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◇横浜中華街春節 民族衣装パレードに行く2010年03月08日 04時21分45秒

横浜春節祭民族衣装パレード


私たちは、十数年前の春節の日に、横浜中華街で結婚式を挙げた。
当時は、中華街で結婚式を挙げるといっても、特別中華的な衣装のレンタルがあるわけではなく、レストランの結婚式をたまたま中華街の中で行うという程度のものだった。
しかし、春節祭の真っ最中に挙式したということでなんとなくご縁を感じ、中華街の春節祭に足を運ぶことが多い。
今年の春節は、ちょうどバレンタインデーと同じ2月14日だったが、あいにく雨模様だったので、夜中に行われる奉納獅子舞も中止だったのではないかと思う。

横浜中華街民族衣装パレード
昔は、関帝廟が建築中だったせいか、春節祭自体もそれほど長い期間行われるわけではなく、春節のある週とその次の週の二週間くらい行われる程度だった。
現在は、春節の日から一ヶ月近く、週末には何かしらのイベントを行って、観光客を取り込もうとしているようだ。

春節当日の獅子舞パレードも楽しいのだが、今年は2月21日の日曜日に行われた民族衣装でのパレードが楽しみで、ちょうどドイツ在住の友人ご夫婦が里帰りされたので、ご一緒に横浜中華街の春節祭民族衣装パレードに行った。

春節当日のパレードは主に獅子舞が主役なのだが、この日の主役は神戸の中華街と横浜中華街の中学生・高校生による交流龍舞と、宮廷の民族衣装を身につけた人々が楽しみなのだ。
10年ほど前は、民族衣装も宮廷の民族衣装と共に、少数民族の民族衣装もパレードにあったのだが、今は宮廷の衣装のみになっている。

私たちが中華街に到着したのが、パレードの始まるちょうど10分ほど前。開会式の進行が遅れているらしく、パレードはまだ出発していない様子。
しかし、シルクロード通りから関帝廟通りに曲がる道は封鎖されていて、たくさんの人だかりができている。
やっと龍舞の龍が見えたときには、人人人で一歩も歩けない。
人ごみの中で、一眼レフを手にしたおっさんが数人、人を押しのけ、人の上にのしかかりながらカメラを撮影していてうんざりしてしまい、一時はパレード見物を諦めて元町散策でもしようかと言っていた。 あちこちの店をひやかして時間をつぶしていたら、パレードが街を一周して戻ってきた。
シルクロード通りから関帝廟通りに曲がる郵便局の角の最前列を陣取り、やっとパレードを見物することができたのだった。

横浜中華街民族衣装パレード
 
横浜中華街民族衣装パレード
横浜中華街民族衣装パレード

神戸の高校生によるピンクの龍舞。見物客の中から「加油!(頑張れ!)」の掛け声がかかる。
色とりどりの獅子舞にちびっこ龍舞、虎の張子などが次々とやってくる。
しばらくして、横浜中華街の中学生による黄色の龍舞がやって来て、その後に三国志に出てくるような衣装を着けた人々が、一本歯の高下駄を履いて来る。
高下駄といっても、日本の下駄のようなものではない。どちらかというと、靴に竹馬が装着されているといった感じ。
女性は金属製のちょっと太めの高下駄だが、男性は木製の椅子の足のようなものが、靴にくっついている。

私たちの立っていたところは、ちょうどゴールになる公園の手前の曲がり角だったため、パレードはその角でちょっと渋滞気味になる。
宮廷衣装の人たちは、写真撮影のためにそれぞれポーズをつけて撮影に応じてくれた。
京劇の役者のようなメイクに、豪華な装飾がちりばめられた衣装は大変豪華だ。

前日が雨だったので天気が気がかりだったが、曇天の中それでも雨も降らずに住んで、鐘と爆竹の音の中で中国情緒を堪能したのだった。

◇8泊9日プロローグ2010年03月08日 04時36分33秒

しばらく大丈夫かなと思っていたのだが、久しぶりに持病の腸閉塞の発作で緊急入院した。
前回入院したのは2008年の2月で、私は少し油断をしていたのかもしれない。

2月25日に、かねてよりの計画していた手作り豆腐を作った。
しかし、最後のにがりを入れるところで、レシピどおりににがりを入れても大豆汁が固まってくれない。
旦那が帰宅して、「高校の理科の実験でやったときは、簡単に固まった」と言う。
にがりの濃度が薄いのだろうと、レシピに書いてあるにがりの量の3倍のにがりを入れると、豆腐は少しづつ固まりだしたので、その日はそのまま放置して寝てしまった。
次の日の朝、少し緩めだがくみあげ豆腐(布で濾して重しをしていない豆腐)なのでこんなものかと思い、電子レンジでちょっと暖めて朝食として食べたのだった。

そして腹痛はやってきた。
朝食の一時間後に、激しい腹痛と吐き気があったので、にがりのせいだと思った。
一緒に豆腐を食べた旦那は大丈夫だろうかと心配したのだが、メールをするなどの余裕はない。
2時間ほどのた打ち回り、数回の下痢と数回の嘔吐を繰り返して、腹痛があるときに必ずある激しい眠気のため、ベッドに倒れた。

目が覚めたのは、12時過ぎ。
腹痛は治まる気配がなかったので、一人で病院に行こうと思ったが、すでに一人で行く余裕もなかったので119番した。

数分で救急車がやってきて、いつも救急では断られる地元の病院に搬送するとのこと。
搬送先の病院でCTとレントゲン、採血検査(採血するのに、7回は失敗した。断りもなく手の甲で採血して、しかもそれを失敗したことは忘れない)の結果、サブイレウス(腸閉塞のなりかけ)だと診断され、入院が必要だと告知される。
しかし、ここの病院には空いているベッドがないので(なら、なんで救急指定病院なんだろう。ここはいつもベッドが空いていないというのだ)、以前入院した病院に搬送しなおすとのこと。

そして私は2年ぶりに、隣町のなじみの病院に搬送されたのだった。
ここの病院は、戦時中に立てられた大きくて古い病院だ。
庭などはそれなりの情緒があって好きなのだが、いかんせん施設も古ければ病院の設備や仕様も古い。
救急搬送された病院から、検査結果のデータをCD-Rで渡されたのだが、そのファイルが利用できないというので驚いた。
結局、レントゲンと採血だけ再検査となった。

この病院は、この春から新しい建物に引越しをする。
カルテもこの春から電子化され、前の病院のデータが利用できるのは、この春からとなるようだ。
入院中も、引越し前で現場はかなり混乱しているせいか、なかなか危険で面白い体験をしたので、日記にして記録しておこうと思う。

とりあえず、今回の腹痛の原因は手作り豆腐ではなかったのが、せめてもの幸いか?

つづく

◇8泊9日入院日記2010年03月08日 07時20分38秒

入院中のベッドプレート

●2月26日金曜日 一日目
入院初日。
鼻から胃に管を入れられて胃の内容物を出す処置がされ、絶食。
点滴の管が左手のひじ関節のところに入っているので、左手をまっすぐにしていないと、輸液が止まってしまう。
自力のトイレを心配され、膀胱にも管を入れられそうになったが、それは拒否する。
その代わり、蓄尿をさせられる。

ここの棟のトイレは、女子トイレと男子トイレの真ん中に汚物処理室があり、そこに蓄尿用の袋が用意されているのだが、いちいち廊下に出ないと汚物処理室に行けないのが不便。

部屋は4人部屋。私以外は長く入院している年配の人。
向かいのベッドのおばあさんは、自分ひとりでは動けない様子なのに、なぜか消灯までずっとラジオがオープンでつけっぱなし。とてもうるさい。


●2月27日土曜日 一泊二日目
痛み止めのせいか、人と話していても眠くてしょうがない。
一日2リットルの生理食塩水と抗生物質、痛み止めなどが点滴される。
鼻と喉が痛くて、話すことも辛い。

朝早く、向かいのベッドのおばあさんの家族が来て、ラジオをつけっぱなしにしてから帰った。AMでチューニングがあってないので、大変気持ち悪い。
旦那が昼過ぎに来たので、ラジオのことを看護師さんに言ってもらう。
その直後、部屋を変えられた。

次の部屋も4人部屋だが、同室の人たちは前の部屋の人よりも元気で、自分でトイレなどに行ける人たち。
しかし、退屈だといって一日中おしゃべりが続く。内容は、毎日の食事の感想(概ね文句)が主な話題。
私は絶食が1日まで続いたので、この話が聞こえるのが辛かった。

部屋は棟の一番端っこで、トイレが遠い。
この日は2500ccも尿が出て、蓄尿用の袋があふれそうになった。


●2月28日日曜日 二泊三日目
比較的元気。
入院計画書が提出されて見ると、毎日清拭が行われていて、今までも行われていたように書いてあったので、「一度も清拭してもらっていません」と言うと、やっと清拭タオルを持ってきてくれた。
しかし、この日の担当のS看護師はベテランだが仕事がちょっと雑なのか、それとも大まかなところははしょるのが彼女の仕事なのか、拭くのは自分で全てさせられたので、点滴を曲げられない左手を動かすことができず、大変辛かった。

この日の深夜に点滴が漏れて、結局右手に刺しなおすことになってしまった。
点滴の管を入れるためにこのときは1回失敗した。
救急で搬送されてから、点滴用ルートの注射は合計で10回されたことになる(実際に利用できたのは2つのみ。あとは全て失敗)。

新しい点滴の管は短くて、蓄尿するときに苦労する。


●3月1日月曜日 三泊四日目
この日の日中の担当は、背が高く若い男性の看護師だった。
清拭タオルを頼み一人で点滴の管と格闘していると、「気がつかなくてごめんなさい」と言って背中を拭いてくれた。
シャンプーはいつからできるか聞くと、「今日でも大丈夫」との返事だったので午後に頼む。
点滴の管も、長く足してくれた。

この看護師は非常に仕事が丁寧で、毅然とするところはきちんとして好感がもてる。
しかし、やはりシャンプーの洗い方は男の洗い方で、胸まである長い髪をもてあまし気味。
しかも、5日ぶりのシャンプーはまったく泡立たず、3回シャンプーして強制的に終了されてしまった。

シャンプーの後に鼻の管を顔に固定していたテープを換えてくれたのだが、夜に鼻の管が抜かれることになる。
久しぶりの開放感。
それまでは鼻の奥が常に痛く、炎症のため鼻水が止まらず難儀していた。
鼻水は、管を抜いたら出なくなった。

絶食はこの日で終了。翌日からは、重湯から徐々に普通食に移っていく。
蓄尿もこの日で終わりなので、嬉しい。


●3月2日火曜日 四泊五日目
この日は、入院後初めての食事。一日重湯。
重湯の初日の朝に出されたのは、重湯と煮物の汁と牛乳とゼリー。
腸のストレスを軽減するための絶食だったのに、初日から牛乳はちょっとヘビーではないのかといぶかりつつ飲むが、もともと冷たい牛乳は飲みつけていないので、その日一日調子が悪い。

昼は150ccパックのドリンクタイプのアミノ酸流動食。高カロリーで、1パックで250kcalもある。
これが激まずで、閉口する。
これと、正体のわからないムースと、温かいりんごジュースのでんぷんがきは、この病院の三大激まず流動食。
食べられずに、ほとんど残してしまう。

アレルギー検査では陰性だが、体調の悪いときに鯖とカニはアレルギー反応が出るので、食事に出すのを禁止してもらうように、その日の担当看護師に告げる。

前日にシャンプーをしてもらったのに、頭全体にフケがういて大変不快になる。
翌日点滴がはずれるので、明日からシャワーが解禁になる。

鼻の管がぬけて話をするのが苦痛でなくなったので、同室の人との会話に参加する。
三人とも良い人で安堵する。
しかし、向かいのベッドの人が午前中に退院とのことで、最後に笑顔でお見送りができた。

ベッドが空いて、5分も経たずに新しい人が入ってきた。
新しい人は、日中は寝ていて消灯後にずっと独り言を話している。
どうやら、少し痴呆がある様子。
簡易トイレを部屋に入れていたが、本人が拒否したので夜中に撤去されるなど、夜半過ぎまでばたばたしていた。


●3月3日水曜日 五泊六日目
この日は一日、三分粥。
三分粥といっても、全体の30%がつぶのあるおかゆで、70%が重湯。
おかずは、煮物を煮つぶしたものが三品。ほとんど離乳食である。
ひな祭りだったので、桃味のゼリーと桃味のムースのお菓子が夜に出たのが嬉しかった。
隣のベッドの人は雛あられ、斜め向かいの人は水羊羹が出たらしい。

この日の夕食に、魚を煮崩したフレークが出た。
青い魚のようだが、鯖っぽい感じもするしちがうようにも思う。同じ部屋の普通食の人に魚の素性を聞くと、隣のベッドの人は鰆だと言い、はす向かいのベッドの人は太刀魚だと言う。
これまでの入院時には、食事のときにプレートについてくる名札に、食事の禁止事項が記載されているのだが、前日に申告した鯖とカニの禁止の記述がなかったので、看護師に禁止事項とその日の夕食の魚について確認を求める。
前日に担当看護師に伝えた禁止事項は、栄養科に伝わっていなかったらしく、ショックを受ける。
魚のフレークは、鰆であった。

午後に点滴がはずされ、ようやく管から解放された。
点滴の最中と直後は、いつも頻尿になって膀胱炎一歩手前みたいな状態になる。
この日は一日に 13回もトイレに行った。

全ての管から解放されたので、この日に初めてシャワーをあびて、さっぱりする。
シャンプーもきちんとできたので、頭の不快さからも解放された。
入院した前日に入浴したきりだったので、一週間ぶり。

夕方の回診で、医師が「もう全粥で退院していい」と言ったので、次の日から全粥であさってには退院だと勘違いする。

隣のベッドの人に手相を見てもらう。金運があると言われて嬉しくなる。

向かいのベッドの人の奇行が目立ち、歩くのもままならない状態なのに夜中に部屋を脱走した。
後で聞くと、夜中に突然隣との境のカーテンを何度も開けて、「違う人がいる」と怒り出したりしたらしい。

眠れないので睡眠導入剤をもらい、半錠飲んでやっと眠る。


●3月4日木曜日 六泊七日目
朝食は全粥。いり卵といんげん豆の煮物、里芋の煮物、牛乳が出る。
前日に医師から「全粥で」と言われたので、まったく疑いなく食べる。久しぶりの “形のある食べ物”。
しかし、三分粥の次にいきなり200gの全粥+牛乳はけっこうヘビーで、胃もたれする。

ここのご飯の等級は、
重湯→三分粥→五分粥→七分粥→全粥→普通ご飯(やわらかめ)
である。

昼食時には五分粥が出て、朝に全粥だったのにおかしいと思い看護師に確認を求めると、朝食の全粥は栄養科のミスで、この日は本来一日五分粥の日だと告げられショックを受ける。
朝食が全粥だったことへの説明を求めると、医師が飛んできた。
食事中なのに、朝食摂取後に何か変化がなかったかなど問診される。
ちょっと胃もたれすることを告げ、特に重湯の日から出ている冷たい牛乳がちょっとヘビーであると告げると、次の日から牛乳はヨーグルトに差し替えられた。
食事のプレートの名札には、サバ禁、カニ禁、牛乳禁と三つの禁止事項が記述された。

夕方の回診で、医師より「明日かあさってには退院していい」と具体的に退院の告知をされる。
明日に退院したかったが、旦那が休みをとらなければならないので、土曜日の退院にしてもらう。

夕方、向かいのベッドの人が再び部屋を脱走しようとする。
廊下に出たところで、看護師が見つけてナースステーションに消灯まで見張りつき。
消灯直前に突然「部屋を替わります」と看護師が来て、ベッドごと移動していった。
新しく来た人は、もともと4人部屋を希望していたが空きがなく、個室にいた人らしい。
消灯前の突然の出来事で、みんな面食らっていた。

トイレが近くて寝付けず、前日もらった睡眠導入剤の残りの半錠を飲んで寝る。
この日は、一日に16回もトイレに行った。


●3月5日金曜日 七泊八日目
全粥が出される。ご飯どんぶりにてんこ盛り。それでも150gらしい。
ぱさぱさの魚や、ぱさぱさの鶏肉の煮物などがおかずにつくが、それまでが悲惨だったのでそこそこ嬉しい。
金曜日は麺類の日らしく、昼食は蕎麦だった。
子供の頃、風邪のときに「蕎麦を食べたい」と母に言うと、「蕎麦は消化が悪いからだめ」と言われたのを思い出す。それを考えると、腹痛で入院していて食事に蕎麦というのは、なんとなく不思議な感じ。
蕎麦はプラスチックの容器に麺だけが入っており、別な容器につけつゆが入っていたが、麺がすっかり容器に貼り付いて固くなってしまっていた。

この日は久しぶりの天気で、朝には廊下の窓から富士山が見えた。
明日退院できると思うと、嬉しくてしょうがない。

やはり寝付けず、睡眠導入剤を半錠飲むがまったく眠れない。
夜半すぎに残りの半錠を飲んでからトイレに行くと、ベッドに戻ったときが限界だったらしく、かけぶとんの上にそのまま寝ていて、夜中に看護師に「風邪をひく」と起こされた。


●3月6日土曜日 八泊九日目
退院の日。
朝食は普通食になっているかと期待したが、全粥のままでがっかりする。
以前は、退院の日はちゃんと普通食にしてくれたのに、なんとなく手抜きなような気がするが、気にしないことにする。

荷物をまとめると、結構多くて難儀する。
9時過ぎに旦那が来てくれ、会計をして以前よりも3割ほど高くなっているのに驚く。
2年前はMRIなど検査項目も多かったのに。

帰宅して、バンクーバーオリンピック フィギュアスケートエキシヒジョンなど、たまった録画を一気に見たりして、旦那と二人ですごす。
甘いものが食べたくなり、旦那が小豆でぜんざいを作ってくれた。
しかし、大豆から作った豆腐の日に腹痛が起きたので、小豆のぜんざいは半分だけにした。
残りの半分は、次の日に美味しくいただいた。

この日もなかなか眠れなかったが、くせになるのがいやなので、睡眠導入剤は飲まなかった。

◇旦那の手作りぜんざい2010年03月12日 19時48分17秒

 
退院して帰宅した日のこと。
突然、甘いものが食べたくなった。
できればあんこ系の甘いもの。

先日実家から豆が送られてきて、その中に小豆があったので、旦那がぜんざいを作ってくれた。
クックパッドとシャトルシェフのレシピ本を見て、シャトルシェフで作ってくれた。

小豆は豆を戻さなくていいから楽だった。

と旦那は言っていた。
砂糖はビートの砂糖を使用したので、さっぱり味。
仲よき事は美しき哉

大変おいしゅうございました。
ありがとう。

◇完成! いわしの塩漬けとオイルサーディン2010年03月17日 13時06分44秒

自家製いわしの塩漬け
10ヶ月かかって完成した、自家製しこいわしの塩漬け

2009年4月16日に、「◇シコイワシの葛藤」という記事を書いた。
このとき、私はいわしをさばく作業中に腹痛に襲われ、大半の作業を旦那が行った(幸い、このときは痛み止めが効いたので、救急車で運ばれることはなかった)。

あれから10ヶ月。
参考にしたレシピには、8ヶ月で食べごろとあったのだが、暮れに「アンチョビがそろそろではないか」という話題は出たものの、ばたばたしていて結局そのまま2ヶ月が経過してしまった。
去年の4月に塩に漬け込み、我が家の冷蔵庫の野菜室に眠っているアンチョビはどうなっているのだろう。
ということで、アンチョビの瓶を開けてみたのが、2月の始めのことだった。

塩漬けの状態
漬け込んだ当初は、いわしの汁がなかなか上まで上がってこなくて、漬け汁が足りなかったのではないかと心配したが、10ヶ月経ったときには塩はいわし汁でまんべんなく浸されて、全体的に黄色味を帯びている。

瓶を開けてみると、塩は湿っていてみぞれ状態。匂いをかぐといわしの匂いがする。
しかし、市販のアンチョビのような塩辛のような香りはなく、どちらかというとすっきりした匂い。
市販のアンチョビは内臓が入っているものも多いので、匂いの違いはそのせいか。
いずれにしても、嫌な匂いはまったくしない。

いわしの塩
このページの冒頭の写真が、いわしを塩から取り出したものである。

塩は比較的粒子の粗いものだったけれど、ふだん家で使っているものを何種類か混ぜた普通の塩なので、レシピの塩の感じとはだいぶ違う。
塩を食べてみると、魚醤のような香りがしてコクがあっておいしい。

しかし、アンチョビのような強い風味ではないので、それだけがちょっと残念か。
塩に漬けるときに、きれいに開いて洗ってしまったのが原因だと思うが、これはこれで風味がきつくなくて、塩辛が苦手な私にはちょうどいいかもしれない。

いわしを並べた状態
このいわしを半分取り出し、オイル漬けのオイルサーディンにしてみる。
いわしを酢水で洗い、クッキングペーパーの上に並べて、水気を取る。
旦那はこの酢水も「うまい」と言って捨てたくない様子だった。

洗うための酢水は保存しておくわけにはいかなそうだったが、いわしについていた塩は洗う前に取り出して保存しておくことにした。
魚醤ならぬ魚塩である。
魚を10ヶ月も保存できた塩なのだから、そのまま密封して保存しておけば、調味料としても使えると思ったのだ。

塩は炒め物などに利用してみたが、料理にいわしの塩漬けを使わなくてもいわしの風味がする。
いわしそのものを使うよりも弱い風味なので、魚料理などのアクセントや、野菜だけの具のパスタなどに使うと、ほんのりいわしの塩漬け風味になっていい感じ。

特に、手作りワンタンを作ったときに具の調味料として使用してみたが、ホタテやエビなどの魚介類の味付けにはぴったりである。
これで、アクアパッツァを作ってみたいと思ったりした。

先日、NHKの「ためして合点」『究極のいわしのつみれ』というのをやっていたので、今年のいわしでつみれを作り、一切れだけ塩漬けを入れて作ってみた。汁の味付けはいわし塩を使用したところ、抜群に美味しかった。
これはとても簡単だったし、また作ってみたい。


自家製オイルサーディン
瓶詰めにしたオイルサーディン
酢水で洗ったいわしは、新しいエクストラバージンオイルに入れて保存している。
オイルに漬けてから一ヶ月経つが、まだ試してはいない。
一度塩漬けにしてあるため、いわし自体に塩が回っているので傷むことはないが、塩漬けよりは早めに食べた方がいいらしい。

こちらもとても楽しみである。


●参考レシピ
ほぼ日刊イトイ新聞
イタリアンマンマの直伝レシピ 小イワシの塩漬けとオイル漬け
http://www.1101.com/italian_mamma/2009-02-01.html

◇春の鶴岡八幡宮2010年03月17日 13時58分56秒

鶴岡八幡宮の寒桜

春の鎌倉は特に花が満載で、いつ行っても飽きない。
この日は、寒桜が満開になっており、境内入り口中央にある太鼓橋の前の寒桜は、観光客のいいターゲットになっていた。
梅はあいにくピークを過ぎてしまっていたが、雪柳やこぶし、木蓮、朱木蓮も花盛りだった。



鶴岡八幡宮は、先日の荒天でシンボルの樹齢800年とも言われる大銀杏が根元から折れてしまい、その修復作業が行われている。
鎌倉はもともと都心からも気軽に行ける行楽地だが、春休み中で大銀杏の話題もあったことから、若い人から年配の人まで観光客でごった返していた。

いつもは大銀杏を左手に上る、本宮への大石段も、復旧作業のために閉鎖されていて、舞宮前に賽銭箱が設置されていて、そこで拝殿するようになっていた。
しかし、みんな大銀杏の復旧作業の様子を写真に収めるのに夢中で、賽銭箱の前に陣取って写真撮影に没頭する人がいたりと、おちおち参拝もできない状態。

鎌倉幕府にゆかりの深い大銀杏は、DNAを残すべく若芽を保存され、折れてしまった箇所よりも上の方を根付かせるべく、植え替えをしている。
折れてしまった根元は、中が空洞になっていたらしい。
銀杏は鶴岡八幡宮のシンボルでもあり、歴史ある鎌倉のシンボルでもあるので、地元の人にとってはないとさびしく思うもののようだ。
これも寿命なので、そのまま天寿をまっとうさせるという意見はあまり聞かない。



源平池に足を向けると、鶴が池の中で立っている。
最初は鷺だと思ったのだが、飛び立つ姿を見ると鶴であった。
カメラを忘れてしまったので、携帯のカメラ機能を使ったが、遠すぎて画素が荒くなってしまったのが残念。

弁天様の島から、対岸の牡丹園の桜も遠くに見えて、風情があって美しかった。
若宮大路の桜並木は、まだまだつぼみの状態。
あと半月もすれば、花盛りだろう。

◇月齢3.32010年03月19日 20時54分48秒

月齢3.3 2010.03.19
 
買い物に行き、スーパーの屋上駐車場から西の空に見えた月は、見事なお椀型の上弦の月であった。


今日の月齢は3.3。中潮の三日月である。
17日は月齢1.3の細い細い月と金星の大接近が見られたらしいが、見ることができなかった。
次に月と接近するのは、3月21日のすばるとの大接近らしい。
しかし、関東地方はこの日は荒天の予報なので、見ることができないかもしれず残念である。

今日は久しぶりの天気で、星空がよく見える。
そういえば、友人から「日刊イトイで、23日にムーンライダースの生放送ライブがある」という情報が飛び込んできた。
すばるとの接近は見られそうもないが、23日にはムーンライダースのライブが見られそうなので、楽しみだ。


ほぼ日刊イトイ新聞 moonriders LIVE
http://www.1101.com/store/hobo_reco/index.html

AstroArts 2010年3月17日 月と金星が接近
http://www.astroarts.co.jp/alacarte/2010/201003/0317/index-j.shtml

AstroArts 2010年3月21日 月とプレアデス星団が接近
http://www.astroarts.co.jp/alacarte/2010/201003/0321/index-j.shtml

◇昔の友人に15年ぶりに会う2010年03月22日 23時00分03秒

昔の友人に15年ぶりに会った。
20数年前、新規立ち上げの小さな広告代理店で、一緒に働いたひとつ上の先輩。
バブル真っ盛りの数年間、社長・専務込みでスタッフ5名~7名の小さな会社で、共に奮闘した仲間でもある。
東京に出てきたばかりの私に、いろいろなことを教えてくれ、共に励まし、公私にわたっていろいろとお世話になった人である。

15年というと、ある世代はまるまる会っていないことになる。
最後に会ったのは、ちょうどお互い結婚した後くらい。
女性の人生としては、一番の転換期に会わないでいたことになる。
その間、いくつかの転機に数回電話で話したりもしたが、ここ10年くらいは年賀状のやり取りが続くだけだった。

久しぶりの友人との再会というと、その変化にとまどったりすることが多い。
特に女友達と久しぶりに会って、付加(負荷?)価値なしでは会話が成立しないこともある。
感覚的にも、すっかり昔に戻れることは稀だ。会った後に、会わなければよかったと思うこともないこともない。

しかし、彼女と過ごした時間は、そんな邪推は無用だった。
お互いそれなりの年齢は重ねたし、話す内容は昔と違って個人的にディープだったりするけれど、感覚的に彼女との再会の数時間は、15年の隙間が瞬時に埋まってしまうような時間だった。

あの当時…

意を決して、彼女と二人で当時のソ連レストランで食事をしたこと。

会社の近所にできたばかりの回転寿司屋で食べ比べをして、25皿平らげたこと。

冬のものすごく寒い日に、わざわざ遠くにあるJRの駅まで彼女と二人で歩いて帰った道で、ローソンの海鮮肉まんをラッキーにもふかしたてで買えて、こんなうまいものはないと思ったこと。

その後、ローソン近くの業者さんが来社するときに海鮮肉まんを買ってくるようわざわざ頼んで、食べてみたら前ほどおいしくなかったこと。

仕事が忙しくて銭湯に行けず、今はもうなくなってしまった九段温泉に会社から通ったこと。

社長と専務が性格的には水と油で、なぜあの二人が会社を起こしたのか謎だったこと。

バイトに来ていた女の子が、デビュー前のスピッツのおっかけだったこと。

事務所に泥棒が入り、私の個人的な被害は、机の中に入れていたCD一枚だったこと。

彼女との再会で、当時のいろんなことを思い出した。
そのいくつかは彼女との会話にも登場したが、回転寿司のことは彼女はすっかり失念していて、そんなことは不可能だと言っていた(^^;)。
果たして真相はどうだったのか、それは誰にもわからない。

働いていた会社や、その会社に関連していた会社も今はもうほとんどなくなっている。
会社の初期に入っていた神田神保町のテナントマンションは今でも健在だが、そこに入っていた会社は総代わりしている。
バブル時期の地上げにもがんばった神保町の町並みも、不景気の波には勝てずに、多くの風景が変わってしまった。

でも、神保町に行けばどこかに必ず昔の風景があるように、彼女にまた会ったときには、話す内容は昔と違ってディープでも、昔と同じようにまた話ができるのだろうと思う。

できれば、次は15年よりも近くに会いましょう。

◇NHK北海道の顔に?2010年03月27日 04時12分52秒



2007年の10月に、「あるNHKアナウンサー」という記事を書いた。
「NHKの登坂淳一というアナウンサーが、毎日見るたびにどんどんと白髪が増えて気になる」と書いたのだが、気になっていたのは私だけではなく、国内外でも注目されていたようで、私が書いたときにはすでにネットでは話題になっていた。

登坂淳一アナウンサーは、毎日正午や18時のニュースなどに登場していた。
ニュースの内容によって声のトーンや表情を微妙に変え、ニュース終了後のモニターを見つめる姿など、いつも一定の姿勢を保っていて、夜中の単発ニュースのアナウンサーよりもずっとずっと好感が持てた。
しかし、人気があるわりには番組を担当するわけでもなく、ただただまじめな一面を、ニュースを読む姿で見ることしかかなわなかったのだ。

白髪がどんどん増えて気になる要因のひとつに、当初NHKのアナウンスルームの自己紹介の写真に、髪を黒く染めてスーツの姿の写真を掲載していた。毎日画面で見る彼とのギャップが大きく、ネットでここまで話題になっているのになぜ差し替えないのだろうと思っていたのだ。
しかしちょっと前から、写真が私服のラフな笑顔の写真に差し替えられたので、それまでの皇室担当の固いイメージから、全国ニュースを担当する親しい感じにしたのだろうかと思っていた。
だが、今から考えると、それは今回の大変身への序章だったのだろうか。

この春から、登坂淳一アナウンサーはNHK札幌放送局に異動になり、しかも夕方の「ネットワークニュース北海道」を担当するらしい。
NHK北海道のHPは、「まるで登坂淳一アナウンサーのファンサイトのようである」と、ネットですっかり話題になっている。

ITMediaNews『“VIP待遇”にネット騒然 イケメンNHKアナ札幌異動のワケ』2010年03月26日 09時41分 更新


ネタりか『登坂淳一アナが大活躍!NHK北海道の新年度番組ラインナップ発表』2010/3/24 14:15


正午のニュースで見せる顔以外の、さわやかな笑顔や、にこやかな挨拶など、今まで見たこともない登坂淳一アナウンサーの顔がNHK札幌放送局にあふれている。
NHK札幌放送局の新番組のCMも、今までの登坂淳一アナウンサーとは違う、アクティブで明るい一面を見せている。
白髪騒動のときにあった「病的に痩せてきている」という印象も、ここではまったく感じさせないくらい健康的だ。

正午のニュースなどを担当していて、担当番組をもったアナウンサーで私が印象的だったのは、現在NHK総合の14時5分から放送している、「お元気ですか日本列島」谷地健吾アナウンサーである。
彼も以前は、正午や18時などの全国ニュースを担当していた。ニュースを読むときは無表情に近い感じで黙々とニュースを伝えていたのだが、バラエティ色の強い帯番組を担当したとたん、スーツはカジュアルで明るい感じに変わった。
また、当初はニュースのイメージが強く、ちょっとこわばった笑顔で、視聴者からのお便りの対応もなんだかいた痛いしい印象的だったが、今ではすっかり笑顔も板につき、視聴者からのお便りにも気さくに対応している。

夕方からの首都圏放送センター「ゆうどきネットワーク」山本哲也アナウンサーも、昔はそんな感じだったが、今ではラーメンレポートが板についたくだけた印象である。

登坂淳一アナウンサーも、札幌での看板番組のメインキャスターとして、劇的な変身をとげるのだろうか。
首都圏の「ゆうどきネットワーク」は、NHKの情報・報道番組としてはかなりバラエティ色の強い番組なので、地方放送局の番組もたぶんそういう要素が含まれてくるのだろう。
それを見ることができないのがなんともくやしいが、北海道に帰省したときに見るのを楽しみにしたい。

ITMediaNewsの記事では、異動の理由として「NHKは、局を支える看板アナウンサーを数年間、札幌や福岡などの地方の基幹局に出す。ステップアップのためだが、ずっと東京に置いておくと民放の引き抜き工作のターゲットになる。それを防ぐ意味もある」とある。

登坂淳一アナウンサーのプロフィールには、「わたしの心身リフレッシュ術」に「仕事の後に親しい先輩と思いっきり飲むビール!」とあるが、首都圏に戻ってくるまでに北海道のビールと食べ物にすっかりはまって、今の華奢でストイックなイメージが一掃しないことを願うばかりである。


NHK北海道平成22年番組ラインナップ
http://www.nhk.or.jp/sapporo/new_nhk/


NHK札幌 キャスター・リレー・ブログ 登坂淳一
http://www.nhk.or.jp/sapporo-blog/025/

◇日本人の知らない日本語/蛇蔵&海野凪子 著(メディアファクトリー)2010年03月27日 23時45分28秒

日本人の知らない日本語

 
ロシア語がちっとも上達しない中で、ロシア語を勉強しだしてからずっと考えていたことがある。

「日本語もろくに知らないのに、よその言語なんぞ習得できるのだろうか」

という疑問である。

先日、昔勤めていた会社の先輩に会ったときに、彼女はスペイン語を習っていると話していて、スペイン語とロシア語の共通点なんかを話したりした。
その時に、日本語のことを説明するのが難しいという話になったのだ。

「上野へ行きます」と「上野に行きます」の違いを説明できない。

と彼女は言っていたが、それを聞いて私も説明できないと思った。
調べてみたら、

Yeemar's HOME 「ことばをめぐる に と へ」
http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/k040509.htm

以下『 』内上記ページより引用:
岩淵匡『日本語反省帳』(河出書房新社)の中に、「に」「へ」の違いを説明しているところがあります。最初に「大学に行く」「大学へ行く」という2文を示し、「この二つの文の意味は同じでしょうか」と問いかけています。

「に」は、時間や空間における場所を表します。〔略〕これを移動の意味の動詞「行く」「移る」「進む」などと一緒に使うと、「郵便局に行く」〔略〕などのように目的地を表すことになります。
 いっぽう、「へ」は、本来、「南へ向かう」「あっちへ行け」というように、目的地というよりも、漠然{ばくぜん}とした「方向」を指して用いていました。ところが現代語では、「郵便局へ行く」「南に向かう」とも言うようになったのです。(p.17-18)


とあり、現代では曖昧になっているとしながらも、

・「○○へ続く」の「○○」にはよりおそいものが来る。
 ・「○○に続く」の「○○」にはより早いものが来ることが多い。


と結論づけているのを見て、なるほどなと思ったりした。

日本語以外を母国語とする人たちは、日本語は大変難しいといいつつ流暢な日本語で話したりする。
日本語の助数詞や、擬音、助詞の使い方、敬語や謙譲語などが難しく感じるらしい。
しかし、日本人がみんな正しい日本語を話しているかといえばそうでもないし、自分たちが使っている言葉の意味さえ理解していないことの方が多い。

私は日本語よりも、中国語やタイ語などの同じ音の発音の違いで意味が異なることや、ロシア語やその他のヨーロッパの言語にある名詞の性別と、それに関連する動詞や形容詞の語尾の変化の方がずっと難しく感じる。
また、その国々で独特の発音があり、それに慣れていない人には判別さえ難しい音があったりもする。

そんな中、以前から気になっていて読んでいなかった本を、やっと購入した。
現在駅前書店のランキングで、2巻が5位に入っていたが、私が買ったのは1巻目。


日本人の知らない日本語(メディアファクトリー)
蛇蔵&海野凪子 著



日本の外国人向けの日本語学校での、講師と生徒のエッセイ漫画である。
講師は著者の一人である、海野凪子さん。その生徒たちは、黒澤映画を見て日本語を覚えたスウェーデン人の女性、仁侠映画で日本語を覚えたフランス人の上流マダム、ものすごい古いテキストで日本語の謙譲語を覚えているイギリス人の男性、すばらしい表現力の詩を日本語で表現できる能力をもちつつ、それが日常生活で発揮できない中国人の男性などなど、大変個性的である。

この中で私が衝撃を受けたのは、花札の松と梅の赤短に書かれている文字は「あのよろし」ではなく「あかよろし」であるという事実。
「の」だと思っていたのは昔の「可」という文字のかな文字で、「の」の上に横棒がついているらしい。
「あかよろし」は「明らかに良い」という意味とのこと。

そして、「お」と「を」の発音の違いは、現代では「O」に統一されていて、「お」が「O」、「を」が「WO」だったのは奈良時代であったこと。
実はひらがなは昔はたくさん存在していて、明治時代に一音一文字に統一されたこと。
そのとき「を」もなくなる予定だったが、どさくさにまぎれて残ってしまったこと。
ふだん私たちが普通に使っている標準語が、実は標準語ではなかったこと

など、たくさんの勘違いと無知による驚きがつまっていた。
そして何よりこの本の中では、生徒たちの文化の違いによる失敗や憤りをユーモアに包んではいても、嘲笑することはない。
逆に、日本人が当たり前だと思っていることが、世界的視野で見ればまったく当たり前ではないということに、改めて気づく。

言語は、生活に必要のないものは時代とともに淘汰され、また必要なものは様々な形で進化するという、常に変化しつづけてきた文化であると思う。
自分だけの常識にとらわれていては、他国の言語などとうてい理解できない。
それと同じに、自分の国の言語も少し「現在の常識」から離れて見ることで、改めて自分の文化を理解する目が開かれるのかもしれないと思ったりした一冊だった。

しかしこの中で、ちょっと首をかしげるのは「を」の発音である。
個人的には、「を」はやはり「WO」ではないかと思うのだ。
なぜかというと、ヨーロッパの友人の何人かは、「わ」と「ヴァ」は同じに聞こえるというのである。私のロシア語の先生も、区別がつかないと言っていた。
北海道の地名である稚内(わっかない)と抜海(ばっかい)が、どうしても同じに聞こえると言う人もいる。
日本人が苦手なRとLの発音も、日本人は無意識に使い分けていると、別なロシア人の友人も言っていた。
ただ、日本人がRとLの発音が苦手なのは確かで、外国人から使い分けているように聞こえるとすれば、日本人は意識をするとRとLの発音ができないということになるのではないか。
私は、日本人が切り捨ててきた古いかなの名残の発音が、今でも五十音の中に隠されている気がしてならない。
だから、「を」は、やはり「WO」だと思うのだった。

いずれにせよ、いろいろな面で日本語を面白く考えさせる本である。
次に本屋に行ったら、2巻も買ってみよう。




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