◇東京で神田日勝の思い出にひたる ― 2020年06月14日 22時13分52秒
神田日勝回顧展 大地への筆触
去年の今頃は帯広に帰省して、鹿追町にある神田日勝美術館に足を運んでいた。
すでに、今年からはじまる東京ステーションギャラリー、神田日勝美術館、北海道立近代美術館との巡回展が決まっていて、ふだん道立近代美術館にある新聞紙に囲まれた部屋にいる男の「室内風景」や、門外不出の「半身の馬」を一同に会して観る機会を楽しみにしていた。
その間、鹿追の神田日勝美術館では絵がなくなってしまうので、ふだんあまり出てこない絵を観る機会でもあると知って、今年も何度か帰省して足を運ぶ予定にしていた。
しかし、今回の新型コロナ渦のため4月から東京ステーションギャラリーで予定されていたものが延期、緊急非常宣言が解除となった6月はじめから時間を決めた入場制限つきの観覧ができるようになったが、東京では半月だけの会期となった。
今回、東京で神田日勝と対峙するにあたり、個人的には望郷の念が強く出てしまい、前半は涙があふれてとまらなくなってしまった。
今の状況では実家に帰ることもままならず、鹿追と札幌に観に行くことができるのかどうかは、現段階では定かではない。
都市間移動が推奨されていない状況では、帯広でも札幌でも内地からの客を歓迎してくれるとは思えないからだ。
父は絵が好きで、たまに名もない画家の絵をふらっと買って帰ることがあった。
一時期、かつて私の部屋だったところに、4畳半ほどもあるベニヤに描かれた裏寂しい木造の開拓者住宅の絵をおいてあったことがあり、なぜそんなものを購入したのか聞くと、「それはもらったものだ」と父ははっきりと理由をいわなかった。
その絵はいつのまにか姿を消していて、あの絵はどうしたのか聞くと「別な人にゆずった」と答えていたが、あんな絵をほしがる人がいたのだろうかと疑問に思う。
しかし今から思えば、あの絵は初期の神田日勝の絵の雰囲気に似ていなくもなかったような気がする。
自画像/神田日勝[神田日勝美術館]
今から50年くらい前、妹の産まれる少し前のことだ。
駅前から稲田の国道沿いに引っ越したばかりの頃。
国道に面している大きな窓のある家の東側の方から、一人の男性がうちへ訪ねてきた。
玄関は西側にあるのだが、その人は庭からやってきて、ちょうど窓の外を眺めていた子供の私に窓をたたいて開けるよううながし、「とうちゃんはいるか」と聞いてきた。
その人は、鼠色のシャツに黒いズボンに黒い長靴をはいていた。顔は浅黒く日焼けしていて、全体的に黒っぽい印象が少し怖く思えた。
私の家を知る人であれば、私に父のことを「とうちゃん」と聞く人はいない。我が家に「とうちゃん」と呼ばれる人はいないからだ。
父は家の表側にある職場にいて、母はちょうど家にいなかったと思う。
私が「今いない」と答えると、「そうかまた来る」と言ってその人はその場を去ってしまった。
しばらくしてその人は母と一緒に家に来て、庭で二三話していたかと思ったら、家にはあがらずに来た方向に帰っていった。
母に誰が来たのか尋ねると、「絵描きの人だ」と答えた。
この記憶は子供の頃の記憶で、母はまったく覚えていないといい、父に確認しないまま父は亡くなってしまったので今となっては確認のしようもないのだが、私はその時の男の人の顔が神田日勝に似ていたような気がしてならないのだ。
父は蕎麦が好きで、鹿追や新得方面にふらっと蕎麦を食べに行くことがあった。
私が一緒のことはめったになかったが、私が一緒のときは必ず神田日勝の絵を観につれていってくれた。
神田日勝美術館は、今でこそ整備されて綺麗な建物だが、昔は神田日勝のパトロンだった福原氏の美術館の方が見やすいくらいだった。
室内風景/神田日勝[美術手帖]
絶筆となった「半身の馬」もさることながら、私は現在は北海道立近代美術館に所蔵されている、新聞紙でうめつくされた部屋の風景が描かれた「室内風景」の圧倒的な世界が印象に残っている。
どこも見ていないようで、こちらをずっと凝視している男の目が怖かった。
横たわる人形が怖かった。
神経質なほど緻密に描かれた新聞の描写が怖かった。
それでも、この絵は強烈な印象として私の中に残っている。
観る機会があるのであれば、必ず対峙したいと思う絵のひとつだ。
家/神田日勝[神田日勝デッサン集表紙]
そして、父の好きだった世界は、神田日勝の初期のモノクロームの世界だったのではないだろうかと思う。
板うちされた貧しい家は、北海道の開拓者住宅の一般的な姿で、今でもその姿をあちこちで見ることができる。
それは北海道に移住した人間の原風景でもあるような気がする。
今回の東京ステーションギャラリーでは、最初の展示でこれらの絵を観ることができる。
私は、祖父母から聞いた開拓時代の話や、今は帰ることのできない実家のことを思い、涙があふれて泣きながらこれらを観た。
華々しい都会にあこがれつつ、それでもこの貧しい風景から離れることができない。
情報の伝達が遅かった昔に、できる限りの情報を入手して表現しようとする情熱が、神田日勝からは感じられる。
それは、私が上京する前に感じた、このままここにいて何も知らず、何も見ずに生きていくことの恐怖と似ているのではないかと思えてならない。
あの頃は、ちょうど一番の親友を交通事故で亡くしたばかりで、将来に不安を感じ、このまま何もせずに生きることは死ぬことと同じなのではないかと思えてならなかった。
そんな狂気にも似たものを、私は神田日勝の絵から感じ取る。
絵が好きで、音楽が好きで、一人でそれを楽しんでいた父が、同じようなことを感じていたかどうかはわからない。
父が神田日勝と知り合いで、昔うちに訪ねてきた黒い絵描きの人が神田日勝だったかどうかもわからない(現実のことかも定かではないのだけど)。
いつの間にかなくなったベニヤの暗い木造の家の絵が、神田日勝の絵だったかどうかもわからない(これはたぶん違うだろう)。
自分の産まれた土地で、土地を思いながら表現することをやめなかったこの人の絵を、今後もおいかけずにはいられないだろうと思う。
半身の馬は、約束どおり東京に来てくれた。
もし秋までに都市間移動ができるようになるのであれば、私は約束どおり北海道にまた会いに行こうと思う。
◇下町の猫達 ― 2006年09月02日 03時50分25秒
谷中ぎんざで買った招き猫 左は今戸焼き風の白土のもの。 右は日本のものではないような変な顔。 |
町中を歩いていて猫に出会うと、つい立ち止まってしまう。
たいていは、猫はこちらを気にもとめずそしらぬ顔をしていることがほとんどだが、こちらを気にせず「私はいつもここにいるのよ」という顔をしていたりするので、じっと見入ってしまったりもする。声をかけることもあるが、たいていは「なんだよ」という顔をして無視されたり、「うるさいなあ」といわんばかりに逃げられたりすることがほとんどだ。
8月に東京下町に行ったときも、たくさんの猫に出会った。
食事が終わって満足した黒猫 | 熱中症(?)の猫。 写真をクリックすると、 よだれの瞬間の写真が見られます。 |
日暮里から谷中ぎんざに入ってちょっと行ったところの休みの喫茶店の前に、園芸用の容器の中に大量の餌が用意されていて、黒猫が懸命に餌を食べている。一心不乱に食事中で、こちらが近付いていっても私なんかはいないも同然の様子。
それではと、写真をとらせてもらったが(ことわったわけではない)、カメラを持って近付いていってもそしらぬ顔で食事に専念し、一通り満足したかのようにこちらをちょっと見ながらのびをしてどこかに行ってしまった。
その横で、 グレーの猫が日陰で休んでいた。
本人(猫)は日陰にいるつもりのようだが、アスファルトから日ざしが反射するせいか半ば熱中症になっているかのよう。半眼を開けてよだれをたらし、犬のように舌をだしたままあらぬ方向を見ている。かなり近付いてみたが、私などは眼中にない様子でびくともしない。目の前に水が入った皿があるのにそれを飲もうとする気配さえない。
しばらく眺めていたが、ぴくりとも動かなかった。
谷中霊園を散策している間にも、墓地を根城にしているのら猫が道を横切ったりもした。この時期はお盆の墓参りの人が多かったので、猫達にとっては餌に不自由することはないのか、どの猫も忙しそうに足早に走り去っていった。
上野公園不忍池で出会った猫は、ボート乗り場の近くで餌をもらっている。
4匹いる猫はどれもトラ猫で、餌を与えている夫婦にはなついている様子だが、道行く人間を警戒しながら食事をしている。
たまに餌を食べる姿に立ち止まって「かわいい〜」と言う人に、猫達も餌係の夫婦も猫も困った顔をしていたので、写真をとることができなかった。
猫はどれも大きさにかわりはないが、4匹のうちの1匹が親のようだ。餌係の夫婦が守ってくれている中でも、親猫が子供が食事をしている周囲を警戒している。
鳩を狙う猫と、その横でそしらぬそぶりでグルーミングする猫。
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不忍池の池の端付近では、鳩が人から餌をもらって集まってきている場所で、鳩のすきをうかがっている猫。そして、その横で別な猫が一心にグルーミングしている。
ハンター猫は、私が近付くと「じゃまするな」といわんばかりに睨み付け、またすぐにハンティングに精を出す。
グルーミング猫は、「あんなでかい獲物は無理じゃないの?」といわんばかりに、たまに鳩をちらっと見たりしながらまたグルーミングに精を出す。
下町の猫はどれもうまく人間や他の動物と共生しているようで、必要以上に人間に警戒心を持っている猫は少ないように思う。
狩をしたり、のんびりしたり、適当に人間に世話になったりして、毛並みもきれいで自由に暮らしている雰囲気。人通りの多い場所でも、必要以上に人間になつく姿も、物を食べている人間にこびを売る姿も見る事はなかった。ある意味、上野公園に集っているホームレスや観光客などの人間なんかよりも、ずっと都会のオアシス生活を満喫しているようにさえ見えた。
旅先のお土産物屋で招き猫を物色するのも楽しみの一つで、谷中ぎんざの中にある陶器の置き物などを売っている店で、今戸焼き風の手作りの白土招き猫を発見し、その表情に一目惚れしてしまった。ふと横を見ると、変な顔の招き猫もいる。どちらを買おうか大変迷うが、結局二つとも購入してしまう。
旅の一番最初の買い物がこれだったので、この後散策する間中重い荷物を持つはめになってしまった。
◇東京下町散策 かっぱ橋〜浅草 ― 2006年08月26日 05時34分22秒
かっぱ橋道具街のシンボル Niimi食器店のおじさん |
上野公園を堪能した後、昼食を取るため浅草に行くことにした。今回の下町散策の目的の一つに、かっぱ橋道具街に行くというのがあったので、東西めぐりんで浅草の六区まで行き、そこから歩いてかっぱ橋に戻るコースを辿ることにした。
東西めぐりんは、京成上野駅池の端口の前に18番停留所があるはずなのだが、なかなか見つけることができなかったので、交番のお巡りさんに聞くがお巡りさんも良くわからない様子。ちょっと通りに出てみると、目の前に停留所があった。めぐりんは15分間隔でコースを巡回しているので、少し待つとバスがやってくる。上野公園のを山手線の線路沿いを走り、昭和通りを超えてかっぱ橋本通りを浅草方面に走る。道は多少混んでいるが、すいすいと快適に進む。バスの中も混んでいるわけでもないので、すんなり座っていくことができた。
かっぱ橋本通りに出ると、通りのあちこちにかっぱの像が立っている。あとで浅草からこちらの方に歩くのが楽しみだ。24番つくばエキスプレス浅草駅前で降り、六区の方に向かう。
以前はつくばから浅草に向かうには、常磐線か高速バスで上野まで出なければならなかったのだが、つくばエキスプレスができてからはダイレクトに来ることができるらしい。私達が引っ越した頃はあと4年ほどで開通するという噂だったが、結局つくばにいた8年間の間に開通することはなく、つくばを出た次の年に開通したのだ。以前はつくばから東京に出るのが大変だったことを思うと、大変悔しく感じる。
洋食屋ヨシカミ |
昼食は、事前に旦那が調べて行きたかった洋食屋ヨシカミで取る事にする。ここのキャッチコピーは『旨すぎて申し訳ないス!』。創業が昭和26年という老舗の洋食屋で、いつも行列ができているらしい。しかし、旦那が場所を間違えて寿司通りを往復するはめになり、せっかく早めについたのにヨシカミを見つけたのは12時だった。ヨシカミは六区のバスケットコートからすぐのところにあったのだ。
ヨシカミの前ではお店の人が予約表を持って待っており、名前を記入すると「15分から20分くらいお待ちください」と言われた。店内は古い木造の作りで、大きなカウンターから厨房が全て見渡せ、ボックス席もカウンター席も満員である。厨房のスタッフは、その日のメニューの品数を「○○もらった」と声をかけあって確認している。
この日のランチメニューはポークソテーだが、ここの名物はハヤシライスだ。少し迷いつつハヤシライスを注文する。ハヤシライスは、私達のすぐ後で入ってきた人たちで終わってしまった。ハヤシライスは濃厚な味で大変美味しかった。カウンターで隣に座ったカツサンドを食べている中年の女性が、「ここのハヤシは通販もやっていて、お店で食べるのよりは落ちるけど、そこいらのものよりずっと美味しいのよ」と教えてくれる。半分ほど食べているところへ、別な客がビーフシチューを注文しているのを見て、ビーフシチューも捨てがたかったと思った。カレーもオムライスも美味しそうで、旦那と別なものを注文すればよかったと少し後悔した。お会計のときに、通販用のカタログと小さなマッチをもらってきた。
食事を終えて、めぐりんで来たかっぱ橋本通りを戻り、かっぱ橋道具街に行く。かっぱ橋道具街はプロ用の厨房機器や食器、食品サンプルなどの店が軒を並べる通りで、食品サンプルのリアルさが受けて外国人観光客も足を運ぶ観光地にもなっている。浅草からは、地元の人が利用する商店街のかっぱ橋本通りを抜けたところにある。途中バスから見えたかっぱの像を確認して歩く。
かっぱ橋本通りのかっぱの像(左の写真をクリックすると拡大して見られます) |
途中の商店のウインドーに通りにあるかっぱの像の一覧らしき写真が飾ってあったが、かっぱ橋道具街までの間には3体しか確認することができなかった。しかし、そのユニークな表情やポーズがかわいらしい。
かっぱ橋道具街に着くと、通りは人もまばらで半分以上の店が閉まっている。ここもお盆でお休みなのだ。かっぱ橋本通りとかっぱ橋道具街が交差する角にある家具屋の二階の「青樹」というギャラリー兼喫茶店に入って一服することにした。階段をあがったところにいきなり犬が寝ていてびっくりしたが、人の良いママが笑って迎えてくれた。ここではバナナジュースを注文する。バナナの生ジュースの上にアイスクリームがのっている。味はさっぱりしていて、バナナの濃厚でさっぱりした甘さがアイスクリームで少しづつ甘くなっていくのが楽しく、大変美味しかった。
巨大なかぶと虫 | 変なかっぱの絵 |
青樹を出て、とりあえず開いている店を廻ってみることにする。開いている店は、食品サンプルの店と食器や調理道具の店ばかりのようだ。食品サンプルの店はさすがに外国人観光客が多い。店頭用の本格的なサンプルは値段も高いが、観光客用の小さなキーホルダーやマグネットは数百円で買える。寿司やラーメン、餃子、魚、肉、お菓子などたくさん種類がある。特に、まんじゅうのサンプルはまわりの粉っぽさもリアルで、本当に本物そっくりでおいしそうだ。
以前クエン酸で把手が取れてしまったステンレスの行平鍋を思い出し、調理道具の店を見てまわることにする。しかし、行平鍋は普通アルミ製がほとんどで、高いものは銅製なんてのもある。銅製の行平鍋は手作業で打ち出した立派なもので、1万円以上するものもある。ステンレスの行平鍋がないか尋ねてまわるが、いずれもIH調理器用に作られたつるっとしたものばかり。IH調理器は打ち出しだと均一に熱が伝わらないので、つるっとした普通の鍋になってしまうのだそうだ。どこへ行っても「知らない」という返事ばかりで、たまに知っていても「ステンレスの鍋は熱効率が悪くこげやすいので行平には向かない」という返事だった。
店は閉まっているが、かっぱ橋道具街のお店の看板などを見るだけでも楽しい。ばかでかいかぶと虫や、変な顔のかっぱの絵があったりする。通りの店頭にかけられている店名の看板は、どれも黄桜のかっぱの絵で有名な清水崑さんのものと思われるかっぱがついている。閉まっている店の中には、調理台や食器でもグラス専門の店や、和食器の専門店など細かく分類されているようだ。この次の機会にまた来ることにし、浅草へ戻ることにした。
ビールジョッキの アサヒビール本社ビル |
浅草へ戻って浅草寺をお参りし、あげまんじゅうを食べたりしながらぶらぶらして、人力車に乗ることにした。以前にも浅草で人力車に乗ったことがあるが、知っているようで知らない場所を案内してくれ、色々な質問に答えてくれるので観光気分を十二分に味わえる。行きたい場所を細かく指定するのもいいし、ある程度コースになっている場所を案内してもらうのもいい。
この日は浅草寺周辺の歴史的な場所に案内してもらった。浅草寺入口の雷門から二天門を抜け、隅田川沿いを走り、神谷バーの前を通って20分コースのところを30分かかって雷門の前にもどった。雷門や二天門の由来の説明や、神谷バーの歴史、吾妻橋沿いにあるアサヒビールの本社ビルが浅草側から見てビールのジョッキに見えるスポットなどを教えてもらったりして、楽しかった。
この日の夕食に楽しみにしていたレストラン大宮の夜の営業時間ちょうどになったので、仲見世で浅草名物のお菓子「これでよしなに」を購入して、大宮でおいしい食事を堪能し、松坂屋の前から上野駅行きの東西めぐりんの最終便に乗って浅草を後にした。
お盆で行きたいところの多くがお休みだったけれど、逆に人が少なくのんびりと楽しむことができた。東京で“のんびり”というのも、なんだかにつかわしくないように思うが、せわしない場所が歳と共に苦手になっていくので、かえってこの方が楽しめたと思う。
ただ、人力車に乗っているときに隅田川沿いに出店が出ており、そこで隅田川のお盆の名物「灯ろう流し」が7時より開催されることが書かれたうちわをもらっていながら、そんなことはまったく気付かずにいたことを家に戻ってからテレビのニュースで知り残念に思った。
洋食屋ヨシカミ http://www.yoshikami.co.jp/
かっぱ橋本通り http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/syouten/kappabasi-hondoori.html
かっぱ橋道具街 http://www.kappabashi.or.jp/index.html
喫茶 青樹 http://www.tctv.ne.jp/ih-aoki/cafe.html
浅草寺 http://www7.ocn.ne.jp/~sehayama/oteratojinnja.htm
◇東京下町散策 上野公園 ― 2006年08月25日 02時57分07秒
不忍池の蓮の花 |
東京上野の水月ホテル鴎外荘にて、朝目覚めて一番に温泉につかりに行く。男湯と女湯が前日とは入れ代わっており、前日は女湯が檜風呂だった。檜風呂は黒い漆がぬってあるため、東京温泉の黒い湯が同化していまいち判別しにくかったが、朝に入った風呂は大理石風呂だったので、黒い温泉の湯の色が堪能できた。洗面器はどちらも檜の重厚なものだったが、うるしがほどこしてあるためか異常に重い。
前日にリフレクソロジーの人が「このへんの人は、上野動物園のアザラシの声で目が覚める」というようなことを言っていたので、声がきけるのを楽しみにしていたのだが、残念ながら声は聞こえなかった。
チェックアウトのためロビーに行くと、ロビーは喪服を着て白い帽子をかぶった人であふれていた。どうやら、戦没者の慰霊式に出席する団体さんのようだった。朝のニュースは小泉首相の靖国参拝の話でもちきりだったので、その光景を見てこれからのんきに東京見物をするのがためらわれる。団体さんが送迎バスでひとしきりいなくなった頃、ロビーで中庭をながめながらコーヒーを飲んだ。外は小雨が降っているが、平和を実感するひととき。
上野動物園の家畜(?) | 蓮に被われる不忍池 (下町風俗資料館前より) |
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不忍池の亀 | 不忍池の鴨 |
ホテルを出て、上野動物園のわきの道を不忍池方面に向かって歩くことにする。めぐりんがホテルの前から出ていて乗りたかったが、歩こうという旦那の意見に従うことにする。通りからはやぎやら豚などの動物が柵ごしに見える。
不忍池の弁天堂のあたりにつくと、池は蓮の花で被われていた。 ちらほらとピンクの花が咲いていて綺麗だが、水を見るとどろどろで大量の亀が泳いでいる。弁天堂周辺には、眼鏡の碑や料理関係の碑があちこちにあるが、どれもなんとなくぱっとしない。ボート乗り場を経由して池の遊歩道を歩いていくと、鴨やゆりかもめ、サギのなどの鳥達ものんびりと休んでいる。以外と多く見られる猫達に餌をやっている夫婦がいたりして全体的にのんびりした風景だが、小屋のある場所などでは相変わらずホームレスの人たちが寝ていたりもする。売店などがあるところでは、ひとりで大声で怒り狂っている人がいたりもする。何を言っているのかわからないが、怒りの対象がどこに向けられているのかは判らない。
ぼーっとベンチで休んでいる人。夫婦で散歩をする人。ここにいる人たちは全体的に年齢が高い。鳩が異常に多いのは公園のお約束だが、アヒルがいたり猫がいたりして、ここにいる人間も動物もなんだかのんびりしている。
昔の電話ボックス (下町風俗資料館) |
井戸端 (下町風俗資料館) |
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駄菓子屋の中 (下町風俗資料館) |
下町の路地 (下町風俗資料館) |
池のほとりを池の旗口まで歩き、下町風俗資料館に行く。入場料金は300円。資料館前には懐かしい丸ポストが設置されていたが、実際には使用されていないとの注意書きがしてある。資料館に入ると、昔の電話ボックスや人力車が展示されており、右手に行くと下町の町並みを再現したコーナーがある。井戸があり、細い路地には格子のはまった窓があり、着物の生地を板に貼付けて干してある様子などが再現されている。駄菓子屋の店の中には実際に入ることができる。
小さな駄菓子屋は一坪ほどの広さで、中は四畳半の居間にちゃぶだいと小さな箪笥、茶箪笥などが置かれている。復刻されている町並みは私が生まれるずっと以前のものだが、なんとなく懐かしい気持ちになる。旦那の実家は昔駄菓子屋を営んでいたことがあるので、展示されている菓子箱やビンなどを一つ一つ指差して懐かしそうにしている。
二階にあがると、昔のおもちゃを実際に触ってあそぶコーナーなどがあり、ぶんぶんコマなどで子供達が遊んでいるがなかなかうまくぶんぶんできないようだ。旦那が上手に鳴らしてみせると、興味深そうに凝視している。
一階は大正から昭和の初期の展示で、二階は大平洋戦争時や昭和30〜40年代の展示がされており、一階と同じように復刻された部屋に入ることができるようになっている。昭和40年当時の部屋は一階よりも多少広い作りのアパートの一室風になっており、部屋の中に台所があり、テレビやラジオ、電話もある。生活が便利になるにつれ部屋も広くなり、家財道具も増えているのだなあと思ったりする。二階の部屋の方が私達には馴染み深いが、足付きテレビや黒電話がある家庭はまだまだ少なかったはずなのにと思ったりもする。
昭和20年代の風景が展示されているところで、「うちのあたりは田舎だったから昭和40年代中頃までこんな感じだった」と話したりしていると、となりで展示物をひとりで見ていたおじさんに笑われてしまった。
立体カメラで昔の風景を見ることができたり、古いパズルゲームで遊べたりと、小さいながら盛り沢山の展示に満足した。
資料館に入る前に降り出した雨が止んだようなので、お腹もすいたしお昼を食べようと資料館をあとにした。
水月ホテル鴎外荘 http://www.ohgai.co.jp/
上野恩賜公園 http://www.ueno.or.jp/index3.htm
下町風俗資料館 http://www.taitocity.net/taito/shitamachi/index.html
台東区循環バス『めぐりん』 http://www.city.taito.tokyo.jp/index/000020/012353.html
◇東京下町散策 谷中〜根津 ― 2006年08月21日 01時58分51秒
谷中ぎんざ入口 |
随分以前から、東京の下町巡りをしたいと思っていたのだが、なかなか行く機会がなかったので、この夏休みに実践することにした。何年か前に、亀戸で餃子を食べてから亀戸線に乗って向島、隅田川沿いを歩いて浅草を巡ったことがあるが、今回は日暮里から谷中〜根津、かっぱ橋〜浅草を歩く事にしてみた。
当初の予定では、午前中に家を出発するはずだったのだが、朝テレビをつけて見ると東京は大停電で一部電車が止まっているという。うちの沿線も止まっているらしいので、少し様子を見ることにしたのだ。お昼近くになって復旧したとのニュースを確認し、お昼過ぎに家を出ることにした。下町でそばを食べるのを楽しみにしていたのだが、うちの最寄り駅の駅前で、ニューオープンしたスープカレーの店を見つけ、そこで昼食を食べ出発した。新宿から山手線に乗り換えたらポケモン電車で、スタンプラリーをする親子連れがせわしなく電車を降りたり乗ったりしていた。
質屋おぢさんの看板 | |||
焼肉サラリーマン | 路地 |
この日はお盆の中日であったが、天気も良く絶好の散策日和。JR日暮里駅で電車を降り、谷中ぎんざ方面に向かって歩く。このへんは「谷(中)根(津)千(駄木)」と呼ばれて最近は観光地化しているが、今でも東京下町の雰囲気が残っている。しかし、お盆のため休みで店を閉めているところが多いのが残念だ。
谷中ぎんざの商店街は、看板を統一して町並みを綺麗に見せているようだが、雑多な商店街の感じがまだまだ色濃く残っている。お店が休みなので、外に飼猫の餌を大量に店の前にだしているところもあったりする。お店の名前も、「焼肉サラリーマン」「質屋おぢさん」「やきとん」とユーモラスなものが多いが、なだらかな下り坂を歩きながらちょっと路地に目を向けると、古い住宅の中にもんじゃ焼きのお店や餃子専門店、竹細工のお店の看板が見えたりする。昔ながらの喫茶店の看板もあったりするが、どこも休みのようだった。
竹細工のお店で、杉の木のお櫃とうるし塗りのお箸を購入した。藤つるのバッグもとても綺麗で欲しかったが、2万円〜という値段だったので諦める。
食べ物屋が多い中、「99円でお肌がつるつる 魔法の化粧水」と派手なアナウンスを通りに流しているあやしげな化粧品屋、イラン料理の店などもあったりしてなかなか面白い。お惣菜屋でコロッケ、「ざくろ」というイラン料理店のテイクアウト店でチーズコロッケを購入して、食べながら歩く。チーズコロッケは電子レンジで温めてくれたので、ほくほくしておいしかった。
途中、招き猫のお店を見つけて、今戸神社風の手作りの白土の招き猫と、おおよそ日本風ではないバタくさい顔の招き猫を購入する。旅の途中ですでに買い物が大量になってしまい少し後悔するが、あちこちで招き猫を購入して集めている私は、思わぬ出会いに荷物の重さも気にならない(というか、途中から旦那が荷物を持ってくれたからなのだが(^^;))。
左官屋の鏝絵 | 道ばたのいちじく |
谷中ぎんざを抜けて谷中霊園の方に向かい、桜の木の並木道を通って根津の方へ移動する。 お盆ということもあり、谷中霊園は墓参りの人でにぎわっていたが、通りはとても静かで夏の日ざしの中蝉の声だけがせわしく聞こえるだけだ。東京というけれど、緑も多く静かでとても居心地が良い。
途中、左官屋さんの建物に龍の鏝絵を発見したり、道のわきにいちじくの木が実をつけていたりするのを見つけ、なんだか嬉しくなった。
普段だともっと活気にあふれた場所なのだろうが、やはりお盆ということもあり、観光客も地元の人もそれほど多くなく、普通の町の中にぽっと入ったような感覚があってなかなか楽しい。
谷中霊園を抜けた後で、根津神社に行くべく三崎坂をてくてく歩いていくと、江戸手ぬぐいのお店やおしゃれなカフェなどが並ぶ中、神社仏閣があちこちに点在している。行き交う車の中に、小さなバスが何度となく通り過ぎていく。よく見ると「めぐりん」と書いてある。「めぐりんってなんだろう?」 。行く前に十分に調べなかったのが悪かったのだが、谷中、千駄木、根津、上野、浅草あたりを東西、南、北とそれぞれ3コースの観光用100円バスが運行しているのだ。谷中ぎんざを日暮里から抜けて谷中霊園に行き、その後根津に向かうということは、日暮里駅から千駄木駅方面に向かい、また日暮里駅方面に戻って再び千駄木駅方面に歩くことになる。めぐりんに乗っていれば、楽に早くついたのに…。それでも、下町の今と昔が混在する町並みを楽しめたのでよしとする。
途中「へび道」と呼ばれる住宅街を抜けて根津に向かったが、一つ気付いたことがあった。私の住んでいるあたりでは、お盆というと家の軒先きにお盆のお飾りが飾ってあったりして、あちこちの家の前に13日過ぎには迎え火、16日過ぎには送り火を焚いた後が残されていたりするのだが、このあたりではそれがまったく見られない。新興の家も多いが古くからあるような家でもそれを見ることはできなかった。
へび道を抜けて根津神社の近くまで行き、少し休憩するためにクリーム餡蜜とところてんを食べる。隣でかき氷を食べている人をうらやましく思うが、身体が冷えてしまうので我慢する。
根津神社は本殿前が工事中であまり景観が良くなく残念だったが、根津神社の前の道路はものすごく大きな幹線道路なのに、境内に入るとひんやりとした空気が心地よく静かで気持ちがいい。池の鯉に餌をやりつつほとんど鳩に横取りされていたロシア人観光客や、鯉の中で優々と泳ぐ亀をながめたりした。根津神社の裏にある金太郎飴のお店も楽しみだったのだが、ここもお休みで残念だった。
鴎外荘 中庭 |
5時近くなって、その日宿泊する水月ホテル鴎外荘に向かった。この宿は森鴎外の居住地をホテルにしたもので、東京温泉も楽しめる宿とのことで楽しみにしていたのだ。ホテルのフロントに入ると、客がみんなフロント前のラウンジにたむろしていて騒がしい。チェックインすると、様々な説明の最後に「実は、本日空調が故障していまして… 現在、業者が入って夜までには復旧する見込みです」と言われ、愕然とする。だから客がみんなラウンジにいるか…。暑い中歩いてきてホテルで涼めないなんて…と思うが、その日は東京が大停電していたことを思い出し、仕方ないと諦める。客室に入り窓をあけると、夏の夕方の涼しい風が入ってきて心地よかった。エアコンなんかよりずっといいと思い、フロントで蚊取りマットを借りて窓を開けて過ごすことにした。
私達の宿泊する新館はビジネスホテルそのものの作りだが、新館から旧館に抜ける途中に鴎外の家がそのまま残る中庭があり、そこの前を抜けて温泉に行く。鴎外の家は宴会場になっているようで人のいる気配はしないが、中庭は端正された樹々に被われており、東京とは思えない閑静さだ。森鴎外はここで「舞姫」を執筆したらしい。東京も昔は随分と暮らしやすそうな場所だったのだなあと思う。
温泉に入ると、黒いお湯が心地よく疲れも抜ける気がした。温泉の後ホテルに併設されたスウェーデン・リフレクソロジーで足の疲れをとってもらい、予約していた「鴎外懐石」を十分に楽しんだ。
夜、テレビのニュースを見ていると、小泉首相が次の日靖国参拝をするのかどうかで盛り上がっていたが、半日歩いた疲れからすぐに寝てしまった。エアコンは夜には動きだしていた。
谷中のホームページ http://www.st.rim.or.jp/~hajima/yanaka/index-j.html
根津神社 http://www.nedujinja.or.jp/
◇香取神社前商店街の路上焼き鳥屋 ― 2006年06月03日 06時09分23秒
お店としての建物で売っているのではなく、路上にコンロを出しておやじが焼いていた。
焼き鳥屋の横では、家族が手作り餃子などを売っていた。
シロ、カワ、つくねなどの種類も多く、一本30円と当時としても激安だった。精肉にはくしに赤い印がついていて、それでも50円だった。
持ち帰りで注文してもよし、その場で焼きたてをほおばるのもよし。
コンロの前には小さなテーブルがおいてあり、とうがらしも常備されており、その場で食べたときには食べ終わったくしの数で清算されていた。
お腹いっぱい食べても300円程度ですむというリーズナブルさは、当時貧乏だった腹を十分に満たしてくれ、しょっちゅう足を運んだ記憶がある。
隣で売っている餃子も絶品で、皮がもちもちして甘味があり、具もいっぱい入った大きな餃子が10個で300円だった。
その餃子は焼き鳥屋のお嫁さんの手作りだったらしいのだが、交通事故で亡くなってしまい、餃子はもう売っていないらしい。
場所はこのあたりだと記憶する。今でもあることを願っています
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◇亀井戸餃子 ― 2006年06月03日 05時54分57秒
テレビなどのグルメ番組にも幾度も登場しており、休日や夕方ともなれば行列ができてしまう有名店だ。
メニューは一種類の餃子と、数種類のお酒とビールとオレンジジュースなどのソフトドリンクだけ。
ご飯はないのだ。
店に入ると、コの字にカウンターがあり、向かって右側に小上がりがある。
早い時間に行くと、「なんでこの時間にこの人たちがここにいる?」と思わせるおじさんが、Yシャツ・ネクタイで餃子とビールを楽しんでいたりする。
カウンターの上には、大量の唐辛子が沈んだラー油と、醤油がおいてある。
カウンターの中では、おやじさんがでかい鉄鍋で次々と餃子を焼いている。
カウンターに座ると、有無を言わせず餃子が運ばれてくる。
一皿5個。
ここに来ると、最低2皿は餃子を食べなければならない決まりだ。
食べ終わった皿は客の目の前に積み重ねられ、その枚数でお会計をする。
けれども、女性客が大量の皿の前で追加注文したりすると、そっと皿を下げてくれたりする心遣いもあったりする。
キャベツと豚肉がメインの餃子は、とてもジューシーで、一度食べるとやみつきになる。
◇博雅 ― 2006年06月03日 05時47分47秒
ワンタン麺が大変おいしく、餃子かと思うような具沢山のワンタンが10個は入っていた。
ワンタンは、店のおやじさんと奥さんが、ふたりで開店前に手作りしているものだった。
ラーメン自体もおいしく、さっぱり濃厚な感じだった。
値段は忘れてしまったが、それほど高いという印象はない。
少なくとも、当時貧乏だった私がしょっちゅう通うことができた値段だった。
地元では有名店だったらしく、いつもお客さんでにぎわっていた。
店のおやじさんが亡くなってお店を閉めてしまい、もうあのワンタン麺を食べることができないのが残念だ。
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