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◇深夜のガソリンスタンドの思い出2010年06月23日 00時45分21秒

国道38号線沿いにある、現在のアラブ石油のスタンド跡(写真提供:TS)

都会はどうだったのかは知らないが、1985年当時の帯広の田舎では、まだまだガソリンスタンドの深夜営業はまれなことで、ガソリンスタンドが行楽の日曜日に平然と休んでいるのも珍しいことではなかった。
平日でも、早くて午後6時、遅くても8時には営業が終了してしまうところが多かったので、夜中に突発的にドライブなどに行きたいと思ったときに、ガソリンがないということもしばしばあった。

普通の人たちはどうだか知らないが、私たちの友人はみんな車があるとすぐにドライブに行きたくなってしまう。それが軽であろうがソアラ(誰も持っていなかったけど)であろうがお構いなしであった。
行き先はいろいろで、近場だと当時は24時間営業していた十勝川温泉の大平原だったり、余力があれば大津の海まで行くこともあった。

だいたい人が集まる場所は決まっていて、そこで集った仲間で条件が合い意気投合して行動を始めるのが夜も10時過ぎのことである。
馴染みのお店の店員の仕事が終わるのを待つときは、行動開始が0時を過ぎることもしばしば。 そこで車を調達して、お金を出し合ってガソリンを入れるのだが、そんなときに重宝していたのがアラブ石油だった。

私の記憶では、国道38号線沿いの周囲に街灯も何もない場所の暗闇に、こつぜんとガソリンスタンドが存在しているのが頭に焼きついている。実際にそういう場所だったのかどうかは不明だが、そういう印象だったのだ。
屋根のない二方向の敷居だけの敷地に、給油機と薄暗い明かりがぽつんとあり、車を給油機の前につけると、どこからともなく痩せたおやじが出てきて給油してくれる。

大抵お金がないので満タンなどとは言わず、千円札を取り出して「これで入るだけ」と言って給油するが、千円では10リッターも入らなかったように記憶している。
調べてみると、1985年当時のレギュラーガソリンの1リットル当たりの価格は、146円だったらしい。普通のガソリンスタンドで10リッター入れると1460円(当時は消費税がなかったので、提示価格のまま)なので、深夜営業のアラブ石油では倍くらいの値段だったのではないか。せいぜい千円で給油できたのは、4~5リッターくらいのものだったと推測する。

友人とふとしたことでアラブ石油のことで盛り上がったときに、ちょっと調べてみたところ、古い新聞記事をアーカイブしているサイトで、アラブ石油の名前を見つけることができた。


『太古の新聞記事など』
ウエートレス強盗強姦事件(昭和43年1月4日深夜の札幌市のビル内)の中の記事
http://63164201.at.webry.info/200901/article_4.html

アラブ石油は、1975年から帯広と釧路に深夜営業のガソリンスタンドを営業していた。帯広店は、東一条南8丁目と国道38号線沿いにあったらしい。 東一条店は1977年と1982年に、釧路店は1982年に強盗事件に合い、1982年の強盗事件後に帯広店は東一条店の24時間営業を取りやめ、国道38号線沿いの店舗でのみ三人交代制で24時間営業を続けていたとある。
※『太古の新聞記事など』内ウエートレス強盗強姦事件(昭和43年1月4日深夜の札幌市のビル内)の中の「十勝毎日新聞 昭和57年(1982年)2月16 日 火曜日 9面」と「十勝毎日新聞 昭和57年(1982年)3月9日 火曜日 11面」より抜粋引用。

この記事を読んだときに、あの暗闇の中で客がこないときに給油のおじさんはどうやって過ごしているのだろうと思ったことを思い出す。
お金がないときに千円ぽっちの給油でもいやな顔もせずに給油してくれた、50過ぎくらいの浅黒いおじさんの顔がうっすらよみがえるような気がする。
当時一度だけ、友人の用事につきあって昼間にあのあたりに行ったことがあったが、スタンドの周囲は住宅もまばらで野っ原だった。

友人が送ってくれた写真を見ると、アラブ石油の周囲には立派な社屋が建っていたり、決して新しそうでない住宅も立ち並んでいる。
昔は国道からはずれると砂利道だったと記憶する道も、当然のごとく今ではアスファルト舗装されている。
私の記憶では、給油機しかないスタンドだったが、写真を見ると小さな小屋があって、おじさんはそこにいたのだということが判る。

その後ガソリンスタンドの深夜営業が、一般のガソリンスタンドでも行われるにつれてアラブ石油の需要は激減したものと見られる。
アラブ石油が帯広からひっそりと姿を消したのが、いったいいつのことなのかは知ることができなかった。

ガソリンスタンドの跡地というのは、ガソリンタンクが埋蔵しているので再利用にお金がかかり、そのまま土地活用されずに廃墟になるケースが多いと聞く。
田舎に行けばいくほど、ローカルの小さな昔のガソリンスタンドの廃墟を多く見かけるが、特に目印になるシンボルマークも何もなかったアラブ石油の跡地が、このような形で残っていることに、ちょっとした感動を覚えたのだった。

◇北海道日高のししゃも寿司2006年07月12日 06時28分08秒

味処 西陣のIC開通記念ランチとししゃも寿司
味処 西陣のIC開通記念ランチとししゃも寿司

日高の二風谷に行った帰り、すっかり昼食を食べ損なった私達は、平取町から国道237号線を南に移動していた。
二風谷から富川までの間、気のきいた食事処などまったくなく、町のはしっこを通りすぎるだけである。
237号線から235号線にぶつかる三叉路の手前に富川町があり、ちょっとした商店街があったので、そこで食事をすることにした。2時近くなっており、ランチ終了にはぎりぎりの時間だ。

いくつか店がある中で、私達は「ししゃも寿司」の大きな看板が出ている「味処 西陣」という寿司屋に入ることにした。
「ランチの時間はまだ大丈夫でしょうか」と声をかけると、時間ぎりぎりなれどお店の人は快く受けてくれた。

日高では、札幌方面に向かう高速道路が開通し、近くにICができたらしく、西陣では「IC開通記念ランチ 700円」をやっていたので、ランチを一人1人前づつとししゃも寿司を三人で一人前だけ注文する。

しばらくして出てきたお盆を見てびっくりした。
手前にある突き出しに、ししゃもの寒露煮、なめこ漬け、日高昆布の佃煮。
まん中には、天主が言うには幻の魚で普段はまかないに出しているという、おおばかれいの煮付け。
そして右上にはかれいのフライと、卵焼き、デザートのすいか、左上にはおひょうとつぶ貝のさしみ(つぶ貝は一人一個!)。
お盆に乗り切らないテンプラは、えびとししゃもとなすである。
これにご飯と味噌汁がついて700円(この他にも2品ついていたのだが、何がついていたのか失念した。とにかく盛り沢山だったのだ)。
ししゃも寿司も7貫ついて700円である。
この時期はししゃもの時期ではないので、ししゃもは冷凍ものだということだったが、それでも本場のししゃもは大変おいしかった。樺太ししゃもとかいうニセモノとはまったく味が違うのである。とにかく味が濃い。
普段ただ焼くだけでしか食べたことがないししゃもが、生で寿司で食べられるということに、富川まで我慢して本当によかったと、同行した父と母も大満足である。また、ししゃもはテンプラにしても甘露煮にしても美味しいという、新しい発見もあった。

それにしても700円…。ちょっとした市街地だったら、1500円でも納得できる量と質である。安すぎる値段と、そのおいしさに、大満足の昼食であった。

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味処 西陣
門別町富川北1丁目1-8
午前11時〜午後9時
水曜日定休

◇香取神社前商店街の路上焼き鳥屋2006年06月03日 06時09分23秒

1990年当時、亀井戸の蔵前橋通りから香取神社に続く道にある商店街の一角に、路上で焼き鳥を売っている店があった。
お店としての建物で売っているのではなく、路上にコンロを出しておやじが焼いていた。
焼き鳥屋の横では、家族が手作り餃子などを売っていた。

シロ、カワ、つくねなどの種類も多く、一本30円と当時としても激安だった。精肉にはくしに赤い印がついていて、それでも50円だった。
持ち帰りで注文してもよし、その場で焼きたてをほおばるのもよし。
コンロの前には小さなテーブルがおいてあり、とうがらしも常備されており、その場で食べたときには食べ終わったくしの数で清算されていた。
お腹いっぱい食べても300円程度ですむというリーズナブルさは、当時貧乏だった腹を十分に満たしてくれ、しょっちゅう足を運んだ記憶がある。

隣で売っている餃子も絶品で、皮がもちもちして甘味があり、具もいっぱい入った大きな餃子が10個で300円だった。
その餃子は焼き鳥屋のお嫁さんの手作りだったらしいのだが、交通事故で亡くなってしまい、餃子はもう売っていないらしい。


場所はこのあたりだと記憶する。今でもあることを願っています
(ここをクリックすると地図がでます)。

◇亀井戸餃子2006年06月03日 05時54分57秒

JR総武線亀井戸の駅前の細い路地に入ったところに、亀井戸餃子がある。
テレビなどのグルメ番組にも幾度も登場しており、休日や夕方ともなれば行列ができてしまう有名店だ。
メニューは一種類の餃子と、数種類のお酒とビールとオレンジジュースなどのソフトドリンクだけ。
ご飯はないのだ。

店に入ると、コの字にカウンターがあり、向かって右側に小上がりがある。
早い時間に行くと、「なんでこの時間にこの人たちがここにいる?」と思わせるおじさんが、Yシャツ・ネクタイで餃子とビールを楽しんでいたりする。

カウンターの上には、大量の唐辛子が沈んだラー油と、醤油がおいてある。
カウンターの中では、おやじさんがでかい鉄鍋で次々と餃子を焼いている。
カウンターに座ると、有無を言わせず餃子が運ばれてくる。

一皿5個。

ここに来ると、最低2皿は餃子を食べなければならない決まりだ。
食べ終わった皿は客の目の前に積み重ねられ、その枚数でお会計をする。
けれども、女性客が大量の皿の前で追加注文したりすると、そっと皿を下げてくれたりする心遣いもあったりする。

キャベツと豚肉がメインの餃子は、とてもジューシーで、一度食べるとやみつきになる。

◇博雅2006年06月03日 05時47分47秒

1990年前後に、JR総武線平井駅の蔵前橋通り沿いに、博雅というラーメン屋があった。

ワンタン麺が大変おいしく、餃子かと思うような具沢山のワンタンが10個は入っていた。
ワンタンは、店のおやじさんと奥さんが、ふたりで開店前に手作りしているものだった。
ラーメン自体もおいしく、さっぱり濃厚な感じだった。

値段は忘れてしまったが、それほど高いという印象はない。
少なくとも、当時貧乏だった私がしょっちゅう通うことができた値段だった。
地元では有名店だったらしく、いつもお客さんでにぎわっていた。

店のおやじさんが亡くなってお店を閉めてしまい、もうあのワンタン麺を食べることができないのが残念だ。

◇waiwai2006年06月03日 05時26分57秒

上京して最初に生活したのは、JR総武線の下総中山だった。
駅前に鬼子母神信仰の総本山があり、東京へのアクセスがいい場所とはいっても、1986年当時はものすごく田舎感にあふれた町だった。

駅前の商店街を抜けて10分ほど歩いたところに、店の前に植物がうっそうと生い茂り、一見そこが何の建物なのかわからない飲み屋があった。
近くにはデザインの専門学校の学生寮などがあったが、私がそこに住んでいた当時は、そこの学生をその店で見かけることは稀で、近所の人や地元の出身者が足を運ぶ店だった。
客の職業はまちまちで、カメラマン、美容師、ミュージシャンの卵、ディスコの黒服、土方の人など、おおよそ共通点などないような人たちだったが、常連客はみなマスターの人柄にほれて集っているようだった。

ここの目玉は、マスターの作る焼きそばだ。
直径20cmはある木の皿に大盛りに作ってくれる。
この焼きそばを食べたら、お腹いっぱいで酒など飲めなくなるのではないかといつも思った。

ネットで調べたら、2002年にはまだ健在だった様子だが、今でもあるのかは不明。

◇老夫婦の喫茶店2006年06月02日 02時41分40秒

場所もどこだかはっきりしないが、帯広の西一条南5丁目あたりだったのではないかと思う。
このへんは帯広の中心街からも少し離れた場所だったが、1985年当時一件の古い喫茶店があった。
店の名前も思い出せないが、老夫婦が二人で経営していた。

店に入ると、古い大きなストーブがあり、お茶請けに六花亭のベビーチョコレートを出してくれた。
派手なBGMもなければ、派手な装飾もないその店は、おいしいコーヒーとしんしんとした落ち着いた雰囲気の、居心地の良い場所だった。

店にいた老夫婦は、客に話しかけるでもなく、自分の仕事を終えるとさっさと店の奥にひっこんでしまう。
しかし、お冷が少なくなったりすると、すっとやってきて水を足してくれる心配りはちゃんとしていた。
客を適当にほったらかしてくれるので、落ち着いてコーヒーを楽しむことができたのだ。
いつもわさわさとにぎやかな場所にいたので、たまにしずかな場所でコーヒーを楽しむことのできるその店は、憩いの場所でもあった。

3年ほど前に記憶をたどって探してみたが、とうとう見つけ出すことはできなかった。

◇十勝川温泉 大平原2006年06月02日 02時23分11秒

十勝川温泉は、世界でもめずらしいモール温泉という泉質の温泉で、美人の湯としても有名だ。
風呂の中にもやもやとした「湯の花」があり、入ると肌がつるつるになる。

帯広市内から、今でこそ30分程度で行くことができるが、1985年当時はもう少し時間がかかったような気がする。
今では、帯広よりもずっと開発されている十勝川温泉のある音更町も、当時は場所によっては民家もまばらなところが目立った場所だった。

昼間仕事をしたりだらだらしたりして、だいたい夜に活発な行動をしていた私たちは、さんざん遊んだ後夜中に突如として「風呂はいりてーな」と誰かが言う。
メンバーの誰かが車で来ていれば、それが夜中の2時であろうが3時であろうが、すぐに十勝川温泉ツアーが慣行される。

今では、日帰り入浴のある温泉ホテルもめずらしくないが、この当時は日帰り入浴さえもめずらしかった中、十勝川温泉の「大平原」は、1985年当時24時間日帰り入浴可の貴重なホテルだった。
夜中はすいていて、私たちのほかに客がいないことの方が多かった。
1時間ほど入浴し、だいたいロビーでテーブルゲームをして、4時か5時頃までだらだらし、家路につくというのが定番だった。
このころ、大平原のロビーにあったのは「パックランド」だった。

十勝川温泉も、観光地開発の一環として老舗のホテルも軒並みリニューアルしていく中、大平原もその例にもれず綺麗に改装されているらしい。
風呂も今では、サウナやウォータースライダーなんかもあるようで、日帰り入浴の営業時間も24時間ではなくなってしまっている。

現在の十勝川温泉大平原のHP
http://www.daiheigen.com/index.html

◇記憶の底にひそむ焼肉屋2006年06月02日 01時40分51秒

帯広は焼肉がうまくて安い土地だと思う。

先日、帯広では老舗といわれる「平和苑」という焼肉屋(ちょっと上等な店)に両親と妹夫婦と6名で出向き、焼肉盛り合わせだの、豚足だの、ジンギスカンだの、タン塩だの、レバ刺しだのをしこたま注文し、ビール、焼酎ボトル、日本酒をさんざん頼んで2万円ちょっとだったのにはびっくりした。
詳細を見ると、お銚子一本350円だった。

関東だと○角なみの値段か? 少なくとも牛○よりは肉はずっと上等で量も多い。

1985年当時、私たちはとても貧乏だったが、ちょっとお金が入るとみんなで焼肉を食べに行った。
当時、西一条11丁目か12丁目の裏通りに、一件の焼肉屋があった。
炭火焼の店ではなかったけれど、ここの肉は安くてうまく、20歳前後の私たちでも、気軽に食事をしてビールなども飲むことができたのだ。
有名な店ではなかったし、場所も駅前の裏通りと繁華街からもちょっと離れていたので、いつ行っても混んでいて入れないということはなかった。

関東ではあまりおいている店はみかけないが、帯広の焼肉屋ではミノの刺身がメニューにたいていある。
つけダレが店ごとに違っていて、ゴマ風味だったり、ちょっと辛いタレだったりと色々だが、そこの店のタレはゴマ風味で絶品であった。
今でもここのミノ刺しの味は忘れられない。

その店は1987年前後に閉店してしまったので、もうあの味を味わうことができないのが残念だ。

なのに、どうしても店の名前が出てこない。
数年前までは覚えていたはずで、友達との会話でも「○○苑のミノ刺しはうまかったよねー」と話していたはずなのだ。
一緒に行っていた友達と先日「あの店、なんて名前だっけ」と聞いても、その友達も忘れてしまっていて、二人で記憶の呪いがとけないままでいる。

◇Daily Queen2006年06月01日 06時10分48秒

1970年代当時、帯広にはハンバーガー店というものがなかった。
喫茶店の多い町だったので、あるいはどこかの店のメニューになったりはしていたかもしれないが、ファーストフードとしてのハンバーガー店は一件もなかった。

1980年か81年頃(もしかしたら1979年だったかも)、西二条にDaily Queenがオープンした。
帯広初のハンバーガーショップだ。
ここのソフトクリームは、今でいうミニストップのソフトクリームをもう少し濃厚にした感じのもので、ぐるぐるとうずまくスタイルではなく、雪だるまのようにソフトクリームの塊が二段になって、コーンにのっかっているというもの。
これがものすごくおいしかった。
私は、ここのシーフードバーガーも好きだった。

二階のイートインコーナーには、テーブルゲームがおいてあり、学校の帰りにここでハンバーガーを食べながらディグダグをするのが楽しみだった。

旧ニチイにも支店ができるほど隆盛し、帯広の若者の食欲を支えてきたが、1984年に西二条9丁目にロッテリアが開店。
その後西五条にモスバーガーが開店するなど、帯広にも続々とファーストフード店が進出し、帯広の町自体が郊外へと移動するうちに、Daily Queenはいつのまにか姿を消してしまった。

上京してから、銀座にあったDaily Queenにソフトクリームを食べにいったりもしたが、そこの店も姿を消したらしく、見当たらなくなってしまった。
デイリークーイン・ジャパン自体が売りに出されているという噂も聞く。

あのソフトクリームだけでも、もう一度食べたいと思う人は多いんじゃないかなあと思うのだが…。



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