日本には嬉しい19歳の羽生結弦選手の日本人初の金メダル。
銀メダルはバンクーバーで5位の、金メダルの本命争いの一人であったカナダのパトリック・チャン。
そして、バンクーバーでは16歳で参加していたデニス・テンの銅メダル。

日本人としては、羽生選手の金メダル。そして町田選手の5位、高橋選手の6位という、参加選手全てがベスト8に残ったことが喜ばしい。
しかし、個人的にはバンクーバーで胸ににきびを作って、唇から出血しながら参加していたカザフスタンのデニス・テンが、立派な選手になって表彰台に登ることが、前回のオリンピックで注目していた一人としては大変感慨深いものがあり、なんとなく親戚のおばさんみたいな気分だったりするのだった。
そしてそれ以上に、メダリスト3名全てがアジア系の選手であることに驚き、大変喜ばしく感じたのだ。
パトリック・チャンはカナダの選手だが、彼の両親は香港からの移民らしいので、彼は中国系カナダ人である。
Wikipediaによると、自宅での言語は広東語ということなので、カナダに暮していても香港人としての文化も触れながら生活したのだろうか。
欧米人の優雅さと、アジア人の繊細さ、力強さを両方兼ね備えた表現力は素晴らしいとも思う。

バレエやダンスでもそうだが、欧米の人の元から備わった表現力というのは、とても派手に見えるし、一つ一つのパフォーマンスの決め方も、どうしてこんなにビシビシと決まるのだろうかと思えるほどかっこいい。
逆に、アジア人は骨格がきゃしゃなせいか、パフォーマンスの決め方がどうしても流動的に見える。
その代わりに、内因表現をうまく表現できると、抑えた中に見えるパッションや、流れるような表現が美しい。
これは、骨格の違いや民族的・文化的なDNAのせいなのかと思ったりするのだが、その表現方法というのは、意識するしないに関わらず、真逆にあるようにすら感じてきた。
アフリカ系の選手がなかなか参加することのない競技なので、アフリカ系の選手が参加するようになると、それぞれの民族の違いや、文化的な背景などが表現されると更に面白くなるのかもしれないと今後に期待をもったりする。

以前は、アジア人のそういった表現力が、なかなか評価されなかったようにも思う。
もっとも、アジア系の選手がフィギュアに参加していたのは日本が先駆的で、韓国や中国、中央アジアの国々の選手が参加するようになったのは、つい最近のようにも思うから、比較することも難しいのかもしれないが。
もちろん、アジアの経済的発展によって、フィギュアスケート競技に選手を輩出できる地盤が整ったことも大きな要因であることは確かなのだが、その表現が世界に認められたことが何より嬉しい。

◇予防接種の履歴を知りたい2013年04月02日 01時22分39秒

巷で風疹が流行っている。
妊娠している人が風疹にかかった場合に、産まれた子供に障がいが出るケースがあるとのニュースを耳にする。
この手のニュースは毎年のように、なんかかんか病気が変わってニュースになる。
現在行われている予防接種のシステムが問題になる場合もあるし、現在の風疹のように過去の接種を受けたか受けないかが問題になっているケースもある。

風疹云々とは別に、自分は予防接種と言われるものは、どういうものを受けているのか気になった。
うちには子供がいないので、恥ずかしながら予防接種というものがどのようなシステムで現在行われているのかとか、現在はどういうものが接種されているのかなどまったくわからない。
私的に受けたのは別として、昔は学校で一斉に予防接種を受けていた。それより前は親の任意で病院で受けていたのだろう。
公的な予防接種はみんなが受けたのだから、何年生まれから何年生まれの人は、何々の予防接種を受けているかどうかだけでも公開されているのだろうと思ったのだが、インターネットで「予防接種 履歴」などでググっても出てこない。
出てきたのは、

国内外の最新医療情報を発信!QLifePro医療ニュース
2012年08月03日 PM12:00
アメリカで話題!ワクチン接種履歴をオンラインで確認可能に

米国インディアナ州での新しい試み

7月24日付、アメリカ発インターネット情報サイトwane.comによると、アメリカ連邦政府と州事務局は、インディアナ州の保健局が、インディアナ州地区の住民らの予防接種履歴をインターネット上で確認できるシステム「MyVaxIndiana」の提供を発表した。

<中略>

日本においては、各自の予防接種履歴は、出生時に配布される母子手帳に記録され、各自で保管、確認することになる。引っ越しなどによる紛失の可能性もあり、親の記憶に頼ることも多い。このようなシステムが日本でも実施されることを望む。
<引用終わり>


となっている。
別な類似記事でも、『去年日本脳炎のワクチン接種で亡くなった10歳の男の子の事件に際し、併用禁忌とされている2種類の薬を服用していたことが判明していることで、このようなシステムの重要性を示唆している(そめやデンタルクリニック「お知らせブログ」『予防接種履歴確認システム』2012年11月9日)』。

これを見てみると、現在日本では、自分がいつどんな公的予防接種を受けたのかは、大雑把にでもわからないらしい。情報が開示されていないというやつだ。
それで所管に保険所に聞いてみたところ、そのような資料は公開されていないとのこと。
だいたいの人が母子手帳に記録されいるはずだと言われたが、小学校の予防接種で学校に母子手帳を持参した記憶はない。
そのことを質問したところ、「母親に連絡がいっているはずなので、母親が記録していることになっている」との返事。「あなたが小学校の頃は、そんな連絡が親にいっていたことをあなた自身ご存知でしたか?」と質問したところ、保険所の女性は「いや~記憶にないですね」と苦笑いしていた。
厚生労働省の予防接種室というところに聞いてみたら、質問して一番最初に聞かれたのは「B型肝炎の訴訟に関することですか?」というもの。

どちらの機関にも、質問の意図として「今回報道されている風疹の予防接種の有無を考えたところ、自分がこれまでどんな予防接種を受けたかを知りたかった」と伝えた。
その返事として、風疹に関してだけ言えば、20代~40代と報道されてはいるが、1977年から1994年までは学校で接種が行われており、私の年代では中学校で女子のみが接種が行われたらしい。
なぜ女子だけだったのかなどの詳しいことは、対応してくれた方も資料を確認しながらで詳しいことは答えられそうになかったので聞かなかった。
また、子供の頃に予防接種を受けても、年齢と共に抗体が弱くなってきて、それは個人差があるので、自分でどんな抗体を持っているかは、抗体検査(保険適用外)を受けるとわかると教えてくれた。費用としては格差はあるものの、だいたい1万円強くらいらしい。

返答として特徴的は、「そんなこと初めて質問されました」的な対応。
グーグルで「予防接種」で検索すると、2番目か3番目に検索履歴にひっかかってくる文言なのに、そんなわけねーだろと言いたい。

それにしても、母親がマメな性格でない限り、記録は正しく行われていない可能性もあるわけだ。
災害などで消失している可能性だってあるし、さまざまな理由で親がすでに管理していない場合だってあるだろう
海外移住のときなどは履歴がないと困る場合だってあるはずだし、なんとなく自分の身体に何を注入されているのか知りたいと思うのは、今の世の中では当然の要求であるような気がするのだが。
B型肝炎訴訟の例もあるので、知られては困る理由でもあるのだろうか。
みんなが知っているし調べればわかりそうなものなのだが、なぜ情報開示しないのか不思議でならない。

それにしても、国民人口を増やす目的の一つとして予防接種というのが行われているのに、そのシステムがおざなりなばかりに、かえって人口を減らす原因の一つになっているのではないかと思うと、本末転倒なのではないかと思うのは、私だけなのだろうか。
年齢と共に抗体が弱くなるのであれば、人間ドックなどで任意に抗体検査を行い、必要であれば接種するシステムがあればいいと思うのだが。
まして、コンピュータがここまで普及している現代で、このような情報が母親まかせというのもいかがなものかと思ったりする。
訴訟目的の人はもっと詳しい履歴が必要かとは思うが、自分のことが知りたいだけなら何年生まれの人がいつ頃どこで何の予防接種を受けたのかが表になっているだけでもいいと思うのだが、そんな簡単なことではないのだろうか。

せめて、自分の身体に国が何をいつ入れたのかだけでも開示してほしいと心底願うと共に、夫婦二人で抗体検査を受けると、けっこうな出費だなあと思ったりするのであった。

◇訃報:Mr.デーブマン2013年01月27日 18時18分26秒


Mr.デーブマン出演CM「引越屋バンバンCM3」

引越屋バンバン歴代CM

Mr.デーブマンこと、高田文之さんが亡くなった。
北海道以外の地域の人で、特に若い人には馴染みはないかもしれないが、北海道のベストテン世代の40代以上の人であれば、必ずことの人の声を一度は耳にしたことがあるはずだ。
テレビでは、TBSのザ・ベストテンの中継に登場する「おっかけマン」として。ラジオでは、HBCラジオの「ベストテンほっかいどう」や「ダイナミックサタデー」などのDJとして活躍した人である。
当時の流行歌を紹介するラジオ番組のDJを多く担当し、邦楽(今で言うところのJ-pop)好きにも洋楽をちょっとかじった人にも馴染みの深いDJである。
アンパンマンのような風貌で、本名よりはMr.デーブマンの愛称の方が通りがよかったし、本人も「ミスターデーブマンの○○○○」と番組冒頭で自己紹介していたのが印象に残っている。

私が洋楽を聴き始めた頃、洋楽を専門に流すラジオ番組は、FMか深夜に集中していて、小学生だった当時は非常につらかった。
テープに録音するにしても、当時私が持っていたラジカセにはタイマー機能がついていなかったし、夜中の放送で寝てしまうと、北海道のラジオにはしばしば外国の放送がまぎれこんだりしていたので、アンテナの角度がうまくいかないと、きちんと録音されていないこともあった。
私の宵っ張り傾向は、このときがベースになったといっても良い。

そんな中で、Mr.デーブマンの洋楽ベストテンが週末の夕方に放送されていて、小学生洋楽ファンとしては非常に健全な時間帯に聴くことができてうれしかった。
最初の頃はアバやビージーズなどのポップスが優勢だったが、1980年代に入るとブリティッシュ・ロック系の楽曲もチャートインし、紹介されることも多くなった。
当時の洋楽のヒットの移り変わりが如実に反映された面白い番組だったが、だんだんと深みにはまるようになるにつれ、チャートインされるような楽曲は興味がなくなっていき、いつのまにか聴かなくなってしまったが、今でもカセットテープを探せば録音したはしっこくらいはみつかるかもしれない。 少なくとも、ニューミュージックから洋楽へと、聴く音楽が変わっていく過渡期に、ラジオの番組でさまざまな形でお世話になった。

彼の悲報を知ったのは、Twitterのまとめサイト「togetter」のカテゴリの中からだった。
Mr.デーブマンの悲報については、詳しい情報を知りたくていろいろ検索してみたが、北海道新聞に記事が掲載されたということ以外は、すでにWikipediaで死亡した旨が更新されている程度で、詳しいことはわからない。
HBCラジオでDJをしていた当時は、7年間ほとんど休みがなかったことや、最近ではテレビショッピングなどの司会をされていたことはWikipediaを見て知ったが、ある時期からラジオでもほとんど声を聞かなくなってしまい、上京してからは懐かしい人という感覚でたまに思い出したりする程度だった。

1月24日に自宅で倒れているのを発見されたとのことで、あの明るい声の主が孤独死という最後であったことには、多少なりともショックを覚えた。

Mr.デーブマンこと高田文之さんのご冥福をお祈りいたします。

◇訃報:大島渚の思い出2013年01月16日 17時46分31秒


映画監督・大島 渚さん、肺炎のため死去 80歳(13/01/15)/Youtube FNNnewsCH

熱を出して寝込んでいたときに、テレビを観ていた旦那が「大島渚が死んだって」と私に言った。
なんとなく意識が朦朧としている中で、「ああ、そうなのか」となんとなく納得してそのときはそれ以上何も思わなかった。
しかし、後でその事を思い出して、じわじわと驚きの感情がわきあがってきた。

大島渚という映画監督を強烈に印象深いのは、たぶん40代以上の人たちなのではないだろうかと思う。 大島渚の印象としては、政治的なテーマの映像作品であったり、男女の愛欲がテーマとなったものが多く、当時まだ10代だった私には、興味はあってもその意味を理解するのも難しかった。
撮る映画も斬新だったが、テレビが元気だった時代にはバラエティから情報番組、討論番組にも積極的に出演して、持論をぶちまけ、時には激高して相手を恫喝するようなシーンも度々あった。
自身の結婚30周年記念パーティの壇上では、酩酊した野坂昭如に殴られマイクで殴り返すということもあった。

昔はこういう文化人がたくさんテレビに出ていて、“怒り”の感情のありようを明確に提示していてくれたのだが、いつのまにかこういう人はテレビから姿を消し、なあなあで当たり障りのないどうでもいい感情だけがよしという風にされてしまったような気がする。
「喜怒哀楽」というくらいだから、喜びの感情の次に怒りの感情も大切であると個人的には認識しているのだが、今は「喜怒哀楽」から「怒」の感情だけが見て見ぬふりをされているような気がしてならず、それだから顔を出さぬ場所で怒りのパワーが間違った方向に発信されてしまうような気がする。

私たちの世代であれば、一番強烈に思い出すのはやはり「戦場のメリークリスマス」であろう。
愛のコリーダ」も非常に話題になり、わいせつ物陳列罪騒動も記憶しているが、このときはまだ小学生だったので、せいぜいクインシー・ジョーンズが歌っていた同名の楽曲がヒットしたことが印象に強い程度だろうか。
「阿部定事件」もこの映画の報道で知った。ウイークエンダーの再現フィルムか何かで阿部定事件の再現を見て、なんて痛い事件だろうと思ったりした。しかし、このときは内容の意味もよくわからず、なんだかどろどろして計り知れない闇を感じる事件であるということくらいしかわからなかった。
クインシー・ジョーンズの曲の日本語の歌詞の部分が非常にマヌケに聞こえたのと、ファンキーな曲調と、テレビで観た踊るクインシー・ジョーンズの姿が、この映画の題材になった「阿部定事件」との距離感がハンパなく、なんだかぐにゃぐにゃした印象であった。


Quincy Jones with louis Johnson ai no corrida

そういう意味では、「戦場のメリークリスマス」はリアルタイムであるが、この映画の本当の意味を当時理解していたかといわれたら、そうでもないかもしれない。
当時、日本のロックブームの中にあった、ボーイズラブ的なお耽美な世界を、大島渚は無骨な戦場に持ち込んだ印象が強かった。
それでも、この作品でビートたけしと坂本龍一という二人の才能が開花したのは誰もが認めるものだし、終始淡々としつつもところどころで鮮明に残るシーンのひとつひとつは、今でも脳裏に焼きついている。
Wikipediaで確認すると、内田裕也とかジョニー大倉なんかも出演していたとあって、ああそうだったかと思うくらい印象にはなく、主役のボウイとビートたけしの存在感と、滑舌悪くて何言ってるんだかさっぱりわからなかった坂本龍一が印象深い。
メディアを買うほど好きな映画ではないが(曲に至っては、耳にしすぎて嫌いなくらい)、もう一度観たいかと聞かれたら観てもいいと答えると思う。
少なくとも、私にとっては青春の一本である。この映画にはいろいろな思い出が詰まりすぎていて、もう一度観たいというよりは、「戦場のメリークリスマス」を思い出すといろいろなことがくっついて思い起こされてしまう映画なのだ。

その後はやはり、“テレビで怒るおじさん”という印象が大きかった。当時は政治評論家や経済評論家など、テレビで怒るおじさんはけっこうたくさんいたものの、そのさきがけはやはりこの人だったのではないかと思う。
この人は映画の現場でも怒鳴ることで有名であったが、それをテレビの現場に持ち込んでキャラクター付けしたのだろうか。大島渚がテレビでキレるのを観て、ちょっと笑うという風潮は確かに当時からあったものの、今のただキレるだけのキレ芸芸人とは違い、きちんとした論理があってこその怒りであるから、見ていても「おおっ」とわくわくすることができた。
理不尽にただ闇雲に怒るのではなく、確かな理念をもった上での怒りなので、その怒りを安心してみていられるというのは確かにあった。
存在感が大きいので、そこにいるだけで発する圧倒的なオーラは、怒鳴っていなくてもテレビから確実に受け取ることができたように思う。


カリフォルニアの青いバカ

90年代に入り、TBSの深夜番組「いかすバンド天国」で、漫画家のみうらじゅんが「大島渚」というバンドで出場したのも印象深い。
このときのエピソードを大島渚本人は、好意的に受け止めていたのだが、テレビで受けたインタビューを見ていて「ほんとだろうか」と懐疑的にもなったりした。
しかし、本当にそのことを快諾している様子だったので、その懐の深さも垣間見る事にもなったのだった。


私は上京してから、何度か大島渚夫妻と遭遇している。
1990年代の始め頃、総武線沿線に住んでいるとき、電車内で相撲観戦帰りの大島渚と小山明子夫妻を見たことがある。
大島渚が脳梗塞で倒れるちょっと前に、何度か体調が優れないという報道がされていた頃のこと。
私が夕方総武線で都心方面に移動中、両国駅で大島渚ご夫妻が乗車してきたのだ。
これからサラリーマンの帰宅時間にも重なる時間帯に、こんな有名人が普通に電車に乗っていることにちょっと驚いた。
その時は冬でコートを着ていた記憶があるので、たぶん初場所であろうと思う。結びの時間のちょっと前だったが、空いていた車輌は一気に混みだした。

私は反対側のドアの戸袋のところにいたのだが、そこの空いている席に一人の年配の男性が座り、着物姿の女性がその前に立っていた。その女性が小山明子であることはすぐに判ったのだが、座った男性が大島渚であるとはすぐにはわからなかった。
テレビで見ていた印象では大島渚は非常に恰幅の良い感じであった。しかし、そこに座っていた男性は非常に痩せてげっそりしており、テレビから感じていたオーラはそこにはなかった。トレードマークのメガネもそのままで、姿勢良く眉間に皺をよせてじっと目を閉じて気難しそうに座っている姿からは、弱弱しささえ感じられた。
大島渚の前に立っていた小山明子も少し疲れた感じであったので、たぶん相撲観戦に出かけたのはいいが、少し体調を崩してしまったのかもしれないと思ってみていた。

彼等は御茶ノ水で中央線に乗り換えていった。たぶん東京駅で東海道線に乗り換えて藤沢まで帰るのだろう。東京駅から藤沢までは、約1時間くらいかかる。当時はライナーのようなものも本数が少なかったので、楽に帰るのであればグリーン車を使うのかななど考えたりもした。それでも、これからこのサラリーマンの通勤時間にもあたる時間帯に、両国から電車を乗り継いで藤沢まで帰るのは大変だろうなと思ったりもした。
その後、大島渚がロンドンで倒れてリハビリ生活を送っていることを知ったときは、ちょっとショックだった。

その後、私自身も結婚して藤沢に住んでいた時期があったが、藤沢駅の北口と南口を結ぶ地下通路で、車椅子に乗る大島渚とそれを押す小山明子を見かけた。仲よさそうに歩いていて、大島渚の顔色も良い様に見えたし、小山明子も笑顔だったので、ああ、お元気なのだなと思ったのを覚えている。

その後病院で見かけたりしたこともあったが、特にそれだけで交流があったわけではない。
ただ、なんとなく顔の知っている人が病気で、元気そうにしているのを見ると「よかったな」と思ったりしていた。

もう、藤沢に行っても、お二人のそんな姿を見かけることもないのだろう。
テレビで怒号を聞くこともなければ、笑顔で嬉しそうにしてたり、理不尽な事に泣き出しそうな顔で声を裏返して話す姿も見られない。
あんなに「喜怒哀楽」を見事に見せてくれた日本人は、今はテレビでもほとんど見かけない。

常に時代と共に突っ走ってきた人だが、藤沢の街中で見た笑顔が、大島渚の「哀」ではなく「楽」であったことを信じたい。
聞いたときには「ああ、そうか」と思ったが、時間が経つにつれて、なんとなく知っているけど疎遠になっていた人が亡くなってしまったような、そんな錯覚に陥ってしまった。

大島渚さん、小山明子さん、お疲れ様でした。
大島渚さんのご冥福をお祈りします。

◇ロンドンオリンピック閉会式を見て、いろいろな溜飲を下げるが、やっぱりストレスたまりまくり2012年08月13日 12時59分00秒


The Who - My Generation

ロンドンオリンピック終了。
開会式と同じく、朝4時半起きで閉会式の放送に臨む。
今回の閉会式は「英国音楽のシンフォニー」ということで、歴代のロックスターが出演するのだろうと楽しみにしていた。
ハイド・パークでは、閉会式とは別にBlurやThe Specials、NewOrderなどが出演するステージが予定されていたりして、結婚20周年の記念にどこかに旅行に行こうと計画をしていたブリティッシュ・ロック家族の我が家としては、なぜ閉会式だけのロンドンツアーを計画しなかったのか、閉会式を見ながら絶叫する。


The Who - Wont Get Fooled Again

閉会式のカウントダウンと同時に、The Whoの「Wont Get Fooled Again(無法の世界)」のイントロが流れる。
開会式の記事を調べたときに、Led ZeppelinやRolling Stonesといった大物に軒並み断られたという記事を目にし、70年代にすでに亡くなっているドラムのキース・ムーンにロンドンのオリンピック委員会から正式なオファーがあったという話を聞いて、The Whoの出演は鉄板だろうなと思っていた。
何しろメンバー全員生粋のロンドン子だし、ロンドンオリンピックのテーマが「Inspire a generation(世代を超えたインスピレーション)」であれば、エンディングはあの曲しかないだろうと思っていたからだ。
ただ一つだけ難点といえば、「年寄りになる前に死にたい」という歌詞だけか?


閉会式のプレイリストを必死でメモしたが、こちらのサイトが詳しい様子。

【速報】閉会式をプレイリストに沿って再現!英ミュージック50年史!スパイスG、クイーン他多数登場


Our House - Madness

ロック・ポップス勢の最初のステージは、意外にもMadnessの「Our House」だった。80年代を通過した日本人の耳には、「ホンダ・ホンダ・ホンダ・ホンダ」の「in the city」の方が馴染みがあるが、脱ツートーン路線で発売した1982年のこの曲が意外にもイギリス人にはお馴染みだったのだなあと、大合唱になっていることに驚く。
でも、当時ツートーンとして好きだったのはThe Specialsで、Madnessはどちらかというとイロモノな目で見ていたが、路線が変わったことに興味を覚えて買ったアルバムが、「Our House」の入ったアルバムだった記憶がある。
1992年に再結成しているはずだが、ヴォーカルのグラハム・マクファーソンは声が出ていなかったなあ。

次はblurの「Parklife」がかかるが、パフォーマンスだけで本人達は出場なし。当然だが、フィル・ダニエルズの姿もなし。 (追記参照。)

次はPet Shop Boysの「West End Girls」。
この二人、ヴォーカルのニール・テナントばかりが目だっているので、すぐに一人になるだろうと出てきた(デビュー)当時は思っていたが、意外に長く続いているのでびっくり。ついでに、彼の高音があまり衰えていないのにもびっくり。
正直に言うと、後から出てくるFatboy Slimのノーマン・クックと見分けが付かなかったりするのだが。

次に出てきたのは、2010年結成平均18歳という、One Directionというボーイズ・グループ。最近のイギリスはこの手のアイドルがチャートを席巻しており、それ以外は往年のビッグスターのリマスターばかりと聞くが、この閉会式でも1990年代以降はぱっとしなかったりする。
まったく知らないのでスルー。


Kinks - Waterloo Sunset

次に登場したのが、The Kinksのレイ・デイビス「Waterloo Sunset」。
レイのステージは、苗場での最初のフジロックで見たが、あんな感動的なステージはなかった。今回もイギリス紳士的に黒い昔のジャガー風の車で参上したのは感動的だった。
だが、会場にあった車のどれひとつとしてイギリスの車でなかったのは、ちょっと驚きだった。ジャガーもいまやインドの車だし、オースチンは中国だしなあ。
日本も徐々にそうなっていくのであろうか。
もし2020年に東京でオリンピックが開催されることになったときに、東京を走る車もバイクも、どれも日本製でなかったとしたらと考えると、ちょっと怖いと思った。

この後各国の国旗が入場し、選手も入場してくる。
このときかかっていたのは、Elbowのライブで「One Day Like This」「Open Arms」。しかし、NHKはほとんど曲の紹介もバンドの紹介もせず、旗手の吉田選手の様子やコメント紹介に終始して、映像もちらっとしか見られなかった。

その後バックでかかっていたのは、Madnessの「Our House」、blurの「Parklife」、Pet Shop Boysの「West End Girls」の録音盤が繰り返しかかる。
その後のパフォーマンスでは、Kate BushやQueenなどがかかるが、「Imagine」でのジョン・レノンの扱いの大きさには、ちょっとびっくり。なんかブロックみたいので顔を形作るパフォーマンスまで登場し、破格の扱いだと感じた。

それにしても、男子マラソンの表彰式で、花を手渡す係の黒人紳士の花束のぞんざいな扱いにもびっくり。人に手渡す記念の花束を、花の方をわしづかみして手渡す姿を初めてみた。

後半はライブパフォーマンスの間に挨拶があったり、オリンピック旗の掲揚があったりしたが、その最初に出てきたのはGeorge Michael(ジョージ・マイケル)。


George Michael - Freedom 90

「Freedom」「White Light」の2曲を歌うが、この後出てきた1990年代のアイドルTakeThatと比較しても、Wham!の頃の印象は微塵も残っていなかった。ゲイとしてカミングアウトしたり、大病したりといろいろあったが、今でもその声だけは健在なんだなあと思ったりもする。
この人、「Freedom」という歌をWham!時代にも歌っているが、今回ライブで披露したのは「Freedom 90」のほう。でもこの歌って、ゲイの解放の歌でなかったっけか?
ドーピングの問題と同時に、男女の性の問題が浮上したオリンピックで、この歌をわざわざセレクトしたのはどういう理由からなのか、ちょっと意味深に感じる。


出典EveningStandard

その後会場に流れたのは、The Whoの「Pinball Wizard(ピンボールの魔術師)」。会場には、モッズ・デコレーションしたスクーターがたくさん入ってきて、いよいよいここでThe Whoの登場か?と思った。実際、ヴォーカルの声はちょっとロジャー・ダルトリーに似ていたりしたのでてっきりと思ったが、実際はKaiser Chiefsだったのでびっくり。
会場はピンボール仕様になって、さながらピンボール・チャンピオン決定戦2012って雰囲気。実際、映画「Tommy」のピンボールの魔術師のシーンで、リーズ大学でのライブの様子がそのまま使用されているが、今回オリンピックの練習場などにリーズ大学が使用されていることからも、このセレクトはなかなかのものだと思った。
でも、Kaiser Chiefsは自分たちの曲は演奏しなかったので、ちょっとがっかり。
それと、スクーターのモッズ・デコレーションもちょっと地味でないか?
後でよく考えると、モッズで登場したなら「四重人格」からの曲の方がよかったのではないかと思ったりもした。なんかこのへんの甘さも感じつつ次へ。


David Bowie - Fashion

ブリティッシュ・ファッションのシーンでは、David Bowie(デヴィッド・ボウイ)のメドレーが紹介。彼の一番かっこいい時代のピンナップ紹介もあったが、やっぱり本人が出てきてほしかった。
メインでかかっていたのは、「SCARY MONSTERS」に入っていた「Fashion」。
ナオミ・キャンベルは、最近ハゲが進行しているという記事を読んだばかりだったので、名前を聞いたときにちょっと心配だったりしたのだが、彼女の女王様然とした姿を見たときは、一緒に登場したケイト・モスなんかと比較しても、やっぱり格が違うよなと感じてしまったのだった。


Annie Lennox - Little Bird

その後Russell Brandのパフォーマンスの後、Annie Lennox(アニー・レノックス)が巨大な船に乗って登場。やっぱりかっこいいぞ、この人は。こういうオフィシャルにもカジュアルにも映えるアーティストって、実はあまりいないような気がする。
一時期は引退状態だったと聞いていたので、The Tourist時代からのファンとしては、健在ぶりを拝見できてうれしかった。


出典fuckyeahpinkfloyd

アンの後、若いアーティスト代表としてEd Sheeranのステージがあったのに、NHKは完全スルー。まったく聞こえないじゃないか!。
(Ed Sheeranの名前のほかにいろいろなアーティストの名前が羅列していたので調べたら、Pink Floydのニック・メイスンがドラムだった。曲は「Wish You Were Here(炎~あなたがここにいてほしい))」。綱渡りパフォーマンスで、綱の先にいた人形が“炎”を上げて燃えたのもそういう意味があったのだ。)


出典www.mydaily.co.uk

この後、ド派手なバスがタコに変身してFatboy Slimの登場。曲は「Right Here Right Now」「Rockafeller Skank」。
その後、なんとなくJessie JやラップのTINIE TEMPAH、Taio Cruzに変わってしまって、Fatboy SlimことNorman Cookはタコの上に乗ってなんとなく退場してしまった。


Spice Girls - Wannabe

その後、デコレーションしたロンドンタクシーに乗ってSpice Girlsの登場。
なんだかんだいっても、世界的ヒットしたイギリスのアイドルはこの5人が最後ではと思える。好き嫌いは別にして、やっぱり懐かしいって思ってしまうのもご愛嬌。
5人ともちゃんと当時の雰囲気残してるところは立派。でも、5人揃うとやっぱりベッカムの嫁さんは地味に見えてしまうんだよな。いまやこの5人の中で一番のセレブなはずなんだけど。
登場した頃は、5人ともタイプの違うビッチにしか見えませんでした。


oasis - Wonderwall

5人が退場して、ステージでは元Oasisのノエル以外のメンバーで結成されたBeady Eye。でも、もう“元Oasis”って言葉もいらないくらいビッグになっているのだけど。
でも、曲はOasis時代の「Wonderwall」。

次のステージはMuseの五輪の公式ソング「Survival」。
そのわりには、演奏中NHKはどうでもいいことしゃべりまくり、五輪の公式ソングであることはひとつも触れぬまま。大丈夫か?NHK。
コメントがあまりにも無知すぎて、鈴木アナに呆れることしかり。

でもこれ、渋谷陽一がラジオで「Queen風」と評価していた。私はThe Mars Volta風だと思っていたのだけど、この後モニターにFreddie Mercury(フレディ・マーキュリー)が映し出されて、フレディのステージでも掛け声に会場中が反応。


We Will Rock You (Queen Rocks)

その後、現Queenのギタリストのブライアン・メイが、いかにも彼が好きそうな衣装でバリバリのギターソロで登場。ヴォーカルにフィギアスケートの衣装みたいな服のJessie Jを迎えて、競技中もずっとかかっていた「We Will Rock You」。会場大コーラス。


QUEEN & DAVID BOWIE: Under Pressure

このオリンピックの最中、実際Queenの曲は一番よく聴いたような気がする。
特に気になったのは、柔道の選手入場のときにかかっていたと思う「Under Pressure」。
この曲のPVの一番最初に映っているのは、昔の日本の中央線のラッシュアワーの風景。その他は、世界恐慌中の「Under Pressure」な映像と、映画「カリガリ博士(だと思う。記憶不確か)が映し出されている。
オリンピックにこの曲のイントロをずっと聴いていて、オリンピックの裏にあるそれぞれの選手が持つ「Under Pressure」をなんとなく考えないでなかった。
今回のオリンピックでは、これまで女性のスポーツが認められなかった国からの出場もあり、イスラムの国々のこれからの流れの中では、非常に意味のあるオリンピックになったと思う。
でも、そこにある「Under Pressure」は、まだまだ大きなものなのだろうなと思ったりもしたのだ。

次期オリンピック開催国のブラジルのラテンなセレモニーが終わり、Take Thatが登場したときは、「えー、もしかしてこれでラストか?」と思い込む。
1990年代に一世を風靡した彼らもおっさん化には逆らえないのか。こうしてみると、日本の熟年アイドルってすごいのかもしれないと、なんとなく思った。


出典mail online

アートを強調しているわりには、ロイヤルバレエ団が出てこないのを不思議に思っていたが、ここでバレエの登場。
ああ、こういうアカデミックなもので終るのだなと思っていたが、「Baba O'Riley」のイントロが。
旦那は「えー、ちがうだろ」って顔をしていたけど、ステージにはちゃんとThe Whoが立っていた。
NHKの説明では、「The BeatlesやRolling Stonesと同世代のグループ」とのこと。まあ、確かにそうなんだけど、これまでのパフォーマンスの中で、The Whoのエッセンスがちりばめられていたことを考えると、この紹介はちょっとどうなの?
それに、ドラムたたいているのは、The Beatlesのリンゴ・スターの息子で、キース・ムーンのドラムの遺伝子を受け継いだザック・スターキーである。ジョンをあれだけ持ち上げておいて、ちゃんとそこんとこはっきり説明しろよ~! NHK。
「Baba O'Riley」のあとは「See me feel me / Listening to you」。そして、やっぱり最後は「My Generation」。

「Inspire a generation(世代を超えたインスピレーション)」にふさわしいエンディングで、イギリス人らしい韻に韻を踏みまくったエンディングだというのに、NHKは関係ない選手のコメント読みまくり、途中で打ち切りの上に、演奏中はほとんどステージを映さず選手団の映像ばかり。
選手のコメントなんて、後の番組でいくらでもやればいいのにと思う。
「うるせーよ! よけいなアナウンスいれてんじゃねーよ!」と、早朝のテレビの前で怒りまくるわたくし。
でも、そう思ったのは私だけではなかったらしい。

ロケットニュース24 2012年8月13日
『オリンピック閉会式のNHK解説に批判殺到! 視聴者「アナウンサー黙れ!」「起きてた時間を返せ!!」』



今回のオリンピックは、いろいろと考えさせられる場面が多かった。
審判のミスが多かったのは言うまでもないが、その対象の多くがアジア選手に対するものだったりする。とりわけ、日本と韓国への風当たりが強く感じたのは、私だけなのだろうか。
特に、イギリスと対戦する韓国のサッカーチームへの嫌がらせのニュースも聞こえてきて、自国のことではないにしろ決していい気分ではなかった(ただし、ニュースの出所ははちょっとあやしい配信元なんだけど)。

2012年08月04日12時28分[(c) ISPLUS/中央日報日本語版] 『<五輪>本当に紳士の国? 英国が韓国サッカー代表を妨害』

ロケットニュース24 2012年8月3日 【ロンドン五輪】これは本当にひどい! レフェリーが「超ずさんな判定」で追放される事態に / 誤審というレベルではない

競技によっては、審判への抗議で判定が覆ったりすることもあり、事実男子体操団体などは、抗議がなければ日本はメダルさえとれなかった。
あの場面を見ていて、一時は銅メダルと発表されたウクライナチームの涙する姿が忘れられない。
開会式で、Mr.ビーンはズルをして炎のランナーに競り勝つ。よもやこれがこのオリンピックの全てを物語っていたと考えたくはないのだが、ちょっと疑ってしまう部分もあったりする。
抗議できるものはするものの、抗議に対しての日本と韓国の対応がほとんど真逆だったのも興味深かった。

イギリスはオリンピックの少し前からスコットランドの独立問題を抱えていたせいか、開会式でも閉会式でも、スコットランドのアーティストに非常に気を使っているような場面が目立つような印象があったはの気のせいか。
オリンピック大会中にも、スコットランド独立の熱は高まっていたようで、日本と韓国の竹島をめぐるバトルの裏で、こっそりそんなニュースが流れてきていた。

ロイター 2012年 08月 9日 11:04 JST
『ロンドン五輪で思わぬ余波、スコットランド独立論が過熱』


日本でも、男子サッカーと女子バレーボールの3位決定戦のどさくさにまぎれて、韓国の大統領が竹島を訪問するとかしないとか発表し、オリンピックの試合がさながら両国の代理戦争のような感覚で見ていた人も少なくないような気がするのだが、サッカーの試合後に韓国の選手が、それを決定付けるようなプラカードを持ってピッチを走ったので、問題はさらに大きくなってしまったような感もある。

YOMIURI ONLINE 2012年8月11日23時22分 読売新聞
『韓国サッカー選手、ピッチで竹島領有メッセージ』


どこの国でも、多かれ少なかれ領土や民族の問題を抱えている。
イギリスだって、フォークランドやアイルランドの問題を長年抱えているし、中東は変化の過程の火の中から選手が出場しているところもある。
イギリスが獲得したメダルの1/4はスコットランド出身選手のものであることから、もし彼らが「スコットランドに自由を」なんてプラカードを持って観客席にアピールをしたら、イギリスのオリンピック委員会は立つ瀬がなかったんじゃないだろうか。
逆に韓国選手は、日本が負けた腹いせに「竹島は日本の固有の領土である」なんてプラカードを持っていたら(絶対にそんなことをするとは思いたくないが)、どんな反応をするのだろう。
いろいろと言い訳も多いが、決まりは決まりでその間に自国の感情や個人的な感覚を挟む余地は1μもないと知るべきだろうと思う。
どんなに言い訳されても看過しがたいものがあり、その前後の政治的な流れも含めて最後の最後で非常に不愉快な気分になったのだ。

でも、これもオリンピックに隠れた「Under Pressure」なんだろうなと思った。
気分は悪いが、最後にThe Whoを見ることができたのでよしとしよう。


8月13日午後10時30分
追記その1:
ハイド・パークで行なわれたライブのほうでは、blurのライブでパークライフでフィル・ダニエルズが登場したらしい。
blurのライブレポートは、Rockin'onの児島さんのブログでプレイリストと映像のリンク込みで確認できます。
9月1日発売のrockin'onではライブレポートもあるらしい。
ちょっと楽しみ。

追記その2:
写真の出典とか入れるの忘れていましたので、ついでに気になったところを修正しました。


8月17日午前7時30分
追記その3: 「すたん ― 2012年08月14日 00時49分12秒」のコメントより。
すたんさんのご指摘により、The Whoの演奏曲の曲名の間違いを修正しました。
その他いろいろ間違いを修正しました。
すたんさんには、オリンピック閉会式のThe Whoの映像もご紹介いただきました。
ここにたどり着かれた方は、ぜひそちらもご覧ください。
私は感動して涙が出てきました。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18602568

2015年8月19日
追記その4 細かい修正を行いました。



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