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◇THE PUBLIC iMAGE IS ROTTENを観る2021年10月29日 04時57分14秒



映画『The Public Image Is Rotten ザ・パブリック・イメージ・イズ・ロットン』予告編

コロナ禍でどうなるのかと思っていたが、緊急事態宣言解除後に横浜で上映されることを知り、上映開始2日めの日曜日に観に行く。
日曜日ともあり上映開始10分前くらいには、「ああ、若いころパンクだったんだろうな」と思うような人たちが、映画館のロビーにわらわらと集まっている。自分もこの中の一人なのだと思うと、なんとなくこっぱずかしい気分。
まあ、それはいつものことだ。

PILのジョン・ライドンは、セックス・ピストルズのジョン・ライドンだった人だが、ピストルズのマネジメントをしていた、マルコム・マクラーレンとのいざこざは、よく知らなかった。ピストルズ側から見た記事は見かけることはあったけれど、グレイト・ロックンロール・スウィンドルがジョニーが脱退した後に撮影されたものだということも知らなかった。


セックスピストルズ グレイトロックンロールスウィンドル

セックス・ピストルズはロンドンパンクのシンボル的な存在で、パンクムーブメントの中心にあるバンドだったけれど、私が本格的に洋楽を聞くようになった頃には、ピストルズはすでに解散した後だった。
PILは、70年代後半に登場し、80年代初めには来日している。私にとってはPILのジョン・ライドンの方がリアルで、ピストルズはなんとなくビートルズ的な感覚で接していたバンドだった。
時代はパンクムーブメントからニューウェイブに移っていたからだ。

映画は、ジョニー・ロットンがどうしてジョン・ライドンになったのか。
PIL結成のいきさつから、90年代以降の再結成までの度重なるメンバー・チェンジと、パブリック・イメージという「会社」がどう移り変わっていったかのドキュメンタリー。

今まで、なんとなく疑問に思っていたピストルズとPILの関係が、ジョニー・ロットン側の立場で描かれている。
そして、PIL内部に起こるジョンとメンバーとの軋轢。
映画は、パンクのシンボルをふりほどいても、表現することを選んだ一人のアーティストの姿を描く。
ひとつの時代を彩ったアーティストの、最盛期と今を知るには、なかなか見ごたえがあってドキュメンタリーとしては面白かった。

ただ、できればストーリーだとかインタビューとか考えず、映画の中で流れるPILのそれぞれの楽曲を、一緒に歌って踊れる時間もあったら最高だろうなと思う。
ドキュメンタリー映画だから、Queenの「ボヘミアンラプソディー」やTalking Headsの「ストップ・メイキング・センス」や「アメリカン・ユートピア」のような胸熱上映はちょっと難しいだろうことも、今はそういう時期でもないことも承知の上なのだけれど。

映画館の椅子の上で、楽曲に合わせてゆれる身体を抑えるのは、大変だった。

◇不思議惑星キン・ザ・ザに浸かる2021年09月13日 02時02分23秒



クー!キン・ザ・ザ公式ページ



不思議惑星キン・ザ・ザ公式ページ

「不思議惑星キン・ザ・ザ」は1986年のソ連の映画だ。 当時のペレストロイカ政策の中で崩壊するロシアのニュースが注目される中、カルト的な人気で世界中に配信されたこの映画は、ゲオルギー・ダネリヤ監督自らの手で『クー! キン・ザ・ザ』として2013年にアニメ映画としてリメイクされた。

不思議惑星キン・ザ・ザWikipedia

あらすじ(wikipedia概要より抜粋)
1980年代の冬のモスクワ。「ヴォーヴァおじさん」(дядя Вова)ことマシコフと「ヴァイオリン弾き」(Скрипач)のグルジア人学生ゲデヴァンは、異星人を名乗る裸足の男の持つテレポート装置によって、キン・ザ・ザ星雲の砂漠の惑星プリュクに飛ばされてしまう。地球へ帰るため、2人の長い旅が始まった。

星の住民は地球人と同じ姿をしており、見かけによらぬハイテクと、地球人類を風刺したかの様な野蛮な文化を持っていた。彼らはテレパシーを使うことができ、話し言葉は「キュー」と「クー」のみで、前者は罵倒語、後者がそれ以外を表す。しかし、高い知能を持つ彼らはすぐにロシア語を理解し話すことができた。この星の社会はチャトル人(Чатлане)とパッツ人(Пацаки)という2つの人種に分かれており、支配者であるチャトル人に対して被支配者であるパッツ人は儀礼に従わなければならない。両者の違いは肉眼では判別できず、識別器を使って区別する。

この星を支配しているのは、武器を使って好き勝手に威張り散らしている「エツィロップ」と呼ばれる警官たちである。プリュクの名目上の為政者はPJ様(ПЖ)と呼ばれ、人々は彼を熱烈に崇拝している。プリュクにおける燃料は水から作られたルツ(Луц)というものである。自然の水は取り尽くされ、飲み水は貴重品となっており、ルツから戻すことでしか手に入らない。プリュクでは地球のマッチ棒(の上の化学物質)が非常に高価なものであり、カツェと呼ばれて事実上の通貨となっており、所有者は特典が受けられる。

ディストピアな設定はソビエト社会の寓意的描写ではないかと言われる。実際ダネリヤの監督としての高い評価が、この奇妙で曖昧な映画がソビエトの厳しい検閲を通り抜けた唯一の理由であると言われている。作中では解説が若干省かれているので解りにくく、理解するには前後の伏線を注意深く頭に留めておく必要がある。

今回、そのアニメ版の日本公開に伴い、同時上映に1986年の「不思議惑星キン・ザ・ザ」も日本で上映された。
主なあらすじは、どちらもおおまかには変わらない。プリュクに存在するチャトル人からパッツ人への人種差別的な対応、権威的な社会構成や、賄賂や中堅的権力者の独断的な判断などはどちらの話でもかわらない。登場するチャトル人とパッツ人も多少の違いはあるにしろ、ストーリーに影響が及ぶほどの違いはない。

大きく違う点があるとしたら、キン・ザ・ザ星雲にある惑星プリュクに空間移動する二人のロシア人のシチュエーションが異なるくらいだ。
1986年版は、器用で判断力があり機転もきく建築家で技師の「おじさん」ことマシコフと、プライドは高いがキャリアのないグルジア人大学生の「ヴァイオリン弾き」ことゲデヴァンの二人。2013年版では、権威的でプライドの高い世界的チェリストのウラジーミルと、機転がきき交渉力もあるDJ志望のトリクの二人。
登場する二人のロシア人の位置づけが1986年版と2013年版とで逆転していること、1986年版では連邦国の出身地による立場の違いなどが垣間見えるのに対し、2013年版ではそれがキャリアと度胸の違いに置き換わっていることなどが注目すべきところだろう。
狭い世界での小さなプライドや常識などは、異世界ではまったく役に立たないこと。生き延びるには知恵と交渉力が必要であることは、この映画以外のアドベンチャー系のお話しでも共通するものだろう。

1980年代に入り、少しずつ西側よりの政策が意識される中で、1985年に就任したゴルバチョフのペレストロイカによりソ連ははっきりと崩壊への道を進むわけだが、同時に地方自治体にはびこる汚職体勢などの問題も表面化しており、ソ連崩壊後の連邦国離脱のきっかけになったという話も聞いたりする(ソースなし)。
そういう社会的な時流と照らし合わせてみると、汚職や賄賂がはびころこのプリュクで、日金を稼ぐだけの二人の芸人が、ステテコの色を目標とすることが生きる意味であることも、笑い以外の理解があると思う。

二人のロシア人が地球に帰還するために、二人のロシア人と二人のプリュク人の四人は、お互いをだましたり説得したりしつつ都会に出ていくわけだが、お互いにわりと人情に厚いのが意外だったりする。ロシア人というのは、こうまで情に厚かったのだろうか。1986年版では、地球人は拘束されたプリュク人のために2度も地球に帰るチャンスを自ら逃してしまうのだ。2013年版では、このあたりが少しだけ修正されているのだが、それでも地球に帰るチャンスを逃してしまうことには違いない。
まるで寅さんなみの人情のやりとりに、ロシア映画をあることを忘れてしまう。

プリュクの言語は、大きく分けて「キュー」と「クー」。「キュー」は公言可能な罵声語で、「クー」はそれ以外。
判断基準がこの2つしかないわりに、「クー」の範囲はやっぱり広い。劇中でも「キュー」はそれほど多く出てこない。プリュク人にとって「キュー」な状況というのは耐え難いものなのだろう。
そう考えると、この俗悪な社会構成の中で「クー」と思っていればわりと居心地は悪くないということなのだろうか。
不満もたくさんあるし、できれば上流の証である赤いステテコをはいて2回挨拶される存在になれたらどんなにいいだろう。

1986年版は135分、2013年版は97分と余計なところはそぎ落とされて、より洗練されわかりやすい内容。
この合計232分を、続けてどっぷり浸るのはなかなか「クー」な経験だった。
自分がこのロシア人だったら、このときどういう選択をするだろう。そもそも、最初の段階で迷子の浮浪者風の宇宙人に声をかけたりするだろうか。

機会があったらまた観たいと思いつつ、Amazonのポイントがたまっていたので、結局BDも購入してしまった。
これでいつでもプリュクに行けるわけだ。

◇東大裏で田渕由美子展を観る2021年07月05日 21時38分04秒

田渕由美子展ポスター


2年ぶりに、根津の東大裏にある弥生美術館・竹久夢二美術館に足を運ぶ。
毎年楽しみにしている、70年代少女漫画の原画展に行くためだ。
今年は田渕由美子。りぼんおとめちっく三人衆の一人だけれど、わりとポジティブで少しコンプレックスの陸奥A子に比べて、田渕由美子の主人公はどっぷりコンプレックスだったので、当時はあまり好きではなかった。勉強もできないし色気のないガリガリチビ、ドジで奥手で引っ込み思案という感じ。いつも泣いていて、のっぽで勉強ができる顔の良い彼氏になぐさめられるというのが定石パターンだった。
でも、テーマはわりと深い内容のものが多く、気づくと印象に残る作品ばかりだった。

いつもご一緒する友達は、同居する高齢の母親のことを考え、まだしばらく東京遠征は控えたいというので、今年は1人で根津に行った。
いつもは2人で何かおいしいものを食べようと、あれこれ街を散策するのだが、今年はどうしよう。
地下鉄の根津駅から東大までのゆるい坂道には、めぼしい食べ物屋は少ないので、東大とは反対の不忍通りを千駄木の方向へ足を運ぶ。ここいらは、安くて下町っぽい食べ物屋が多くある通り。でもまだ緊急事態宣言が明けたばかりで東京はまんえん防止期間中。閉めているお店も少なくないかなと思ったり、早めに展示を見て早く帰りたいと思ったりで、13時頃根津についてそのまま一番最初に目についたカレー屋に入ることにした。

根津カレー ラッキー


そこのカレー屋は以前から気になっていたお店だったけれど、なんとなくずっと入らずにいたお店。ひとりにはうってつけ。
お店の名前は、根津カレー Lucky (ラッキー)。
お店の看板と、ウインドウに描かれた食材の絵がレトロでかわいい。

最初に出されるしょうが湯がほっとしておいしい。お店のメニューには、特製ラッキーカレーと、ラッキーカレーの辛口、そして魯肉飯がある。最近カレーと魯肉飯のあいがけというのもやっているというので、それにしてみた。カレーには焼きチーズのトッピングもプラス。
厨房から出たところで、お店の人がチーズをバーナーで焼いてくれる。魯肉飯の台湾っぽい香りと、カレーの香ばしい香り、チーズの焼けた香りが食欲がそそられる。
「こちらもどうぞ」と福神漬けを運んできてくれ、それが昔ながらの赤い福神漬けなのが嬉しかった。この福神漬けはこのカレーにとてもマッチしている。

特製ラッキーカレーと魯肉飯のあいがけ焼きチーズトッピング

特製ラッキーカレーと魯肉飯のあいがけ焼きチーズトッピング

ランチの時間帯もすっかり終わったせいか、お客は私一人。あとで学生さんぽい人が、テイクアウトで来店した。
ふと壁を見ると、一面ずらっと漫画が貼ってある。
絵柄とストーリーは80年代のガロ系っぽい雰囲気。ひとつひとつ絵のスタイルが違うので、お店の人に聞くと一人の作家が書いているのだという。
Twitterに漫画を描いている人で、猫田まんじまるという人の作品らしい。
お店の人は、この人の漫画が好きで応援しているのだと話してくれた。
掲示してある絵を見て、なんだか少し昔を見ているような気がして、タイムスリップしたような気持ちになってしまった。


展示してある猫田まんじまるの漫画
Twitter @nekota_1004 猫田まんじまる

東大裏へ向かうゆるい坂道に戻り、銀杏の木が実をつけているのを仰ぎ見る。
ここは秋になると本当に臭くて閉口するのだが、まだ固くなる前の銀杏の実は秋ぐみのようでかわいらしい。
そういえば、田渕由美子の『フランス窓だより』だったかに、「また秋ぐみ食べ過ぎて お腹こわすわよ」というセリフがあったような記憶(確認していないけど)。
弥生美術館・竹久夢二美術館へ行く途中に、古い小さなお屋敷があって、私はその裏木戸が好きだった。
今回もその裏木戸の前を通ろうと裏道に行くと、そのお屋敷は壊されてマンションが建設中だった。
敷地的にはそれほど大きくはないが、お勝手口があってなんとなくサザエさんちのような雰囲気だった。そうか、ここはなくなってしまったのかと、ちょっと寂しくなる。

田渕由美子展のお客様は、だいたいが50代くらいの女性ばかり。お二人で来ている人も、ぽそぽそと当時の思い出を語ったりしている。何を言っているのかはわからないが、とても楽しそうだ。30代くらいの男女のカップルが一組いたが、ずっと普通の声量で話しているのが耳につく。こちらは何を話しているのかはっきりわかってしまって、興ざめする。
田渕由美子は80年代に入ってりぼんオリジナルに移籍し、私はそのころからりぼんは読まなくなってしまったので、それきり彼女の作品を見ることはなかった。
単行本は近所のお姉さんが持っていたのをいただいたりで、なんでか全巻持っていた。

陸奥A子、太刀掛秀子、田渕由美子のおとめちっく三人衆。陸奥A子はごくごく平均的な少女の夢見がちでハッピーな日常がテーマ。太刀掛秀子はドラマ性があって、幸せだった主人公が逆境に立たされることが多い。
それと比較すると、田渕由美子は前述したように、主人公は常に自分のコンプレックスを卑下し、それを理由に恋を諦めようとしたりする。でも、そんなドジっ子が好きなハンサムな彼氏が、「何をばかなことを言っているんだ」と言ってハッピーエンドというパターンなのだ。
三人とも非現実的ではあっても、田渕由美子の主人公のコンプレックスは、形は違えどどんな女の子にも共通するもの。誰だった「自分なんて」という感情は多かれ少なかれあるじゃないか。違うのは、それをなぐさめて包んでくれる優しいのっぽでハンサムな男子などは皆無だということだ。
田渕由美子のファンタジーは、現実的すぎる。改めて作品を一同に並べてみて、そう思った。

会場のショップで、私が知る絵柄とは少し違う、『地上の楽園』という最後だという最近の単行本が売られていた。


地上の楽園 / 田渕由美子 / 集英社
試し読みはこちら

彼女が出産を機に漫画制作から遠ざかり、その後レディースコミックで復帰したことは知らなかった。復帰後の作品は、りぼんの頃の面影は残しつつも、どこか岩舘真理子風な画風に変わっていた。
主人公のタイプも、チビで奥手で引っ込み思案のガリガリチビから、タバコをくわえてそれなりにおしゃれもする顔もわりとかわいめな女の子に変わっていた。そういえば、彼女の主人公の友達にはたいていバッチリ化粧でくわえタバコの「まゆこ」という女の子がいたが、どちらかというとそれが主人公になった感じ。
私にも、「わたしなんて」とわりとどうにもならないことを絶望的に思っていた時期があった。それを理由に恋をしないなんてことはなかったけれど、恋がうまくいかないのはそれが理由かもしれないと思ったりする。
『地上の楽園』の主人公たちのは、「わたしなんて」以前の話だ。それでも、自分ではどうすることもできない境遇であることにはかわりない。
主人公はコンプレックスで泣いて何もできないようなことはなく、それをバネにしたたかに生きている。もともとテンポが軽快なラブコメディ的な作風だったので、その軽快さはレディースコミックに移籍後も残っていて、主人公はわりと不遇でも重い感じはしない。りぼんの頃の主人公は、大学生が多くて生活に困っている風でもなかった。学生三人で都内の一軒家をシェアできるほどの金銭感覚である。彼女たちに貧乏の臭いはしない。なのに、彼女の作風はコメディなのにどこかシニカルな匂いがする。
レディースコミックの主人公は、親に捨てられたり会社が倒産したりと、生きていくのにギリギリの生活をしていたりする。ベースがコメディだからなのだと思うが、やはりシニカルな匂いはしても重い感じがしないのは、彼女の特徴なのかもしれない。
それにしても、大学時代に「わたしなんて何もとりえがないし」と泣いていた女の子が、世に出てわりと腹黒くエネルギッシュにがんばる姿のようにも感じて、結局女ってのはそういうものなのかもねと、ゆみこたんカプチーノを併設のカフェですすってちょっとだけ当時の大学生気分を想像してみたりする。

ゆみこたんカプチーノ


そんなことを思いながら、「最後の単行本」と銘打たれた『地上の楽園』を会場で購入する。
いつも重くなるので会場で本は買わないのだが、帰りの電車で読もうと購入したのだ。
購入して、電車の中と家に帰って3回続けて読んだ。
読んで少しだけ泣けてしまった。

東大近くで、昔自分が触れていた漫画に出会う。
ひとつはカレー屋で、ひとつは美術館で。
自分の青春時代がここにあるわけではないし、お気に入りの風景はかわってしまうけれど、1年に一度くらいはやはりここに来て懐かしい気持ちになりたいと思ってしまう。

田渕由美子展ポスター

◇デビッド・バーンのアメリカン・ユートピアを観る2021年06月13日 03時38分59秒



デビッド・バーン アメリカン・ユートピア公式ページ

緊急事態宣言でずっと公開延期になっていた、デビッド・バーンのアメリカン・ユートピアが公開になった。
監督はスパイク・リー。せまい舞台で、グレーの細身のスーツにはだしのデビッド・バーンと彼の楽団が、舞台でおどり、歌い、パフォーマンスする。
楽曲は、トーキング・ヘッズ時代のものから最近のものまで。デビッド・バーンの集大成ともいえる。
今年70歳になるというデビッドの声が、トーキング・ヘッズ時代と遜色なくよく通り、あれだけ動いていても息も上がらず、音程もしっかりしているのがすごい。
カメラは、このせまい舞台の上だけを移動していく。

彼の楽曲が、ピーター・バラカン監修の和訳字幕で流れていく。今まで流して聞いていた曲が、突然真実味を増す。
曲の歌詞をこれほどまでに考えて、映像と共に受け取ったのは久しぶりのことではないだろうか。
それぞれの曲の意味とパワーを知り、その曲をそれまで長い期間ずっと意識してこなかったことにショックを受ける。
今の人類の危機を、もう30年も昔に的確にアピールしていたんじゃないか。
なぜ自分がここにいるのか、自分がここにいる意味を模索し、涙が出てくる。

映画館じゃなかったら
新型コロナ禍じゃなかったら
あの舞台の下にいたなら
きっと一緒に歌って、腕をあげていただろう

発せられるメッセージはショッキングなのに、この幸福感はなんだろう
人類の崖っぷちを見せられているのに、こんなにも素直に身体に入ってくるものはなんだろう

そんなことを思いながら、映画館を後にした。
一緒に歌えないことがもどかしくてならなかった。

もう一度映画館で観たいと思う。
デビッド・バーンが、トーキング・ヘッズが好きなら、必ず観てほしいと思う。
人類の危機を少しでも感じるなら、絶対に観るべきだと思う。

そんなすごい映画。

◇東京で神田日勝の思い出にひたる2020年06月14日 22時13分52秒


神田日勝回顧展 大地への筆触

去年の今頃は帯広に帰省して、鹿追町にある神田日勝美術館に足を運んでいた。
すでに、今年からはじまる東京ステーションギャラリー、神田日勝美術館、北海道立近代美術館との巡回展が決まっていて、ふだん道立近代美術館にある新聞紙に囲まれた部屋にいる男の「室内風景」や、門外不出の「半身の馬」を一同に会して観る機会を楽しみにしていた。
その間、鹿追の神田日勝美術館では絵がなくなってしまうので、ふだんあまり出てこない絵を観る機会でもあると知って、今年も何度か帰省して足を運ぶ予定にしていた。

しかし、今回の新型コロナ渦のため4月から東京ステーションギャラリーで予定されていたものが延期、緊急非常宣言が解除となった6月はじめから時間を決めた入場制限つきの観覧ができるようになったが、東京では半月だけの会期となった。
今回、東京で神田日勝と対峙するにあたり、個人的には望郷の念が強く出てしまい、前半は涙があふれてとまらなくなってしまった。

今の状況では実家に帰ることもままならず、鹿追と札幌に観に行くことができるのかどうかは、現段階では定かではない。
都市間移動が推奨されていない状況では、帯広でも札幌でも内地からの客を歓迎してくれるとは思えないからだ。

父は絵が好きで、たまに名もない画家の絵をふらっと買って帰ることがあった。
一時期、かつて私の部屋だったところに、4畳半ほどもあるベニヤに描かれた裏寂しい木造の開拓者住宅の絵をおいてあったことがあり、なぜそんなものを購入したのか聞くと、「それはもらったものだ」と父ははっきりと理由をいわなかった。
その絵はいつのまにか姿を消していて、あの絵はどうしたのか聞くと「別な人にゆずった」と答えていたが、あんな絵をほしがる人がいたのだろうかと疑問に思う。
しかし今から思えば、あの絵は初期の神田日勝の絵の雰囲気に似ていなくもなかったような気がする。


自画像/神田日勝[神田日勝美術館

今から50年くらい前、妹の産まれる少し前のことだ。
駅前から稲田の国道沿いに引っ越したばかりの頃。
国道に面している大きな窓のある家の東側の方から、一人の男性がうちへ訪ねてきた。
玄関は西側にあるのだが、その人は庭からやってきて、ちょうど窓の外を眺めていた子供の私に窓をたたいて開けるよううながし、「とうちゃんはいるか」と聞いてきた。
その人は、鼠色のシャツに黒いズボンに黒い長靴をはいていた。顔は浅黒く日焼けしていて、全体的に黒っぽい印象が少し怖く思えた。
私の家を知る人であれば、私に父のことを「とうちゃん」と聞く人はいない。我が家に「とうちゃん」と呼ばれる人はいないからだ。
父は家の表側にある職場にいて、母はちょうど家にいなかったと思う。
私が「今いない」と答えると、「そうかまた来る」と言ってその人はその場を去ってしまった。
しばらくしてその人は母と一緒に家に来て、庭で二三話していたかと思ったら、家にはあがらずに来た方向に帰っていった。
母に誰が来たのか尋ねると、「絵描きの人だ」と答えた。
この記憶は子供の頃の記憶で、母はまったく覚えていないといい、父に確認しないまま父は亡くなってしまったので今となっては確認のしようもないのだが、私はその時の男の人の顔が神田日勝に似ていたような気がしてならないのだ。

父は蕎麦が好きで、鹿追や新得方面にふらっと蕎麦を食べに行くことがあった。
私が一緒のことはめったになかったが、私が一緒のときは必ず神田日勝の絵を観につれていってくれた。
神田日勝美術館は、今でこそ整備されて綺麗な建物だが、昔は神田日勝のパトロンだった福原氏の美術館の方が見やすいくらいだった。


室内風景/神田日勝[美術手帖

絶筆となった「半身の馬」もさることながら、私は現在は北海道立近代美術館に所蔵されている、新聞紙でうめつくされた部屋の風景が描かれた「室内風景」の圧倒的な世界が印象に残っている。
どこも見ていないようで、こちらをずっと凝視している男の目が怖かった。
横たわる人形が怖かった。
神経質なほど緻密に描かれた新聞の描写が怖かった。
それでも、この絵は強烈な印象として私の中に残っている。
観る機会があるのであれば、必ず対峙したいと思う絵のひとつだ。


家/神田日勝[神田日勝デッサン集表紙

そして、父の好きだった世界は、神田日勝の初期のモノクロームの世界だったのではないだろうかと思う。
板うちされた貧しい家は、北海道の開拓者住宅の一般的な姿で、今でもその姿をあちこちで見ることができる。
それは北海道に移住した人間の原風景でもあるような気がする。
今回の東京ステーションギャラリーでは、最初の展示でこれらの絵を観ることができる。
私は、祖父母から聞いた開拓時代の話や、今は帰ることのできない実家のことを思い、涙があふれて泣きながらこれらを観た。

華々しい都会にあこがれつつ、それでもこの貧しい風景から離れることができない。
情報の伝達が遅かった昔に、できる限りの情報を入手して表現しようとする情熱が、神田日勝からは感じられる。
それは、私が上京する前に感じた、このままここにいて何も知らず、何も見ずに生きていくことの恐怖と似ているのではないかと思えてならない。
あの頃は、ちょうど一番の親友を交通事故で亡くしたばかりで、将来に不安を感じ、このまま何もせずに生きることは死ぬことと同じなのではないかと思えてならなかった。
そんな狂気にも似たものを、私は神田日勝の絵から感じ取る。

絵が好きで、音楽が好きで、一人でそれを楽しんでいた父が、同じようなことを感じていたかどうかはわからない。
父が神田日勝と知り合いで、昔うちに訪ねてきた黒い絵描きの人が神田日勝だったかどうかもわからない(現実のことかも定かではないのだけど)。
いつの間にかなくなったベニヤの暗い木造の家の絵が、神田日勝の絵だったかどうかもわからない(これはたぶん違うだろう)。

自分の産まれた土地で、土地を思いながら表現することをやめなかったこの人の絵を、今後もおいかけずにはいられないだろうと思う。
半身の馬は、約束どおり東京に来てくれた。
もし秋までに都市間移動ができるようになるのであれば、私は約束どおり北海道にまた会いに行こうと思う。

◇ミッシェル・ルグランとヌーヴェルヴァーグの監督たち2020年06月08日 00時53分45秒


デジタル・リマスター版 特集上映「ミシェル・ルグランとヌーヴェルヴァーグの監督たち」予告編

コロナ渦の前に行こうと思いつつ、行くことがかなわなかった「ミシェル・ルグランとヌーヴェルヴァーグの監督たち」。
緊急非常宣言が解除となった横浜で上映が決定され、2日続けて4本一気に観に行った。
最初の日はジャン=リュック・ゴダールの「女と男のいる舗道」と「女は女である」。
次の日は、ジャック・ドゥミの「シェルブールの雨傘」と「ロシュフォールの恋人たち」。

本当は全部観たいけれど、6月から新しい仕事がはじまったので、今までのように平日に行くことができない。
この4本、どれも恋愛映画でフランスの結婚制度を知らないとよく理解できないところもあるけれど、決定的に日本の感覚と違うところは「子供ができたから自立する」という女性の価値観が存在するというところ。
夫はあくまで自分のパートナーで、子供の父親とイコールではないということ。
これは少し衝撃的だった。

自立したフランス女性というのは、フランス映画ではわりとよくあるテーマのように思うけれど、テーマとして取り上げるくらいだからそれはある意味「特別なこと」なのだろう。
ただ、その感覚はやはりフランスの文化のベースがあってこその感覚だろう。
それは日本の女性と比較して考えた場合、フランス人にとっては当たり前に受け止められることでも、日本人からすると少し理解が遠いものがあるようにも感じる。
戦争が終わって十数年のこの時代。自由を謳歌し、自己を主張し自分の人生を見つめる女性というのが当たり前であるというのは、21世紀になった今でもまだまだ果たせえない感覚。
女性の社会参加があたり前の現代の日本でも、やっぱり日本人のそれとは違うように感じる。

それにしても、ミシェル・ルグランという音楽家のすばらしさを改めて感じる。
どの曲をもってしても、必ず耳にしている。
そして、この曲はだれだれのどの曲とそっくり、これはあの曲にそっくりがたくさん出てくる。

それはゴダールの映像もドゥミの映像も同じで、この時代の文化やファッションが、その後の時代に大きな影響をもたらしたのかが理解できる。
「ロシュフォールの恋人たち」なんか、まんま70年代の少女漫画の世界だ。

これらの映画はもう何度も再上映されているし、ブルーレイでも販売されているので、観ようと思えばいつでも観ることができる。
でも、やっぱりスクリーンで観たかった。
そんな話を2月に友達としていて、ミッシェル・ルグランの企画はとても楽しみだった。
しかし、その友達とはもう話をすることができなくなってしまい、こういう映画を共有できる友人はいないので、それだけが残念でならない。

◇白い暴動を観る2020年04月20日 06時43分42秒


白い暴動 予告

白い暴動をAmazon Primeで見る。
本当は映画館に足を運ぶ予定だったが、コロナウイルスの影響で映画館には行くことができないからだ。

The Clashの映画だと思っていたが、自然にピーター・バラカンのラジオで詳細を知る。
70年代後期の不況にあえぐイギリスの、有色人種と白人至上主義の攻防。
あらゆる差別と出口の見えない閉塞したイギリスに対する、反抗と暴行。
パンクの存在が、ただのファッションではないことを本当の意味で理解する。

40年前に知っていたら、パンクのとらえ方も違っていたかもしれないけれど、バブル前夜の日本の社会情勢では、たとえ知ったとしても肌で感じることは難しいだろう。
例え仕掛け人が同じでも、ニューヨークパンクとロンドンパンクが違うように、日本のパンクはどこまでもヘタレだ。

新型コロナウイルスの影響で、世界中の経済がストップしている。
例えウイルスが落ち着いたとしても、世界がひっくり返るくらいの変化があるかもしれない。
見えない敵と戦う不安は、わかりやすいターゲットに向かうだろう。
あらゆる差別を目の当たりにすることになるような気がして、これから訪れるであろう暗い未来を考えないではいられなかった。

◇観劇のマナーを守れない人は劇場に入る資格はないと感じる2017年04月29日 02時23分33秒

ここ数年、演劇や映画を観る機会が増えている。
隣り町の小さな映画館で、昔の観たかった映画が続けざまに上映されたり、ここ一年ほど地元の演劇鑑賞会に参加しているからだ。

演劇鑑賞会は演劇を観続けることが目的で、自分で観る演目はあらかじめ前の年に決められているので、自由な演目を観ることはできない。
しかし、大きな劇場で公演することがだんだんと難しくなってきている昨今、若い演劇人を育てる環境も厳しく、こういう地方の演劇鑑賞会と相互に協力しながら劇団が育っていくことを参加して知った。
個人的には前衛演劇の方が好みだったりするのだが、新劇も改めて観ると面白いものも多い。毛嫌いしていたミュージカルやオペラも、悪くないと思えてしまう。
こういった鑑賞会に参加することで、今まで知らなかった心境地が開拓できるのも面白いと思えるのだ。

好きな演目かどうかを度外視して、純粋に演劇を観続けるという会に参加する人というのは、当然演劇が好きな人なのだろうと私は思っていた。
そういう人は、演劇という文化を大切にしたい人なのだと思いたい。

それなのに、観劇中に必ず光るブルーライト、そして携帯電話の呼び出し音。
観劇するのに、何故そんなものが必要なのか。
最近はモバイル機器を時計がわりにしている人も多いが、時間もすでに一年も前から決められているのだし、観劇中に時間を気にしなければならない理由もわからない。
そういうマナーの欠如が、演劇をだいなしにしていることが理解できないのなら、それは演劇に対する冒涜であると思う。
そういう人には演劇を観てほしくないとさえ思ってしまう。

去年は最悪な人が隣に座ったことがあった。
二幕目が始まってから遅れて入場したその人は、俯瞰で舞台全体を観たくて後ろの席に座っていた私の横の席に座った。
走ってきたのか息が切れていて、フーフーいっている(これはまあ、仕方がないのかも)。
スーパーの袋をガサガサならしながら、ペットボトルの水を探す音がうるさい。
私は一幕から観ているので冷房の入った会場が寒いのに、扇子をバタバタさせて隣の私まで冷やしてくれる。
あげくに携帯が鳴ると、そのまま出て話し出す始末。
「いい加減にしてください」と思わず声が出てしまった。

この間も友人と映画を観ていたら、友人の隣の人がスマホを取り出して何かを調べている。
画面はLINEの画面だったりする。
友人の隣の隣なのに、目の横がいやにまぶしくて気になって仕方がない。
私の隣の人は、映画の後半の半分たっぷりしくしく泣いて涙と鼻水の洪水と闘っているし(いや、それは仕方がない)、後ろの席の人はいつまでもポップコーンをガサガサしているし、まったく興ざめしっぱなしだった。

演劇鑑賞会のお題目としては、演劇を通じて大切なことを未来につなげていきたいという想いがあるようだが、参加する人がマナーを守るという最低限のことが守れない人が一人でもいる限り、舞台で大切なことを謳っていても意味は半減してしまうということを知るべきだと思う。
それはたとえお金を払って観ている客だとしても、舞台の意味を台無しにする権利などひとつもないのだから。

◇沖縄映画「ウンタマギルー」を観る2017年02月21日 02時04分08秒


ウンタマギルー(プレビュー)

映画をいくつか観ていると、“色”を持った映画に出会うことがある。
私にとっては、岡本喜八の「肉弾」がそうである。
「肉弾」は1968年に低予算で撮影された白黒映画なのだが、私の脳裏には随分と長いこと砂丘の風景が黄色く印象付けられて記憶されていた。

1989年の高嶺剛監督の沖縄映画「ウンタマギルー」も、そういう映画のひとつだった。
満月の夜の砂浜のシーンに、果てしなく透明な群青色の闇と青白い月光と、明るい海と海岸が印象付けられていた。
映画の内容はほとんど覚えていなかったが、映画の手法か何かで、昼間のシーンを夜に見立てて撮影したのか、それとも夜のシーンを明るく映したのかはわからないが、とにかく明るい夜の海辺の深い青だけは覚えていた。
そしてずっと長いことそれを再び観たいと思っていた。

今年になって、監督の高嶺剛の新作「変魚路」の公開と同時に、過去の高嶺作品を再び映画館で観る事ができる機会を知り、再びあの“青”を観に行ったのだ。



「ウンタマギルー」のあらすじは、Wikipediaなどに書いてあるので省くとして、すっかり記憶から抜け落ちていたが「ウンタマギルー」というのはミュージカルだったのだということに気づく。
厳密に言えば、主人公ギルー(小林薫)の物語と、床屋のテルリン達と主人公ギルーの妹チルー(戸川純)の語り部のミュージカルとが同時進行していく。
ゆっくりとゆっくりと流れる南国の暮らしの中で、琉球、日本統治の沖縄、米軍統治の沖縄、そして再び日本統治へと変貌していく時間が描かれている。
少し前に、沖縄の日本復帰の中で米国にも日本にも属さない、「琉球」のアイデンティティをかたくなに主張し続けた人物のドキュメンタリーを見たが、この映画の中でもその精神に触れる。

この映画を観た当時は、沖縄の辿ってきた歴史もほとんど知らず、そこに気持ちを置くことができなかった。
今はその頃よりは多少なりとも沖縄の歴史を知っているはずなので、あの頃は感じることができなかった映画の奥にある沖縄の人々の気持ちを少しだけでも感じることができたように思う。

あの頃はまったく気にする事ができなかったのだが、豚の化身を親方に預けた神様がニライカナイの神様であるというところは発見だった。
私の知るニライカナイというのは、アイヌの天の河とか神様の国(※色々な説があるようです)を指す言葉だったからだ。
アイヌと琉球は共通点も多く、姿形も似ていることから、同じ民族なのではないかという学者の話も聞いたことがある。
Wikipediaで「ニライカナイ」を調べると、沖縄や奄美地方に伝わる伝承であると書かれている。
実際に同じものかどうかは私は学者ではないので判らないが、何かひどく奇妙で確信的な気分になったのだった。
あと、もう一つ気づいたのは、ギルーの物語が終った後、時代が沖縄がいよいよ日本に返還されることが決まった時間軸の中、主人公役の小林薫が、ギルーと同じシチュエーションで違う役柄で登場したとき、彼の役名は「サンラー」だったように思う。
ギルーと一緒に森にこもった過食症の母親役は、「ナビィの恋」のナビィ役の平良とみである。
そして、ナビィがおばあになっても待ち続けた恋人の名前が「サンラー」で、サンラー役を演じたのは「ウンタマギルー」の西原親方役の平良進である。
「ナビィの恋」にも「チルー」という名前のユタが出てくるが、この役は「ウンタマギルー」と「パラダイスビュー」では戸川純が演じている。
「ウンタマギルー」と「ナビィの恋」は監督は違うが、同じ沖縄映画だ。
(平良進と平良とみは、実生活でも夫婦で沖縄では有名な俳優なので、この2人が沖縄映画に多用されているのは納得できるのだが。)
「ウンタマギルー」の10年後に撮影された「ナビィの恋」に、もしかしたらリスペクトとして同じ名前が使われているのだろうか。それともこういう名前は琉球では一般的なものなのだろうか。
この共通点は、調べてもわからなかった。

ところで、私がずっとこの映画に見ていた“透明な深い青”だが、今回の上映ではフィルムの劣化が激しく画像が荒れていたため、スクリーンでは思った以上に感じることが難しかった。
「ウンタマギルー」はVHSは発売されたものの、DVD化もBlu-ray化もされていない。
最近では、昔の映画が映画館でBlu-ray上映されることも珍しくないし、その場合は画像の劣化も修正されるので非常に美しい画面で観ることができるのだが、今回はそれが叶わなかった。
また、全編で使用されている琉球語に日本語の字幕がつけられているのだが琉球語の独特の言い回しが日本語字幕に反映されておらず、それもちょっと残念なところだった。

高嶺剛監督の新作「変魚路」は、やはり沖縄を舞台にした映画である。
これを機会に、未だDVD化さえされていない高嶺作品のディスク化を切に願うばかりである。
そして、修正され蘇ったあの“青”を、再び見てみたい。

◇追悼 “海賊”高橋照幸(休みの国)2016年11月22日 05時02分05秒


高橋照幸(休みの国) - 第五氷河期

休みの国の高橋照幸の訃報を知ったのは、なんとなく彼の動向が知りたくなって調べていたときのことだった。
Twitterで彼の訃報を告げるツイートを見つけ、今年の2月には亡くなっていたことを知った。



十数年前にライブを行ったきり、休みの国の公式HPの更新も途絶えて久しく、彼の好きな船に乗ってどこかに航海に行っているのだろうと思っていたのだ。
休みの国の古いメンバーであるつのだ☆ひろが、「また一緒にやりたい」と何かでコメントしているのを見たのも数年前のこと。

休みの国は何人かの参加メンバーが存在するものの、基本的には高橋照幸一人のバンドだ。
休みの国を知ったのは、30年ほど前に早川義夫のジャックスというグループのレコードが再販になったり、ジャックスに関連した書籍が発売になった頃のこと。
ちょうど東京の専門学校に進学することになり、新しく出会った友達と音楽の話などで盛り上がったりしていたときに、ゼミで知り合ったイケメンから「駿河台交差点の近くにあるジャニスというレンタルレコード屋に行くといい」と薦められたのがきっかけだった。
ジャニスには新旧のレコードが置かれていて、60年代、70年代のインディーズのレコードも充実していたばかりか、URCのアーティストの古い音源をカセットテープで無料で貸し出していた。
無料といっても、何か別にレコードを借りなければ貸し出しはされなかったので、実質おまけみたいな状態であったが、私は当時学生寮にいてレコードプレイヤーを持っていなかったので、半ばそのカセットテープを目当てに通っていたようなものだった。
専門学校は御茶ノ水周辺に校舎が分散していたので、ジャニスは在学中~九段下で働いていたときまで、私の東京生活にはかかせない店だった。
(ジャニスは今も健在で、CDレンタルのパイオニア的お店であることは変わらないようだ)

ジャニスでURCのレコードや無料のカセットテープを借りる中で、私はどうしても借りたいレコードがあったのが、休みの国の「FYFAN」だった。
このレコードは、当初URCから発売される予定だったのが、高橋照幸の許可なくしてジャケット等が変更された形での発売だったため、1988年に未収録音源を集めて限定発売されたらしい。
青いジャケットのそのレコードは、A面はURCから出た「休みの国」と曲がだぶっているものもあるもので、B面は日仏会館で行われた1974年のライブ音源だった。
通し番号のついた限定盤だったようだが、そのうちの一枚がジャニスの店頭にあったのだ。
「FYFAN」自体は、後日完全版としてCDで再発されたが、日仏会館のライブが入っている盤は再発されることなく、文字通り幻のレコードとなってしまった。
友人に録音してもらったカセットテープは、今でも私の手元に残っている。

ジャックスはその時すでに解散しており、早川義夫もその当時は本屋のおやじさんになっていたので、ジャックスのライブを見たいというのは叶わぬことだったが、休みの国は不定期にも活動を続けていることを知った。
何年もどうしても見たいと思っていたときに、ヒカシューの巻上公一が当時のパソコン通信Nifty-serveで後楽園遊園地のルナパークにおいて、ヒカシューのサックス野本和浩(故人)と演奏するという話をしており、それに一緒に参加するのが、なぎら健一と高橋照幸であることを知ったのだ。
雨の後楽園で初めて見た休みの国は、高橋照幸がギター一本で弾き語る「追放の歌」だった。
たぶん、1992年か1993年のことだったと思う。


追放の歌 休みの国Live@クワトロ
【YouTube注釈より】1991年5月26日に渋谷・クワトロで5thアルバム『Free Green』発売を記念しておこなわれた休みの国のライブの6曲目です。


それから何度か休みの国はライブを行っていたようだが、たまたまどうしても外せない用事があったりで、結局その後はライブに行くことはなかった。
リバイバルブームのおかげかどうかは解らないが、携帯の着メロやカラオケに「追放の歌」が登場したりした時期もあったが、それもいつの間にか姿を消してしまった。
噂を聞かないまま、たまに思い出しては公式HPを覗いたり、あちこち検索したりしていたのだが、まさか訃報から半年以上も経ってニュースに出くわすとは思わなかった。
つのだ☆ひろのドラムでのライブも見たかったが、叶う事はなくなってしまった。

冒頭に「第五氷河期」をもってきたのは、海野十三の「第五氷河期」という同名のSF小説(氷河期が来て日本に大地震が襲い火山活動が活発になると予言した博士の物語)をモチーフにしたと思われる歌詞で、私はこの歌詞を2011年の東北地震の直後に見て涙が止まらなかったからだ。

第五氷河期
作詞・作曲:休みの国(高橋照幸)

凍てついた地上の パニックの中で
嘘をつかれて 忍び泣く
言い伝えはあったよ でも 夢はなかった

いつまでも 影だけが
さまよい歩く この地上

読みとれるだけの文字と
聞きとれるだけの言葉で
世の中は出来ているのさ

お前は生きていたか
汗は流れたか

いつまでも 影だけが
さまよい歩く この世界

copyright 休みの国



今現在、休みの国のCDはURCから出た最初の「休みの国」だけになっているらしい。
私は再発された正式版の「FYFAN」のLPを手に入れたが、CDを持っているので未だ針を落としていない。
高橋照幸の皮肉っぽいのにやさしく響く言葉を、何かあるときに聞きたいと思ってしまう。
もう新しい言葉を発してもらうことができないことは悲しいけれど、彼が本当の休みの国に行けたことを祈るばかりだ。



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