◇東大裏で田渕由美子展を観る ― 2021年07月05日 21時38分04秒
2年ぶりに、根津の東大裏にある弥生美術館・竹久夢二美術館に足を運ぶ。
毎年楽しみにしている、70年代少女漫画の原画展に行くためだ。
今年は田渕由美子。りぼんおとめちっく三人衆の一人だけれど、わりとポジティブで少しコンプレックスの陸奥A子に比べて、田渕由美子の主人公はどっぷりコンプレックスだったので、当時はあまり好きではなかった。勉強もできないし色気のないガリガリチビ、ドジで奥手で引っ込み思案という感じ。いつも泣いていて、のっぽで勉強ができる顔の良い彼氏になぐさめられるというのが定石パターンだった。
でも、テーマはわりと深い内容のものが多く、気づくと印象に残る作品ばかりだった。
いつもご一緒する友達は、同居する高齢の母親のことを考え、まだしばらく東京遠征は控えたいというので、今年は1人で根津に行った。
いつもは2人で何かおいしいものを食べようと、あれこれ街を散策するのだが、今年はどうしよう。
地下鉄の根津駅から東大までのゆるい坂道には、めぼしい食べ物屋は少ないので、東大とは反対の不忍通りを千駄木の方向へ足を運ぶ。ここいらは、安くて下町っぽい食べ物屋が多くある通り。でもまだ緊急事態宣言が明けたばかりで東京はまんえん防止期間中。閉めているお店も少なくないかなと思ったり、早めに展示を見て早く帰りたいと思ったりで、13時頃根津についてそのまま一番最初に目についたカレー屋に入ることにした。
そこのカレー屋は以前から気になっていたお店だったけれど、なんとなくずっと入らずにいたお店。ひとりにはうってつけ。
お店の名前は、根津カレー Lucky (ラッキー)。
お店の看板と、ウインドウに描かれた食材の絵がレトロでかわいい。
最初に出されるしょうが湯がほっとしておいしい。お店のメニューには、特製ラッキーカレーと、ラッキーカレーの辛口、そして魯肉飯がある。最近カレーと魯肉飯のあいがけというのもやっているというので、それにしてみた。カレーには焼きチーズのトッピングもプラス。
厨房から出たところで、お店の人がチーズをバーナーで焼いてくれる。魯肉飯の台湾っぽい香りと、カレーの香ばしい香り、チーズの焼けた香りが食欲がそそられる。
「こちらもどうぞ」と福神漬けを運んできてくれ、それが昔ながらの赤い福神漬けなのが嬉しかった。この福神漬けはこのカレーにとてもマッチしている。
特製ラッキーカレーと魯肉飯のあいがけ焼きチーズトッピング
ランチの時間帯もすっかり終わったせいか、お客は私一人。あとで学生さんぽい人が、テイクアウトで来店した。
ふと壁を見ると、一面ずらっと漫画が貼ってある。
絵柄とストーリーは80年代のガロ系っぽい雰囲気。ひとつひとつ絵のスタイルが違うので、お店の人に聞くと一人の作家が書いているのだという。
Twitterに漫画を描いている人で、猫田まんじまるという人の作品らしい。
お店の人は、この人の漫画が好きで応援しているのだと話してくれた。
掲示してある絵を見て、なんだか少し昔を見ているような気がして、タイムスリップしたような気持ちになってしまった。
展示してある猫田まんじまるの漫画
Twitter @nekota_1004 猫田まんじまる
東大裏へ向かうゆるい坂道に戻り、銀杏の木が実をつけているのを仰ぎ見る。
ここは秋になると本当に臭くて閉口するのだが、まだ固くなる前の銀杏の実は秋ぐみのようでかわいらしい。
そういえば、田渕由美子の『フランス窓だより』だったかに、「また秋ぐみ食べ過ぎて お腹こわすわよ」というセリフがあったような記憶(確認していないけど)。
弥生美術館・竹久夢二美術館へ行く途中に、古い小さなお屋敷があって、私はその裏木戸が好きだった。
今回もその裏木戸の前を通ろうと裏道に行くと、そのお屋敷は壊されてマンションが建設中だった。
敷地的にはそれほど大きくはないが、お勝手口があってなんとなくサザエさんちのような雰囲気だった。そうか、ここはなくなってしまったのかと、ちょっと寂しくなる。
田渕由美子展のお客様は、だいたいが50代くらいの女性ばかり。お二人で来ている人も、ぽそぽそと当時の思い出を語ったりしている。何を言っているのかはわからないが、とても楽しそうだ。30代くらいの男女のカップルが一組いたが、ずっと普通の声量で話しているのが耳につく。こちらは何を話しているのかはっきりわかってしまって、興ざめする。
田渕由美子は80年代に入ってりぼんオリジナルに移籍し、私はそのころからりぼんは読まなくなってしまったので、それきり彼女の作品を見ることはなかった。
単行本は近所のお姉さんが持っていたのをいただいたりで、なんでか全巻持っていた。
陸奥A子、太刀掛秀子、田渕由美子のおとめちっく三人衆。陸奥A子はごくごく平均的な少女の夢見がちでハッピーな日常がテーマ。太刀掛秀子はドラマ性があって、幸せだった主人公が逆境に立たされることが多い。
それと比較すると、田渕由美子は前述したように、主人公は常に自分のコンプレックスを卑下し、それを理由に恋を諦めようとしたりする。でも、そんなドジっ子が好きなハンサムな彼氏が、「何をばかなことを言っているんだ」と言ってハッピーエンドというパターンなのだ。
三人とも非現実的ではあっても、田渕由美子の主人公のコンプレックスは、形は違えどどんな女の子にも共通するもの。誰だった「自分なんて」という感情は多かれ少なかれあるじゃないか。違うのは、それをなぐさめて包んでくれる優しいのっぽでハンサムな男子などは皆無だということだ。
田渕由美子のファンタジーは、現実的すぎる。改めて作品を一同に並べてみて、そう思った。
会場のショップで、私が知る絵柄とは少し違う、『地上の楽園』という最後だという最近の単行本が売られていた。
地上の楽園 / 田渕由美子 / 集英社
試し読みはこちら
彼女が出産を機に漫画制作から遠ざかり、その後レディースコミックで復帰したことは知らなかった。復帰後の作品は、りぼんの頃の面影は残しつつも、どこか岩舘真理子風な画風に変わっていた。
主人公のタイプも、チビで奥手で引っ込み思案のガリガリチビから、タバコをくわえてそれなりにおしゃれもする顔もわりとかわいめな女の子に変わっていた。そういえば、彼女の主人公の友達にはたいていバッチリ化粧でくわえタバコの「まゆこ」という女の子がいたが、どちらかというとそれが主人公になった感じ。
私にも、「わたしなんて」とわりとどうにもならないことを絶望的に思っていた時期があった。それを理由に恋をしないなんてことはなかったけれど、恋がうまくいかないのはそれが理由かもしれないと思ったりする。
『地上の楽園』の主人公たちのは、「わたしなんて」以前の話だ。それでも、自分ではどうすることもできない境遇であることにはかわりない。
主人公はコンプレックスで泣いて何もできないようなことはなく、それをバネにしたたかに生きている。もともとテンポが軽快なラブコメディ的な作風だったので、その軽快さはレディースコミックに移籍後も残っていて、主人公はわりと不遇でも重い感じはしない。りぼんの頃の主人公は、大学生が多くて生活に困っている風でもなかった。学生三人で都内の一軒家をシェアできるほどの金銭感覚である。彼女たちに貧乏の臭いはしない。なのに、彼女の作風はコメディなのにどこかシニカルな匂いがする。
レディースコミックの主人公は、親に捨てられたり会社が倒産したりと、生きていくのにギリギリの生活をしていたりする。ベースがコメディだからなのだと思うが、やはりシニカルな匂いはしても重い感じがしないのは、彼女の特徴なのかもしれない。
それにしても、大学時代に「わたしなんて何もとりえがないし」と泣いていた女の子が、世に出てわりと腹黒くエネルギッシュにがんばる姿のようにも感じて、結局女ってのはそういうものなのかもねと、ゆみこたんカプチーノを併設のカフェですすってちょっとだけ当時の大学生気分を想像してみたりする。
そんなことを思いながら、「最後の単行本」と銘打たれた『地上の楽園』を会場で購入する。
いつも重くなるので会場で本は買わないのだが、帰りの電車で読もうと購入したのだ。
購入して、電車の中と家に帰って3回続けて読んだ。
読んで少しだけ泣けてしまった。
東大近くで、昔自分が触れていた漫画に出会う。
ひとつはカレー屋で、ひとつは美術館で。
自分の青春時代がここにあるわけではないし、お気に入りの風景はかわってしまうけれど、1年に一度くらいはやはりここに来て懐かしい気持ちになりたいと思ってしまう。
◇東京で神田日勝の思い出にひたる ― 2020年06月14日 22時13分52秒
神田日勝回顧展 大地への筆触
去年の今頃は帯広に帰省して、鹿追町にある神田日勝美術館に足を運んでいた。
すでに、今年からはじまる東京ステーションギャラリー、神田日勝美術館、北海道立近代美術館との巡回展が決まっていて、ふだん道立近代美術館にある新聞紙に囲まれた部屋にいる男の「室内風景」や、門外不出の「半身の馬」を一同に会して観る機会を楽しみにしていた。
その間、鹿追の神田日勝美術館では絵がなくなってしまうので、ふだんあまり出てこない絵を観る機会でもあると知って、今年も何度か帰省して足を運ぶ予定にしていた。
しかし、今回の新型コロナ渦のため4月から東京ステーションギャラリーで予定されていたものが延期、緊急非常宣言が解除となった6月はじめから時間を決めた入場制限つきの観覧ができるようになったが、東京では半月だけの会期となった。
今回、東京で神田日勝と対峙するにあたり、個人的には望郷の念が強く出てしまい、前半は涙があふれてとまらなくなってしまった。
今の状況では実家に帰ることもままならず、鹿追と札幌に観に行くことができるのかどうかは、現段階では定かではない。
都市間移動が推奨されていない状況では、帯広でも札幌でも内地からの客を歓迎してくれるとは思えないからだ。
父は絵が好きで、たまに名もない画家の絵をふらっと買って帰ることがあった。
一時期、かつて私の部屋だったところに、4畳半ほどもあるベニヤに描かれた裏寂しい木造の開拓者住宅の絵をおいてあったことがあり、なぜそんなものを購入したのか聞くと、「それはもらったものだ」と父ははっきりと理由をいわなかった。
その絵はいつのまにか姿を消していて、あの絵はどうしたのか聞くと「別な人にゆずった」と答えていたが、あんな絵をほしがる人がいたのだろうかと疑問に思う。
しかし今から思えば、あの絵は初期の神田日勝の絵の雰囲気に似ていなくもなかったような気がする。
自画像/神田日勝[神田日勝美術館]
今から50年くらい前、妹の産まれる少し前のことだ。
駅前から稲田の国道沿いに引っ越したばかりの頃。
国道に面している大きな窓のある家の東側の方から、一人の男性がうちへ訪ねてきた。
玄関は西側にあるのだが、その人は庭からやってきて、ちょうど窓の外を眺めていた子供の私に窓をたたいて開けるよううながし、「とうちゃんはいるか」と聞いてきた。
その人は、鼠色のシャツに黒いズボンに黒い長靴をはいていた。顔は浅黒く日焼けしていて、全体的に黒っぽい印象が少し怖く思えた。
私の家を知る人であれば、私に父のことを「とうちゃん」と聞く人はいない。我が家に「とうちゃん」と呼ばれる人はいないからだ。
父は家の表側にある職場にいて、母はちょうど家にいなかったと思う。
私が「今いない」と答えると、「そうかまた来る」と言ってその人はその場を去ってしまった。
しばらくしてその人は母と一緒に家に来て、庭で二三話していたかと思ったら、家にはあがらずに来た方向に帰っていった。
母に誰が来たのか尋ねると、「絵描きの人だ」と答えた。
この記憶は子供の頃の記憶で、母はまったく覚えていないといい、父に確認しないまま父は亡くなってしまったので今となっては確認のしようもないのだが、私はその時の男の人の顔が神田日勝に似ていたような気がしてならないのだ。
父は蕎麦が好きで、鹿追や新得方面にふらっと蕎麦を食べに行くことがあった。
私が一緒のことはめったになかったが、私が一緒のときは必ず神田日勝の絵を観につれていってくれた。
神田日勝美術館は、今でこそ整備されて綺麗な建物だが、昔は神田日勝のパトロンだった福原氏の美術館の方が見やすいくらいだった。
室内風景/神田日勝[美術手帖]
絶筆となった「半身の馬」もさることながら、私は現在は北海道立近代美術館に所蔵されている、新聞紙でうめつくされた部屋の風景が描かれた「室内風景」の圧倒的な世界が印象に残っている。
どこも見ていないようで、こちらをずっと凝視している男の目が怖かった。
横たわる人形が怖かった。
神経質なほど緻密に描かれた新聞の描写が怖かった。
それでも、この絵は強烈な印象として私の中に残っている。
観る機会があるのであれば、必ず対峙したいと思う絵のひとつだ。
家/神田日勝[神田日勝デッサン集表紙]
そして、父の好きだった世界は、神田日勝の初期のモノクロームの世界だったのではないだろうかと思う。
板うちされた貧しい家は、北海道の開拓者住宅の一般的な姿で、今でもその姿をあちこちで見ることができる。
それは北海道に移住した人間の原風景でもあるような気がする。
今回の東京ステーションギャラリーでは、最初の展示でこれらの絵を観ることができる。
私は、祖父母から聞いた開拓時代の話や、今は帰ることのできない実家のことを思い、涙があふれて泣きながらこれらを観た。
華々しい都会にあこがれつつ、それでもこの貧しい風景から離れることができない。
情報の伝達が遅かった昔に、できる限りの情報を入手して表現しようとする情熱が、神田日勝からは感じられる。
それは、私が上京する前に感じた、このままここにいて何も知らず、何も見ずに生きていくことの恐怖と似ているのではないかと思えてならない。
あの頃は、ちょうど一番の親友を交通事故で亡くしたばかりで、将来に不安を感じ、このまま何もせずに生きることは死ぬことと同じなのではないかと思えてならなかった。
そんな狂気にも似たものを、私は神田日勝の絵から感じ取る。
絵が好きで、音楽が好きで、一人でそれを楽しんでいた父が、同じようなことを感じていたかどうかはわからない。
父が神田日勝と知り合いで、昔うちに訪ねてきた黒い絵描きの人が神田日勝だったかどうかもわからない(現実のことかも定かではないのだけど)。
いつの間にかなくなったベニヤの暗い木造の家の絵が、神田日勝の絵だったかどうかもわからない(これはたぶん違うだろう)。
自分の産まれた土地で、土地を思いながら表現することをやめなかったこの人の絵を、今後もおいかけずにはいられないだろうと思う。
半身の馬は、約束どおり東京に来てくれた。
もし秋までに都市間移動ができるようになるのであれば、私は約束どおり北海道にまた会いに行こうと思う。
◇26年ぶりに友達に会い、原点に帰る。 ― 2018年05月29日 05時27分03秒
プリンアラモードと珈琲。メニューが岩波文庫の表紙になっている。
先日、26年ぶりに学生時代の友人に再会した。
ずっと年賀状では「今年こそ会おう」とお互いに書いていたのだが、実現できなかった。
学校のあった御茶ノ水駅で待ち合わせをする。
私は少し早く着いたので、学生時代によく通った店などチェックする。
聖橋口で待ち合わせたのだが、昔JRの駅を出てすぐに見えていたはずのニコライ堂が見えない。
駅前には大きな商業施設がいくつもあって、面影があるのはJRの駅くらい。
ニコライ堂を探してみたら、ビルの陰にすっかり隠れてしまい、まるで札幌の時計台のようだった。
30年ぶりに会った友人は、それなりに年はとったものの、昔の面影そのままで変わらない印象。
あちらも私を見て第一声が「変わらないねぇ」だった。
お互いおばさんになったのは、言わない約束である。
ランチをして、御茶ノ水橋交差点から水道橋へ坂を下っていく。
神田川の文京区側の建物はあまり変化がないように見えるが、線路の千代田区側はすでに私達の知っている建物ではないような気がしてならない。
一本中に入ったところにあるアテネフランセなどは変わらずそこにあるが、病院や研究所の建物など微妙に違って見える。
私達が通った学校もすっかり古くなり、一番通った水道橋の別館も今はもうないと聞いた。
あの頃は東京ドームもまだ後楽園球場の頃で、マイケル・ジャクソンが後楽園球場で初来日ライブをやるというときは、学校の屋上までその喧騒が響いていた。
神田川沿いをてくてく水道橋まで降りて行き、神保町まで歩いて行く。
天ぷらの「いもや」が店じまいをしたと聞いていたが、看板がまだあちこちに残っているので確認したら、やはり平成30年3月いっぱいで閉店したと貼紙があった。
水道橋から神保町までの道は、昔は中古レコード屋がたくさんあったエリアだったが、いまやよくある食べ物屋ばかりが軒を並べ、中古レコード屋はぽつぽつと有名老舗が数軒残っている。
大正時代から続く「奥野かるた店」は未だ健在で、私はここで旅行用の小さなバックギャモンを購入して今も持っている。
もともとは文字通りかるたの店だったのだが、今はかるたやカードゲーム、希少なボードゲームなどが売られている。
ウォールナッツのバックギャモンのセットが店頭にあり、あやうく買いそうになってしまう。
神保町交差点までくると、正面にあるはずの岩波ホールが丸ごとなくなっていて、その角にはスーツ屋があり、みずほのATMがあり、ブックカフェがあった。
岩波文庫表紙
ブックカフェは本屋の中に静かな喫茶店があるというもの。テーブルの上のメニューが岩波文庫の表紙と同じデザインなので、岩波書店のカフェなのだろう。
プリンアラモードやパフェなど、昔の喫茶店で馴染みのスイーツがメニューにある。
プリンが食べたかったので、私はプリンアラモードと珈琲、友人はチョコパフェに珈琲を注文した。
毎日のように通った御茶ノ水駅や水道橋駅、神保町の街並は、お店の顔は変わったけれど、学生の街という雰囲気はそのままなような気がする。
おばさんが2人、懐かしそうに通りのあの店はどうだった、この店はどうだったといいながら歩き、古い街角で懐かしいスイーツを食べながら、昔のこと、今のこと、これからのことを話した。
彼女は、私の結婚式に出席してくれてはいるが、こんな風に会ってゆっくり話すこと自体は30年ぶり。
学生当時に留学生だったYさんと今でも交流があると言っていた。
子供も独立して、今は自分自身の悩みと向き合っている。
負けず嫌いで頑固な彼女が見せる、久々の弱気な顔。
最初に再開したときの笑顔も、今の境遇を愚痴るつもりが真剣な話になってしまい弱気な顔も、本当に変わっていないのだなあと思う。
ただ変わったのは、昔は漠然とした悩みだったのが、今は具体的な悩みであることくらいだろうか。
老舗の中華料理屋で注文しすぎて満腹中枢はちきれる中で、次の再開を約束し都営新宿線と三田線が分かれるところで彼女と別れた。
神保町、九段下は、東京で本格的にやりたい仕事を始めた街だ。
学校時代の授業も、御茶ノ水の本館ではなく、神保町に近い今はない別館が多かった。
お腹がすけばいもやで500円の天丼か天ぷら定食をかきこみ、キッチンジローで今はきっと食べきることもできない洋食の定食を食べ、日本でもまだ数少なかった回転寿司で先輩と皿の数を競ったりもした。
紙を買うにはすずらん通りの裏に行き、写植を頼みに馴染みの写植屋に行って出されたお茶でさぼったりもした。
懐かしい友人が、今は子供のことより長く続けた仕事のことで悩んでいる。
私もこの年になって、今のこの中途半端な状況を悩んでいる。
バブル目前のあの頃も、このままここで自分ができる仕事などあるのだろうかと悩んだりした。
とりあえず、食べられることが幸せだと思った。
にっちもさっちもいかなくなって、地元に戻ろうと思ったこともある。
結婚した相手も北海道の人で、なんとなく結婚してもまだ北海道に帰ることがあるかもしれないと思いながら過ごした。
26年ぶりの友達に会って、原点の場所でなんとなく、自分はそれでもここにいるんだなあと、そんなことを思いながらあの頃とはまるで反対方向の家路についた。
◇高校のクラス会雑感 ― 2017年11月21日 01時20分26秒
このひとつ前の「気ぜわしい夏」にコメントをいただいて、高校の同窓会の流れで私のブログにたどりついたという話を見て、私はそういえば高校の同窓会というものに一度も出席したことがないなと思った。
関東に出てきて30年の月日が経ったが、出身校が甲子園に出たときと、同窓会名簿を作りなおすので連絡先を教えてほしいという連絡だけは、関東にいる私のところにも届いた。
もっとも、名簿を作るから連絡先を教えてほしいといいつつ、実家ではなく当時の住所に郵便で連絡があったのだから、知っているじゃないかという邪推もあったにはあったが、当時はまだ担任だった先生が母校に在籍されていたし、年賀状のやり取りもあったので、個人情報の意識の薄い当時は誰かとつながっていればどこからともなく連絡があったりしたものなのだ。
同窓会は、もともと遠くに住んでいるので、実家に連絡があってもそこでストップしているから、一度もお誘いのハガキを見たことがない。
今年、同じ高校に通った妹が、同窓会の全体幹事を担当すると言っていたが、遠くにいる姉に幹事からの連絡はなかった。
クラス会はというと、出席して良い思い出がひとつもない。
卒業した年の冬に一番仲良くしていた友人が亡くなり、そのお葬式がクラス会のような感じだった。
私は友人の死がショックだったが、お通夜の席で後ろの方から「すんごい久しぶりだよねー」「クラス会がお通夜になっちゃったよねー」という声がいくつか聞こえていて、当時はそれが許せない気持ちだった。
私が怒ってると聞いたクラスメイトの何人かは、申し訳なかったと私の職場にあやまりに来てくれた。
友達の一周忌と三回忌が終ったあたりで、最初と2回目のクラス会をやった。
クラス会があると知った友人のご両親が、クラス会にカンパをしてくださったのだが、担当幹事はそのお金を二度ともうやむやにしてしまったのも許せなかった。
三回忌のあとのクラス会のときには、もう亡くなった友人の話もなんとなくしづらい雰囲気だった。
私は、友人のご両親の気持ちを踏みにじられたような気持ちになり、とても嫌な気持ちだったのだけ覚えている。
3回目に誘われたときは、私はすでに上京していた。
クラス会に誘われたが、なぜかクラスが二分していて、同じ日時に違う会場でクラス会をすると、それぞれの幹事から連絡があった。
何があったのかは知らないが、本筋ではない会の幹事が、本筋に出席する人を勧誘するような行動もあったりして、出席して非常に不愉快な気持ちになったのだ。
そして私は、両方の幹事に「こういう形のクラス会は不愉快なので、これで今後もやるのであれば誘わないでくれ」とタンカを切った。
それから30年、一度もクラス会の連絡はない。
今は二分していた会も一つに戻ったようだが、私のタンカは有効なようだ。
一度だけ、担任の先生が退職されるということで、別な幹事が選定されて連絡があったが、私はお花を贈って出席はしなかった。
思えば、あれが私のクラス会に出席する最後のチャンスだったのかもしれない。
担任の先生もすでに亡くなられているし、関東在住だった人も帯広に戻る人が多く、唯一残っていた人は政治活動を始めたので疎遠にしてしまった。
今、年賀状のやりとりをしているクラスメイトも、一人だけになってしまった。
この年齢になると、ふと高校の頃の友達が頭にうかぶことがある。
夢みがちで変わり者な自分は、クラスにまったく馴染まず、各クラスに話し相手がいて、みんなとそれなりの距離で友達だったけど、その誰とも仲良しではなかった。
休み時間にあちこちふらふらしていた私を、みんな優しくしてくれたが、それは私以外の人がみんな大人だったからなのだろうと今は思う。
グループは違っていたけど、唯一仲の良かった友達はもういない。
亡くなった彼女が生きていたらどうだったろうと思うけれど、卒業してからの彼女は私が帯広を出ることを全力で反対していたので、彼女が生きていたら関東にいる私も存在しなかったかもしれない。
彼女が亡くなって、やりたいことをやらない人生など考えられなかったから行動したのだから。
もしも今クラス会に誘われたら、交通費を払ってでも出席するかどうか悩むだろうなとも思う。
でも、私の高校の思い出の中で、やはり亡くなった友達のことをなしにすることはできないので、今更亡くなったクラスメイトのことを話しにクラス会に出席するのも、どうなんだろうと思ったりする。
クラスの中で私よりもクラスに馴染めなかった彼女が、生きていてもクラス会に出席するなど考えられないので、たぶん死んでからダシにされて思い出話をされるのは嫌だろうなと思ったりする。
私自身についても、楽しかった思い出と一緒に、むかつく思い出も同じくらい思い出すので、やっぱり私はいなかったものとして扱われて正解なのかもしれないと自分を納得させてみる。
そういえば、多少名前の知られた音楽家の友人が、50過ぎて一度も高校のクラス会に誘われないと言っていたのを思い出す。
もっとも、彼は高校の友人達とバンドを組んでデビューしたのだから、世界の違ってしまったクラスメイトよりは、同じ世界のクラスメイトといるほうが自然なのだろうけど。
私も友達の死と上京によって、クラスメイトとは違う世界にいるのかもしれないなと、彼の言葉の中で少し考えたりする。
関東に出てきて30年の月日が経ったが、出身校が甲子園に出たときと、同窓会名簿を作りなおすので連絡先を教えてほしいという連絡だけは、関東にいる私のところにも届いた。
もっとも、名簿を作るから連絡先を教えてほしいといいつつ、実家ではなく当時の住所に郵便で連絡があったのだから、知っているじゃないかという邪推もあったにはあったが、当時はまだ担任だった先生が母校に在籍されていたし、年賀状のやり取りもあったので、個人情報の意識の薄い当時は誰かとつながっていればどこからともなく連絡があったりしたものなのだ。
同窓会は、もともと遠くに住んでいるので、実家に連絡があってもそこでストップしているから、一度もお誘いのハガキを見たことがない。
今年、同じ高校に通った妹が、同窓会の全体幹事を担当すると言っていたが、遠くにいる姉に幹事からの連絡はなかった。
クラス会はというと、出席して良い思い出がひとつもない。
卒業した年の冬に一番仲良くしていた友人が亡くなり、そのお葬式がクラス会のような感じだった。
私は友人の死がショックだったが、お通夜の席で後ろの方から「すんごい久しぶりだよねー」「クラス会がお通夜になっちゃったよねー」という声がいくつか聞こえていて、当時はそれが許せない気持ちだった。
私が怒ってると聞いたクラスメイトの何人かは、申し訳なかったと私の職場にあやまりに来てくれた。
友達の一周忌と三回忌が終ったあたりで、最初と2回目のクラス会をやった。
クラス会があると知った友人のご両親が、クラス会にカンパをしてくださったのだが、担当幹事はそのお金を二度ともうやむやにしてしまったのも許せなかった。
三回忌のあとのクラス会のときには、もう亡くなった友人の話もなんとなくしづらい雰囲気だった。
私は、友人のご両親の気持ちを踏みにじられたような気持ちになり、とても嫌な気持ちだったのだけ覚えている。
3回目に誘われたときは、私はすでに上京していた。
クラス会に誘われたが、なぜかクラスが二分していて、同じ日時に違う会場でクラス会をすると、それぞれの幹事から連絡があった。
何があったのかは知らないが、本筋ではない会の幹事が、本筋に出席する人を勧誘するような行動もあったりして、出席して非常に不愉快な気持ちになったのだ。
そして私は、両方の幹事に「こういう形のクラス会は不愉快なので、これで今後もやるのであれば誘わないでくれ」とタンカを切った。
それから30年、一度もクラス会の連絡はない。
今は二分していた会も一つに戻ったようだが、私のタンカは有効なようだ。
一度だけ、担任の先生が退職されるということで、別な幹事が選定されて連絡があったが、私はお花を贈って出席はしなかった。
思えば、あれが私のクラス会に出席する最後のチャンスだったのかもしれない。
担任の先生もすでに亡くなられているし、関東在住だった人も帯広に戻る人が多く、唯一残っていた人は政治活動を始めたので疎遠にしてしまった。
今、年賀状のやりとりをしているクラスメイトも、一人だけになってしまった。
この年齢になると、ふと高校の頃の友達が頭にうかぶことがある。
夢みがちで変わり者な自分は、クラスにまったく馴染まず、各クラスに話し相手がいて、みんなとそれなりの距離で友達だったけど、その誰とも仲良しではなかった。
休み時間にあちこちふらふらしていた私を、みんな優しくしてくれたが、それは私以外の人がみんな大人だったからなのだろうと今は思う。
グループは違っていたけど、唯一仲の良かった友達はもういない。
亡くなった彼女が生きていたらどうだったろうと思うけれど、卒業してからの彼女は私が帯広を出ることを全力で反対していたので、彼女が生きていたら関東にいる私も存在しなかったかもしれない。
彼女が亡くなって、やりたいことをやらない人生など考えられなかったから行動したのだから。
もしも今クラス会に誘われたら、交通費を払ってでも出席するかどうか悩むだろうなとも思う。
でも、私の高校の思い出の中で、やはり亡くなった友達のことをなしにすることはできないので、今更亡くなったクラスメイトのことを話しにクラス会に出席するのも、どうなんだろうと思ったりする。
クラスの中で私よりもクラスに馴染めなかった彼女が、生きていてもクラス会に出席するなど考えられないので、たぶん死んでからダシにされて思い出話をされるのは嫌だろうなと思ったりする。
私自身についても、楽しかった思い出と一緒に、むかつく思い出も同じくらい思い出すので、やっぱり私はいなかったものとして扱われて正解なのかもしれないと自分を納得させてみる。
そういえば、多少名前の知られた音楽家の友人が、50過ぎて一度も高校のクラス会に誘われないと言っていたのを思い出す。
もっとも、彼は高校の友人達とバンドを組んでデビューしたのだから、世界の違ってしまったクラスメイトよりは、同じ世界のクラスメイトといるほうが自然なのだろうけど。
私も友達の死と上京によって、クラスメイトとは違う世界にいるのかもしれないなと、彼の言葉の中で少し考えたりする。
◇魔法のけむりの漫画小冊子 ミステリーマガジン3冊 ― 2016年11月03日 03時36分50秒
魔法のけむりについていた漫画小冊子【クリックで拡大】
前回でも書いたが、私の実家の押入れに眠り続けていたお宝(ガラクタ)の中でも、多分一番歴史があって、しかも一番価値のわからないものがこれだろうと思う。
私が水木しげるなどの妖怪漫画にはまり、貸本漫画などの存在を意識したのは上京してからのことなのだが、何故これを後生大事にとっておいたのかは自分でも解らない。
この小冊子、駄菓子屋で売られていた魔法のけむりについていたと記憶しているのだが、私の周囲の人達は記憶にないらしい。
魔法のけむりとは、時代や地方によって名称が違うようで、「妖怪けむり」とか「ふしぎなけむり」とか呼ばれていることもあるらしいが、仕様は全て同じである。
厚紙にねちゃねちゃしたものがついていて、それを指につけて指をつけたり放したりすると、煙のような何かが指から発生するというシロモノである。
よく見ると繊維質のふわふわしたものなのだが、これは樹脂ゴムらしい。
指から煙が出て不思議な気分にさせてくれるのだが、当時は煙=謎のものというイメージがあり、怪物や幽霊などは煙的な何かを伴って登場したりする描写が多かった。
ようかいけむり / asabacco
種明かしはこちら。
博物館レポ...と理科っぽいなにか 2015年08月26日
火のないところに「ようかいけむり」は立つ!
私の母の実家の近くにどんぐり屋という駄菓子屋があり、いつも和服のおじさんが店番をしていた。
これはそこで購入した魔法のけむりについていたもの。
当時は、幼稚園か小学生低学年だったので、1970年代初頭から中ごろに購入したものと思われる。
魔法のけむりは最近でも駄菓子屋などにあるらしいが、現在はミステリーマガジンはついていないらしい。
私が持っているのは3冊。
『ミステリーマガジン』
きゅうけつきドラキュラー
フランケンシュタイン
あくまムン
である。
貸本漫画家の研究家でもある唐沢なをき氏のブログを見ると、これらの小冊子のことについて触れている記事があった。
からまんブログ 2009年12月11日 「ゆうれいのちかい」
唐沢氏は当時、角川書店の『怪』で「妖怪図鑑図鑑」という連載の中でこれらの小冊子のことを取り上げていたらしい。
記事の中では、小冊子はやはり魔法のけむりなどについていたもので、写真のタイトルの他に「のろいのミイラ」「ゆうれいのちかい」というものがあるらしいことが判る。
「のろいのミイラ」はなんとなく記憶にあるのだが、「ゆうれいのちかい」は記憶にない。
作者がどこにも書かれていないのだが、絵柄から見て少なくとも3冊とも同じ作者ではないかと思われる。
ページ数は全て中身は11ページ。セリフなどの文字は全てひらがなとカタカナで統一されている。
フォントは、当時としては珍しい丸ゴシ系が使用されているのが興味深い。
きゅうけつきドラキュラー【クリックで拡大】
「きゅうけつきドラキュラー」
“人里はなれた一軒の家に住む女(西洋人の風貌)のもとへ、夜突然に鍵をかけたはずのどわー(ドア)が開き、吸血鬼ドラキュラーがやってくる。吸血鬼ドラキュラのストーリーをこれでもかと凝縮してあらすじだけかいつまみ、11ページに収めたものである。
女は哀れドラキュラーの餌食に。
そこへかけつけた女の兄(どうみてもアジア人)がドラキュラーに拳銃をはなつが、ドラキュラーはびくともしない。
兄は持っていた十字架を見せると十字架から煙が発生し、ドラキュラーは煙に飲まれて溶けてしまう。
後には一匹のこうもりが残り夜明けの空へ消えていった。”
フランケンシュタイン【クリックで拡大】
「フランケンシュタイン」
“ある古いヨーロッパの町に住む博士が何かの研究をしていた結果、完成したのはフランケンシュタインだった。こちらも、フランケンシュタインのストーリーをこれでもかと凝縮してあらすじだけかいつまみ、11ページに収めたものである。
博士は自分をバカにした町の人間に復讐するため、フランケンシュタインをけしかけるが、町の人達は博士をバカにしたのは間違いだと主張する。
そこへ神父が出てきて博士を説得しようとするが、博士の怒りは収まらない。
そのやりとりを聞いていたフランケンシュタインは、博士に襲いかかる。
博士をやっつけたフランケンシュタインはどこからともなくただよってきた煙の中に消えていった。”
あまくムン【クリックで拡大】
「あまくムン」
“アマゾンの奥深いジャングルにボンドとビリーの2人のアメリカ人探検家がやってきた。こちらはオリジナルのストーリーなのだろうか。この冊子だけ「カイキスリラー」と表紙に書いてある。
現地人は彼等にこれ以上は先に行けないと忠告する。
彼等の目の前には洞穴があり、そこには悪魔ムンがいるから入るとたたりがあると現地人は言う。
しかしボンドは銃で現地人を殺し、2人は洞穴に潜入する。
洞窟の奥には2人が目指すお宝があり、その奥には悪魔が埋められている。
山の様なお宝を目の前にし、欲に目がくらんだボンドはビリーを銃で殺してしまう。
ボンドがお宝に手をかけたとき、悪魔ムンが「ムン」と蘇りボンドを一撃にして殺してしまう。
果たして洞窟のお宝は守られ、悪魔ムンは再び土に埋まるのであった。”
スリラーとあるがスリラーではないし、ムンもお宝を守る守護神で悪魔ではないように思えるのは気のせいか。
他のふたつは魔法のけむりのおまけらしく怪物は最後に煙をまとっていなくなるが、悪魔ムンは煙が出てこない。
このあたりもなかなか興味深いところである。
いずれにしても、この3冊の中では一番ストーリーがまとまっていて面白かった。
以上が、手元にある3冊のミステリーマガジンのあらすじである。
作者名はどこにも書いていないのでわからないが、唐沢氏が書いた「妖怪図鑑図鑑」が掲載されている『怪』は中古で入手できるようなので、購入してみようと思ったりする。
◇帯広:衣料の有沢にあった懐かしいロッテガムの自販機 ― 2015年04月22日 21時50分48秒
有沢デパートのロッテガム自販機。2011年8月18日撮影。
帯広西1条南9丁目にあった、帯広の老舗中の老舗である有沢デパートが、リニューアルのために一時店舗を閉店した。2015年4月15日のことである。
新規オープンは7月を目指しているとのことだが、有沢のHPには「後日、移転オープンする予定」と書かれている。
有沢の会社略歴を見ると、明治39年(1906年)に今の西帯広で呉服の行商から起業し、大正6年(1917年)には西2条南1丁目に初めて帯広市内に店舗を構えたとある。
その後、昭和13年(1938年)に西2条北1丁目に移転。昭和18年(1943年)に戦争のため一時閉店したものの、昭和23年(1948年)には営業を再開。
昭和26年(1951年)に法人化され大通り南8丁目に移転。
昭和44年(1969年)10月に、先日まで営業していた西1条南9丁目の店舗になったらしい。
(有沢HP会社略歴より引用)
http://www.arisawa-obihiro.co.jp/kaisya%20ryakureki%2001.html
有沢デパートの看板(2015年4月撮影/写真提供TAM)
西帯広の呉服の行商から109年。今の店舗で45年半という、節目でもなんでもない時期に何故リニューアルをするのかはわからないが、こうしてみると有沢は戦前戦後の帯広をずっと眺めてきた稀有な存在であることがわかる。
洒落物で見栄坊な帯広のおしゃれをずっと支えてきたのだ。
そんなデパートの一角に、懐かしい自販機がひっそりと置かれていた。
2011年8月に撮影した冒頭の写真には、自販機に貼り紙がしてあった。
8月18日(水)HBC放送(TBS系)朝8時30分
からの「はなまるマーケット」で当社のロッテガム自販機が
全国版で放映されました。
貴重な自販機です。
衣料の有沢
まさにこの写真を撮影したその日に、全国放送でこの自販機が紹介されたのだった。
友人TAMは、何度もこのガムの自販機の足を運んで様子を見ていたらしいが、有沢が移転リニューアルすることで、この自販機の行方が気になるところだ。
有沢自身が「貴重である」と断言しているのだから、自販機も新店舗で新しい人生を歩んでほしい。
ちなみに、2011年8月時点でのガムのラインナップは、左からブルーベリー、歯につきにくいガム、ミントブルー、クールミント、グリーンガム、梅ガムの6つ。価格は100円だ。
ロッテガムの価格変遷を見てみると、1970年当時グリーンガムは一個30円だった。1974年~80年当時で50円だったので、100円と紙を貼ってあるその下は30円か50円だろうか。
TAMが送ってくれた2015年4月現在の自販機の中身は、左からフリーゾーン、ブルーベリー、ミントブルー、クールミント、グリーンガム、梅ガムである。価格はやはり100円。
2015年4月現在のガムのラインナップ〈写真提供TAM〉
定番のグリーンガムやクールミントは理解できるが、梅ガムが変わらぬラインナップであるところが面白い。
梅ガムを食べたのは何年前だろうか。すでに30年は経っているような気がする。
今年7月にリニューアルされる、新生衣料の有沢。
その店舗でもこの自販機がおかれていたら、迷わず梅ガムを購入したい。
帯広西1条南9丁目にあった、帯広の老舗中の老舗である有沢デパートが、リニューアルのために一時店舗を閉店した。2015年4月15日のことである。
新規オープンは7月を目指しているとのことだが、有沢のHPには「後日、移転オープンする予定」と書かれている。
有沢の会社略歴を見ると、明治39年(1906年)に今の西帯広で呉服の行商から起業し、大正6年(1917年)には西2条南1丁目に初めて帯広市内に店舗を構えたとある。
その後、昭和13年(1938年)に西2条北1丁目に移転。昭和18年(1943年)に戦争のため一時閉店したものの、昭和23年(1948年)には営業を再開。
昭和26年(1951年)に法人化され大通り南8丁目に移転。
昭和44年(1969年)10月に、先日まで営業していた西1条南9丁目の店舗になったらしい。
(有沢HP会社略歴より引用)
http://www.arisawa-obihiro.co.jp/kaisya%20ryakureki%2001.html
有沢デパートの看板(2015年4月撮影/写真提供TAM)
西帯広の呉服の行商から109年。今の店舗で45年半という、節目でもなんでもない時期に何故リニューアルをするのかはわからないが、こうしてみると有沢は戦前戦後の帯広をずっと眺めてきた稀有な存在であることがわかる。
洒落物で見栄坊な帯広のおしゃれをずっと支えてきたのだ。
そんなデパートの一角に、懐かしい自販機がひっそりと置かれていた。
2011年8月に撮影した冒頭の写真には、自販機に貼り紙がしてあった。
8月18日(水)HBC放送(TBS系)朝8時30分
からの「はなまるマーケット」で当社のロッテガム自販機が
全国版で放映されました。
貴重な自販機です。
衣料の有沢
まさにこの写真を撮影したその日に、全国放送でこの自販機が紹介されたのだった。
友人TAMは、何度もこのガムの自販機の足を運んで様子を見ていたらしいが、有沢が移転リニューアルすることで、この自販機の行方が気になるところだ。
有沢自身が「貴重である」と断言しているのだから、自販機も新店舗で新しい人生を歩んでほしい。
ちなみに、2011年8月時点でのガムのラインナップは、左からブルーベリー、歯につきにくいガム、ミントブルー、クールミント、グリーンガム、梅ガムの6つ。価格は100円だ。
ロッテガムの価格変遷を見てみると、1970年当時グリーンガムは一個30円だった。1974年~80年当時で50円だったので、100円と紙を貼ってあるその下は30円か50円だろうか。
TAMが送ってくれた2015年4月現在の自販機の中身は、左からフリーゾーン、ブルーベリー、ミントブルー、クールミント、グリーンガム、梅ガムである。価格はやはり100円。
2015年4月現在のガムのラインナップ〈写真提供TAM〉
定番のグリーンガムやクールミントは理解できるが、梅ガムが変わらぬラインナップであるところが面白い。
梅ガムを食べたのは何年前だろうか。すでに30年は経っているような気がする。
今年7月にリニューアルされる、新生衣料の有沢。
その店舗でもこの自販機がおかれていたら、迷わず梅ガムを購入したい。
◇帯広の老舗バー建て替え ― 2015年04月20日 22時06分05秒
黒んぼの看板〈写真提供TAM〉
帯広の西三条というと、メインの西二条よりはマイナーなイメージで、個人的には「裏通り」という感じだった。
しかし、その「裏通り」には見逃せない老舗が目白押しで、黒んぼもそんな店の一つだった。
私が帯広のまちで遊んでいた頃ですでに、この看板はまちなかで異彩を放っていた。
しょんべん臭いガキには敷居が高い佇まいを見せ、私は年上の飲み仲間の友人に連れられて、一度しかこの店に入ったことがなかった。
落ち着いたカウンターに本格的なジャズが流れる店内は、特に店自体が入りづらいということではなかったし、お店の人も非常に親切だったのだが、背伸びしきっていた当時の私には1人で訪れる勇気はなかった。
所詮、ポップスカルチャーが似合う青二才だったのだ。
黒んぼの店内〈写真提供TAM〉
それから30年近い月日が経つが、私はあの後一度もお店に行った事がない。
あの懐かしい佇まいの看板や、お店の雰囲気がずっと気になっていたし、古い帯広の友人とも話題になることはあっても、一度も足を運ぶことがなかった。
今回、お店をリニューアルするというニュースが、十勝毎日新聞に掲載された。
十勝毎日新聞『ジャズ響く59年 名店に惜別 バー「黒んぼ」建て替え』
http://www.tokachi.co.jp/news/201504/20150404-0020721.php
お店の開業は1956年昭和31年らしいが、建物自体は築80年とのこと。
ジャズが好きな父に聞くと、若い頃はたまにお店に行ったとのこと。
当時はおばさんがお店にいたが、最近は二代目になっているのではないかということらしい。
新聞記事ではお孫さんが2004年に後を継がれたとのことで、今は三代目。
私がお店に行ったときは、男性がお店にいたので、私がお会いしたのは二代目だろう。
父の記憶がどこまで鮮明かはわからないが、あの当時黒んぼの近くには大きな電気店があり、プロレス中継を店の前で見ていたという話や、アメリカ軍の放出品を扱うお店があったり、焼きラーメンのお店(数件先のラーメンあざみのことらしい)があってとても美味しかったという話など、懐かしそうに話してくれた。
黒んぼは、昼は喫茶店だったが、夜はジャズが流れるバーで雰囲気と居心地のいいお店だったとのこと。
父が黒んぼに行っていたのは、結婚する前後のことらしいので、1964年昭和39年前後の話だろうと思われる。
ラーメンあざみ
ここもすでに営業はしていないが、お店だけが残っている。
父が黒んぼに行ってから50年、私から30年以上の月日が経ち、帯広のまちなかも閑散として、なじみの建物もお店も姿を消していっている。
30年も経っているのだから、すでになくなっていたって仕方がないのだが、なんとなくずっと存在していたものは、これから先も当然のようにあるのだろうと思いたい願望の方が先にたつ。
お気に入りの黒んぼの看板も、2011年に撮影したときは、もうだいぶ黒っぽくなっており、上のほうに書かれているニッカウヰスキーの文字も見えにくくなってしまっていた。
この看板も、リニューアルしてもう見ることがないのかもしれないと思うと、これだけ長い間気になっていたのだから、ジャズが聴ける年齢になってタバコが平気なうちに一度くらいは足を運びたかったと思ったりしている。
タバコアレルギーの私には今はまだ敷居の高いお店だが、そのうちリニューアルしたお店を訪れることができるといいなと思う。
その時には、あの懐かしい看板もデザインはそのままで、綺麗にリニューアルしているといいのにと願いばかりである。
夜の黒んぼの看板〈2011年8月18日撮影〉
◆2015年4月22日更新
TAM氏より、黒んぼの写真を提供いただいたので、写真の差し替えと一部記事を修正しました。
帯広の西三条というと、メインの西二条よりはマイナーなイメージで、個人的には「裏通り」という感じだった。
しかし、その「裏通り」には見逃せない老舗が目白押しで、黒んぼもそんな店の一つだった。
私が帯広のまちで遊んでいた頃ですでに、この看板はまちなかで異彩を放っていた。
しょんべん臭いガキには敷居が高い佇まいを見せ、私は年上の飲み仲間の友人に連れられて、一度しかこの店に入ったことがなかった。
落ち着いたカウンターに本格的なジャズが流れる店内は、特に店自体が入りづらいということではなかったし、お店の人も非常に親切だったのだが、背伸びしきっていた当時の私には1人で訪れる勇気はなかった。
所詮、ポップスカルチャーが似合う青二才だったのだ。
黒んぼの店内〈写真提供TAM〉
それから30年近い月日が経つが、私はあの後一度もお店に行った事がない。
あの懐かしい佇まいの看板や、お店の雰囲気がずっと気になっていたし、古い帯広の友人とも話題になることはあっても、一度も足を運ぶことがなかった。
今回、お店をリニューアルするというニュースが、十勝毎日新聞に掲載された。
十勝毎日新聞『ジャズ響く59年 名店に惜別 バー「黒んぼ」建て替え』
http://www.tokachi.co.jp/news/201504/20150404-0020721.php
お店の開業は1956年昭和31年らしいが、建物自体は築80年とのこと。
ジャズが好きな父に聞くと、若い頃はたまにお店に行ったとのこと。
当時はおばさんがお店にいたが、最近は二代目になっているのではないかということらしい。
新聞記事ではお孫さんが2004年に後を継がれたとのことで、今は三代目。
私がお店に行ったときは、男性がお店にいたので、私がお会いしたのは二代目だろう。
父の記憶がどこまで鮮明かはわからないが、あの当時黒んぼの近くには大きな電気店があり、プロレス中継を店の前で見ていたという話や、アメリカ軍の放出品を扱うお店があったり、焼きラーメンのお店(数件先のラーメンあざみのことらしい)があってとても美味しかったという話など、懐かしそうに話してくれた。
黒んぼは、昼は喫茶店だったが、夜はジャズが流れるバーで雰囲気と居心地のいいお店だったとのこと。
父が黒んぼに行っていたのは、結婚する前後のことらしいので、1964年昭和39年前後の話だろうと思われる。
ラーメンあざみ
ここもすでに営業はしていないが、お店だけが残っている。
父が黒んぼに行ってから50年、私から30年以上の月日が経ち、帯広のまちなかも閑散として、なじみの建物もお店も姿を消していっている。
30年も経っているのだから、すでになくなっていたって仕方がないのだが、なんとなくずっと存在していたものは、これから先も当然のようにあるのだろうと思いたい願望の方が先にたつ。
お気に入りの黒んぼの看板も、2011年に撮影したときは、もうだいぶ黒っぽくなっており、上のほうに書かれているニッカウヰスキーの文字も見えにくくなってしまっていた。
この看板も、リニューアルしてもう見ることがないのかもしれないと思うと、これだけ長い間気になっていたのだから、ジャズが聴ける年齢になってタバコが平気なうちに一度くらいは足を運びたかったと思ったりしている。
タバコアレルギーの私には今はまだ敷居の高いお店だが、そのうちリニューアルしたお店を訪れることができるといいなと思う。
その時には、あの懐かしい看板もデザインはそのままで、綺麗にリニューアルしているといいのにと願いばかりである。
夜の黒んぼの看板〈2011年8月18日撮影〉
◆2015年4月22日更新
TAM氏より、黒んぼの写真を提供いただいたので、写真の差し替えと一部記事を修正しました。
◇フンフルトゥ 東京公演 2012 ― 2012年06月29日 04時59分24秒
Huun-Huur-Tu - Live at Porgy and Bess 2010 05 10
13年ぶり、東京三鷹の武蔵野市民文化会館 小ホールにて行なわれた、Hunn-Huur-Tuの東京公演に行ってきた。
フンフルトゥ 日本ツアー2012詳細
http://www.harmony-fields.com/a-huunhuurtu/
私たちは1999年に茨城県つくば市の公演で彼等の演奏を聴いているのだが、以前はスタッフとして会場を飛び回っていたので、席でゆっくり聞くのはこれが初めてだ。
13年前もそうだったのだが、彼等はロシアでも屈指の芸術家であるので、世界中を飛び回っているスーパースターだ。日本であまり知名度が高くないのが、もったいないと思われるくらいだ。
1998年、1999年と同じように、今回の公演も「祈祷」から始まった。
これは本当にいつ聴いても圧巻である。彼等のコンサートのオープニングの定番だが、初めて聴いたときも二度目のときも、そして今回も彼等が一音発した瞬間、身震いするほどの迫力があり、伴奏のないこの歌によって、観客はすっかり彼等の世界に引き込まれてしまうのだ。
演奏された曲は定番の曲が多く、CDなどで馴染みのある耳覚えのある曲ばかり。
一時期は彼等の曲ばかり聞いていた時期があったので、安心して懐かしく聴く事ができた。
つくば公演のスタッフを一緒にやっていたIさんが、兵庫の公演を見た感想をメールしてくれたのだが、「演奏や歌には影響はないものの、カイガルオールは咳をしていて辛そうだった」と言っていた。東京公演でもステージで咳をする姿があり、少し元気がない様子だったのが気になったが、彼女が言うように演奏や歌にはほとんど影響を感じさせなかった。
今回の日本ツアーは、長年トゥバに親交を持ち、トゥバを日本に紹介した第一人者の一人である、等々力政彦氏のプロデュースによるもの。
彼は札幌在住の嵯峨治彦氏と二人の、「タルバガン」という喉歌ユニットのメンバーでもあり、自身もフーメイやトゥバの楽器を演奏する。
1998年と1999年のつくば公演のときに、公演資料を作るために、当時ほとんど知られていなかった喉歌のことについてメールで連絡をとったところ、「コンサートの手伝いをしたい」と当時関西の学生さんだったのに、わざわざフンフルトゥのためにつくばまで出てきたのが彼だ。
手助けをお願いしたのはこちらからだったが、彼の熱意には当時から非常に圧倒され、1998年のときにも楽屋付きのお手伝いをしてくれたし、1999年の公演のときにはつくばの今はなきライブハウス「AKUAKU」でタルバガンによるプレライブが行なわれ、フンフルトゥの公演当日も最後の何曲かを一緒に演奏するという快挙を成し遂げた。
フンフルトゥが世界的なスーパースターであることを考えると、今ではちょっととんでもないことだったとも思ったりする。ビートルズがあまりよく知られていない田舎の土地で公演をしたときに、彼等と友人だからステージで一緒に歌わせろと言っているようなものだからだ。
しかし、友人である等々力氏のステージ参加の申し出に、フンフルトゥのメンバーはとても喜んでいたし、懐の広いつくばのオーガナイザーN氏も非常に面白がっていて、当初苦い顔をしていたのは招聘元の人達だけだった。
しかし1999年の公演は、あの日あった過酷な状況をものともせず、至上最高の演奏であると、その演奏を聴いた人であれば誰もが認めるものとなった。
今回は等々力氏が自ら招聘し、誰に気兼ねすることもなくフンフルトゥをサポートすることができ、感無量であったことだろう。
今回彼は、コンサートの資料を自作し、公演パンフレットもトゥバについて非常に充実した内容で資料として販売し、コンサートの途中で何度かMCとして登場して楽器やフーメイについて説明しており、彼のトゥバ愛をいかんなく発揮しているように見えた。
今回の公演でつくば公演と違っていたところをあげるとしたら、当時の主力メンバーであり主にフーメイ、口琴、二胡のような形の楽器「プザーンチゥ」を担当していたアナトーリ・クーラルに代わり、若いラジク・テュリュシが参加していること。
ラジクもプザーンチゥや口琴を担当し、「ショール」という縦笛も演奏する。
以前はフーメイや歌のパート担当が比較的はっきり分かれていたが、今回はアナトーリがいない分、カイガルオール・ホバルグの担当パートの割合が以前よりも多く感じた。
ラジクもフーメイを担当しているが、アナトーリが以前担当していたパートを、ラジクがそのまま担当するというものではないようだ。
つくば公演では“口琴名人”と言われたアナトーリが主に金属口琴デミル・ホムスを演奏し、彼の超絶技法でもある手離し演奏(口琴の弾くところを口の中に入れ、舌で演奏する技法)も披露され、大喝采を浴びた。
今回は、カイガルオール、ラジクとサヤン・バパの三人がデミル・ホムスを演奏していた。
打楽器担当のアレクセイ・サルグラルは、1998年と1999年は片面の大きなタンバリンのような太鼓(デュンギュル?)を演奏していたのが、今回は冒頭の動画に見られるような大きな両面太鼓を演奏していた。大きな太鼓はあまり記憶にないのだが、つくば公演でも演奏されていたかどうかは不明。ただ、今回は片面太鼓の出番はなかった。
また、彼も一時期は高音のフーメイの曲で、フーメイの種類そのものでもある「スグット」をソロで歌っていた時期もあったのだが、今回カイガルオールの低音フーメイ「カルグラー」は披露されたものの、「スグット」は披露されなかった。
演奏や歌そのものも、やはり以前とは彼等の年齢も体型も違うせいもあるし、パートの変化もあるので、全体の雰囲気は変わったといえる。
しかし、いぶし銀の魅力が加わわり、以前と今回とは比較できないクオリティのステージだったと思う。
悲しい曲も楽しい曲も、彼等のパフォーマンスは素晴らしかったし、全体を通して非常に風景を感じえる内容だったと思う。
ただ一つ口琴だけは、アナトーリの超絶技法をもう一度フンフルトゥの演奏の中で見たかったのだが、こればかりはないものねだりだ。
アナトーリ・クーラルは、フンフルトゥの初期のCDに参加しており、赤いジャケットのCDでは真ん中に写っているフランキー堺によく似た人物だ。
YouTubeにあった2001年のドイツでのステージで、手離し演奏ではないものの、彼の素晴らしい口琴の演奏を確認することができる。
非常に長い動画で、33分50秒くらいからラストまでに口琴が演奏されている。
口琴ファンは、こちらもぜひチェックしていただきたい(音が小さめなので、できるだけ大きな音で聴いてほしい)。
Huun-Huur-Tu: May 18, 2001, Kiel, Germany
http://youtu.be/LGSDk7yCG88?t=33m50s
冒頭のYouTubeの動画は2010年のもののようで、今回の公演の形態に一番近いと思うものを選んでみた。
そうそう、忘れてならない大きな変化は、観客のほうだ。
今回も昔からのフーメイファンや口琴ファンの馴染みの顔が見受けられ、しばらくそのような場に顔を出さなかった私は、非常に懐かしくみなさんに「ご無沙汰しています」と挨拶をした。
昔だったらコンサートが終った後、みんな感極まってロビーでいつまでも喉歌をうなったり、口琴を演奏したり、中には馬頭琴を持参するものもいたりしたのだ。
私がスタッフで参加するようなイベントでも、こちらが「会場閉めますから、速やかに退場ください」と言われなければ動かなかった。
でも、今回そういう人は誰一人としていなかった。
みんな大人になったのだなと、それはものすごく印象的だった。
※今回は等々力氏のプロデュースする公演の記事のため、グループ名、トゥバや喉歌などに関する表記は、等々力氏が推奨する表記に合わせました。 つくば公演当時は、フンフルトゥは「フーン・フール・トゥ」、フーメイは「ホーメイ」と表記しており、今回の公演の表記とは異なりますが同じものを指しています。
◇ザ・ピーナッツ 伊藤エミさんの訃報で思い出すこと ― 2012年06月28日 03時22分35秒
恋のバカンス / ザ・ピーナッツ
ザ・ピーナッツの伊藤エミさんが亡くなられた。
昭和歌謡の全盛期にヒット曲を数多く出していたが、1975年に引退してからはほとんどその消息を聞くことはなかった。
最後に聞いたのは、沢田研二と離婚したというニュースだっただろうか。
当時の歌手の人たちは非常に歌唱力のある人が揃っていたし、彼女達もそのうちの1組である。あの頃はみんなが歌える曲が多かったので、彼女達の曲は今でもとても人気がある。
めったにやらないカラオケだが、「恋のバカンス」は私にも歌いやすいし、特に思い出深い曲でもある。
当時私は知らなかったのだが、ザ・ピーナッツは日本のみならず、海外での人気も非常に高かったようだ。当時は東西に別れていたドイツ両国や、イタリアのみならず、ロシアなどでも人気があったらしい。
ちょうど13、14年前の1998年と1999年に、つくばでHuun-Huur-Tu(今年招聘された際の日本語の表記は、「フンフルトゥ」のようだが、当時は「フーン・フール・トゥ」と表記した。「Huun-Huur-Tu」は英語での表記である)というロシア連邦トゥヴァ共和国のグループがコンサートを行なった。
彼等はホーメイと呼ばれる喉歌の技法とトゥヴァの楽器や口琴などを駆使した演奏で、世界中を回っているスーパースターだ。
私はコンサートの印刷物を作成すると共に、コンサートスタッフとして彼等のお世話をした。
公演前日の夕食を一緒にしたり、コンサート会場から打ち上げ会場までの送り迎えをしたりしたのだが、彼等は車の中でもずっと歌っている。歌っていないときはずっとしゃべっていて、だまっている時間がないほどテンションの高い人たちだった。
車の中で、「こんな歌を知っているか?日本の歌だよ」と言って歌ってくれたのが、ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」だった。もちろん彼等はロシア語で歌っているので、歌詞の内容はさっぱりわからないのだが、後でトゥヴァに詳しい方に「ロシアでも数年前に流行して、ラジオでずっと流れていた」と教えてもらった。
打ち上げ会場では、スタッフや彼等をよく知る人たちなどが大勢集まった。そして、「恋のフーガ」をみんなで大合唱したのだ。
後にも先にも、こんな楽しい打ち上げはなかったと思う。
明日は13年ぶりに彼等の生演奏を東京で聞ける機会に恵まれ、コンサートを楽しみにしていたのだ。
13年前にみんなで撮影をしたパーティの写真などを彼等にあげようと、スキャンしたりして準備をしていたりもしたのだ。
そんな中でこの訃報に接し、非常に驚いてしまった。
彼等の住むトゥヴァ共和国は海のない国なので、当時別なスタッフが「海はここから近いのか」「海に連れていってほしいと」せがまれて困ったという話をしていた。
つくばはトゥヴァほどではないけれど山間の土地で、海まで往復する時間はなかったからだ。
それに、1999年の公演当日は、東海村で原発の臨界事故が起きた日でもあった。
あの日に海に行くなど、もってのほかだったのだ。
もちろん世界中を周っている彼等は、今ではいろいろな海を知っているだろうと思う。
でも、YuoTubeで「恋のバカンス」を探しているときに、この湘南海岸や昭和30年代の海岸の様子が映った映像を見つけて、あの日彼等が日本の海を見られなかったから、今回は海を見ることができたらいいのにと思った。
また一人昭和の偉大な歌手が亡くなられたことは、本当に残念でならない。
伊藤エミさんの、ご冥福をお祈りいたします。
Huun Huur Tu - Chiraa-Khoor
Huun-Huur-Tu 2012年日本ツアー
http://www.harmony-fields.com/a-huunhuurtu/
◇映画「レベルポイント」サウンドトラック(1978年) ― 2012年03月14日 05時05分09秒
「レベルポイント」サウンドトラック 1978年
80年代はロックやポップスが映画のサウンドトラックに使用され、それがヒットするというのが定石な時代だった。映画用に作曲された曲ではなく、既存の曲を映画のイメージにあわせて使用するという時代だった。
「レベルポイント(監督:ジョナサン・カプラン 1978年 アメリカ 原題「Over The Edge」」という映画のサウンドトラックを私は持っているが、実はこの映画は観たことがない。
当時、帯広では上映されなかったし、ネットで見てみると各学校で視聴禁止映画に指定されていたという話も聞く。
これまで見たことがなかったので、先日別な記事を書いたときに調べてみたのだが、マット・ディロンのデビュー作だったらしい。
内容としては、『親の束縛と古い価値観に反抗するティーンの辛口青春ドラマ』とあるので、この当時よくあったアメリカ映画らしい内容らしい。
そして、NirvanaのKurt Cobainが映画に影響を受け、「Smells Like Teen Spirit」のPVの元ネタになったというのも、ネットで初めて知った。
この映画のサウンド・トラックは、当時の流行のロックの曲がふんだんに使用されていて、80年代のロックと映画音楽の流行のさきがけだったのではないかと思う。
収録曲は、
Side one
Surrender -- Cheap Trick
My Best Friend's Girl -- The Cars
You Really Got Me -- Van Halen
Speak Now or Forever Hold Your Peace -- Cheap Trick
Come On (Part 1) -- Jimi Hendrix
Side two
Just What I Needed -- The Cars
Hello There -- Cheap Trick
Teenage Lobotomy -- Ramones
Downed -- Cheap Trick
All That You Dream -- Little Feat
Ooh Child -- Valerie Carter
(Wikipedia「Over the Edge (film)」より抜粋)
Jimi HendrixやLittle Feat、Ramonesなど、すでに人気があったものの中で、当時まだ新人といえるVan Halen、The Cars、そしてCheap Trickの曲がたくさん使用されている。
今聞けばどれも名曲揃いなのだが、当時の私の中に残ったのは新人の3バンドだった。
レコードを買ったきっかけは、ラジオの特集だったと思う。
まだ新人だったVan Halenの収録曲「You Really Got Me」がThe Kinksの曲だと知ったのは、ずいぶん後になってのことだったが、最初はこの曲が一番好きだった。
その後、ラジオを録音したテープを何度も聴くうちに、Cheap Trickにはまっていった。
最初に聞いたのは「Hello There」だったが、この短い曲の中にぎゅうぎゅうにつまった疾走感は、当時小学生女子だった私をぶち抜くには十分だった。
一番のお気に入りは「Surrender」。
このレコードには和訳された歌詞がついており、「Surrender」の歌詞にある“麻薬”だとか、“戦争”だとか、“パパとママがKISSでノリノリ”なんてことは、自分の日常にはまず存在しないことだったから、この映画の内容以前にこのような雰囲気がアメリカっぽいと勝手に想像していた。
しかも彼らは、「ロックバンドには美形もいて、しかもテクニックもあり、その演奏も楽しく魅せてくれるものなのだ」と認識させてくれるに足りるルックスとテクニックを有していた。そのバランスが絶妙だったのだ。
中学に入り、ロック雑誌を買い、シングルを可能な限り買い集め、出かける時は常にラジカセデッキ(もちろん、アナログ)を持ち歩き、Cheap Trickにはまっていった。
中学1年生のときに小学6年生のクラス会として、自転車で川にキャンプに行った。私はその時にもラジカセを持ち込み、自転車に乗っている間もイヤホン(もちろん、片耳のアナログのやつ)をつけてずっとCheap Trickを聞いていた。
小学生の頃は、洋楽を聞く人などクラスに誰もおらず、友達と音楽の話をすることもほとんどなかったのだが、中学に入ったことで洋楽好きの男子がキャンプの最中に話しかけてきて、初めて洋楽の話で盛り上がりとても楽しかったことを覚えている。
この印象が強烈だったせいか、私にとってはCheap Trickといえば、常に中学1年の夏の思い出とつながる。
レベルポイントの世界とは程遠い平和な日常だが、私にとっては忘れられない中学1年生の思い出なのだ。
レベルポイントのサントラの中で、今から思うと異色だと思えるのは、The Carsの曲だ。
The Carsは、今でこそ80年代のアメリカン・ポップスを象徴するようなイメージがあるが、当時はまだエレクトリックポップな曲とそうじゃない曲とが入り混じり、彼らのオリジナルアルバムを聞いてみると、一曲一曲で非常にイメージが違う。
ヴォーカルもギターのRic OcasekとベースのBenjamin Orrが相互に受け持っているのが当時は理解できず、The Carsの曲を聴くたびにイメージが分散されてしまい、なぜこんなに聞くたびにイメージが違うのだろうと不思議に思っていた。
このサウンドトラックで使用されている2曲は、どちらもダンスミュージックとしては秀悦なものだと思うのだが、やはり他の曲と比較すると非常に(当時として)現代的であり、異色な存在であると思える。
それにしても、いまや、このアルバムに収められているバンドのほとんどが、一線で活躍したバンドだ。
当時新人だった3バンドも、Benjamin Orrが2000年に亡くなったThe Carsは、彼を除くオリジナルメンバーで2010年に再結成され、Van HalenもオリジナルメンバーのヴォーカルDavid Lee Rothが復活。
Cheap Trickは一時ベースのTomが抜けたものの、早い段階で復活を果たし、今でもオリジナルメンバーで精力的に活動を続けている。
オリジナルメンバーがいずれかで一度抜けてしまったけれど、現段階で可能な限りのオリジナルメンバーが復活している点でも同じなのは、ちょっと面白い。
80年代におけるロックの映画音楽進出前夜の、1978年というアメリカンロックの成熟期に、このようなサウンドトラックが存在したのは奇跡にも近いものだと思うが、このサウンドトラックCD化されていないようで、現在は入手が難しい様子。
我が家にはまだレコードプレイヤーもあるし、やろうと思えばレコードからデータ化することも可能なのだが、データ化したいレコードは山のようにあり、なかなか手が回らない。
そのうちデータ化して、改めて聞きなおしたい一枚だ。
2012年03月14日改訂
80年代はロックやポップスが映画のサウンドトラックに使用され、それがヒットするというのが定石な時代だった。映画用に作曲された曲ではなく、既存の曲を映画のイメージにあわせて使用するという時代だった。
「レベルポイント(監督:ジョナサン・カプラン 1978年 アメリカ 原題「Over The Edge」」という映画のサウンドトラックを私は持っているが、実はこの映画は観たことがない。
当時、帯広では上映されなかったし、ネットで見てみると各学校で視聴禁止映画に指定されていたという話も聞く。
これまで見たことがなかったので、先日別な記事を書いたときに調べてみたのだが、マット・ディロンのデビュー作だったらしい。
内容としては、『親の束縛と古い価値観に反抗するティーンの辛口青春ドラマ』とあるので、この当時よくあったアメリカ映画らしい内容らしい。
そして、NirvanaのKurt Cobainが映画に影響を受け、「Smells Like Teen Spirit」のPVの元ネタになったというのも、ネットで初めて知った。
この映画のサウンド・トラックは、当時の流行のロックの曲がふんだんに使用されていて、80年代のロックと映画音楽の流行のさきがけだったのではないかと思う。
収録曲は、
Side one
Surrender -- Cheap Trick
My Best Friend's Girl -- The Cars
You Really Got Me -- Van Halen
Speak Now or Forever Hold Your Peace -- Cheap Trick
Come On (Part 1) -- Jimi Hendrix
Side two
Just What I Needed -- The Cars
Hello There -- Cheap Trick
Teenage Lobotomy -- Ramones
Downed -- Cheap Trick
All That You Dream -- Little Feat
Ooh Child -- Valerie Carter
(Wikipedia「Over the Edge (film)」より抜粋)
Jimi HendrixやLittle Feat、Ramonesなど、すでに人気があったものの中で、当時まだ新人といえるVan Halen、The Cars、そしてCheap Trickの曲がたくさん使用されている。
今聞けばどれも名曲揃いなのだが、当時の私の中に残ったのは新人の3バンドだった。
レコードを買ったきっかけは、ラジオの特集だったと思う。
まだ新人だったVan Halenの収録曲「You Really Got Me」がThe Kinksの曲だと知ったのは、ずいぶん後になってのことだったが、最初はこの曲が一番好きだった。
その後、ラジオを録音したテープを何度も聴くうちに、Cheap Trickにはまっていった。
最初に聞いたのは「Hello There」だったが、この短い曲の中にぎゅうぎゅうにつまった疾走感は、当時小学生女子だった私をぶち抜くには十分だった。
一番のお気に入りは「Surrender」。
このレコードには和訳された歌詞がついており、「Surrender」の歌詞にある“麻薬”だとか、“戦争”だとか、“パパとママがKISSでノリノリ”なんてことは、自分の日常にはまず存在しないことだったから、この映画の内容以前にこのような雰囲気がアメリカっぽいと勝手に想像していた。
しかも彼らは、「ロックバンドには美形もいて、しかもテクニックもあり、その演奏も楽しく魅せてくれるものなのだ」と認識させてくれるに足りるルックスとテクニックを有していた。そのバランスが絶妙だったのだ。
中学に入り、ロック雑誌を買い、シングルを可能な限り買い集め、出かける時は常にラジカセデッキ(もちろん、アナログ)を持ち歩き、Cheap Trickにはまっていった。
中学1年生のときに小学6年生のクラス会として、自転車で川にキャンプに行った。私はその時にもラジカセを持ち込み、自転車に乗っている間もイヤホン(もちろん、片耳のアナログのやつ)をつけてずっとCheap Trickを聞いていた。
小学生の頃は、洋楽を聞く人などクラスに誰もおらず、友達と音楽の話をすることもほとんどなかったのだが、中学に入ったことで洋楽好きの男子がキャンプの最中に話しかけてきて、初めて洋楽の話で盛り上がりとても楽しかったことを覚えている。
この印象が強烈だったせいか、私にとってはCheap Trickといえば、常に中学1年の夏の思い出とつながる。
レベルポイントの世界とは程遠い平和な日常だが、私にとっては忘れられない中学1年生の思い出なのだ。
レベルポイントのサントラの中で、今から思うと異色だと思えるのは、The Carsの曲だ。
The Carsは、今でこそ80年代のアメリカン・ポップスを象徴するようなイメージがあるが、当時はまだエレクトリックポップな曲とそうじゃない曲とが入り混じり、彼らのオリジナルアルバムを聞いてみると、一曲一曲で非常にイメージが違う。
ヴォーカルもギターのRic OcasekとベースのBenjamin Orrが相互に受け持っているのが当時は理解できず、The Carsの曲を聴くたびにイメージが分散されてしまい、なぜこんなに聞くたびにイメージが違うのだろうと不思議に思っていた。
このサウンドトラックで使用されている2曲は、どちらもダンスミュージックとしては秀悦なものだと思うのだが、やはり他の曲と比較すると非常に(当時として)現代的であり、異色な存在であると思える。
それにしても、いまや、このアルバムに収められているバンドのほとんどが、一線で活躍したバンドだ。
当時新人だった3バンドも、Benjamin Orrが2000年に亡くなったThe Carsは、彼を除くオリジナルメンバーで2010年に再結成され、Van HalenもオリジナルメンバーのヴォーカルDavid Lee Rothが復活。
Cheap Trickは一時ベースのTomが抜けたものの、早い段階で復活を果たし、今でもオリジナルメンバーで精力的に活動を続けている。
オリジナルメンバーがいずれかで一度抜けてしまったけれど、現段階で可能な限りのオリジナルメンバーが復活している点でも同じなのは、ちょっと面白い。
80年代におけるロックの映画音楽進出前夜の、1978年というアメリカンロックの成熟期に、このようなサウンドトラックが存在したのは奇跡にも近いものだと思うが、このサウンドトラックCD化されていないようで、現在は入手が難しい様子。
我が家にはまだレコードプレイヤーもあるし、やろうと思えばレコードからデータ化することも可能なのだが、データ化したいレコードは山のようにあり、なかなか手が回らない。
そのうちデータ化して、改めて聞きなおしたい一枚だ。
2012年03月14日改訂
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