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◇Daily Queen2006年06月01日 06時10分48秒

1970年代当時、帯広にはハンバーガー店というものがなかった。
喫茶店の多い町だったので、あるいはどこかの店のメニューになったりはしていたかもしれないが、ファーストフードとしてのハンバーガー店は一件もなかった。

1980年か81年頃(もしかしたら1979年だったかも)、西二条にDaily Queenがオープンした。
帯広初のハンバーガーショップだ。
ここのソフトクリームは、今でいうミニストップのソフトクリームをもう少し濃厚にした感じのもので、ぐるぐるとうずまくスタイルではなく、雪だるまのようにソフトクリームの塊が二段になって、コーンにのっかっているというもの。
これがものすごくおいしかった。
私は、ここのシーフードバーガーも好きだった。

二階のイートインコーナーには、テーブルゲームがおいてあり、学校の帰りにここでハンバーガーを食べながらディグダグをするのが楽しみだった。

旧ニチイにも支店ができるほど隆盛し、帯広の若者の食欲を支えてきたが、1984年に西二条9丁目にロッテリアが開店。
その後西五条にモスバーガーが開店するなど、帯広にも続々とファーストフード店が進出し、帯広の町自体が郊外へと移動するうちに、Daily Queenはいつのまにか姿を消してしまった。

上京してから、銀座にあったDaily Queenにソフトクリームを食べにいったりもしたが、そこの店も姿を消したらしく、見当たらなくなってしまった。
デイリークーイン・ジャパン自体が売りに出されているという噂も聞く。

あのソフトクリームだけでも、もう一度食べたいと思う人は多いんじゃないかなあと思うのだが…。

◇記憶の底にひそむ焼肉屋2006年06月02日 01時40分51秒

帯広は焼肉がうまくて安い土地だと思う。

先日、帯広では老舗といわれる「平和苑」という焼肉屋(ちょっと上等な店)に両親と妹夫婦と6名で出向き、焼肉盛り合わせだの、豚足だの、ジンギスカンだの、タン塩だの、レバ刺しだのをしこたま注文し、ビール、焼酎ボトル、日本酒をさんざん頼んで2万円ちょっとだったのにはびっくりした。
詳細を見ると、お銚子一本350円だった。

関東だと○角なみの値段か? 少なくとも牛○よりは肉はずっと上等で量も多い。

1985年当時、私たちはとても貧乏だったが、ちょっとお金が入るとみんなで焼肉を食べに行った。
当時、西一条11丁目か12丁目の裏通りに、一件の焼肉屋があった。
炭火焼の店ではなかったけれど、ここの肉は安くてうまく、20歳前後の私たちでも、気軽に食事をしてビールなども飲むことができたのだ。
有名な店ではなかったし、場所も駅前の裏通りと繁華街からもちょっと離れていたので、いつ行っても混んでいて入れないということはなかった。

関東ではあまりおいている店はみかけないが、帯広の焼肉屋ではミノの刺身がメニューにたいていある。
つけダレが店ごとに違っていて、ゴマ風味だったり、ちょっと辛いタレだったりと色々だが、そこの店のタレはゴマ風味で絶品であった。
今でもここのミノ刺しの味は忘れられない。

その店は1987年前後に閉店してしまったので、もうあの味を味わうことができないのが残念だ。

なのに、どうしても店の名前が出てこない。
数年前までは覚えていたはずで、友達との会話でも「○○苑のミノ刺しはうまかったよねー」と話していたはずなのだ。
一緒に行っていた友達と先日「あの店、なんて名前だっけ」と聞いても、その友達も忘れてしまっていて、二人で記憶の呪いがとけないままでいる。

◇フードセンターの思い出2006年06月02日 01時55分28秒

帯広の繁華街のど真ん中に、フードセンターというスーパーマーケットがある。
通りをはさんだ向いがわにも同じような規模のスーパーマーケットがあり、1985年頃ではめずらしく夜中まで営業していた。
当時の帯広には、コンビニエンスストアというものは存在しておらず、市内でも24時間営業している店は郊外に2件ほどしかなかった。

1985年のある日、帯広市民会館に戸川純さんのコンサートが行われた。「好き好き大好き」ツアーだったと思う。

当時の市民会館の関係者出入口は、一般でも簡単にいける場所にあったため、コンサートに出向いた人の多くは、コンサート終了後出待ちするためそこにたむろしていたが、私と友人Kはそのままカラオケかどこかに行ってしまった。

時間は12時近かっただろうか。
私たちはお腹がすいていたけど、お金もなかったので、白飯と桃屋のザーサイを買って帰って食べようということで、フードセンターに向かった。白飯に桃屋のザーサイは、当時貧乏だった私たちのごちそうでもあった。

惣菜コーナーでふとふりかえると、見たような顔の男性が通り過ぎる。
あっちにももう一人。
当時の戸川純さんのバックバンドであったヤプーズのメンバーがうろうろしているのだ。
私たちがじっと彼らを凝視していると、泉水敏郎さんが通り過ぎ、吉川洋一郎さんが「なんなんだ?」と戸惑った顔をしてそそくさとその場を立ち去っていった。

私たちは惣菜コーナーの前で、白飯を片手に抱えて振り返りざまに彼らを見ていたので、その様子は異様なものだったのかもしれない。

「純ちゃんが買い物に来ているはずだ」

そう確信した私たちは、パンフレットにサインをしてもらおうと「マジック! マジック!」と叫ぶと、惣菜コーナーのおじさんがすっとマジックを差し出してくれた。
そのかっこよさは、今でも後光がさしている印象で記憶に残っている。

歯ブラシ売り場で戸川純さんが歯ブラシを抱えているのを見つけ、私たちはその日のコンサートのパンフレットにサインをしてもらった。
戸川純さんの指にゴールドのマニキュアが輝いていたのを、今でもはっきりと覚えている。

翌日、コンサートに行って出待ちをした別の友人に話を聞くと、出待ちしていたけど結局会えなかったのだという。
私たちはなんと幸運だったのだろうか。
そして、マジックを貸してくれた惣菜コーナーのおじさんには、感謝しても感謝しきれない。
なぜなら、そのときマジックを買っていたら、私たちは桃屋のザーサイが買えず、おかずなしの白飯を食べなければならなかったからだ。

今でもそのときのパンフレットとコンサートチケットは、私の宝物だ。

※修正20100617
その後、このお店はフードセンターではなく、向かいのフクハラであることが判明。

◇十勝川温泉 大平原2006年06月02日 02時23分11秒

十勝川温泉は、世界でもめずらしいモール温泉という泉質の温泉で、美人の湯としても有名だ。
風呂の中にもやもやとした「湯の花」があり、入ると肌がつるつるになる。

帯広市内から、今でこそ30分程度で行くことができるが、1985年当時はもう少し時間がかかったような気がする。
今では、帯広よりもずっと開発されている十勝川温泉のある音更町も、当時は場所によっては民家もまばらなところが目立った場所だった。

昼間仕事をしたりだらだらしたりして、だいたい夜に活発な行動をしていた私たちは、さんざん遊んだ後夜中に突如として「風呂はいりてーな」と誰かが言う。
メンバーの誰かが車で来ていれば、それが夜中の2時であろうが3時であろうが、すぐに十勝川温泉ツアーが慣行される。

今では、日帰り入浴のある温泉ホテルもめずらしくないが、この当時は日帰り入浴さえもめずらしかった中、十勝川温泉の「大平原」は、1985年当時24時間日帰り入浴可の貴重なホテルだった。
夜中はすいていて、私たちのほかに客がいないことの方が多かった。
1時間ほど入浴し、だいたいロビーでテーブルゲームをして、4時か5時頃までだらだらし、家路につくというのが定番だった。
このころ、大平原のロビーにあったのは「パックランド」だった。

十勝川温泉も、観光地開発の一環として老舗のホテルも軒並みリニューアルしていく中、大平原もその例にもれず綺麗に改装されているらしい。
風呂も今では、サウナやウォータースライダーなんかもあるようで、日帰り入浴の営業時間も24時間ではなくなってしまっている。

現在の十勝川温泉大平原のHP
http://www.daiheigen.com/index.html

◇老夫婦の喫茶店2006年06月02日 02時41分40秒

場所もどこだかはっきりしないが、帯広の西一条南5丁目あたりだったのではないかと思う。
このへんは帯広の中心街からも少し離れた場所だったが、1985年当時一件の古い喫茶店があった。
店の名前も思い出せないが、老夫婦が二人で経営していた。

店に入ると、古い大きなストーブがあり、お茶請けに六花亭のベビーチョコレートを出してくれた。
派手なBGMもなければ、派手な装飾もないその店は、おいしいコーヒーとしんしんとした落ち着いた雰囲気の、居心地の良い場所だった。

店にいた老夫婦は、客に話しかけるでもなく、自分の仕事を終えるとさっさと店の奥にひっこんでしまう。
しかし、お冷が少なくなったりすると、すっとやってきて水を足してくれる心配りはちゃんとしていた。
客を適当にほったらかしてくれるので、落ち着いてコーヒーを楽しむことができたのだ。
いつもわさわさとにぎやかな場所にいたので、たまにしずかな場所でコーヒーを楽しむことのできるその店は、憩いの場所でもあった。

3年ほど前に記憶をたどって探してみたが、とうとう見つけ出すことはできなかった。

◇waiwai2006年06月03日 05時26分57秒

上京して最初に生活したのは、JR総武線の下総中山だった。
駅前に鬼子母神信仰の総本山があり、東京へのアクセスがいい場所とはいっても、1986年当時はものすごく田舎感にあふれた町だった。

駅前の商店街を抜けて10分ほど歩いたところに、店の前に植物がうっそうと生い茂り、一見そこが何の建物なのかわからない飲み屋があった。
近くにはデザインの専門学校の学生寮などがあったが、私がそこに住んでいた当時は、そこの学生をその店で見かけることは稀で、近所の人や地元の出身者が足を運ぶ店だった。
客の職業はまちまちで、カメラマン、美容師、ミュージシャンの卵、ディスコの黒服、土方の人など、おおよそ共通点などないような人たちだったが、常連客はみなマスターの人柄にほれて集っているようだった。

ここの目玉は、マスターの作る焼きそばだ。
直径20cmはある木の皿に大盛りに作ってくれる。
この焼きそばを食べたら、お腹いっぱいで酒など飲めなくなるのではないかといつも思った。

ネットで調べたら、2002年にはまだ健在だった様子だが、今でもあるのかは不明。

◇博雅2006年06月03日 05時47分47秒

1990年前後に、JR総武線平井駅の蔵前橋通り沿いに、博雅というラーメン屋があった。

ワンタン麺が大変おいしく、餃子かと思うような具沢山のワンタンが10個は入っていた。
ワンタンは、店のおやじさんと奥さんが、ふたりで開店前に手作りしているものだった。
ラーメン自体もおいしく、さっぱり濃厚な感じだった。

値段は忘れてしまったが、それほど高いという印象はない。
少なくとも、当時貧乏だった私がしょっちゅう通うことができた値段だった。
地元では有名店だったらしく、いつもお客さんでにぎわっていた。

店のおやじさんが亡くなってお店を閉めてしまい、もうあのワンタン麺を食べることができないのが残念だ。

◇亀井戸餃子2006年06月03日 05時54分57秒

JR総武線亀井戸の駅前の細い路地に入ったところに、亀井戸餃子がある。
テレビなどのグルメ番組にも幾度も登場しており、休日や夕方ともなれば行列ができてしまう有名店だ。
メニューは一種類の餃子と、数種類のお酒とビールとオレンジジュースなどのソフトドリンクだけ。
ご飯はないのだ。

店に入ると、コの字にカウンターがあり、向かって右側に小上がりがある。
早い時間に行くと、「なんでこの時間にこの人たちがここにいる?」と思わせるおじさんが、Yシャツ・ネクタイで餃子とビールを楽しんでいたりする。

カウンターの上には、大量の唐辛子が沈んだラー油と、醤油がおいてある。
カウンターの中では、おやじさんがでかい鉄鍋で次々と餃子を焼いている。
カウンターに座ると、有無を言わせず餃子が運ばれてくる。

一皿5個。

ここに来ると、最低2皿は餃子を食べなければならない決まりだ。
食べ終わった皿は客の目の前に積み重ねられ、その枚数でお会計をする。
けれども、女性客が大量の皿の前で追加注文したりすると、そっと皿を下げてくれたりする心遣いもあったりする。

キャベツと豚肉がメインの餃子は、とてもジューシーで、一度食べるとやみつきになる。

◇香取神社前商店街の路上焼き鳥屋2006年06月03日 06時09分23秒

1990年当時、亀井戸の蔵前橋通りから香取神社に続く道にある商店街の一角に、路上で焼き鳥を売っている店があった。
お店としての建物で売っているのではなく、路上にコンロを出しておやじが焼いていた。
焼き鳥屋の横では、家族が手作り餃子などを売っていた。

シロ、カワ、つくねなどの種類も多く、一本30円と当時としても激安だった。精肉にはくしに赤い印がついていて、それでも50円だった。
持ち帰りで注文してもよし、その場で焼きたてをほおばるのもよし。
コンロの前には小さなテーブルがおいてあり、とうがらしも常備されており、その場で食べたときには食べ終わったくしの数で清算されていた。
お腹いっぱい食べても300円程度ですむというリーズナブルさは、当時貧乏だった腹を十分に満たしてくれ、しょっちゅう足を運んだ記憶がある。

隣で売っている餃子も絶品で、皮がもちもちして甘味があり、具もいっぱい入った大きな餃子が10個で300円だった。
その餃子は焼き鳥屋のお嫁さんの手作りだったらしいのだが、交通事故で亡くなってしまい、餃子はもう売っていないらしい。


場所はこのあたりだと記憶する。今でもあることを願っています
(ここをクリックすると地図がでます)。

◇米軍再編に対し「とりあえずのNO!を」2006年06月03日 10時47分12秒

私の友人で、北海道千歳市出身のNさんから、メールが送られてきました。

私の家も、毎日米軍の輸送機、戦闘機の影響を大きく受けており、最近では夜中の2時・3時にいたるまで、家の真上を飛行機が飛んでいきます。そのときの騒音と振動は、睡眠障害に陥ることもあるほどです。

米軍基地のある町では、今回の再編で多くが反対の市民運動が繰り広げられていますが、そのほとんどがメディアでは取り上げられずにいる状況です。

このblogにメールを紹介することで、これらの運動がどれだけみなさんに知ってもらえるかは判りませんが、少しでも関心のある方は見るだけでも覗いてみてください。

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米軍再編に対し「とりあえずのNO!を」北海道千歳市
今、再編に関わる各地元自治体は、受け入れ可否の選択を強いられています。
北海道や千歳市も、当初は「受け入れは大変難しい」などと述べていましたが、今に至っては受け入ざるを得ない状況に追い込まれているようです。

しかし、沖縄を一つと数えても13に渡る各地域の実情は、全国的な報道もなされておらず、よくわからなりません。

更に、米本土からの飛来・訓練日数の増加・国内の他の基地への拡大など、米軍再編最終報告にあるよりも、将来は重い負担となるであろうことが、あらわになってきています。

今回の再編は、各地域だけに関わるものではありません。日本全体・グアム・韓国を始めとした、東アジア全域のこれからを握る重大なものです。

しかし各地元自治体は、地元の答えとして受け入れを「認める」か「拒否する」か、YesかNoかの決断を、今にも迫られているのです。
それは、どちらの答えを選ぶにしても、とても重くつらいものです。

そこで私たちは、地元自治体が「とりあえずのNo」の答えを出すことが出来るように、との運動を始めました。
沖縄の多大な負担は、早急に改めなければいけませんが、この再編は内容があいまいなまま、あまりに急に実行に移されようとしています。
内容をあきらかにした上で、今後どうしていくのが良いかを考え、話し合われる時間が必要だと思います。
ですから、受け入れを永久に完全に拒否するという意味ではなく、今の段階において地元の責任では可否を判断することは出来ない。

だから今は「とりあえずのNo」という答えです。
この答えを導き出すためには、地元自治体以外の方々に、どれだけ多く賛同していただけるかにかかっています。
まずは人口のおよそ三分の二が自衛隊関係者といわれる千歳市から始め、ゆくゆくは再編問題全般へと、広くこの運動を広げ、成果を生み出すことを願っています。

ご協力いただきたいこと
・署名用紙(下記にあるHPでダウンロードできます)か、「米軍の移駐に反対し、平和で安全な街づくりを考える会」(これは、千歳市民の集まりです)のHPでの署名
北海道千歳市「米軍再編に関わる米海空軍部隊の千歳への移駐に反対する陳情書」への署名運動のHP
(この青い文字をクリックすると、別ページでHPにアクセスできます)
http://www.daiheigen.com/index.html

・千歳市議会議長への陳情書の提出
・このEメールやHPにある情報を一人でも多くの方に伝えること(直接話す、Eメールで転送する、HPにリンクをはる、ブログなどでの紹介、新聞などの読者欄へ投稿する、等) 〈千歳市の現状〉

当初の発表では、嘉手納からのF15戦闘機訓練移転のみとなっていました。 しかし今では、岩国と三沢からのF16、F/A-18戦闘機等も含めた訓練移転、施設の建設が計画されています。
5月22日、防衛施設庁施設調査官他が千歳を訪れ、(市議会)議員協議会が開かれました。 傍聴席は第二会場も一杯になりました。

しかし、議員の質問に対しての回答は「検討する」「日米間で調整」「適切に対処する」といった曖昧なものばかり。
そのためもあるのか、報道は北海道内に限られています。 千歳市には、戦後三十年に渡り米軍基地が置かれました。朝鮮戦争時には、千歳からも戦闘機が発進しています。

再びあの米軍がいた街となることを、多くの市民は望んでいません。 可否決定がなされるであろう千歳市議会は、6月5日から始まります。

なお、この署名は年齢にかかわらずご協力いただけます。騒音被害や米軍の犯罪は、年齢を問うものではありません。
反対の意志を持つ方であれば、中学生や高校生でも大丈夫です。

署名の締切は6月9日です。どうか急ぎ、ご協力の程よろしくお願い申し上げます。


「米軍の移駐に反対し、平和で安全な街づくりを考える会・京都在住者の会」



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