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◇正月を病院で過ごす2008年01月09日 15時36分53秒

年末にツインピークスのゴールドボックスを購入し、今年のお正月休みはツインピークス三昧する予定だったのだが、29日の大掃除が佳境に入ってきているときに、いつもの腹痛が襲ってきた。
私は腹痛もちで、これは十数年前に手術をしたときの後遺症なので仕方がないのだが、発作が出ると叫ばないではいられない痛みが襲い、そのうち激しい眠気に襲われるのだ。冬は冷えでこの発作が出やすいので注意しており、腹巻とカイロは手放せない。
しかし、通常なら痛み止めを使って2~3時間休めば楽になるのに、今回ばかりは痛みが治まらないのだ。夜になって病院に電話をし、夜間救急外来で病院に行くと腸閉塞であるという。CTスキャンの画像をみると、小腸の一部がソーセージのように膨れ上がっているらしいのだ。いつもは下るほうが多いのに、今回は詰まってしまったらしい。
医者が「入院したほうがいいね」というので、そのまま入院することになってしまった。

次の日救急病棟から通常病棟に移されたのだが、入った4人部屋には今年71歳になるという年配の女性が一人いて、「昨日までは3人だったのに今日から一人だからどうしようかと思っていた」と言って歓迎(?)してくれた。私も前日は救急病棟の4人部屋で一人だったが、痛みでそれどころではなかったので気にすることなく寝てしまったのだが、普通にしていて広い病室で一人というのはあまり気持ちいいものではない。

病院ではすでに年末年始体制に入っていて、年が明ける前に退院したり、一時帰宅する人も多く、私のいた消化器の病棟はけっこう人が少ない感じだった。
最初の二日間は点滴のみで、一日2リットルの点滴をされているにもかかわらず、暖房で鼻や口の中がかわいてしまう。まだ飲食は禁止されているので、水を飲むわけにはいかないのが辛い。同じ部屋の年配の女性は、年明けに検査をするために入院しているらしく、塩分などの制限はあるものの普通食を摂っていてそれがすごくうらやましく思えたりした。
大晦日の夜から重湯が出たが、今ごろなら家で12月のはじめにつけたみかん酒を飲みながら、ふぐ鍋を食べる予定だったのにと大変寂しく思えたりする。

元日の朝は大変天気がよく、起床時間の6時半にはまだ太陽が昇ってきていない。同室の女性と初日の出を拝み、「こんなところでなかったらもっといいのにねー」と笑いながら話したりして、毎年見ようと意気込んでいても結局見ることのなかった初日の出を、今年は拝むことができたことだけはよかったかもしれない。
元旦の夜に突然寒気がしてきて、その夜は突然の発熱で意識が朦朧とする中解熱剤を夜中に入れるさわぎになり、初夢どころではなかった。

2日の朝には気分もよくなり、夜にはけろっとしていたが、病院の医師はこの日から本格的な休みに入り、体調はだいぶ回復したにもかかわらず正月三が日はずっと重湯で過ごした。4日の昼から三分がゆ、5日は五分がゆ、6日に点滴がとれて全がゆとなり、7日にようやく通常食を食べることができるようになった。
しかし、今回は腸の動きを一時期薬で止めたので、動くまでに時間がかかり、なかなかお通じがこなくて難儀する。ヨガをしようが、ストレッチをしようが、散歩をしようが、マッサージをしようが、腹は動いているのになかなか出るものがでないのだ。
幸い、退院までにはなんとかお通じが出てくれたので安心したが、ふだん便秘などほとんどしたことがないので、これはこれでちょっと不安だったりした。

正月のテレビはくだらなく毎年見ることもないのだが、今年は例年にも増してテレビを見なかった。小型パソコンを持ち込んで映画をずっと見ていたのだ。年末に予約していたNHKの「おでんくんスペシャル」を旦那がDVDに焼いて持ってきてくれたので、それらを見たりロシア語を復習したりしてすごした。

今日の昼にやっと退院できて、当初私が退院するとまた一人になってしまうと不安がっていた同室の女性も、病院が通常業務に戻るにつれて同室の人が増えたので、ちょっと安心していた様子だった。それでもものすごく気さくで話し好きな人だったので、彼女がいてくれたおかげで入院生活も楽しく過ごすことができて、お別れするときはお互い名残惜しかったりした。

そういうわけで、今年の正月はどこかにぶっとんでしまったけど、これでこの一年の厄が落ちてくれたなら、今年一年の展望は今年見た初日の出と同じくらいさわやかで明るいものになるだろうと思うことにしたのだった。

◇アニメ 墓場鬼太郎2008年01月11日 05時24分30秒

フジテレビの木曜深夜で、『墓場鬼太郎』が始まった。
『墓場鬼太郎』は『ゲゲゲの鬼太郎』の元であるが、『ゲゲゲの鬼太郎』と異なるのは、鬼太郎が正義の味方ではないということだ。鬼太郎と目玉の親父は人間社会の中で生活しつつもそこにはなじまず、飄々と生きていく。妖怪と戦うという点では『ゲゲゲの鬼太郎』と同じだが、妖怪と戦うのも自分達の生活のじゃまになるからにすぎず、決して人間のために戦うというものではないのだ。時には人間をだまし、小学生の分際でたばこを楽しんだり、恋をしたりと、『墓場鬼太郎』の鬼太郎は人間社会になじまないようで、しっかり人間社会の影響を受けつつ生活している。
個人的には正義のために戦う鬼太郎よりは、ペーソスあふれた墓場鬼太郎の方が好きだったりする。

アニメで『ゲゲゲの鬼太郎』が放映されたのは1968年のこと。それからこれまでの間に何度もリメイクされ、それは現在までも続いている。
アニメ化された当初は水木しげるの漫画の雰囲気がまだ残っており、鬼太郎も目玉の親父もねずみ男も毒が残るキャラクターだったりした記憶があるのだが、シリーズ化が進むにつれて鬼太郎は正義の味方然として人間の中で悪い妖怪と戦うというキャラクターに変貌してゆき、最近の鬼太郎に至っては、水木しげるの漫画にあった鬼太郎のキャラクターとはまったく違うものになってしまうのだ。

今回アニメ化された『墓場鬼太郎』は、貸本漫画時代に兎月書房から発行された原作を忠実に再現したものとのふれこみで、大変楽しみにしていた。しかし、第一回の放送を見ると雰囲気は確かに『ゲゲゲの鬼太郎』とは異なるものだが、水木しげるの漫画にあるペーソスあふれたほのぼのさがいささか欠ける仕上がりで、とにかく毒々しくおどろおどろしさばかりが前面にある内容になっている。
もともと幽霊だの地獄だの妖怪だのをモチーフにしているのだから、おどろおどろしい方が原作には近いだろう。しかし、水木しげるの漫画は、どんなに恐ろしい妖怪が出てこようが、戦場で人が死のうが、悲惨な場面があろうが、その次のコマではどこかそこから抜けてくすっと笑ってしまう隙間のようなものがあるのだ。しかし、アニメの『墓場鬼太郎』の第一回放送の中にはそういう隙間がまったくない。
また、水木しげるのざらざらとした質感の緻密な絵の雰囲気もまるでなく、最近のアニメにありがちなさらっとした仕上がりなのも、仕方ないこととはいえなんだか拍子抜けしてしまうのだ。

第一回放送は「地獄の片道切符」。鬼太郎を育ててくれた青年水木が鬼太郎から取り上げた切符で生きながら地獄に行ってしまうという内容。
私の持っている「妖奇伝」の復刻版だと、鬼太郎の育ての親である水木は血液銀行に勤めている設定で、その血液銀行の血液を輸血した患者が死んでいるのに生きているという状況を調査するよう会社から命じられるのだが、アニメでは水木は病院に勤めており、そこの患者が死んでいるのに生きているということになっており、その原因は鬼太郎の母親がその患者の状況を哀れに思って力を注いだ結果そうなるということになっている。
また、水木が地獄に行く経緯も鬼太郎が家の柱の隙間に隠した切符をこっそりうばって行くのだが、アニメでは夜中に出かける鬼太郎を叱って切符をうばうというものだ。
アニメの第一回目の終わりは、行方不明になった水木を案じた水木の母親が祈祷師に頼んで地獄に行ったことを知り、その復讐のために地獄の入り口で鬼太郎を崖から突き落とすように言われ実行するが、鬼太郎親子の策略にはまり墓場で気が狂ってしまうというもの。漫画の中では母親はいつのまにかいなくなっていて、「少なくとも鬼太郎を育ててくれた恩があるから」と言って目玉の親父が水木を地獄から連れ出しているように記憶するのだが…。

『墓場鬼太郎』自体が、何度か書き直されていて、水木しげる以外にも竹内寛行という人が描いたりしているため、さまざまなバージョンが存在しており、私の持っているいくつかのバージョン以外の内容のものもあるのかもしれないが、現在は存在しない血液銀行などの設定は多少書き換えられており、おどろおどろしさを強調するためのシーンが付け加えられているのではないかと思ったりした。この点は、「原作に忠実に…」というふれこみがありそれを楽しみにしていたので、大変残念に思ったりする。

この後、ねずみ男などの登場でこのおどろおどろしい雰囲気がどう変わっていくのかは見ものだが、もうちょっと原作に近い雰囲気がでてくれることを期待したい。


墓場鬼太郎 ハカバキタロウ公式サイト
http://www.toei-anim.co.jp/tv/hakaba/

※水木の母親が祈祷師に頼んで自分の息子の居場所を知るというシーンは、兎月書房版の「妖奇伝 墓場の鬼太郎」復刻版で確認できた。しかし、ガロ版ではちがう終わり方になっている。

◇にゅーせいじん2008年01月15日 05時55分22秒

 
 
成人式である。
ちょうどこの日は町のどんど焼きの日だったので、お正月に飾った飾りを奉納しに神社へ行き、そのまま街中にある大型電気店に足を運んだのだった。
すでに夕方だったのでそれほど多くはなかったが、街中には晴れ着を着たおじょうさんや、スーツ姿の若者がたが見られたのだった。
「そうか、今日は成人式なんだね」と旦那と二人で話していたときのこと。新成人は「しんせいじん」と読むのだろうが、“新”が“ニュー”だったらなんだか印象が違うという話をしたのだ。

『にゅーせいじん』

この言葉に私は「ニューという星の人で『にゅー星人』に思えるというと、旦那は「乳製品でできている『乳製人』に思える」と言うのだ。
どの時代もそうだが、年をとると若い人のことがだんだんと理解しづらくなる。違う星から来た宇宙人だと思えないこともないし、成人とはいえまだまだひよっこという意味では、乳で出来ている人という言葉もあてはまるような気がしたりもする。
私達の成人の頃は、私達の世代の人たちのことを「新人類」などと言ったりもした。当時の新人類もすでに初老付近をちらほらしているのだ。当時私たちを「新人類」と呼んだ人たちも、私達のことを理解しづらく感じてそう呼んでいたのだろうから、こういうことは受け継がれていくものなのだろうとしみじみしたりもするのだった。

ところで、うちの猫は今年で20歳になる(推定)。台風の中道端で死にかけていたものが、20年も生きるとは思ってもみなかった。私とずっと一緒に生活しているという意味では、うちの旦那よりも長い付き合いということになり、20歳で家を出たので両親と同じ年月一緒にいることになる。
着せてもいやがると思ったので、画像合成して晴れ着をきせてみたが、なんだか怖くなってしまった^^;。
人間の年だとすでに100歳近い年齢で、老人病で毎週病院に行かなければならないのだが、長生きしてもらいたいものである。

◇猫は熱ににぶいのか?2008年01月21日 05時25分27秒

昔から寒がりだったうちの猫だが、歳をとってからそれが顕著になってきた。昔はあまりなかない猫だったのに、最近は「ごはんが気に入らない」とか、「ねどこに連れて行け」とか、「トイレが汚い」とか、「早く寝ろ」とかとにかくうるさいのだ。実際に人間の言葉を話しているわけではないのだが、その時々でなき方が違うので、なんとなくわかってくるようになる。
その中でも冬は「暖房をつけろ」ととにかくうるさい。最近は、人がぐっすり寝ている最中でも、夜中にベッドの上にのってきて耳元で叫ぶようになってきたのだ。尋常じゃない叫び声なので、何事かと飛び起きてしまう。

昔は寒いときには私達の布団の中にもぐりこんできたのだが、足の間に入って重いため蹴飛ばされるようになり、近年は布団の中に入ってこようとしない。とにかく居間にあるパネルヒーターの前を動こうとしないのだ。
去年は比較的暖かかったので、パネルヒーターの前に座っているだけで身体の熱が反射して温かかったらしいのだが、今年の寒さは人間でもきついので、老猫には非常にきびしいらしい。

居間に人がいるときは触ってもやけどをしないパネルヒーターがついているので安心なのだが、人が仕事部屋に移動すると居間は無人になるのでパネルヒーターはスイッチを消されてしまう。仕事部屋では机の下に昔ながらの電気ストーブがおいてあるのだが、猫もそちらに移動してくる。しかし、あまりにも近づきすぎて、毛がこげてしまっているのだが、それがわからないらしいのだ。やけどされても困るので少し遠くに移動させるのだが、いつのまにかまた電気ストーブにべったりくっついて焦げ臭くしてしまう。

ストーブがついていない夜中もあまりにもさわぐので獣医さんに相談したところ、レントゲン用溶液が入っていた厚めのペットボトルくれて、それに70度くらいのお湯を入れてタオルなどにくるんでおけば、一日くらいはもつという。獣医さんとこの猫もこれで暖をとっているとのこと。
ヒーターをつけっぱなしにしようかとも思ったが、電気代がかさむのと、やはり寝ているときに何かあっても困る。
ペットボトルの湯たんぽは最初はよかったのだが、ちょっと大きすぎるのと、そのまま忘れてしまって水になってしまい、かえって寒いものと思われてしうのだ。

本当に窮余の策として、ペット用のシート型の温熱器具を購入した。これまでそこまで甘やかしてはと思っていたが、安眠を妨害されるのにはいささかまいってしまったのだ。
シートはつるつるの面で、ピンクの面が比較的高温。裏の緑の面が低温で、タオルをまいて使ってみた。
最初は居間のパネルヒーターの前において人がいるときから通電し、人がいなくなった後もその上にいても暖かいようにしたのだ。
最初はいやがっていたが、暖かいことがわかったのか購入した日はその上でとぐろをまいて寝ていた。

3500円とちょっとした出費になってしまったが、これで安心して眠れる夜が訪れることを願うばかりである。

◇広辞苑は流行物か?過去の遺物か?(ちょっと大げさ)2008年01月22日 03時14分44秒

ちょっと嫌味な話で恐縮するのだが、あまりにも驚いたので書くことにした。
今日行った近所の本屋でのことである。

その本屋は大手スーパーの中のテナントなので、でかい買い物カートをひきずって売り場にいる人がたまにいるのだが、普通のモラルを持ち合わせていれば、その狭い本屋の通路にカートを持ち込めばどういうことになるかということくらいちょっと考えれば理解できるので、そこにカートを持ち込む人は稀である。
だが、その日はその本屋のせまいコミックコーナーの通路を、カートで占拠して立ち話をしている女性がいた。話相手の女性は小学校高学年くらいの子供連れで、子供は親に漫画を買ってもらおうとがんばっているが、当の親はカートのおばさんとの話に夢中で子供の話は聞いていない。
その通路の本を見たかったのだが、私に気づきカートを少しだけよけてはくれるものの、そんな幅では私の太い身体で到底そこに立ち止まって本を見ることは不可能なので、そこで本を探すことを断念して手に持っている本を会計するためにレジに向かった。

私がレジをしていると、件の女性も会計をするためにレジにきて私の後ろに並んだ。すると、レジの横には新しく改訂された広辞苑が山積みされている。
子供の母親がそれを見て


「これって今流行っているのよ」

と子供とカートの女性に言ったのだ。
「広辞苑が流行りもの???」と思ったが、子供の母親とその子供、カートの女性はこう会話を続けた。


カートの女性 :「へー、そうなんだ。初めて見た
子供の母親  :(子供に向かって)「これを読めば、ものすごく勉強になるよ。なんでもわかるようになる。でもすごく高いの。何万もするの」
子供      :(山積みされていたのは机上版だったので)「でも、これ12,600円って書いてあるよ」
子供の母親  :「そうそう、一万円ちょっとするのよね」
カートの女性 :「でもその厚さだと、
全部読むのにすごく時間がかかりそうね
子供      :「それはものすごく勉強になりそうだけど、そんな厚い本を読むほど暇じゃないのよね。テレビとか見なきゃなんないし」
カートの女性 :「あー、それはそうだね。あはははは」

隣のレジが空いたのでその会話はここまでで終わったのだが、私はレジでふきだしそうになるのをこらえるのに必死だった。
確かに広辞苑を全部読んでそれを理解すれば、ものすごい勉強になるだろう。だが、その前に広辞苑というのは本来そういう読み方をする本だったろうか。「テレビなんかを見なきゃなんないからそんな暇はない」という子供の意見はある意味正しいだろう。

広辞苑が「流行り物」として認識されている事実にも驚く。今年改訂版の第六版が発行になりニュースにもなっていたので、「話題なのよ」と言いたかったのだろうか。それとも「流行っているのだから、その流行にのって勉強してみたら」と子供に勧めたかったのだろうか。いずれにしても、子供に対してその勧め方はいかがなものなのか。
何万もすると思い込んでいる“教材”を、もし子供がその場で「じゃあ、勉強するから買って」と言えば買ったのだろうか。母親が値段を間違えているところを正しく指摘する子供の方が、ずっと冷静である。欲しい漫画を買ってもらえず、欲しくもないわけのわからない高い本を無理やり読まされるくらいなら、それくらいの冷静さが必要なのも当然のことだろう。

それにしても、広辞苑の存在を「初めて」と言う人もすごいと思う。年齢的には私とそうかわらないくらいの女性である。日本で一番権威のある辞書とふれこみの高い広辞苑だが、それを「知らない」と本屋のレジ先で言い切る神経というのは、ある意味立派だとも思った。
いや、広辞苑の存在自体を知らなくても別に悪いことはない(そうか?)。友達が「流行っている」というものを知らなくてもいいし、広辞苑なんか知らなくても生活する上ではまったく問題はないだろう。事実、私も広辞苑の第四版を持ってはいるが、ネットでなんでも調べられる今となっては、購入して開いたことは数回程度のものだ(それも問題か?)。
ネットでなんでも調べられる世の中とはいっても、世の中には知らないことがいっぱいある。それを知る手がかりのひとつとして辞書があり、その代表的な一つである広辞苑の名前くらいは知っておく必要ってあるんじゃないかと思ったのだ。

果たして、この人たちが広辞苑という本が本来どういう本なのかを、本当に知っていたのかどうかは不明である。「広辞苑を買って読んでほしいのは、お子さんではなくあななたちの方ではないですか?」と、つい思ってしまった。


Wikipedia「広辞苑」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E8%BE%9E%E8%8B%91

岩波書店「広辞苑」
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/jiten/

◇『私の男乳と卵』2008年01月30日 23時51分18秒



今日書店に行ったときのこと。
書棚の横に、新刊か何かのチラシが展示されていたのだか、それを見てなんだかすごいタイトルだと驚いた。


「私の男乳と卵」

父子家庭の話なのか、それともゲイのカップルが子供を育てる話なのか、といろいろ一瞬のうちに逡巡したのだが、よくよく見るとそれは今年の直木賞と芥川賞の受賞作品「私の男」と「乳と卵」という別々の作品だった。
書棚の幅ぎりぎりにめいっぱいの文字で書かれているため、二枚のチラシにすきまがなく、一瞬見るとタイトルが続いて読めてしまうのだ。作品名の上にちゃんと「138回直木賞受賞」と「138回芥川賞受賞」という文字があるが、黒いバックで強調されているにもかかわらずこちらはすぐには目に入ってこなかったのである。

それにしても、それぞれの作品名はたいしてインパクトのあるものではないのに、続けて読むとものすごいインパクトがある(私だけか?)。「男乳」に対してどういう内容の物語なのか、しかも男には持ち合わせないはずの「卵」というのもタイトルになるのだ。子育てに関連する「乳」と「卵」が「男」と冠しているだけで、なにやら訳ありのような雰囲気になってしまう。



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