◇2013年しょっぱなからアクシデントに見舞われ風邪をひく ― 2013年01月16日 17時40分32秒
今年は私たちにとっては、結婚20周年のメモリアルイヤーである。
なので、正月から海外旅行としゃれこんだのだが、これがあまりよくなかった。
場所は赤道付近の某新興国。ちょっと奮発したホテルで3泊5日。
しかし、世の中は“なんたらウイルス”でごったがえしており、行きの飛行機でたぶんやられたのではないかと想像する。
年末攻勢で疲れきった旦那は、移動する先々でずっと不機嫌。しかし、自分の不機嫌さに気づいておらず、身体の調子が悪いのかと聞いても大丈夫だという。
しかし、やつは帰国日の前日の夜、屋台街で具合が悪くなり突然震えだした。隣のテーブルの西洋人のお兄さんが、あまりの出来事にびっくりして顔に恐怖の色をうかべる。
テーブルの上には、地元の御馳走が並んでいるが、結局一口ずつくらいしか口にできず、旦那を抱えてホテルに戻る。
激しい下痢と腹痛があり、ノロウイルスが疑われる。ホテルの日本人スタッフに頼んで海外旅行保険の現地連絡先に電話をしてもらうが、記述されていた電話番号がおかしいらしくつながらない。
幸い、ツアーにも海外旅行保険がかけられていたので、そちらに連絡し、現地のツアーガイドの機転で医者の往診をお願いすることができた。
夜中に冷えピタをセキュリティの人に買ってきてもらったり、ベルボーイの人にショッピングセンターのドラッグストアまでついてきてもらったりと、ホテルのスタッフには非常に親切にしてもらえた。
帰国便が夜中だったので、ホテルのチェックアウトも18時の予定だっだか、ピックアップぎりぎりまで利用させてもらえた。
航空会社のツアーだったので、帰りの飛行機でもCAさんにとても手厚くしてもらえた。
席が確保できず、三人がけの席で隣の方には非常に迷惑をかけてしまったが、飛行機の中は旦那以外も咳こむ人がものすごく、夜中にはうわごとを言うひとまで続出。しかも、そういう人に限ってマスクをしていないのは、どういうことなのか。
早朝、無事に帰国し、その足で病院に駆け込む。
私は帰宅して保険会社に確認するなど、事務手続きなどをして、旦那を病院に迎えに行ったりとバタバタしていた。
旦那は翌日から仕事だったが、こんな状態で行かせられないという私の主張に普段温厚な旦那がキレ、よもや大喧嘩に発展しかける。
しかし冷静に「普段ならなんでもないことなのに、なんでそんなキレるのか、自分でよく考えろ」という私の主張が通り勝利するも、翌日の出勤阻止には失敗する。
旦那は点滴がよかったのか、翌日には完全復帰に近い形で体調は快復していた。
しかし、私は悪寒、鼻水、咳、くしゃみが続き、週末から身体中のふしぶしが痛むがいっこうに熱が出ない状態が続く。
月曜日は痛恨に雪で外に出られず、結局病院に行けたのは火曜日だった。
病院では「最近のインフルエンザにとても似ている」ということで、鼻に麺棒を突っ込まれてインフルエンザの検査をしたが、結果は陰性であった。
その日は旦那も病院で検査の結果を聞きに行き、インフルエンザでないことを確認したらしい。
しかし、悪寒などはとれて身体は少し楽になったものの、熱が出ず発散しないせいか、いつまでも風邪の症状が続いて辛い。
ということで、正月初めから二人して風邪でバタバタしている。
今年の厄がこれで集約されて、一年平穏でありますように。
なので、正月から海外旅行としゃれこんだのだが、これがあまりよくなかった。
場所は赤道付近の某新興国。ちょっと奮発したホテルで3泊5日。
しかし、世の中は“なんたらウイルス”でごったがえしており、行きの飛行機でたぶんやられたのではないかと想像する。
年末攻勢で疲れきった旦那は、移動する先々でずっと不機嫌。しかし、自分の不機嫌さに気づいておらず、身体の調子が悪いのかと聞いても大丈夫だという。
しかし、やつは帰国日の前日の夜、屋台街で具合が悪くなり突然震えだした。隣のテーブルの西洋人のお兄さんが、あまりの出来事にびっくりして顔に恐怖の色をうかべる。
テーブルの上には、地元の御馳走が並んでいるが、結局一口ずつくらいしか口にできず、旦那を抱えてホテルに戻る。
激しい下痢と腹痛があり、ノロウイルスが疑われる。ホテルの日本人スタッフに頼んで海外旅行保険の現地連絡先に電話をしてもらうが、記述されていた電話番号がおかしいらしくつながらない。
幸い、ツアーにも海外旅行保険がかけられていたので、そちらに連絡し、現地のツアーガイドの機転で医者の往診をお願いすることができた。
夜中に冷えピタをセキュリティの人に買ってきてもらったり、ベルボーイの人にショッピングセンターのドラッグストアまでついてきてもらったりと、ホテルのスタッフには非常に親切にしてもらえた。
帰国便が夜中だったので、ホテルのチェックアウトも18時の予定だっだか、ピックアップぎりぎりまで利用させてもらえた。
航空会社のツアーだったので、帰りの飛行機でもCAさんにとても手厚くしてもらえた。
席が確保できず、三人がけの席で隣の方には非常に迷惑をかけてしまったが、飛行機の中は旦那以外も咳こむ人がものすごく、夜中にはうわごとを言うひとまで続出。しかも、そういう人に限ってマスクをしていないのは、どういうことなのか。
早朝、無事に帰国し、その足で病院に駆け込む。
私は帰宅して保険会社に確認するなど、事務手続きなどをして、旦那を病院に迎えに行ったりとバタバタしていた。
旦那は翌日から仕事だったが、こんな状態で行かせられないという私の主張に普段温厚な旦那がキレ、よもや大喧嘩に発展しかける。
しかし冷静に「普段ならなんでもないことなのに、なんでそんなキレるのか、自分でよく考えろ」という私の主張が通り勝利するも、翌日の出勤阻止には失敗する。
旦那は点滴がよかったのか、翌日には完全復帰に近い形で体調は快復していた。
しかし、私は悪寒、鼻水、咳、くしゃみが続き、週末から身体中のふしぶしが痛むがいっこうに熱が出ない状態が続く。
月曜日は痛恨に雪で外に出られず、結局病院に行けたのは火曜日だった。
病院では「最近のインフルエンザにとても似ている」ということで、鼻に麺棒を突っ込まれてインフルエンザの検査をしたが、結果は陰性であった。
その日は旦那も病院で検査の結果を聞きに行き、インフルエンザでないことを確認したらしい。
しかし、悪寒などはとれて身体は少し楽になったものの、熱が出ず発散しないせいか、いつまでも風邪の症状が続いて辛い。
ということで、正月初めから二人して風邪でバタバタしている。
今年の厄がこれで集約されて、一年平穏でありますように。
◇訃報:大島渚の思い出 ― 2013年01月16日 17時46分31秒
映画監督・大島 渚さん、肺炎のため死去 80歳(13/01/15)/Youtube FNNnewsCH
熱を出して寝込んでいたときに、テレビを観ていた旦那が「大島渚が死んだって」と私に言った。
なんとなく意識が朦朧としている中で、「ああ、そうなのか」となんとなく納得してそのときはそれ以上何も思わなかった。
しかし、後でその事を思い出して、じわじわと驚きの感情がわきあがってきた。
大島渚という映画監督を強烈に印象深いのは、たぶん40代以上の人たちなのではないだろうかと思う。 大島渚の印象としては、政治的なテーマの映像作品であったり、男女の愛欲がテーマとなったものが多く、当時まだ10代だった私には、興味はあってもその意味を理解するのも難しかった。
撮る映画も斬新だったが、テレビが元気だった時代にはバラエティから情報番組、討論番組にも積極的に出演して、持論をぶちまけ、時には激高して相手を恫喝するようなシーンも度々あった。
自身の結婚30周年記念パーティの壇上では、酩酊した野坂昭如に殴られマイクで殴り返すということもあった。
昔はこういう文化人がたくさんテレビに出ていて、“怒り”の感情のありようを明確に提示していてくれたのだが、いつのまにかこういう人はテレビから姿を消し、なあなあで当たり障りのないどうでもいい感情だけがよしという風にされてしまったような気がする。
「喜怒哀楽」というくらいだから、喜びの感情の次に怒りの感情も大切であると個人的には認識しているのだが、今は「喜怒哀楽」から「怒」の感情だけが見て見ぬふりをされているような気がしてならず、それだから顔を出さぬ場所で怒りのパワーが間違った方向に発信されてしまうような気がする。
私たちの世代であれば、一番強烈に思い出すのはやはり「戦場のメリークリスマス」であろう。
「愛のコリーダ」も非常に話題になり、わいせつ物陳列罪騒動も記憶しているが、このときはまだ小学生だったので、せいぜいクインシー・ジョーンズが歌っていた同名の楽曲がヒットしたことが印象に強い程度だろうか。
「阿部定事件」もこの映画の報道で知った。ウイークエンダーの再現フィルムか何かで阿部定事件の再現を見て、なんて痛い事件だろうと思ったりした。しかし、このときは内容の意味もよくわからず、なんだかどろどろして計り知れない闇を感じる事件であるということくらいしかわからなかった。
クインシー・ジョーンズの曲の日本語の歌詞の部分が非常にマヌケに聞こえたのと、ファンキーな曲調と、テレビで観た踊るクインシー・ジョーンズの姿が、この映画の題材になった「阿部定事件」との距離感がハンパなく、なんだかぐにゃぐにゃした印象であった。
Quincy Jones with louis Johnson ai no corrida
そういう意味では、「戦場のメリークリスマス」はリアルタイムであるが、この映画の本当の意味を当時理解していたかといわれたら、そうでもないかもしれない。
当時、日本のロックブームの中にあった、ボーイズラブ的なお耽美な世界を、大島渚は無骨な戦場に持ち込んだ印象が強かった。
それでも、この作品でビートたけしと坂本龍一という二人の才能が開花したのは誰もが認めるものだし、終始淡々としつつもところどころで鮮明に残るシーンのひとつひとつは、今でも脳裏に焼きついている。
Wikipediaで確認すると、内田裕也とかジョニー大倉なんかも出演していたとあって、ああそうだったかと思うくらい印象にはなく、主役のボウイとビートたけしの存在感と、滑舌悪くて何言ってるんだかさっぱりわからなかった坂本龍一が印象深い。
メディアを買うほど好きな映画ではないが(曲に至っては、耳にしすぎて嫌いなくらい)、もう一度観たいかと聞かれたら観てもいいと答えると思う。
少なくとも、私にとっては青春の一本である。この映画にはいろいろな思い出が詰まりすぎていて、もう一度観たいというよりは、「戦場のメリークリスマス」を思い出すといろいろなことがくっついて思い起こされてしまう映画なのだ。
その後はやはり、“テレビで怒るおじさん”という印象が大きかった。当時は政治評論家や経済評論家など、テレビで怒るおじさんはけっこうたくさんいたものの、そのさきがけはやはりこの人だったのではないかと思う。
この人は映画の現場でも怒鳴ることで有名であったが、それをテレビの現場に持ち込んでキャラクター付けしたのだろうか。大島渚がテレビでキレるのを観て、ちょっと笑うという風潮は確かに当時からあったものの、今のただキレるだけのキレ芸芸人とは違い、きちんとした論理があってこその怒りであるから、見ていても「おおっ」とわくわくすることができた。
理不尽にただ闇雲に怒るのではなく、確かな理念をもった上での怒りなので、その怒りを安心してみていられるというのは確かにあった。
存在感が大きいので、そこにいるだけで発する圧倒的なオーラは、怒鳴っていなくてもテレビから確実に受け取ることができたように思う。
カリフォルニアの青いバカ
90年代に入り、TBSの深夜番組「いかすバンド天国」で、漫画家のみうらじゅんが「大島渚」というバンドで出場したのも印象深い。
このときのエピソードを大島渚本人は、好意的に受け止めていたのだが、テレビで受けたインタビューを見ていて「ほんとだろうか」と懐疑的にもなったりした。
しかし、本当にそのことを快諾している様子だったので、その懐の深さも垣間見る事にもなったのだった。
私は上京してから、何度か大島渚夫妻と遭遇している。
1990年代の始め頃、総武線沿線に住んでいるとき、電車内で相撲観戦帰りの大島渚と小山明子夫妻を見たことがある。
大島渚が脳梗塞で倒れるちょっと前に、何度か体調が優れないという報道がされていた頃のこと。
私が夕方総武線で都心方面に移動中、両国駅で大島渚ご夫妻が乗車してきたのだ。
これからサラリーマンの帰宅時間にも重なる時間帯に、こんな有名人が普通に電車に乗っていることにちょっと驚いた。
その時は冬でコートを着ていた記憶があるので、たぶん初場所であろうと思う。結びの時間のちょっと前だったが、空いていた車輌は一気に混みだした。
私は反対側のドアの戸袋のところにいたのだが、そこの空いている席に一人の年配の男性が座り、着物姿の女性がその前に立っていた。その女性が小山明子であることはすぐに判ったのだが、座った男性が大島渚であるとはすぐにはわからなかった。
テレビで見ていた印象では大島渚は非常に恰幅の良い感じであった。しかし、そこに座っていた男性は非常に痩せてげっそりしており、テレビから感じていたオーラはそこにはなかった。トレードマークのメガネもそのままで、姿勢良く眉間に皺をよせてじっと目を閉じて気難しそうに座っている姿からは、弱弱しささえ感じられた。
大島渚の前に立っていた小山明子も少し疲れた感じであったので、たぶん相撲観戦に出かけたのはいいが、少し体調を崩してしまったのかもしれないと思ってみていた。
彼等は御茶ノ水で中央線に乗り換えていった。たぶん東京駅で東海道線に乗り換えて藤沢まで帰るのだろう。東京駅から藤沢までは、約1時間くらいかかる。当時はライナーのようなものも本数が少なかったので、楽に帰るのであればグリーン車を使うのかななど考えたりもした。それでも、これからこのサラリーマンの通勤時間にもあたる時間帯に、両国から電車を乗り継いで藤沢まで帰るのは大変だろうなと思ったりもした。
その後、大島渚がロンドンで倒れてリハビリ生活を送っていることを知ったときは、ちょっとショックだった。
その後、私自身も結婚して藤沢に住んでいた時期があったが、藤沢駅の北口と南口を結ぶ地下通路で、車椅子に乗る大島渚とそれを押す小山明子を見かけた。仲よさそうに歩いていて、大島渚の顔色も良い様に見えたし、小山明子も笑顔だったので、ああ、お元気なのだなと思ったのを覚えている。
その後病院で見かけたりしたこともあったが、特にそれだけで交流があったわけではない。
ただ、なんとなく顔の知っている人が病気で、元気そうにしているのを見ると「よかったな」と思ったりしていた。
もう、藤沢に行っても、お二人のそんな姿を見かけることもないのだろう。
テレビで怒号を聞くこともなければ、笑顔で嬉しそうにしてたり、理不尽な事に泣き出しそうな顔で声を裏返して話す姿も見られない。
あんなに「喜怒哀楽」を見事に見せてくれた日本人は、今はテレビでもほとんど見かけない。
常に時代と共に突っ走ってきた人だが、藤沢の街中で見た笑顔が、大島渚の「哀」ではなく「楽」であったことを信じたい。
聞いたときには「ああ、そうか」と思ったが、時間が経つにつれて、なんとなく知っているけど疎遠になっていた人が亡くなってしまったような、そんな錯覚に陥ってしまった。
大島渚さん、小山明子さん、お疲れ様でした。
大島渚さんのご冥福をお祈りします。


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