◇恭賀新年 ― 2010年01月01日 01時10分01秒

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。
2010年元旦
本年もよろしくお願い申し上げます。
2010年元旦
◇2010年元旦 ― 2010年01月03日 00時50分27秒
今年の元旦は、早起きをして初日の出を見ることから始まった。
年末から良い天気が続き、元旦も穏やかな天気だ。
この日の日の出時刻は6時50分頃。
45分に起床し、マンションの東側の階段に出て6階まで上ると、高台の坂の途中にあるのでさえぎるものが少なく、とても良い景色である。
マンションの住人は誰もそこにいないので、この景色を知っている人は少ないのかもしれない。
初日の出を見るために特別な場所に行くのもいいが、自分の住んでいる場所から見るのもまたオツなものだと思うのだった。
その日は6時半ころに月食の終わりが見えたらしいが、このことは後で知ったので見ることができなかった。
その日はせっかく早起きをしたので、そのまま富士山が見える場所まで移動する。
空気が澄んでいるので富士山は見えるが、手前の建物が邪魔してしまう。
年末から良い天気が続き、元旦も穏やかな天気だ。
この日の日の出時刻は6時50分頃。
45分に起床し、マンションの東側の階段に出て6階まで上ると、高台の坂の途中にあるのでさえぎるものが少なく、とても良い景色である。
マンションの住人は誰もそこにいないので、この景色を知っている人は少ないのかもしれない。
初日の出を見るために特別な場所に行くのもいいが、自分の住んでいる場所から見るのもまたオツなものだと思うのだった。
その日は6時半ころに月食の終わりが見えたらしいが、このことは後で知ったので見ることができなかった。
その日はせっかく早起きをしたので、そのまま富士山が見える場所まで移動する。
空気が澄んでいるので富士山は見えるが、手前の建物が邪魔してしまう。

その日の朝はひどく寒かったようで、他所様の庭や車のフロントガラスに霜がおりていた。霜を見るのは今シーズン初めてなので、なんだかとても懐かしい気分になる。
霜柱も見つけて、得した気分である。
子供の頃は、霜柱を見つけて得意になって踏み潰したりした。
古くからこのあたりに住んでいる人は、昔は水道管が破裂したと言うが、今のこの暖かさしか知らないと、北海道の身の切れるような寒さとどうしても比較してしまうので、にわかには信じがたい。
それでも、冬のシーズンに霜とか雪とかを見ないと、やはり冬を体感した感じに欠けるので、こういう発見はとてもうれしい。
近所の神社に移動し、初詣も済ませてしまう。
大きな神社ではないが、お正月は近所の人たちが初詣をする神社である。
近くの家の庭にはいつも早咲の桜が咲いているのだが、今年はまだ咲いていなかった。
いつもは坂の上から直接境内に入るのだが、今年は坂の下の参道にまわって参拝する。犬の散歩をする人などがいただけで、まだ人の気配はない。
毎年来るのは元日の昼過ぎで、そのときはお札や破魔矢などを売っているが、さすがにまだそういうものも出ていなかった。
初詣をすませて帰宅し、おせち料理を食べ、年賀状をチェックする。
今年のおせちは和洋おせち。
おせちを自分で作った時期もあったが、数年で挫折した。
いろいろそろえようと思うと、結局高くつくことがわかったからだ。
とりあえず「とても食べたいもの」だけは自分で用意し、おせちは注文のものである。
最近は少人数用の量の少ないものも多いので、選べてよくなった。
毎年自分で作るかずのこは、塩抜きの時間をきちっととれたので、いつも以上に成功。
だしを取った昆布とするめとにんじんだけの松前漬けと、旦那が作った酢蓮もいい感じ。
おなかいっぱいになるので、お雑煮は晩にいただいた。
年賀状はいつもの年より少なめ。だんだん年賀状の数が少なくなる。
メールですませてしまう人もいるのだが、学生時代の友人は一人また一人と数が減っていくのだ。
来た人に出すという人もいるので、できるだけこちらから出さずにすますことのないようにはしている。
故郷を離れて暮らしていると、たとえ数十年会っていなくても、なかなか同窓会などに顔を出せないぶん、年賀状くらいは…と思ってしまう。
年賀状を見ていると、子供の写真というのも年々減っている。
子供がだんだんと大きくなるのと、自分たちも年取ってくるので、無難な干支などが多くなる。
それと、印刷屋の年賀状も圧倒的に少ない。
元日は朝早かったので、昼前にまた寝る。
夕方に目覚めて、旦那が「富士山を見に行こう」というので、街中の富士山が見えるポイントに行ってみる。
元日の日の入りは、16時40分頃。
最初のポイントでは日暮れにはまだちょっと時間が早く、偶然みつけた次のポイントのときにちょうど日の入りで、西の空が赤く染まって美しい富士山を拝むことができた。
今年は初日の出と赤富士の両方を拝むことができて、気持ちのいい元旦だった。
◇2010年雑煮 ― 2010年01月03日 04時18分54秒
毎年雑煮は作るのだが、「我が家の雑煮はこれ」というものはない。
なんとなく、あまった食材で適当に作ることが多い。
ダシもそのときあるダシを使うことが多く、しいたけ、昆布、鳥ガラ、鰹節などである。
それに、醤油と酒、みりん、砂糖などで味付けをする。
醤油味なので、関東風といっていいかもしれない。
白味噌とか、あんこ餅の雑煮も食べてみたいし、やろうと思えばできるのだろうが、実際どんなものか食べたことがないので、結局「ご当地雑煮」を我が家で再現することはない。
今年はガッテン流臼端餅にチャレンジし、鶏肉もコンロで焼いてから入れてみた。
NHK総合 ためしてガッテン2009年12月16日放送
「つきたてに変身!パックもちで至福の正月を」
http://cgi2.nhk.or.jp/gatten/archive/program.cgi?p_id=P20091216
確かにもちもちでのびもよく美味しかったが、鶏肉を焼くのに手間取り、できてから時間がたって表面が乾いてしまった。
今年は筋子が余っていたので、いくら風にすじこを乗せました。
そのほかは、焼いた鶏肉、なると巻き、たけのこ、しいたけ、三つ葉。
実家のお雑煮にはうずらの卵が入っているけど、買っても余してしまうので我が家では入れなくなった。
去年はごぼうなんかも入れたような気がするが、今年は入れなかった。
今年のお雑煮もシンプルで、なかなか美味にいただきました。
それにしても、お雑煮食べるだけで買う三つ葉も、いつも残してしまう。
なんとかして美味しく食べる方法を探さなければと、毎年思うのだが…。
◇旦那のラーメン ― 2010年01月04日 00時52分16秒
暮れから「正月はラーメンを作る」と、旦那が宣言していた。
うちのお姑さんは、若い頃ラーメン屋に勤めていたので、ラーメンを作るのが得意らしい(“らしい”というのは、私は一度もごちそうしてもらったことがないのだ)。
毎年、暮れに大量のダシを取るので、その余りを使っていいよと旦那に渡し、私はまるでノータッチだった。
元旦はさすがに料理をするのははばかれるので、二日の夜にそれは決行された。
あらかじめ用意されていた鶏がら、干ししいたけ、昆布のダシに、煮干と各種野菜を加えてダシをとったらしい。
麺も自作するのかと思ったのだが、麺は市販のものを使用した。
2日の夜はちぢれ細麺で、3日の夜は平打ち麺だった。
たまご、ターサイ、豚肉をタレに漬けて煮たもの、鶏油につけたねぎ、のりをトッピング。
3日の日はスープにホタテの貝柱が入ったので、味が濃厚になりトッピングもホタテが増えていました。
スープはさすが無科調、ちょっと甘めの醤油味が、豚肉にあっている。ちょっと昔の帯広のラーメンみたいな感じ。
大変美味で、おどろきました。
また作ってね
と言ったら、今度は稚内風の透明スープの塩ラーメンに挑戦したいらしい。
上の写真は、鶏肉入りの二日目のラーメン。
一日目のラーメンはこちら。ちょっと食べかけで、失礼しますm(_ _)m
◇帯広Docco-InnおよびPICOのスパゲティ ― 2010年01月07日 02時10分14秒
とんねるずの「みなさまのおかげでした」で、石橋がスパゲティのことを「ゲッテイ」と呼ぶのを聞いて、パスタとスパゲティの違いについて考えたりしていた。
正しくは、パスタはイタリアでの小麦を使用した麺などの総称で、スパゲティはそのひとつの種類であることは知っている。
しかし、石橋はそういうことを言っているのではないだろう。
70年代、日本でのスパゲティといえばママーで、麺の太さは一種類、そして料理はナポリタンかミートソースと相場は決まっていた。
我が家では、ナポリタンよりミートソースが圧倒的に多かった。
作る手順としては、ゆでたスパゲティをうどんのごとく水で洗い(ぬめりをとると言っていた)、油をひいた鉄板かフライパンで炒めた後、なんらかの味付けがされたり、ソースがかけられたりするのだった。
具が入る場合は、麺を炒める前に具をあらかじめ炒めてから麺が投入される。
ポイントは、「麺を炒める」というところである。
当時、私は友達にも聞いたりしたのだが、私の周辺にいる友人の家でも、「スパゲティは炒めて食べる」というのが主流だったように記憶する。
スパゲティは子供に人気のメニューではあったが、まだまだ本格的に作るというよりは、新しい洋風なメニューが登場してそれにチャレンジくらいの感じだったのだろうと思う。
80年代に入り、友達と喫茶店などに入るようになって、外でスパゲティを食べる機会が多くなった。
子供の頃は「スパゲティといえばナポリタンかミートソース」だったのが、あちこちでたらこスパゲティだとか、醤油味などいろいろな味のバリエーションが増えだしてきたが、「麺を炒める」という基本的なところに変わりはなかった。
また、喫茶店などでは厨房がせまいところも多かったせいか、お客さんの少ない時間帯に大きな寸胴で大量のスパゲティをゆでておき、それを冷蔵庫に保管して、注文が入ったときに炒めて調理する方式が大多数だったように思う。
「麺はゆでたてが一番」が常識の今であれば、「麺をゆでて保管しておく」なんて考えられないことだが、昔はこれが一般的だった。私が後で勤めたいくつかの喫茶店でも、同じようなことがしばらく行われていた。
私が1984年くらいから通っていた広小路にあったDocco-Innとカジノビルにあったピコは、同じオーナーの「O川珈琲店」の姉妹店であったので、メニューの内容はほぼ同じものだった。
ここのスパゲティのメニューは、独自のレシピでいくつかのソースが自慢だった。
ナポリタンなどの定番のものもあったが、納豆ののった醤油味ベースのジャポネや中華風のチャイナなど、独特なメニューが多かった。
しかし、ここでもスパゲティは当然のごとく「炒めた」ものであった。
ジャポネやチャイナも、ソースは上からかけるのではなく、ナポリタンのように麺に絡めて炒めてあるものだった。
納豆ののったメニューはピザもあり、納豆とチーズのミスマッチのマッチングがなかなか絶妙だった。
スパゲティのジャポネは人気メニューだったが、ピザのジャポネはある種ゲテモノ的な印象を受けていたので、これを注文するのはなかなか勇気のいることだった。でも、一度食べるとやみつきになる。
私がピザのジャポネを初めて食べたとき、ピコのカウンターでオーナーのO川さんが「これ、おいしいでしょ」と独特の語り口調で顔を近づけてきたのを、強烈に記憶している(かなり嫌な記憶ではある。でも美味しかったのは事実)。
帯広の他の喫茶店に多く行っていたわけではないので詳しいことは知らないが、たらこスパゲティが美味しい店、ホワイトソースが自慢の店など、帯広には当時独自のレシピを売りにする店が多かったように思う。
そんな中でも、Doccoとピコのスパゲティは、他にはないオリジナリティがあった。
納豆をトッピングしていたり、醤油ベースのスパゲティは、今ではさほど珍しくもないが、Doccoとピコのジャポネやチャイナ(他にもいくつかあったはずだが、思い出せない)は、ただ、醤油で炒めただけのものではなかった。
常連連中はそのレシピを知りたがったが、当時Doccoの店長だったK森さんは絶対にそのレシピを教えてくれなかった(ピコでは、いつもオーナーのO川さんがいたので、聞きづらかった)。
唯一、友人Tがレシピを聞き出したと言っていたが、他に聞いたという話を聞かない。
1985年当時、東京などの都会ではどうだったのかは知らないが、少なくとも田舎にありながら、札幌よりもかっこよくという欲望渦巻く帯広の町で、「本当のスパゲティは炒めない」という概念が定着するのは、もう少し先のことである。
1986年か87年に、帯広の西二条9丁目か10丁目あたりに「本格ゆであげスパゲティの店」がオープンするまでは、「炒めたスパゲティ」が圧倒的に多かった。
ゆであげスパゲティが主流になるにつれ、喫茶店の「炒めるスパゲティ」は徐々に姿を消していくのだが、それでも本格的なイタリアンのスパゲティと平行して、日本独自の味付けのスパゲティは定着していく。
それは、今でも「街のパスタ屋さん」みたいな店で食べることができる。
しかし、Doccoやピコがなくなってしまった帯広で、あの頃のメニューが懐かしく思われることもしばしばあるし、当時の友人と話しても必ずといっていいほど話題に上るのが、Doccoとピコのスパゲティの話だ。
あれらのメニューは、今の「街のパスタ屋さん」みたいなところでも、なかなかお目にかかることはできないからだろう。
しかし、どこか「本格的なスパゲティは炒めない」という事実をつきつけられたとき、「今まで炒めていたのはなんだったんだ? うはーかっこわりぃ」という意識がどこかにあったのだと思う。
それは日本全国、共通した感覚だったのではないか?
そして、スパゲティは「パスタ」という言葉を知ると共に、「日本風のはスパゲティ、本格的なのはパスタ」という、日本人独特の区分けが生まれたように思うのだ。
とんねるず石橋の「ゲッティ」を聞くと、そんな「ちょっとかっこわりぃけど、実は美味しいんだよ」というスパゲティをなんとなく体言しているような気がしてならないのだ。
そして、「ゲッティ」と聞くたび、今は食べることができなくなったDoccoとピコのジャポネたちを思い出し、ちょっと食べたくなったりするのだった。
正しくは、パスタはイタリアでの小麦を使用した麺などの総称で、スパゲティはそのひとつの種類であることは知っている。
しかし、石橋はそういうことを言っているのではないだろう。
70年代、日本でのスパゲティといえばママーで、麺の太さは一種類、そして料理はナポリタンかミートソースと相場は決まっていた。
我が家では、ナポリタンよりミートソースが圧倒的に多かった。
作る手順としては、ゆでたスパゲティをうどんのごとく水で洗い(ぬめりをとると言っていた)、油をひいた鉄板かフライパンで炒めた後、なんらかの味付けがされたり、ソースがかけられたりするのだった。
具が入る場合は、麺を炒める前に具をあらかじめ炒めてから麺が投入される。
ポイントは、「麺を炒める」というところである。
当時、私は友達にも聞いたりしたのだが、私の周辺にいる友人の家でも、「スパゲティは炒めて食べる」というのが主流だったように記憶する。
スパゲティは子供に人気のメニューではあったが、まだまだ本格的に作るというよりは、新しい洋風なメニューが登場してそれにチャレンジくらいの感じだったのだろうと思う。
80年代に入り、友達と喫茶店などに入るようになって、外でスパゲティを食べる機会が多くなった。
子供の頃は「スパゲティといえばナポリタンかミートソース」だったのが、あちこちでたらこスパゲティだとか、醤油味などいろいろな味のバリエーションが増えだしてきたが、「麺を炒める」という基本的なところに変わりはなかった。
また、喫茶店などでは厨房がせまいところも多かったせいか、お客さんの少ない時間帯に大きな寸胴で大量のスパゲティをゆでておき、それを冷蔵庫に保管して、注文が入ったときに炒めて調理する方式が大多数だったように思う。
「麺はゆでたてが一番」が常識の今であれば、「麺をゆでて保管しておく」なんて考えられないことだが、昔はこれが一般的だった。私が後で勤めたいくつかの喫茶店でも、同じようなことがしばらく行われていた。
私が1984年くらいから通っていた広小路にあったDocco-Innとカジノビルにあったピコは、同じオーナーの「O川珈琲店」の姉妹店であったので、メニューの内容はほぼ同じものだった。
ここのスパゲティのメニューは、独自のレシピでいくつかのソースが自慢だった。
ナポリタンなどの定番のものもあったが、納豆ののった醤油味ベースのジャポネや中華風のチャイナなど、独特なメニューが多かった。
しかし、ここでもスパゲティは当然のごとく「炒めた」ものであった。
ジャポネやチャイナも、ソースは上からかけるのではなく、ナポリタンのように麺に絡めて炒めてあるものだった。
納豆ののったメニューはピザもあり、納豆とチーズのミスマッチのマッチングがなかなか絶妙だった。
スパゲティのジャポネは人気メニューだったが、ピザのジャポネはある種ゲテモノ的な印象を受けていたので、これを注文するのはなかなか勇気のいることだった。でも、一度食べるとやみつきになる。
私がピザのジャポネを初めて食べたとき、ピコのカウンターでオーナーのO川さんが「これ、おいしいでしょ」と独特の語り口調で顔を近づけてきたのを、強烈に記憶している(かなり嫌な記憶ではある。でも美味しかったのは事実)。
帯広の他の喫茶店に多く行っていたわけではないので詳しいことは知らないが、たらこスパゲティが美味しい店、ホワイトソースが自慢の店など、帯広には当時独自のレシピを売りにする店が多かったように思う。
そんな中でも、Doccoとピコのスパゲティは、他にはないオリジナリティがあった。
納豆をトッピングしていたり、醤油ベースのスパゲティは、今ではさほど珍しくもないが、Doccoとピコのジャポネやチャイナ(他にもいくつかあったはずだが、思い出せない)は、ただ、醤油で炒めただけのものではなかった。
常連連中はそのレシピを知りたがったが、当時Doccoの店長だったK森さんは絶対にそのレシピを教えてくれなかった(ピコでは、いつもオーナーのO川さんがいたので、聞きづらかった)。
唯一、友人Tがレシピを聞き出したと言っていたが、他に聞いたという話を聞かない。
1985年当時、東京などの都会ではどうだったのかは知らないが、少なくとも田舎にありながら、札幌よりもかっこよくという欲望渦巻く帯広の町で、「本当のスパゲティは炒めない」という概念が定着するのは、もう少し先のことである。
1986年か87年に、帯広の西二条9丁目か10丁目あたりに「本格ゆであげスパゲティの店」がオープンするまでは、「炒めたスパゲティ」が圧倒的に多かった。
ゆであげスパゲティが主流になるにつれ、喫茶店の「炒めるスパゲティ」は徐々に姿を消していくのだが、それでも本格的なイタリアンのスパゲティと平行して、日本独自の味付けのスパゲティは定着していく。
それは、今でも「街のパスタ屋さん」みたいな店で食べることができる。
しかし、Doccoやピコがなくなってしまった帯広で、あの頃のメニューが懐かしく思われることもしばしばあるし、当時の友人と話しても必ずといっていいほど話題に上るのが、Doccoとピコのスパゲティの話だ。
あれらのメニューは、今の「街のパスタ屋さん」みたいなところでも、なかなかお目にかかることはできないからだろう。
しかし、どこか「本格的なスパゲティは炒めない」という事実をつきつけられたとき、「今まで炒めていたのはなんだったんだ? うはーかっこわりぃ」という意識がどこかにあったのだと思う。
それは日本全国、共通した感覚だったのではないか?
そして、スパゲティは「パスタ」という言葉を知ると共に、「日本風のはスパゲティ、本格的なのはパスタ」という、日本人独特の区分けが生まれたように思うのだ。
とんねるず石橋の「ゲッティ」を聞くと、そんな「ちょっとかっこわりぃけど、実は美味しいんだよ」というスパゲティをなんとなく体言しているような気がしてならないのだ。
そして、「ゲッティ」と聞くたび、今は食べることができなくなったDoccoとピコのジャポネたちを思い出し、ちょっと食べたくなったりするのだった。
◇帯広市:ホシビル解体に思うこと ― 2010年01月08日 03時59分03秒
1983年に、満を持して西二条9丁目に建設されたホシビル。
これが解体されるという話を聞いたので、調べてみた。
詳細は、「北海道新聞帯広支社」というページに詳しいが、ここは新しいニュースが入るとページがリニューアルされて、前のニュースがどこにあるのかわからないので、記事を転載した。
北海道新聞帯広支社 2010年1月6日 08:04:07---------
http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/
ホシビル 春までに解体*帯広・博愛会*当面は有料駐車場(2010/1/6)
開西病院(帯広)を運営する医療法人社団博愛会(同)の細川吉博理事長は5日、博愛会の関連会社が所有する市中心部の商業ビル「ホシビル」(西2南9)について、春までに取り壊し、当面は駐車場として活用することを明らかにした。
ビルは関連会社のベーシック(同)が、2008年10月に土地と建物を約5千万円で取得した。当初、飲食店などのテナントを入居させる計画だったが、水回りなど設備の老朽化が進んでいて全面改修が必要と分かり、そのままでの活用を断念した。
同ビルは1983年に完成し、百貨店藤丸の道路を挟んで南側に位置する好立地から、かつてはファッションビルとして中心街のにぎわいに貢献していた。建物は鉄筋コンクリート地上6階、地下1階で、延べ床面積約4300平方メートル、敷地面積は約800平方メートル。
解体工事は今月中旬にも始まり、いったん更地にした上で、4月以降、有料の駐車場として営業する。細川理事長は「固定資産税が高額なため、とりあえず駐車場にするが、時機を見て新たな建物を建て、まちなかの活性化に貢献したい」と話している。(長谷川賢)
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ホシビルのある場所から、二条通りをはさんで向かいの広小路の端にあるビルは、1986年当時地価(建物込みか?)が一億円になったというニュースが懐かしい。こんな田舎町で、一億円の価値のあるものがあるのかとわくわくした。
世の中はバブルへ向け好景気への期待に胸ふくらみ、専門店が強みの帯広の「まち」は、かねてから流行していたDCブランド熱が高校生を中心にさらなる過熱をみせていた。
帯広の「まち」でDCブランドといえば、マノワール・グレースだった。
ホシビルは、一階は今で言うドラッグストア的な店舗で、二階から上はマノワール・グレースが展開するDCブランドの本拠地となっていた。
一階は、普通にホシ薬局が入っていたのだが、当時の薬局は薬コーナーと化粧品コーナーとが分かれたよくある「薬局」が多かったのに対し、初めて帯広に「ドラックストア」的な店舗を展開したのもホシビルだった。
アンアンなどの雑誌で注目されていた、大手化粧品会社とは違う、独立したコスメ製品が普通に手に入るのは、新し物好きな帯広っ子には大変な魅力だった。
十勝毎日新聞社の2008年2月25日の「検証2008帯広予算」
http://www.tokachi.co.jp/kachi/jour/08kensyou/20080225/03.htm
という記事を見ると、2008年1月にはすでにホシビルの解体計画は存在していたらしい。
この記事で興味深いのは、「中心市街地活性化基本計画」と銘打ち2億6546万円もの予算を組みながら、市と商工会との産業政策の感覚のずれが如実に現れている。
新し物好きで開拓精神旺盛、何よりも自分たちの住む土地を愛している帯広の人たちが、帯広のバブルの象徴ともいえるホシビルを今失うことは、かなり大きな意味を持っていると思う。
これから、昔から栄えていた西二条を中心とした北側駅前をどうにかするのか、それともこの地域は捨てて新しい場所に繁栄の地を求めるのか。
「十勝・帯広の情報サイト 十勝への招待状」
http://www.0155.jp/tokachi/2008/01/09-001469.html
というブログの中でもホシビル解体の話題が書かれている。
ここでも触れているが、現在のホシビルの持ち主が医療団体なのなら、医療を中心とした商業・経済地域にすることだってできるはずだ。
そういう取り組みは、他の自治体でもよく見かけるし、実際に成功を納める地域もあるようだ。
これは邪推だが、帯広はなんとなく病院だけが元気で、高額な医療機器を導入して医療部分だけが高齢化に向けて、どんどん加速していっているような気がしてならない。
帯広はこれから、どういう都市であることを目指すのか。
建物が老朽化しているのなら、建物の表側だけきれいに取り繕ってきた帯広の建物や思想を、いっそ基礎からきれいにするチャンスでもあるのではないか。
離れて暮らす人間としては、故郷の大きな変化は好まないが、一番困るのは気がついたら故郷が機能しない町になって、死んだも同然になっていることだ。
それでは帰ってきても楽しみはないし、なにより自分の家族がそのような地域にいるのは、あまり安心できる状況ではない。
市としての指針が見えず、商工会や市民のいらだちが募る中で、市は帯広市をどう変えていきたいのだろうか。
すでに帯広市民でなくても、それは気になるところだ。
数年前、久しぶりに二条通りを散策したとき、閑散とする帯広の駅前北側でがんばっていたのは、帯広のもうひとつの顔ともいえる、飲食店街の人たちだった。
マルヒロセンターの改造や屋台街などで、昔の繁栄までいかないまで、もここを盛り上げる守っていくという気合を見て取れた。
商工会や市は、この動きや市民の思いをどうとらえていくのか、今後注目したいと思う。
これが解体されるという話を聞いたので、調べてみた。
詳細は、「北海道新聞帯広支社」というページに詳しいが、ここは新しいニュースが入るとページがリニューアルされて、前のニュースがどこにあるのかわからないので、記事を転載した。
北海道新聞帯広支社 2010年1月6日 08:04:07---------
http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/
ホシビル 春までに解体*帯広・博愛会*当面は有料駐車場(2010/1/6)
開西病院(帯広)を運営する医療法人社団博愛会(同)の細川吉博理事長は5日、博愛会の関連会社が所有する市中心部の商業ビル「ホシビル」(西2南9)について、春までに取り壊し、当面は駐車場として活用することを明らかにした。
ビルは関連会社のベーシック(同)が、2008年10月に土地と建物を約5千万円で取得した。当初、飲食店などのテナントを入居させる計画だったが、水回りなど設備の老朽化が進んでいて全面改修が必要と分かり、そのままでの活用を断念した。
同ビルは1983年に完成し、百貨店藤丸の道路を挟んで南側に位置する好立地から、かつてはファッションビルとして中心街のにぎわいに貢献していた。建物は鉄筋コンクリート地上6階、地下1階で、延べ床面積約4300平方メートル、敷地面積は約800平方メートル。
解体工事は今月中旬にも始まり、いったん更地にした上で、4月以降、有料の駐車場として営業する。細川理事長は「固定資産税が高額なため、とりあえず駐車場にするが、時機を見て新たな建物を建て、まちなかの活性化に貢献したい」と話している。(長谷川賢)
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ホシビルのある場所から、二条通りをはさんで向かいの広小路の端にあるビルは、1986年当時地価(建物込みか?)が一億円になったというニュースが懐かしい。こんな田舎町で、一億円の価値のあるものがあるのかとわくわくした。
世の中はバブルへ向け好景気への期待に胸ふくらみ、専門店が強みの帯広の「まち」は、かねてから流行していたDCブランド熱が高校生を中心にさらなる過熱をみせていた。
帯広の「まち」でDCブランドといえば、マノワール・グレースだった。
ホシビルは、一階は今で言うドラッグストア的な店舗で、二階から上はマノワール・グレースが展開するDCブランドの本拠地となっていた。
一階は、普通にホシ薬局が入っていたのだが、当時の薬局は薬コーナーと化粧品コーナーとが分かれたよくある「薬局」が多かったのに対し、初めて帯広に「ドラックストア」的な店舗を展開したのもホシビルだった。
アンアンなどの雑誌で注目されていた、大手化粧品会社とは違う、独立したコスメ製品が普通に手に入るのは、新し物好きな帯広っ子には大変な魅力だった。
十勝毎日新聞社の2008年2月25日の「検証2008帯広予算」
http://www.tokachi.co.jp/kachi/jour/08kensyou/20080225/03.htm
という記事を見ると、2008年1月にはすでにホシビルの解体計画は存在していたらしい。
この記事で興味深いのは、「中心市街地活性化基本計画」と銘打ち2億6546万円もの予算を組みながら、市と商工会との産業政策の感覚のずれが如実に現れている。
新し物好きで開拓精神旺盛、何よりも自分たちの住む土地を愛している帯広の人たちが、帯広のバブルの象徴ともいえるホシビルを今失うことは、かなり大きな意味を持っていると思う。
これから、昔から栄えていた西二条を中心とした北側駅前をどうにかするのか、それともこの地域は捨てて新しい場所に繁栄の地を求めるのか。
「十勝・帯広の情報サイト 十勝への招待状」
http://www.0155.jp/tokachi/2008/01/09-001469.html
というブログの中でもホシビル解体の話題が書かれている。
ここでも触れているが、現在のホシビルの持ち主が医療団体なのなら、医療を中心とした商業・経済地域にすることだってできるはずだ。
そういう取り組みは、他の自治体でもよく見かけるし、実際に成功を納める地域もあるようだ。
これは邪推だが、帯広はなんとなく病院だけが元気で、高額な医療機器を導入して医療部分だけが高齢化に向けて、どんどん加速していっているような気がしてならない。
帯広はこれから、どういう都市であることを目指すのか。
建物が老朽化しているのなら、建物の表側だけきれいに取り繕ってきた帯広の建物や思想を、いっそ基礎からきれいにするチャンスでもあるのではないか。
離れて暮らす人間としては、故郷の大きな変化は好まないが、一番困るのは気がついたら故郷が機能しない町になって、死んだも同然になっていることだ。
それでは帰ってきても楽しみはないし、なにより自分の家族がそのような地域にいるのは、あまり安心できる状況ではない。
市としての指針が見えず、商工会や市民のいらだちが募る中で、市は帯広市をどう変えていきたいのだろうか。
すでに帯広市民でなくても、それは気になるところだ。
数年前、久しぶりに二条通りを散策したとき、閑散とする帯広の駅前北側でがんばっていたのは、帯広のもうひとつの顔ともいえる、飲食店街の人たちだった。
マルヒロセンターの改造や屋台街などで、昔の繁栄までいかないまで、もここを盛り上げる守っていくという気合を見て取れた。
商工会や市は、この動きや市民の思いをどうとらえていくのか、今後注目したいと思う。
◇春の陽気 ― 2010年01月21日 13時05分46秒
今日の天気は曇りだが、外に出たら空気がぬるくて、本当に3月頃かと思うような陽気。
コートを着ていると、じゃまくさい。
こないだまですごく寒かったのに、こんなに暑いなんてなんか気持ち悪い。
コートを着ていると、じゃまくさい。
こないだまですごく寒かったのに、こんなに暑いなんてなんか気持ち悪い。
◇にんじんのヨーグルトサラダ ― 2010年01月26日 23時03分29秒
テレビなどの“もったいない”番組で、「大根やにんじんのむいた皮で、キンピラなどを作ってもう一品」とかいう言葉を良く聞く。
それまでは「大根やにんじんの皮はむくもの」だったので、「なるほどね」と思っていたが、皮をむいたところで、なかなかキンピラなどを作ることは実際はしない。
味噌汁の具として入れることはしばしばあるが、それでもむいた皮を全部入れることはしないかもしれない。むいた皮は、おのずと生ごみとして処理される運命だと思っていた。
しかし先日、「改めて食べるようにするのであれば、なんでわざわざ皮をむくの?」と思ったのだった。
そう思った原因は、カブだった。
私はカブ料理が好きだが、カブを料理するのが苦手だった。
まず、葉を切った根元に、土が入り込んでなかなかとれないこと。
そして、皮をむいて煮ると、必ずといっていいほど煮崩れてしまうこと。
とろとろのカブはおいしいが、シチューなどにすると、とろとろにとけてなくなってしまう。ある程度形があって、口の中に入れるととろとろと溶けるのが好ましいのに、なかなかその域に到達しない。
ある日、よく作る「カブと豚肉の鍋」で、カブの皮をむかずにそのまま入れてみたら、いくら煮込んでも荷崩れしない。それどころか、カブの皮があることで、カブの味が濃く感じる。
別な日に、皮と面取りしたところを味噌汁に入れたら、味噌汁の方がおいしかった。
もしかしたら、皮がついていた方がおいしいのではないだろうか。
それからカブは皮をむかずに調理することにしているのだが、大根やにんじんなども、皮をむかずに調理したほうが、野菜の風味が増すことに気づいた。
皮はわざわざむかなくていいのだ。最近の野菜は、農家で泥を丁寧に落として店頭にあるし、たとえ泥付の野菜だとしても、きれいに泥を落とせば問題はない。
キンピラとかにするときなどは“わざわざ”皮をむくが、それ以外のときは皮のついたまま調理することが多くなった(もちろん、丁寧に皮をむいて、面取りしたほうがいい料理もあるので、臨機応変にはしている)。
このにんじんのサラダは、泥付の香りの強いおいしいにんじんが手に入ったので、何か一品にんじんでと思って作ったもの。
皮付きの方が、にんじんの香りとか歯ごたえとかが楽しめるような気がする。
一番最初に作ったときは、ブロッコリーの茎の硬い部分を一緒に和えて食べたが、それもまた格別だった。
ヨーグルトをドレッシングにするのはかなり気に入っているが、このにんじんのサラダにはヨーグルトとチーズの組み合わせがとてもよく合う。
チーズはなんでもいいが、コクのあるチーズの方がいい。
今回はレーズンがあまっていたので使ったが、これが思いのほかいい仕事をしている。
かなり気に入ったので、我が家の定番になりそうだ。
レシピは、今回からクックパッドに掲載することにしたので、そちらを参照してください。
◇月齢15 ― 2010年01月31日 04時06分56秒
今年の満月は元旦だったので、今年二回目の満月。
正確には、月齢14.8らしい。
月が昇ってきたとき、月が昇る方向に向かってまっすぐの見通しの良い道を車で走っていたので、月がとてもきれいだった。
月のそばには、28日に地球へ大接近を果たした火星が、赤く輝いていた。
今日の月は、今年で一番地球に近い月らしい。
地球から見ても、一年で一番大きく見える月ということになるらしい。
距離でいうと5万キロ。
JanJanNews
http://www.janjannews.jp/archives/2484733.html
並べて比較できないけれど、一番大きく見える月と一番小さく見える月だと、見た目で十円玉と一円玉くらいの差があるとのこと。
比べてみられないのが、ちょっと残念。
9時すぎくらいから薄い雲が出てきて、春のようなおぼろ月夜になった。
今日は一日暖かくて、月を覆う雲も溶けてしまいそうな感じ。
旦那が写真を撮ったとき、月虹が見えたと言っていた。
Wikipediaで「月虹」を調べてみたら、『月虹がよく観測されるハワイ諸島のマウイ島では、これを見た者には「幸せが訪れる」「先祖の霊が橋を渡り祝福を与えに訪れる」と言われている。』とのこと。
Wikipedia「月虹」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E8%99%B9
今日は、節分前ぎりぎりの週末で、神社にお札をいただきに行っていた。
一緒にもらったお神酒を、亡くなったお義父さんの写真に供えた直後に見た月虹だったので、お義父さんが見守ってくれているのだといいと思う。
月虹の画像は、ちょっとだけレベルをいじって、月虹がはっきり見えるようにしたもの。
それでも、うっすらと赤くしか見えないのが残念。
googleで検索すると、いろいろと見事な月虹があって楽しい。






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