◇父の癌(健忘録) ― 2013年09月10日 04時41分32秒
今年の春、母からメールが入った。
「びっくりです。パパが癌になりました」
私の家では、40も過ぎた娘二人が両親のことを未だにパパ、ママと呼ぶ。
何度か「お父さん、お母さん」にしたいと思ったが、彼等の一人称がパパ、ママだったので、半ば呼び名の変更を拒否されていたといってもいい。
自分のことを「パパ」「ママ」と呼び、親戚一同私達に対して両親のことを未だに「パパ」「ママ」と呼ぶのだから、それ以外の呼称はありえなかったのだ。
言い訳はいいとして、母のメールは父の病状の深刻さを全く感じさせないものだった。
電話をしたところ、ごく初期ものだと思うが、詳しく検査をしてみないとわからないとのことだった。
十数年前に心臓のバイパス手術を受けていたため、その定期健診の検査で発覚したとのこと。
通っていた病院は心臓の専門医であったので、すぐさま提携病院に紹介状を書いてもらった。
検査をした結果、父は胆管癌の疑いであるという。
検査をしたのに疑いとはどういうことか。
組織検査とPETの検査では、はっきりした証拠がみつからなかったらしい。
ただ、その症状は確かに癌であるので、80%癌であろうと主治医は言ったらしい。
その病院では胆管の専門医がいないとのことで、市内の専門医のいる病院に紹介状を書いてもらった。
二週間の検査入院の結果、父は胆管癌であることがはっきりしたのだが、今度は十数年前に手術をした心臓バイパスの箇所とあたるため、心臓医の立会いがないと手術は危険であるとのこと。
しかし、その病院には胆管の専門医はいるのだが、心臓の専門医がいないので、危険が伴う手術ができないと言われた。
しかたがないので、市内の胆管の専門医と心臓の専門医のいる別な病院に紹介状を書いてもらうことになった。
これまでは提携のある病院だったが、最終的には提携外の病院で手術をすることになったのだ。
ずいぶんと遠回りしたが、これでやっとどうすべきかはっきりすることができる。
最初の検査で癌が発覚してから、二ヶ月後のことである。
それにしても、北海道の小さな地方都市に、よくもこんなに病院があるものだと思った。
一時期は保険適用外で、検査の予約がとりづらいと言われたPETまでもこの町には完備されている。
それでも、あちらが立たねばこちらも立たない病院ばかりがいっぱいあるのだなと、なんとなく客観的な目線で父の検査の報告を聞いていた。
最後の病院で最終検査をした結果、胃の1/3と十二指腸、胆嚢と膵臓の一部を切り取る10時間の手術をするという。
父は70代前半だが、体力的にも大きな手術ができるのは最後になるだろうと言われたらしい。
初期の癌なので、このまま温存して大きくなってから手術するという手もあり、どうするかは父が決めろと選択を迫られた。
父は非常に臆病な人で、しなくてもいい心配までして不安になるタイプである。
私は心配性なのは母のほうだと思っていたが、実は父も心配性であり、母の心配性とはタイプが違うのだということを発見した。
父は当初、手術は辞めて温存する方を選ぶつもりであったらしい。
しかし、最初に心臓バイパスの手術をしてくれた医師や、糖尿病の主治医にも相談したところ、「できるときにやっておいた方がいい」という意見しか出てこず、「やめたほうがいいんでないの」という意見は皆無だったらしい。
とうとう父も観念して、手術を受けることを決心したと連絡してきた。
最初に入院してから、父は毎日のように「元気だよ」とか「今日は検査だよ」と携帯メールをしてきた。
普段ほとんどメールなどしない父だが、家族とコミュニケーションをとれる唯一のツールなので、使い方を覚えたらしい。
病気のことを聞いても仕方がないので、私は夏に向けて次々と咲く、初夏の草花の写真を送ることにした。
ベッドのお供に、文字の書いていない絵本や、帯広の古い写真を集めた写真集を送ったりした。
この手術のときには、私も帰省して立ち会った。
十数年前の心臓の手術のときは、私が行ったときには母も妹もパニックになっていた。
医師からそう言われたわけでもないのに、ネットの情報からありもしない事例を父にあてはめて将来を失望していたのだ。
症例は人によってそれぞれだからネットで見たからといって、それがパパにあてはまるとはいえないと反論したが、母と妹はすっかりネットの話を信じきっていた。
それほど言うなら確認しようと、看護師長さんのところに三人で質問しに行くと、「そんなことはありません。そうなりたいんですか?」と叱責され、脱力したのを記憶している。
今回もそんなことになっているのではないかと心配していたが、母も妹もできるだけネットの情報を見ないようにしていたと言っていた。
ネガティブな情報を見ても心配になるだけだからだ。
父の手術は予定通り10時間で終了し、母と私と妹は手術室のある階の別室に呼ばれ、医師の説明を受ける。
部屋に入ると、白い洗面器に血塗れた臓物がてんこもりになっており、これが胃で、これが十二指腸で、これが胆嚢で、これが膵臓で、胆管のここのところに癌があってと、いちいち実物で説明をしてくれた。
気の弱い人であればその場で卒倒していたかもしれないが、三人とも「うわーっ」とは思いつつも、きちんと医師の説明を受けた。
もし父がそこにいたら、たぶん気持ち悪くなって大変なことになっていたかもしれないと話しながら病室に戻った。
病室に戻ると、父はすでにベッドに戻っていた。
しばらく食事ができないので、点滴と腸ろうという腸から直接栄養を供給する管をつけていた。
7月の終わりに、仕事のため一時自宅に戻る日に、父は食事が解禁になった。
解禁といっても、最初は流動食である。
手術から一週間にもならない日で、こんなに早く食事が出るのかと驚いた。
その後、管が一つ一つはずされるたびに、自力歩行するように促され、それでもまだ色々な機械を連れて歩かなければならないのが、父には苦痛だったようで、あれこれ我侭を言っているらしかった。
私はと言うと、手術後の母の負担を軽減するために術後に日にちをとって行ったのにも関わらず、階段から落ちて足を負傷し、役立たずもいいところだった。
とはいえ、お盆に主人と再び帰省する頃には父も退院し、家で私たちと夏のひとときを過ごした。
胃を切除しているので、しばらくはリハビリ食になるのだが、最初のうちは「俺はいいから、お前らは普通のものを食べなさい」と言っていたのに、豚丼の肉がほしくなったり、歯ごたえのあるものをほしがったりと
、医師から禁止されているものを食べたがる。
私たちがいるときはいいが、母と二人になってどうなるのか。
存在していた癌は全て取り除かれたらしいが、思ったよりも癌の範囲が大きかったようで、今後の経過次第では抗がん剤治療をするらしい。
せっかく一大決心をして手術を受けたのに、抗がん剤治療になるのかどうかが父の次の心配事になった。
父はたぶん、癌を取ってしまったら全てが終了すると思っていたようだ。
それが、胃を切除したことによる食のリハビリも父には応えるようで、これで抗がん剤治療に入るとどうなることかと、心配はつきないのであった。
9月に入り、母に様子を聞いてみると、食事を父に合わせてしまうので、食事に油ものが少なくなり、母の体力の方が心配である。
あまり油ものをとらなさすぎるとシワができるよと脅かすが、父がほしがるので別なメニューをとるのがなかなか難しいらしい。
母は食事のメニューを考えるのが苦手なようで、ついつい同じようなメニューが続いてしまうようだ。
レシピ本を送ったりもしたが、仕事をしているので目を通す時間もなかなかないらしい。
実家のネット環境を光にしたので、これからはインターネットで調べるのも快適であるはずだ。レシピなどを探したり、母が少しでも気晴らしになるのであればいいと思う。
父の抗がん剤を投与するかどうかの検査は、もうすぐ結果がでる頃だ。
両親の心配の種がこれ以上増えないといいと祈るばかりである。
「びっくりです。パパが癌になりました」
私の家では、40も過ぎた娘二人が両親のことを未だにパパ、ママと呼ぶ。
何度か「お父さん、お母さん」にしたいと思ったが、彼等の一人称がパパ、ママだったので、半ば呼び名の変更を拒否されていたといってもいい。
自分のことを「パパ」「ママ」と呼び、親戚一同私達に対して両親のことを未だに「パパ」「ママ」と呼ぶのだから、それ以外の呼称はありえなかったのだ。
言い訳はいいとして、母のメールは父の病状の深刻さを全く感じさせないものだった。
電話をしたところ、ごく初期ものだと思うが、詳しく検査をしてみないとわからないとのことだった。
十数年前に心臓のバイパス手術を受けていたため、その定期健診の検査で発覚したとのこと。
通っていた病院は心臓の専門医であったので、すぐさま提携病院に紹介状を書いてもらった。
検査をした結果、父は胆管癌の疑いであるという。
検査をしたのに疑いとはどういうことか。
組織検査とPETの検査では、はっきりした証拠がみつからなかったらしい。
ただ、その症状は確かに癌であるので、80%癌であろうと主治医は言ったらしい。
その病院では胆管の専門医がいないとのことで、市内の専門医のいる病院に紹介状を書いてもらった。
二週間の検査入院の結果、父は胆管癌であることがはっきりしたのだが、今度は十数年前に手術をした心臓バイパスの箇所とあたるため、心臓医の立会いがないと手術は危険であるとのこと。
しかし、その病院には胆管の専門医はいるのだが、心臓の専門医がいないので、危険が伴う手術ができないと言われた。
しかたがないので、市内の胆管の専門医と心臓の専門医のいる別な病院に紹介状を書いてもらうことになった。
これまでは提携のある病院だったが、最終的には提携外の病院で手術をすることになったのだ。
ずいぶんと遠回りしたが、これでやっとどうすべきかはっきりすることができる。
最初の検査で癌が発覚してから、二ヶ月後のことである。
それにしても、北海道の小さな地方都市に、よくもこんなに病院があるものだと思った。
一時期は保険適用外で、検査の予約がとりづらいと言われたPETまでもこの町には完備されている。
それでも、あちらが立たねばこちらも立たない病院ばかりがいっぱいあるのだなと、なんとなく客観的な目線で父の検査の報告を聞いていた。
最後の病院で最終検査をした結果、胃の1/3と十二指腸、胆嚢と膵臓の一部を切り取る10時間の手術をするという。
父は70代前半だが、体力的にも大きな手術ができるのは最後になるだろうと言われたらしい。
初期の癌なので、このまま温存して大きくなってから手術するという手もあり、どうするかは父が決めろと選択を迫られた。
父は非常に臆病な人で、しなくてもいい心配までして不安になるタイプである。
私は心配性なのは母のほうだと思っていたが、実は父も心配性であり、母の心配性とはタイプが違うのだということを発見した。
父は当初、手術は辞めて温存する方を選ぶつもりであったらしい。
しかし、最初に心臓バイパスの手術をしてくれた医師や、糖尿病の主治医にも相談したところ、「できるときにやっておいた方がいい」という意見しか出てこず、「やめたほうがいいんでないの」という意見は皆無だったらしい。
とうとう父も観念して、手術を受けることを決心したと連絡してきた。
最初に入院してから、父は毎日のように「元気だよ」とか「今日は検査だよ」と携帯メールをしてきた。
普段ほとんどメールなどしない父だが、家族とコミュニケーションをとれる唯一のツールなので、使い方を覚えたらしい。
病気のことを聞いても仕方がないので、私は夏に向けて次々と咲く、初夏の草花の写真を送ることにした。
ベッドのお供に、文字の書いていない絵本や、帯広の古い写真を集めた写真集を送ったりした。
この手術のときには、私も帰省して立ち会った。
十数年前の心臓の手術のときは、私が行ったときには母も妹もパニックになっていた。
医師からそう言われたわけでもないのに、ネットの情報からありもしない事例を父にあてはめて将来を失望していたのだ。
症例は人によってそれぞれだからネットで見たからといって、それがパパにあてはまるとはいえないと反論したが、母と妹はすっかりネットの話を信じきっていた。
それほど言うなら確認しようと、看護師長さんのところに三人で質問しに行くと、「そんなことはありません。そうなりたいんですか?」と叱責され、脱力したのを記憶している。
今回もそんなことになっているのではないかと心配していたが、母も妹もできるだけネットの情報を見ないようにしていたと言っていた。
ネガティブな情報を見ても心配になるだけだからだ。
父の手術は予定通り10時間で終了し、母と私と妹は手術室のある階の別室に呼ばれ、医師の説明を受ける。
部屋に入ると、白い洗面器に血塗れた臓物がてんこもりになっており、これが胃で、これが十二指腸で、これが胆嚢で、これが膵臓で、胆管のここのところに癌があってと、いちいち実物で説明をしてくれた。
気の弱い人であればその場で卒倒していたかもしれないが、三人とも「うわーっ」とは思いつつも、きちんと医師の説明を受けた。
もし父がそこにいたら、たぶん気持ち悪くなって大変なことになっていたかもしれないと話しながら病室に戻った。
病室に戻ると、父はすでにベッドに戻っていた。
しばらく食事ができないので、点滴と腸ろうという腸から直接栄養を供給する管をつけていた。
7月の終わりに、仕事のため一時自宅に戻る日に、父は食事が解禁になった。
解禁といっても、最初は流動食である。
手術から一週間にもならない日で、こんなに早く食事が出るのかと驚いた。
その後、管が一つ一つはずされるたびに、自力歩行するように促され、それでもまだ色々な機械を連れて歩かなければならないのが、父には苦痛だったようで、あれこれ我侭を言っているらしかった。
私はと言うと、手術後の母の負担を軽減するために術後に日にちをとって行ったのにも関わらず、階段から落ちて足を負傷し、役立たずもいいところだった。
とはいえ、お盆に主人と再び帰省する頃には父も退院し、家で私たちと夏のひとときを過ごした。
胃を切除しているので、しばらくはリハビリ食になるのだが、最初のうちは「俺はいいから、お前らは普通のものを食べなさい」と言っていたのに、豚丼の肉がほしくなったり、歯ごたえのあるものをほしがったりと
、医師から禁止されているものを食べたがる。
私たちがいるときはいいが、母と二人になってどうなるのか。
存在していた癌は全て取り除かれたらしいが、思ったよりも癌の範囲が大きかったようで、今後の経過次第では抗がん剤治療をするらしい。
せっかく一大決心をして手術を受けたのに、抗がん剤治療になるのかどうかが父の次の心配事になった。
父はたぶん、癌を取ってしまったら全てが終了すると思っていたようだ。
それが、胃を切除したことによる食のリハビリも父には応えるようで、これで抗がん剤治療に入るとどうなることかと、心配はつきないのであった。
9月に入り、母に様子を聞いてみると、食事を父に合わせてしまうので、食事に油ものが少なくなり、母の体力の方が心配である。
あまり油ものをとらなさすぎるとシワができるよと脅かすが、父がほしがるので別なメニューをとるのがなかなか難しいらしい。
母は食事のメニューを考えるのが苦手なようで、ついつい同じようなメニューが続いてしまうようだ。
レシピ本を送ったりもしたが、仕事をしているので目を通す時間もなかなかないらしい。
実家のネット環境を光にしたので、これからはインターネットで調べるのも快適であるはずだ。レシピなどを探したり、母が少しでも気晴らしになるのであればいいと思う。
父の抗がん剤を投与するかどうかの検査は、もうすぐ結果がでる頃だ。
両親の心配の種がこれ以上増えないといいと祈るばかりである。
◇再考 Who's Next - The Who ― 2013年09月17日 15時04分59秒
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Who's Next / The Who (1971) | 四重人格(Quadrophenia) / The Who (1973) |
ここ2年ばかり、The Whoばかり聞いている。
The Whoを聞くようになったのは、もともとThe Jamからの後追いである。
The Jamは今でも大好きだが、最近よく聞くのはThe Jamが影響されたといわれる音楽の方が多い。
The Whoもその一つだ。
先日The WhoのPete Townshendの著作「Who I am」を読み、改めてThe Whoのアルバムが全部聞きたいと思ったのだが、The Whoの再発物のデジタルリマスターだとか、SHM-CDだとか色々ありすぎてわからなかったりする。
それに、最近の再発物はボーナストラックの方が多かったりして、中にはマニアには垂涎物の楽曲もあったりするのだが、純粋に当時のアルバムをそのまま楽しみたいと思ってなかなかかなわなかったりする(パソコンでデータを落として、オリジナルの楽曲だけ抽出して聴くのがベストか)。
個人的なThe Whoのベストは「四重人格 (Quadrophenia)」だ。
これは1979年公開の映画『さらば青春の光』を田舎の映画館で2年遅れで1981年に観て感化され、毎日のように擦り切れるまで聞き、ジミーと一緒にバイクで崖から落ちるのを何度も繰り返した、人生のベストの一つにあげられるアルバムである。
The Whoのアルバムを最初にきちんと聞いた作品であり、アルバム単位で一つの作品として聴くことの意味を教えてくれたものでもある。
映画のサウンドトラックよりも、こちらの方がより映画のワンシーンワンシーンをイメージすることができ、ヘッドフォンで大音響で聞くとすぐに作品の世界に今でも耽溺することができる、まさに“青春の光”なのだ。
「四重人格 (Quadrophenia)」の次に私が出会ったThe Whoのアルバムは、「四重人格 (Quadrophenia)」の2年前に発表された、「Who's Next」だった。
84年のことだったと記憶する。帯広の小さな中古レコード屋で1500円で購入した。この時、古井戸の「さなえちゃん」のシングルレコードも一緒に購入している。
「Who's Next」を聞くまでは、期待と不安が入り混じっていた。
Keith Moon亡き後のThe Whoはあまりパッとしなくて好きではなく、Keith Moonがいた頃の脂の乗ったThe Whoが聞きたかった。
しかし、当時ロンドンパンク以前のロックはオールドウェイヴと揶揄されており、ニューウェイヴやパンクに慣れた耳にはもったりと重く感じ、その頃はあまり好んで聞くことはなかったからだ。
巷はニューウェイーヴ一色な時代。
私の感覚もニューウェイヴ的だったようで、最初の感想は「古臭い」としか思えなかった。
70年代的な重たいイメージのまま、「Who's Next」は30年間封印されることになってしまった。
「Who's Next」が71年、「四重人格 (Quadrophenia)」は73年なので、時代的にはどちらも同時期であるのだが、「四重人格 (Quadrophenia)」が大好きだったのは、やはり映画の影響が大きかったせいでもあるだろう。
今、The Who全体の楽曲を聴くと、「四重人格 (Quadrophenia)」よりも「Who's Next」の方がThe Whoらしいと感じる。
でも、当時「四重人格 (Quadrophenia)」を毎日聞いていたのに、なぜ「Who's Next」は受け付けなかったのだろう。
「Who's Next」は70年代初頭に実験的作品だったせいか、シンセ音楽が浸透しきった80年代にはダサく映ったのだろうか。
映画作品として企画されたにも関わらず、結局それが実を結ばなかったため、「Tommy」と「四重人格 (Quadrophenia)」の間にあって、ロックオペラ的な観点で観ると中途半端な完成度であることは否めない。
そういう中途半端さが、完成された感のある「四重人格 (Quadrophenia)」は大丈夫で、「Who's Next」はダメという感覚だったのだろうか。
ロックのアルバムとしては秀悦に楽曲が揃っているし、悪くはないと今は思えるのだ。
「Who's Next」をもう一度聴いてみようと思ったのは、数年前のことだ。
『The Kids Are Alright』がDVD化され、「Who's Next」の代表曲「Baba O'Riley」と「無法の世界 (Won't Get Fooled Again)」のライブを見たからだった。
「Baba O'Riley」も「無法の世界 (Won't Get Fooled Again)」も知っていたが、こんな風に演奏されるとは思ってもみなかったのだ。
The Whoはライブパフォーマンスが評価されることが多いせいか、ライブで聴いた曲をレコードで聞くとちょっと印象が違って聞こえることがある。
普通はレコードの曲を聞いてライブでこう表現されるのだなと思うことが多いのだが、The Whoに関してはライブ映像を見てレコードを聴くことが多いのだ。
「Baba O'Riley」と「無法の世界 (Won't Get Fooled Again)」も、「Who's Next」で聴くほうがもっさりして聞こえる。30年前に私が感じたあの感覚だ。
ライブの70年代臭さはカッイイのに、レコードにだけ感じる70年代のチープな感覚。
この差はなんなのだろう。
これは映画よりもオリジナルアルバムを後に聞いた「Tommy」のときにも感じたものだが、「Tommy」はまだ映像的な印象が深い分受け入れられるのだろうか。 ただ70年代に対する80年代的な偏見が薄れている今聞くと、レコードの70年代的なチープさも、これはこれでいいと思ってしまう。
そしてもう一つ気づいたこと。
同じ年代に作られた二つのアルバムだが、「四重人格 (Quadrophenia)」はリアル十代であるのに対し、「Who's Next」はちょっと大人の目線から見た十代なのだ。
「Baba O'Riley」の歌詞にある
Don't cry
Don't raise your eye
It's only teenage wasteland
すでに十代を終えた人間の目から見た十代。
「Who's Next」の大人目線があるからこそ、「四重人格 (Quadrophenia)」の疾走があるのだということ。
十代の「四重人格 (Quadrophenia)」どっぷりのときには判らなかったことが、30年経ってやっと理解できるような、長い謎がひょんなことで解き明かされる感じ。
「Who's Next」を聴きなおしたことで、Pete Townshendの楽曲に対するテーマの連続性を、改めて知る事ができたのは収穫だったと思える。
そして、70年代に対する偏見のない今、十代を疾うに終えた今改めて「Who's Next」をしばらくじっくり聴きなおしたいと思うのであった。
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