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◇季節はずれの風邪2012年06月02日 13時06分34秒

風邪をひいたらしい。しかも、ちょっとひどくて長引いている。
連日、寒かったり暑かったりの差の激しい気候で、気づくと腹を出して寝ていたせいもあるのだが、ここ一ヶ月ほど、難しい案件の作業をして、作業が中断して意識が分散するのが嫌なので、ちょっと無理をしていた。
作業に没頭すると他のことができない性分なので、身体と精神が消耗してしまう。
食事もやっつけな感じになってしまい、外食も多くなるので、気が付くと体調を崩していたりする。
若いころならそれでも良かったのだが、やはり歳をとってくると、生活バランスの崩れはそのまま体調に直結してしまうのを感じる。

熱はないのだが、喉が腫れて、たまに悪寒がし、咳がずっと続いている。
ここ数年、風邪をひくと、なかなか抜けずにいて困る。
具合が悪くなっても、熱がばーっと出て、その後快方に向かうのならいいのだが、寒気がしてへんな汗が出るのに熱だけは平熱なので、風邪で熱が出る前嫌な感じがずっと続く。
私の父もそんな感じで、熱が出ないで長引くことが多いらしい。
こんなところが似なくてもいいのに、と思う。

春からはじめたスポーツジムで、運動中に定期的に脈を測るのだが、ちょっと無理して行ったときに、やたらと脈が速くてトレーナーさんを心配させてしまった。

ヤクルトさんが配達に来たときに、「小学校で最近何か病気とか流行ったりしている?」と聞くと、「隣りの地区の小学校で、溶連菌が流行っているらしい」と教えてくれた。
溶連菌は子供がなりやすい病気らしいが、大人も感染するらしい。
喉が痛くなって、そのうち湿疹が出て、高熱が出るらしい。
仕事で茨城に行くので、茨城にいる友人にあちらの様子を聞いたところ、その友人も溶連菌にかかって治ったばかりだと言っていた。

急いで病院に駆け込んだところ、「あなたの症状はいまのところ溶連菌な感じではないけど、可能性がないわけではないから、湿疹が出たらまたきてね」と医師に言われた。処方されたのは、風邪薬と抗生剤と胃薬だった。
「溶連菌よりも、胃の方が調子悪いみたいだけどね」と腹を触診した医師は言っていた。

風邪薬と抗生剤のおかげで、喉の痛みはだいぶよくなり、咳は喘息のせいかまだひどいけど、タンが出るようになり快方の兆しが見え一安心した。

◇夜匂う2012年06月06日 00時24分00秒

夏みかんの花
 
去年の秋から、夜に散歩にでかけている。
もともとは健康のために歩きましょうという目的だったが、歩いてみると意外な発見があったり、なかなか楽しい。
冬場は星がよく見えるので、スマートフォンの天体マップなどで星座を調べながら歩いたりした。
しかし、2月に入りさすがに寒くて休みがちになり、3月4月は花粉が怖く、再開したのは5月に入ってからのことだった。

新緑の季節になると、さすがに星座を眺めながらという感じではないが、5月の夜は空気がいろいろな匂いを含んでいる。
マンションの建物を出ると、最初に感じるのは栗の花の匂いだ。
私はこの匂いがあまり得意ではないのだが、つくばにいた頃、マンションの真向かいの空き地に大きな栗の木があり、新緑の季節には一番に匂ってきていた。
この匂いをかぐと、春でも夏でもない、梅雨前の不安定な季節なのだなと思う。
草花が知らないうちにもそもそと成長し、いつのまにか植物に囲まれているような、そんなちょっとあやしいエネルギーを感じるのがこの季節だ。

しばらく歩くと、そこいらじゅうにみかんの花が匂ってくる。
ここいらへんは、庭にみかんやゆずなどのかんきつ類を植えているお宅も多く、住宅地の中でまだ畑を残しているところなどでは、大きな夏みかんの木が毎年たくさんの実をつける。
「みかんの花咲く丘」という歌があるが、北海道にいた頃は実際にみかんの花がどんなものなのかも知らずに、この歌をうたっていた。
この花が咲いている間は、風にのって昼でもあちこちから匂ってきていた。

この季節は、空気が湿気を帯びているので、“香る”というよりは“匂う”と言った方がしっくりくる感じがする。湿気と共にねっとりと匂う。
毎日過ごしている町だけど、季節や時間帯で、さまざまな顔を見せてくれて面白い。

◇ベトナム旅行記08 ~半日市内観光ツアー その2~2012年06月07日 03時03分43秒

■半日市内観光 中央郵便局で両替する

ホーチミン中央郵便局
ホーチミン中央郵便局の中。

聖母大聖堂を正面に見て、右手にはホーチミン中央郵便局があり、半日観光の一行はそちらへ移動。トイレから戻った私たちもそこから合流した。

フランス様式の大きな石造りの建物は、フランス統治時代に建てられたもの。“プチパリ”の異名をとるホーチミンの象徴的な建造物である。
中に入ると、ドーム型の天井が印象的で、正面にはベトナム建国の父とも称される、「ホー・チ・ミン」の肖像画が掲げられている。
郵便局としても機能的な造りだが、細かいところまでこだわった美しい装飾が見事。
人が多くにぎわっているけれど、中はひんやり涼しい。床の装飾タイルは中央アジア風なせいか、なんとなくイスタンブールのモスクを思い出させる。

中央郵便局のタイルの床
中央郵便局の床のタイル。他にも様々な模様のタイルが使用されている。

フーンさんにお金を返したいが、細かいお金がないので、私はここで両替をすることにした。フーンさんに協力してもらい、入口右手にある両替所に向かう。
ここで1万円を両替し、2,290,000VDにしてもらう。レートは電卓で提示され、お札もきちんと一緒に数えて渡してくれた。レートは成田よりもかなりお得だった。

この頃のベトナムドン(VD)のレートは、1,000VDで40円ほど。しかし、0が6つもつくような高額紙幣を手にすると、なんとなく一気にお金持ちになったような気分になってしまうので、大変危険だ。
もっとも、ベトナムでは1万円が平均月給の半分くらいであるというので、高額なお金を持ち歩いていることには違いない。

ベトナムの紙幣は13種類あり、一番大きい紙幣が50万VD。しかし、普通に1万円を両替すると、ほとんどが10万VD札で渡される。
実際買い物をするときにも、1,000VD以下のやりとりはほとんどない。インフレの進むベトナムでは、貨幣価値がどんどん下がってきているため、買い物するときはあまり細かいお金のやりとりはない。なので、1,000の位以下がはしょって表示されていたりする。100,000VDの場合は、「100」とだけ書かれていたりするのだ。
以前は米ドルも使用できたようだが、最近は政府でVD以外の通貨の使用を実質禁止しているらしい。数字だけが書かれていて、VDだと思っていたらドルを要求されるような詐欺も多いらしいので要注意と、ガイドブックには書かれていた。

両替時には、ここでも1,000VD札はもらえなかったので、改めて10,000VDを一枚1,000VD札に換えてもらい、ここから先ほどのトイレ代2,000VDをフーンさんにお返ししたのだが、「細かいお金だから返さなくていい」と繰り返し、結局受け取ってもらえなかった。
実際フーンさんにトイレ代として借りたお金は、日本円にすると8円程度のもの。ベトナムの平均月収が2万円くらいと考えると、100円借りたくらいの感覚だろうか。
実際フーンさんがいなければ、たぶん10万VD札をトイレで出しても、トイレを貸してくれなかったか、お釣りをもらえずぼったくられたかのどちらかだっただろうと思う。
フーンさんに感謝しつつ、海外で街へ出るときには細かいお金を用意すべきだと、心に命じたのであった。

郵便局を出たときに、同じツアーの年配ご夫婦のHさんの旦那さんから、「レートはどれくらいでした?」と声をかけられた。レートを話すと、「街の方が安かった」と言い、いろいろと情報を教えてくれた。なるほど、やはり場所によっていろいろなのだなと思った。


■人民委員会庁舎とホーおじさんの像

ホーチミン人民委員会庁舎とホー・チ・ミン像
ホーチミン人民委員会庁舎とホーおじさんの像。

バスはどんどん街の中心地へ移動していく。ホテルからの道中で車窓から見えていた屋台や商店は姿を消し、大きなビルやブランドのディスプレイやポスターなどが目立つようになってきた。
通りはゴミもなく、清掃が行き届いている。

とあるファッションビルの横にバスを横付けし、大きな通りにある広場に出ると、正面にベトナムの国旗を掲揚した立派な白い建物が見え、広場の中心にはホー・チ・ミンと少女の像がハスの花に囲まれて建てられている。
周囲の街路樹は緑をたたえ、色とりどりの花も咲いていて大変きれいだ。

正面に見えるのは、ホーチミン人民委員会庁舎。ベトナムの行政機関のある建物だ。
本来ならば中に入って見学する予定だったのだが、この日はたまたま行事が重なって見学ができないとのこと。
フーンさんが、ホー・チ・ミンとこの少女の逸話を説明してくれ、みんなでそれぞれ写真撮影。
そんな中、通りに荷物を放り出して写真を撮ろうとしている、アオザイ姿の若い女性二人の姿があった。日本語で「写真を撮りましょうか」と声をかけると、日本語で「ありがとうございます」と返ってきた。

この場所には日本人以外の観光客がいたが、荷物を放り出しているのは日本人だけ。あれだけ注意されても、やっぱり油断だらけは日本人なのだと思ってしまった。



つづく

◇ベトナム旅行記09 ~半日市内観光ツアー その3~2012年06月07日 04時35分00秒

■半日市内観光 ベトナム歴史博物館

ベトナム歴史博物館
ベトナム歴史博物館の入口付近。

半日観光のメインは、ベトナム歴史博物館
古い建物の入口に入ると、そこには小さな美しい中庭がある。まるで、ヨーロッパ映画に出てくる古いベトナムの風景のようだ。
古い窓枠がぐるりと庭を囲み、中央には小さな噴水。そして、色とりどりの花がセンス良く配置されている。

入口を入って左手にある、黄色の花をたわわにつけた木が印象的。
この木は、ホーチミン市内の街路樹でもよく見かけたが、実際何の木なのかはわからない。アカシアにも似ているが、葉っぱが違うし、花のつき方もちょっと違うような気がする。
ホーチミンの街中は本当に花が多いのだが、とりわけ黄色の花をつける植物が多いような気がした。

それ以上に印象的だったのは、ペンギンのゴミ箱だ。
この庭の中だけでも5体はいるのだが、なぜにペンギン? そしてなぜに緑色?。 日本のこの手のペンギンと比べても、目がうつろで写実的でもある。決してファンシーではないので、かわいいという感じでもないのだが、なぜかこの雰囲気のある庭に妙にマッチしていた。

実際、このペンギンのゴミ箱は、街のあちこちでも見かける。
帰国して調べてみたところ、このペンギンのゴミ箱に注目した人は多かったらしく、様々な目撃情報を確認した。
ちなみに、ホーチミンのサイゴン動物園にもこのゴミ箱は存在するらしいのだが、その動物園にはペンギンはいないのだそうだ。

黄色い木の反対側には、雰囲気のあるミュージアムショップがある。少数民族の衣類や道具、その他展示物のレプリカなども売られているが、商売っ気はまったくないようで、どこか山の中にでもきたような静かなたたずまいだ。

中庭の噴水
ペンギンのゴミ箱
噴水。水草の花が咲いてる。ペンギンのゴミ箱。
土産物店の仏像の頭
ミュージアムショップの店頭にある、仏像の頭。


私たちの他にも観光客はいたが、それほど混み合っているようでもなく、フーンさんの説明に従って小一時間ゆっくり観光することができた。
館内は写真不可のため撮影はできなかった(しかし、ガイドなしの人の中には、展示物の撮影を構わずしている人も多かったが)。

館内は、原始時代から現代に至るベトナムの歴史が展示されている。
蒙古の襲来や、度重なる中国との戦争、侵略。そしてフランスの侵略、統治。日本の統治時代も存在する。その時々の時代の装飾品や調度品が、歴史を物語る。やはり中国からの文化的影響は多いようで、中国風の装飾が目立つ。
また、ベトナムは今でも仏教国であるが、その時代時代の仏像の変異もなかなか興味深い。
日本の仏像だと半眼という印象が強いが、思い切り目を見開いているものもあったりする。

フーンさんの説明の中で、一番興味深かったのは、ベトナムの少数民族の話だった。
ベトナムには54もの民族が存在し、みなそれぞれの文化の中で今も生活をしているが、少数民族間でのいさかいはこれまでほとんどなかったというのだ。
ベトナムの主要民族はベト族(キン族)で、ベトナム人の80%を占めるらしい。
少数民族の中には山岳民族も多いのだが、もともとが山岳民族で、戦いによっておいやられたとかそういうことではないということなのか。
あまり詳しいことは聞けなかったが、民族間のいさかいなく暮してきた土地に、まったく違う土地から侵略してきた民族に土地や文化を奪われた歴史は、今でこそ街の中をきれいに彩ってはいるが、悲しい歴史の一面でもあるということなのだろう。

見学が終了し、フーンさんから「トイレに行く人はここで行ってください」と、このツアーの中で初めてトイレを案内された。
他のツアー客のほとんどがトイレに行き、私もこのチャンスを逃さなかった。
博物館のトイレはミュージアムショップの脇にあるのだが、外から見ると小さな事務所みたいな雰囲気。白い小さな木戸がかわいい。
トイレは清潔で、ちゃんとトイレットペーパーも便座も備わっていた。



つづく

◇ベトナム旅行記10 ~半日市内観光ツアー その4~2012年06月07日 06時25分55秒

■半日市内観光 戦争証跡博物館

戦争証跡博物館
戦争証跡博物館。

人民委員会庁舎に行けなかったので、その代わりにと戦争証跡博物館に行く事になった。私たちは、このツアーの後に自分たちで来るつもりだったので、この話を最初にバスの中で聞いたときには、ちょうどいいと気軽に思っていた。
しかし、いざ博物館に足を踏み入れると、ツアーで来るべきではなかったと思った。

バスを降りると、フーンさんは「これから30分自由に見てきてください」と言った。歴史博物館のように案内してくれるのかと思ったのだが、フーンさんは中には入らない。
見ると、観光客を案内してきたドライバーやガイドさんは、みんな入口の駐車場で待機している。みんな一様に伏し目がちで、ここではあまり観光客と目を合わせようとはしない。

日本のベトナム反戦の印刷物。
白光真宏会のメッセージ塔。日本のベトナム反戦デモの報道写真と、千羽鶴。


この博物館は三階建てで、外には戦争で実際に使用された戦車や戦闘機などが展示されている。
入口に入ると、最初に日本語の印刷物が掲示されている。
奥に入ると、米国などのベトナム反戦に関わる展示もあるのだが、日本の共産党の機関紙や、反戦デモの報道写真などがまず目に入る。
昔は、日本のどの町に行っても見かけた、白光真宏会の「世界人類が平和でありますように(May peace prevail on earth)」のメッセージ塔まで展示されている。

一階の奥には、世界各国の平和のメッセージの印刷物が展示されており、さらに奥の別部屋に行くと、ベトナムの子供達が書いた平和の絵が展示されており、その部屋の奥の壁一面にはソ連とベトナムとの共産主義を示すモニュメントがある。

共産主義を示すモニュメント。

二階に上がると、建物の中心が吹き抜けになっており、左右の部屋に展示が分かれ、吹き抜けの廊下にはベンチが置かれているのだが、そこに座る人たちはだいたいが西洋人で、一様に疲れた顔をしている。ペットボトルのゴミなどが散乱していて、その中にみんな座っている。

階段上がってすぐの左側の部屋には、侵略戦争の経緯の資料や写真の展示。そして、右側の部屋には、枯葉剤などの影響で生まれたさまざまな奇形児の写真が展示されている。
私たちの世代では「ベトちゃん・ドクちゃん」が有名だが、ここに来ると彼等はまだ状態が良い方なのだという事を痛感してしまう。身体の一部がくっついて生まれた双生児、小頭症、水頭症、手足の長さが違う子供、身体の骨が変形している子供、顔の形状がほとんどくずれてしまったエレファントマンのような子供。
ほとんどが直視できないような写真で、泣いている人もたくさんいる。

三階は、主に米国などの報道写真と平和への取り組みなどが展示されている。
三階の廊下には、いわさきちひろの反戦への取り組みを説明したパネルが掲げられている。

いわさきちひろのパネル。

一通り展示を見るものの、特に二階は5分といることができない。
早々に入口に戻った私を見て、フーンさんが「ちゃんと見ましたか?」と聞いてくる。
「とてもこれ以上は見られない」と応えると、ちょっと怒ったような顔になり、「では、博物館の外にある、拘置所の写真が展示されているところを見てください」と、わざわざ私たちを連れて行った。
そこは反政府活動などの政治犯などが収容されていた場所を展示したところで、本当の牢獄を模したものや、ギロチンや拷問道具、それに拷問にかけられた人々の写真が展示されている。
目をつぶされた人、爪をはがされた人など、こちらもかなり生々しい。

そこを出ると、フーンさんがツアー客の若い女性二人組にも同じように、拷問の展示室へ案内している。フーンさんはたぶん40代くらいの女性なので、ベトナム戦争は子供の頃に経験している年頃なのだろうと思う。自分がここを見るのは辛すぎるが、世界中の人にはこの悲惨さをきちんと知ってほしいと思っているのだろう。
一階の展示室では、あちこちでガイドさんが自分の客がきちんと見たかをチェックしているのが見受けられた。

ちょっと逃げるようにして、再び一階の奥にある子供の絵の展示室に行く。ベトナムの文化や、お正月の様子などが子供の目で描かれている。それらを見ると、心から平和の大切が身に染みるような気がした。

しかし、これは強制されて見るようなものではないが、やはりツアーではなく自分の意思でしっかり見ておきたかったと、後で少し後悔したのだ。
あまりにも衝撃的だったため、三階のいわさきちひろの展示などは、じっくり見ることができなかった。

再び入口へ戻ると、先ほど声をかけてきたツアーのHさんがちょうど出てきて、奥様がハンカチを口にあてて憔悴されている。旦那様が「ちょっとショックが強かった」とおっしゃっていた。
私が「三階の写真は、昔ライフで見ました」と言うと、「雑誌に載っている程度の写真は、何も伝えていない」と、Hさんの旦那様は話していた。

ベトナム戦争については、日本の中では今ではほとんど風化してしまっている現実もあるが、アメリカなどでは未だに語られる歴史のひとつでもあるし、ベトナムでは風化させることのできない事実なのだろう。
私自身子供であったし、実際のところ「ベトナム戦争の真実」といえるようなものは、何も知らないし、知ろうとしなければ知らされることもなかった。
でも、この戦争の真実はわからなくても、「現実」はここに来ればその端っこは見ることができる。ここにあるのは記録でしかなくても、重要な記録であることには違いない。私たちが知ることができるのは、ほんの端っこだけど、その端っこでも知るのと知らないのとでは大きく違うと、帰国してから思った。
「雑誌に載っている程度の写真は、何も伝えていない」というHさんの旦那様の言葉がいつまでも頭に残る。
ガイドさん達が入口から中に入れない理由も、ちょっとだけ理解できたと思う。



つづく

◇ベトナム旅行記11 ~ダッシュボードの仏様~2012年06月07日 07時54分23秒

■仏教国ベトナム?

ダッシュボードの仏様
車のダッシュボードの仏様。

ベトナムは共産主義の国なので、私はベトナムは無宗教の国なのだと思っていた。
もし信仰が残っていたとしても、フランス統治の時代が長かったので、キリスト教が普及しているのではないかと思っていた。
しかし、実際には信仰の自由が保障されており、多くの人が仏教を信仰している。

共産主義で仏教国というのは、ちょっと意外な感じもあった。
地理的には仏教国であるタイなどにも近いので、仏教の流れとしてベトナムにも広まったというのはうなずける。しかし、この国の歴史的背景を考えると、仏教の信仰が根強いというのが、ちょっと意外な気がしたのだ。
ホーチミンの街中にいても、聖母マリア教会のようなキリスト教の教会はあるけれど、仏塔とか寺院のような建物は見かけなかった(地図で確認すると、3区に寺院があるらしいが)。

歴史博物館でのフーンさんの説明では、ベトナムの人たちは仏教徒が多いけれど、“敬虔な”という感じではなく、日本の信仰と同じように常に宗教的な生活をしているということではないらしい。
大昔には熱心に仏教が信仰された時代もあったようだが、政治的に利用されたり、共産主義になってからは宗教自体が低迷した時代もあったらしい。
また、南部と北部では宗教の形自体が少し違うようなことも、調べていくうちにわかってきた。

ベトナムに宗教が復活したのは、1986年のドイモイ政策からのようだ。
しかし、ドイモイが進んだとはいえ、ベトナムが共産国であることには変わりなく、僧侶が町中で托鉢するような宗教活動は、やはり禁じられているのが現状のようだ。

しかし、町中での宗教活動が禁止されているのに、ベトナムの車のダッシュボードには、仏様の姿がある。
すべての車にということではないのだが、多くの車のダッシュボードの上に仏様が鎮座しているのだ。
仏様はドライバーのほうではなく、車の進行方向を向いて座っている。
日本だと、ここに何かを置くこと自体、ちょっとどうかと思うような位置だ。
普通の車から、観光バス、タクシーまで、仏様はベトナムの車の安全を見守っている。
信号などあってないがごとしのホーチミンの交通事情で、交通安全というのは切実な願いであるだろう。
夜中の道では、昼間よりも倍増するバイクの間を、申し訳なさそうに車が走る。
切実であるからこそ、仏様にすがるということなのか。

戦争証跡博物館の駐車場で、ずらっと並んだ車のほとんどに仏様がいるのを見て、ドライバーに許可をもらい、仏様の写真を撮らせてもらった。
ドライバーは、「なんでそんなものを」と苦笑いしていた。

日本は仏教国とされてはいるが、実際のところは神道の国であると思う。
何か願いごとがあるときは、仏様よりは神様にお願いすることの方が多いように思う。
多くの日本人も、特に神道を熱心に信仰しているわけでもないけれど、車の中には交通安全のお守りが普通にあったりする。信仰とは無縁と思われるようなデコられた車でも、近所の神社のステッカーが貼られているのも見る。
ホーチミンのダッシュボードの仏様も、そんな感じなのかと思ったりする。
“困ったときの仏様頼み”ではないが、宗教を否定されようが、ふだんは宗教に興味がなかろうが、なんとなくホーチミンの人々と仏様はつかず離れずの関係なのだろうと、非常に親近感がわいてしまうのだった。

◇ザ・ピーナッツ 伊藤エミさんの訃報で思い出すこと2012年06月28日 03時22分35秒


恋のバカンス / ザ・ピーナッツ

ザ・ピーナッツの伊藤エミさんが亡くなられた。
昭和歌謡の全盛期にヒット曲を数多く出していたが、1975年に引退してからはほとんどその消息を聞くことはなかった。
最後に聞いたのは、沢田研二と離婚したというニュースだっただろうか。

当時の歌手の人たちは非常に歌唱力のある人が揃っていたし、彼女達もそのうちの1組である。あの頃はみんなが歌える曲が多かったので、彼女達の曲は今でもとても人気がある。
めったにやらないカラオケだが、「恋のバカンス」は私にも歌いやすいし、特に思い出深い曲でもある。

当時私は知らなかったのだが、ザ・ピーナッツは日本のみならず、海外での人気も非常に高かったようだ。当時は東西に別れていたドイツ両国や、イタリアのみならず、ロシアなどでも人気があったらしい。

ちょうど13、14年前の1998年と1999年に、つくばでHuun-Huur-Tu(今年招聘された際の日本語の表記は、「フンフルトゥ」のようだが、当時は「フーン・フール・トゥ」と表記した。「Huun-Huur-Tu」は英語での表記である)というロシア連邦トゥヴァ共和国のグループがコンサートを行なった。
彼等はホーメイと呼ばれる喉歌の技法とトゥヴァの楽器や口琴などを駆使した演奏で、世界中を回っているスーパースターだ。

私はコンサートの印刷物を作成すると共に、コンサートスタッフとして彼等のお世話をした。
公演前日の夕食を一緒にしたり、コンサート会場から打ち上げ会場までの送り迎えをしたりしたのだが、彼等は車の中でもずっと歌っている。歌っていないときはずっとしゃべっていて、だまっている時間がないほどテンションの高い人たちだった。
車の中で、「こんな歌を知っているか?日本の歌だよ」と言って歌ってくれたのが、ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」だった。もちろん彼等はロシア語で歌っているので、歌詞の内容はさっぱりわからないのだが、後でトゥヴァに詳しい方に「ロシアでも数年前に流行して、ラジオでずっと流れていた」と教えてもらった。

打ち上げ会場では、スタッフや彼等をよく知る人たちなどが大勢集まった。そして、「恋のフーガ」をみんなで大合唱したのだ。
後にも先にも、こんな楽しい打ち上げはなかったと思う。

明日は13年ぶりに彼等の生演奏を東京で聞ける機会に恵まれ、コンサートを楽しみにしていたのだ。
13年前にみんなで撮影をしたパーティの写真などを彼等にあげようと、スキャンしたりして準備をしていたりもしたのだ。
そんな中でこの訃報に接し、非常に驚いてしまった。

彼等の住むトゥヴァ共和国は海のない国なので、当時別なスタッフが「海はここから近いのか」「海に連れていってほしいと」せがまれて困ったという話をしていた。
つくばはトゥヴァほどではないけれど山間の土地で、海まで往復する時間はなかったからだ。
それに、1999年の公演当日は、東海村で原発の臨界事故が起きた日でもあった。
あの日に海に行くなど、もってのほかだったのだ。
もちろん世界中を周っている彼等は、今ではいろいろな海を知っているだろうと思う。
でも、YuoTubeで「恋のバカンス」を探しているときに、この湘南海岸や昭和30年代の海岸の様子が映った映像を見つけて、あの日彼等が日本の海を見られなかったから、今回は海を見ることができたらいいのにと思った。

また一人昭和の偉大な歌手が亡くなられたことは、本当に残念でならない。
伊藤エミさんの、ご冥福をお祈りいたします。



Huun Huur Tu - Chiraa-Khoor

Huun-Huur-Tu 2012年日本ツアー
http://www.harmony-fields.com/a-huunhuurtu/

◇フンフルトゥ 東京公演 20122012年06月29日 04時59分24秒


Huun-Huur-Tu - Live at Porgy and Bess 2010 05 10

13年ぶり、東京三鷹の武蔵野市民文化会館 小ホールにて行なわれた、Hunn-Huur-Tuの東京公演に行ってきた。

フンフルトゥ 日本ツアー2012詳細
http://www.harmony-fields.com/a-huunhuurtu/

私たちは1999年に茨城県つくば市の公演で彼等の演奏を聴いているのだが、以前はスタッフとして会場を飛び回っていたので、席でゆっくり聞くのはこれが初めてだ。

13年前もそうだったのだが、彼等はロシアでも屈指の芸術家であるので、世界中を飛び回っているスーパースターだ。日本であまり知名度が高くないのが、もったいないと思われるくらいだ。

1998年、1999年と同じように、今回の公演も「祈祷」から始まった。
これは本当にいつ聴いても圧巻である。彼等のコンサートのオープニングの定番だが、初めて聴いたときも二度目のときも、そして今回も彼等が一音発した瞬間、身震いするほどの迫力があり、伴奏のないこの歌によって、観客はすっかり彼等の世界に引き込まれてしまうのだ。

演奏された曲は定番の曲が多く、CDなどで馴染みのある耳覚えのある曲ばかり。
一時期は彼等の曲ばかり聞いていた時期があったので、安心して懐かしく聴く事ができた。

つくば公演のスタッフを一緒にやっていたIさんが、兵庫の公演を見た感想をメールしてくれたのだが、「演奏や歌には影響はないものの、カイガルオールは咳をしていて辛そうだった」と言っていた。東京公演でもステージで咳をする姿があり、少し元気がない様子だったのが気になったが、彼女が言うように演奏や歌にはほとんど影響を感じさせなかった。


今回の日本ツアーは、長年トゥバに親交を持ち、トゥバを日本に紹介した第一人者の一人である、等々力政彦氏のプロデュースによるもの。
彼は札幌在住の嵯峨治彦氏と二人の、「タルバガン」という喉歌ユニットのメンバーでもあり、自身もフーメイやトゥバの楽器を演奏する。

1998年と1999年のつくば公演のときに、公演資料を作るために、当時ほとんど知られていなかった喉歌のことについてメールで連絡をとったところ、「コンサートの手伝いをしたい」と当時関西の学生さんだったのに、わざわざフンフルトゥのためにつくばまで出てきたのが彼だ。
手助けをお願いしたのはこちらからだったが、彼の熱意には当時から非常に圧倒され、1998年のときにも楽屋付きのお手伝いをしてくれたし、1999年の公演のときにはつくばの今はなきライブハウス「AKUAKU」でタルバガンによるプレライブが行なわれ、フンフルトゥの公演当日も最後の何曲かを一緒に演奏するという快挙を成し遂げた。

フンフルトゥが世界的なスーパースターであることを考えると、今ではちょっととんでもないことだったとも思ったりする。ビートルズがあまりよく知られていない田舎の土地で公演をしたときに、彼等と友人だからステージで一緒に歌わせろと言っているようなものだからだ。
しかし、友人である等々力氏のステージ参加の申し出に、フンフルトゥのメンバーはとても喜んでいたし、懐の広いつくばのオーガナイザーN氏も非常に面白がっていて、当初苦い顔をしていたのは招聘元の人達だけだった。
しかし1999年の公演は、あの日あった過酷な状況をものともせず、至上最高の演奏であると、その演奏を聴いた人であれば誰もが認めるものとなった。

今回は等々力氏が自ら招聘し、誰に気兼ねすることもなくフンフルトゥをサポートすることができ、感無量であったことだろう。
今回彼は、コンサートの資料を自作し、公演パンフレットもトゥバについて非常に充実した内容で資料として販売し、コンサートの途中で何度かMCとして登場して楽器やフーメイについて説明しており、彼のトゥバ愛をいかんなく発揮しているように見えた。


今回の公演でつくば公演と違っていたところをあげるとしたら、当時の主力メンバーであり主にフーメイ、口琴、二胡のような形の楽器「プザーンチゥ」を担当していたアナトーリ・クーラルに代わり、若いラジク・テュリュシが参加していること。
ラジクもプザーンチゥや口琴を担当し、「ショール」という縦笛も演奏する。
以前はフーメイや歌のパート担当が比較的はっきり分かれていたが、今回はアナトーリがいない分、カイガルオール・ホバルグの担当パートの割合が以前よりも多く感じた。
ラジクもフーメイを担当しているが、アナトーリが以前担当していたパートを、ラジクがそのまま担当するというものではないようだ。

つくば公演では“口琴名人”と言われたアナトーリが主に金属口琴デミル・ホムスを演奏し、彼の超絶技法でもある手離し演奏(口琴の弾くところを口の中に入れ、舌で演奏する技法)も披露され、大喝采を浴びた。
今回は、カイガルオール、ラジクとサヤン・バパの三人がデミル・ホムスを演奏していた。

打楽器担当のアレクセイ・サルグラルは、1998年と1999年は片面の大きなタンバリンのような太鼓(デュンギュル?)を演奏していたのが、今回は冒頭の動画に見られるような大きな両面太鼓を演奏していた。大きな太鼓はあまり記憶にないのだが、つくば公演でも演奏されていたかどうかは不明。ただ、今回は片面太鼓の出番はなかった。
また、彼も一時期は高音のフーメイの曲で、フーメイの種類そのものでもある「スグット」をソロで歌っていた時期もあったのだが、今回カイガルオールの低音フーメイ「カルグラー」は披露されたものの、「スグット」は披露されなかった。

演奏や歌そのものも、やはり以前とは彼等の年齢も体型も違うせいもあるし、パートの変化もあるので、全体の雰囲気は変わったといえる。
しかし、いぶし銀の魅力が加わわり、以前と今回とは比較できないクオリティのステージだったと思う。
悲しい曲も楽しい曲も、彼等のパフォーマンスは素晴らしかったし、全体を通して非常に風景を感じえる内容だったと思う。

ただ一つ口琴だけは、アナトーリの超絶技法をもう一度フンフルトゥの演奏の中で見たかったのだが、こればかりはないものねだりだ。
アナトーリ・クーラルは、フンフルトゥの初期のCDに参加しており、赤いジャケットのCDでは真ん中に写っているフランキー堺によく似た人物だ。
YouTubeにあった2001年のドイツでのステージで、手離し演奏ではないものの、彼の素晴らしい口琴の演奏を確認することができる。
非常に長い動画で、33分50秒くらいからラストまでに口琴が演奏されている。
口琴ファンは、こちらもぜひチェックしていただきたい(音が小さめなので、できるだけ大きな音で聴いてほしい)。

Huun-Huur-Tu: May 18, 2001, Kiel, Germany
http://youtu.be/LGSDk7yCG88?t=33m50s

冒頭のYouTubeの動画は2010年のもののようで、今回の公演の形態に一番近いと思うものを選んでみた。


そうそう、忘れてならない大きな変化は、観客のほうだ。
今回も昔からのフーメイファンや口琴ファンの馴染みの顔が見受けられ、しばらくそのような場に顔を出さなかった私は、非常に懐かしくみなさんに「ご無沙汰しています」と挨拶をした。

昔だったらコンサートが終った後、みんな感極まってロビーでいつまでも喉歌をうなったり、口琴を演奏したり、中には馬頭琴を持参するものもいたりしたのだ。
私がスタッフで参加するようなイベントでも、こちらが「会場閉めますから、速やかに退場ください」と言われなければ動かなかった。

でも、今回そういう人は誰一人としていなかった。
みんな大人になったのだなと、それはものすごく印象的だった。


※今回は等々力氏のプロデュースする公演の記事のため、グループ名、トゥバや喉歌などに関する表記は、等々力氏が推奨する表記に合わせました。 つくば公演当時は、フンフルトゥは「フーン・フール・トゥ」、フーメイは「ホーメイ」と表記しており、今回の公演の表記とは異なりますが同じものを指しています。

◇訃報 地井武男さん、小野ヤスシさん2012年06月29日 16時37分27秒

俳優の地井武男さんと、小野ヤスシさんが亡くなった。

二人ともテレビではおなじみであったこともあるが、二人とも70歳と72歳ということで、自分の両親と同年代ということもあり、いろいろと考えさせられる。
先日亡くなったザ・ピーナッツの伊藤エミさんも、71歳と歳が近い。

あまりドラマを見ない私としては、地井武男さんは俳優というよりもテレビ朝日の「ちい散歩」のパーソナリティという位置づけの方が強い。
たまに俳優の顔を見ると、バラエティやちい散歩で見せる顔とあまりにも印象がちがうので、この人は役者としては優秀な人なのだなと思った記憶がある。


小野ヤスシさんは、子供の頃はレポーターなどで知っていた。
ドリフターズ全盛の頃に小学生だったのだが、彼がドリフの一員であったことは後から知った。
その後のドンキーカルテットもあまりにも子供の頃の話だったので、彼が一人で活動するようになってからの「スタードッキリ マル秘報告」や「11PM」などでの活躍の方が、私にとってはおなじみだった。
ドリフの面々と同じで、ミュージシャンというよりはタレントといった方がしっくりくる人だ。


いずれも、一時代を築き、広く親しまれた人達であることは違いない。
なんとなく、本当に急速に「昭和」という時代が遠くなっている気がするのは、たぶん私だけではないだろう。
私たちの時代も、大正時代を懐かしむブームがあったりして、明治生まれの祖父母などは、当時の私たちの感覚に「懐かしい」という言葉を口にしていたが、よもや私たちもすでにその領域に存在していることを深く確認してしまう。

地井武男さんと、小野ヤスシさんのご冥福をお祈りいたします。



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