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◇50日のいろいろ2010年10月13日 03時13分09秒

昨日、うちの猫が死んで50日だった。
この50日は、半分は泣き暮らしていて、半分はなんとなくぼーっとしていた。
ぼーっとしている間にも、いろいろ考えたりお出かけしたりすることもちょっとあった。
忘れるので、覚えているうちに書き留めておこうと思う。


●9月18日土曜日 B-1グランプリ厚木に行く
あまりのふさぎようだったためか、旦那がどこかへ出かけようと誘ってくれ、9月18日の土曜日に厚木で行われたB-1グランプリに出かけたりした。
B-1グランプリ厚木公式ホームページ http://b-1gp.jp/

それまでは、介護のためにゆっくりお出かけするということができなかったが、当日はお天気も良く、久しぶりの長時間のお出かけに少しだけ心が晴れた。

しかし、楽しみだったのも最初だけ。
シャトルバスの降り場と会場とが異様に遠かったり(第二会場)、ものすごく待たされたり、食べたいものが思うように食べられなかったり、投票方法に疑問をもったりで、結局は行田ゼリーフライと、黒石つゆやきそばと、浜松餃子しか食べられなかった。

開場して最初にゼリーフライと浜松餃子ののぼりを見つけ、旦那と分散して並んだおかげで、並んで一時間以内にはそれぞれにありつけたものの、浜松餃子は手際が悪すぎて時間ばかりかかり、旦那が戻ってきた頃には、楽しみにしていた一番目当ての袋井宿「たまごふわふわ」の行列は会場グラウンドの端から端までに達しており、とても並ぶ気にはなれなかった。
グランプリをとった「甲府鳥もつ煮」も三位の「八戸せんべい汁」も最初に行った第二会場にあったが、とてもじゃないけど並ぶ状況ではなかった。

一品300円前後と安価なのはいいのだが、一皿の量はどれも少ない。しかも、どのブースも長打の列で、食べるまでにお腹がすいてしまうのと、会場間がかなり遠いので、別な会場に行けなくなってしまうことのほうが残念に思ったのだ。

それでも、B-1とは別に神奈川県のご当地グルメを集めた第三会場を間に挟んで、三つに分かれた会場の三番目(第一会場)に着いた頃には案の定ぐったり疲れ果ててしまい、チケットを余す形で第一会場では何も食べずに帰路についた。余ったチケットは、期間中であれば厚木の登録商店などでの使用できたので、駅前のコージーコーナーでケーキセットを食べて使い切った。
洋服もよれよれになったせいか、かばんのストラップでよれてはだけた喉元が、真っ赤に日焼けしてしまったりした。

行きに神奈中バスの案内の人に、本当に丁寧親切にバスの案内をしていただいたことだけが、良い思い出だった。


●10月5日火曜日 映画「樺太一九四五年夏 氷雪の門」を観る
旦那が病院に行くために休みをとったので、午後から横浜のミニシアターで上映されていた、「氷雪の門」を観た。
「氷雪の門」オフィシャルサイト http://www.hyosetsu.com/

『樺太1945年夏 氷雪の門』予告編
氷雪の門 オープニングと当時の情勢

これは、36年前にロードショー封切されたものの、当時のソ連の圧力で上映が中止されてしまった作品らしい(詳細は、オフィシャルホームページのイントロダクションを参照のこと)。
撮影は当時の稚内近郊で行われたらしく、私の旦那は小学校の頃に映画館での上映を学校の行事として観て、その後感想文を書いたと言っていた。

内容的には、いろいろと深刻に考えさせられる映画だった。
この映画の内容がどこまで真実であるのか、ソ連が真実と違うとクレームを入れたところが、ソ連の侵攻シーンのほとんどであるとすれば、この映画表現はかなり行き過ぎの感もあろうが、当時この事件を知っている人からすれば、これこそが真実といえる内容なのだろうと思った。
そして真実とは、立場によって大きく異なることなのだろうと、漠然と思ったりもしたのだ。

内容とは別に横道にそれると、ロシア語を知っているとちょっと「くすっ」としてしまうシーン(決して笑える内容の場面ではないのだが)とか、稚内の景色を知っていると、「ああ、あそこはあの駅の近くだ」とか「あそこはあの沼だ」などと見知った風景の昔の姿が出てきて、そういう楽しみ方もできる映画だった。

藤田弓子の肌がやけにつやつやしていたことや、最後のシーンの若林豪のふけ顔はあまり今と変わらないなあとか、二木ひとみと若林豪のデートシーンがいきなり札幌で、いくらなんでも祝言挙げて数日で戦地へ行った旦那と、新婚旅行とはいえ戦時中に樺太から札幌まで行くのはちょっと大変ではないのかとか、それともこれは婚前旅行か? いやいや戦時中でそれはありえないだろう、など、突っ込みどころも満載であった。

しかし、映画上映中の3分の1は泣いた。あまりに泣いたので、明るくなってから、となりに座っていたご婦人と顔を見合わせてお互いの泣き顔を確認したりした。
平日の昼間だったので、来客のほとんどは50歳以上とおぼしき人たちだった。40代と思われるのは私達夫婦と一人で来ていた男性だけで、若者と呼べる人は皆無だった。
100席強しかない小さなシアターで、加齢臭漂う中、久々に面白いと思える映画を見た気がした。

帯広でも稚内でも、全国のいたるところで、短い間にこの映画は上映されていたらしい。
横浜では、10月29日まで上映延長される。
最近にはちょっとない映画なので、機会があれば見てほしい。
ちょうど尖閣諸島のことで騒いでいるときに「氷雪の門」を見たので、領土問題ということを考えたりして、みんなが観るといいと思った。
領地を無条件で取られ、それは今もって返還されるどころか、日本側から返還要求さえ出されておらず、たぶんこれから先も日本には返還されることのないだろう土地で、昔たくさんの一般の日本人が戦火で亡くなったことを知ってほしいとも思った。


●ノーベル化学賞に日本人二人受賞のニュースを聞く
産経新聞2010.10.6 18:55のニュース
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101006/acd1010061854009-n1.htm


ノーベル化学賞の話題を聞いたのはNHKのニュースだったが、物理学賞をとったイギリスの人も、化学賞の日本人二人も、ものすごく昔の業績に対しての受賞だったので、ちょっとびっくりしてしまった。
もちろん、科学の功績というのは、ある程度の社会的実績が評価されないとならないので、時間がかかるというのは理解できるのだが、30年以上の業績に対しての評価というのも、「もうちょっと前に取らせられんかったんかい」と思ってしまったのだ。

日本は科学に対しては、欧米などの諸外国から比べるとかなり劣る予算の中で、これだけの業績を残してきた。
今までも少ない予算の中から、努力してこれだけの業績を上げてきたのだが、それを政治家はまったく理解しないでいるので、役に立つ研究に十分な予算が行かないようなシステムになっているばかりか、くそゴミみたいな研究もいっしょくたになってしまっているのが現状なのだ。
長い不況の中で、一般企業も研究開発に力を入れられない現実もある。

現・独立行政法人の研究に対しては、毎年毎年研究成果の報告がなされているのだから、それらに対してお役所仕事ではなく“ちゃんと審査する”機関を設け、役に立つ研究に十分な予算がいきわたるようにしていく必要がある。
そうでないと、役に立つ研究をする研究者など育たない。
研究にお金がかかることや、研究したことの全てが役に立つものになるかどうかわからないのは当たり前のことだ。

それが、予算削減のために行われた公開仕分けの席で、「2位では何故だめなのか」という発言が飛び出してくるあたり、せめて仕分けをする団体が、何を生業にしており、何が業務として重要であるかくらいは下調べしてからその席につくのが礼儀ではないのかと、民主党の新しい行動はその内容のなさを露呈してしまったように思えたのだ。
ただの素人考えと知識で、ただ単純に予算をどんどん削ればいいって話ではないのだ(もちろん、本当に無駄なものに対しては、きちんとした精査を行った上で、どんどん統廃合や廃止を行うべきであると思う)。

しかも、その発言の主は、その発言のおかげで政治家としての知名度を上げて、現在は大臣職についているタレント議員である。
なんかそれってとんでもない、とずっと思っていたのだった。

そんな中で、化学賞を受賞した鈴木章さんが、『2位で良いは論外である』と発言したニュースには、胸がすく思いがした。
Yahooニュース 産経新聞 10月9日(土)7時57分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101009-00000099-san-soci


しかし、過去の人が残した業績や、「いとかわ」の奇跡のように世間受けするものばかりではなく、今の日本に何が必要でどういう人材を育てるべきなのか、そして将来日本は何をウリとして国際社会に対して商売するつもりなのかを、きちんと知ってバックアップしていかないと、そのうち中国人や韓国人、インド人に全てをかっさらわれる日がくるのも、そう遠い話ではないと思う。



というようなことを、この50日間、行動したり考えたりしていた。
50日間でこれっぽっちもしていないので、たいした活動もしていないのだが、少なくとも頭の中が介護一色だった日々は終わったのだ。

今でも、私が昼寝をしていると、起きる時間くらいに寝室にとことこやっくるような気がして泣けてくるし、心をぐっとこらえていないと話もできないのだけど、猫がいなくなった生活には徐々に慣れてきた感がある。

そのうち、いないことが普通になるのかもしれないが、いまのところ「猫を触りたい」という欲求はあっても、「別な猫を飼いたい」という欲求は出てこない。
ペットショップで猫を触らせてもらっても、雑種だったうちの猫はショップに売られている猫ほど毛がふわふわではなかったし、なんとなくどの猫もどこか違うと感じてしまうのだ。
しぐさなどは同じでも、触ると明らかに違う。
これでは、うちの猫ではないという気持ちになってしまうのだった。
「猫を飼いたい」というよりは、まだまだ「うちの猫に会いたい」と思う気持ちの方が大きいようである。

50日間での一番の功績は、旦那にほぼ毎日弁当を持たせ、保存食などを工夫し、長年高めで今年のドックでとうとう要治療にひっかかったコレステロール値を、4か月後の検査には平常値まで下げたことだろうか。
しばらくこれを維持するのに、没頭することになるだろう毎日である。

◇湯河原・真鶴観光をする2010年10月18日 17時44分29秒

湯河原萬葉公園の中にある、足湯施設「独歩の湯」

ドイツ在住の友人Eご夫妻が帰省されたので、一緒に湯河原に遊びにいった。
いつもは横浜などの近場で遊ぶことが多いのだが、いつも伊豆方面に日本のご家族と旅行されるので、湯河原あたりは気軽に行けることをお知らせしたかったのと、自分自身ちょっとのんびりしたかったので、お誘いしたのだ。

週間天気予報では午後から雨の予報だったのだか、秋の天気は女心に例えられるがごとく、当日はすこぶるつきの良い天気だった。

ドイツでの生活が長いお二人の生活スタイルは、夕飯がとても早い。
以前、夕方から横浜方面に遊びに行くついでにお届け物を届けにうかがったところ、4時過ぎにはお風呂をすまされ、これから夕飯であるとのことだった。
普段、夜9時過ぎに夕飯になることも多い我が家では考えられないことだ (なので、夕方5時くらいに「次の日の仕事に差し障る」とご心配をいただいたりして、夕方5時などまだまだ私たちにとっては活動時間帯であることを説明しなければならなかったりする)。
日本にいるEさんのご家族も、夜8時には就寝されるとのことだったので、できるだけ早く家に帰ることができるようにしたい。

当初、午前中の遅い時間に出発予定だったが、行楽の秋の日曜日のこと。いつも渋滞に泣かされ、帰りの時間が計れないので、早めに出発し早めに帰ることを提案。10時のところを8時30分に変更して、待ち合わせ場所を出発。
ルートは海の眺めを楽しめる海側の道、国道1号→新藤沢バイパス→国道134号→西湘バイパス→新真鶴道路である。
ふだんは、新藤沢バイパスから134号に出るあたりから混雑しており、平塚の相模川を抜けるまでが平日でも大変だったりする。

ところがいざ出発してみると、国道1号も新藤沢バイパスもものすごくすいている。
藤沢バイパスの出口の産業道路から国道134号に出る三叉路も、いつも信号2回待ちもざらではないのだが、出てすぐに交差点の先頭に出ですいすいと134号に出てしまった。
この先にある相模川にかかる新湘南大橋が、今年の3月から2車線から4車線に拡張された。134号も新藤沢バイパスの出口である産業道路のところから、今までは4車線から2車線に減ってしまい、それが渋滞の原因となっていたのだが、新湘南大橋が4車線になったことで134号は西湘バイパスまでずいぶんと走りやすくなったようだ。
しかし、普段休みに早朝に箱根までバイクを走らせに行く旦那も、この道の空いている状況には驚いたらしい。
西湘バイパスに入って、ツーリングのバイクにあおられ泣かされつつも、目的地の湯河原萬葉公園には1時間半かからず、10時前に到着してしまった。

萬葉公園は、紅葉にはまだまだというところ。秋風がさわやかで、山の空気が心地よい。
気温は23度ほどであろうか。山の中なのに、10月半ばとしてはちょっと暖かい。ドイツではこの気候だと夏だと話していた。
萬葉公園の中は、渓流が流れ森の中を散策するする遊歩道が設置されている。
渓流の感じが、ドイツの森に似ているとE夫妻は話していた。
これで紅葉がはじまると、その美しさは倍増する。

萬葉公園の一角にある独歩の湯は、以前は町営プールか何かだった。それを自然公園内の足湯施設にしたことで、湯河原の観光の目玉になった。
湯河原萬葉公園 足湯施設「独歩の湯」(湯河原観光協会web内)

施設は風水に基づいた作りで、9つの温泉足湯プールがあり、プールの底に石が突起するように配置してあり、プールの底の形状と石の刺激で、足裏のつぼを刺激する構造。身体の部位ごとに刺激されるつぼが異なるようになっている。
「自分はどこどこが悪いから」などと話つつも、一時間半ほどそこで足湯を楽しんだ。

ドイツでは、冷たい水に足をつけたりすることはあるらしいが、足だけを暖めるということはないとのこと。温泉自体も医療施設であることが多いので、いろいろと決まりごとがあるらしい。
しかし、ここは身体にいい温泉施設だけど、アミューズメント的な要素も方が大きいので、たいした決まりはないというと、ちょっと驚いていた。
帰りは身体がぽかぽかして暑いくらいで、足裏もふわふわで気持ちよかった。

お昼は当初は蕎麦を食べることを提案していたが、E夫妻の旦那様が実は軽い蕎麦アレルギーをお持ちであることを聞き、行こうとしていたところは蕎麦の専門店だったので、急遽変更。

中華料理が大好きであるお二人はやはり気分は麺であるとのことで、湯河原のB級グルメの「たんたんたぬきの担々焼きそば」を食べることに。
湯河原商工会議所 担々焼きそばのページ

担々焼きそばはお店によって味が違うものの、ビリ辛の味が特徴とのこと。湯河原特産の柑橘類がトッピングされていたり、隠し味に使われていたり、温泉玉子の玉子がトッピングされていたりと特徴があるらしい
湯河原駅前の観光案内で地図をもらい、最初の目的の店に行くと日曜でお休み。駅前に戻って、駅に車を停め、日曜も営業の駅前の「一番亭」に向かう。
担々やきそばお店一覧では、14種類の野菜のハーモニーが楽しめる逸品とのこと。

注文すると、固麺とやわらか麺があるとのこと。私は固麺、旦那はやわらか麺を注文した。
麺の上に大量の野菜のあんかけがかかっており、味は薄い塩味でピリ辛という感じはまったくなし。玉子のトッピングや柑橘類の添え物はなし。薄味だったので隠し味に使用されているのかもしれないが、あまりよくわからなかった。
他で担々焼きそばを食べていないのでなんともいえないが、焼きそばとして見ると、味もしつこくなく、脂っこい感じもなし。野菜が豊富でさっぱり食べられる焼きそばという感じで、美味しくいただいた。好みとしては、固麺の方がさっぱり食べられる印象か。

お店を出たところでまだちょっと時間があったので、真鶴港まで足を伸ばす。
真鶴港では商工会のお祭りが開催中で、クルーザーがいくつも港内に出ていた。
魚座前の漁協組合の売店で鰆の西京漬けを購入し、真鶴半島の先にある「お林展望公園」に行く。
真鶴町 お林展望公園

展望台があることは知っていたが、何度も真鶴に来ていて一度も行ったことがなかった。

ここは去年の秋まではサボテンラントという施設だったらしいが、今年の春から展望公園にリニューアルされたばかりらしい。
入り口には綺麗な軽食レストランがあり、トイレも綺麗で使いやすい。
駐車場には、石原プロモーションが西部警察で使用した消防自動車を寄贈したものが、展示(?)してある。

入口に咲いていたノボタン。“天使のトランペット”チョウセンアサガオ。
食事中のシジミチョウ。

広すぎない敷地内には、さまざまな花と木が植えられていて、秋の花が見事に賑わい、虫たちが冬がくる前の支度に余念がなかった。
リュウゼツランやソテツ、アロエ、やしの木などもあり、ソテツやリュウゼツランの一部は花を咲かせる準備中のものや、花が終わってしまったソテツもあって、巨大なパイナップルが横たわっているようだった。
黄色い彼岸花は珍しいと話していたのだが、帰って調べたところそれはリコリスという花らしかった。遠くにぽつんと咲いていて、近づけなかったのが残念。
入口に見事な紫色の花が盛りで、その花の名前がわからず施設の人に聞くと「ノボタン」であるとのこと。
ぼたんの華やかさとは程遠い可憐さだったので聞くと、その人は詳しくはわからないとのことだった。

花の終わったリュウゼツラン。巨大なパイナップルのよう。彼岸花だとばかり思っていたリコリス。
ソテツのつぼみ。

花が賑わう広場を通り抜けると、海を一望できる展望台があり、初島や伊豆半島の大室山や小室山が一望できた。横には真鶴の石碑がいくつか置かれている。
少しかすみがかかって大島までは見えなかったが、海は凪いで穏やかで、夕方に入った海風が心地よかった。
展望台といっても、望遠鏡があるとかそういうとろこではない。ベンチが少しあって、のんびり海を眺める場所である。
余計なBGMもなく、時間が少し遅かったせいか、それとも展望台があることを知られていないせいか、人もまばらで静かで良いところだった。

展望台からの景色。天気がよければ、大島まで一望できるだろう。

3時過ぎに真鶴を出て、西湘バイパスの出口まではすいすいといったが、出口前の数100mで渋滞。ここの出口もすぐに2車線になるので、慢性的に渋滞している。
しかし、その後は134号で少し渋滞があった程度で、すいすいと気持ちよく走ることができた。帰宅も5時半とそれほど遅くならずにすみ、E夫妻のご家族にもご迷惑にならずにすんで一安心。
お二人にも楽しんでいただけて、今度はご家族を連れて遊びに行きたいと話していた。
私たちも久しぶりにのんびりすることができ、山と海の空気を堪能できて楽しかった。

◇驚異の口琴2010 サハ共和国のホムス2010年10月29日 21時01分11秒

驚異の口琴

驚異の口琴
11月5日四谷・絵本塾の公演告知葉書(クリックすると拡大します)

ロシア連邦サハ共和国の口琴の催しが、今年の秋も開催される。
口琴ファンにはお馴染みのスピリドン シシーギンを筆頭に、今回はアンナ サッヴィナという美しい口琴美女が来日する。
彼女は、2009年のミス口琴インターネットでグランプリを受賞した女性で、現在はモスクワの大学ででコンピュータネットワークを勉強する才媛である。

今回、11月5日の四谷の絵本塾で催されるコンサートの広報葉書の依頼を受けた。この時の注文が「アンナの細いウエストを強調したい」というものだった。
ななめ45度の角度でポーズをとっているせいもあるが、非常にウエストの細い女性で、腰を強調したいという注文もうなずける。
(どちらかというと、昔ながらの既婚のロシア女性にありがちな体型の私は、大変うらやましい限りである。2000年に来日したフェドーラと一緒に撮影した写真を見たサハ人の別な女性は、「親子なのか」と本気で言っていた。)

支給された写真は、サハの草原をバックに民族衣装で口琴を演奏する彼女の写真だったが、撮影時にうす曇だったせいか全体的に色がくすんでいたのと、彼女の顔が少し逆光気味だったので、多少コントラストを強くして彼女の色の白さと、民族衣装の白と銀が映えるように少しだけ加工した。
ふだんは、せまいスペースに説明文が山のようにあって、写真が文字に埋まってしまうようなことが多いクライアントだが、今回は説明文も必要最小限で、色やスペースを生かすデザインをすることができ、楽しい仕事だった。

これまで、日本で紹介されたサハの女性口琴演奏家というと、NHKのロシア語講座にも登場したアリビナ ジェグチャリョーヴァ(あるいは、彼女が率いるユニットの女性メンバー)。
口琴製作の名人だったセミョン ゴーゴレフの娘で、数年前に残念ながら他界した“世界口琴名人”の一人フェドーラ ゴーゴレヴァ(私のサハのмама(?))。
そして、夫婦で活動しているハトラーエフ夫妻の奥様。

最近では、『世界で一番寒い国』として、日本のテレビでも紹介される機会が増えたサハ共和国だが、それらで紹介される学校などの口琴演奏の様子を見ていると、多くが自然の音やサハの生活の様子を口琴の音や声で表現する、アリビナの演奏スタイルを継承するものが多い。
もちろん、他の演奏スタイルを練習する人がたまたま紹介されないでいるだけかもしれないのだが(アリビナの演奏スタイルは、サハの自然の様子を伝えるにはうってつけだし)。

しかし、フェドーラ ゴーゴレヴァの演奏は、サハには珍しい超絶技法を駆使しつつも、口琴の音を存分に開放して演奏する技法だった。サハの伝統的な技法に他国の技法も取り入れる柔軟さもある。2000年に来日したきり、彼女の演奏をもう聴くことができなくなったことを残念に思う。
できることなら、彼女が生前口琴を教えていたベルディゲスチャハ村小学校の生徒が、彼女の技法を継承し、またサハを代表する口琴奏者に育ってくれればいいのにと思っているのだ。

そんな中、2009年のミス口琴インターネット投票の中で、比較的フェドーラの演奏技法に近い演奏をしていたのがアンナだった。
もちろん、口琴名人と謳われたフェドーラの優しく力強い演奏とはたいぶ違うのは当たり前だが、アンナはそれを若さと美しさでカバーしている。
彼女がフェドーラから口琴の指導を受けたかどうかは定かではないし、インターネット投票の映像を見ただけなので、実際にフェドーラの演奏を継承したものなのかどうかも未確認なのだが、今回の彼女の来日でその演奏を聴くのが楽しみだ。

公演は、11月2日の浜松市楽器博物館のレクチャーコンサート
11月3日の高円寺・円盤にて日本口琴協会定例会の中で行われる『サハの口琴奏者・製作者を迎えて』。
11月5日の四谷・絵本塾(旧 石響)
また、浜松市楽器博物館では、企画展として10月28日から11月28日までの一ヶ月間、世界の口琴の展示も行われている。

詳細は、日本口琴協会HP(http://www.koukin.jp/)および日本口琴協会の「驚異の口琴2010」のページを参照のこと。


日本口琴協会 http://www.koukin.jp/
浜松市楽器博物館 http://www.gakkihaku.jp/index.html

◇NHK歴史秘話ヒストリア「トルコ軍艦エルトゥールル号」とムスタファ・ケマル・アタテュルク像のその後2010年10月30日 04時16分35秒

NHK総合10月27日の歴史秘話ヒストリアは、明治時代に紀伊半島沖で沈没したトルコの軍艦エルトゥールル号の話題だった。
エピソード1 エルトゥールル号の遭難と、その乗組員を助けた当時の大島村(現在の和歌山県串本町樫野)の物語。
エピソード2 日本国内のエルトゥールル号への義援金に関する物語。
エピソード3 その当時、単独でイスタンブールへ渡った日本人 山田寅次郎の物語。

昨年、トルコの建国の父ムスタファ・ケマル・アタテュルクの像が、日本の新潟柏崎市で野ざらしになっている事実を知り(柏崎市では、ビニールにくるんで“保管”していたと言っている)、その像をきちんとした形に戻す署名運動の記事を書いた。
署名の結果、トルコ大使館の協力も得て、ムスタファ・ケマル・アタテュルクの像が、明治時代に紀伊半島沖で沈没したトルコの軍艦エルトゥールル号ゆかりの地である、和歌山県串本町に移設されることが決定し、大変嬉しく思った。
像の除幕式も今年の6月に無事すみ、トルコと日本の友好120周年の記念の式となったようだ。

◇旧トルコ文化村内のムスタファ・ケマル・アタテュルク像の現在 ― 2009年05月25日
◇トルコ建国の父、アタチュルク銅像 新潟から和歌山・串本に移設へ ― 2009年12月21日

そこでも書いたが、トルコという国は大変な親日国で、私たちがイスタンブールへ行ったときにも、私たちが日本人であることを知ると、日本語が話せても話せなくてもとても親切にされることが多かったし、日本語が話せるトルコ人は日本人がいかにすばらしいかを聞かせてくれた。
誰もが「日本人は暖かくて親切だ」と言っていた。
「何故?」と質問すると、「昔、日本人はトルコ人を助けてくれた」というのだった。

エルトゥールル号のことは、トルコの小学校では普通に勉強するらしい。
トルコの近代化を促進し、建国の父とも謂われたムスタファ・ケマル・アタテュルクは、明治政府をお手本にして近代化を進めたという話もあるくらい、トルコでは日本という国がとても近しい国であるらしい。
しかし、日本人はトルコのことなどほとんど知らないし、世界三大料理のひとつがトルコ料理であることを知っている人も多くないのが現実である。

今年は、トルコと日本の友好120周年にあたる年だ。
このエルトゥールル号の事件のことを、NHKの番組で取り上げたのはそういう意図もあったのか、非常に簡潔にトルコと日本のエピソードを紹介しており、私もあまり詳しく知っていたわけではないエルトゥールル号の事件のことを知ることができ、大変興味深く、内容によっては涙を誘った。
また、暖かい美談の裏で、日本とトルコの国際社会に対しての思惑が右往左往していたことや、当時一攫千金を夢見てトルコに渡った日本人青年の野望など、揺れ動く当時の日本社会を垣間見ることができて面白かった。

しかし、番組中では今年が友好120周年にあたる年であることは、まったく触れずにいたのが残念だった。
NHKもせっかく紹介するのだから、そういう記念の年であることくらいはちらっとでもいいから触れてもらいたいものだと思ってしまった。

NHK総合 歴史秘話ヒストリア「第54回 わしらの海でトルコ軍艦が沈んだ! 」
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/index.html


再放送
BS2 11月3日(水)08:15~08:58
総合  11月5日(金)2:00~2:43(※木曜深夜)


■追記
ムスタファ・ケマル・アタテュルク像の除幕式に際して、

旧トルコ文化村内のムスタファ・ケマル像を当事者間の裁判から切り離し、問題の早期解決を求める要望書

「旧トルコ文化村内のムスタファ・ケマル像を当事者間の裁判から切り離し、問題の早期解決を求める要望書」の成果報告

もともと像のあった新潟県柏崎市の柏崎トルコ友好協会の「日本トルコ友好120周年『エルトゥールル号』遭難慰霊祭参加報告」

移設に尽力した日本財団の除幕式開催のニュース

新潟県柏崎市の市議会議員・三井田孝欧氏のブログ「納豆人生、まっしぐら」の中の柏崎市長が串本町アタトュルク像除幕式に参加したことを告げる記事

以上のリンクをブックマークの意味も含めて紹介する。

政治的な意味合いは私には無関係だが、見方によってはいろいろとあるのだなあ、と今回改めて確認して思った次第。
一番上の署名に至る経緯から順に見ていくと、柏崎市の保守派議員が市長が像の除幕式に参加することについての見方など、当事者によってこうも見方が違うのかと興味深い。
ちなみに、柏崎トルコ友好協会のページでは、ムスタファ・ケマル・アタテュルク像の除幕式についての記事はなく、あくまでエルトゥールル号慰霊祭に招待された際の記事に、アタトュルク像についての感想の記述があるだけである。

興味のある方は、黄色のラインの先をご覧ください。



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