◇カマキリ ― 2009年11月17日 19時53分14秒

マンションの階段に、だいぶ前からカマキリが住んでいる。
晴れた日の日中は、陽の当たる場所にいたり、夜になると風のあたらない場所にいたりと、階段を移動して生活しているのだが、いつもいる階より上に行くこともないし、下に行くこともない。
つるつるした壁が自分のテリトリーのように、いつもそこにいる。
緑色をしたその身体と腹のあたりが平べったいことから、ハラビロカマキリのメスらしいが、緑色の身体がかくせるような色の壁でもないのに、電気があって虫がよってくるせいか、居心地がよさそうである。
ある日見ると、、階段の人通りのある場所でひっくりかえって、起き上がれなくなっていた。人に踏まれる可能性もあるので、端によせてあげた。
雨の日の今日は、風のあたらない場所で一日じっとしていて、夜に帰宅するまで同じ場所にいた。
カマキリは秋の虫というが、そろそろ卵を産んで世代交代する季節に入るのか。周囲にオスがいる気配はなさそうだが、卵を産むのなら階段ではなく、階段横の木に移動したほうが、定期掃除のときに吸い込まれる心配もなくていいんだけどなと、ちょっと思ったりした。
◇小さな一人旅 ― 2009年11月20日 03時42分55秒
帯広美術館前の坂から見た、雑木林越しの夕日
4年ぶりの帰省は、一人旅だった。
特別帰らないことを意識していたわけではなかったが、飼い猫が21歳(人間の歳だと100歳らしい)になり、今までのように家で留守番させるのが困難な状況が続いているため、帰る理由もみつからないまま4年が過ぎた感じだった。
気が付けば4年だったのである。
今回の帰省の理由としては、今年に入り親戚に不幸が続いたのがきっかけだった。
旦那と一緒に帰りたかったが、仕事の都合がつかないのと、猫を一人にはできないので一人で帰ることにしたのだ。
4年前にも一度一人で帰省したときに、釧路に行こうと思っていて行けなかったことがあった。
せっかくなので、帯広に行く前に釧路の叔母のところに行くことにした。そして、これが初めての小さな一人旅になった。
釧路空港へ降りる頃には、北海道の大地はすでに闇の中だった。
気流が悪く、数回旋回した後10分遅れで着陸したので、釧路市街への阿寒バスは時間ぎりぎりだった。
外は風が強く、バスの中にいても肌寒い。旅行かばんの中にコートを入れていたのだが、大きな荷物は一番の座席に置くよう指示され、私は一番後ろの座席にいたので、コートを出すことができない。
釧路空港を出たばかりの道は、街灯もまばらで真の闇が広がっているようで、久しぶりにこういう闇を見た気がした。
つくばにいる頃も、ちょっと中心地から離れた裏道を走ると、やぶから何か出そうな生ぬるい闇が続くのだが、北海道の初冬の闇は何もかも凍りつかせてしまうような冷ややかさがあり、何も気配がないのがかえって怖いような気がしたのを思い出す。
昔はわざとこういう闇の中にいて、感覚を研ぎ澄ましているのが好きだった。どこまでも続く闇は、どこにも向かっていないようで、不安な気分になる。それらの感覚は、今は求めても得ることができない。しかし、その片鱗でも思い出すことができたことにちょっとだけ驚く。
バスの終点で叔母に会い、ホテルで食事をして、叔母の家に着く。
私の記憶にある家より新しいので聞くと、叔父が亡くなる数年前にリフォームしたとのこと。私はそんなことも知らずにいた。
8時すぎに、思いがけず従姉妹が会いに来てくれた。彼女と会うのも、彼女の父親が亡くなって以来のこと。今回の帰省で、彼女の母親のお見舞いに行く予定をしているので、そのお礼に来てくれたのだ。
その日は、従姉妹が帰った後も叔母とあれこれ尽きない話をして、2時近くなってから眠った。
次の日は、叔母と二人で釧路市立博物館の展示を見に行く。こじんまりしていて、良い博物館だ。
昔は、博物館のすぐ近くにあった科学館に、叔母によく連れてきてもらった。今はその科学館は移設されて、昔の建物は今は利用されていないらしい。
博物館の内部は、螺旋階段を中心にこじんまりとした展示がなされている。
4階が釧路湿原とアイヌ「サコロベ」の展示。
釧路湿原のパノラマルームの展示が、天井がドームになっているので本当に湿原に立っているかのような気分になる。アイヌの展示もまとまっていて、阿寒だけでなく釧路周辺のアイヌの出土品や個人のコレクションの寄贈などを展示してある。
3階がなく2階が釧路の先代史の展示。ここでは、叔母が昔実際にこういう道具を使っていたと、展示してある道具について説明をしてくれた。
そして、1階は釧路の自然の展示。マンモスの標本や、北海道の大地に生きる生き物や植物などを紹介している。
その後、駅前に移動して釧路の市場で遅い昼食を取る。
市場で珍味を買いたかったが、なんとなく食指が伸びない。
夕方のタイムセール中というのに、建物の中は人気がまばらで活気がない。
思えば、釧路の駅前も人気がまばらで、シャッターが閉まるお店も多い。ここでも商店街の人離れが止まらないのだと言う。
寒い時期は観光客もこないし、余計なのだろう。
市場の中に叔母の親戚がやっているお店があり、そこでほっけや筋子などを購入して自宅に郵送してもらった。
汽車の時間が近づいたので、16時17分発の特急おおぞら12号に乗るため、駅で乗車券を購入する。自由席か指定席か聞かれたが、自由席に。
しかし自由席はほぼ満席で、ぎりぎり席に着くことができた。車内アナウンスでは指定席は満席であるとのことで、利用者の多さにちょっと驚く。
駅のホームで、寒い中叔母が時間までずっと見送ってくれた。昔と違って窓が開くわけではないし、席を離れると取られてしまうので、話すこともできずそこを動くことができなかったのが心残りだった。
特急おおぞらは根室本線から石勝線に続く路線である。
特急だと釧路から帯広まで約1時間半で着く道のりが、鈍行だと3時間以上かかる。昔は、釧路の叔母の家に行くときに必ず汽車に乗ったのだが、3時間以上かかっていたような記憶がある。
目をこらして暗い窓の外を見るのだが、車内の電気が明るすぎて外が見えない。延々と続く冷たい闇の中、ときたま街や車の明かりが見えるが、ほとんど何も見えない。
窓に顔をつけてやっと見えた景色は、線路際ぎりぎりに波が打ち寄せる暗い海であった。 そういえば、昔こんなに線路ぎりぎりに海があって、汽車が海の中に入ってしまわないのだろうかと思った記憶がある。
白糠に近づくにつれ海は線路から遠ざかり、池田に入る頃にはすっかり内陸の何も見えない暗い景色に変わっていくが、釧路を出てからしばらく海が続く景色が昔はとても好きだった。
暗い海が続く景色の中で、ときおり停車しない駅前の風景に人の気配を感じるが、そのどれもがモノクロームの冷たい世界で、つげ義春の旅日記を思い出し、一人でいることがものすごく寂しいような、清清しいような気分になってくる。
今度来るときも一人なのか、あるいは旦那と二人なのかはわからないが、次は明るい時間に汽車に乗ろうと思う。
帯広駅に着き、父が駅まで迎えにきて私の一人旅は終了した。ここからは帰省旅である。
行く前に、旦那は「カメラを持っていっていいよ」と言ってくれたのだが、一人でカメラを持ち歩くことがなんとなくためらわれて、カメラを持っていかなかった。
だが、これは後で後悔に変わった。
うまく写らなくてもいいから、あの線路際に続く暗い海の写真を撮っておけばよかったと思った。
今回は、帯広に着いてからも仏さん参りやお見舞いで、友達に会う時間がとれなかった。
唯一、帯広百年記念館と美術館で開催されていた、ロシアの博物館にあったアイヌの資料を展示した大掛かりなイベントを、半日かけてゆっくり見ることができたのが収穫だった。
もう少しゆっくり時間をとろうと思えばとれたのだが、体調も芳しくなく、実際帯広にいる間謎の湿疹に悩まされ(これは、ヒートテック素材の下着が原因か? できるならカニでないように)、こちらに戻ってからも大変だったので、この期間が限界だった。
それに帯広の友人は喫煙者が多いので、実際今の私の体調では5分と一緒にいられないだろう。
友人には会いたいが、今はタバコの臭いだけで気持ちが悪くなってしまうので、タバコが平気になった頃にまた連絡できたらいいと思う。
4年ぶりの帰省は、一人旅だった。
特別帰らないことを意識していたわけではなかったが、飼い猫が21歳(人間の歳だと100歳らしい)になり、今までのように家で留守番させるのが困難な状況が続いているため、帰る理由もみつからないまま4年が過ぎた感じだった。
気が付けば4年だったのである。
今回の帰省の理由としては、今年に入り親戚に不幸が続いたのがきっかけだった。
旦那と一緒に帰りたかったが、仕事の都合がつかないのと、猫を一人にはできないので一人で帰ることにしたのだ。
4年前にも一度一人で帰省したときに、釧路に行こうと思っていて行けなかったことがあった。
せっかくなので、帯広に行く前に釧路の叔母のところに行くことにした。そして、これが初めての小さな一人旅になった。
釧路空港へ降りる頃には、北海道の大地はすでに闇の中だった。
気流が悪く、数回旋回した後10分遅れで着陸したので、釧路市街への阿寒バスは時間ぎりぎりだった。
外は風が強く、バスの中にいても肌寒い。旅行かばんの中にコートを入れていたのだが、大きな荷物は一番の座席に置くよう指示され、私は一番後ろの座席にいたので、コートを出すことができない。
釧路空港を出たばかりの道は、街灯もまばらで真の闇が広がっているようで、久しぶりにこういう闇を見た気がした。
つくばにいる頃も、ちょっと中心地から離れた裏道を走ると、やぶから何か出そうな生ぬるい闇が続くのだが、北海道の初冬の闇は何もかも凍りつかせてしまうような冷ややかさがあり、何も気配がないのがかえって怖いような気がしたのを思い出す。
昔はわざとこういう闇の中にいて、感覚を研ぎ澄ましているのが好きだった。どこまでも続く闇は、どこにも向かっていないようで、不安な気分になる。それらの感覚は、今は求めても得ることができない。しかし、その片鱗でも思い出すことができたことにちょっとだけ驚く。
バスの終点で叔母に会い、ホテルで食事をして、叔母の家に着く。
私の記憶にある家より新しいので聞くと、叔父が亡くなる数年前にリフォームしたとのこと。私はそんなことも知らずにいた。
8時すぎに、思いがけず従姉妹が会いに来てくれた。彼女と会うのも、彼女の父親が亡くなって以来のこと。今回の帰省で、彼女の母親のお見舞いに行く予定をしているので、そのお礼に来てくれたのだ。
その日は、従姉妹が帰った後も叔母とあれこれ尽きない話をして、2時近くなってから眠った。
次の日は、叔母と二人で釧路市立博物館の展示を見に行く。こじんまりしていて、良い博物館だ。
昔は、博物館のすぐ近くにあった科学館に、叔母によく連れてきてもらった。今はその科学館は移設されて、昔の建物は今は利用されていないらしい。
博物館の内部は、螺旋階段を中心にこじんまりとした展示がなされている。
4階が釧路湿原とアイヌ「サコロベ」の展示。
釧路湿原のパノラマルームの展示が、天井がドームになっているので本当に湿原に立っているかのような気分になる。アイヌの展示もまとまっていて、阿寒だけでなく釧路周辺のアイヌの出土品や個人のコレクションの寄贈などを展示してある。
3階がなく2階が釧路の先代史の展示。ここでは、叔母が昔実際にこういう道具を使っていたと、展示してある道具について説明をしてくれた。
そして、1階は釧路の自然の展示。マンモスの標本や、北海道の大地に生きる生き物や植物などを紹介している。
その後、駅前に移動して釧路の市場で遅い昼食を取る。
市場で珍味を買いたかったが、なんとなく食指が伸びない。
夕方のタイムセール中というのに、建物の中は人気がまばらで活気がない。
思えば、釧路の駅前も人気がまばらで、シャッターが閉まるお店も多い。ここでも商店街の人離れが止まらないのだと言う。
寒い時期は観光客もこないし、余計なのだろう。
市場の中に叔母の親戚がやっているお店があり、そこでほっけや筋子などを購入して自宅に郵送してもらった。
汽車の時間が近づいたので、16時17分発の特急おおぞら12号に乗るため、駅で乗車券を購入する。自由席か指定席か聞かれたが、自由席に。
しかし自由席はほぼ満席で、ぎりぎり席に着くことができた。車内アナウンスでは指定席は満席であるとのことで、利用者の多さにちょっと驚く。
駅のホームで、寒い中叔母が時間までずっと見送ってくれた。昔と違って窓が開くわけではないし、席を離れると取られてしまうので、話すこともできずそこを動くことができなかったのが心残りだった。
特急おおぞらは根室本線から石勝線に続く路線である。
特急だと釧路から帯広まで約1時間半で着く道のりが、鈍行だと3時間以上かかる。昔は、釧路の叔母の家に行くときに必ず汽車に乗ったのだが、3時間以上かかっていたような記憶がある。
目をこらして暗い窓の外を見るのだが、車内の電気が明るすぎて外が見えない。延々と続く冷たい闇の中、ときたま街や車の明かりが見えるが、ほとんど何も見えない。
窓に顔をつけてやっと見えた景色は、線路際ぎりぎりに波が打ち寄せる暗い海であった。 そういえば、昔こんなに線路ぎりぎりに海があって、汽車が海の中に入ってしまわないのだろうかと思った記憶がある。
白糠に近づくにつれ海は線路から遠ざかり、池田に入る頃にはすっかり内陸の何も見えない暗い景色に変わっていくが、釧路を出てからしばらく海が続く景色が昔はとても好きだった。
暗い海が続く景色の中で、ときおり停車しない駅前の風景に人の気配を感じるが、そのどれもがモノクロームの冷たい世界で、つげ義春の旅日記を思い出し、一人でいることがものすごく寂しいような、清清しいような気分になってくる。
今度来るときも一人なのか、あるいは旦那と二人なのかはわからないが、次は明るい時間に汽車に乗ろうと思う。
帯広駅に着き、父が駅まで迎えにきて私の一人旅は終了した。ここからは帰省旅である。
行く前に、旦那は「カメラを持っていっていいよ」と言ってくれたのだが、一人でカメラを持ち歩くことがなんとなくためらわれて、カメラを持っていかなかった。
だが、これは後で後悔に変わった。
うまく写らなくてもいいから、あの線路際に続く暗い海の写真を撮っておけばよかったと思った。
今回は、帯広に着いてからも仏さん参りやお見舞いで、友達に会う時間がとれなかった。
唯一、帯広百年記念館と美術館で開催されていた、ロシアの博物館にあったアイヌの資料を展示した大掛かりなイベントを、半日かけてゆっくり見ることができたのが収穫だった。
もう少しゆっくり時間をとろうと思えばとれたのだが、体調も芳しくなく、実際帯広にいる間謎の湿疹に悩まされ(これは、ヒートテック素材の下着が原因か? できるならカニでないように)、こちらに戻ってからも大変だったので、この期間が限界だった。
それに帯広の友人は喫煙者が多いので、実際今の私の体調では5分と一緒にいられないだろう。
友人には会いたいが、今はタバコの臭いだけで気持ちが悪くなってしまうので、タバコが平気になった頃にまた連絡できたらいいと思う。
◇あと10日で禁煙丸一年の言い訳 ― 2009年11月21日 16時34分28秒

2009年11月21日現在の禁煙ブログパーツ。
禁煙開始からあと10日で丸1年になる。
禁煙を始めてから、あと10日で一年である。
正直、自分でもこんなにすっぱりタバコをやめられるとは思っていなかった。
しかし、実際にやめてみると、自分が本当にたばこを好きで吸っていたのか、ちょっと微妙である。
前にも書いたが、うちは二人家族で旦那はタバコの履歴のない非喫煙者である。
自分が喫煙者であるのに、外で食事をするときには他人のタバコの煙が許せないという状況を作り出し、極力外ではタバコを吸わないようにしてきた。
タバコを持ち歩かない、外出時にタバコを購入しないという習慣を10年近く続けていたため、家で仕事をするときだけ、決めた場所でのみタバコを吸うという生活になっていたのだが、禁煙が成功したのはこういう段取りがあってのことなのかもしれない。
どこでも自由にタバコを吸える環境にあって、家族も友達も喫煙者であるという状況だったら、たぶんタバコをやめようとも思わなかっただろうし、やめたとしても長くは続かなかっただろう。
幸い、私は近所にいる唯一の喫煙者の友人が、旦那様と一緒に禁煙にいどんだタイミングに便乗したので、外部からのタバコの誘惑はゼロに近かった。
しかし、体調がどんどん悪くなっているのに、無理してタバコを吸い続けていたというのも、やめた今となっては何に対して意地になっていたのだろうと思うことがある。
タバコをやめてからは、秋口から発症する擬似喘息やアレルギーの発作もふだんの年よりも劇的に軽度だし、痰がからんでいやな思いをするとかいうこともなくなった。逆流性食道炎の発作も少なくなった。
体調が悪く病院にかかったり健康法を試したりしているのに、常に身体に毒を入れていたのだから、良くなるはずがなかったのだ。
懸念していた体重の増加も、思ったほどではなかったのも幸いである(ちょっとは増えたみたいだけど)。
それでも、今でもパソコンの前に座る瞬間に、手がタバコを探していることに気づくことがある。
“パソコンの前に座るときはタバコを吸うときだ”と、頭では否定していても身体が覚えている感覚。これにはちょっとびっくりさせられる。
私の身体は、習慣として未だにタバコを欲しているのかもしれないのだ。
これは、無意識にリラックスしたいという意識をタバコに依存していたのかもしれないと、自己分析したりしている。
タバコをやめて困ったことといえば、タバコの副流煙がいやなのは以前通りだが、ヘビースモーカーの人、あるいはタバコを吸ったばかりの人がそばに来るのが嫌になった。
私の担当している美容師さんは喫煙者なのだが、タバコをやめてからはその人の休憩後の臭いが気になる。自分が喫煙者のときには気にならなかったのだが、タバコを吸った直後の服や髪についた臭いが、こんなにも周囲の人に影響のあるものなのだと、最近気がついた。
街中で喫煙者の人とすれ違っても、ヘビースモーカーの人はすぐにわかるようになった。
自分でできるだけ遠ざけようとする意識と、どこかで喫煙者にもどってしまうのではないかという不安が、必要以上にタバコの臭いに対して敏感になっているような気がしてならない。
タバコを吸ったばかりの人と話すと、タバコの臭いが気になって話に集中できないばかりか、だんだんと気持ち悪くなってくることもある。
もともと臭いには敏感なタチで、特にホルモン治療を受けている現在では、妊娠期に見られる臭いの反応に近い状況なのだ。自分の嫌いな臭いだと、吐いてしまうこともあるくらいの拒否反応を示す。
それが、タバコをやめてから反応が顕著になって、非常に困る場面も多い。
実家に帰ったときに、心臓病の手術を期に禁煙した禁煙歴10年の父がパチンコから戻ってきて、堪えられないタバコの臭気を平気で身にまとっていることに驚いた。
禁煙も長く続ければ、こんな臭いが蔓延して、それが自分を燻製している状態であっても平気になれるらしい。
喫煙者には肩身が狭い世の中になるつつある。
禁煙できたからといって、必要以上に喫煙者を責めるつもりはない。
ここまで喫煙者が責められる世の中で、タバコをやめない選択というのもあるだろうから、喫煙をやめた私がわざわざ「あなたもタバコをやめたら?」なんてさらさらいう気もない。
ただ、私のとった選択は禁煙しようということだっただけに過ぎない。
しかし、そういう気持ちと、実際にタバコ自体に直面したときの身体と心の反応は別なのだ。
こればかりは、喫煙者に理解してほしいというのも無理な話だし、禁煙した人にしか解ってもらえないだろう。
たとえ「禁煙に成功したからって」と喫煙者から白い目で見られようとも、身体は正直なのだ。
だから、私が今できることは、「喫煙者のそばにはできるだけ近づかない」ことと、「喫煙者のそばにいてもできるだけ平静を装える状態を作ること」である。
それをすることが、今までタバコを吸ってきた私の贖罪なのだろうと思うことにした。
これまでわたしが喫煙者であったときに接した、禁煙した友人の過剰とも思えた嫌煙の反応を、私自身ふりまくことだけはできるだけ避けたい。
(でも、どうしても我慢できないときは「すみませんが…」と言ってしまうが。)
これも前にも書いたが、禁煙一年目で周囲のタバコの煙の誘惑に負けた友人を知っている。
彼もタバコを憎みながら、どこかで身体がそこに戻りたがっていたのを感じていたと言っていた。そして、彼はその誘惑に負けたのだとも言った。
禁煙1年をあと10日にして、タバコを吸う生活にもどらなくていい意思と身体を、早く手に入れたいと思うばかりである。
禁煙開始からあと10日で丸1年になる。
禁煙を始めてから、あと10日で一年である。
正直、自分でもこんなにすっぱりタバコをやめられるとは思っていなかった。
しかし、実際にやめてみると、自分が本当にたばこを好きで吸っていたのか、ちょっと微妙である。
前にも書いたが、うちは二人家族で旦那はタバコの履歴のない非喫煙者である。
自分が喫煙者であるのに、外で食事をするときには他人のタバコの煙が許せないという状況を作り出し、極力外ではタバコを吸わないようにしてきた。
タバコを持ち歩かない、外出時にタバコを購入しないという習慣を10年近く続けていたため、家で仕事をするときだけ、決めた場所でのみタバコを吸うという生活になっていたのだが、禁煙が成功したのはこういう段取りがあってのことなのかもしれない。
どこでも自由にタバコを吸える環境にあって、家族も友達も喫煙者であるという状況だったら、たぶんタバコをやめようとも思わなかっただろうし、やめたとしても長くは続かなかっただろう。
幸い、私は近所にいる唯一の喫煙者の友人が、旦那様と一緒に禁煙にいどんだタイミングに便乗したので、外部からのタバコの誘惑はゼロに近かった。
しかし、体調がどんどん悪くなっているのに、無理してタバコを吸い続けていたというのも、やめた今となっては何に対して意地になっていたのだろうと思うことがある。
タバコをやめてからは、秋口から発症する擬似喘息やアレルギーの発作もふだんの年よりも劇的に軽度だし、痰がからんでいやな思いをするとかいうこともなくなった。逆流性食道炎の発作も少なくなった。
体調が悪く病院にかかったり健康法を試したりしているのに、常に身体に毒を入れていたのだから、良くなるはずがなかったのだ。
懸念していた体重の増加も、思ったほどではなかったのも幸いである(ちょっとは増えたみたいだけど)。
それでも、今でもパソコンの前に座る瞬間に、手がタバコを探していることに気づくことがある。
“パソコンの前に座るときはタバコを吸うときだ”と、頭では否定していても身体が覚えている感覚。これにはちょっとびっくりさせられる。
私の身体は、習慣として未だにタバコを欲しているのかもしれないのだ。
これは、無意識にリラックスしたいという意識をタバコに依存していたのかもしれないと、自己分析したりしている。
タバコをやめて困ったことといえば、タバコの副流煙がいやなのは以前通りだが、ヘビースモーカーの人、あるいはタバコを吸ったばかりの人がそばに来るのが嫌になった。
私の担当している美容師さんは喫煙者なのだが、タバコをやめてからはその人の休憩後の臭いが気になる。自分が喫煙者のときには気にならなかったのだが、タバコを吸った直後の服や髪についた臭いが、こんなにも周囲の人に影響のあるものなのだと、最近気がついた。
街中で喫煙者の人とすれ違っても、ヘビースモーカーの人はすぐにわかるようになった。
自分でできるだけ遠ざけようとする意識と、どこかで喫煙者にもどってしまうのではないかという不安が、必要以上にタバコの臭いに対して敏感になっているような気がしてならない。
タバコを吸ったばかりの人と話すと、タバコの臭いが気になって話に集中できないばかりか、だんだんと気持ち悪くなってくることもある。
もともと臭いには敏感なタチで、特にホルモン治療を受けている現在では、妊娠期に見られる臭いの反応に近い状況なのだ。自分の嫌いな臭いだと、吐いてしまうこともあるくらいの拒否反応を示す。
それが、タバコをやめてから反応が顕著になって、非常に困る場面も多い。
実家に帰ったときに、心臓病の手術を期に禁煙した禁煙歴10年の父がパチンコから戻ってきて、堪えられないタバコの臭気を平気で身にまとっていることに驚いた。
禁煙も長く続ければ、こんな臭いが蔓延して、それが自分を燻製している状態であっても平気になれるらしい。
喫煙者には肩身が狭い世の中になるつつある。
禁煙できたからといって、必要以上に喫煙者を責めるつもりはない。
ここまで喫煙者が責められる世の中で、タバコをやめない選択というのもあるだろうから、喫煙をやめた私がわざわざ「あなたもタバコをやめたら?」なんてさらさらいう気もない。
ただ、私のとった選択は禁煙しようということだっただけに過ぎない。
しかし、そういう気持ちと、実際にタバコ自体に直面したときの身体と心の反応は別なのだ。
こればかりは、喫煙者に理解してほしいというのも無理な話だし、禁煙した人にしか解ってもらえないだろう。
たとえ「禁煙に成功したからって」と喫煙者から白い目で見られようとも、身体は正直なのだ。
だから、私が今できることは、「喫煙者のそばにはできるだけ近づかない」ことと、「喫煙者のそばにいてもできるだけ平静を装える状態を作ること」である。
それをすることが、今までタバコを吸ってきた私の贖罪なのだろうと思うことにした。
これまでわたしが喫煙者であったときに接した、禁煙した友人の過剰とも思えた嫌煙の反応を、私自身ふりまくことだけはできるだけ避けたい。
(でも、どうしても我慢できないときは「すみませんが…」と言ってしまうが。)
これも前にも書いたが、禁煙一年目で周囲のタバコの煙の誘惑に負けた友人を知っている。
彼もタバコを憎みながら、どこかで身体がそこに戻りたがっていたのを感じていたと言っていた。そして、彼はその誘惑に負けたのだとも言った。
禁煙1年をあと10日にして、タバコを吸う生活にもどらなくていい意思と身体を、早く手に入れたいと思うばかりである。
◇知らない町 ― 2009年11月28日 02時06分00秒
より大きな地図で 帯広駅前地図2009 を表示
帯広駅前の現在地図。私がいた場所と父がいたらしい場所
私がいた場所は★、父がいた場所は車のマーク
北海道帯広市は私の生まれた町なのだが、今はまち中よりも郊外の方がにぎわっており、「まち」と呼ばれた繁華街は、昼間は20年前の面影もなくなっていることは、このブログを始めた最初の方でさんざん書いた。
ブログを初めてから何度か帰省し、母の車で運転して移動することも多いのだが、新しくできた道がわからず、自分が今どこにいるのかわからなくなることがある。
東西南北がわかればだいたいの位置を推測することはできるのだが、なぜここの道を走ると、この場所に出るのだろうと、点と点が結びつかない。
カーナビでもあれば別だが、ふだんよその土地に行かないような両親には不要なので、そんなものはついていない。
今回、初めて飛行機ではなく汽車で帯広入りするということになったのだが、駅に迎えに来てくれた父が実は方向音痴であることを初めて知った。
駅に到着してすぐに、携帯に父から電話が入り、今どこにいるのかと聞くと、「ロータリーのある方、駅の西の北側だ」という。
帯広の駅には、西の北口、東の北口、西の南口、東の南口がある。
北口は東西どちらも、古い繁華街に出ることになる。私にとっては馴染みの街並みだが、今の帯広の人にとってはあまり利用しない方向らしい。
私は、昔の出口の方が私がわかりやすいので、父が気を使ってくれたのだと思った。
そして「昔の二条通りの方ね」と聞くと、父は「そうだ」と答えた。
しかし、その出口に出ても父の車は見当たらない。
目の前には昔からある駅のロータリーが東西に広がっているが、そこにはタクシーしかいないのだ。
もう一度父に電話し現在地を聞くと、「十勝バス(昔、西の北口正面にあった)の方じゃない。西の南口だ」という。
南口は現在の栄えている方である。目の前には長崎屋があったりする。
しかし、父の車らしいものは見当たらない。
実は父はそのとき、東の南口にいたのだ。
東の南口には新しい駅のロータリーがあり、そこで待っていたらしいのだが、私にはそんなことはわからない。タクシーロータリーがあるのには気づいたが、そこが一般車が入場できるものなのかどうかもわからない。
その上、父がいるはずの「東の南口」という出口の名前は、父からは一切でてこなかった。
なんだか新しいホテルの名前(ノースランドホテルか?)を言ってはいたが、私の知らないホテルなので「そんな名前のホテルは知らない」と答えるしかなかった。
私の中では、「東側は人のあまり行かないところ」というイメージしかなかったからだ。
日はとっくに暮れているし、雨が降ってきて寒くなってきている。
駅の構内にいたほうが雨風はしのげるが、それでは父がどこにいるかわからないので、仕方なく長崎屋のまん前の交差点で待つことにする。
携帯で父が今どこにいるのかを聞くと、逆に私がどこにいるのか聞かれたので
「長崎屋と駅の間の交差点の駅側にいる。“正面”に長崎屋がある」と答えた。
目の前にとかちプラザがあるかと聞かれたが、目の前のビルがそういう名前のものかどうかがわからないのでそう答えると、「なんでわからないんだ」と言われる。
でも、わからないものはわからない。そんなビル、私のいた頃には存在していなかったんだし。
うんと首をあげてみると、とかちプラザという看板によってその名前を確認できたのは、「とかちプラザ」というビルの存在を知ってから10分後のことであった。
雨の中でたたずみながら、こんなに帯広は知らない町になったのだと思った。
私のいた頃は、駅の南側は「駅裏」と呼んでいたくらいで、何もないところだった。
長崎屋ができて開発されたことは聞いていたし、新しい図書館にも行ったし、駅の南側にも何度も連れていってもらった。
しかし、そんなところは私にとっては知っている帯広ではないし、馴染みもない。
せっかく帰ってきているのに、懐かしいと思えない場所に行くのはなんとなくつまらないだけなので、覚える気もないのだ。
父には、昔の北側のロータリーの方がわかりやすいので、そちらに来てほしいと言ってみたが、父はすでにパニックになっていて、そのロータリーがどこだかわからなくなっている。
北側の街並みが、こんなにも帯広の人たちから遠くなっていることに、ちょっとだけ寂しさを感じた。
結局父に会えたのは、私が帯広の駅について40分以上経ってのことであった。
あまりにあきれ果て、迎えに来てくれたお礼よりも、悪態の方が口をついて出てしまう。
後で聞いた話だが、帯広の人(少なくとも私の父)にとって長崎屋の“正面”とは、パチンコ屋などがある方向で、駅とはまったく逆側らしい。
私は「長崎屋は“正面”に見えている」と伝えたので、父は長崎屋の南側に私がいるのだと思ったらしい。
父にとっては、私はもともと帯広にいたのだからそれくらいわかっているだろうと思っているのだろうが、私は思っている以上に帯広の人ではなく、帯広もすでに私の知っている町ではなくなっていることを、改めて痛感した。
それ以前に、父には是非、最低でも東西南北くらいは認識してほしいと、本気で思うのであった。
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