◇東京で神田日勝の思い出にひたる ― 2020年06月14日 22時13分52秒
神田日勝回顧展 大地への筆触
去年の今頃は帯広に帰省して、鹿追町にある神田日勝美術館に足を運んでいた。
すでに、今年からはじまる東京ステーションギャラリー、神田日勝美術館、北海道立近代美術館との巡回展が決まっていて、ふだん道立近代美術館にある新聞紙に囲まれた部屋にいる男の「室内風景」や、門外不出の「半身の馬」を一同に会して観る機会を楽しみにしていた。
その間、鹿追の神田日勝美術館では絵がなくなってしまうので、ふだんあまり出てこない絵を観る機会でもあると知って、今年も何度か帰省して足を運ぶ予定にしていた。
しかし、今回の新型コロナ渦のため4月から東京ステーションギャラリーで予定されていたものが延期、緊急非常宣言が解除となった6月はじめから時間を決めた入場制限つきの観覧ができるようになったが、東京では半月だけの会期となった。
今回、東京で神田日勝と対峙するにあたり、個人的には望郷の念が強く出てしまい、前半は涙があふれてとまらなくなってしまった。
今の状況では実家に帰ることもままならず、鹿追と札幌に観に行くことができるのかどうかは、現段階では定かではない。
都市間移動が推奨されていない状況では、帯広でも札幌でも内地からの客を歓迎してくれるとは思えないからだ。
父は絵が好きで、たまに名もない画家の絵をふらっと買って帰ることがあった。
一時期、かつて私の部屋だったところに、4畳半ほどもあるベニヤに描かれた裏寂しい木造の開拓者住宅の絵をおいてあったことがあり、なぜそんなものを購入したのか聞くと、「それはもらったものだ」と父ははっきりと理由をいわなかった。
その絵はいつのまにか姿を消していて、あの絵はどうしたのか聞くと「別な人にゆずった」と答えていたが、あんな絵をほしがる人がいたのだろうかと疑問に思う。
しかし今から思えば、あの絵は初期の神田日勝の絵の雰囲気に似ていなくもなかったような気がする。
自画像/神田日勝[神田日勝美術館]
今から50年くらい前、妹の産まれる少し前のことだ。
駅前から稲田の国道沿いに引っ越したばかりの頃。
国道に面している大きな窓のある家の東側の方から、一人の男性がうちへ訪ねてきた。
玄関は西側にあるのだが、その人は庭からやってきて、ちょうど窓の外を眺めていた子供の私に窓をたたいて開けるよううながし、「とうちゃんはいるか」と聞いてきた。
その人は、鼠色のシャツに黒いズボンに黒い長靴をはいていた。顔は浅黒く日焼けしていて、全体的に黒っぽい印象が少し怖く思えた。
私の家を知る人であれば、私に父のことを「とうちゃん」と聞く人はいない。我が家に「とうちゃん」と呼ばれる人はいないからだ。
父は家の表側にある職場にいて、母はちょうど家にいなかったと思う。
私が「今いない」と答えると、「そうかまた来る」と言ってその人はその場を去ってしまった。
しばらくしてその人は母と一緒に家に来て、庭で二三話していたかと思ったら、家にはあがらずに来た方向に帰っていった。
母に誰が来たのか尋ねると、「絵描きの人だ」と答えた。
この記憶は子供の頃の記憶で、母はまったく覚えていないといい、父に確認しないまま父は亡くなってしまったので今となっては確認のしようもないのだが、私はその時の男の人の顔が神田日勝に似ていたような気がしてならないのだ。
父は蕎麦が好きで、鹿追や新得方面にふらっと蕎麦を食べに行くことがあった。
私が一緒のことはめったになかったが、私が一緒のときは必ず神田日勝の絵を観につれていってくれた。
神田日勝美術館は、今でこそ整備されて綺麗な建物だが、昔は神田日勝のパトロンだった福原氏の美術館の方が見やすいくらいだった。
室内風景/神田日勝[美術手帖]
絶筆となった「半身の馬」もさることながら、私は現在は北海道立近代美術館に所蔵されている、新聞紙でうめつくされた部屋の風景が描かれた「室内風景」の圧倒的な世界が印象に残っている。
どこも見ていないようで、こちらをずっと凝視している男の目が怖かった。
横たわる人形が怖かった。
神経質なほど緻密に描かれた新聞の描写が怖かった。
それでも、この絵は強烈な印象として私の中に残っている。
観る機会があるのであれば、必ず対峙したいと思う絵のひとつだ。
家/神田日勝[神田日勝デッサン集表紙]
そして、父の好きだった世界は、神田日勝の初期のモノクロームの世界だったのではないだろうかと思う。
板うちされた貧しい家は、北海道の開拓者住宅の一般的な姿で、今でもその姿をあちこちで見ることができる。
それは北海道に移住した人間の原風景でもあるような気がする。
今回の東京ステーションギャラリーでは、最初の展示でこれらの絵を観ることができる。
私は、祖父母から聞いた開拓時代の話や、今は帰ることのできない実家のことを思い、涙があふれて泣きながらこれらを観た。
華々しい都会にあこがれつつ、それでもこの貧しい風景から離れることができない。
情報の伝達が遅かった昔に、できる限りの情報を入手して表現しようとする情熱が、神田日勝からは感じられる。
それは、私が上京する前に感じた、このままここにいて何も知らず、何も見ずに生きていくことの恐怖と似ているのではないかと思えてならない。
あの頃は、ちょうど一番の親友を交通事故で亡くしたばかりで、将来に不安を感じ、このまま何もせずに生きることは死ぬことと同じなのではないかと思えてならなかった。
そんな狂気にも似たものを、私は神田日勝の絵から感じ取る。
絵が好きで、音楽が好きで、一人でそれを楽しんでいた父が、同じようなことを感じていたかどうかはわからない。
父が神田日勝と知り合いで、昔うちに訪ねてきた黒い絵描きの人が神田日勝だったかどうかもわからない(現実のことかも定かではないのだけど)。
いつの間にかなくなったベニヤの暗い木造の家の絵が、神田日勝の絵だったかどうかもわからない(これはたぶん違うだろう)。
自分の産まれた土地で、土地を思いながら表現することをやめなかったこの人の絵を、今後もおいかけずにはいられないだろうと思う。
半身の馬は、約束どおり東京に来てくれた。
もし秋までに都市間移動ができるようになるのであれば、私は約束どおり北海道にまた会いに行こうと思う。
◇平成30年北海道胆振東部地震を関東で感じる ― 2018年09月08日 04時51分39秒
平成30年北海道胆振東部地震で被災されたみなさま、お見舞い申し上げます。
地震のあった9月6日の午前3時頃、私はまだ起きていてネットで北海道で地震のあったことを知った。
被災してまだ日が浅く、まだまだ余震の恐怖する状況の中で、この二日間は電気と通信に振り回されることになる。
この広い北海道で、なぜ一局の発電所のシステムダウンが、地震の被害のない地域まで巻き込む状況になるのか。
停電は地震の揺れがほとんど感じないくらいだった稚内にまで及び、NTTの電話回線と携帯回線は停電のためにサーバダウンし、北海道は全域で通信不可能な状況になった。
札幌などの一部の地域では通信して情報を得ることができたようだが、9月6日と7日はほとんどの人が情報を得るためにラジオなどを利用することになったようだ。
稚内などは、岬に沿ってたくさんの風力発電機があり、この発電で稚内全域の電力をまかなうことができるのだが、そのほとんどが町の役に立っていない事実を先日知った。北海道電力が売電に応じないというのがその理由らしい。
ほくでんとしては、安定した送電のためにシステムを統一したいというのがその理由で、風まかせ、太陽まかせの自然発電では心もとないというなのだろう。
稚内の風力発電しかり、十勝のメガソーラーシステムしかり、東日本大地震の後に自然発電への意識が高まりそのシステムづくりが急務とまでいわれていたのに、その教訓がまったく活かされていない事実に呆然とするばかりだ。
私は6日の早朝5時過ぎに、父の携帯に安否の電話を入れた。
その時はまだdocomoの回線は正常につながっていたが、停電はしてる様子だった。
8時頃にもう一度母の携帯に電話をしたときが、その日両親と話した最後になった。
停電によるサーバダウンで、帯広は6日の午前中にはほとんどの通信がない状態になった。
両親のいる地域では7日の午後7時まで電気も通信も遮断された状態になり、まったく連絡がとれない状況だった。
札幌の義妹のところも6日と7日の7時半くらいまで停電だったが、携帯の通信はできている様子で、定期的にLINEで様子を教えてくれた。
どちらも上下水道が使える状況だったのが、まだよかった。
7日の早朝には妹から携帯で電話があり、帯広市内でも通信ができる地域とできない地域があるようだと知らせてくれた。
稚内の夫の従姉からも携帯で電話があり、停電はしているがやっと通信ができるようになったと教えてくれた。どちらもNTTの電話はつながらないと言っていた。
10時になる前に、帯広のあちこちから携帯を経由して連絡がとれ少し安心する。
6日の時点で、遅い夏休みで江差方面に遊びに行っていた友人が、9時間かけて帯広に戻ってきたと知った。
函館方面から帯広に移動するには、よほどの遠回りをしない限り震源地に近いところを通らなくてはならない。友人が帰宅できたことで、少なくとも西と東が分断されている状況ではないことを知り、物流が復旧しても今の状態を維持できているなら、遮断されることはないだろうと少し安堵した。
地震のあった9月6日の午前3時頃、私はまだ起きていてネットで北海道で地震のあったことを知った。
被災してまだ日が浅く、まだまだ余震の恐怖する状況の中で、この二日間は電気と通信に振り回されることになる。
この広い北海道で、なぜ一局の発電所のシステムダウンが、地震の被害のない地域まで巻き込む状況になるのか。
停電は地震の揺れがほとんど感じないくらいだった稚内にまで及び、NTTの電話回線と携帯回線は停電のためにサーバダウンし、北海道は全域で通信不可能な状況になった。
札幌などの一部の地域では通信して情報を得ることができたようだが、9月6日と7日はほとんどの人が情報を得るためにラジオなどを利用することになったようだ。
稚内などは、岬に沿ってたくさんの風力発電機があり、この発電で稚内全域の電力をまかなうことができるのだが、そのほとんどが町の役に立っていない事実を先日知った。北海道電力が売電に応じないというのがその理由らしい。
ほくでんとしては、安定した送電のためにシステムを統一したいというのがその理由で、風まかせ、太陽まかせの自然発電では心もとないというなのだろう。
稚内の風力発電しかり、十勝のメガソーラーシステムしかり、東日本大地震の後に自然発電への意識が高まりそのシステムづくりが急務とまでいわれていたのに、その教訓がまったく活かされていない事実に呆然とするばかりだ。
私は6日の早朝5時過ぎに、父の携帯に安否の電話を入れた。
その時はまだdocomoの回線は正常につながっていたが、停電はしてる様子だった。
8時頃にもう一度母の携帯に電話をしたときが、その日両親と話した最後になった。
停電によるサーバダウンで、帯広は6日の午前中にはほとんどの通信がない状態になった。
両親のいる地域では7日の午後7時まで電気も通信も遮断された状態になり、まったく連絡がとれない状況だった。
札幌の義妹のところも6日と7日の7時半くらいまで停電だったが、携帯の通信はできている様子で、定期的にLINEで様子を教えてくれた。
どちらも上下水道が使える状況だったのが、まだよかった。
7日の早朝には妹から携帯で電話があり、帯広市内でも通信ができる地域とできない地域があるようだと知らせてくれた。
稚内の夫の従姉からも携帯で電話があり、停電はしているがやっと通信ができるようになったと教えてくれた。どちらもNTTの電話はつながらないと言っていた。
10時になる前に、帯広のあちこちから携帯を経由して連絡がとれ少し安心する。
6日の時点で、遅い夏休みで江差方面に遊びに行っていた友人が、9時間かけて帯広に戻ってきたと知った。
函館方面から帯広に移動するには、よほどの遠回りをしない限り震源地に近いところを通らなくてはならない。友人が帰宅できたことで、少なくとも西と東が分断されている状況ではないことを知り、物流が復旧しても今の状態を維持できているなら、遮断されることはないだろうと少し安堵した。
◇帯広市緑ヶ丘の兵舎跡 ― 2012年10月25日 18時52分34秒
緑ヶ丘の兵舎跡
帯広の友人TSから、一枚の写真が届いた。
彼は散歩などの途中で撮影した、帯広の現在の姿と昔の名残の写真を送ってくれる。
故郷を遠く離れて暮らしている私にとっては、故郷がいつまでも記憶の中にある形でいてくれるのがうれしいが、現実はそうはいかない。
帰るたびに帯広のさびれ度は年々増していくし、古い建物は時間を止めたように相変わらず存在するのに、新しい建物がその風景に溶け込んでいかない。なんとも不思議な町である。
彼はそんな帯広の様子を、私に届けてくれるのだ。
今回の写真は、帯広緑ヶ丘にある古い建物。
この建物のある土地は、現在売地になっているらしい。
この建物は戦前に建てられ、今にも崩れ落ちそうだが、私の記憶にある40年ほど前から“今にも崩れ落ちそう具合”はあまり変わらないような気がする。
祖母の家が近くにあり、この建物は祖母の家へ行くバスの窓からいつも見えていた。
一度従姉妹と一緒にこの建物を見に行ったことがあるが、絶対に中に入らないように口うるさく言われた。
友人TSの話だと、この建物は戦時中の兵舎として建てられたもので、戦後は引揚者住宅として使用されたとのこと。
緑ヶ丘は開拓者住宅とか引揚者住宅とかが多く、私の祖母の家ももともとは開拓者住宅の長屋だったものを買い取り、一部リフォームして使用していた。
今のグリーンパークのあたりは今のようには整備されておらず、広い荒野の中でいつも誰かが一斗缶で焚き火をしていた記憶がある。
写真の建物は、緑ヶ丘小学校の近くにあるのだが、赤い屋根が印象的で、私はずっと農業用の建物だと思っていた。
このような歴史のある建物が、帯広のあちこちに廃墟になって残っている。
この建物は比較的原型を留めているほうだと思うが、帯広市はなぜこのような建物を保存するでもなければ処分するでもなく、ただただ長い時間放置してあるのか不思議だ。
帯広の歴史の一つとして、どこかに移築して保存すればいいのにと思うのだが、建物はずっと同じところにただ朽ち果てるのを待っているだけだ。
帯広の建物は、1980年代の比較的景気の良い時代であっても、古い建物が取り壊されることは稀だった。
商業地域であれば、通りに面したところだけがリフォームされ、見えないところはそのままというのがほとんどだった。
昔どうして表向きだけリフォームするのか、ずっと年上の人に聞いたら、「古いものを再利用するのが帯広の伝統だからだ」という返事が返ってきた。
21世紀に入って帯広の「まちなか」を歩くと、それらのリフォームを重ねてきた建物も未だに存在している。中には、地面との平行垂直が保たれておらず隣の建物に依存した建物や、戦後からずっとあるデパートや飲み屋街の建物なども残っている。
しかし、やはり徐々にこのような建物も姿を消す運命にあるようで、「あれ?」っと思ったら忽然と今までそこにあったものがなくなっていることがあったりする。
緑ヶ丘のこの建物も、たぶん土地が売れれば取り壊されてしまうのだろう。
古くからお馴染みだったこの建物が、次に帰省したときにはなくなっているだろうと思うと、ちょっとメランコリックになってしまうのだった。
◇2月10日は豚丼の日 ― 2011年02月09日 23時34分40秒
今月から新聞をとることにした。
久しぶりにチラシチェックをしていると、イトーヨーカ堂のチラシにでかでかと書かれてある文字を見て驚いた。
2月10日は豚丼の日
今日は「豚丼の日」らしい。
いつ決まったのかと気にすると、今年かららしい。
帯広の豚丼は、つい20年ほど前までは、同じ道内でも帯広以外の人は、まったくその存在を知らない人の方が多かった。
札幌の人などに「帯広の豚丼」と言っても、「何それ?」と言われた。
一時期、アメリカ牛の輸入規制で、牛丼屋から牛丼が消えたときに、豚肉を牛丼の肉のように煮たものを「豚丼」として販売されていたことがあったが、あれは帯広出身者からすると“まがいもの”以外の何物でもなかった。
それが、テレビでご当地グルメとして取り上げられ、美味しい豚丼の専門店などが観光の名所となってから、帯広の豚丼は全国区になった。
十勝毎日新聞社ニュース 2月4日
2月10日は「豚丼の日」
十勝毎日新聞社の記事を読むと、2月10日を豚丼の日と制定したのは、芦別に本社のあるソラチという会社のようだ。
豚丼が全国区となって、帯広市内でも昔から豚丼を出していなかったお店でも豚丼を供して活性化を図る一方、帯広以外の会社の帯広進出もあって、ソラチはその一番手の会社のようだ。
内地のスーパーなどで開催される北海道物産展でも、帯広の六花亭のお菓子などと並んで、豚丼は人気商品になっている。
ソラチの豚丼のタレは、もとからあったジャンの豚丼のタレやジンギスカンのタレなどに並んで、こちらのスーパーでも見かけることもある。
こういう取り組みが、なぜ地元帯広の企業などで行われていないのかなど、いろいろと思うところはあるのだが、これが帯広活性化のきっかけの一つになればいいと思う。
久しぶりにチラシチェックをしていると、イトーヨーカ堂のチラシにでかでかと書かれてある文字を見て驚いた。
2月10日は豚丼の日
今日は「豚丼の日」らしい。
いつ決まったのかと気にすると、今年かららしい。
帯広の豚丼は、つい20年ほど前までは、同じ道内でも帯広以外の人は、まったくその存在を知らない人の方が多かった。
札幌の人などに「帯広の豚丼」と言っても、「何それ?」と言われた。
一時期、アメリカ牛の輸入規制で、牛丼屋から牛丼が消えたときに、豚肉を牛丼の肉のように煮たものを「豚丼」として販売されていたことがあったが、あれは帯広出身者からすると“まがいもの”以外の何物でもなかった。
それが、テレビでご当地グルメとして取り上げられ、美味しい豚丼の専門店などが観光の名所となってから、帯広の豚丼は全国区になった。
十勝毎日新聞社ニュース 2月4日
2月10日は「豚丼の日」
十勝毎日新聞社の記事を読むと、2月10日を豚丼の日と制定したのは、芦別に本社のあるソラチという会社のようだ。
豚丼が全国区となって、帯広市内でも昔から豚丼を出していなかったお店でも豚丼を供して活性化を図る一方、帯広以外の会社の帯広進出もあって、ソラチはその一番手の会社のようだ。
内地のスーパーなどで開催される北海道物産展でも、帯広の六花亭のお菓子などと並んで、豚丼は人気商品になっている。
ソラチの豚丼のタレは、もとからあったジャンの豚丼のタレやジンギスカンのタレなどに並んで、こちらのスーパーでも見かけることもある。
こういう取り組みが、なぜ地元帯広の企業などで行われていないのかなど、いろいろと思うところはあるのだが、これが帯広活性化のきっかけの一つになればいいと思う。
◇深夜のガソリンスタンドの思い出 ― 2010年06月23日 00時45分21秒
国道38号線沿いにある、現在のアラブ石油のスタンド跡(写真提供:TS)
都会はどうだったのかは知らないが、1985年当時の帯広の田舎では、まだまだガソリンスタンドの深夜営業はまれなことで、ガソリンスタンドが行楽の日曜日に平然と休んでいるのも珍しいことではなかった。
平日でも、早くて午後6時、遅くても8時には営業が終了してしまうところが多かったので、夜中に突発的にドライブなどに行きたいと思ったときに、ガソリンがないということもしばしばあった。
普通の人たちはどうだか知らないが、私たちの友人はみんな車があるとすぐにドライブに行きたくなってしまう。それが軽であろうがソアラ(誰も持っていなかったけど)であろうがお構いなしであった。
行き先はいろいろで、近場だと当時は24時間営業していた十勝川温泉の大平原だったり、余力があれば大津の海まで行くこともあった。
だいたい人が集まる場所は決まっていて、そこで集った仲間で条件が合い意気投合して行動を始めるのが夜も10時過ぎのことである。
馴染みのお店の店員の仕事が終わるのを待つときは、行動開始が0時を過ぎることもしばしば。 そこで車を調達して、お金を出し合ってガソリンを入れるのだが、そんなときに重宝していたのがアラブ石油だった。
私の記憶では、国道38号線沿いの周囲に街灯も何もない場所の暗闇に、こつぜんとガソリンスタンドが存在しているのが頭に焼きついている。実際にそういう場所だったのかどうかは不明だが、そういう印象だったのだ。
屋根のない二方向の敷居だけの敷地に、給油機と薄暗い明かりがぽつんとあり、車を給油機の前につけると、どこからともなく痩せたおやじが出てきて給油してくれる。
大抵お金がないので満タンなどとは言わず、千円札を取り出して「これで入るだけ」と言って給油するが、千円では10リッターも入らなかったように記憶している。
調べてみると、1985年当時のレギュラーガソリンの1リットル当たりの価格は、146円だったらしい。普通のガソリンスタンドで10リッター入れると1460円(当時は消費税がなかったので、提示価格のまま)なので、深夜営業のアラブ石油では倍くらいの値段だったのではないか。せいぜい千円で給油できたのは、4~5リッターくらいのものだったと推測する。
友人とふとしたことでアラブ石油のことで盛り上がったときに、ちょっと調べてみたところ、古い新聞記事をアーカイブしているサイトで、アラブ石油の名前を見つけることができた。
『太古の新聞記事など』
ウエートレス強盗強姦事件(昭和43年1月4日深夜の札幌市のビル内)の中の記事
http://63164201.at.webry.info/200901/article_4.html
アラブ石油は、1975年から帯広と釧路に深夜営業のガソリンスタンドを営業していた。帯広店は、東一条南8丁目と国道38号線沿いにあったらしい。 東一条店は1977年と1982年に、釧路店は1982年に強盗事件に合い、1982年の強盗事件後に帯広店は東一条店の24時間営業を取りやめ、国道38号線沿いの店舗でのみ三人交代制で24時間営業を続けていたとある。
※『太古の新聞記事など』内ウエートレス強盗強姦事件(昭和43年1月4日深夜の札幌市のビル内)の中の「十勝毎日新聞 昭和57年(1982年)2月16 日 火曜日 9面」と「十勝毎日新聞 昭和57年(1982年)3月9日 火曜日 11面」より抜粋引用。
この記事を読んだときに、あの暗闇の中で客がこないときに給油のおじさんはどうやって過ごしているのだろうと思ったことを思い出す。
お金がないときに千円ぽっちの給油でもいやな顔もせずに給油してくれた、50過ぎくらいの浅黒いおじさんの顔がうっすらよみがえるような気がする。
当時一度だけ、友人の用事につきあって昼間にあのあたりに行ったことがあったが、スタンドの周囲は住宅もまばらで野っ原だった。
友人が送ってくれた写真を見ると、アラブ石油の周囲には立派な社屋が建っていたり、決して新しそうでない住宅も立ち並んでいる。
昔は国道からはずれると砂利道だったと記憶する道も、当然のごとく今ではアスファルト舗装されている。
私の記憶では、給油機しかないスタンドだったが、写真を見ると小さな小屋があって、おじさんはそこにいたのだということが判る。
その後ガソリンスタンドの深夜営業が、一般のガソリンスタンドでも行われるにつれてアラブ石油の需要は激減したものと見られる。
アラブ石油が帯広からひっそりと姿を消したのが、いったいいつのことなのかは知ることができなかった。
ガソリンスタンドの跡地というのは、ガソリンタンクが埋蔵しているので再利用にお金がかかり、そのまま土地活用されずに廃墟になるケースが多いと聞く。
田舎に行けばいくほど、ローカルの小さな昔のガソリンスタンドの廃墟を多く見かけるが、特に目印になるシンボルマークも何もなかったアラブ石油の跡地が、このような形で残っていることに、ちょっとした感動を覚えたのだった。
都会はどうだったのかは知らないが、1985年当時の帯広の田舎では、まだまだガソリンスタンドの深夜営業はまれなことで、ガソリンスタンドが行楽の日曜日に平然と休んでいるのも珍しいことではなかった。
平日でも、早くて午後6時、遅くても8時には営業が終了してしまうところが多かったので、夜中に突発的にドライブなどに行きたいと思ったときに、ガソリンがないということもしばしばあった。
普通の人たちはどうだか知らないが、私たちの友人はみんな車があるとすぐにドライブに行きたくなってしまう。それが軽であろうがソアラ(誰も持っていなかったけど)であろうがお構いなしであった。
行き先はいろいろで、近場だと当時は24時間営業していた十勝川温泉の大平原だったり、余力があれば大津の海まで行くこともあった。
だいたい人が集まる場所は決まっていて、そこで集った仲間で条件が合い意気投合して行動を始めるのが夜も10時過ぎのことである。
馴染みのお店の店員の仕事が終わるのを待つときは、行動開始が0時を過ぎることもしばしば。 そこで車を調達して、お金を出し合ってガソリンを入れるのだが、そんなときに重宝していたのがアラブ石油だった。
私の記憶では、国道38号線沿いの周囲に街灯も何もない場所の暗闇に、こつぜんとガソリンスタンドが存在しているのが頭に焼きついている。実際にそういう場所だったのかどうかは不明だが、そういう印象だったのだ。
屋根のない二方向の敷居だけの敷地に、給油機と薄暗い明かりがぽつんとあり、車を給油機の前につけると、どこからともなく痩せたおやじが出てきて給油してくれる。
大抵お金がないので満タンなどとは言わず、千円札を取り出して「これで入るだけ」と言って給油するが、千円では10リッターも入らなかったように記憶している。
調べてみると、1985年当時のレギュラーガソリンの1リットル当たりの価格は、146円だったらしい。普通のガソリンスタンドで10リッター入れると1460円(当時は消費税がなかったので、提示価格のまま)なので、深夜営業のアラブ石油では倍くらいの値段だったのではないか。せいぜい千円で給油できたのは、4~5リッターくらいのものだったと推測する。
友人とふとしたことでアラブ石油のことで盛り上がったときに、ちょっと調べてみたところ、古い新聞記事をアーカイブしているサイトで、アラブ石油の名前を見つけることができた。
『太古の新聞記事など』
ウエートレス強盗強姦事件(昭和43年1月4日深夜の札幌市のビル内)の中の記事
http://63164201.at.webry.info/200901/article_4.html
アラブ石油は、1975年から帯広と釧路に深夜営業のガソリンスタンドを営業していた。帯広店は、東一条南8丁目と国道38号線沿いにあったらしい。 東一条店は1977年と1982年に、釧路店は1982年に強盗事件に合い、1982年の強盗事件後に帯広店は東一条店の24時間営業を取りやめ、国道38号線沿いの店舗でのみ三人交代制で24時間営業を続けていたとある。
※『太古の新聞記事など』内ウエートレス強盗強姦事件(昭和43年1月4日深夜の札幌市のビル内)の中の「十勝毎日新聞 昭和57年(1982年)2月16 日 火曜日 9面」と「十勝毎日新聞 昭和57年(1982年)3月9日 火曜日 11面」より抜粋引用。
この記事を読んだときに、あの暗闇の中で客がこないときに給油のおじさんはどうやって過ごしているのだろうと思ったことを思い出す。
お金がないときに千円ぽっちの給油でもいやな顔もせずに給油してくれた、50過ぎくらいの浅黒いおじさんの顔がうっすらよみがえるような気がする。
当時一度だけ、友人の用事につきあって昼間にあのあたりに行ったことがあったが、スタンドの周囲は住宅もまばらで野っ原だった。
友人が送ってくれた写真を見ると、アラブ石油の周囲には立派な社屋が建っていたり、決して新しそうでない住宅も立ち並んでいる。
昔は国道からはずれると砂利道だったと記憶する道も、当然のごとく今ではアスファルト舗装されている。
私の記憶では、給油機しかないスタンドだったが、写真を見ると小さな小屋があって、おじさんはそこにいたのだということが判る。
その後ガソリンスタンドの深夜営業が、一般のガソリンスタンドでも行われるにつれてアラブ石油の需要は激減したものと見られる。
アラブ石油が帯広からひっそりと姿を消したのが、いったいいつのことなのかは知ることができなかった。
ガソリンスタンドの跡地というのは、ガソリンタンクが埋蔵しているので再利用にお金がかかり、そのまま土地活用されずに廃墟になるケースが多いと聞く。
田舎に行けばいくほど、ローカルの小さな昔のガソリンスタンドの廃墟を多く見かけるが、特に目印になるシンボルマークも何もなかったアラブ石油の跡地が、このような形で残っていることに、ちょっとした感動を覚えたのだった。
◇帯広市の“まち”のシンボル広小路 ― 2010年06月17日 06時11分03秒
大通り側からの広小路アーケード
先日、従姉が送ってきた春掘りの長いもをくるんであった十勝毎日新聞に、「広小路“出店ラッシュ”」という記事が掲載されていた。
長いもがくるまれていたので新聞はちょっと破れたりしており、ネット調べてみると2010年3月4日の記事だったらしい。
去年の暮れに、長年会っていなかった友人とコンタクトが取れ、なんとなく昔話に花が咲いている。
その友人が、最近の帯広の様子を写真に撮って送ってくれた。
「何かのネタに使っていい」とのお許しが出たので、帯広の今と昔を少し考えようかと思いつつ、いろいろと状況がそれを許さず、友人をずっと待たせたままにしてしまった。 ここでその写真を使用させていただこうと思う。
「広小路“出店ラッシュ”」の記事は、ネット上で『十勝めーる』というところで発見した。
十勝毎日新聞2010年3月4日の記事
「広小路“出店ラッシュ” アーケード再生へ弾み」
http://www.tokachimail.com/obihiro/100308index.html
この記事によると、「老朽化の進んだかつての広小路で、軒並み路面店の撤退が進んでいたが、ここに来てラーメン店などその他2店舗の出店があって、関係者は胸をなでおろしている」ということらしい。
2011年には、アーケード再生事業として「まちなか」の活性化基本計画が推進されるとのことらしい。
しかし、冬の景色だからというのもあるのだが、友人から送られてくる広小路の風景は、30年くらい前にここでカセットを持ち込んで若者が踊り狂っていた場所とはとうてい思えない様相を呈している。
当時、50sファッションの流行で、原宿にクリームソーダという50sファッションのお店があり、その影響からか原宿のホコ天でカセットデッキを持ち込んで踊る50sファッションのローラー族という若者が話題になった。
ちょうど竹の子族などがもてはやされるちょっと前の時期で、そのうち竹の子族とローラー族の場所取りの抗争が話題になったりもした。
その影響で、帯広でも昼間は歩行者天国になる広小路で、50sファッションのローラー族が踊りを踊ったりして話題になった時期があった。
西二条の裏通りか西一条の11丁目(記憶不確か)に、50sファッションのお店もあったりしたのだ。
後に帯広出身の50s風バンド「キャデラックスリム」のメジャーデビューを境に、私が高校を卒業する頃にはローラー族もすっかりなりをひそめていたが、キャデラックスリムのメンバーが広小路で踊っていたとか、いろいろ噂はつきなかった。
私が帯広で一度就職したときの同僚がローラー族で、彼女のBFが乗っていた昭和40年代のフェアレディ(Zではない)のオープンカーの荷台に乗せてもらったりした(フェアレディのオープンは2シーターなので、荷台に乗るのは違法である。今考えるととんでもない)。
荷台に乗ると、一段高いところに座ることになるので、オープンカーの開放感プラス全身で風を切る感じがとても気持ちよかったのを今でも覚えている。
私が高校を卒業する1984年か1985年頃には、とくらビルの地価が一億になったというのがニュースだったような気がする。
広小路には、DCブランドの店が軒を連ね、その間に老舗の店が混在していた。
私も毎日のようにここに通ったが、広小路はアーケードをくぐるだけでちょっとわくわくするような場所だった。
藤丸が7丁目に移転し、ホシビルが広小路の西側にできて、広小路から駅をつなぐ二条通りは本当の意味で帯広のメインストリートであり、広小路はその屋台骨を支えるアーケード街だった。
帯広の七夕祭りには、広小路に仙台の七夕をもっと庶民的にした手作り感満載の七夕飾りが飾られ、平原祭りには花笠音頭のパレードが広小路をメインにまちなかを闊歩した。
広小路は、帯広市民と「まち」の活性化にはなくなてはならない場所だったはずなのだ。
帯広広小路の歴史は長い。
ネットに公開されている帯広の歴史年表(pdf)を見ると、1924(大正12)年に「現在の広小路に露天商組合が設立された」となっている。
1930(昭和5年)には店舗数が90店舗になり、この年の12月に二条8丁目に藤丸デパートも開業している。
1945年(昭和20)年の終戦時に木造の屋根がつけられ、その6年後の1951(昭和26)年に正式に帯広広小路と命名された。
店舗もそれまでは振興マーケット形式だったのが、1953(昭和28年)年には現在の店舗形式の商店街に作り変えている。
その後北側が火事で焼けたり、アーケードが大雪で倒壊したりもしたが、何度も改修を重ねて市民の憩いの商店街として存続してきたのだ。
現在、アーケードの老朽化に伴い、広小路アーケードの撤去の計画も聞かれる。
帯広の「まち」の象徴である広小路が、変わり果てたとはいえ今でも帯広市民の心に「まち」の象徴として残る形なのであれば、昔のようにとはいわないまでも、新しい形で継承していくような場所になるといいのにと、願わずにはいられない。
先日、従姉が送ってきた春掘りの長いもをくるんであった十勝毎日新聞に、「広小路“出店ラッシュ”」という記事が掲載されていた。
長いもがくるまれていたので新聞はちょっと破れたりしており、ネット調べてみると2010年3月4日の記事だったらしい。
去年の暮れに、長年会っていなかった友人とコンタクトが取れ、なんとなく昔話に花が咲いている。
その友人が、最近の帯広の様子を写真に撮って送ってくれた。
「何かのネタに使っていい」とのお許しが出たので、帯広の今と昔を少し考えようかと思いつつ、いろいろと状況がそれを許さず、友人をずっと待たせたままにしてしまった。 ここでその写真を使用させていただこうと思う。
「広小路“出店ラッシュ”」の記事は、ネット上で『十勝めーる』というところで発見した。
十勝毎日新聞2010年3月4日の記事
「広小路“出店ラッシュ” アーケード再生へ弾み」
http://www.tokachimail.com/obihiro/100308index.html
この記事によると、「老朽化の進んだかつての広小路で、軒並み路面店の撤退が進んでいたが、ここに来てラーメン店などその他2店舗の出店があって、関係者は胸をなでおろしている」ということらしい。
2011年には、アーケード再生事業として「まちなか」の活性化基本計画が推進されるとのことらしい。
しかし、冬の景色だからというのもあるのだが、友人から送られてくる広小路の風景は、30年くらい前にここでカセットを持ち込んで若者が踊り狂っていた場所とはとうてい思えない様相を呈している。
当時、50sファッションの流行で、原宿にクリームソーダという50sファッションのお店があり、その影響からか原宿のホコ天でカセットデッキを持ち込んで踊る50sファッションのローラー族という若者が話題になった。
ちょうど竹の子族などがもてはやされるちょっと前の時期で、そのうち竹の子族とローラー族の場所取りの抗争が話題になったりもした。
キャデラックスリム 「孤独のメッセージ」 | |
広小路西一条 | |
西二条の裏通りか西一条の11丁目(記憶不確か)に、50sファッションのお店もあったりしたのだ。
後に帯広出身の50s風バンド「キャデラックスリム」のメジャーデビューを境に、私が高校を卒業する頃にはローラー族もすっかりなりをひそめていたが、キャデラックスリムのメンバーが広小路で踊っていたとか、いろいろ噂はつきなかった。
私が帯広で一度就職したときの同僚がローラー族で、彼女のBFが乗っていた昭和40年代のフェアレディ(Zではない)のオープンカーの荷台に乗せてもらったりした(フェアレディのオープンは2シーターなので、荷台に乗るのは違法である。今考えるととんでもない)。
荷台に乗ると、一段高いところに座ることになるので、オープンカーの開放感プラス全身で風を切る感じがとても気持ちよかったのを今でも覚えている。
私が高校を卒業する1984年か1985年頃には、とくらビルの地価が一億になったというのがニュースだったような気がする。
広小路には、DCブランドの店が軒を連ね、その間に老舗の店が混在していた。
私も毎日のようにここに通ったが、広小路はアーケードをくぐるだけでちょっとわくわくするような場所だった。
藤丸が7丁目に移転し、ホシビルが広小路の西側にできて、広小路から駅をつなぐ二条通りは本当の意味で帯広のメインストリートであり、広小路はその屋台骨を支えるアーケード街だった。
帯広の七夕祭りには、広小路に仙台の七夕をもっと庶民的にした手作り感満載の七夕飾りが飾られ、平原祭りには花笠音頭のパレードが広小路をメインにまちなかを闊歩した。
広小路は、帯広市民と「まち」の活性化にはなくなてはならない場所だったはずなのだ。
帯広広小路の歴史は長い。
ネットに公開されている帯広の歴史年表(pdf)を見ると、1924(大正12)年に「現在の広小路に露天商組合が設立された」となっている。
1930(昭和5年)には店舗数が90店舗になり、この年の12月に二条8丁目に藤丸デパートも開業している。
1945年(昭和20)年の終戦時に木造の屋根がつけられ、その6年後の1951(昭和26)年に正式に帯広広小路と命名された。
店舗もそれまでは振興マーケット形式だったのが、1953(昭和28年)年には現在の店舗形式の商店街に作り変えている。
その後北側が火事で焼けたり、アーケードが大雪で倒壊したりもしたが、何度も改修を重ねて市民の憩いの商店街として存続してきたのだ。
現在、アーケードの老朽化に伴い、広小路アーケードの撤去の計画も聞かれる。
帯広の「まち」の象徴である広小路が、変わり果てたとはいえ今でも帯広市民の心に「まち」の象徴として残る形なのであれば、昔のようにとはいわないまでも、新しい形で継承していくような場所になるといいのにと、願わずにはいられない。
◇帯広市:ホシビル解体に思うこと ― 2010年01月08日 03時59分03秒
1983年に、満を持して西二条9丁目に建設されたホシビル。
これが解体されるという話を聞いたので、調べてみた。
詳細は、「北海道新聞帯広支社」というページに詳しいが、ここは新しいニュースが入るとページがリニューアルされて、前のニュースがどこにあるのかわからないので、記事を転載した。
北海道新聞帯広支社 2010年1月6日 08:04:07---------
http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/
ホシビル 春までに解体*帯広・博愛会*当面は有料駐車場(2010/1/6)
開西病院(帯広)を運営する医療法人社団博愛会(同)の細川吉博理事長は5日、博愛会の関連会社が所有する市中心部の商業ビル「ホシビル」(西2南9)について、春までに取り壊し、当面は駐車場として活用することを明らかにした。
ビルは関連会社のベーシック(同)が、2008年10月に土地と建物を約5千万円で取得した。当初、飲食店などのテナントを入居させる計画だったが、水回りなど設備の老朽化が進んでいて全面改修が必要と分かり、そのままでの活用を断念した。
同ビルは1983年に完成し、百貨店藤丸の道路を挟んで南側に位置する好立地から、かつてはファッションビルとして中心街のにぎわいに貢献していた。建物は鉄筋コンクリート地上6階、地下1階で、延べ床面積約4300平方メートル、敷地面積は約800平方メートル。
解体工事は今月中旬にも始まり、いったん更地にした上で、4月以降、有料の駐車場として営業する。細川理事長は「固定資産税が高額なため、とりあえず駐車場にするが、時機を見て新たな建物を建て、まちなかの活性化に貢献したい」と話している。(長谷川賢)
----------------------------------------------
ホシビルのある場所から、二条通りをはさんで向かいの広小路の端にあるビルは、1986年当時地価(建物込みか?)が一億円になったというニュースが懐かしい。こんな田舎町で、一億円の価値のあるものがあるのかとわくわくした。
世の中はバブルへ向け好景気への期待に胸ふくらみ、専門店が強みの帯広の「まち」は、かねてから流行していたDCブランド熱が高校生を中心にさらなる過熱をみせていた。
帯広の「まち」でDCブランドといえば、マノワール・グレースだった。
ホシビルは、一階は今で言うドラッグストア的な店舗で、二階から上はマノワール・グレースが展開するDCブランドの本拠地となっていた。
一階は、普通にホシ薬局が入っていたのだが、当時の薬局は薬コーナーと化粧品コーナーとが分かれたよくある「薬局」が多かったのに対し、初めて帯広に「ドラックストア」的な店舗を展開したのもホシビルだった。
アンアンなどの雑誌で注目されていた、大手化粧品会社とは違う、独立したコスメ製品が普通に手に入るのは、新し物好きな帯広っ子には大変な魅力だった。
十勝毎日新聞社の2008年2月25日の「検証2008帯広予算」
http://www.tokachi.co.jp/kachi/jour/08kensyou/20080225/03.htm
という記事を見ると、2008年1月にはすでにホシビルの解体計画は存在していたらしい。
この記事で興味深いのは、「中心市街地活性化基本計画」と銘打ち2億6546万円もの予算を組みながら、市と商工会との産業政策の感覚のずれが如実に現れている。
新し物好きで開拓精神旺盛、何よりも自分たちの住む土地を愛している帯広の人たちが、帯広のバブルの象徴ともいえるホシビルを今失うことは、かなり大きな意味を持っていると思う。
これから、昔から栄えていた西二条を中心とした北側駅前をどうにかするのか、それともこの地域は捨てて新しい場所に繁栄の地を求めるのか。
「十勝・帯広の情報サイト 十勝への招待状」
http://www.0155.jp/tokachi/2008/01/09-001469.html
というブログの中でもホシビル解体の話題が書かれている。
ここでも触れているが、現在のホシビルの持ち主が医療団体なのなら、医療を中心とした商業・経済地域にすることだってできるはずだ。
そういう取り組みは、他の自治体でもよく見かけるし、実際に成功を納める地域もあるようだ。
これは邪推だが、帯広はなんとなく病院だけが元気で、高額な医療機器を導入して医療部分だけが高齢化に向けて、どんどん加速していっているような気がしてならない。
帯広はこれから、どういう都市であることを目指すのか。
建物が老朽化しているのなら、建物の表側だけきれいに取り繕ってきた帯広の建物や思想を、いっそ基礎からきれいにするチャンスでもあるのではないか。
離れて暮らす人間としては、故郷の大きな変化は好まないが、一番困るのは気がついたら故郷が機能しない町になって、死んだも同然になっていることだ。
それでは帰ってきても楽しみはないし、なにより自分の家族がそのような地域にいるのは、あまり安心できる状況ではない。
市としての指針が見えず、商工会や市民のいらだちが募る中で、市は帯広市をどう変えていきたいのだろうか。
すでに帯広市民でなくても、それは気になるところだ。
数年前、久しぶりに二条通りを散策したとき、閑散とする帯広の駅前北側でがんばっていたのは、帯広のもうひとつの顔ともいえる、飲食店街の人たちだった。
マルヒロセンターの改造や屋台街などで、昔の繁栄までいかないまで、もここを盛り上げる守っていくという気合を見て取れた。
商工会や市は、この動きや市民の思いをどうとらえていくのか、今後注目したいと思う。
これが解体されるという話を聞いたので、調べてみた。
詳細は、「北海道新聞帯広支社」というページに詳しいが、ここは新しいニュースが入るとページがリニューアルされて、前のニュースがどこにあるのかわからないので、記事を転載した。
北海道新聞帯広支社 2010年1月6日 08:04:07---------
http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/
ホシビル 春までに解体*帯広・博愛会*当面は有料駐車場(2010/1/6)
開西病院(帯広)を運営する医療法人社団博愛会(同)の細川吉博理事長は5日、博愛会の関連会社が所有する市中心部の商業ビル「ホシビル」(西2南9)について、春までに取り壊し、当面は駐車場として活用することを明らかにした。
ビルは関連会社のベーシック(同)が、2008年10月に土地と建物を約5千万円で取得した。当初、飲食店などのテナントを入居させる計画だったが、水回りなど設備の老朽化が進んでいて全面改修が必要と分かり、そのままでの活用を断念した。
同ビルは1983年に完成し、百貨店藤丸の道路を挟んで南側に位置する好立地から、かつてはファッションビルとして中心街のにぎわいに貢献していた。建物は鉄筋コンクリート地上6階、地下1階で、延べ床面積約4300平方メートル、敷地面積は約800平方メートル。
解体工事は今月中旬にも始まり、いったん更地にした上で、4月以降、有料の駐車場として営業する。細川理事長は「固定資産税が高額なため、とりあえず駐車場にするが、時機を見て新たな建物を建て、まちなかの活性化に貢献したい」と話している。(長谷川賢)
----------------------------------------------
ホシビルのある場所から、二条通りをはさんで向かいの広小路の端にあるビルは、1986年当時地価(建物込みか?)が一億円になったというニュースが懐かしい。こんな田舎町で、一億円の価値のあるものがあるのかとわくわくした。
世の中はバブルへ向け好景気への期待に胸ふくらみ、専門店が強みの帯広の「まち」は、かねてから流行していたDCブランド熱が高校生を中心にさらなる過熱をみせていた。
帯広の「まち」でDCブランドといえば、マノワール・グレースだった。
ホシビルは、一階は今で言うドラッグストア的な店舗で、二階から上はマノワール・グレースが展開するDCブランドの本拠地となっていた。
一階は、普通にホシ薬局が入っていたのだが、当時の薬局は薬コーナーと化粧品コーナーとが分かれたよくある「薬局」が多かったのに対し、初めて帯広に「ドラックストア」的な店舗を展開したのもホシビルだった。
アンアンなどの雑誌で注目されていた、大手化粧品会社とは違う、独立したコスメ製品が普通に手に入るのは、新し物好きな帯広っ子には大変な魅力だった。
十勝毎日新聞社の2008年2月25日の「検証2008帯広予算」
http://www.tokachi.co.jp/kachi/jour/08kensyou/20080225/03.htm
という記事を見ると、2008年1月にはすでにホシビルの解体計画は存在していたらしい。
この記事で興味深いのは、「中心市街地活性化基本計画」と銘打ち2億6546万円もの予算を組みながら、市と商工会との産業政策の感覚のずれが如実に現れている。
新し物好きで開拓精神旺盛、何よりも自分たちの住む土地を愛している帯広の人たちが、帯広のバブルの象徴ともいえるホシビルを今失うことは、かなり大きな意味を持っていると思う。
これから、昔から栄えていた西二条を中心とした北側駅前をどうにかするのか、それともこの地域は捨てて新しい場所に繁栄の地を求めるのか。
「十勝・帯広の情報サイト 十勝への招待状」
http://www.0155.jp/tokachi/2008/01/09-001469.html
というブログの中でもホシビル解体の話題が書かれている。
ここでも触れているが、現在のホシビルの持ち主が医療団体なのなら、医療を中心とした商業・経済地域にすることだってできるはずだ。
そういう取り組みは、他の自治体でもよく見かけるし、実際に成功を納める地域もあるようだ。
これは邪推だが、帯広はなんとなく病院だけが元気で、高額な医療機器を導入して医療部分だけが高齢化に向けて、どんどん加速していっているような気がしてならない。
帯広はこれから、どういう都市であることを目指すのか。
建物が老朽化しているのなら、建物の表側だけきれいに取り繕ってきた帯広の建物や思想を、いっそ基礎からきれいにするチャンスでもあるのではないか。
離れて暮らす人間としては、故郷の大きな変化は好まないが、一番困るのは気がついたら故郷が機能しない町になって、死んだも同然になっていることだ。
それでは帰ってきても楽しみはないし、なにより自分の家族がそのような地域にいるのは、あまり安心できる状況ではない。
市としての指針が見えず、商工会や市民のいらだちが募る中で、市は帯広市をどう変えていきたいのだろうか。
すでに帯広市民でなくても、それは気になるところだ。
数年前、久しぶりに二条通りを散策したとき、閑散とする帯広の駅前北側でがんばっていたのは、帯広のもうひとつの顔ともいえる、飲食店街の人たちだった。
マルヒロセンターの改造や屋台街などで、昔の繁栄までいかないまで、もここを盛り上げる守っていくという気合を見て取れた。
商工会や市は、この動きや市民の思いをどうとらえていくのか、今後注目したいと思う。
◇帯広Docco-InnおよびPICOのスパゲティ ― 2010年01月07日 02時10分14秒
とんねるずの「みなさまのおかげでした」で、石橋がスパゲティのことを「ゲッテイ」と呼ぶのを聞いて、パスタとスパゲティの違いについて考えたりしていた。
正しくは、パスタはイタリアでの小麦を使用した麺などの総称で、スパゲティはそのひとつの種類であることは知っている。
しかし、石橋はそういうことを言っているのではないだろう。
70年代、日本でのスパゲティといえばママーで、麺の太さは一種類、そして料理はナポリタンかミートソースと相場は決まっていた。
我が家では、ナポリタンよりミートソースが圧倒的に多かった。
作る手順としては、ゆでたスパゲティをうどんのごとく水で洗い(ぬめりをとると言っていた)、油をひいた鉄板かフライパンで炒めた後、なんらかの味付けがされたり、ソースがかけられたりするのだった。
具が入る場合は、麺を炒める前に具をあらかじめ炒めてから麺が投入される。
ポイントは、「麺を炒める」というところである。
当時、私は友達にも聞いたりしたのだが、私の周辺にいる友人の家でも、「スパゲティは炒めて食べる」というのが主流だったように記憶する。
スパゲティは子供に人気のメニューではあったが、まだまだ本格的に作るというよりは、新しい洋風なメニューが登場してそれにチャレンジくらいの感じだったのだろうと思う。
80年代に入り、友達と喫茶店などに入るようになって、外でスパゲティを食べる機会が多くなった。
子供の頃は「スパゲティといえばナポリタンかミートソース」だったのが、あちこちでたらこスパゲティだとか、醤油味などいろいろな味のバリエーションが増えだしてきたが、「麺を炒める」という基本的なところに変わりはなかった。
また、喫茶店などでは厨房がせまいところも多かったせいか、お客さんの少ない時間帯に大きな寸胴で大量のスパゲティをゆでておき、それを冷蔵庫に保管して、注文が入ったときに炒めて調理する方式が大多数だったように思う。
「麺はゆでたてが一番」が常識の今であれば、「麺をゆでて保管しておく」なんて考えられないことだが、昔はこれが一般的だった。私が後で勤めたいくつかの喫茶店でも、同じようなことがしばらく行われていた。
私が1984年くらいから通っていた広小路にあったDocco-Innとカジノビルにあったピコは、同じオーナーの「O川珈琲店」の姉妹店であったので、メニューの内容はほぼ同じものだった。
ここのスパゲティのメニューは、独自のレシピでいくつかのソースが自慢だった。
ナポリタンなどの定番のものもあったが、納豆ののった醤油味ベースのジャポネや中華風のチャイナなど、独特なメニューが多かった。
しかし、ここでもスパゲティは当然のごとく「炒めた」ものであった。
ジャポネやチャイナも、ソースは上からかけるのではなく、ナポリタンのように麺に絡めて炒めてあるものだった。
納豆ののったメニューはピザもあり、納豆とチーズのミスマッチのマッチングがなかなか絶妙だった。
スパゲティのジャポネは人気メニューだったが、ピザのジャポネはある種ゲテモノ的な印象を受けていたので、これを注文するのはなかなか勇気のいることだった。でも、一度食べるとやみつきになる。
私がピザのジャポネを初めて食べたとき、ピコのカウンターでオーナーのO川さんが「これ、おいしいでしょ」と独特の語り口調で顔を近づけてきたのを、強烈に記憶している(かなり嫌な記憶ではある。でも美味しかったのは事実)。
帯広の他の喫茶店に多く行っていたわけではないので詳しいことは知らないが、たらこスパゲティが美味しい店、ホワイトソースが自慢の店など、帯広には当時独自のレシピを売りにする店が多かったように思う。
そんな中でも、Doccoとピコのスパゲティは、他にはないオリジナリティがあった。
納豆をトッピングしていたり、醤油ベースのスパゲティは、今ではさほど珍しくもないが、Doccoとピコのジャポネやチャイナ(他にもいくつかあったはずだが、思い出せない)は、ただ、醤油で炒めただけのものではなかった。
常連連中はそのレシピを知りたがったが、当時Doccoの店長だったK森さんは絶対にそのレシピを教えてくれなかった(ピコでは、いつもオーナーのO川さんがいたので、聞きづらかった)。
唯一、友人Tがレシピを聞き出したと言っていたが、他に聞いたという話を聞かない。
1985年当時、東京などの都会ではどうだったのかは知らないが、少なくとも田舎にありながら、札幌よりもかっこよくという欲望渦巻く帯広の町で、「本当のスパゲティは炒めない」という概念が定着するのは、もう少し先のことである。
1986年か87年に、帯広の西二条9丁目か10丁目あたりに「本格ゆであげスパゲティの店」がオープンするまでは、「炒めたスパゲティ」が圧倒的に多かった。
ゆであげスパゲティが主流になるにつれ、喫茶店の「炒めるスパゲティ」は徐々に姿を消していくのだが、それでも本格的なイタリアンのスパゲティと平行して、日本独自の味付けのスパゲティは定着していく。
それは、今でも「街のパスタ屋さん」みたいな店で食べることができる。
しかし、Doccoやピコがなくなってしまった帯広で、あの頃のメニューが懐かしく思われることもしばしばあるし、当時の友人と話しても必ずといっていいほど話題に上るのが、Doccoとピコのスパゲティの話だ。
あれらのメニューは、今の「街のパスタ屋さん」みたいなところでも、なかなかお目にかかることはできないからだろう。
しかし、どこか「本格的なスパゲティは炒めない」という事実をつきつけられたとき、「今まで炒めていたのはなんだったんだ? うはーかっこわりぃ」という意識がどこかにあったのだと思う。
それは日本全国、共通した感覚だったのではないか?
そして、スパゲティは「パスタ」という言葉を知ると共に、「日本風のはスパゲティ、本格的なのはパスタ」という、日本人独特の区分けが生まれたように思うのだ。
とんねるず石橋の「ゲッティ」を聞くと、そんな「ちょっとかっこわりぃけど、実は美味しいんだよ」というスパゲティをなんとなく体言しているような気がしてならないのだ。
そして、「ゲッティ」と聞くたび、今は食べることができなくなったDoccoとピコのジャポネたちを思い出し、ちょっと食べたくなったりするのだった。
正しくは、パスタはイタリアでの小麦を使用した麺などの総称で、スパゲティはそのひとつの種類であることは知っている。
しかし、石橋はそういうことを言っているのではないだろう。
70年代、日本でのスパゲティといえばママーで、麺の太さは一種類、そして料理はナポリタンかミートソースと相場は決まっていた。
我が家では、ナポリタンよりミートソースが圧倒的に多かった。
作る手順としては、ゆでたスパゲティをうどんのごとく水で洗い(ぬめりをとると言っていた)、油をひいた鉄板かフライパンで炒めた後、なんらかの味付けがされたり、ソースがかけられたりするのだった。
具が入る場合は、麺を炒める前に具をあらかじめ炒めてから麺が投入される。
ポイントは、「麺を炒める」というところである。
当時、私は友達にも聞いたりしたのだが、私の周辺にいる友人の家でも、「スパゲティは炒めて食べる」というのが主流だったように記憶する。
スパゲティは子供に人気のメニューではあったが、まだまだ本格的に作るというよりは、新しい洋風なメニューが登場してそれにチャレンジくらいの感じだったのだろうと思う。
80年代に入り、友達と喫茶店などに入るようになって、外でスパゲティを食べる機会が多くなった。
子供の頃は「スパゲティといえばナポリタンかミートソース」だったのが、あちこちでたらこスパゲティだとか、醤油味などいろいろな味のバリエーションが増えだしてきたが、「麺を炒める」という基本的なところに変わりはなかった。
また、喫茶店などでは厨房がせまいところも多かったせいか、お客さんの少ない時間帯に大きな寸胴で大量のスパゲティをゆでておき、それを冷蔵庫に保管して、注文が入ったときに炒めて調理する方式が大多数だったように思う。
「麺はゆでたてが一番」が常識の今であれば、「麺をゆでて保管しておく」なんて考えられないことだが、昔はこれが一般的だった。私が後で勤めたいくつかの喫茶店でも、同じようなことがしばらく行われていた。
私が1984年くらいから通っていた広小路にあったDocco-Innとカジノビルにあったピコは、同じオーナーの「O川珈琲店」の姉妹店であったので、メニューの内容はほぼ同じものだった。
ここのスパゲティのメニューは、独自のレシピでいくつかのソースが自慢だった。
ナポリタンなどの定番のものもあったが、納豆ののった醤油味ベースのジャポネや中華風のチャイナなど、独特なメニューが多かった。
しかし、ここでもスパゲティは当然のごとく「炒めた」ものであった。
ジャポネやチャイナも、ソースは上からかけるのではなく、ナポリタンのように麺に絡めて炒めてあるものだった。
納豆ののったメニューはピザもあり、納豆とチーズのミスマッチのマッチングがなかなか絶妙だった。
スパゲティのジャポネは人気メニューだったが、ピザのジャポネはある種ゲテモノ的な印象を受けていたので、これを注文するのはなかなか勇気のいることだった。でも、一度食べるとやみつきになる。
私がピザのジャポネを初めて食べたとき、ピコのカウンターでオーナーのO川さんが「これ、おいしいでしょ」と独特の語り口調で顔を近づけてきたのを、強烈に記憶している(かなり嫌な記憶ではある。でも美味しかったのは事実)。
帯広の他の喫茶店に多く行っていたわけではないので詳しいことは知らないが、たらこスパゲティが美味しい店、ホワイトソースが自慢の店など、帯広には当時独自のレシピを売りにする店が多かったように思う。
そんな中でも、Doccoとピコのスパゲティは、他にはないオリジナリティがあった。
納豆をトッピングしていたり、醤油ベースのスパゲティは、今ではさほど珍しくもないが、Doccoとピコのジャポネやチャイナ(他にもいくつかあったはずだが、思い出せない)は、ただ、醤油で炒めただけのものではなかった。
常連連中はそのレシピを知りたがったが、当時Doccoの店長だったK森さんは絶対にそのレシピを教えてくれなかった(ピコでは、いつもオーナーのO川さんがいたので、聞きづらかった)。
唯一、友人Tがレシピを聞き出したと言っていたが、他に聞いたという話を聞かない。
1985年当時、東京などの都会ではどうだったのかは知らないが、少なくとも田舎にありながら、札幌よりもかっこよくという欲望渦巻く帯広の町で、「本当のスパゲティは炒めない」という概念が定着するのは、もう少し先のことである。
1986年か87年に、帯広の西二条9丁目か10丁目あたりに「本格ゆであげスパゲティの店」がオープンするまでは、「炒めたスパゲティ」が圧倒的に多かった。
ゆであげスパゲティが主流になるにつれ、喫茶店の「炒めるスパゲティ」は徐々に姿を消していくのだが、それでも本格的なイタリアンのスパゲティと平行して、日本独自の味付けのスパゲティは定着していく。
それは、今でも「街のパスタ屋さん」みたいな店で食べることができる。
しかし、Doccoやピコがなくなってしまった帯広で、あの頃のメニューが懐かしく思われることもしばしばあるし、当時の友人と話しても必ずといっていいほど話題に上るのが、Doccoとピコのスパゲティの話だ。
あれらのメニューは、今の「街のパスタ屋さん」みたいなところでも、なかなかお目にかかることはできないからだろう。
しかし、どこか「本格的なスパゲティは炒めない」という事実をつきつけられたとき、「今まで炒めていたのはなんだったんだ? うはーかっこわりぃ」という意識がどこかにあったのだと思う。
それは日本全国、共通した感覚だったのではないか?
そして、スパゲティは「パスタ」という言葉を知ると共に、「日本風のはスパゲティ、本格的なのはパスタ」という、日本人独特の区分けが生まれたように思うのだ。
とんねるず石橋の「ゲッティ」を聞くと、そんな「ちょっとかっこわりぃけど、実は美味しいんだよ」というスパゲティをなんとなく体言しているような気がしてならないのだ。
そして、「ゲッティ」と聞くたび、今は食べることができなくなったDoccoとピコのジャポネたちを思い出し、ちょっと食べたくなったりするのだった。
◇知らない町 ― 2009年11月28日 02時06分00秒
より大きな地図で 帯広駅前地図2009 を表示
帯広駅前の現在地図。私がいた場所と父がいたらしい場所
私がいた場所は★、父がいた場所は車のマーク
北海道帯広市は私の生まれた町なのだが、今はまち中よりも郊外の方がにぎわっており、「まち」と呼ばれた繁華街は、昼間は20年前の面影もなくなっていることは、このブログを始めた最初の方でさんざん書いた。
ブログを初めてから何度か帰省し、母の車で運転して移動することも多いのだが、新しくできた道がわからず、自分が今どこにいるのかわからなくなることがある。
東西南北がわかればだいたいの位置を推測することはできるのだが、なぜここの道を走ると、この場所に出るのだろうと、点と点が結びつかない。
カーナビでもあれば別だが、ふだんよその土地に行かないような両親には不要なので、そんなものはついていない。
今回、初めて飛行機ではなく汽車で帯広入りするということになったのだが、駅に迎えに来てくれた父が実は方向音痴であることを初めて知った。
駅に到着してすぐに、携帯に父から電話が入り、今どこにいるのかと聞くと、「ロータリーのある方、駅の西の北側だ」という。
帯広の駅には、西の北口、東の北口、西の南口、東の南口がある。
北口は東西どちらも、古い繁華街に出ることになる。私にとっては馴染みの街並みだが、今の帯広の人にとってはあまり利用しない方向らしい。
私は、昔の出口の方が私がわかりやすいので、父が気を使ってくれたのだと思った。
そして「昔の二条通りの方ね」と聞くと、父は「そうだ」と答えた。
しかし、その出口に出ても父の車は見当たらない。
目の前には昔からある駅のロータリーが東西に広がっているが、そこにはタクシーしかいないのだ。
もう一度父に電話し現在地を聞くと、「十勝バス(昔、西の北口正面にあった)の方じゃない。西の南口だ」という。
南口は現在の栄えている方である。目の前には長崎屋があったりする。
しかし、父の車らしいものは見当たらない。
実は父はそのとき、東の南口にいたのだ。
東の南口には新しい駅のロータリーがあり、そこで待っていたらしいのだが、私にはそんなことはわからない。タクシーロータリーがあるのには気づいたが、そこが一般車が入場できるものなのかどうかもわからない。
その上、父がいるはずの「東の南口」という出口の名前は、父からは一切でてこなかった。
なんだか新しいホテルの名前(ノースランドホテルか?)を言ってはいたが、私の知らないホテルなので「そんな名前のホテルは知らない」と答えるしかなかった。
私の中では、「東側は人のあまり行かないところ」というイメージしかなかったからだ。
日はとっくに暮れているし、雨が降ってきて寒くなってきている。
駅の構内にいたほうが雨風はしのげるが、それでは父がどこにいるかわからないので、仕方なく長崎屋のまん前の交差点で待つことにする。
携帯で父が今どこにいるのかを聞くと、逆に私がどこにいるのか聞かれたので
「長崎屋と駅の間の交差点の駅側にいる。“正面”に長崎屋がある」と答えた。
目の前にとかちプラザがあるかと聞かれたが、目の前のビルがそういう名前のものかどうかがわからないのでそう答えると、「なんでわからないんだ」と言われる。
でも、わからないものはわからない。そんなビル、私のいた頃には存在していなかったんだし。
うんと首をあげてみると、とかちプラザという看板によってその名前を確認できたのは、「とかちプラザ」というビルの存在を知ってから10分後のことであった。
雨の中でたたずみながら、こんなに帯広は知らない町になったのだと思った。
私のいた頃は、駅の南側は「駅裏」と呼んでいたくらいで、何もないところだった。
長崎屋ができて開発されたことは聞いていたし、新しい図書館にも行ったし、駅の南側にも何度も連れていってもらった。
しかし、そんなところは私にとっては知っている帯広ではないし、馴染みもない。
せっかく帰ってきているのに、懐かしいと思えない場所に行くのはなんとなくつまらないだけなので、覚える気もないのだ。
父には、昔の北側のロータリーの方がわかりやすいので、そちらに来てほしいと言ってみたが、父はすでにパニックになっていて、そのロータリーがどこだかわからなくなっている。
北側の街並みが、こんなにも帯広の人たちから遠くなっていることに、ちょっとだけ寂しさを感じた。
結局父に会えたのは、私が帯広の駅について40分以上経ってのことであった。
あまりにあきれ果て、迎えに来てくれたお礼よりも、悪態の方が口をついて出てしまう。
後で聞いた話だが、帯広の人(少なくとも私の父)にとって長崎屋の“正面”とは、パチンコ屋などがある方向で、駅とはまったく逆側らしい。
私は「長崎屋は“正面”に見えている」と伝えたので、父は長崎屋の南側に私がいるのだと思ったらしい。
父にとっては、私はもともと帯広にいたのだからそれくらいわかっているだろうと思っているのだろうが、私は思っている以上に帯広の人ではなく、帯広もすでに私の知っている町ではなくなっていることを、改めて痛感した。
それ以前に、父には是非、最低でも東西南北くらいは認識してほしいと、本気で思うのであった。
◇小さな一人旅 ― 2009年11月20日 03時42分55秒
帯広美術館前の坂から見た、雑木林越しの夕日
4年ぶりの帰省は、一人旅だった。
特別帰らないことを意識していたわけではなかったが、飼い猫が21歳(人間の歳だと100歳らしい)になり、今までのように家で留守番させるのが困難な状況が続いているため、帰る理由もみつからないまま4年が過ぎた感じだった。
気が付けば4年だったのである。
今回の帰省の理由としては、今年に入り親戚に不幸が続いたのがきっかけだった。
旦那と一緒に帰りたかったが、仕事の都合がつかないのと、猫を一人にはできないので一人で帰ることにしたのだ。
4年前にも一度一人で帰省したときに、釧路に行こうと思っていて行けなかったことがあった。
せっかくなので、帯広に行く前に釧路の叔母のところに行くことにした。そして、これが初めての小さな一人旅になった。
釧路空港へ降りる頃には、北海道の大地はすでに闇の中だった。
気流が悪く、数回旋回した後10分遅れで着陸したので、釧路市街への阿寒バスは時間ぎりぎりだった。
外は風が強く、バスの中にいても肌寒い。旅行かばんの中にコートを入れていたのだが、大きな荷物は一番の座席に置くよう指示され、私は一番後ろの座席にいたので、コートを出すことができない。
釧路空港を出たばかりの道は、街灯もまばらで真の闇が広がっているようで、久しぶりにこういう闇を見た気がした。
つくばにいる頃も、ちょっと中心地から離れた裏道を走ると、やぶから何か出そうな生ぬるい闇が続くのだが、北海道の初冬の闇は何もかも凍りつかせてしまうような冷ややかさがあり、何も気配がないのがかえって怖いような気がしたのを思い出す。
昔はわざとこういう闇の中にいて、感覚を研ぎ澄ましているのが好きだった。どこまでも続く闇は、どこにも向かっていないようで、不安な気分になる。それらの感覚は、今は求めても得ることができない。しかし、その片鱗でも思い出すことができたことにちょっとだけ驚く。
バスの終点で叔母に会い、ホテルで食事をして、叔母の家に着く。
私の記憶にある家より新しいので聞くと、叔父が亡くなる数年前にリフォームしたとのこと。私はそんなことも知らずにいた。
8時すぎに、思いがけず従姉妹が会いに来てくれた。彼女と会うのも、彼女の父親が亡くなって以来のこと。今回の帰省で、彼女の母親のお見舞いに行く予定をしているので、そのお礼に来てくれたのだ。
その日は、従姉妹が帰った後も叔母とあれこれ尽きない話をして、2時近くなってから眠った。
次の日は、叔母と二人で釧路市立博物館の展示を見に行く。こじんまりしていて、良い博物館だ。
昔は、博物館のすぐ近くにあった科学館に、叔母によく連れてきてもらった。今はその科学館は移設されて、昔の建物は今は利用されていないらしい。
博物館の内部は、螺旋階段を中心にこじんまりとした展示がなされている。
4階が釧路湿原とアイヌ「サコロベ」の展示。
釧路湿原のパノラマルームの展示が、天井がドームになっているので本当に湿原に立っているかのような気分になる。アイヌの展示もまとまっていて、阿寒だけでなく釧路周辺のアイヌの出土品や個人のコレクションの寄贈などを展示してある。
3階がなく2階が釧路の先代史の展示。ここでは、叔母が昔実際にこういう道具を使っていたと、展示してある道具について説明をしてくれた。
そして、1階は釧路の自然の展示。マンモスの標本や、北海道の大地に生きる生き物や植物などを紹介している。
その後、駅前に移動して釧路の市場で遅い昼食を取る。
市場で珍味を買いたかったが、なんとなく食指が伸びない。
夕方のタイムセール中というのに、建物の中は人気がまばらで活気がない。
思えば、釧路の駅前も人気がまばらで、シャッターが閉まるお店も多い。ここでも商店街の人離れが止まらないのだと言う。
寒い時期は観光客もこないし、余計なのだろう。
市場の中に叔母の親戚がやっているお店があり、そこでほっけや筋子などを購入して自宅に郵送してもらった。
汽車の時間が近づいたので、16時17分発の特急おおぞら12号に乗るため、駅で乗車券を購入する。自由席か指定席か聞かれたが、自由席に。
しかし自由席はほぼ満席で、ぎりぎり席に着くことができた。車内アナウンスでは指定席は満席であるとのことで、利用者の多さにちょっと驚く。
駅のホームで、寒い中叔母が時間までずっと見送ってくれた。昔と違って窓が開くわけではないし、席を離れると取られてしまうので、話すこともできずそこを動くことができなかったのが心残りだった。
特急おおぞらは根室本線から石勝線に続く路線である。
特急だと釧路から帯広まで約1時間半で着く道のりが、鈍行だと3時間以上かかる。昔は、釧路の叔母の家に行くときに必ず汽車に乗ったのだが、3時間以上かかっていたような記憶がある。
目をこらして暗い窓の外を見るのだが、車内の電気が明るすぎて外が見えない。延々と続く冷たい闇の中、ときたま街や車の明かりが見えるが、ほとんど何も見えない。
窓に顔をつけてやっと見えた景色は、線路際ぎりぎりに波が打ち寄せる暗い海であった。 そういえば、昔こんなに線路ぎりぎりに海があって、汽車が海の中に入ってしまわないのだろうかと思った記憶がある。
白糠に近づくにつれ海は線路から遠ざかり、池田に入る頃にはすっかり内陸の何も見えない暗い景色に変わっていくが、釧路を出てからしばらく海が続く景色が昔はとても好きだった。
暗い海が続く景色の中で、ときおり停車しない駅前の風景に人の気配を感じるが、そのどれもがモノクロームの冷たい世界で、つげ義春の旅日記を思い出し、一人でいることがものすごく寂しいような、清清しいような気分になってくる。
今度来るときも一人なのか、あるいは旦那と二人なのかはわからないが、次は明るい時間に汽車に乗ろうと思う。
帯広駅に着き、父が駅まで迎えにきて私の一人旅は終了した。ここからは帰省旅である。
行く前に、旦那は「カメラを持っていっていいよ」と言ってくれたのだが、一人でカメラを持ち歩くことがなんとなくためらわれて、カメラを持っていかなかった。
だが、これは後で後悔に変わった。
うまく写らなくてもいいから、あの線路際に続く暗い海の写真を撮っておけばよかったと思った。
今回は、帯広に着いてからも仏さん参りやお見舞いで、友達に会う時間がとれなかった。
唯一、帯広百年記念館と美術館で開催されていた、ロシアの博物館にあったアイヌの資料を展示した大掛かりなイベントを、半日かけてゆっくり見ることができたのが収穫だった。
もう少しゆっくり時間をとろうと思えばとれたのだが、体調も芳しくなく、実際帯広にいる間謎の湿疹に悩まされ(これは、ヒートテック素材の下着が原因か? できるならカニでないように)、こちらに戻ってからも大変だったので、この期間が限界だった。
それに帯広の友人は喫煙者が多いので、実際今の私の体調では5分と一緒にいられないだろう。
友人には会いたいが、今はタバコの臭いだけで気持ちが悪くなってしまうので、タバコが平気になった頃にまた連絡できたらいいと思う。
4年ぶりの帰省は、一人旅だった。
特別帰らないことを意識していたわけではなかったが、飼い猫が21歳(人間の歳だと100歳らしい)になり、今までのように家で留守番させるのが困難な状況が続いているため、帰る理由もみつからないまま4年が過ぎた感じだった。
気が付けば4年だったのである。
今回の帰省の理由としては、今年に入り親戚に不幸が続いたのがきっかけだった。
旦那と一緒に帰りたかったが、仕事の都合がつかないのと、猫を一人にはできないので一人で帰ることにしたのだ。
4年前にも一度一人で帰省したときに、釧路に行こうと思っていて行けなかったことがあった。
せっかくなので、帯広に行く前に釧路の叔母のところに行くことにした。そして、これが初めての小さな一人旅になった。
釧路空港へ降りる頃には、北海道の大地はすでに闇の中だった。
気流が悪く、数回旋回した後10分遅れで着陸したので、釧路市街への阿寒バスは時間ぎりぎりだった。
外は風が強く、バスの中にいても肌寒い。旅行かばんの中にコートを入れていたのだが、大きな荷物は一番の座席に置くよう指示され、私は一番後ろの座席にいたので、コートを出すことができない。
釧路空港を出たばかりの道は、街灯もまばらで真の闇が広がっているようで、久しぶりにこういう闇を見た気がした。
つくばにいる頃も、ちょっと中心地から離れた裏道を走ると、やぶから何か出そうな生ぬるい闇が続くのだが、北海道の初冬の闇は何もかも凍りつかせてしまうような冷ややかさがあり、何も気配がないのがかえって怖いような気がしたのを思い出す。
昔はわざとこういう闇の中にいて、感覚を研ぎ澄ましているのが好きだった。どこまでも続く闇は、どこにも向かっていないようで、不安な気分になる。それらの感覚は、今は求めても得ることができない。しかし、その片鱗でも思い出すことができたことにちょっとだけ驚く。
バスの終点で叔母に会い、ホテルで食事をして、叔母の家に着く。
私の記憶にある家より新しいので聞くと、叔父が亡くなる数年前にリフォームしたとのこと。私はそんなことも知らずにいた。
8時すぎに、思いがけず従姉妹が会いに来てくれた。彼女と会うのも、彼女の父親が亡くなって以来のこと。今回の帰省で、彼女の母親のお見舞いに行く予定をしているので、そのお礼に来てくれたのだ。
その日は、従姉妹が帰った後も叔母とあれこれ尽きない話をして、2時近くなってから眠った。
次の日は、叔母と二人で釧路市立博物館の展示を見に行く。こじんまりしていて、良い博物館だ。
昔は、博物館のすぐ近くにあった科学館に、叔母によく連れてきてもらった。今はその科学館は移設されて、昔の建物は今は利用されていないらしい。
博物館の内部は、螺旋階段を中心にこじんまりとした展示がなされている。
4階が釧路湿原とアイヌ「サコロベ」の展示。
釧路湿原のパノラマルームの展示が、天井がドームになっているので本当に湿原に立っているかのような気分になる。アイヌの展示もまとまっていて、阿寒だけでなく釧路周辺のアイヌの出土品や個人のコレクションの寄贈などを展示してある。
3階がなく2階が釧路の先代史の展示。ここでは、叔母が昔実際にこういう道具を使っていたと、展示してある道具について説明をしてくれた。
そして、1階は釧路の自然の展示。マンモスの標本や、北海道の大地に生きる生き物や植物などを紹介している。
その後、駅前に移動して釧路の市場で遅い昼食を取る。
市場で珍味を買いたかったが、なんとなく食指が伸びない。
夕方のタイムセール中というのに、建物の中は人気がまばらで活気がない。
思えば、釧路の駅前も人気がまばらで、シャッターが閉まるお店も多い。ここでも商店街の人離れが止まらないのだと言う。
寒い時期は観光客もこないし、余計なのだろう。
市場の中に叔母の親戚がやっているお店があり、そこでほっけや筋子などを購入して自宅に郵送してもらった。
汽車の時間が近づいたので、16時17分発の特急おおぞら12号に乗るため、駅で乗車券を購入する。自由席か指定席か聞かれたが、自由席に。
しかし自由席はほぼ満席で、ぎりぎり席に着くことができた。車内アナウンスでは指定席は満席であるとのことで、利用者の多さにちょっと驚く。
駅のホームで、寒い中叔母が時間までずっと見送ってくれた。昔と違って窓が開くわけではないし、席を離れると取られてしまうので、話すこともできずそこを動くことができなかったのが心残りだった。
特急おおぞらは根室本線から石勝線に続く路線である。
特急だと釧路から帯広まで約1時間半で着く道のりが、鈍行だと3時間以上かかる。昔は、釧路の叔母の家に行くときに必ず汽車に乗ったのだが、3時間以上かかっていたような記憶がある。
目をこらして暗い窓の外を見るのだが、車内の電気が明るすぎて外が見えない。延々と続く冷たい闇の中、ときたま街や車の明かりが見えるが、ほとんど何も見えない。
窓に顔をつけてやっと見えた景色は、線路際ぎりぎりに波が打ち寄せる暗い海であった。 そういえば、昔こんなに線路ぎりぎりに海があって、汽車が海の中に入ってしまわないのだろうかと思った記憶がある。
白糠に近づくにつれ海は線路から遠ざかり、池田に入る頃にはすっかり内陸の何も見えない暗い景色に変わっていくが、釧路を出てからしばらく海が続く景色が昔はとても好きだった。
暗い海が続く景色の中で、ときおり停車しない駅前の風景に人の気配を感じるが、そのどれもがモノクロームの冷たい世界で、つげ義春の旅日記を思い出し、一人でいることがものすごく寂しいような、清清しいような気分になってくる。
今度来るときも一人なのか、あるいは旦那と二人なのかはわからないが、次は明るい時間に汽車に乗ろうと思う。
帯広駅に着き、父が駅まで迎えにきて私の一人旅は終了した。ここからは帰省旅である。
行く前に、旦那は「カメラを持っていっていいよ」と言ってくれたのだが、一人でカメラを持ち歩くことがなんとなくためらわれて、カメラを持っていかなかった。
だが、これは後で後悔に変わった。
うまく写らなくてもいいから、あの線路際に続く暗い海の写真を撮っておけばよかったと思った。
今回は、帯広に着いてからも仏さん参りやお見舞いで、友達に会う時間がとれなかった。
唯一、帯広百年記念館と美術館で開催されていた、ロシアの博物館にあったアイヌの資料を展示した大掛かりなイベントを、半日かけてゆっくり見ることができたのが収穫だった。
もう少しゆっくり時間をとろうと思えばとれたのだが、体調も芳しくなく、実際帯広にいる間謎の湿疹に悩まされ(これは、ヒートテック素材の下着が原因か? できるならカニでないように)、こちらに戻ってからも大変だったので、この期間が限界だった。
それに帯広の友人は喫煙者が多いので、実際今の私の体調では5分と一緒にいられないだろう。
友人には会いたいが、今はタバコの臭いだけで気持ちが悪くなってしまうので、タバコが平気になった頃にまた連絡できたらいいと思う。
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