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◇横浜中華街春節 民族衣装パレードに行く2010年03月08日 04時21分45秒

横浜春節祭民族衣装パレード


私たちは、十数年前の春節の日に、横浜中華街で結婚式を挙げた。
当時は、中華街で結婚式を挙げるといっても、特別中華的な衣装のレンタルがあるわけではなく、レストランの結婚式をたまたま中華街の中で行うという程度のものだった。
しかし、春節祭の真っ最中に挙式したということでなんとなくご縁を感じ、中華街の春節祭に足を運ぶことが多い。
今年の春節は、ちょうどバレンタインデーと同じ2月14日だったが、あいにく雨模様だったので、夜中に行われる奉納獅子舞も中止だったのではないかと思う。

横浜中華街民族衣装パレード
昔は、関帝廟が建築中だったせいか、春節祭自体もそれほど長い期間行われるわけではなく、春節のある週とその次の週の二週間くらい行われる程度だった。
現在は、春節の日から一ヶ月近く、週末には何かしらのイベントを行って、観光客を取り込もうとしているようだ。

春節当日の獅子舞パレードも楽しいのだが、今年は2月21日の日曜日に行われた民族衣装でのパレードが楽しみで、ちょうどドイツ在住の友人ご夫婦が里帰りされたので、ご一緒に横浜中華街の春節祭民族衣装パレードに行った。

春節当日のパレードは主に獅子舞が主役なのだが、この日の主役は神戸の中華街と横浜中華街の中学生・高校生による交流龍舞と、宮廷の民族衣装を身につけた人々が楽しみなのだ。
10年ほど前は、民族衣装も宮廷の民族衣装と共に、少数民族の民族衣装もパレードにあったのだが、今は宮廷の衣装のみになっている。

私たちが中華街に到着したのが、パレードの始まるちょうど10分ほど前。開会式の進行が遅れているらしく、パレードはまだ出発していない様子。
しかし、シルクロード通りから関帝廟通りに曲がる道は封鎖されていて、たくさんの人だかりができている。
やっと龍舞の龍が見えたときには、人人人で一歩も歩けない。
人ごみの中で、一眼レフを手にしたおっさんが数人、人を押しのけ、人の上にのしかかりながらカメラを撮影していてうんざりしてしまい、一時はパレード見物を諦めて元町散策でもしようかと言っていた。 あちこちの店をひやかして時間をつぶしていたら、パレードが街を一周して戻ってきた。
シルクロード通りから関帝廟通りに曲がる郵便局の角の最前列を陣取り、やっとパレードを見物することができたのだった。

横浜中華街民族衣装パレード
 
横浜中華街民族衣装パレード
横浜中華街民族衣装パレード

神戸の高校生によるピンクの龍舞。見物客の中から「加油!(頑張れ!)」の掛け声がかかる。
色とりどりの獅子舞にちびっこ龍舞、虎の張子などが次々とやってくる。
しばらくして、横浜中華街の中学生による黄色の龍舞がやって来て、その後に三国志に出てくるような衣装を着けた人々が、一本歯の高下駄を履いて来る。
高下駄といっても、日本の下駄のようなものではない。どちらかというと、靴に竹馬が装着されているといった感じ。
女性は金属製のちょっと太めの高下駄だが、男性は木製の椅子の足のようなものが、靴にくっついている。

私たちの立っていたところは、ちょうどゴールになる公園の手前の曲がり角だったため、パレードはその角でちょっと渋滞気味になる。
宮廷衣装の人たちは、写真撮影のためにそれぞれポーズをつけて撮影に応じてくれた。
京劇の役者のようなメイクに、豪華な装飾がちりばめられた衣装は大変豪華だ。

前日が雨だったので天気が気がかりだったが、曇天の中それでも雨も降らずに住んで、鐘と爆竹の音の中で中国情緒を堪能したのだった。

◇8泊9日プロローグ2010年03月08日 04時36分33秒

しばらく大丈夫かなと思っていたのだが、久しぶりに持病の腸閉塞の発作で緊急入院した。
前回入院したのは2008年の2月で、私は少し油断をしていたのかもしれない。

2月25日に、かねてよりの計画していた手作り豆腐を作った。
しかし、最後のにがりを入れるところで、レシピどおりににがりを入れても大豆汁が固まってくれない。
旦那が帰宅して、「高校の理科の実験でやったときは、簡単に固まった」と言う。
にがりの濃度が薄いのだろうと、レシピに書いてあるにがりの量の3倍のにがりを入れると、豆腐は少しづつ固まりだしたので、その日はそのまま放置して寝てしまった。
次の日の朝、少し緩めだがくみあげ豆腐(布で濾して重しをしていない豆腐)なのでこんなものかと思い、電子レンジでちょっと暖めて朝食として食べたのだった。

そして腹痛はやってきた。
朝食の一時間後に、激しい腹痛と吐き気があったので、にがりのせいだと思った。
一緒に豆腐を食べた旦那は大丈夫だろうかと心配したのだが、メールをするなどの余裕はない。
2時間ほどのた打ち回り、数回の下痢と数回の嘔吐を繰り返して、腹痛があるときに必ずある激しい眠気のため、ベッドに倒れた。

目が覚めたのは、12時過ぎ。
腹痛は治まる気配がなかったので、一人で病院に行こうと思ったが、すでに一人で行く余裕もなかったので119番した。

数分で救急車がやってきて、いつも救急では断られる地元の病院に搬送するとのこと。
搬送先の病院でCTとレントゲン、採血検査(採血するのに、7回は失敗した。断りもなく手の甲で採血して、しかもそれを失敗したことは忘れない)の結果、サブイレウス(腸閉塞のなりかけ)だと診断され、入院が必要だと告知される。
しかし、ここの病院には空いているベッドがないので(なら、なんで救急指定病院なんだろう。ここはいつもベッドが空いていないというのだ)、以前入院した病院に搬送しなおすとのこと。

そして私は2年ぶりに、隣町のなじみの病院に搬送されたのだった。
ここの病院は、戦時中に立てられた大きくて古い病院だ。
庭などはそれなりの情緒があって好きなのだが、いかんせん施設も古ければ病院の設備や仕様も古い。
救急搬送された病院から、検査結果のデータをCD-Rで渡されたのだが、そのファイルが利用できないというので驚いた。
結局、レントゲンと採血だけ再検査となった。

この病院は、この春から新しい建物に引越しをする。
カルテもこの春から電子化され、前の病院のデータが利用できるのは、この春からとなるようだ。
入院中も、引越し前で現場はかなり混乱しているせいか、なかなか危険で面白い体験をしたので、日記にして記録しておこうと思う。

とりあえず、今回の腹痛の原因は手作り豆腐ではなかったのが、せめてもの幸いか?

つづく

◇8泊9日入院日記2010年03月08日 07時20分38秒

入院中のベッドプレート

●2月26日金曜日 一日目
入院初日。
鼻から胃に管を入れられて胃の内容物を出す処置がされ、絶食。
点滴の管が左手のひじ関節のところに入っているので、左手をまっすぐにしていないと、輸液が止まってしまう。
自力のトイレを心配され、膀胱にも管を入れられそうになったが、それは拒否する。
その代わり、蓄尿をさせられる。

ここの棟のトイレは、女子トイレと男子トイレの真ん中に汚物処理室があり、そこに蓄尿用の袋が用意されているのだが、いちいち廊下に出ないと汚物処理室に行けないのが不便。

部屋は4人部屋。私以外は長く入院している年配の人。
向かいのベッドのおばあさんは、自分ひとりでは動けない様子なのに、なぜか消灯までずっとラジオがオープンでつけっぱなし。とてもうるさい。


●2月27日土曜日 一泊二日目
痛み止めのせいか、人と話していても眠くてしょうがない。
一日2リットルの生理食塩水と抗生物質、痛み止めなどが点滴される。
鼻と喉が痛くて、話すことも辛い。

朝早く、向かいのベッドのおばあさんの家族が来て、ラジオをつけっぱなしにしてから帰った。AMでチューニングがあってないので、大変気持ち悪い。
旦那が昼過ぎに来たので、ラジオのことを看護師さんに言ってもらう。
その直後、部屋を変えられた。

次の部屋も4人部屋だが、同室の人たちは前の部屋の人よりも元気で、自分でトイレなどに行ける人たち。
しかし、退屈だといって一日中おしゃべりが続く。内容は、毎日の食事の感想(概ね文句)が主な話題。
私は絶食が1日まで続いたので、この話が聞こえるのが辛かった。

部屋は棟の一番端っこで、トイレが遠い。
この日は2500ccも尿が出て、蓄尿用の袋があふれそうになった。


●2月28日日曜日 二泊三日目
比較的元気。
入院計画書が提出されて見ると、毎日清拭が行われていて、今までも行われていたように書いてあったので、「一度も清拭してもらっていません」と言うと、やっと清拭タオルを持ってきてくれた。
しかし、この日の担当のS看護師はベテランだが仕事がちょっと雑なのか、それとも大まかなところははしょるのが彼女の仕事なのか、拭くのは自分で全てさせられたので、点滴を曲げられない左手を動かすことができず、大変辛かった。

この日の深夜に点滴が漏れて、結局右手に刺しなおすことになってしまった。
点滴の管を入れるためにこのときは1回失敗した。
救急で搬送されてから、点滴用ルートの注射は合計で10回されたことになる(実際に利用できたのは2つのみ。あとは全て失敗)。

新しい点滴の管は短くて、蓄尿するときに苦労する。


●3月1日月曜日 三泊四日目
この日の日中の担当は、背が高く若い男性の看護師だった。
清拭タオルを頼み一人で点滴の管と格闘していると、「気がつかなくてごめんなさい」と言って背中を拭いてくれた。
シャンプーはいつからできるか聞くと、「今日でも大丈夫」との返事だったので午後に頼む。
点滴の管も、長く足してくれた。

この看護師は非常に仕事が丁寧で、毅然とするところはきちんとして好感がもてる。
しかし、やはりシャンプーの洗い方は男の洗い方で、胸まである長い髪をもてあまし気味。
しかも、5日ぶりのシャンプーはまったく泡立たず、3回シャンプーして強制的に終了されてしまった。

シャンプーの後に鼻の管を顔に固定していたテープを換えてくれたのだが、夜に鼻の管が抜かれることになる。
久しぶりの開放感。
それまでは鼻の奥が常に痛く、炎症のため鼻水が止まらず難儀していた。
鼻水は、管を抜いたら出なくなった。

絶食はこの日で終了。翌日からは、重湯から徐々に普通食に移っていく。
蓄尿もこの日で終わりなので、嬉しい。


●3月2日火曜日 四泊五日目
この日は、入院後初めての食事。一日重湯。
重湯の初日の朝に出されたのは、重湯と煮物の汁と牛乳とゼリー。
腸のストレスを軽減するための絶食だったのに、初日から牛乳はちょっとヘビーではないのかといぶかりつつ飲むが、もともと冷たい牛乳は飲みつけていないので、その日一日調子が悪い。

昼は150ccパックのドリンクタイプのアミノ酸流動食。高カロリーで、1パックで250kcalもある。
これが激まずで、閉口する。
これと、正体のわからないムースと、温かいりんごジュースのでんぷんがきは、この病院の三大激まず流動食。
食べられずに、ほとんど残してしまう。

アレルギー検査では陰性だが、体調の悪いときに鯖とカニはアレルギー反応が出るので、食事に出すのを禁止してもらうように、その日の担当看護師に告げる。

前日にシャンプーをしてもらったのに、頭全体にフケがういて大変不快になる。
翌日点滴がはずれるので、明日からシャワーが解禁になる。

鼻の管がぬけて話をするのが苦痛でなくなったので、同室の人との会話に参加する。
三人とも良い人で安堵する。
しかし、向かいのベッドの人が午前中に退院とのことで、最後に笑顔でお見送りができた。

ベッドが空いて、5分も経たずに新しい人が入ってきた。
新しい人は、日中は寝ていて消灯後にずっと独り言を話している。
どうやら、少し痴呆がある様子。
簡易トイレを部屋に入れていたが、本人が拒否したので夜中に撤去されるなど、夜半過ぎまでばたばたしていた。


●3月3日水曜日 五泊六日目
この日は一日、三分粥。
三分粥といっても、全体の30%がつぶのあるおかゆで、70%が重湯。
おかずは、煮物を煮つぶしたものが三品。ほとんど離乳食である。
ひな祭りだったので、桃味のゼリーと桃味のムースのお菓子が夜に出たのが嬉しかった。
隣のベッドの人は雛あられ、斜め向かいの人は水羊羹が出たらしい。

この日の夕食に、魚を煮崩したフレークが出た。
青い魚のようだが、鯖っぽい感じもするしちがうようにも思う。同じ部屋の普通食の人に魚の素性を聞くと、隣のベッドの人は鰆だと言い、はす向かいのベッドの人は太刀魚だと言う。
これまでの入院時には、食事のときにプレートについてくる名札に、食事の禁止事項が記載されているのだが、前日に申告した鯖とカニの禁止の記述がなかったので、看護師に禁止事項とその日の夕食の魚について確認を求める。
前日に担当看護師に伝えた禁止事項は、栄養科に伝わっていなかったらしく、ショックを受ける。
魚のフレークは、鰆であった。

午後に点滴がはずされ、ようやく管から解放された。
点滴の最中と直後は、いつも頻尿になって膀胱炎一歩手前みたいな状態になる。
この日は一日に 13回もトイレに行った。

全ての管から解放されたので、この日に初めてシャワーをあびて、さっぱりする。
シャンプーもきちんとできたので、頭の不快さからも解放された。
入院した前日に入浴したきりだったので、一週間ぶり。

夕方の回診で、医師が「もう全粥で退院していい」と言ったので、次の日から全粥であさってには退院だと勘違いする。

隣のベッドの人に手相を見てもらう。金運があると言われて嬉しくなる。

向かいのベッドの人の奇行が目立ち、歩くのもままならない状態なのに夜中に部屋を脱走した。
後で聞くと、夜中に突然隣との境のカーテンを何度も開けて、「違う人がいる」と怒り出したりしたらしい。

眠れないので睡眠導入剤をもらい、半錠飲んでやっと眠る。


●3月4日木曜日 六泊七日目
朝食は全粥。いり卵といんげん豆の煮物、里芋の煮物、牛乳が出る。
前日に医師から「全粥で」と言われたので、まったく疑いなく食べる。久しぶりの “形のある食べ物”。
しかし、三分粥の次にいきなり200gの全粥+牛乳はけっこうヘビーで、胃もたれする。

ここのご飯の等級は、
重湯→三分粥→五分粥→七分粥→全粥→普通ご飯(やわらかめ)
である。

昼食時には五分粥が出て、朝に全粥だったのにおかしいと思い看護師に確認を求めると、朝食の全粥は栄養科のミスで、この日は本来一日五分粥の日だと告げられショックを受ける。
朝食が全粥だったことへの説明を求めると、医師が飛んできた。
食事中なのに、朝食摂取後に何か変化がなかったかなど問診される。
ちょっと胃もたれすることを告げ、特に重湯の日から出ている冷たい牛乳がちょっとヘビーであると告げると、次の日から牛乳はヨーグルトに差し替えられた。
食事のプレートの名札には、サバ禁、カニ禁、牛乳禁と三つの禁止事項が記述された。

夕方の回診で、医師より「明日かあさってには退院していい」と具体的に退院の告知をされる。
明日に退院したかったが、旦那が休みをとらなければならないので、土曜日の退院にしてもらう。

夕方、向かいのベッドの人が再び部屋を脱走しようとする。
廊下に出たところで、看護師が見つけてナースステーションに消灯まで見張りつき。
消灯直前に突然「部屋を替わります」と看護師が来て、ベッドごと移動していった。
新しく来た人は、もともと4人部屋を希望していたが空きがなく、個室にいた人らしい。
消灯前の突然の出来事で、みんな面食らっていた。

トイレが近くて寝付けず、前日もらった睡眠導入剤の残りの半錠を飲んで寝る。
この日は、一日に16回もトイレに行った。


●3月5日金曜日 七泊八日目
全粥が出される。ご飯どんぶりにてんこ盛り。それでも150gらしい。
ぱさぱさの魚や、ぱさぱさの鶏肉の煮物などがおかずにつくが、それまでが悲惨だったのでそこそこ嬉しい。
金曜日は麺類の日らしく、昼食は蕎麦だった。
子供の頃、風邪のときに「蕎麦を食べたい」と母に言うと、「蕎麦は消化が悪いからだめ」と言われたのを思い出す。それを考えると、腹痛で入院していて食事に蕎麦というのは、なんとなく不思議な感じ。
蕎麦はプラスチックの容器に麺だけが入っており、別な容器につけつゆが入っていたが、麺がすっかり容器に貼り付いて固くなってしまっていた。

この日は久しぶりの天気で、朝には廊下の窓から富士山が見えた。
明日退院できると思うと、嬉しくてしょうがない。

やはり寝付けず、睡眠導入剤を半錠飲むがまったく眠れない。
夜半すぎに残りの半錠を飲んでからトイレに行くと、ベッドに戻ったときが限界だったらしく、かけぶとんの上にそのまま寝ていて、夜中に看護師に「風邪をひく」と起こされた。


●3月6日土曜日 八泊九日目
退院の日。
朝食は普通食になっているかと期待したが、全粥のままでがっかりする。
以前は、退院の日はちゃんと普通食にしてくれたのに、なんとなく手抜きなような気がするが、気にしないことにする。

荷物をまとめると、結構多くて難儀する。
9時過ぎに旦那が来てくれ、会計をして以前よりも3割ほど高くなっているのに驚く。
2年前はMRIなど検査項目も多かったのに。

帰宅して、バンクーバーオリンピック フィギュアスケートエキシヒジョンなど、たまった録画を一気に見たりして、旦那と二人ですごす。
甘いものが食べたくなり、旦那が小豆でぜんざいを作ってくれた。
しかし、大豆から作った豆腐の日に腹痛が起きたので、小豆のぜんざいは半分だけにした。
残りの半分は、次の日に美味しくいただいた。

この日もなかなか眠れなかったが、くせになるのがいやなので、睡眠導入剤は飲まなかった。




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