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◇訃報 - デヴィッド・ボウイ2016年01月12日 16時30分55秒


David Bowie - Lazarus

デヴィッド・ボウイが2016年1月10日に亡くなった。
享年69歳。
ネットのどのコメントを見ても、「信じたくない」「信じられない」という言葉が踊り、新作を1月8日の誕生日に発表したばかりの悲報に驚くばかりだ。

私もニュースを見たときには、信じられなかった。
でもそれ以上に、デヴィッド・ボウイが死んだというニュースに衝撃とショックを覚えた。
悲しみよりも驚きの方が先にあって、悲しいという気持ちは正直まだ心に到達されていない。
なんとなく、デヴィッド・ボウイは死なないような気がしていたからだ。
その理由は、私の中で彼は人間としての存在よりは、ポップアートの作品としての存在の方が大きかったからだ。
つい先日亡くなった、水木しげるもなんとなく死ぬ事などないんじゃないかと思っていたが、彼はデヴィッド・ボウイのそれとはまたちょっと違う印象。

去年、「David Bowie is」という、イギリスで行われた大回顧展の映画を見たときに、この人は自分自身をアート作品として常にプロデュースしつづけてきている人なのだと、強く思った。
ジギー・スターダストの頃の舞台装置のスケッチや、衣装の細部にいたるまで、自分自身の持つ素材を最大限に利用して、表現するという貪欲な意識を感じて、真に稀代のアーティストであるのだと痛感したのだった。
私たちが見ているデヴィッド・ボウイ自身は、彼の表現している作品であり、私たちの前からなくなることはない。
心臓疾患でステージで倒れ、その後作品を発表しなかった10年間がひどく長いものに思えたし、死ぬならそんな風に世間から隔離された状態でひっそりといなくなるんじゃないかと思っていたのだ。

イギリスで行われたこの回顧展は、誰もが引退したと思っていた10年の空白のあとの2013年に発表した「The Next Day」に合わせたものだった。
「Heroes」のジャケットの自分の姿を白い四角で隠したジャケットのこのアルバムは、PVも若い自分(のイメージ)と歳をとった自分とが出てくるもので、過去の自分と現在の自分とは違うものであるということを、私たちに訴えているように思えたので、この回顧展が「The Next Day」に合わせたものであるということが、少し複雑な気持ちだった。
私たちのもっているデヴィッド・ボウイのイメージは、常に回顧展の中にあるものであることは疑いようがないのだが、当時のデヴィッド・ボウイはこのイメージの中にいることはないと言いたかったのだろうかと思ったりしたからだ。
老いという避けがたい変化の中で、素材としての自身をアートに昇華することの難しさをPVを見て感じた。
そして、「Heroes」のジャケットを打ち消しているかのような「The Next Day」のジャケットも、色々と想像をかきたてられるものだった。

今年の1月8日のニューアルバム「Blackstar」を私はまだ聞いていないが、発表されているPVなどを見る限りでは、老いと死をテーマにしているのではないかと思えるような、そんな印象を受けた。
ネットのどこかで、死んだのはデマでニュースで販促しているのではないかとか、死んだことで「Blackstar」をアートとして完成させたのではないかという話をしている人がいた。
彼が亡くなったのは真実のようだが、見方としては私はそのどちらでもあるのだろうなと思った。
デヴィッド・ボウイが死ねば、彼の古いファンで新しいのは知らない人も耳にする機会が増えるだろうと思う。
それくらい、多くの人に彼の作品を示しておきたかったのだろうと思った。
デヴィッド・ボウイという生き様の中でも、ものすごく計算された死に様。
老いや死さえもアートとして昇華する、彼のアーティストとしての覚悟に感嘆するばかりで、なんとなく悲しんでいられないのが正直な気持ちだ。
というか、やっぱり死んでなんかいないんだろうなと、そんな風にも思ったりする。

死のニュースの前日、イギリスで行われた大回顧展「David Bowie is」の展示が、日本でも2017年に開催決定したというニュースを見た。
配信は「Blackstar」の発売日である、1月8日である。

デヴィッド・ボウイ、新作『★』を69歳の誕生日にあたる本日発売!!
大回顧展『David Bowie is』が来年、遂に日本上陸!!


来年の開催だから大回顧展も追悼展になってしまうのだろうが、あの見事なプロデュースの軌跡を映像ではなく実際に見てみたいと思う。
「Blackstar」もあちこちのCDサイトでは売り切れ続出のようだし、デヴィッド・ボウイの作品の多くも品薄になっているようだ。
これから追悼企画版などが出てくるのだろうけど、それを目にする都度、耳にする都度、やっぱり死ぬ事などないんじゃないかと何度も思うと同時に、その頃には死んでしまった悲しみも押し寄せてくるのだろうかと、今は漠然と考えている。

◇【BS-TBS Song to Soul】#99 プライベート・アイズ / ダリル・ホール&ジョン・オーツ2015年07月20日 16時00分21秒


Daryl Hall & John Oates - Private Eyes


BS-TBSのSong to Soul、2015年7月15日の放送はダリル・ホール&ジョン・オーツの「プライベートアイズ」だった。
この曲は80年代を代表するヒット曲であることは、この曲をリアルタイムで聞いた人は誰も異論はないところだと思うが、しょっちゅうラジオでかかっていたせいか、好き嫌いは別としてすっかり身体に染み付いてしまっているような曲だと感じる。
個人的には白人が歌うソウルはあまり好きではなく、ブルー・アイド・ソウルと称されるカテゴリーの代表みたいなダリル・ホール&ジョン・オーツも積極的に聞きたいミュージシャンではなかった。
ただ、時間が経ってあの時代を懐かしく思う年代に入って、あの頃普通にいつも聞いていた曲を懐かしく思うと共に、なんとなく頭の中から自然と口をついて出てくるような曲であると、今は思う。
ヒット曲というのは、本当に時代を象徴し、好き嫌いを超えた存在なのだ。
この曲は、そんな楽曲の一つであると思う。

Song to Soulの番組の中では、作曲者のウォーレン・パッシュと共著者のサラ&ジャナのアレン姉妹についても時間をかけて紹介されていた。
この曲自体は、最初はジャナ・アレンが自分のアルバム用の曲を探しにパッシュの元を訪れた際に提供された曲だったことなど、興味深い内容だった。
ジャナ・アレンはすでに他界していて、番組ではダリル・ホールの奥さんだったサラ・アレンにインタヴューを申し込んだようだがそれは叶わず、彼女からは一本のTDKのカセットテープが提供された。
そのテープに入っていたのは、ジャナがパッシュと共に作り上げた、「プライベートアイズ」の原曲ともいえるテイクだった。
私はその曲を聞いて、これはこれでよかったんじゃないかと思ってしまった。
荒削りでガサガサのその音源は、完成度の高いダリル・ホール&ジョン・オーツとは違う魅力を放っているのだ。

ジャナ・アレンという人は、ダリル・ホール&ジョン・オーツの「キッス・オン・マイ・リスト」の作曲者でもある。
シンガー・ソングライターを目指していた彼女に試しに作ってもらった曲が、ダリル・ホール&ジョン・オーツのミリオンヒットになったということらしい。
当時は、大ヒットした「プライベートアイズ」や「マンイーター」よりも、「キッス・オン・マイ・リスト」の方が好きだった。
ただ、「プライベートアイズ」が出た当時、「キッス・オン・マイ・リスト」と印象が似ているとずっと思っていた。
特に興味もなかったので調べてみることもしなかったのだが、今回の番組でどうして当時そう思ったのか理解できた。
パッシュの作った曲に、ジャナ・アレンのエッセンスをふんだんに取り入れて、これは彼女のための曲として一度は完成されたものだったのだ。
「キッス・オン・マイ・リスト」はジャナ・アレンの曲だから、作曲者が違えど彼女が自分で歌うために彼女が手を加えた曲だから、印象が似ているのは当り前ということなのだろう。

どういう経緯でこの曲がダリル・ホール&ジョン・オーツの曲になったのかは詳しくは語られなかったが、パッシュが発表された自分の曲を最初は否定的に見ていたことなどを考えると、パッシュ自身もジャナと作ったバージョンの方が本当は気に入っていたんじゃないかと思ってしまった。
それでも、ダリル・ホール&ジョン・オーツのバージョンが良くなかったということではないし、あれはあれでキャッチーなアレンジが受けて長く心に残る曲になったのだから、パッシュにとってもジャナにとっても悪くない結果だったのかもしれないが。

私が聞いて魅了されてしまったジャナ・アレンの音源をここで紹介したいのはやまやまだが、著作権に抵触するので、BS-TBSがサラに許可を得て番組HPなどで公開してくれることを願うばかりだ。

ダリル・ホール&ジョン・オーツの曲を聞くと、中学生の頃に聞いていた日立ミュージックインハイフォニックというラジオ番組でダリル・ホール&ジョン・オーツの特集を放送したときのことを思い出す。
30分びっしりダリル・ホール&ジョン・オーツのヒット曲を紹介していたのだが、その時の曲順や紹介された曲がびとく印象深かった。
途中で「キッス・オン・マイ・リスト」の和訳歌詞の朗読が入ったのだが、ラブ・ソングだと思っていたのになんとなく違和感を感じる内容だったのがひっかかっていたのも印象に残っていた。
Song to Soulの中で、実は逆ラブ・ソングだったという話を聞いて、なんとなく腑に落ちた感があった。
興味がないといいつつ、長い間私の中でひっかかっていたのだなあと、その時初めて実感した。

興味がないのに、しっかりと自分の中に根付いていたダリル・ホール&ジョン・オーツ。
今なら、ベスト盤なら持っていてもいいかなとちょっと思ったりする。
それとは別に、ジャナ・アレンのヴォーカルレコードが存在するのであれば、それを聞いてみたいと思ったりするのだった。

Song to Soul(BS-TBS)番組HP

◇父のレコード2015年02月23日 01時47分14秒

父のレコード

父のレコード(一部)

父が仕事を辞めることになり、引退後に普段家で何をするかが課題になっていたのだが、昔好きだったジャズなどを楽しみたいらしいことが判り、微力ながらミニコンポをプレゼントした。
もっと良いシステムを購入してあげたかったが、それまで父が聞いていたのは、ラジカセのカセがなくなったようなものだったので、まず手軽に聞ける音をとそこそこのコンポを購入したのだ。
それに伴い、私が上京した際に勝手に持ってきたレコードが十数枚ほどあり、それをCD化して家で聞けるようにしようということで、我が家は現在その作業に追われている。

父が昭和45年前後にステレオを購入した時のことを、私は今でもはっきり覚えている。
昭和45年は妹が産まれた年で、私にとっては家にステレオと妹がやってくるという、大きな変化があったからだ。
何もなかった座敷に、大きなビクターのステレオセットが置かれたことは、もしかしたら妹が家に来た以上に嬉しかったかもしれない。
そのステレオセットは、小学5年生以降は私の部屋で占有され、私が上京するまで私が独占していた。

我が家にステレオセットが来るまでは、従姉妹の家にポータブルのレコードプレイヤーがあり、そこでレコードを聴かせてもらっていた。
歳近い従姉妹達は、自由に自分達が所有するレコードをかけては楽しんでいた。
当時流行していた平田隆夫とセルスターズの「ハチのムサシは死んだのさ」とか、フィンガー5のレコードなどがあり、従姉妹達は得意になってかけていたのを羨ましく思っていた。
家に来たステレオはポータブルの子供用のプレイヤーとは違い、音もしっかりしていたし、レコードが終わったら針が自動で元に戻るというのがかっこよく思えた。
しかし当時、、そのステレオを私が触らせてもらえることはなかったし、最初の頃は父が子供用のレコードを購入してくれることもなかった。
その頃は、父は1人でヘッドフォンをかけてレコードを聴いたり、ギターを弾いていたのを覚えている。


鈴懸の径 - 鈴木章治 1980

コンポをプレゼントする際に、どんな音楽を聞くのか父と話したときは、原信夫と鈴木章治、そしてカウント・ベイシーという名前が出てきた。
カウント・ベイシーはかろうじて知っているが、原信夫も鈴木章治も私は知らなかった。
ジャズは何度かライブなどにも足を運んだが、馴染めるものと馴染めないものの差が大きく、私にはあまり得意な分野ではない。
詳しく聞いてみると、日本のビッグバンド、デキシーランドジャズ、スゥイングジャズなどのいわゆるスタンダードなジャズが好きだという。
若い頃、渡辺貞夫と日野皓正のライブを母と観にいったという話を、子供の頃にさんざん聞かされたのだが、渡辺貞夫も彼のオリジナル曲は好きではなく、スタンダードナンバーを演奏する渡辺貞夫が好きらしい。

しかし、父の持っていたレコードでそのようなものはなく、ジャズのトランペット演奏の名曲集が一枚あるだけ。あとはギターの教則レコードと映画音楽のレコードがあったので、たぶんそのレコードでギターの練習をしていたのだろう(映画音楽のレコードには、ギター教則曲の王道「禁じられた遊び」が収録されている)。
そして、父のレコードのほとんどが、レコード会社が配布していたシングルの見本盤LPだった(いわゆる白ラベルというやつ)。

見本盤のLPは、そのレコード会社がその月の配布するシングル曲がランダムに収録されているもので、曲によっては途中で途切れてしまっているものもある。
昔は、レコード店でお客に配布していたらしいのだが、ほとんどレコードを持っていない父が、なぜこのように見本盤ばかり持っているのかは不明である。
レコード会社はフィリップス、ビクター、RCAレコードの三社。ほとんどが昭和45年の秋頃のものだ。
もしかしたらステレオを購入した際に、おまけにたくさんつけてもらったのかもしれないが、詳細は父に聞かないとわからない。

レコードの内容はというと、精力的にモータウン系の曲ばかり入っているものもあれば、歌謡曲とジャズがまざって収録されているものもあるし、ジャズとクラシックが収録されているものもある。
ビートルズなどの人気曲をイージーリスニングにアレンジしたものも多く、ポール・モーリアなどもあることから、当時のイージー・リスニング人気がうかがえる。

歌謡曲ばかり入っているものは、今でも名前を聞く人もいれば、これはいったい誰だろうとググっても出てこないような人まで様々。
元歌がはっきりと確認できるようなパクり曲も多く、それはそれで当時の時代背景が垣間見れて面白い。

私が高校時代によく聞いていたのは、ビクター・ワールド・グループの昭和45年9月新譜シングル見本盤で、レア・アースの「ゲット・レディ」とジャクソン・ファイブの「ABC」が入っている。
曲目一覧には曲の紹介文が簡単に書かれている。


rare earth - get ready 1973

ゲット・レディGet Ready
レア・アース
レーベル:レア・アース
時間 2:46 モータウンのマイナー・レーベル“レア・アース”と同名アーティストが贈るビッグ・ヒット!!原曲は21分30秒の大作。テンプテーションズのヒット曲。
6月27日付C.B誌 2位



Jackson 5 - ABC

ABC
ジャクソン・ファイブ
レーベル:モータウン
時間 3:11
リクエスト殺到!!
ジャクソン5もアメリカでは悲鳴をあげています。
若者のハートに鋭く突き刺さった“ABC”

このレコードには、ザ・ドアーズの「ランド・ホー」スティービー・ワンダーの「涙をとどけて」などが収録されている、なかなかレアなレコードだ。
私が高校を出る頃までは、一昔前の音源を聞くことのできる手段が少なかった。
レコードはよほどの人気曲でない限りは、すぐに店頭から見なくなってしまう。
そういう意味で、これらの見本盤は、私にとっては宝の山だった。

ちょっと検索してみると、1970年当時大学の初任給が25000円~30000円という時代に、LPは一枚2000円前後していたらしい。
EPは1975年頃に私が最初に買ったときには、500円か600円だった。
当時の父の給料がどのくらいだったかは知る由もないが、妹も生まれたばかりで、余裕がない時にステレオなど購入したわけで、レコードを買う余裕まではなかったのかもしれない。
しかし、これらの節操のない選曲にあふれた見本盤を、父がどこまで聴いていたのかは定かではない。

それにしても、昔の曲というのは、ほとんどの有名曲が聞いたことのある曲ばかりだ。
良い曲はイージーリスニング化され、スーパーや喫茶店のBGMなどでもかかっていたので、嫌でも耳にしていた曲も多い。
映画音楽でも流行歌でも、歌詞は知らなくても口ずさむくらいはできる。
音楽が人や生活に大きな影響を与えていた時代を痛感してしまう。

よく考えてみると、1990年代までは当時の音楽を聞いて「ああ、この頃はどうだったか」と思い出せるものも多いが、2000年に入ったあたりからそういう記憶のある曲は少なくなった。
好きで聞かなくても耳に入って覚えている曲というのは、ほとんどなくなったような気がする。
もちろん、人の記憶が昔のことの方が鮮明だったりするせいもあるのだろうが、21世紀に入って音楽にしてもファッションにしても、文化的な流行のあり方が大きく変わったような気がする。
私達が恐れていた20世紀の世紀末に失ったものは、実はものすごく大きなものだったのかもしれないなどと、勝手なことを思ったりしつつ、今日もイージーリスニングな夜はふけていくのだった。

◇Back in the Room / Bruce Foxton (ex The Jam)2014年12月01日 20時06分18秒


Back in the Room / Bruce Foxton


Number Six / Bruce Foxton

先日、The Jamの他のメンバーはどうしてるのだろうとふと思って調べてみた。
The Jam解散発表時に他のメンバーは寝耳に水だったり、The Jam時代のファンデータを共有させてもらえなかったり、他のメンバーが暴露本を出したり、版権に関して訴訟を起したりといろいろと噂はあったし、挙句再結成に首を縦にふらないPaul Wellerに対して、残りの2人でThe Jamの曲を演奏するバンドを結成したり、泥沼の様相を呈しているように見えていた。
しかし、The JamのマネジメントをしていたPaul Wellerのお父さんが亡くなったのをきっかけに、ベースのBruce Foxtonとは和解し、お互いのアルバムにゲスト参加するようになったニュースが聞こえてきて、古いThe Jamのファンとしては、非常に嬉しく思ったりしたのだ。
再結成の可能性はないとしても、それまで頑ななまでにThe Jam時代の楽曲やメンバーを否定するようにさえ見えていたPaul Wellerが、少なくとも自身のキャリアの原点を受け入れて、私たちの前に披露してくれたことが嬉しかったからだ。


Paul Weller and Bruce Foxton

The Jamの魅力は、スリーピースバンドに一番大事なバランスだったと思う。
少なくとも最高傑作といわれる3枚目のAll Mod Consまでは、そのバランスは非常に気持ちの良いものだった。
もちろん、Paul Wellerのエネルギッシュなパフォーマンスや、楽曲が魅力であることは言うまでもないのだが、当時のPaul Wellerはお世辞にもギターも歌も上手ではなかった。
パンクムーブメントの中、パンクの形式はとっていなくても、彼等がパンクバンドに括られた理由の一つは、歌とギターが下手というのがあったと思う。
ただ、他のパンクバンドよりはずいぶんとマシだったし、何より演奏によってその世界観を聞くものと共有できる楽曲は、他のパンクバンドには感じられないものだった。
勢いだけで突っ走っていたPaulWellerのギターと歌を全面的にサポートし、楽曲に世界観を与えているのは、Bruce Foxtonのベースだと感じていた。

デビュー当時はThe Whoからの影響を認めていたPaul Wellerだったが、彼が少しづつファンクに傾倒していくに従って、The Whoからの影響を語らなくなっていった。
でも、私は彼等から一番The Whoを感じていたし、少なくとも4枚目のSetting Sonsまではそれを感じていた。
5枚目のSound Affectsや、シングルAbsolute Beginners以降のロックからどんどんファンクよりになる音楽傾向の中で、Paul Wellerだけがどんどんと突っ走っていって、他の2人がおいてけぼりになっているような感覚と不安は、1982年の秋にPaul Wellerの独断による解散表明によって現実のものとなった。
その後のThe Style CouncilでThe Jamに存在していた世界観の共有というものが非常に希薄になってきて、楽曲のストーリー性よりもスタイルだったり、政治的なメッセージだったりが強調されるようになってからは、「それでもPaul Wellerがいい」と思っていても、どこか違和感をずっと感じていたのだ。

そして残りの2人BruceとRickはというと、The Jamの幻影にずっと取り付かれているようなニュースばかり聞こえてくる。
RickはThe GiftというThe Jamの楽曲を演奏するバンドを結成し、2007年にThe Jam30周年の記念にもPaul Wellerは再結成に首を縦にふらなかったものだから、結局Bruceも参加してFrom The Jamというバンドでツアーに出て、そのまま活動を続けたらしい。
Bruce Foxtonは、その他にもBig CountryのドラムとPete Townshendの弟のSimon TownshendとでCasbah clubというバンドを組んでいたりする。


Down In The Tube Station At Midnight - From The Jam (Official Video)

前置きがものすごく長くなったが、このアルバムは、Rickが結成したThe Jamの幻影から逃れられない残りのメンバーから、Rickが抜けてしまってBruceだけ残って作ったアルバムとのこと。
メンバーは紆余曲折の末、もともとThe Gift時代から参加していたギター&ヴォーカルのRussell HastingsとBruceの2人だけだ。

最初にFrom The Jamの動画を見たとき、まるでThe Jamがそのまま歳をとってステージにいるような感覚だった。
The Jamを解散するときに、メディアに対して「オヤジになってまでパンクをやっているなんて馬鹿げている」と言っていたそのままの姿がそこにある。
ギター&ヴォーカルのRussell Hastingsという人も、Paul Wellerの声に似ていなくもない。発音というか訛りもなんとなく似ているような気がするし、歌い方はそっくりだと思う。
外見も、サングラスをしているところを薄目で見れば、Paul Wellerに思えなくもないのだ。
ギターは少し違うような気もするが、それでもThe Jamが歳をとってそのままステージにいると言われれば、これがその姿なのだろうと思えてならなかった。

これは、The Jamが好きで仕方がないオヤジが演っているカヴァーバンドとは意味が違う。
それだったらほほえましく薄目で見て、その熱意に共感もできるかもれない。
あるインタヴューでPaul Wellerが、「音楽が好きで音楽で食べていこうと思うなら、自分の音楽をやればいい。そうでないのなら、別な職業に就くべきだ」と言っていた。
私はPaul Wellerの意見に賛成する。こういう形でThe Jamを見たくなかったというのが正直なところだった。
ただ、一連の動画を見て気づいたのは、私がPaul WellerのThe Style Councilで失われたと思っていた楽曲の世界観の共有というものが、そこには存在しているように思えた。
私の求めているものがそこにあるなら、一度きちんと聞いてみようじゃないか、というのが、このアルバムを購入した理由だ。
発売は2012年だったようなので、ずいぶんと遅れて手にしたわけだ。

このアルバムはBruce Foxton名義になっているが、From The JamのメンバーであるRussell Hastingsとの楽曲が収められている。
冒頭にある2曲目の「Number Six」と4曲目の「Window Shopping」、10曲目の「Coming on Strong」にはPaul Wellerも参加しているとのこと。

曲は、Setting Sonsの頃のThe Jamっぽいものが多いが、「Don't Waste My Time」のような後期のThe Jamのようなファンクっぽい曲もある。
一枚聞いて思った感想は、「The Jamが今でも活動していたらこうだったのかな」だった。
実質このアルバムはそういうものだろうし、もしPaul Wellerが抜けてもそのままバンドが存続していたら、こんなだったかもしれない。
ただ、Bruce Foxtonの中にあるThe Jamは、本当にぬぐってもぬぐえない幻影のようにそこに存在しているのかもしれないなと、私もBruce Foxtonの見ているThe Jamの幻影を一緒に見ているような気持ちになった。

でも、Echo & the Bunnymenのように、フロントマンが戻ってもその世界観が変わってしまったバンドもあるし、実際はどうだったのだろう。
少なくとも、The Jamの再結成にはまったく興味のないPaul Wellerでは確認のしようがないのだろうけれど。

From The Jamの活動は、Rickが抜けて実質Bruce FoxtonとRussell Hastingsのバンドになったのだから、このままずっとBruce Foxton名義でやるか、別なバンド名で再出発すればいいのにと思う。
Bruce Foxton自身がThe Jamの幻影を背負っているとしても、それはすでにThe JamではなくBruce Foxton個人のものなのだから。

Bruce Foxtonは、現在ニューアルバムを作成するために基金を募っている
出資金に対して様々な特典が用意されているようだ。
彼には心からのエールを送りたいと、真剣に思ってしまった。

From The Jam/ブルース・フォクストン 日本語ページ@facebook
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◇【BS-TBS Song to Soul】サイモンとガーファンクルに見る、テツ&トモとの共通性2014年10月23日 01時09分56秒

BS-TBSの水曜の夜に、Song to Soulという番組があり、好きで録画して見ている。
歴代の名曲のエピソードを、その曲に携わった人などのインタヴューを交えて紹介していくという番組だ。
今日の夜に紹介されたのは、サイモンとガーファンクルの「Sounds Of Silence」だった。

私が音楽を自分で聴くようになった頃、サイモンとガーファンクルはすでに解散して過去の人だった。
日本でもフォークからニューミュージックに徐々に変わり始めた時代。
フォークソングはすでに過去のものとして扱われていたが、映画「卒業」のサントラなどの影響か、サイモンとガーファンクルの音楽は70年代半ば当時でもラジオで聴くことが多かった。
日本国内のフォークソングはすでにニューミュージックと姿を変えていたし、60年代に流行った政治的なメッセージを含んだフォークは、70年代半ばには特集でもしない限りは耳にすることも多くなかった。
そういう意味では、あの時代の中でもサイモン&ガーファンクルは特別な存在であったのだろうと思う。

Song to Soulの中では、三つのパターンの「Sounds Of Silence」が紹介されていた。
ファーストアルバム『水曜の朝、午前3時』に収録されているアコースティックバージョン、その後プロデュースしなおされ「卒業」でも使用されたエレキギターバージョン、そして彼等がデュオで売れる前に収録されたポール・サイモンのソロバージョン。


The Sound of Silence (Original Version from 1964)
アコースティックバージョン



Simon & Garfunkel - Sounds Of Silence (Lyrics)
エレキギターバージョン



Paul Simon - The Sounds of Silence

私が一番最初にラジオで聴いたのは、『水曜の朝、午前3時』という特徴的なアルバム名からセレクトされた、アコースティックバージョンだったように記憶している。
ラジオのDJがわざわざこのアルバム名を紹介していて、それが記憶にあるからだ。
2人のハーモニーとちょっと悲しげな旋律がとても美しいと、小学生の私は思った。
しかし、その後で聞いたエレキギターバージョンは、まったく違和感なく聞いていて、この番組で詳細を知るまでは二つは同じものだと思っていた。
1981年のセントラル・パークでの再結成コンサートのときには、アコースティックバージョンで演奏されたが、それはコンサートのときのアレンジの違いだろうくらいにしか思っていなかったのだ。

比較して聞けば、ドラムなどが挿入する部分などで曲はドラマティックに盛り上がりをみせるのだが、アコースティックバージョンでもこの部分はギターの音が強調して演奏されているので、ここは演奏で盛り上がるところという認識で一致していた。
もちろん、好きな曲ではあったがそこまで掘り下げて聴くこともなかったし、異なるバージョンを比較することもなかったので、それが違うものであったことに触れずにここまできてしまったのだろう。

番組の中で、坂崎幸之助がこの三つのバージョンについての想いを語っていたが(この番組で直接関係のない人が出演することは珍しいように思うのだが、今回は日本人のコメンテーターが多数出演していた)、彼がイチオシしていたポールのソロバージョンは、実は私はあまり好きではない。
坂崎幸之助自身も指摘していたが、ポール・サイモンの声は単独で聴くと非常にもっさりしているように思う。
確かに歌詞の意味を最大限に伝えようとするならば、美しいハーモニーは逆にメッセージを消してしまう場合もあるのだろう。
でも、このバージョンのポール・サイモンの歌い方は、ボブ・ディランを非常に意識していて、サイモンとガーファンクルで歌う彼のパートとも違うためか(ガーファンクルの主旋律を歌っているので、当り前なのだが)、何か違和感の方が先にきてしまう。
もっと聴きこなしていけば違うのかもしれないが、最初に聞いたインパクトというのがやはり一番強烈なのかもしれないと、説明を聞きながら思ったのだ。

年齢的にはサイモンとガーファンクルはリアルタイムではないが、1981年の再結成のときの盛り上がりは克明に記憶に残っている。
解散時の頃には2人に大きな確執が生まれてしまい、再結成自体不可能だろうと当時あちこちの雑誌に書かれていたのは、記憶に残っている。
そんなメディアの推測もふっとばされるほど、再結成コンサートはすばらしいものだったと雑誌でもラジオでも話題になっていた。

当時、中学生だったウブでおボコな私は、こんなに美しいハーモニーを生み出す二人が、なぜ仲たがいしてしまうのかと思った。
ポール・サイモンのソロの「Sounds Of Silence」を聴いたのもこの頃だったし、アート・ガーファンクルのソロの歌を聞いたのもこの頃だが、ソロになった2人の歌を美しいとは全然思えなかったし、ある意味凡庸でまったく心に届かなかった。
ポール・サイモンの曲は好きだけど声がメインになるのはやはりちょっとと思うし、ガーファンクルは普通の歌だと普通に歌のうまい人になってしまう。美しい歌声なのはそうなのだけど、やっぱり何か足りなく思うのはなぜなのか。
まして、80年代に入ってからのポール・サイモンの曲は、当時の音楽シーンの流れから見るとやはり凡庸に見えてしまった。
リアルタイムでない私にとっては、一番輝いていた当時の音は手にとれても、その後の2人には触手が動かなかった。
天使の歌声と言われるアート・ガーファンクルの歌声に沿うように、聞こえてくる低音のポール・サイモンの歌声。
それは、光と影のようにどちらがどちらというものではなく、二つ揃って初めて一つになるものなのだろうと、その頃から漠然と思っていた。

Song to Soulの番組の途中で、アート・ガーファンクルがソロで来日するというCMが流れていた。
ポール・サイモンはというと、ちょっと前にゴシップ記事で名前を見かけた程度。
CMを見たとき、この2人ってテツ&トモみたいだなとちょっと思った。
ソロも評価している人には怒られるかもしれないが、やっぱり2人揃って初めて絵になり、アートになるんじゃないかと思ってしまうのだ。
テツ&トモのマンネリネタだって、テレビで見なくなっても営業では非常に絶賛されているらしい
でも、この2人がもしピンで地方に来ても、誰だかすぐにわかる人はいるのだろうか。
また、どちらか1人で2人のネタをやって成り立つのだうろか。

ポール・サイモンやアート・ガーファンクルは、ソロでも成功しているのだからいささか乱暴な感想なのだが、やっぱり2人揃わないとダメなんだよってところでは、非常に共通点のあるコンビなのではないかと、番組を観て思ったのだった。

(最後にテツ&トモを貼ろうと思ったけど、さすがにサイモンとガーファンクルとそこまでいっしょにするのは心情的にイヤだったので、自粛しました。)

◇2014年Godzillaゴジラを観る【ネタバレ注意】2014年07月30日 04時19分30秒

新作のゴジラを観て来た。
長文な上にネタバレを含む可能性があるので、これから映画を観る人はこの記事を読まないでほしい。
だったら書くなと言われそうだが、すでに観た人とどこまで感想を共有できるのだろうというのも、気になるところなので、その点ご容赦願いたい。



「GODZILLA ゴジラ」予告3

ゴジラ(2014年版)公式HP
http://www.godzilla-movie.jp/

正直に言うと、私がゴジラをまともに観たのはこれが初めてだった。
初代ゴジラやCSやNHKで放送されていた旧作のゴジラについて、なつかしさも相まって録画して観たりした結果、今回のゴジラは3Dだし一つ観てみようと軽い気持ちで観たのだった。
ゴジラの豆知識や、今回のゴジラについて制作サイドが意図したことなどは、監督インタビューなどを見て少しは知っていたが、事前に誰かのブログを見たり公式HPなどには触れず、ストーリー自体はまったく白紙の状態だった。

観たのは字幕IMAX-3Dのゴジラ。
率直な感想は、『容赦ないな』だった。
そしてこの映画は怪獣映画である以前に、ドキュメンタリー映画であり、戦争映画であり、そしてウエスタン映画であると思った。

3D映画自体それほどたくさん観ているわけではないが、この立体感はかなりの臨場感を感じる。
痛烈に感じたのは、CGは容赦ないということ。
日本の特撮はやはり偉大だと思えた。
特撮であるということは、頭のどこかで傍観者になれる。
自分がそこにいるようなリアルな感覚と、でもどこか作り物であるという冷静さを残す余地が観ている側に用意されているような気がするのだ。
しかし、CGはまるでそこにあるような、自分の目の前で起きているかのような錯覚を起す。
それが3Dであればなおさらだった。


最初の富士山ろくの原発(これは浜岡原発だろうか)、オアフ島、ラスベガス、サンフランシスコなどの町が破壊される。
地面が大きく揺れて、津波が起き、電力が失われる。
最初からゴジラが登場するまでがけっこう長いのだが、ここまでの間に東日本大震災を彷彿とさせるシーンがこれでもかと出てくる。
これらの映像がかなりきつかった。
鳥肌がたち、涙がとめどなくあふれてきて、途中何度も叫びそうになった。
臨場感のあるサウンドと大画面の3D画像はそれほどリアリティがあったのだ。
“まるで自分がそこにいるような感覚”
でも、こういう画面でそのような臨場感を感じたいとは、私はまだ思わなかった。
まだ早いよ、まだ観たくない。震災の後の、あの時の何もできない自分自身がまざまざと蘇ってきて、映画の臨場感とは別なところで涙が止まらなかった。

事前に観た監督のインタビューというのが、これまでのゴジラに対するインスパイアと、この物語が東日本大震災をある程度意識して作られたということだった。
私が観たインタビューでは、初代のゴジラが作られたきっかけが第五福竜丸のビキニ環礁被爆事件に端を発したものであることで、東日本大震災をある程度意識しなければならないだろう程度のものだった。

しかし、この物語はそのまま東日本大震災そのものであると感じた。
ゴジラと相反し、こいつが近づくと電波を妨害し停電が起きるというムートーという怪獣の名前も、東日本大震災当時東電の副社長だった武藤栄氏のことだろうと思った。
最初のシーンは謎の地震によって原発が破壊されるシーンだし、オアフ島での津波のシーン、前半のほとんどは東日本大震災をまんま意識したと思えるところばかりだ。
その他にも、1950年代の度重なる水爆実験の真相、広島の原爆投下の時間に停まった時計など、日本の原子力に関係する要素がてんこ盛りである。

初代のゴジラは、第五福竜丸の水爆実験被爆を受けて、日本人が作った映画だ。
日本人が自身の中で放射能の利用を考えるというテーマが隠されていた。
それを外国人が見て、日本人と同じ感覚を受けていたのだろうかというのは、いささか疑問に思うところだ。
日本人の全てがあの震災を未だに意識して生活しているとは思わないが、少なくとも多くの人が忘れたくても忘れられずにいると思う。
作った人が外国人であったとしても、日本に縁の深いゴジラという映画の中で、こういうシーンが生々しく再現されるのは、未だ少し時期尚早なように思う。
しかしそう思うのは、私が被災者でもない傍観者だからなのだろうか。

はっきり日本人の重要な役どころである渡辺謙は、ゴジラなどの生物を極秘に研究するという、芹沢博士の役。
初代ゴジラの芹沢博士はゴジラ退治に大きな役割を担い、人民の命を守るために自らの命を呈してゴジラを殺した立役者だ。
しかし、渡辺謙の芹沢博士は、なんとなく傍観者である。
芹沢博士は何もしない。しようと思ってもなんとなくそれが効力を発揮しているようには見えない。
彼が役に立っているのは、ムートーとゴジラの説明をするところだけ。あとは、ただただ興味深げにムートーとゴジラが闘う様を観ているだけなのだ。
確かにこの物語には傍観者が必要であると思えるのだが、初代ゴジラの重要な役どころである芹沢の名前を持った科学者が、その役割を担う理由はどこにもないと思ってしまった。
それとも、芹沢博士は今の日本人の姿であり、被災者以外の日本人はすでに傍観者と化しているという、東日本大震災に対する日本へのメッセージなのだろうかと勘ぐってみたりもする。


大きな感想としてはこんな感じだが、その他こまごました感想は以下の通り。

今回の映画のムートーという怪獣は虫のようないでたちで、ゴジラと同じ放射能怪獣ということで、ゴジラよりもこちらの方が主なんじゃないかと思うような立ち居地だ。
これが、ギーガーのエイリアンのできそこないのような怪獣。
カマドウマのリアルな着ぐるみのような格好で、その怪獣が触れたところは、例のごとくスライムのようなベタベタが張り付いていたりして、口を開けた顔などはまるでエイリアンのよう。

それ以上にゴジラは、首が短すぎだし、目が小さすぎだし、腹が出すぎだし、なんとなく中年のゴジラという感じ。筋肉質な相撲取りにも見える。
ゴジラの咆哮も、初代の雰囲気を壊さないように工夫をしたというのは理解できたが、なんだかちょっと違うようにも思えたり。
違うように思えたのは、ゴジラが登場するところで伊福部昭の例の音楽ではなかったせいもあるのかも。
あの曲は、本当にゴジラとセットでインプットされていて、あの音楽でないとなんとなくゴジラでないようにさえ思えてしまう。
何より一番違うと思ったのは、ムートーにトドメを刺すシーン。
あの行動は人間的な意図を持たなければ絶対にしない行動だと思う。
けだものであるゴジラが、なぜあのような行動をするのか非常に疑問に思った。

そして、放射能を食っている怪獣相手に、1954年の水爆より威力が大きいと自慢する放射能爆弾で対向しようとする米軍。
サンフランシスコのこんな近くで放射能爆弾を爆発させたら、二次被害の方がでかいのではないかと突っ込みいれたくなる。
市民を守るためといいつつ、実は兵器自慢なのか。ああ、やっぱりアメリカってこういう国なのねと、ステレオタイプに感じてみたりする。
予告にもあるが、ゴジラと空母艦隊が並走するシーンも、なんでこんなでかい怪獣にこんなに近づいて船走らせてるんだろうか、という疑問が。
こんなに近づけば当然こうなるだろうというのはお約束だ。

何より強烈に感じたのは、ゴジラの去り方がウエスタンさながら「礼はいらねぇぜ」の世界である。
それにしても、ゴジラはなんのために出できたのか。大きく町は破壊されたが、ゴジラがいなければこの事件は解決を見なかった。
悪党がはびこる町にふらっと現れたヒーローが、多少荒っぽく町は壊れたりはするけれど、悪党と戦い去っていく。
用心棒の侍っぽい解釈もしようと思えばできるが、侍はこんなに町を壊さないので、やはりウエスタンなのだろうと思う。
ただ、ゴジラの攻撃のパターンは、ウルトラマン的であり、水戸黄門のようでもあると思ってしまった。

嬉しかったのは、久しぶりにお姿を拝見したジュリエット・ビノシュ。
40代くらいの人なら、「ポンヌフの恋人」のヒロインと言えば判るだろうか。
「汚れた血」からのファンとしては、年老いても変わらぬ美貌。あの透明感はなくなってしまったけれど、芯の強い女性を演じられるようになったのだなあとシミジミする。
ただ、彼女が原発のメルトダウンで死んでしまうことで、やはり福島の原子力発電所に最初に関わった放射能関係国がフランスであり、原子力エネルギーを推進しているのもフランスであるということで、フランス出身の女優が死んだのだろうかと、そっちの方に考えがいってしまったのが悔しい。


東日本大震災を忘れないといいつつ被災地に対しては傍観者である多くの日本人と、日本に対して傍観者であり続ける多くの外国諸国と日本にいない人々。
そして、怪獣の戦いを興味深く眺めていた、何もしない芹沢博士。
この映画は、傍観者であることのさまざまな姿をたくさん感じた。

◇Buzzcocksに出会う2013年12月26日 05時13分31秒


Buzzcocks - I Can't Control Myself

ネットで音楽を探すようになってから、何故このバンドに今まで出会わなかったのだろうと思うのがある。
30年前に出会っていたら確実にはまっていただろう。
Buzzcocksもそういうバンドのひとつだ。

1976年デビュー。1981年に一度解散しているらしいが、1989年に再結成して未だ現役である。
パンクがまだ浸透していなかった時代に、マンチェスターにSexPistolsを招聘してマンチェスターにパンクを根付かせ、マッドチェスターの礎となったバンドだ。

1980年というと、私はまだまだ日本の音楽雑誌に普通に載っているそこそこメジャーなバンドしか知らず、マンチェスターのインディレーベル出身のバンドの音が私まで届く事はなかった。
ラジオなどで紹介されるのも限界があったし、当時のイギリスのヒットチャートを追いかけるのが精一杯な時期だった。

1989年はすでに上京してきており、お金がも時間もなかったので十分に音楽を追いかけることができていなかった時期でもある。
聞いていても、60年代70年代を遡って掘り下げるか、新しく出てきたハウスなどのクラブミュージックに興味をそそられていた。
Buzzcocksは、そんなこんなで私の音楽の谷間にすっぽりとはまって、出会うことなく過ごしてきたバンドらしい。

今から聞くと、音の雰囲気は初期のThe Jamとほぼ同じだし、映像を見ないで聞いていたらボーカルが違うくらいの違和感しかない。
The Jamと決定的に違うのは、ボーカルがド下手なのと、演奏がド下手なのと、いい男がいないことくらいだ。

Buzzcocksの名前くらいは知っていたが、その音が私に届いたのは30年経ってからのことである。
当時、超絶面食いだった私も、今なら冷静にその音を聞くことができるが、やっぱり30年前に聞きたかったと思ってしまう。

こういうバンドがあるから、新しく出てきた昔のニセモノに興味を持てないのだろうか。
当時のザラザラした雰囲気を持つバンドの方が、若くてツルツルしたバンドよりもずっと魅力的に感じるのは、やはりそういう時代を生きてきたせいなのだろうか。

まだまだ発掘すべき音楽は山のように存在すると、それはそれで楽しみなのだが。

◇The Boomtown Ratsにはまる2013年12月26日 04時48分20秒


The Boomtown Rats - Someone's Looking At You

最近、やたらとThe Boomtown Ratsが聞きたくなる。
好きなバンドのレコードは、CDにおおかた買い換えたが、The Boomtown Ratsは何故か一枚もCDを購入してない。
ほしいと思った当時にCD化されていなかったせいもあるのだが、いまや初期のCDは絶版状態らしい。

The Boomtown Ratsというとボブ・ゲルドフであるが、The Boomtown Ratsのボブ・ゲルドフというよりは、バンドエイドのボブ・ゲルドフといった方が通りが良い。
彼が1984年にエチオピアの救済チャリティを始めるまでは、ほぼバンドは好調なように見えたが、実際は1979年のシングル「哀愁のマンデイ(I Don't Like Mondays)」以降はパッとせず、1980年「Mondo Bongo」以降はほとんど話題にのぼらなくなっていった。
上の曲は「哀愁のマンデイ」の後に発表された曲で、私は「哀愁のマンデイ」よりこちらの曲の方が好きだった。

デビューから三枚目のアルバム「The Fine Art of Surfacing (邦題『哀愁のマンデイ』)」までは、ビートの利いたドラマチックな曲調だったのが、4枚目の「Mondo Bongo」でファンカラティーナやスカを取り入れたアルバムを発表し、見事にすべったのだ。
シングルカットされた「Banana Republic」はそこそこ話題にはなったが、期待はずれの路線変更にひどくがっかりした記憶がある。
そしてそれは私だけではなかったらしく、彼等の話題はそれ以降聞かなくなっていった。
ちょうど時代もパンク/ニューウェイヴからさらに細分化していった時期でもあり、それまでもコアなファンのいた特色のある小さなレーベルが時代の主流に変わりつつあった時期だった。

1984年のバンドエイドは久々にボブ・ゲルドフの話題を聞いたのだが、バンドとしてはほとんど話題にはならず、数年後に忌野清志郎のバンドでキーボードのジョニー・フィンガーズを見かけたのがボブ以外のバンドメンバーの話題だった。

彼等は1980年に初来日を果たしているが、私の記憶違いでなければその演奏はNHKでテレビ放映された。
当時の音楽雑誌の記事で、日本の学ランがたいそうお気に召したようで、ステージでもメンバー全員が学ラン姿で演奏しており、ジョニーは普段からパジャマにソフトハットといういでたちだったため、その時はパジャマの上に学ランを着ていたのが印象的だった。

The Boomtown Ratsの曲は、当時を色濃く反映している。
パンクムーブメントからニューウェイヴへ時代は急速に変わっていくのだが、その過渡期のイメージがThe Boomtown Ratsなのだ。
派手でいい加減で雑だけど、キャッチーでキッチュなメロディライン。
白黒の市松模様や、肩パッドの入ったTシャツ、ソフトハット...
今彼等の曲をYouTubeなどで聞くと、ものすごい勢いで動いていく当時の時代を目で見ているような感覚に陥る。
バブル前で、まだまだ先行きはあやしいけれど、確実に何かが終結しつつある予感。
この時代が実は一番良い時代だったのかもしれないと、漠然と思ってしまう。

細くてひょろひょろの手足を振り回して、ステージを所狭しと駆け回り、前かがみで観客を煽る姿は、それまでのロックスターのイメージとは確実に異なっていた。
ギョロギョロした目を見開いて歌う姿は、ジョン・ロットンや同じアイルランド出身のU2のボノほどのカリスマ性は感じられなかったし、バンドメンバーの演奏も歌もお世辞にも上手だとはいえなかったが、何かひきつけられるものを感じていた。

彼等は最近また活動を開始しているらしい。
最近のステージの映像を観たが、思ったほど劣化していない。
ただ、当時のステージから転げ落ちそうな勢いはないし、過去の栄光をそのまま引きずったかつてのロックスターの姿でしかないのが悲しい。
でも、昔の彼等の映像は、今から見ても勢いあまってどこかに連れて行かれるような印象を未だに持っている。
そんな感覚にひかれてまた彼等の曲が聞きたくなっているのか、それともただのノスタルジーか。
たぶん、その両方とそれ以上なのかもしれないと思ったりする。

◇訃報 - ムーンライダーズ かしぶち哲郎逝く2013年12月22日 15時57分27秒


MOONRIDERS - スカーレットの誓い

ムーンライダーズのドラマーで作詞作曲も手がけていた、かしぶち哲郎氏が、2013年12月17日に食道癌で逝去されました。

moonriders division「訃報です(2013/12/20 12:55)

個人的には、ムーンライダーズよりもはちみつぱいの方が好きだった。
それでもムーンライダーズはリアルタイムだったし、思い出がいっぱいある。

劇団白樺時代には、仲間のほとんどがライダーズファンだった。
夜中にドライブに行って、車の中で「スカンピン」や「彼女について知っている二、三の事柄」を合唱したりした。

ちょうどマニアマニエラが発売された当時。曲を作る人で雰囲気の異なるライダーズの楽曲の中でも、「スカーレットの誓い」は大好きだった。

パソコン通信をしていた頃も、参加していたフォーラムではみんながムーンライダーズが好きだった。
オフ会と称して、みんなで最後の晩餐ライブを観にいった。

かしぶちさん、たくさんの思い出をありがとう。
ご冥福をお祈りします。

◇再考 Who's Next - The Who2013年09月17日 15時04分59秒

Who's Next / The Who (1971)四重人格(Quadrophenia) / The Who (1973)


ここ2年ばかり、The Whoばかり聞いている。
The Whoを聞くようになったのは、もともとThe Jamからの後追いである。
The Jamは今でも大好きだが、最近よく聞くのはThe Jamが影響されたといわれる音楽の方が多い。
The Whoもその一つだ。

先日The WhoのPete Townshendの著作「Who I am」を読み、改めてThe Whoのアルバムが全部聞きたいと思ったのだが、The Whoの再発物のデジタルリマスターだとか、SHM-CDだとか色々ありすぎてわからなかったりする。
それに、最近の再発物はボーナストラックの方が多かったりして、中にはマニアには垂涎物の楽曲もあったりするのだが、純粋に当時のアルバムをそのまま楽しみたいと思ってなかなかかなわなかったりする(パソコンでデータを落として、オリジナルの楽曲だけ抽出して聴くのがベストか)。

個人的なThe Whoのベストは「四重人格 (Quadrophenia)」だ。
これは1979年公開の映画『さらば青春の光』を田舎の映画館で2年遅れで1981年に観て感化され、毎日のように擦り切れるまで聞き、ジミーと一緒にバイクで崖から落ちるのを何度も繰り返した、人生のベストの一つにあげられるアルバムである。
The Whoのアルバムを最初にきちんと聞いた作品であり、アルバム単位で一つの作品として聴くことの意味を教えてくれたものでもある。
映画のサウンドトラックよりも、こちらの方がより映画のワンシーンワンシーンをイメージすることができ、ヘッドフォンで大音響で聞くとすぐに作品の世界に今でも耽溺することができる、まさに“青春の光”なのだ。

「四重人格 (Quadrophenia)」の次に私が出会ったThe Whoのアルバムは、「四重人格 (Quadrophenia)」の2年前に発表された、「Who's Next」だった。
84年のことだったと記憶する。帯広の小さな中古レコード屋で1500円で購入した。この時、古井戸の「さなえちゃん」のシングルレコードも一緒に購入している。

「Who's Next」を聞くまでは、期待と不安が入り混じっていた。
Keith Moon亡き後のThe Whoはあまりパッとしなくて好きではなく、Keith Moonがいた頃の脂の乗ったThe Whoが聞きたかった。
しかし、当時ロンドンパンク以前のロックはオールドウェイヴと揶揄されており、ニューウェイヴやパンクに慣れた耳にはもったりと重く感じ、その頃はあまり好んで聞くことはなかったからだ。
巷はニューウェイーヴ一色な時代。
私の感覚もニューウェイヴ的だったようで、最初の感想は「古臭い」としか思えなかった。
70年代的な重たいイメージのまま、「Who's Next」は30年間封印されることになってしまった。

「Who's Next」が71年、「四重人格 (Quadrophenia)」は73年なので、時代的にはどちらも同時期であるのだが、「四重人格 (Quadrophenia)」が大好きだったのは、やはり映画の影響が大きかったせいでもあるだろう。
今、The Who全体の楽曲を聴くと、「四重人格 (Quadrophenia)」よりも「Who's Next」の方がThe Whoらしいと感じる。
でも、当時「四重人格 (Quadrophenia)」を毎日聞いていたのに、なぜ「Who's Next」は受け付けなかったのだろう。
「Who's Next」は70年代初頭に実験的作品だったせいか、シンセ音楽が浸透しきった80年代にはダサく映ったのだろうか。
映画作品として企画されたにも関わらず、結局それが実を結ばなかったため、「Tommy」と「四重人格 (Quadrophenia)」の間にあって、ロックオペラ的な観点で観ると中途半端な完成度であることは否めない。
そういう中途半端さが、完成された感のある「四重人格 (Quadrophenia)」は大丈夫で、「Who's Next」はダメという感覚だったのだろうか。
ロックのアルバムとしては秀悦に楽曲が揃っているし、悪くはないと今は思えるのだ。

「Who's Next」をもう一度聴いてみようと思ったのは、数年前のことだ。
『The Kids Are Alright』がDVD化され、「Who's Next」の代表曲「Baba O'Riley」と「無法の世界 (Won't Get Fooled Again)」のライブを見たからだった。
「Baba O'Riley」も「無法の世界 (Won't Get Fooled Again)」も知っていたが、こんな風に演奏されるとは思ってもみなかったのだ。
The Whoはライブパフォーマンスが評価されることが多いせいか、ライブで聴いた曲をレコードで聞くとちょっと印象が違って聞こえることがある。
普通はレコードの曲を聞いてライブでこう表現されるのだなと思うことが多いのだが、The Whoに関してはライブ映像を見てレコードを聴くことが多いのだ。
「Baba O'Riley」と「無法の世界 (Won't Get Fooled Again)」も、「Who's Next」で聴くほうがもっさりして聞こえる。30年前に私が感じたあの感覚だ。
ライブの70年代臭さはカッイイのに、レコードにだけ感じる70年代のチープな感覚。
この差はなんなのだろう。
これは映画よりもオリジナルアルバムを後に聞いた「Tommy」のときにも感じたものだが、「Tommy」はまだ映像的な印象が深い分受け入れられるのだろうか。 ただ70年代に対する80年代的な偏見が薄れている今聞くと、レコードの70年代的なチープさも、これはこれでいいと思ってしまう。

そしてもう一つ気づいたこと。
同じ年代に作られた二つのアルバムだが、「四重人格 (Quadrophenia)」はリアル十代であるのに対し、「Who's Next」はちょっと大人の目線から見た十代なのだ。
「Baba O'Riley」の歌詞にある

Don't cry
Don't raise your eye
It's only teenage wasteland

すでに十代を終えた人間の目から見た十代。
「Who's Next」の大人目線があるからこそ、「四重人格 (Quadrophenia)」の疾走があるのだということ。
十代の「四重人格 (Quadrophenia)」どっぷりのときには判らなかったことが、30年経ってやっと理解できるような、長い謎がひょんなことで解き明かされる感じ。
「Who's Next」を聴きなおしたことで、Pete Townshendの楽曲に対するテーマの連続性を、改めて知る事ができたのは収穫だったと思える。
そして、70年代に対する偏見のない今、十代を疾うに終えた今改めて「Who's Next」をしばらくじっくり聴きなおしたいと思うのであった。



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