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◇アイヌ民族への差別に思うこと2006年07月04日 17時38分42秒

アイヌ民族の口琴「ムックリ」
アイヌ民族の口琴「ムックリ」


今回の旅の目的の一つに、アイヌの文化を閲覧できる博物館に行くというのがあった。
私が小学校の頃、クラスにアイヌ出身の子が数人いたが、アイヌであるという理由でいじめられていた。私はそれまでアイヌ民族の存在を知らなかったので、小学校一年生にして初めてアイヌの人たちと接したわけだが、何故いじめの対象になっていたのか判らなかった。ただ、子供の多くがそうであるように、私も他の人と同じようにアイヌの人たちを差別の目で見てきたことは確かなのだ。

私が北海道を離れる前に、私の祖父母が何故北海道に入植してきたかという話を、今は亡き母方の祖父から聞いた。
戦時中の苦しい生活の中で、産まれた土地を捨て北海道に新天地を求めて移住した話は、私は大変良い話のように思えたが、その時は北海道に移住した多くの入植者のためにアイヌの人たちが土地を奪われたということと結び付けて考えることができなかった。

北海道を離れて生活するうちに、口琴という楽器に出会い、以来口琴関係の仕事や人付き合いが多くなってきた。そして、日本ではアイヌ民族が口琴文化を持っていることもあり、アイヌ民族の人たちとも交流を持つようになってきた。

以前、茨城県つくば市に在住していたとき、筑波大学の先生がアイヌ民族の文化を学ぶイベントを開いたときに私も多少お手伝いをしたのだが、北海道札幌市在住のSさんというアイヌ出身の方が世話係として招かれていた。
Sさんは私が小学校1年生〜3年生の頃同じクラスだった男子と同じ名前だったため、それとなく出身を聞いてみると帯広であると言う。しかし出身の小学校を聞いてみると、私の出た小学校とは違うというのだが、話を聞くにつけSさんは同じクラスのS君と同一人物であるとしか思えなかった。しかしSさんはそれは頑なに否定し、そして「あなたの住んでいた地域は、帯広の中でも差別がひどい地域なんですよ」と言った。
S君は学年では唯一のアイヌ出身の男子だったため、女子からも男子からも手酷い差別を受けていたのを思い出した。他のアイヌ出身の人たちよりも、よりアイヌらしい顔だちをしていたせいもあるのだろうと思う。
彼も幼いながら抵抗はしていたようで、フォークダンスの時にわざと鼻くそをほじって手につけていたりするので、よけい女子からは無視されていた。たまに遊びに誘ったりすると大変楽しそうにしていたことを考えると、本来はとても明るい少年だったのだろう。
しかし、彼の小学校時代の多くは差別との戦いの日々だったのだろうと思う。いくらアイヌ文化をみんなに知ってもらうイベントの付き添いであったとしても、突然出現した小学校時代の同級生と会って、昔の思い出を語り合うというわけにはいかなかったのだろう。

その時のことで、私は少なからずショックを受けた。
物の判断が狭かった時期のことであったとしても、自分が差別の目で見てきた人たちのこと。そして、直接的ではないにしろ、私達の祖先が国の政策により北海道へ入植したことで、アイヌ民族全体が民族の危機に陥り、大変辛い差別との戦いを強いられていたこと。
小学校の時には、北海道開拓や屯田兵、入植者の生活のことなどは郷土史の勉強として習ったが、アイヌの人たちがそのことでどういう生活を強いられることになったなどは、ほんの少し触れる程度でしかなかった。
学校のバス学習などでも阿寒湖に行って、バスの中でアイヌの歌を歌い、アイヌ民族の文化に触れるというイベントがいくつかあったが、本当の意味でのアイヌの人たちの生活にはまるで触れていなかったことも知った。

自分の産まれた土地にまつわる歴史の中で、もともとそこの土地に住んでいた人たちと後から入ってきた人たちとの間に摩擦があることは、世界中の例を見ても北海道も例外ではないのだ。だからといって、入植者の子孫である自分が、祖父母が北海道に入植しなければならなかった経緯や、入植後の苦労を考えると、入植してきた人たちを否定することもできない。
しかし、自分がこれまで行ってきた差別の目を見直し、自分の産まれた土地に昔から住んでいた民族のことを知ることが必要なのではないかと思った。

私の従姉妹などは、北海道での生活の中で、ごく当たり前のようにアイヌの人たちに対して差別の目を向けている。差別のために職もなく生活保護を受ける人たちも少なくない中で、酒を飲んであばれたりするアイヌの人たちが多いからだという。アイヌでなくても、そういう人は嫌われて当然だと思うが、なぜそうなってしまったかを考えると、やはりそこには「差別」という目に見えない壁があるからなのだと思う。

私がアイヌ民族の文化について学んだからといって、こういう状況が打開されるわけでもないだろう。
しかし、理解しなければ何も生まれないと思うのだ。
今回二風谷に行って、アイヌ民族博物館の方やムックリを売ってくれた民芸店の方は、私に大変親切にしてくれた。民芸店の方は、私が「自分は入植者の子孫だけれど、入植者の子孫の立場からアイヌの文化を知りたいと思う」と話したところ、とても嬉しそうにしてくださった。
それを見て、私も大変嬉しくなった。

コメント

_ 川崎 ― 2011年07月15日 13時29分03秒

私は西日本出身なので、アイヌ民族の差別については実体験がありません。
妻が帯広出身ということで、「酒にだらしない」という話は聞きましたが・・・
でも、それは民族性の問題とは思えないですね。日本人にも朝鮮人にもお酒にだらしない人はいますし。
現実社会のなかで、就職差別などもあり良い仕事に恵まれないなかで、生活保護に頼り酒に溺れるというのは分からなくもないですね。
土地を奪われ、故郷を奪われた少数民族にどう向き合っていくのか?というのは永遠のテーマかも知れません。

_ makura ― 2011年07月17日 05時37分44秒

川崎さん、コメントありがとうございます。


奥様が帯広の方ということで、私の従姉妹同様「アイヌは酒にだらしがない」という認識をお持ちであるとのことで、「ああ、やはりそういう印象を持つ人が多いのだな」と改めて思いました。
しかし、川崎さんがご指摘されるとおり、アイヌだから酒にだらしがないという、民族的な特徴であるということはありえないと、私も思います。

私の子供の頃は、アイヌであるかどうか以前に、ただ単に毛深いというだけで、「アイヌだ」と冷やかされたりする現実がありました。
現在は、純粋なアイヌの血の人は少なくなってきていて、アイヌらしい顔立ちの人も少なくなってきているようですが、私の子供の頃はまだまだアイヌらしい顔立ちの人がたくさんいました。
しょうゆ顔の和人と比べて、体毛も濃くがっしりとして身体も大きく、野性的な顔立ちのアイヌの人は、子供心に怖いと思うこともありました。

そんな人が、酒を飲んで街中で暴れていれば、当然怖く思われても仕方なく、それが原因で「アイヌは酒にだらしない」という固定概念が植えつけられた結果、風評として「アイヌは酒にだらしがない」というのが、地域的に流布された可能性があるのではないかと思います。
(あくまで私見です。統計とって調べたわけではないので。)


人の思い込みは怖いもので、ひとつの思い込みが長年その印象を支配するという事例みたいなものだと感じます。
私も北海道にいる当時には、アイヌの問題は肌で感じていたとはいえ、それを考えることはあまりありませんでした。
一方で、北海道ではあまりなじみのなかった朝鮮人やエタ・ヒニンなどの差別問題を、知識としては知っていても、それがどういうものなのかは全く知りませんでした。

5年も前に書いたこの記事が、未だに私のブログの閲覧件数の上位に入ってくることは、それだけ「アイヌ差別」が関心の高い問題であるのだと思います。
この記事は私の回顧録・私見ですが、差別問題の一つの出来事として見ていただけること、「自分が過去に差別をしていたと認識する人間の記事」というのが一つくらいはあってもいいのではという気持ちで書いており、そして少しでも差別を考える上でのきっかけの一つとして読んでいただけることを幸いに思います。

_ 秋山秀子 ― 2013年05月11日 23時40分06秒

奈良県桜井市大福に住んでいます。水平社の発祥地です。目に見えない差別は実在すると思います。
散歩中、身元確認お断りのステッカーを見ることがあります。それは、今だに差別があるという事の裏打ちではないでしょうか。
また、以前務めていた会社で、パートさんで良く働く子がいたのです。私はその子が好きでした。でも、管理者は「あの子は××のこやから」と差別していました。アイヌの差別もそんな風に何気にあるのではないでしょうか。悲しい事に

_ makura ― 2013年05月13日 23時26分58秒

秋山秀子さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

この記事を書いたのは約7年前のことですが、この間差別に対する意識と言うのは、個人的にもいろいろと考えるところがあります。
私のつたない文章では伝えきれないところが多いのですが、差別というのはいままでもずっと存在していて、たぶんこれからもなくなることはないのだと思います。
それは、差別というのは「する側」から派生したものであったとしても、「される側」が差別をされている意識を払拭しなければ解決しないものであると思うからです。

例えば私は北海道で産まれて育ったのにも関わらず、今は地元を離れて生活しています。個人的には、すでに産まれた土地で生活していたよりも外での生活の方が長いですが、先祖代々この土地で暮している人たちからすれば、私は「よそ者」でしかありません。
今は私の様な人間はめずらしくもなんともないですが、それでも無意識に発せられる地元の人たちの「よそ者」的な言動で「あれ?」と思うこともしばしばですし、それを差別的である思えば差別であるのだろうなと思うこともあります。
地元に帰省したらしたで、「よそに出た人」という意識で友人や親戚、親や兄弟姉妹までもがそのように接してきます。
彼等に悪気はありませんが、自分の地元であるのにやはり自分は「よそ者」であるという意識が払拭できません。
逆に、私自身も生まれた土地で生活していないという立場から、外へ出ない人を区別してみていることになるので、これも差別といえばそうなのかもしれません。
これは、差別を受ける人が差別であると思えば差別なのでしょうし、でも日常的にたぶんそこまで考える人は少ないのだろうなとも思ったりします。
でも差別の大元って、簡単に考えるとこんなことが発祥なんじゃないかと思ったりします。昔は今よりももっと地元に属する意識が強かったでしょうし、文化的な考え方も今よりはずっと狭い範囲でのことでしたから、よそ者に対する意識は今と比較にならないでしょう。

これは個人的な考えですが、差別自体は特別人間だけが持っているものではなく、動物のテリトリー本能だとか、より強い固体を残そうとする鳥などに見られるメスの生殖本能でさえ、見方を変えれば差別的であると思うこともあります。
ただ、人間が社会生活を営む上で、平和的共存を選択した時点でこの動物的本能に対して“意識”をする必要があるのだということは表面的には理解していても、深層の部分で本当に理解しているかは、その当事者にならないと解らないし、その当事者になっても解らないのだろうと思います。

そういうところから考えると、差別がいけないことだと理解していても、地域のローカルな意識や感情、常識や文化といったものの中で、自分の言動が差別であるのだということを意識せずに暮している人は非常にたくさんいるのだと思います。
そしてこれは最近問題になっている「いじめ」につながる考えでもあると、私は考えています。

強いオスを選択して強い子孫を残そうとする鳥の本能が差別であるかどうかの判断は別として、鳥自身は別な文化を持たない限り、オスはメスを獲得できなければ、生殖せずに一生を終えるそれだけのことで、そのオスが差別されたという意識を持つことはないでしょう。
それと同じように、差別というものは差別「する側」と「される側」が相互に「差別」を意識することなく、ほぼ同じ意識と立場で生活することが大切なのではないかと考えています。
「差別されていたのだから」「差別していたのだから」という特別扱いではなく、ごく普通に対等な立場でみんなが対峙できる気持ちを持ちたいと、今は心がけています。

考え中なので、文章にまとまりがなく(もっとも、私の文章はいつも散文ですが)申し訳ありません。

_ 民族的就活中 ― 2013年06月07日 19時43分25秒

ビジネスマンがヒゲを生やすことはタブーだ!刺青禁止は当然!という偏見が根強いですよね。
日本人は、個人の思想、宗教、民族的ルーツに対して無思慮だと感じます。

_ makura ― 2013年06月09日 22時44分11秒

民族的就活中さん、コメントありがとうございます。

どんな民族にも宗教にも暗黙の了解やタブーは存在しますし、日本人が特別それらに対して無配慮であるとは思いません。
かえって欧米のアジアに対する偏見や、イスラム社会に対する偏見の方がよっぽど根が深いものを感じることもありますが、それもヨーロッパの文化のひとつであるといえばそうなのかもしれません。

イスラムが主要宗教でない土地の観光モスクで、観光客の多くが寺院を拝観するのにタブーを軽視している姿を多く見ますが、それは日本人だけではなく多くの観光客が自分自分の意識だけで簡単にすませていることも事実です。
日本に来る外国人観光客の多くが、寺院や神社のタブーを無視した行動をしている姿を多く見ます。
本当に民族的、宗教的に配慮があるのであれば、どの国の人も他国の宗教に触れるときには最低限のタブーとマナーを覚えるべきと思うのですが、そこまで考えて観光している人はあまり多くないように思います。
まして、どの国の人たちでも、自国のことについて本当に深く理解している人がどれだけいるのか。
外国文化を紹介するようなテレビに出てくる人は案内人であり、よく知っているからこそテレビで解説しているのであって、ああいう人が100%なんてありえないと思います。

刺青もヒゲも、日本の歴史の中でその位置づけはさまざまに変化してきていますし、その都度感覚も変わってきています。
アイヌ文化でいえば、女性は口の周囲にヒゲのような刺青を入れることがならわしでしたが、今その文化が存在していたことを伝承しようとする人はいても、実際そうして生活している人は皆無でしょう。
それは日本人社会の中で生活していくうちに、アイヌの人たち自身が隠蔽しなければならない歴史でもあるかもしれませんが、それ以前に国際的にもそうして生活できる地盤がなくなってきていることも事実です。

刺青をすることを歓迎する社会は、日本に限らずそれほど広範囲にあるわけではないと思います。
少なくとも、欧米社会においても、過度な刺青を入れる人が歓迎されているわけではなく、ただ単純に無視されているだけのことであり、あまりに過激な刺青であれば、それがたとえ宗教的意味合いや民族的なものであったとしても、一般的認知がなければ色眼鏡で見られるのは同じではないでしょうか。

私がこの記事で言いたかったことは、見た目や民族的違いだけで行われてきた差別的意識を、もう一度見直すべきときが来ているということで、日本人あるいはアイヌ民族を揶揄する目的ではありません。
私個人としては、日本人に生まれ、北海道に入植し苦労の末に農地開拓して生活していた自分の祖先を誇りに思っていますし、アイヌ民族との問題についても、ずっとその現実に目を向けることなく生活していくのではなく、開拓民の末裔として考える機会を得ることができたことをよかったと思っています。

_ 鬼瓦 ― 2013年11月19日 02時08分13秒

私の父方の祖父母は北海道出身です。仕事の関係で、大阪に移住したそうです。私の母方の祖父母は鹿児島出身です。やはり仕事の関係で、大阪に移住したそうです。両親は大阪で出会い、結婚し、私が生まれました。

生まれも育ちも大阪の私ですが、成長するにつれて、身体的に皆と違うのに気づきました。毛深く、筋肉質で、眼窩がへこんで、皆から「鬼瓦」と言われるようになり、いじめられるようになりました。それが嫌で、空手や柔道を習って、喧嘩もよくしました。

高校の時、修学旅行で北海道に行くことになり、アイヌの村に行ってビックリ。私にそっくりの人が多くて違和感がなかったんです。アイヌの人に「どこから来たの?」と聞かれ、「大阪」と答えると、「へー」と驚いていました。大阪に帰って、祖父母にそれを伝えると笑うだけでした。

それ以来、アイヌに関心を持つようになり、大阪で北海道の物産展やアイヌの催しがある度に足を運びました。私をアイヌと思っているのか、無視している感じでしたが、突然、私の手を取って、「よく来てくれましたね」と言われる始末でした。大学の夏休みを利用して、北海道一周もしました。アイヌ関連の施設は全て回ったつもりです。就職も決まり、落ち着いた時に、祖父母とアイヌについて話していると、「俺らのことだ」とボソッと祖父が言いました。

薄々、気づいていましたが、やはり驚きましたね。アイヌの家庭では、差別の歴史から、まず自分達がアイヌだと言いません。祖父母も私の事を思って、隠していたのでしょう。長い差別の歴史から、アイヌの性格は卑屈になり、無口になりがちです。つまりアイヌであることを隠そうとする。周囲も何か隠していると察して話しかけない。だから変な間ができてしまい、人はそれを怖れ、いじめに走るのではないでしょうか?私は学生時代、自分にアイヌの血が流れていると思っていませんでしたが、私自身もそんな感じでした。

無事、社会人になれましたが、やはり営業には回されませんでした。入れ墨は勿論、頭髪も徹底されますし、何より笑顔を強要されるのが苦痛でした。どうしても「恐い」と言われました。裏方でひっそり生きるしかなく、ホッとする居場所がありませんでした。

しかし、捨てる神あれば拾う神ありで、近所に住んでいる外国人と仲良くなって、その人の影響で今は教会に通っています。そこの外国人の牧師さんとも仲良くなって、日曜日が私が唯一ホッとできる日です。考えてみたら、外国人から見れば、日本人もアイヌも関係ないですもんね。でも、牧師さんから「アイヌですか?」と聞かれた時は、さすがに驚きましたね。どうもアイヌは日本以上に世界では物凄く有名みたいですね。そのおかげで、教会では差別もなく、楽しく過ごせています。

最後に、私が受けた差別やいじめに比べれば、祖父母が受けた仕打ちはそれはひどいものだったんでしょうね。考えてみれば、祖父母が大阪に移住したのも、仕事もあったかもしれないけど、差別から逃れるためだったのかもしれません。父も私も辛い思いをしましたが、大阪は幸い、鹿児島や沖縄の人が多いので、顔が濃くても北海道ほどひどくないかもしれません。そういう意味では父も私もまだ幸せだったのでしょう。暗い過去を隠し、父や私を守ってくれた祖父母に感謝したいです。

_ makura ― 2013年11月30日 01時16分22秒

鬼瓦さん、貴重な体験談をありがとうございます。
北海道では本州のことを内地といいますが、内地の西の地域の状況をうかがうのは初めてでしたので、大変嬉しく思います。

私が上京した当時、学生寮にいたのですが、関西以西の人が沖縄出身者を必要以上に警戒していたことを思い出します。
北海道にいると沖縄の人に出会うことも少なかったので、彼ののノリの違いや生活の意識の違いは、かなりカルチャーショックでもありました。
しかしそれ以上に、「広島の人は」とか「大阪の人は」とか、地域ごとにその特徴を決め付けて印象付ける人が意外に多くいたこと、そしてその印象はあながち当たらずとも遠からずという印象を受けたことも事実でした。

私がこの記事を書いたのが7年前のことですが、この頃から比べると、アイヌの置かれた環境も表向きはずいぶんと変わったと感じます。
北海道でも、自身がアイヌであることを隠さずに生活できること、その上でアイヌの文化を学び継承する動きが大きな輪で広がっていること。
アイヌ以外の人たちも、アイヌの文化を学びたいと積極的な活動がなされていること。
そして、それらの活動が報道などによって紹介される機会が増えたこと。
これは大変喜ばしいことではありますが、差別された苦労が風化されることを恐れている方がいらっしゃることも事実ですし、差別していた側との温度差が大きいことも確かなようです。

差別はさまざまな形で存在しますが、お互いの理解によってこれまでの差別的なイメージが、マイナスではなく相互の理解よる区別に変わっていければいいと最近は考えるようになりました。

_ 尚 ― 2014年04月22日 22時32分09秒

道東に住んでいます。2006年の記事にコメントして大丈夫かなぁ、と心配ですが・・  アイヌについて調べていましたら、こちらに辿り着きました。
昨年亡くなった祖母がアイヌだったことがわかり、それを祖母が隠して生きてきていたということもわかりました。 
たとえ遠い遠い先祖のことだとしても、差別や戦争の歴史を見ていると涙が出ました。少し、韓国の方々が日本人を今でも嫌っている理由がわかったような気がします。 歴史を見ていくと本土の方々がちょっと憎くなったりして。 それでもこうして今普通に暮らしていけてるので、先人の方々に感謝感謝です。私の先祖は有名なアイヌで記念碑のようなものも建っている、ということでした。名字くらいしか手がかりはないですがいつか見に行きたいなと思います。

_ makura ― 2014年04月22日 23時39分16秒

尚さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

>2006年の記事にコメントして大丈夫かなぁ、と心配ですが・・ 

こんな昔の記事ですが、私のつたない記事の中でも閲覧数の高い記事のひとつで、こうしてコメントをいただけるのは嬉しいことです。ありがとうございます。

アイヌの差別について、アイヌの方の立場から「差別された」という記事はよく見るのですが、「差別した立場」からの記事というのはほとんど見ないので、この記事を書いたことを自分でも非常に大切にしています。
差別をするという行為自体は恥ずべきことですが、それをきちんと自分で考える機会があったことは、賛否両論はあれば自分自身の中ではとても貴重であると思っています。

関東にいると、北海道にはなかった差別が渾然と存在しており、アイヌへの差別はそれらの差別にまぎれてしまっているかのようです。
もちろんアイヌへの差別がまったくないわけではありませんが、在日朝鮮人や日系中国人、在日アメリカ軍人、エタ・ヒニンなどなど、色々な差別を目の当たりにします。
私たちが昔アイヌの人々へ向けていたのと同じように、差別の目がさも当然の常識のように口にする人もいます。
在日米軍の脅威の中で生活をしていると、北朝鮮などの動きに連動するように、飛行訓練が夜遅くまで行われたりして、他の地域の人たちよりはほんの少しだけ「戦争」を意識せざるをえないような気持ちにもなりますが、これは私がこの地域ではよそ者だからかもしれません。

アイヌの方々と接する機会があると、悲しい過去は確かにあったけれど、だからこそその文化を遺し継承するという強い意識を感じることができ、大和民族はそのあたりを戦後曖昧にして過ごしてしまったような気がしてなりません。
悲しい過去はなかったにこしたことはありませんが、それが文化継承の意識のきっかけになったことは大変喜ばしいことです。
尚さんのご先祖様が大変高名な方だということ、それを誇りに思える環境に今あること、そしてそれを知る手がかりが存在することを、少しだけうらやましくさえ思います。
ご先祖様の足跡を尋ねる機会が、早くくるといいですね。

_ 通りすがりの者 ― 2014年08月21日 03時30分38秒

やはり、同じ感想をお持ちのようですね。
帯広は、閉鎖的な街でです。
特に、アイヌ民族への偏見や差別から、幼少期からの虐めが筆舌に尽くしがたいものがあります。
帯広の中でも、大空町(大空団地)に居住していたアイヌの方は、犬畜生と言われ、動物のように扱われていました。
驚いたことに、次のようなコメントをしている当事者がいました。

>はっきり言って、凄かったよ。小学校の時から一度でも喧嘩に負けたら
そいつにはずっと虐められ続けるからね。これは男だけの話だと思って
るでしょ、違うよ女も全く同じ。男に同じように殴られるしね。
でも、俺としては一番あの時がワクワクして面白かった時代のように
感じられるね。

まぁ、アイヌ民族に限らず、虐めや暴力の凄まじい地域でしたから。。。
私は傍観者であったので、卑怯ですが、敢えてここにコメントを残したいと思います。

_ makura ― 2014年08月23日 21時40分33秒

通りすがりの者さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

私は小中と大空でした。小学1年生から大空ではありましたが、もともと大空だったわけではなく、小学校入学と共に大空に移転しました。
なので、記事にもありますが、それまでアイヌという存在を全く知りませんでした。
記事に出てくるアイヌの同級生は、小学校1年生から3年生まで同じクラスでした。
その他にも女子でアイヌらしき同級生がクラスにいました。その子とは小学校6年間同じクラスでした。

確かに大空町はアイヌ差別のひどい地域なのでしょう。
後で帯広の別な地域に住む人に聞いても、実生活の中でアイヌの人と接することも少なかった地域もあるようで、アイヌ差別をまったく意識しないできた人もいるようです。
でも、特別暴力が横行していたかというと、私は約30年くらい前までそこで生活をしていましたが、普通に事件のある町であったように感じます。
12丁目のスーパーマーケットで自販機荒しが横行した時代もあったし、暴走族のたまり場になったり、ある地域に不良と呼ばれる人たちがたまっているということもありましたが、帯広の中で特別ひどかったということはなかったように思います。
ただ、閉鎖された場所であることは確かだし、“まち”からも離れた場所だったので、そういうふきだまりは目だったかもしれません。
学校暴力などが社会問題化した時代でもありましたが、特別大空の学校だけが暴力がひどかったという話もあまり聞きません。かえって“まち”の学校の方がひどかったように感じることもあります。
でも、このあたりは時代の感じ方もあるでしょうから、一概にはいえませんが。

大空でアイヌの人々が犬畜生扱と実際に呼ばれていたことは初耳でしたが、かなり手ひどい差別を大人からも子供からも受けていたことははっきり記憶しています。
大人も子供がアイヌを差別することを止めなかったし、一緒に遊ぼうとするとその子の目の前で「そんな子と遊ぶんじゃない」と叱る親御さんもいました。
そんなことを言った子の家に、アイヌの親御さんが怒鳴り込むということもありました。
アイヌであるないに関わらず、低所得者住宅と分譲住宅が混在する大空団地の中では、分譲住宅の家が低所得者住宅であるないに関わらず道営住宅に住んでいるという理由で差別することもあり、そのことで親が怒鳴り込みに行くということはたまに見る光景でした。
逆に、小学校中高学年になると、身体の大きくなったアイヌの子が、ちょっと不良っぽくなった他の子と一緒に、クラスの子に暴力をふるうこともありました。
ちょうど学級崩壊などと学校のあり方が社会問題になった当初のことでした。
子供が意思表示をする上で、一番最上級の拒絶が暴力でしかないことは仕方がないとはいえ、そういう事件がアイヌの子の立場を悪くするということはあったようです。

私は帯広を出て30年弱になりますが、それでも上京当時はアイヌ差別の実態をあまり意識していませんでした。
意識していなかったというより、考えないようにしていたような気もします。
それを意識することになったのは、進学した専門学校の友人の高校の友達の中に、在日韓国人の人がいて、私と始めて会ったときに「私は韓国人ですが、それでも仲良くしてくれますか?」と聞かれたことでした。
私は何故わざわざそんなことを聞くのだろうと不思議に思いました。
学校の友人は、在日韓国人の問題は当然知っていると思っているようでしたが、私は恥ずかしながら知識として知ってはいても、現実にどんなことが起きているかは知らなかったのです。
友達になるために、そんなことをわざわざ聞かなければならない現実に、ショックを受けました。

傍観者であろうとしているようですが、意識したときに考える機会があると思います。
こうしてコメントしてくださった勇気に感謝いたします。

_ 一丁さん ― 2014年10月31日 20時44分09秒

アイヌ差別について
私は小学校時代に白糠に住んでいました。
同学年には4人のアイヌの同級生がいましたが、いじめはなかったように思います。
私自身もアイヌの同級生に対しては全く特別な感情で付き合った記憶はありません。
現在、姉が帯広の大空町に住んでいますが、自分の姉の口から差別的な言葉を聞いたときは少々驚きました。私は現在65歳になりますが結婚後は約、20年間、ブラジルで暮らしていましたが自分の子供達がブラジルの学校で差別を受けたことは一度もありませんでした。
むしろ大事にしていただいたことの方が多かったと思います。
人生の半分以上を海外で暮らしてきましたが、正直な気持ち日本はいじめの社会に見えます。
仕事においては立場上、強ければいじめをするのが日本の社会です。
そのような考え方が自然に子供達にも伝わり、いつまでたってもいじめがなくなりません。
そのような日本人が海外においては外人に失礼なことを言われても黙っているようですが、、

今でも小学校時代のアイヌの同級生には会いたいと思っています。
大石君、どうしていますか? 犬石君もどうしていますか?
私は今、インドにいます。いつかお会いしに行きます。

_ makura ― 2014年11月01日 22時59分07秒

一丁さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

国内外、いろいろな国での貴重な体験談をありがとうございます。
お友達に会える機会が早くくるといいですね。

私も大空町を離れて、改めて大空で暮らす従姉妹や友達の話を聞くと、ちょっとびっくりするような言葉が飛び出てきたりします。
私自身、もしずっと大空あるいは帯広から出ずに生活をしていたら、やはり未だにそれが当り前の見識だと思って暮らしていたのかもしれないと、いつも思います。
差別的な感覚に限らず、当時は情報が地方に届くまでにタイムラグや不達があったりする時代でしたから、高校を卒業を控えその後の進路を決める際に、このまま井の中の蛙のままで一生を終えるのはイヤだと布団の中で泣いたことを今でも思い出します。

今住んでいる町は、土着意識が非常に強い土地で、結婚なども同じ地域の人とする事例が多く、鎌倉時代から先祖代々この地にいる人も多くいます。
私の知人では賃貸住宅に住んでいるときに、自治体の役員が周ってきたので役員会に出たところ、誰も苗字で呼ぶ人はなく「賃貸さん」と呼ばれるのだと困った顔をしていました。
私も賃貸の集合住宅に住んでいる頃は、地元のお祭りのお知らせも10年間受けたことがなく、いったいいつこの地域でお祭りがあるのか判らずに過ごしていました。地域の防災訓練、市民セミナーのお知らせも一度も知ることがなかったので、そういう催し自体が存在することを、別な自治体に移って最近になって知りました。
私は自治体で行われる催しに参加したいと思っても、10年間その機会を得ませんでした。この情報の時代に、回覧板でしか知りえない情報があることも事実なのです。

土地の人に面と向かって「よそ者」と呼ばれることはありませんでしたが、「ああ、地元の人じゃないのね」とがっかりされたことは何度もありました。
そういうことが差別でないかといえば、私は差別と感じました。
ただ、アイヌの人たちが受けたように、生活に支障が出るような妨害や嫌がらせを受けたことは一度もありません。
でも、「賃貸さん」と呼ばれることがなぜ嫌なのか、たぶんその役員会に出席している人が、私の知人以外全てが先祖代々この地に住む人であったら、理解してほしいと思っても理解できないのかもしれないなと思いました。

私は差別というのは、そういう小さなところから発生するのではないかと思っています。
もちろんよその人だから親切にされるということもあるでしょうから、それはそれで良い差別というのも存在するのだと思います。
でも、そういうことの積み重ねがたくさんになっていったり、大勢から一度に受けたりすれば、もしかしたら排除的であると感じるかもしれません。
また、それが自分にとって嫌な事だと感じ強く抗議をすれば、暴力的であると解釈され、暴力で返されるかもしれません。
そういう小さな差別が、ささいないじめに、そして大きないじめにつながっていくような気がします。

私は大空を出る機会を得て、少なくとも井戸の外を見た蛙にはなれたようです。
そういう意識をもてる機会を得る事ができ、考える機会を得る事ができて本当によかったと心から思います。
親や親戚と離れて暮らすことは寂しいと思うこともあれど、それ以上に地元を出て得たことの大きさを思うと、本当によかったと思えるのです。
あとは、その意識をどう人に伝えるかが課題なのかもしれません。

長文失礼しました。

_ ゆっきー ― 2016年10月13日 00時39分14秒

何気なく検索していたら、このブログに目が止まりました。
10年前の記事なので、大丈夫かな?と思いながら投稿してみます。
私は、22年前まで大空町に住んでいました。
記事を読んでいるうちに、makuraさんは私より10歳前後くらい先輩なのかなと思います。
私の父親はアイヌの血すじで、母はアイヌ語で(シャモ)和人です。
目に止まった記事は、そんな子と遊ぶなと言う親と、そこへ怒鳴りこむ親のところです。
このやり取りは、年上の知り合いから聞いた事が記憶にあったからです。
私の世代でも、差別はありました。
「アイヌ」という言葉は、馬鹿やアホよりも遥かに酷い悪口として使われていました。
ただ、私より上の世代はもっと酷い差別を受けていた事を聞いた事があります。
私自身、小学校低学年の時はアイヌという言葉自体を知りませんでした。
3~4年生くらいに、周りでアイヌという悪口が流行りだし、同時期くらいに自分がアイヌの血すじにあることを知りました。
それまで、何も気にかける事もなかったアイヌという言葉が、友達にはもちろん誰にも話す事が出来ない秘密になり、小学、中学時代を過ごしました。特に、何かされた訳ではなく、自分がアイヌという事が周りに知られるのが、ただ、ただ怖かったのです。仲間外れにされたら、いじめられたらと思う日々でした。
高校生になった頃、ほとんど大空町主体の生活が少しだけ外に広がり、不思議な事にそれまで嫌で嫌でしかたがなかったアイヌに少しずつ興味を持つようになりました。学生時代は興味より先には進む事はできませんでしたが、社会人になった頃にアイヌであることを受け入れる事を決断し、まずはアイヌ古式舞踊を始めましたが、受け入れたつもりでも仕事仲間などになかなか話す事ができず三年過ぎ、意を決して上司に話した時の事は一生忘れる事はないでしょう。不安な答えしか想像していなかった私には、想像できなかった言葉が返ってきました。
「知っていたよ、話してくれるのを待っていた。それは、とても素晴らしい事だよ。」
理解できるかわかりませんが、この言葉のおかげで今の私があると言っても過言ではありません。当時の私にはそれほど衝撃を受ける言葉でした。
それから何度か職を変えましたが、まず自分はアイヌである事を話す事から始めるようになりました。
受け入れてくれる人、そうでない人もいますが、今は昔ほど気にする事はなくなりました。これは私のたどり着いた結論ですが、アイヌを受け入れるという事は、周りの反応も全て受け入れる事だと。
これは、私が初めて話した上司にたまたま恵まれた事が良かった結果です。
長文になりましたが、理解してくれる人が増える事で救われる人も増えるのではないかなと思い、書かせていただきました。

_ makura ― 2016年10月16日 00時35分55秒

ゆっきーさん、コメントありがとうございます。
素晴らしいお話をありがとうございます。

>10年前の記事なので、大丈夫かな?と思いながら投稿してみます。

ありがたいことに、この記事は定期的にコメントをいただけるので、私にとってその都度考える機会を与えてくれます。

ゆっきーさんと素晴らしい上司の方との出会いは、本当にすてきなことに思います。
お返事をしたいのですが実は現在旅行中で、少し猶予をいただけると幸いです。
この記事のテーマについては、自分でもきちんと向き合いたいと思っています。
よろしければ、月末あたりにまた見に来ていただけると嬉しいです。

_ makura ― 2016年10月24日 03時00分39秒

ゆっきーさん、改めてコメントありがとうございます。

私の出会ったアイヌの多くの方は、アイヌであるというアイデンティティを取り戻すために、自分達の出自に目をむけ、その文化を継承すべく活動をしている人ばかりでした。
それは、永く失っていたアイヌの居場所を再び確保するために活動しているのだろうと、私は感じました。
中には常に怒りを持って、和人がいかにひどい行いをしてきたかを訴える人もいました。
アイヌの文化を継承する運動をしつつも、大昔のような女性が口の周りに刺青をし、狩りをするような生活でなくて良かったと言う人もいました。

アメリカの共和党大統領候補のトランプ氏が、移民を排除するという政策を発表したとき、私はこの人の先祖はどう見ても移民で、もともとアメリカ大陸にいた人種の人ではないように見えるのに、自分の出自まで否定するような政策をどうどうと発表する精神が理解できませんでした。
私はアメリカに住んだことがないので、実際のところアメリカ人というのがどういう人達なのか知りません。
でも、自分がアメリカ人であるという人には何人も会っていますが、その人達はそれぞれ肌の色も目の色も違う人達でした。
アメリカの中にいろいろなアメリカ人の区別があるように、アイヌと和人という区別がある以上、小さなものも含めて差別がなくなることはないと思います。
差別とは区別の究極で区別するものを拒否する行為であり、自分と他者を隔てる手段であると考えているからです。
自分と他人だって区別ですし、友達の家はわが家とは違います。
ただ、区別しても相手を受け入れることはできる。
自分とは違うものを、そういう存在もあるのだと認識し、容認することはできるわけです。
区別するものを受け入れ、差別を緩和することはできるだろうと思うのです。

私が20歳頃の30年前は、アイヌという言葉は口に出すのを少し躊躇する言葉でした。
それは北海道ほどではないにしろ、関東にいても同じでした。
しかし、30歳頃にはアイヌという存在を知ろうという活動が盛んに行われました。
そして、メインにある小学校の同級生と再会したのは、今から15年ほど前の話です。

ゆっきーさんが恐怖に感じていた大空時代から、アイヌを受け入れようと決意された時代の間には、多くの人達がアイヌの人権と文化を守ろうと活動してきた成果が見えてきた時代だったように思います。
ゆっきーさんがおっしゃるように、「アイヌを受け入れるという事は、周りの反応も全て受け入れる事だと」というのと同時に、和人である私達もアイヌという存在を受け入れること、そして自分達は同じ日本人であり、日本人というのは単民族ではないのだということを知ることも大切なのだと思います。

区別を受け入れ、差別をなくすということは、いまや日本だけでなく世界的にも改めて考えなければならないテーマなのではないかと、最近思います。

いつもながら、長文失礼いたしました。

_ ゆっきー ― 2016年10月24日 23時41分07秒

makuraさん、お返事ありがとうございます。
私も、差別は無くなる事はないと思っています。
ただ、100あるものを0にできなくても、100あるものを99、98・・・・と、少しでも0に近づける努力をしていこうと思っています。

_ makura ― 2016年11月02日 21時02分40秒

ゆっきーさん、お返事ありがとうございます。

>100あるものを0にできなくても、100あるものを99、98・・・・と、少しでも0に近づける努力をしていこうと思っています。

そうですね。
アイヌの問題に限らず、全ての区別を差別と感じないような努力が必要だと、私も思います。そのために私達ができることを考えていきたいです。

_ 竹内渉 ― 2017年06月14日 10時19分22秒

 加差別体験を明らかにされている文章は、まず見かけることが出来ません。ブログで公開されたことに敬意と感謝の意を表します。ありがとうございます。イヤイライケレ
 あなたのこの文章をアイヌ民族の歴史人権文化等の研修の教材として使わせていただきたくお願いします。
 差別の原因は、被差別者側にあるのではなく、加差別者側にあります。ですから、差別解消には、加差別者側が考え、自己を振り返り、差別をしてしまう歪んだ人権感覚を矯正しなければならないと考えます。(私もその一人ですが)そういった観点から活用させていただきたいのです。

_ makura ― 2017年06月21日 05時27分56秒

竹内渉さん、こんにちは。
コメントありがとうございます。旅行に行っていたので、お返事が遅くなって申し訳ありません。

>あなたのこの文章をアイヌ民族の歴史人権文化等の研修の教材として使わせていただきたくお願いします。

申し訳ありませんが、詳細をお伺いできれば幸いです。
ここで公開できない理由もあり、メールでお話させていただけないでしょうか。
このブログの右側のエリアの上の方「ここのひと」の下にmakuraとありますが、そこをクリックしていただければ、私宛にメールを送ることができます。
そこに、何を目的とした、どのような団体の、どのような教材にご使用されるのかを書いて送付してください。
よろしくお願いします。

_ shinshin ― 2021年07月17日 08時09分27秒

makuraさん、こんばんは、私は50歳の男性で少年時代を大空団地で育った者です。

コロナ禍で終日テレワークで在宅勤務を続ける傍ら、ふとした時に故郷の大空団地に
思いを馳せ、気が付けば懐かしき大空団地の路地をストリートビューで見ながらバーチャル帰省をしてしまっています。最後に帰省したのは5、6年前でしたので、そろそろ帰省したい気持ちが募っているのだと自認しています。たまたま「大空団地 アイヌ」と検索したところ、ここのページにたどり着きました。

私は3歳で大空団地に引っ越し、幼稚園から大学入学前まで大空団地で育ちました。
私の少中学校時代は一番生徒数が多い世代で、相対的にアイヌの子も多くクラスに必ず1人以上はアイヌの子がいました。そして、ここに書かれているイジメや差別のレベルが最も激しい世代だったのではと思います。記憶が定かではありませんが、小学校3年生頃からイジメや差別があったのではと思います。差別やイジメによるケンカで流血事件は日常茶飯事でした。決闘と称し、学校や近くの公園を舞台にアイヌの子たちを相手に極道の抗争意識に似たメンタリティーで怪我を伴う集団vs集団のケンカに明け暮れていました。

正直、私は小中学校時代にアイヌの子に差別する側にいた人間です。というか、当時クラスの子供達のほぼ全員が同じく(無意識に)彼らに差別の眼差しを持っていたのではないかと思います。

他の方のコメントのとおり、大空団地でのアイヌの人々への差別は弾圧のレベルに近く、あらためて客観的に振り返っても、それはそれは筆舌し難い壮絶なものだったと思います。過大な表現ではなく、人間として扱われていない訳ですから、今でいう鬱になって学校に登校できない子たちもいたはずです。自殺者が出たということは聞いたことはありませんが、彼らの日々の生活は命がけだったと推測します。

私は高校に行くまでアイヌの人々が大空団地以外でも同様の差別を受けているのだ思っていました。それが、やがて大空団地以外の社会や世の中を知るようになると、そこまでひどい差別はなく、大空団地でのイジメと差別がいかに異常で凄まじいものだったかを知りました。

なぜ大空団地だけアイヌの人々をそこまで差別しイジメたのか、当事者として自分なりに向き合って考えてみたのですが、きまってお風呂のない公営の集合住宅の所謂スラム街に住み、多くの家庭が貧しく常に汚れた身成りや見た目というわかりやすい「違い」だけが理由でイジメや差別を受けたのではないと思います。

社会的地位の低いアイヌの大人達の普段の生活や地域での振る舞いが、そうでない大人たち住民の目に「野蛮な人々」と写ったからのではないかと勝手に推測しています。
それ以前に大人達の多くがアイヌに対し、先住民族を見下した差別意識を持ち、その親から子に伝わり団地全体がアイヌとそれ以外(和人)という構造的差別意識の空気が団地全体に浸透していったからかもしれないと考えます。また、大空団地特有の他地域との隔絶された距離感がより一層閉鎖的な地域社会に深まってゆき、差別が助長されてしまったのかもしれません。

そんな私も、いわゆる大空団地内のスラム街と称される、1丁目の風呂のない公営住宅の長屋に住んでいました。同じ町内会にアイヌの子が非常に多い場所でした。小学生低学年の時は意識しませんでしたが、高学年くらいになると徐々に住んでいる家と地域に恥ずかしさと劣等感と嫌悪感を抱くようになりました。ある日同じ町内の長屋に住むアイヌの家庭が団地内に家を建て引っ越したことを知り、自分は彼ら以下なんだと、人知れず、悔しいというか情けなさい感情がこみ上げた記憶が蘇りました。

いつの間にか時は流れ、子を持つ親となった自身が我が子に対し、「イジメや差別はダメなんだよ」と言っている自分を振り返り、なんと情けない人間性であり卑劣であったか。思い出す度に自身の情けなさと悔しさがこみ上げ、後悔と自責の念に胸が締め付けられる想いです。

できることなら当時の心身共に傷つけた彼らに対し、直接会って心からの謝罪と償いができないものかと考えてしまいます。

長々と書きましたが、当時を振り返りながら赤裸々な記憶と感情を吐き出し、差別と偏見、そしてイジメという世界中にある社会全体の問題に対し自分なりに逃げずに向き合う一歩を踏み出したいと思っております。

_ makura_ ― 2021年07月17日 08時12分37秒

shinshinさん、コメントありがとうございます。
私の実家はまだ大空にありますが、大空もだいぶ変わってしまいました。団地内のスーパーはなくなり、12丁目の商業地域にも普通の住宅がたっています。道営住宅が建て替えられて市営に変わり、土地も安いので若い人も入ってきましたが、一時期は昔から住んでいる年寄ばかりになっていた時期もありました。

ノダさんは私よりたぶん6学年下だと思います。
私は大空小学校の二期生で、中学校はまだありませんでした。小学校もプールも体育館もなく、入学式も学芸会も各教室で行ったのを覚えています。徐々に人口が増え、中学校ができて小学校も広くなったのは嬉しかったです。
今は人口が減ったので、小学校が閉鎖になって中学校と合併し、大空学園という名前になったそうです。

コメントもずっと読んでいただいたようで、本当にありがとうございます。
この記事を書いたのはもう15年も前のことですが、この時の気持ちは未だに変わっていません。
それでも世の中はどんどん意識を変えていき、アイヌの人々を大っぴらに差別するような風潮はなくなってきました。
自分たちの意識が狭く、差別をした過去は恥ずべきことだけど、一番恥ずかしいのはそのことに気づかないことだと、この記事を書いてみなさんに教わりました。
私たちがいますべきことは、自分の反省を隠さずに伝えることなのではないかと考えています。
アイヌの方が胸をはって自分がアイヌであると言える世の中であること。そして、私たちは悲しい過去を繰り返さないこと。それが無理なく当たり前になるまで、私たちは悲しい過去を忘れるわけにはいかないのだと思います。
ノダさんが過ごした大空での出来事や、その後の生活で気づいたこと、そこにある気持ちを、そのままお子さんに伝えることで、これからの人たちに伝えることができるのではないでしょうか。誰に聞いたわけでもなく、そのままノダさんが感じたことは、それ以上貴重なものはないと思います。そしてその心こそが謝罪になるのではないかと思います。

懐かしい大空も、もうあの頃の隆盛は見られません。帰って正福さんの豚丼を食べるくらいしか、楽しみがなくなってしまいました。
帯広に戻れば、大空に住んでいるということで「あんなへき地のスラム街に住んでいるのか」と未だに友達に言われますが、そんな風に思う人の気持ちがスラム街ではないのだろうかと思ったりします。そういう人に限って「俺は差別はしない」と公言していたりするので、差別というのは本当に難しいものだと思います。
例えお店がどんどんなくなっていったとしても、大空の風景は私の原風景です。家の屋根から見える日高の山々は、まだ変わらずそこにあるのです。
嫌な思い出ばかりではなく、楽しかった思い出を思いだせる場所にしたいですね。

貴重な体験談を、ありがとうございました。

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このブログシステムは10年くらい進化を止めてしまったので、改めて投稿しなおしました
いまのところはこの方法しか思い当たらなかったので、ご了承ください
前のは非公開にして、時間などはわかるようにしておきました

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