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◇来訪カウンター 禁煙ブログパーツ2020年05月11日 14時27分40秒

私のブログに貼っていたアクセスカウンターが動いていないので確認してみたら、システムの配給元で3月いっぱいでサービスが中止されていた。
ブログというツールじたい時代遅れな感もあるので、仕方がないのか。
もっとも、どれだけの人が来訪したかなんて、今はそれほど気にもとめていなかった。

今日見てみると、ブログの右横の下の方に設置してあった禁煙カウンターも消えていた。
こちらも配給元のサイトがなくなっている。
このカウンターは二代目で、一代目もずいぶん以前になくなっていた。

新しいカウンターを探して設置してみたが、当の私がブログを放置してあったことを考えると、ブログというツールに付加価値をつけて発信する意味が少ないような気がしてくる。

禁煙をしてすでに10年以上の月日がたつし、元喫煙者ということでその影響はこれからも身体にでたりするのだろうけれど、今の段階で喫煙者に戻るということは自分でも考えにくいので、ブログパーツをとることにした。

2008年12月1日から禁煙して4179日。

◇自分のブログを読み返す2020年05月10日 01時40分20秒

新型コロナウイルスの影響でどこにも出かけられないので、ずいぶんと放置していたブログに手を加えようと、自分のブログを読み返してみる。
自分の書いた文章が最高だなんて人は、たとえプロの物書きでも少ないだろうと思うが、例にもれず私の文章はだらだらと長ったらしいばかりで、自分で読んでいてもうんざりする。

それでも、あの時はこんなことを考えていたのだとか、2011年の震災の時期、2010年の飼い猫を亡くした時期、映画の感想、テレビの感想、いろんな自分がそこにあって、なかなか面白いと思ってしまう。
当時の社会情勢の違いによる考え方の違いはあるものの、基本的に自分の考えが今もぶれていないところも興味深い。

コメントをくださる方も真摯に私の文章に触れていてくださって、SNSのようにいいね!がついているわけではないものの、それなりに楽しみにしてくださってり方も多いのかもしれないと思ったりする。

それにしても、毎年毎年よく風邪をひいたり、病気になったりしているものだ。
SNSをはじめたのも一因なのだけど、手術をして身体が軽快になってから、ブログを書かなくなってきた。
この機会に、このブログの最初の原点にかえてみようかと画策している。
うまくいくかどうかは、まだわからないけれど。

◇英断するも後悔先にたたず2020年04月19日 05時55分48秒

この3月の初めに、あくまでも個人的な用事で2週間帯広へ帰省する予定だった。
いろいろなことに出会うため、相手と場所と交渉し、日程を調整して楽しみにしていた。
自分だけの用事で帰省することは、結婚してからはほとんどなかったので、本当に楽しみにしていた。

新型コロナの騒ぎが一般的になったのは、2月の始め頃だっただろうか。
ここ20年くらいは自宅で仕事をしていたのに、心機一転外に仕事を求め、2月からバスと電車で通勤していた。
職場には外国人もいて、花粉や風邪の季節ということもあり、咳やくしゃみをしている人も多い。
当初は若い人は症状がでにくく、老人に感染すると重篤化しやすいといわれていた。
自分が陽性かどうか判断がつかない中、実家に帰って年老いた母や周辺の老人に移すかもしれないという危機感がぬぐえなかった。

母と妹は、もし感染するとしたら私がいてもいなくても関係ないだろう。
私から感染するのならそれはそれと言っていた。
しかし、その他に約束していた人は、年齢が高い人が多かったせいかキャンセルされた。
35年ぶりに会う約束をしていた友人だけが、気にしないので来たらいいと言ってくれていた。
当初帯広は1名の感染者が報告されているだけで、母も友人も対岸の火事を見るような雰囲気だった。

北海道は、2月の終わりに日本で最初に緊急事態宣言が発令され、北海道行きの飛行機が飛ばないのではないかという噂がたった。
約束をしていた友人も、はっきりは言わないものの、日を追うごとに難色を示すようになってきた。
妹に相談し、本音としてはやはり心配だということで、私は3月の帰省を断念した。
帰る口実も理由もなくなってしまったからだ。

あれから1か月半。
コロナの猛威はすでに国をゆるがす大事になっている。
東京の知人が3月の始めに帯広入りしたときは、自分は感染しないようなことを言っていた。
しかし、いざ首都圏に具体的な危機感が走り出した途端、毎日のようにFBに危機を煽る記事を引用するようになった。

無理をしても、口実なんてなくても、3月の始めに帰ればよかったのかもしれないと、頭の片隅で自問する。
少なくとも、友人に会うだけでもよかったじゃないかと思う。
ずっと会いたくて、やっと再会にこぎつけた人だった。
私がいかないことを告げた後、理由は別にあったのかもしれないが、なんとなく距離をおかれて疎遠になってしまった。もう会うこともないだろう。

例えウイルスの蔓延が収束したとしても、感染のリスクが収束するのはまだ先の話だろう。
特効薬の臨床が進んでいるとはいえ、今後私が実家に帰ることができるのは、たぶん数年後のことだろう。
11月には父の三回忌がある。
母は出席できなくても気にしなくていいと言っているが、あれだけ長女だからと言われて育ったのに、父の三回忌にその責任を果たせないだろうことが、母の簡単な言葉ではぬぐい切れないほど無念でならない。

テレビでは、ベルリンの壁崩壊のドキュメンタリーをやっている。
私はまるで、ウイルスという壁にはさまれて会いたい人に会えないベルリン市民のようだと思った。
気分転換に映画館に行ったり、美術館や博物館に行くこともできない。
楽しみにしていた上映や企画展は、会期中誰も足を運ばないまま終了している。
大昔、ペストが流行したときには、経済の変化に伴い常識も大きく変化した。
誰もが楽しみを謳歌し気軽に移動する時代は、この3月で終了したのかもしれない。

そんなことしか考えられないほど、現在の私の中の絶望は大きい。

◇新型コロナウイルスで2020年03月13日 00時04分51秒

ここ一か月のニュースは、新型コロナウイルスばかり。
イベントはもちろん、ふだんの生活にまで支障が出る状況に、世界中が対応し、翻弄され、株価も一気に急降下している。
各国政府の対応が正しいのか否か、たぶんジャッジがくだるのは数年先の話。
今はこの状況に冷静に対処する姿勢が必要だと感じる。
不安なのは自分だけじゃなくて、たぶん世界中の人が不安。
個々が騒いだからといって、この不安から逃げられるわけでもないことだけは自明の理かと。

◇キース リチャード タバコをやめる2020年02月08日 02時47分17秒


ローリング・ストーンズのキース リチャーズといえば、タバコをくわえてステージに立ち、ギターを演奏する姿がトレードマークのようなものだった。
少なくとも、私はそんな印象をもっていた。
そのキース リチャーズがタバコをやめたというニュース。
もうタバコがかっこいい時代は終わりをつげた。
ロックのアイコンも、いまやタバコは除外される世の中を歓迎したい。

◇携帯電話のコールバック2019年09月18日 13時38分26秒

昨年(2018年)の11月に父が亡くなった。
父が亡くなってからしばらくの間は父の携帯電話をそのままにしていたのだが、死亡証明などの書類の有効期限が失効されるのを懸念し、亡くなって2か月ほどで解約した。

その後、私も携帯を変えるなどしたので、アドレス帳の整理をしていたときのこと。
間違えて父の携帯に電話をしてしまったのだ。
解約してすぐの頃は、「おかけになった電話番号は現在使われておりません」とアナウンスされていた。
しかし、父の携帯を解約して半年以上が経ったこの時、父の携帯番号は普通に呼び出し音が鳴った。
驚いてすぐに電話を切ったのだが、電話の向こうの人は律儀にコールバックしてきたのだ。

「もしもし?」という声は比較的若い男性の声だったが、それは当然の父の声ではない。
向こうも見知らぬ番号から電話がきたのでコールバックしたけど、私が誰だかわからないので、それ以上の言葉は発しない。
父の番号からかかってきた父ではない男性の声に、どのように対処していいのかわからなかった私は、「○○さん(旧姓)のお電話ですか?」と聞いてしまった。
相手は少し警戒した感じで「違います」と返事をしたので、「大変申し訳ございませんでした」と謝罪して電話を切った。

携帯電話が普及し始めた頃は、解約したばかりのときは間違って電話をしてしまう場合があるので、携帯電話の番号は最低でも3年間あけるという話だった。
しかし、携帯電話の普及で番号の割り当てが足りなくなり、今では半年足らずで別なユーザーに割り当てられるようだ。
半年くらいであれば、それが周知されていなければ別な人に電話をしてしまう可能性は大きいだろうと思う。
商用で使っていたものだったら、そういう間違い電話も多いのではないかと思ったりもする。

母にこのことを話すと、妹も少し前に父の携帯に電話をしてしまい、呼び出し音が鳴ったので驚いたらしいという話をしていた。
私の電話の着信履歴には、父の死から数か月して父から電話があったことになっている。
父にこの話をしたら、「俺の番号はいい番号だからな。すぐに貰い手がつくだろうな」と笑いながら言ったような気がする。

いずれにしても、父の番号を現在使用している方には、大変失礼なことをしてしまって申し訳ない。
妹が電話をしたときにコールバックがあったかどうかは知らないが、少なくとも私がかけてすぐにかけ直してきたことを考えると、商用の電話なのかもしれない。
ただ、電話の相手は「もしもし」としか言わなかったので、やっぱり個人用の電話なのだろうか。

父は私が電話をして出られなかったとしても、必ずかけ直してきてくれた。
それは病院に入院しているときでもそうだった。
病室では通話禁止だったので、決まった場所でしか通話ができなかったのだが、多少具合が悪くても時間がかかっても必ずその場所に移動してコールバックしてくれた。
父の番号の今の持ち主も、知らない番号からかかってきてもかけ直してくれるような律儀な方のようで、そういうところは父に似た気質の持ち主なのかもしれないと勝手な想像をしたりする。

◇コーヒーが飲めない2018年10月21日 01時58分18秒

最近コーヒーが飲めない。
いや、飲もうと思えば飲めるし飲んでもいるのだが、飲むと後で必ず気持ち悪くなるのだ。
作り置きのまずいコーヒーでも、自家焙煎で入れたてのおいしいコーヒーでもかわらない。
飲んだときにはおいしくても、少しすると胃がむかむかしてきて、下手をすると吐いてしまう。

今年は暑さですっかり胃をやられていて、秋になってすっかり身体が弱っているのを感じる。
いきつけの病院の医師は、それはあなただけではないから安心しろと言う。

みんながそうだからって、身体の不調は安心できるものでもないと思うのですが、せんせい。

◇26年ぶりに友達に会い、原点に帰る。2018年05月29日 05時27分03秒

プリンアラモード

プリンアラモードと珈琲。メニューが岩波文庫の表紙になっている。

先日、26年ぶりに学生時代の友人に再会した。
ずっと年賀状では「今年こそ会おう」とお互いに書いていたのだが、実現できなかった。

学校のあった御茶ノ水駅で待ち合わせをする。
私は少し早く着いたので、学生時代によく通った店などチェックする。
聖橋口で待ち合わせたのだが、昔JRの駅を出てすぐに見えていたはずのニコライ堂が見えない。
駅前には大きな商業施設がいくつもあって、面影があるのはJRの駅くらい。
ニコライ堂を探してみたら、ビルの陰にすっかり隠れてしまい、まるで札幌の時計台のようだった。

30年ぶりに会った友人は、それなりに年はとったものの、昔の面影そのままで変わらない印象。
あちらも私を見て第一声が「変わらないねぇ」だった。
お互いおばさんになったのは、言わない約束である。

ランチをして、御茶ノ水橋交差点から水道橋へ坂を下っていく。
神田川の文京区側の建物はあまり変化がないように見えるが、線路の千代田区側はすでに私達の知っている建物ではないような気がしてならない。
一本中に入ったところにあるアテネフランセなどは変わらずそこにあるが、病院や研究所の建物など微妙に違って見える。
私達が通った学校もすっかり古くなり、一番通った水道橋の別館も今はもうないと聞いた。
あの頃は東京ドームもまだ後楽園球場の頃で、マイケル・ジャクソンが後楽園球場で初来日ライブをやるというときは、学校の屋上までその喧騒が響いていた。

神田川沿いをてくてく水道橋まで降りて行き、神保町まで歩いて行く。
天ぷらの「いもや」が店じまいをしたと聞いていたが、看板がまだあちこちに残っているので確認したら、やはり平成30年3月いっぱいで閉店したと貼紙があった。
水道橋から神保町までの道は、昔は中古レコード屋がたくさんあったエリアだったが、いまやよくある食べ物屋ばかりが軒を並べ、中古レコード屋はぽつぽつと有名老舗が数軒残っている。
大正時代から続く「奥野かるた店」は未だ健在で、私はここで旅行用の小さなバックギャモンを購入して今も持っている。
もともとは文字通りかるたの店だったのだが、今はかるたやカードゲーム、希少なボードゲームなどが売られている。
ウォールナッツのバックギャモンのセットが店頭にあり、あやうく買いそうになってしまう。

神保町交差点までくると、正面にあるはずの岩波ホールが丸ごとなくなっていて、その角にはスーツ屋があり、みずほのATMがあり、ブックカフェがあった。


岩波文庫表紙

ブックカフェは本屋の中に静かな喫茶店があるというもの。テーブルの上のメニューが岩波文庫の表紙と同じデザインなので、岩波書店のカフェなのだろう。
プリンアラモードやパフェなど、昔の喫茶店で馴染みのスイーツがメニューにある。
プリンが食べたかったので、私はプリンアラモードと珈琲、友人はチョコパフェに珈琲を注文した。

毎日のように通った御茶ノ水駅や水道橋駅、神保町の街並は、お店の顔は変わったけれど、学生の街という雰囲気はそのままなような気がする。
おばさんが2人、懐かしそうに通りのあの店はどうだった、この店はどうだったといいながら歩き、古い街角で懐かしいスイーツを食べながら、昔のこと、今のこと、これからのことを話した。

彼女は、私の結婚式に出席してくれてはいるが、こんな風に会ってゆっくり話すこと自体は30年ぶり。
学生当時に留学生だったYさんと今でも交流があると言っていた。
子供も独立して、今は自分自身の悩みと向き合っている。
負けず嫌いで頑固な彼女が見せる、久々の弱気な顔。
最初に再開したときの笑顔も、今の境遇を愚痴るつもりが真剣な話になってしまい弱気な顔も、本当に変わっていないのだなあと思う。
ただ変わったのは、昔は漠然とした悩みだったのが、今は具体的な悩みであることくらいだろうか。

老舗の中華料理屋で注文しすぎて満腹中枢はちきれる中で、次の再開を約束し都営新宿線と三田線が分かれるところで彼女と別れた。
神保町、九段下は、東京で本格的にやりたい仕事を始めた街だ。
学校時代の授業も、御茶ノ水の本館ではなく、神保町に近い今はない別館が多かった。
お腹がすけばいもやで500円の天丼か天ぷら定食をかきこみ、キッチンジローで今はきっと食べきることもできない洋食の定食を食べ、日本でもまだ数少なかった回転寿司で先輩と皿の数を競ったりもした。
紙を買うにはすずらん通りの裏に行き、写植を頼みに馴染みの写植屋に行って出されたお茶でさぼったりもした。

懐かしい友人が、今は子供のことより長く続けた仕事のことで悩んでいる。
私もこの年になって、今のこの中途半端な状況を悩んでいる。
バブル目前のあの頃も、このままここで自分ができる仕事などあるのだろうかと悩んだりした。
とりあえず、食べられることが幸せだと思った。
にっちもさっちもいかなくなって、地元に戻ろうと思ったこともある。
結婚した相手も北海道の人で、なんとなく結婚してもまだ北海道に帰ることがあるかもしれないと思いながら過ごした。

26年ぶりの友達に会って、原点の場所でなんとなく、自分はそれでもここにいるんだなあと、そんなことを思いながらあの頃とはまるで反対方向の家路についた。

◇クモの巣退治2018年05月23日 04時12分51秒

わが家の表札とインターホンがくっついている門柱があるのだが、そこはかっこうのクモの巣エリアだった。
とってもとっても、夜のうちにクモは毎日巣を張る。
夕方にとって夜中に見ると、もう再興されているのだ。

クモは家を守ってくれる益虫だと思っているので、むやみに殺したりはしたくない。
それに、ここにいる一匹を殺したところで、また違う一匹がやってくるのだろう。
街燈の下の虫が集まる、巣の張りやすいかっこうの場所なのだろうから。

それでも、わが家のインターホンを使う人にとってはたまったものではない。
訪れた家のインターホンに、堂々とクモが巣を張っていたら、私だっていやだ。
クモの巣をほうきで毎日とっていると、そこにいるクモもなじみになってくる。
巣の真ん中にいるところに息をふきかけると、サササッと隅に隠れるのもかわいらしく思えなくもない。
それでも、クモにいつまでも居ついてもらっては困るのだ。

そこで、断腸の思いでクモの巣撃退スプレーなるものを購入してみた。
ホームセンターで聞いてみると、殺虫剤にシリコンがまじったものだと説明された。
うちのポストと表札の枠はアルミなのだが、夫はアルミにシリコンスプレーをかけることに反対をした。ものによっては腐食するからと言うのだ。
しかし、外に野ざらしになっているものなのだから、それなりの加工はされているはずだろう。何よりクモの巣と毎日戦っているのは私なのだ。嫌ならクモの巣係は夫にやってもらうと言うと、すんなり購入に同意した。


購入したのはアース製薬のクモの巣消滅ジェット 450mL
正直、こんなものきくのかなと思いつつ、門柱とポストのすきま、表札、インターホまでたっぷりかけた。インターホンはさすがに直接かけるのはためらったので、布に含ませて塗布した。
スプレーして3日経ったが、クモの巣どころかクモ一匹見かけなくなった。蛾などの虫も心なしかいなくなったような気がする。
おそるべしクモの巣消滅ジェット。

さすがにスプレーするときは、そこにいたクモをほうきではらって、スプレーが直接かからないようにした。
クモも悪気があってそこに巣を張っていたわけではないし、なんとなく馴染みになってしまうと、追い出すことも悪い気がしてしまう。

それにしても、ここに越したばかりの頃は、インターホンに顔を近づけすぎて魚眼レンズに映った人みたいな来訪者がしょっちゅういたが、クモのおかげでか最近はそういう人はいなかった。
クモの巣がなくなったら、また魚眼レンズの人が来るようになるだろうか。

◇うちの書庫2018年05月15日 03時33分35秒

私の家の二階の一部屋は、「本の部屋」と化している。
書斎ではなく、文字通り本を置いてある部屋「書庫」だ。
この家に越してきたとき、10トン超えた私達の荷物の60%は本だ。
あとは、古いVHS、カセットテープ、ファミコンソフトなどなどなどなど......

引っ越したとき、引越し業者が荷物の配置までしてくれたのだが、今回利用した業者の整理は、本の種類はバラバラ。
これまでの業者さんはちゃんと巻数そろえてくれたのに、今回はあまりの多さにそれさえも無視され、同じタイトルのものが近くにある程度の整理具合である。
他にもたくさんやることあったし、なにせ10トンの荷物は一日で運び終わったのが奇跡のような量であったのだから仕方がない。

他人が整理した本棚はつまらないし、イライラする。
本は自分で整理したい。
しかし、あまりの多さに、私達はその状態のまま4年ほど放置していた。

それまでは、きちんと本棚は整理されていた。
夫の本と私の本の区別もついていたし、絶対に捨てられない稀少本は、ちゃんと大切に保管されていた。
それは、本棚がきちんと見やすく扱いやすい状態になっていたからだ。
しかし、本棚を専用の部屋に押しやってしまうと、その部屋に行かないと本が読めない。
その上、新しい本も買うので、本はどんどん増えるばかりだ。

思い切って捨てたいが捨てられない。
老後の楽しみとか言っているが、古い雑誌なんぞ絶対に見ないと思う。
見れば見たで面白いのだが、掃除中に開くわけにはいかない。
きっと、将来もこの繰り返しだろう。

しかし、この情報の氾濫した時代に、昔の価値観で止まったものを、後生大事にスペースと金を使って保存しているのは、狂気の沙汰といえる。
すっかり捨ててしまったら、どんなにすっきりするだろう。
だが、別冊宝島だとか、「この映画を観ろ」とか、「19XX」みたいな、時代を反映したもの。本当はそういうのが一番面白いということを知っている私達夫婦は、なんだかんだいって捨てられないのだ。

老後にそういうのを見ても、たぶん一瞬「わー、すげー」と言って終わりだろう。それを数年に何度か繰り返すだけだ。
でも、そういうのが一番面白かったと知っている世代の私達には、やっぱり宝物なのかもしれない。

そうして、ふりだしに戻るのだ→



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