◇映画「ノルウェイの森」を観て ― 2010年12月24日 03時17分36秒
映画「ノルウェイの森」予告編
私は村上春樹の小説を、一度も読んだことがない。
旦那は無類の村上春樹フリークで、小説は全て初版でそろえ、全集もうちにある。
私の周囲には、旦那を始めとして、村上春樹の小説が大好きだという人が多い。
そして、新刊が出るごとに作品の内容を話して聞かせてくれ、内容的にも大変興味深いものであることもあったのだが、それでも読もうと思わなかった。
旦那と結婚したときに、新婚の部屋の書棚に今まで私のふれたことがない本が並び、その中に村上春樹の本も当然あったので、結婚して十数年の間に村上春樹の作品を手にとろうと思えばできたのだ。
それでも、私は村上春樹の本を読もうとは思わなかった。
理由というと、「特にない」としか言いようがない。
村上春樹が特別嫌いなわけでもないし、周囲の人間の感想を聞く上では、興味深いとさえ思うのだから、たぶん読めば嫌いではないのだろうと思う。
だが、どこかで何かが私の中でストップをかける。
それが何かは、自分でもわからないのだ。
先日、映画「ノルウェイの森」を観た。
村上春樹関連の作品に触れたのは、たぶんこれが初めてのことなのだろうと思う。
映画を観た後、旦那は小説「ノルウェイの森」を読み返している。
なぜなら、私はこの映画を観ていろいろと不満を感じ、それを旦那にぶつけたからだ。
小説は旦那が読んでいるので、私は映画を観た後も小説を読んでいない。
だから、小説の内容を知らないで私はこれを書いている。
映画を観て一番気になったのは、時間経過だ。
直子とキズキとワタナベとの高校時代の時間、直子とワタナベが東京で過ごす時間、直子とワタナベが京都の山奥の療養所で過ごす時間、ワタナベと緑が東京で過ごす時間、そして玉山とワタナベが東京で過ごした時間、これらが直子とワタナベと緑の気持ちの変化の時間に伴っておらず、とてもアンバランスに配置されているように感じた。
この映画は、季節感がとても大事だと思う。
季節感は時間の経過が伴うもので、直子とワタナベの関係が深くなっていく過程や、その後の感情の変化には、もっと時間があってもいいと感じたのだ。
しかし、私が映画の画面から受けた時間は、とても早足で過ぎ去っていくような感覚だった。映画のセリフも、時間経過を示唆するセリフがいくつか存在するのだが、それらで計算してもつじつまがあわない。
季節感が大事だというのは、たぶん製作者側も意識していることで、シーンごとに季節を感じる効果がちりばめられている。
直子とワタナベの感情の流れはこの季節の効果と共に流れていき、ワタナベと緑の関係も季節と共に変化していく。
そして何より『残念』を決定付けたのは、エンディングのワタナベの最後のセリフの後の暗転後の解説だ。私はこの解説のセリフはいらないと思う。このセリフで、映画の中の物語が、ある一定の方向に流れてしまったように思った。
映画を観た後は、小説を読んだ人も読んでない人も、さまざまな感情のもとで会場を去るのがいいと思う。たとえ、原作と映画とは違うもので、映画は製作者の解釈を通したものであっても、映画を観た人の解釈は製作者の解釈とはまた違ったものであるべきだと思うからだ。
このセリフは、物語全体の軸になるものだと思う。だからこそ、最後にこのセリフを言ってしまうと、色々な方向から見た風景が、ただの一方向のものでしかなかったように思えてしまった。
そして、このセリフで時間経過の矛盾を決定付けてしまった。
衣装や舞台装置、細かい小道具に至るまで、1967年当時の風景をとても見事に再現し、話し方や当時の時代背景なども忠実に作られており、そういった細かいところを観るだけでも楽しめる。
当然、時間経過の感覚も凝って作られており、季節感をとても重要にセッティングされていることも感じ取れただけに、観た後の感覚がなんとなく腑に落ちない結果となってしまった。
あと、直子役として菊池凜子は少し年をとりすぎているように思えたのは、たぶん私だけではないだろう。
29歳の菊池凜子が多少ふけ顔で、38歳の霧島れいかが若く見えるということもあるのだろうが、直子がレイコ先生といっしょにいるところは、同じ年代の二人の女性にしか見えなかった。
フリーセックスを気取るとっぽい若者を気取った、緑役の水原希子が初々しく若々しい演技をしていたのに対して、菊池凜子は恋人を失い、恋人の友人と男女の関係になり、その中で生きていることを感じようともがくという難しい役どころなので、初々しい演技では話にならないのは理解できる。
しかし、相手役の松山ケンイチが60年代においての20歳くらいの若者にすっかり変貌していたことを考えると、もう少し髪型などに工夫があってもよかったのではないかと思う。
この映画を観た後、旦那は小説「ノルウェイの森」を読み返し、私の時間経過の指摘があながち間違ってはいないことを教えてくれた。
旦那の読了後、私が小説「ノルウェイの森」を読むかどうかはわからない。
でも、うちにはいつもこの本があるので、読もうと思えばいつでも読めると思うと、いつまでも読まないのかもしれない。
ただ一つだけ、学生時代の友人を早くに亡くしその後故郷を出て生活している私は、状況的にワタナベに非常に近い環境にいたように思う。その中で、この本を発売当初に読んでいたら、徹底的に村上春樹を嫌いになっていたかもしれない。
この作品に出会ったのが、いろいろなことを客観的にある程度見られるようになってからでよかったと思った。
映画「ノルウェイの森」公式HP
http://www.norway-mori.com/index.html
●2010年12月24日 追記
“村上春樹関連の作品に触れたのは、たぶんこれが初めてのことなのだろうと思う。”
と書いたが、映画としては大森一樹監督作品『風の歌を聴け』と市川準監督の『トニー滝谷』は観た事があるので、初めてではなかったようだ。
『トニー滝谷』はとても印象深い映画好きな映画だが、『風の歌を聴け』は正直わからなかった。
旦那は、「映画と小説は別物」を強調している。
コメント
_ 釈千手と申します ― 2010年12月24日 05時08分32秒
_ makura ― 2010年12月24日 17時53分42秒
釈千手さん(でよろしいでしょうか)、コメントありがとうございます。
それぞれの時代背景の中で、セックスと男女の関係のあり方というのは、とても急速に移り変わってきたと思います。それでも、若い頃のセックスに対する衝動のような感情は、どの世代にも普遍的にそばにあったような気がします。
ノルウェイの森の時代は、ちょうど私の両親が20代前半のころだったので、私が青春を迎えた80年代とはまた違った価値観だったと思うのだけど、それでも親の時代にこういう価値観が存在したのだと思うと、また違った感覚で自分の青春を振り返ることができるような気がします。
80年代後半にお茶の水で学生時代をすごしましたが、明治大学などではまだ三里塚の運動などが活発だったので(もちろん、60年代・70年代とは比較にならない規模ですが)、学生運動特有の看板とか、なつかしかったです。
それぞれの時代背景の中で、セックスと男女の関係のあり方というのは、とても急速に移り変わってきたと思います。それでも、若い頃のセックスに対する衝動のような感情は、どの世代にも普遍的にそばにあったような気がします。
ノルウェイの森の時代は、ちょうど私の両親が20代前半のころだったので、私が青春を迎えた80年代とはまた違った価値観だったと思うのだけど、それでも親の時代にこういう価値観が存在したのだと思うと、また違った感覚で自分の青春を振り返ることができるような気がします。
80年代後半にお茶の水で学生時代をすごしましたが、明治大学などではまだ三里塚の運動などが活発だったので(もちろん、60年代・70年代とは比較にならない規模ですが)、学生運動特有の看板とか、なつかしかったです。
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1960~70年代の髪型、服装、景色をうまく再現していて50代の私には懐かしかったです。
ただ段階の世代の人たちは、あの頃「青春」というものに真っ向から立ち向かい、悩み苦しんでいたのかなと受け止めました。私の時代にはもう安保もフリーセックスもベトナム戦争も終わっていましたから。