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◇ペットシッター2006年07月02日 01時50分59秒

久しぶりに長期(といっても一週間だが)に里帰りをした。
旦那が一週間の出張に出ることになり、結婚以来一人旅というのをしたことがなかったので、海外にでも行こうと思ったのだが、私の友達は仕事が忙しかったり、子供があったり、妊娠中だったりして、同行してくれる人がおらず、体調のことも考え実家に帰ることにしたのだ。
実家に帰るといっても、今回は実家を拠点に帯広以外の土地に行って、今までなかなかできなかった博物館めぐりなどをしようと思ったのだ。

しかし、いざ家を空けるとなると、うちにいる老猫のことが心配である。
今までは実家につれていっていたのだが、さすがに18歳にもなると、環境が変わるだけでもストレスになるため、二の足を踏んでしまう。
獣医さんに相談してみたところ、年齢的なことを考えると、これまで他の動物に接したことのない猫が、ペットホテルや機内で長時間ストレスを感じることは避けた方がいいと言う。
帰省自体を中止しようとも考えた。
しかし、こんな機会はめったにないことを思うと、どうしても中止することがしのばれる。
そこで、ペットシッターに頼むことにした。

猫の場合、飼い主がいなくても環境の方が優先されるため、家で留守番をする方がいいらしい。
ただ、一週間ともなると餌や水、トイレの始末などが必要になるので、一日に一回シッターさんに家に来てもらい、必要なことをしてもらうのだ。
留守中に知らない人が家に出入りすることを、最初は躊躇したが、背に腹はかえられない。
向こうも信用商売だろうから、よもやおかしなことはしないだろうと、考えることにした。

インターネットでペットシッターの店を検索し、家の近所で値段の手ごろなところに頼むことにした。
問い合わせたところ、一回1500円+交通費で一回2000円とのこと。
旅行の初日と最終日は自分でできるので、中日5日間頼むことにした。
ペットの飛行機代が、5キロ以下で片道5000円であることを考えると、同じ値段でストレスが少ないのなら、その方がいいとも思った。

担当してくれる人は、ペットの飼育に関する資格のある人で、自分でも犬や猫を飼っている経験者である。
預ける猫の癖や、必要事項を事前に打ち合わせをし、留守中の様子はメールで報告してくれる。
可能であれば、携帯で写真をとって添付もしてくれる。
留守中の郵便物の受け取りなどもしてくれるし、天候に合わせてエアコンの調節などもメールで打ち合わせをしてやってくれるのだ。
留守中に出たゴミも始末してくれるので、帰宅したときに生ゴミの匂いが家中に充満しているということもない。

おかげで、飼い主がいないというのに、留守中新鮮な餌と水にありつけたため一キロ太り、獣医さんに「普通は痩せたりするんだけどね」と言われてしまった^^;

それでも、人見知りをするうちの猫は、シッターさんが来ても自分のベッドから出ようとはしなかったらしい。
猫好きのシッターさんは、なんとか仲良くしようと思ったらしいが、まったく関心を示してくれなかったのでちょっと残念そうだった。

私が帰ったとき、さすがにさびしかったらしく、異常に甘えてきて、風呂に入ろうとしても「どこにいくんだ」と怒り出す始末だった。
それでも、留守中無事に過ごせたことで、次も何かの機会があれば、お願いしようと思ったりした。

◇アイヌ民族への差別に思うこと2006年07月04日 17時38分42秒

アイヌ民族の口琴「ムックリ」
アイヌ民族の口琴「ムックリ」


今回の旅の目的の一つに、アイヌの文化を閲覧できる博物館に行くというのがあった。
私が小学校の頃、クラスにアイヌ出身の子が数人いたが、アイヌであるという理由でいじめられていた。私はそれまでアイヌ民族の存在を知らなかったので、小学校一年生にして初めてアイヌの人たちと接したわけだが、何故いじめの対象になっていたのか判らなかった。ただ、子供の多くがそうであるように、私も他の人と同じようにアイヌの人たちを差別の目で見てきたことは確かなのだ。

私が北海道を離れる前に、私の祖父母が何故北海道に入植してきたかという話を、今は亡き母方の祖父から聞いた。
戦時中の苦しい生活の中で、産まれた土地を捨て北海道に新天地を求めて移住した話は、私は大変良い話のように思えたが、その時は北海道に移住した多くの入植者のためにアイヌの人たちが土地を奪われたということと結び付けて考えることができなかった。

北海道を離れて生活するうちに、口琴という楽器に出会い、以来口琴関係の仕事や人付き合いが多くなってきた。そして、日本ではアイヌ民族が口琴文化を持っていることもあり、アイヌ民族の人たちとも交流を持つようになってきた。

以前、茨城県つくば市に在住していたとき、筑波大学の先生がアイヌ民族の文化を学ぶイベントを開いたときに私も多少お手伝いをしたのだが、北海道札幌市在住のSさんというアイヌ出身の方が世話係として招かれていた。
Sさんは私が小学校1年生〜3年生の頃同じクラスだった男子と同じ名前だったため、それとなく出身を聞いてみると帯広であると言う。しかし出身の小学校を聞いてみると、私の出た小学校とは違うというのだが、話を聞くにつけSさんは同じクラスのS君と同一人物であるとしか思えなかった。しかしSさんはそれは頑なに否定し、そして「あなたの住んでいた地域は、帯広の中でも差別がひどい地域なんですよ」と言った。
S君は学年では唯一のアイヌ出身の男子だったため、女子からも男子からも手酷い差別を受けていたのを思い出した。他のアイヌ出身の人たちよりも、よりアイヌらしい顔だちをしていたせいもあるのだろうと思う。
彼も幼いながら抵抗はしていたようで、フォークダンスの時にわざと鼻くそをほじって手につけていたりするので、よけい女子からは無視されていた。たまに遊びに誘ったりすると大変楽しそうにしていたことを考えると、本来はとても明るい少年だったのだろう。
しかし、彼の小学校時代の多くは差別との戦いの日々だったのだろうと思う。いくらアイヌ文化をみんなに知ってもらうイベントの付き添いであったとしても、突然出現した小学校時代の同級生と会って、昔の思い出を語り合うというわけにはいかなかったのだろう。

その時のことで、私は少なからずショックを受けた。
物の判断が狭かった時期のことであったとしても、自分が差別の目で見てきた人たちのこと。そして、直接的ではないにしろ、私達の祖先が国の政策により北海道へ入植したことで、アイヌ民族全体が民族の危機に陥り、大変辛い差別との戦いを強いられていたこと。
小学校の時には、北海道開拓や屯田兵、入植者の生活のことなどは郷土史の勉強として習ったが、アイヌの人たちがそのことでどういう生活を強いられることになったなどは、ほんの少し触れる程度でしかなかった。
学校のバス学習などでも阿寒湖に行って、バスの中でアイヌの歌を歌い、アイヌ民族の文化に触れるというイベントがいくつかあったが、本当の意味でのアイヌの人たちの生活にはまるで触れていなかったことも知った。

自分の産まれた土地にまつわる歴史の中で、もともとそこの土地に住んでいた人たちと後から入ってきた人たちとの間に摩擦があることは、世界中の例を見ても北海道も例外ではないのだ。だからといって、入植者の子孫である自分が、祖父母が北海道に入植しなければならなかった経緯や、入植後の苦労を考えると、入植してきた人たちを否定することもできない。
しかし、自分がこれまで行ってきた差別の目を見直し、自分の産まれた土地に昔から住んでいた民族のことを知ることが必要なのではないかと思った。

私の従姉妹などは、北海道での生活の中で、ごく当たり前のようにアイヌの人たちに対して差別の目を向けている。差別のために職もなく生活保護を受ける人たちも少なくない中で、酒を飲んであばれたりするアイヌの人たちが多いからだという。アイヌでなくても、そういう人は嫌われて当然だと思うが、なぜそうなってしまったかを考えると、やはりそこには「差別」という目に見えない壁があるからなのだと思う。

私がアイヌ民族の文化について学んだからといって、こういう状況が打開されるわけでもないだろう。
しかし、理解しなければ何も生まれないと思うのだ。
今回二風谷に行って、アイヌ民族博物館の方やムックリを売ってくれた民芸店の方は、私に大変親切にしてくれた。民芸店の方は、私が「自分は入植者の子孫だけれど、入植者の子孫の立場からアイヌの文化を知りたいと思う」と話したところ、とても嬉しそうにしてくださった。
それを見て、私も大変嬉しくなった。

◇二風谷アイヌ文化博物館2006年07月04日 23時13分58秒

二風谷アイヌ文化博物館で出会った猫

二風谷アイヌ文化博物館で出会った猫

 


二風谷工芸センターでもらった、
二風谷アイヌ文化博物館周辺マップ
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ソフトクリーム

2006年6月27日、帯広から日高方面に日帰り旅行に行った。

今回の目的は、平取町二風谷にあるアイヌ民族の博物館に行くことだ。二風谷にはアイヌ文化博物館をはじめ、アイヌ語の第一人者でアイヌ民族で初めて国会議員になった萱野茂さんの資料館、アイヌ民族の文化に深く関わってきた沙流川歴史館、スコットランドの医師で、アイヌの研究に尽力したマンロー博士の記念館などがある。

帯広の実家から国道38号線を抜け、日勝峠を抜ける。天気はあいにくの雨で、底冷えのする小雨が降り続く。峠に近くなると、雨は霧に変わり、数メートル先が見えない。
 私の知っている日勝峠は、道が狭く下手をすると崖から落ちそうな道だったが、さすがに20数年前から比べると道はずっとよくなっており、霧でもゆっくり走れば怖いことはない。
日勝峠を抜けるとにわかに晴れてきて、山の緑がまぶしい。途中ドライブインに寄り、ソフトクリームを買うのは旅のお約束。同行した母は夕張メロン味、私はミルク味を食べた。濃厚で大変美味しい。

道に沿って沙流川の清冽な流れがあり、中流のダムまでは高原の景色が美しい。
山を下るにつれまた天気が悪くなってきた。
 信号がほとんどなく、途中日高町の商店街に入るまではほとんどノンストップで入ることができる。スピードがだせないだけで、高速道路など無意味だとしみじみ思う。

国道237号線に入り、沙流川に沿って南下していくと、アイヌの工芸品などを販売するお店がちらほら目につくようになる。帯広の自宅から2時間ちょっとで、平取町二風谷に到着した。

駐車場に車を入れると、二風谷工芸センターの前にひとだかりがあり、学生風の人たちが猫をかまっている。どうやらここのマスコットらしい。
 工芸センターでは、アイヌ民族の工芸品の体験をすることができる。入口付近では最近製作されたらしいみごとな工芸品が陳列されており、奥の部屋では観光客が木彫りのアイヌ紋様彫りの体験をしていた。
 受付の女性に「ムックリを売っているところはどこでしょうか」と尋ねると、「ここいらのムックリはみんな阿寒からきているものなんですよ。二風谷ではムックリ作る人が少なくなっていてねぇ」と話しながら、近辺の民芸品店の説明をしてくれた。
 ムックリは我が家に数本あるが、その全ては阿寒のムックリ製作者「鈴木紀美代さん」のものである。今回の旅行で展示のチセ(アイヌの人たちの住宅)の前でムックリでも演奏し気分にひたろうと思っていたのだが、うっかりして口琴を持ってくるのを忘れたのだ。
 せっかくの旅の思い出に二風谷産のムックリを購入したかったが、阿寒産しかないと言われちょっと残念に思う。

教えてもらったお店の中から手短かな民芸店に入り、「ムックリありますか?」と尋ねると店頭にあるムックリを見せてくれたが、どれも弁ががたがたで品物が良くない。一本一本吟味する私に、お店のおばさんは「ムックリなんてどれも同じだよ」と言い放った。その言葉に、アイヌ文化を伝える気持ちが感じられず、がっかりしてその店を後にした。

 

二風谷アイヌ文化博物館

気を取り直してアイヌ文化博物館に行く。
 思ったより小さい博物館だが、博物館のわきには何棟かのチセもあり、イベントの時などはこのチセの中でアイヌの伝統儀式を見ることができるらしい。残念ながら、この日は何もイベントがないようで、チセの扉は鍵がかけられてた。
 受付を抜けると、「伝承サロン」というステージがあり二風谷のアイヌの歴史を綴ったビデオが放映されている。展示室は、「アイヌ<人々の暮らし>」「カムイ<神々のロマン>」「モシリ<大地のめぐみ>」の三つのスペースに分かれており、アイヌ語を簡単に学べる音声機などアイヌの文化を解りやすく展示されている。

興味深かったのは、アイヌの暮らしを記した文献などの写真やイラストを大きく展示してあることだ。
 アイヌの口琴ムックリは、女性の楽器である。女性が愛の意思表示をする時に使用されたロマンチックな楽器である。写真におさめられているのは、何かの儀式の時のものらしいが、口の周囲に入れ墨をほどこしているのがアイヌ女性の特徴でもある。
 一番右のイラストには、左上にムックリについての説明が簡単に書かれており、左下のイラストの横にムックリの演奏方法が説明されている。

   
二風谷アイヌ文化博物館に展示されている、ムックリ関連の画像
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重要有形民俗文化財指定のムックリ
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宝石のように展示されるマキリ
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アイヌゾーンには、ふだんの生活に必要な民具や彫り物、コタン(村・部落)ごとに異なるというアイヌ紋様の刺繍がほどこされた服などが飾られている。その中に、国の重要有形民俗文化財指定のムックリが展示されていた。今のムックリと違い、比較的細身に作られている。
 以前、横浜でマンロー展が行われた時にも展示されていたが、マンロー展に展示されていたものの方が細身で小さかった。演奏時に本体を固定するための糸(ムックリの本体にある糸)もマンロー展のものは存在していなかったが、重要有形民俗文化財のムックリは、この糸が存在している。よく見ると、糸は後からつけられたもののようで、新しいものだ。現在のムックリは本体を固定する糸があるので、糸をつけかえる時に現代のものに近い形にしてしまったのだろうか。それとも、糸のあるものとないものが存在するのだろうか。

アイヌの生活用品には、日本のそれととても近いものがたくさんある。食器を収納する「シントコ」はお雛様のお道具にも見られるものだし、小刀「マキリ」は北海道の一部で同じ呼び名が一般的に使われている。
 特に、マキリは狩猟民族であるアイヌの道具としては大変重要なもののようで、美しい彫刻を施したマキリがまるで宝石のディスプレイのように展示されているのが印象的だった。

博物館の受付の人に先程行った民芸店での対応を話し、「鳴るムックリを売っている店を知らないか」と尋ねると、「だったら、北の工房つとむに行ってみるといいですよ。私の名前を出して紹介されたと言えば、きっと良いムックリを見てくれますよ」と教えてくれた。さっそく「北の工房つとむ」へ行き、「博物館のKさんの紹介で来たのですが、鳴るムックリがほしいのですが」と話すと、お店にあるムックリを全てだしてきてくれ、「自由に音を試すといいよ」と言って、弁のけずりなどを一緒に見てくれた。
 ここでは、ムックリの製作体験などもやっているようだが、「実際にお店で売っているのは、阿寒のものなんだよ。二風谷のアイヌもだんだんと数が少なくなってきて、私くらいの人間が若手と言われるんだよ」と、私より幾分年上かと思われるお店のご主人は話してくれた。
 いくつか音をためさせてもらい、良く音のなるムックリを2本購入した。「製作体験があるということは、削る前のムックリもあるんですか?」と尋ねると、それも分けていただけるとのこと。体験工房の方で、竹の具合のよさそうな、調整前のムックリを2本選んで購入した。製品になっているのは500円、削る前のは350円だった。

「北の工房つとむ」のご主人と奥さんと20分ほど話をして博物館に戻ると、博物館の扉の前に観光客にかまわれていた猫が座っていた。中で両親を待たせていたので、扉をあけて中に入ろうとするとついてこようとする。ちょっと追い払って中に入り、両親と共に再び外に出ると、猫は私達を待っていたようについてくる。博物館前のチセを見学していると、自分がさも案内係のようにずっと同行してくるのだ。
チセの前での記念写真でも一緒に写っている。

 
チセを案内する猫
 
記念写真も一緒に
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二風谷アイヌ文化博物館HP
http://www.ainu-museum-nibutani.org/html/haku0N.htm

◇萱野茂 二風谷アイヌ資料館2006年07月05日 00時56分47秒

萱野茂二風谷アイヌ資料館前にあった看板

萱野茂二風谷アイヌ資料館前にあった看板

二風谷アイヌ文化博物館から国道237号線を挟んだ林の中に、萱野茂二風谷アイヌ資料館がある。
 萱野茂さんは、子供の頃祖母のユカラを聞いて育ち、アイヌが差別に苦しみそのアイデンティティを失っていた頃、登別で観光アイヌ(観光地でアイヌの民芸品などを売って生計をたてていた人たち)をしていた時に、アイヌ語の研究で北海道を訪れていた金田一京介氏と出会い、アイヌ文化の継承と保存に尽力した人である。アイヌ民族で初めて国会議員になり、アイヌ研究で博士号も取得した。惜しくも先日亡くなられてしまった。
 その萱野茂さんが、故郷の二風谷でこれまでの研究成果を資料館として残したのがここだ。

 
 
萱野茂資料館に
展示されているムックリ

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入口には「あなたの家から ここまで来るのに10万円 入館料は400円 時間がありましたらどうぞ!! ご入館ください」という看板が立っている。アイヌの人は明るくユーモアのある人が多いが、これも萱野さんの人柄が忍ばれる看板だ。
 小さな資料館だが、アイヌの生活用具から萱野茂さんが生涯をかけて編纂したアイヌ語辞典などが、所狭しと展示されている。アイヌの衣装も、コタンごとに違う紋様を地域別に分けて展示されていて、とても興味深い。

ムックリも数本まとめて展示されていた。その説明文には、「アイヌが持っている楽器は少ない中で、楽器らしいのはこれだけですが、人に聞かせるというより、その音色を自分で楽しむものでした」と書かれている。
 資料館の奥には広いホールがあり、壁にはアイヌの様子が描かれた絵画がかざってある。その中でも、ムックリを演奏する女性の図が圧倒的に多い。

 アイヌ語は聞けば聞く程、メロディアスで、普通の会話でさえ歌っているかのようだ。文字を持たなかったアイヌの人たちは、自分達の文化を語り(ユカラ)に託して後生へ伝えたらしい。ユカラもまた大変メロディアスだし、シントコの蓋をたたきながらリズムをとって歌を歌ったりというものはあったようだが、ムックリでさえごくごくプライベートな相手とのコミュニケーションの道具であったことを考えると、アイヌの音楽というのは楽器というよりは歌を中心としたものなのだろうと想像する。
 あくまで推測の域をでないが、神話などを読んでも、一度口から出た言葉は翻すことはできないという教えが何度となく出てくる。厳しい環境の中で人と人、あるいは人と神(自然)との契約がいかに重大なことかということを表しているように思う。 日常の会話や言葉のコミュニケーションを大切にしてきた民族だからこそ、楽器よりも人間が直接奏でる「歌」を重要視してきたのではないだろうか。

 二階には、カナダ、ロシア、中国、インド、アフリカ etc...の世界の民具が展示されている。どれも有志で集められたものらしく、目新しいものはあまりなかったが、鮭の皮で作られたマオカラーの中国風の服が印象的だった。アイヌ民族は、黒龍江沿いに住む民族と交流があり、その文化も酷似しているが、その周辺の民族のものだろうか。説明がないのではっきりしたことはわからない。

2階展示室の中央のケースには、世界の口琴も展示されていた。イタリア、欧州、フランス、中国、フィリピンなどの口琴があった。
 しかし、イタリアの口琴とされているのは、カザフスタンかキルギスタンの口琴のように見えるし、フランスの口琴とされているものは、どう見てもオーストリアの口琴にし見えない。フィリピンの口琴「クビン」は、ミンダナオ島のチボリ族のものと説明があるが、これだけなぜか口琴ではなく「ムックリ」と表記されている。こういう表記のひとつをとっても、口琴がいかにマイナーな楽器であるかがうかがえる。

帰宅してテレビをつけてみると、NHKで以前放映した萱野茂さんの番組が再放送されていた。資料館の横にあるチセの前でインタビューを受けたものだ。資料館にいったばかりだったので、萱野さん話していることが、資料館を見ただけではわからないことの補足になったようで大変面白かったが、突然のことで録画をするのを忘れてしまったのが悔やまれる。

 
カザフかキルギスの口琴のように思える
イタリア共和国の口琴
欧州の口琴
 
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オーストリアの口琴だと思う
フランスの口琴
フィリピンのムックリ「クビン」

 

萱野茂二風谷アイヌ資料館
http://www.ainu-museum-nibutani.org/html/sryo0N.htm

◇低温浴は男性には向かないのか?2006年07月09日 05時19分15秒

近所のスーパー銭湯にある、低温浴のお風呂が気に入ったので、家でもやってみた。
うちのお風呂は、温度を設定すると自動的にその温度でお風呂が沸くシステムなので、温度を38度前後に設定してお湯張りをする。
熱くもなく冷たくもないお湯にバスソルトを入れて入浴すると、刺激のない低温の水が大変心地よく、長くつかっていることができ、大変リラックスする。
バスソルトの香りも良く、あがるとさっぱりするので、夏などは風呂からあがって汗まみれということもないように思う。

この話を旦那にしたところ、近所のスーパー銭湯の男湯の方は低温浴のお風呂がないという。
確かについ最近まで、低温浴のところは香り湯となっていたはずだが、女湯だけ変わったのだろうか。
男女の浴場の規模などは同じなので、ニーズに合わせてお湯の温度だけ変えているのかもしれない。
ミストサウナなども、女湯だけ無料の塩が設定されているし。

旦那にも家での低温浴を勧めたところ、「熱いお風呂の方が好きだ」と言ってなかなか試してみようとしない。
うるさく言うと、しぶしぶ試してみたようだが、あがって感想を聞くと「あんましよくなかった」と言う。

今日みたいに、ムシムシ湿度が高く不快な日には最適だと思うのだが、スーパー銭湯にも男湯には低温浴がないように、こういう入浴方法は男の人には向かないのだろうか。

今日は試しにクナイプのユーカリを入れてみたが、ユーカリのハッカに似たスースーする成分が効いて、入っていてちょっと寒かった。

◇ヘナを試す2006年07月09日 05時36分56秒

愛・地球博 カタール館でやってもらったヘナタトゥー
愛・地球博 カタール館でやってもらったヘナタトゥー

2月に20年来の帯広の友人Kが東京に所用で来たので、羽田空港でちょっとだけ会ったときに、彼女が愛用しているというヘナをくれた。
この年齢になると、さすがに白髪も多くなってきて、髪を染める頻度も高くなってくるのだが、ヘナは以前から興味はあったものの、店頭で売っているものは価格に差がありすぎて、どれがいいのかわからず、それまで試したことがなかったのだ。

昨年、愛知万博「愛・地球博」に行ったとき、カタール館でヘナタトゥーをしてもらった。ヘナ自体は染色成分のある植物が原料らしく、中央アジアやインド、モンゴルなどでは髪を染めるほかに手などに模様を書いて、タトゥーのようにして使用するらしい。
カタールでは、ヘナタトゥーは女性がやるものだと説明があったが、タトゥーをしてもらった後に、インド館に行くと、インドでは結婚前夜の女性が行うものだと言っていた。モンゴル館では、男性も女性もやると言っていた。
植物成分だから身体にはやさしいことはもちろんだが、皮膚に浸透することで身体に良いということも、各館の人たちが口をそろえて言っていた。特に、婦人科系に良いらしいようなことも言っていた。
それで、女性だけやるとか、結婚前の花嫁がするというようなことがあるのかもしれないと、その時思った。

カタール館では、生クリームのしぼり袋のようなものにヘナを入れて、手の甲から指にかけて上手に花の模様を描いてくれた。
30分ほどそのままにして、水で洗うと皮膚にヘナが染まっており、10日ほど模様がついていた。

もらったヘナも使い方がいまいちわからずそのままにしていたら、今回の帰省の時にKが試させてくれるというのでお願いした。
粉状のヘナに水を加え、泡だて器で攪拌していくと、つやのあるペースト状になるので、それを普通に家でやる髪染めと同じ要領でシャンプー後の髪にまんべんなくなすりつけていく。
その後髪にラップをして30分〜1時間ほど放置した後、髪を軽くシャンプーして洗い流し、完全に乾くまでドライヤーをして終わりである。
普通の髪染めと違うのは、頭皮についても良いということくらい。頭皮についたものも、有効成分が浸透して身体にいいらしい。

最初は髪が固くなり、ばさばさになったように気がしたが、次の日普通にシャンプーすると、髪につやが増しさらさらになった。それは、日を追うごとに増していき、家にもどってからも数日間は、湿気の中でも髪が落ち着いて爆発するようなこともなく、頭皮の脂っぽさが少なくなった。
湿度が高く、べたべたした汗をかく日々が続く中で、下手をすると頭皮に湿疹ができたりすることが多いが、頭皮の脂っぽさが軽減されるのはうれしい。
抜け毛も少なくなるので、婦人科云々以前に男性にもいいのではないかと思ったりもした。

最初は10日後にもう一度やるといいと言われたが、二週間をすぎたあたりから、急に髪の質が少し元にもどってしまったような気がしたので、明日あたりもらったヘナをデビューさせようと思う。

◇田中宥久子の「肌整形メイク」2006年07月09日 06時03分36秒

7年前の顔になる「肌整形」メイク/田中宥久子/講談社
7年前の顔になる「肌整形」メイク/田中宥久子/講談社

最近、肌の衰えが顕著なので、マッサージを勧められ、いつになく励んでいる。それまでマッサージなど無意味だと思っていたのだが、化粧品屋に行ってマッサージをしてもらうと、格段に肌質に変化があるので、自分でもやっているのだ。
しかし、経路マッサージやリンパの流れから考えると、従来のマッサージは、どこか疑問が残ったりする。

ある日、本屋に行くと、田中宥久子という人の「肌整形メイク」という本があったので、購入してみた。
これまで第一線で映画などのメイクを手がけてきた田中宥久子という人が、SUQQUという化粧品のプロデュースをしたということで、PRも兼ねているらしい。
本には、マッサージの方法とメイクの方法が書かれており、DVDもついていてマッサージの方法が詳しく説明されている。

この本に書かれているマッサージ方法が従来のものと最も違うのは、従来のものはやさしく指を動かすというものが多かったのに対して、かなり強く皮膚を動かすのだ。マッサージというよりは、顔のストレッチに近い。皮膚とその下にある筋肉を動かすというのが、この方法の大きな特徴らしい。
DVDに出てくるモデルの人も、モデルなのにこんな顔をさらしていいのだろうかと思うくらい、顔の筋肉を動かしている。

別にSUQQUのマッサージクリームでなくても、マッサージすることに意味があるのであれば、どこのメーカーでもいいのだろうと考え、3日間朝晩マッサージを実践したところ、最初は顔がしびれた感じになるが、次の日からまず顔のむくみがとれ、顔がほっそりした。そして、肌がたるんで毛穴が流れて見えた頬のたるみが改善された(もちろん、比較の問題であるが…)。
このマッサージをする前の日に、いつも行ってる化粧品屋で、肌を拡大して肌質チェックをしてもらったが、一週間後に行くと肌質がかなり改善されていると言われ、嬉しくなった。
汗をかく季節になると、洗顔しても肌がざらざらしたりすることもあるのだが、このマッサージをはじめてから洗顔後肌をさすっても、ひっかかるものが何もなくすべすべするようになった。それまでは、クレンジング、洗顔後に化粧水をコットンでつけると、コットンに顔の汚れがつくことが多かったが、それがなくなったのだ。
そして、何より顔色が良くなったことで、ちょっとした外出時には、下地の上に粉をはたくだけで十分だし、化粧崩れも少なくなったように思う(重ねて言うが、比較の問題である)。

普段はマッサージクリームを使用しているが、旅行中大きなクリームボトルを持ち歩くのがいやだったので、無印良品のスクワランオイルで試してみたが、肌がつるつるになってその後しばらく何もつけなくても十分なくらいだった。
でも、マッサージ後にオイルを十分に落とさない時があり、その後にきびになって失敗してしまった。

最近はちょっとさぼって毎日はしていないが、それでも化粧をする前にこのマッサージをすると、化粧のりが格段に良くなるので、少し続けてみようと思う。

SUQQUのHP
http://www.suqqu.com/japan.html

◇北海道日高のししゃも寿司2006年07月12日 06時28分08秒

味処 西陣のIC開通記念ランチとししゃも寿司
味処 西陣のIC開通記念ランチとししゃも寿司

日高の二風谷に行った帰り、すっかり昼食を食べ損なった私達は、平取町から国道237号線を南に移動していた。
二風谷から富川までの間、気のきいた食事処などまったくなく、町のはしっこを通りすぎるだけである。
237号線から235号線にぶつかる三叉路の手前に富川町があり、ちょっとした商店街があったので、そこで食事をすることにした。2時近くなっており、ランチ終了にはぎりぎりの時間だ。

いくつか店がある中で、私達は「ししゃも寿司」の大きな看板が出ている「味処 西陣」という寿司屋に入ることにした。
「ランチの時間はまだ大丈夫でしょうか」と声をかけると、時間ぎりぎりなれどお店の人は快く受けてくれた。

日高では、札幌方面に向かう高速道路が開通し、近くにICができたらしく、西陣では「IC開通記念ランチ 700円」をやっていたので、ランチを一人1人前づつとししゃも寿司を三人で一人前だけ注文する。

しばらくして出てきたお盆を見てびっくりした。
手前にある突き出しに、ししゃもの寒露煮、なめこ漬け、日高昆布の佃煮。
まん中には、天主が言うには幻の魚で普段はまかないに出しているという、おおばかれいの煮付け。
そして右上にはかれいのフライと、卵焼き、デザートのすいか、左上にはおひょうとつぶ貝のさしみ(つぶ貝は一人一個!)。
お盆に乗り切らないテンプラは、えびとししゃもとなすである。
これにご飯と味噌汁がついて700円(この他にも2品ついていたのだが、何がついていたのか失念した。とにかく盛り沢山だったのだ)。
ししゃも寿司も7貫ついて700円である。
この時期はししゃもの時期ではないので、ししゃもは冷凍ものだということだったが、それでも本場のししゃもは大変おいしかった。樺太ししゃもとかいうニセモノとはまったく味が違うのである。とにかく味が濃い。
普段ただ焼くだけでしか食べたことがないししゃもが、生で寿司で食べられるということに、富川まで我慢して本当によかったと、同行した父と母も大満足である。また、ししゃもはテンプラにしても甘露煮にしても美味しいという、新しい発見もあった。

それにしても700円…。ちょっとした市街地だったら、1500円でも納得できる量と質である。安すぎる値段と、そのおいしさに、大満足の昼食であった。

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味処 西陣
門別町富川北1丁目1-8
午前11時〜午後9時
水曜日定休

◇忌野清志郎、喉頭がんで入院2006年07月14日 06時48分41秒

忌野清志郎といえば、日本ロック界のカリスマにして、70年代から活躍しているミュージシャンだが、私たちの世代としてはRCサクセションの忌野清志郎という方がなじみがあるような気がする。
最近では、社会的な題材を歌詞にして物議を醸したり、自転車にはまってその自転車を盗まれ、その後戻ってきたという話題を提供したりと、一般にも話題を提供する存在になってきていた。
独特のメロディーラインに、その時々のリアルな心理描写の歌詞を、忌野清志郎節とも言える歌唱法で歌われる曲は、とても心地よく親近感がもてる。
今でも、RC時代の曲をたまに聞きたくなることがあるし、たまに耳にすると色々な想いが湧き上がってきて、たまらない気持ちになることもある。

忌野清志郎の魅力は、あの歌唱法と声にあると思う。
長髪にはちまきをしめて歌っていた初期のフォーク時代も、メイクに派手な衣装を身に着けていたRC中期のR&B時代も、その後のソロ活動やさまざまなユニットの時代も、あの心地よい歌声は変わらない。
どの時代の清志郎も、どんな歌詞の内容であっても、すんなりその曲に入っていける不思議な魅力があるように思う。
長い間その声を聞かない時期があって、ちょっとの間忘れていても、ひょんなきっかけでまた出会ったとき、前と同じ気持ちで対峙できる、そんな親近感があるのだ。

昨日、携帯のニュース配信に「忌野清志郎、喉頭がんで入院」という記事を見つけた。
本人は、前向きな気持ちで治療に専念する意思表示をしているようで、ぜひともまたステージに立てるようがんばってほしいと思う。
ただ、ファンの心理として、もう前と同じ気持ちで清志郎の歌声を聞くということはできないような気がする。早く良くなってほしいという気持ちに変わりはないが、それだけが残念でならない。

このニュースを見たときに、高校2年の時に帯広でRCのコンサートがあるというので、文化祭の最中だったにも関わらず、チケット売り場に友達が徹夜で並んだことを思い出した。

当時は、オンラインチケット販売もぴあもなかったので、地方都市のコンサート等のチケットは、街中のレコード屋やたばこ屋などで販売していたのだ。席の指定も購入時にできるため、良い席をとるために、人気のあるコンサートのときは、開店時間の早いたばこ屋の前に行列ができた。

私は、家が少し遠かったのと親の反対に合い、徹夜で並ぶことはできなかった。
高校を卒業した年に交通事故で亡くなってしまった友人Mが、やはり街中近くに住んでいた友人Hの家に、徹夜で並ぶことをHの親に談判しに行き、Hはみんなと徹夜で並んでチケットを購入した。それを聞いたとき、かなりうらやましく思ったのだ。
文化祭準備の最中にコンサートのニュースを知り、チケット購入のため徹夜で並ぶということが友達間で決まったのは、チケット発売初日の前日だった。
時間もなかったのでMが私の家に来て親に頼み込むというのは、かなり無理な話だったのだが、当時Mと一番仲良くしていた私としては、ちょっと複雑な気持ちがした。

コンサートは横の見づらい場所だったが、なんとか前の方をとることができ、ステージからとんできた風船は、家を出るまで私の部屋につぶれてゴムがきしきしに固くなるまで飾られていた。

asahicom「忌野清志郎さん、喉頭がんで入院」
http://www.asahi.com/culture/update/0713/008.html?ref=rss

◇20年前の帯広駅前2006年07月15日 04時43分58秒

1986年当時の帯広の北側駅前。
青い色の場所は、これまでの記事に登場した店。赤い色の場所は良く行った場所。
画像をクリックすると大きな画像が別ウインドウで表示され、当時のお店の説明がでてきます。

 

 
   
  2006年現在の西2条通り。
平日の夕方5時というのに、車も人もほとんどいない。
   

このblogをはじめた当初、自分の原点である帯広の町のことから書きはじめたのだが、懐かしく思うのに名前が思い出せないお店や、すっかり忘れていた場所などがかなりあることがわかった。それで、当時の記憶をはっきり思い出すヒントになるのではと思い、帯広図書館で1986年当時の帯広駅前の住宅地図を入手した。
 入手した地図をそのまま掲載すると簡単なのだが、著作権の関係からコピーするのにも、ページの半分までという規定があるらしい。その地図を起こした人と連絡をとるわけにもいかないので、自分で地図を起こしてみることにしたのだ。

帯広の町は、町を造るときに京都を参考にしたとされるだけあり、碁盤の目のような構造なので、比較的地図には起こしやすい。
 1986年当時はまだまだこのへんは「まち」と呼ばれていた地域で、一番の繁華街だった。
 帯広は、大手企業の新商品の販売モデルタウンにもなっており、商店街の形式もこの当時はショッピングセンターや百貨店形式の店鋪よりも、専門店が多いのが特徴とされていた。 入手した地図には、建物一つ一つのお店の名前が掲載されていたが、いちいち記入するのが面倒だったので、自分の思い出深い場所と、目印になるような場所だけ記入することにした。
 西1条通りの東側に大通りという国道が走っており、その東側は飲み屋街とホテル街、そして住宅街へと移行していく。
 中心地となる「まち」と呼ばれる地域は、西5条通りと南9丁目通りまでが繁華街で、その先は商店と住宅地が混在する地域になっていた。
 条のつく東西に延びる通りは、それぞれメインストリートになっており、その東側に裏通りがある仕組みである。駅からまっすぐ延びる西2条を中心として、西側には商店、東側と裏通りには飲み屋街が多く存在するのは、現在でもあまり変わらない。
 ただ違うのは、現在はメインストリートが閑散としていて、テナント募集のビルが目立ち、西2条通りには人がほとんど歩いていないのだ。20年前には、このへんは一般の企業も多く入っており、平日の夕方の5時頃には買い物帰りの人や学生が家路につくバスを待つ人でいっぱいだった。
 今でも、飲み屋街だけはにぎわっているようなので、もう少し遅い時間だと人が出てくるようになるのだろうと思う。

帯広は、線路を高架化すると共に、それまでほとんど何もなかった駅の南側の開発により、図書館やホテルが南側に移動してしまった。また、それまでは西2条通りで地味な存在だった長崎屋が、駅の南側に大きなショッピングモールを構えたため、帯広の「まち」は一気に南側に移行してしまったのだ。
 それに伴い、西5条にあったイトーヨーカ堂が南側郊外に移転したのをきっかけに、帯広市内の大手スーパーがこぞって郊外型ショッピングモールを展開し、買い物をするのにいちいち「まち」に出て行かなくても良くなってしまった。

学生時代は長期の休みに帰省することができたが、仕事をするようになると往復7万円近い交通費を捻出するのは難しく(当時は安い航空券がなかなかなかった)、しばらく帰らないでいるうちに帯広は私の知らない街になってしまった。
 人が大きく変わっていくのもちょうどこの時期で、その頃の私の故郷に対する喪失感は相当なものだったのを覚えている。
 このあたりは今でも「まち」と慣例的に呼ばれてはいるが、昔の「ちょっとおしゃれしてお出かけする場所」という意味ではなくなってしまった。
 今このあたりにいるのは、テレビを見て駅前のぱんちょうの豚丼を食べようとやってきた、観光客だけのような気がする。
1986年当時の地図を起こすにあたり、本当なら南8丁目あたりまで作りたかったのだが、あまりにも巨大な地図になりすぎるので断念した。
 西2条南8丁目周辺には、六花亭の本店もあるし、劇団しらかばの本拠地(?)であったスケアクロウもあったが、掲載することができず残念である。

 

 
今も昔も変わらない、かじのビルの入口   マルヒロセンター入口看板

 

 
現在のかじのビル外観  

それでも、すでになくなってしまっていると思われていた、かじのビルと「西2条通りの廉売」マルヒロセンターは未だ健在であった。しかし、かじのビルは一階には昔からあった食器屋一店があるだけで、1986年当時あった魚屋や乾物屋などの店鋪はもうなく、閑散とした中に「懐かしの昭和展」なるものを展示してあり、ちゃぶ台に茶箪笥、足付きテレビといった昭和当時の再現ディスプレイがあった。Piccoのあった2階はサラ金が入っているようだった。
 マルヒロセンターは、西2条に面した入り口に、昔からある博多屋という靴屋があるだけで、年寄りのおしゃれの店が並んでいた場所はほとんどテナント募集中であった。ところどころに、新しい飲み屋が入っており、マルヒロセンターを抜けて西1条の裏通りに出ると、最近帯広で話題だという屋台街に出る。屋台街には、昔ながらの一杯飲み屋風の店から、中国人による本格中華、イタリア料理屋、ブラジル料理屋(?)などめずらしいお店も並び、おいしそうな匂いがただよってくる。この次帯広で遊ぶ時間のあるときは、是非立ち寄ってみたいと思った。そして、ここを中心にまた帯広の「まち」が活気を取り戻してくれるといいと思う。
 マルヒロセンターも、この屋台街の延長として新しく変わろうとしている最中のようで、帯広の「まち」が誕生した当時からあるマルヒロセンターが、そのきっかけを作るかもしれないと思うと、なんとなく感慨深いものを感じた。




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