◇帯広:衣料の有沢にあった懐かしいロッテガムの自販機 ― 2015年04月22日 21時50分48秒
有沢デパートのロッテガム自販機。2011年8月18日撮影。
帯広西1条南9丁目にあった、帯広の老舗中の老舗である有沢デパートが、リニューアルのために一時店舗を閉店した。2015年4月15日のことである。
新規オープンは7月を目指しているとのことだが、有沢のHPには「後日、移転オープンする予定」と書かれている。
有沢の会社略歴を見ると、明治39年(1906年)に今の西帯広で呉服の行商から起業し、大正6年(1917年)には西2条南1丁目に初めて帯広市内に店舗を構えたとある。
その後、昭和13年(1938年)に西2条北1丁目に移転。昭和18年(1943年)に戦争のため一時閉店したものの、昭和23年(1948年)には営業を再開。
昭和26年(1951年)に法人化され大通り南8丁目に移転。
昭和44年(1969年)10月に、先日まで営業していた西1条南9丁目の店舗になったらしい。
(有沢HP会社略歴より引用)
http://www.arisawa-obihiro.co.jp/kaisya%20ryakureki%2001.html
有沢デパートの看板(2015年4月撮影/写真提供TAM)
西帯広の呉服の行商から109年。今の店舗で45年半という、節目でもなんでもない時期に何故リニューアルをするのかはわからないが、こうしてみると有沢は戦前戦後の帯広をずっと眺めてきた稀有な存在であることがわかる。
洒落物で見栄坊な帯広のおしゃれをずっと支えてきたのだ。
そんなデパートの一角に、懐かしい自販機がひっそりと置かれていた。
2011年8月に撮影した冒頭の写真には、自販機に貼り紙がしてあった。
8月18日(水)HBC放送(TBS系)朝8時30分
からの「はなまるマーケット」で当社のロッテガム自販機が
全国版で放映されました。
貴重な自販機です。
衣料の有沢
まさにこの写真を撮影したその日に、全国放送でこの自販機が紹介されたのだった。
友人TAMは、何度もこのガムの自販機の足を運んで様子を見ていたらしいが、有沢が移転リニューアルすることで、この自販機の行方が気になるところだ。
有沢自身が「貴重である」と断言しているのだから、自販機も新店舗で新しい人生を歩んでほしい。
ちなみに、2011年8月時点でのガムのラインナップは、左からブルーベリー、歯につきにくいガム、ミントブルー、クールミント、グリーンガム、梅ガムの6つ。価格は100円だ。
ロッテガムの価格変遷を見てみると、1970年当時グリーンガムは一個30円だった。1974年~80年当時で50円だったので、100円と紙を貼ってあるその下は30円か50円だろうか。
TAMが送ってくれた2015年4月現在の自販機の中身は、左からフリーゾーン、ブルーベリー、ミントブルー、クールミント、グリーンガム、梅ガムである。価格はやはり100円。
2015年4月現在のガムのラインナップ〈写真提供TAM〉
定番のグリーンガムやクールミントは理解できるが、梅ガムが変わらぬラインナップであるところが面白い。
梅ガムを食べたのは何年前だろうか。すでに30年は経っているような気がする。
今年7月にリニューアルされる、新生衣料の有沢。
その店舗でもこの自販機がおかれていたら、迷わず梅ガムを購入したい。
帯広西1条南9丁目にあった、帯広の老舗中の老舗である有沢デパートが、リニューアルのために一時店舗を閉店した。2015年4月15日のことである。
新規オープンは7月を目指しているとのことだが、有沢のHPには「後日、移転オープンする予定」と書かれている。
有沢の会社略歴を見ると、明治39年(1906年)に今の西帯広で呉服の行商から起業し、大正6年(1917年)には西2条南1丁目に初めて帯広市内に店舗を構えたとある。
その後、昭和13年(1938年)に西2条北1丁目に移転。昭和18年(1943年)に戦争のため一時閉店したものの、昭和23年(1948年)には営業を再開。
昭和26年(1951年)に法人化され大通り南8丁目に移転。
昭和44年(1969年)10月に、先日まで営業していた西1条南9丁目の店舗になったらしい。
(有沢HP会社略歴より引用)
http://www.arisawa-obihiro.co.jp/kaisya%20ryakureki%2001.html
有沢デパートの看板(2015年4月撮影/写真提供TAM)
西帯広の呉服の行商から109年。今の店舗で45年半という、節目でもなんでもない時期に何故リニューアルをするのかはわからないが、こうしてみると有沢は戦前戦後の帯広をずっと眺めてきた稀有な存在であることがわかる。
洒落物で見栄坊な帯広のおしゃれをずっと支えてきたのだ。
そんなデパートの一角に、懐かしい自販機がひっそりと置かれていた。
2011年8月に撮影した冒頭の写真には、自販機に貼り紙がしてあった。
8月18日(水)HBC放送(TBS系)朝8時30分
からの「はなまるマーケット」で当社のロッテガム自販機が
全国版で放映されました。
貴重な自販機です。
衣料の有沢
まさにこの写真を撮影したその日に、全国放送でこの自販機が紹介されたのだった。
友人TAMは、何度もこのガムの自販機の足を運んで様子を見ていたらしいが、有沢が移転リニューアルすることで、この自販機の行方が気になるところだ。
有沢自身が「貴重である」と断言しているのだから、自販機も新店舗で新しい人生を歩んでほしい。
ちなみに、2011年8月時点でのガムのラインナップは、左からブルーベリー、歯につきにくいガム、ミントブルー、クールミント、グリーンガム、梅ガムの6つ。価格は100円だ。
ロッテガムの価格変遷を見てみると、1970年当時グリーンガムは一個30円だった。1974年~80年当時で50円だったので、100円と紙を貼ってあるその下は30円か50円だろうか。
TAMが送ってくれた2015年4月現在の自販機の中身は、左からフリーゾーン、ブルーベリー、ミントブルー、クールミント、グリーンガム、梅ガムである。価格はやはり100円。
2015年4月現在のガムのラインナップ〈写真提供TAM〉
定番のグリーンガムやクールミントは理解できるが、梅ガムが変わらぬラインナップであるところが面白い。
梅ガムを食べたのは何年前だろうか。すでに30年は経っているような気がする。
今年7月にリニューアルされる、新生衣料の有沢。
その店舗でもこの自販機がおかれていたら、迷わず梅ガムを購入したい。
◇帯広の老舗バー建て替え ― 2015年04月20日 22時06分05秒
黒んぼの看板〈写真提供TAM〉
帯広の西三条というと、メインの西二条よりはマイナーなイメージで、個人的には「裏通り」という感じだった。
しかし、その「裏通り」には見逃せない老舗が目白押しで、黒んぼもそんな店の一つだった。
私が帯広のまちで遊んでいた頃ですでに、この看板はまちなかで異彩を放っていた。
しょんべん臭いガキには敷居が高い佇まいを見せ、私は年上の飲み仲間の友人に連れられて、一度しかこの店に入ったことがなかった。
落ち着いたカウンターに本格的なジャズが流れる店内は、特に店自体が入りづらいということではなかったし、お店の人も非常に親切だったのだが、背伸びしきっていた当時の私には1人で訪れる勇気はなかった。
所詮、ポップスカルチャーが似合う青二才だったのだ。
黒んぼの店内〈写真提供TAM〉
それから30年近い月日が経つが、私はあの後一度もお店に行った事がない。
あの懐かしい佇まいの看板や、お店の雰囲気がずっと気になっていたし、古い帯広の友人とも話題になることはあっても、一度も足を運ぶことがなかった。
今回、お店をリニューアルするというニュースが、十勝毎日新聞に掲載された。
十勝毎日新聞『ジャズ響く59年 名店に惜別 バー「黒んぼ」建て替え』
http://www.tokachi.co.jp/news/201504/20150404-0020721.php
お店の開業は1956年昭和31年らしいが、建物自体は築80年とのこと。
ジャズが好きな父に聞くと、若い頃はたまにお店に行ったとのこと。
当時はおばさんがお店にいたが、最近は二代目になっているのではないかということらしい。
新聞記事ではお孫さんが2004年に後を継がれたとのことで、今は三代目。
私がお店に行ったときは、男性がお店にいたので、私がお会いしたのは二代目だろう。
父の記憶がどこまで鮮明かはわからないが、あの当時黒んぼの近くには大きな電気店があり、プロレス中継を店の前で見ていたという話や、アメリカ軍の放出品を扱うお店があったり、焼きラーメンのお店(数件先のラーメンあざみのことらしい)があってとても美味しかったという話など、懐かしそうに話してくれた。
黒んぼは、昼は喫茶店だったが、夜はジャズが流れるバーで雰囲気と居心地のいいお店だったとのこと。
父が黒んぼに行っていたのは、結婚する前後のことらしいので、1964年昭和39年前後の話だろうと思われる。
ラーメンあざみ
ここもすでに営業はしていないが、お店だけが残っている。
父が黒んぼに行ってから50年、私から30年以上の月日が経ち、帯広のまちなかも閑散として、なじみの建物もお店も姿を消していっている。
30年も経っているのだから、すでになくなっていたって仕方がないのだが、なんとなくずっと存在していたものは、これから先も当然のようにあるのだろうと思いたい願望の方が先にたつ。
お気に入りの黒んぼの看板も、2011年に撮影したときは、もうだいぶ黒っぽくなっており、上のほうに書かれているニッカウヰスキーの文字も見えにくくなってしまっていた。
この看板も、リニューアルしてもう見ることがないのかもしれないと思うと、これだけ長い間気になっていたのだから、ジャズが聴ける年齢になってタバコが平気なうちに一度くらいは足を運びたかったと思ったりしている。
タバコアレルギーの私には今はまだ敷居の高いお店だが、そのうちリニューアルしたお店を訪れることができるといいなと思う。
その時には、あの懐かしい看板もデザインはそのままで、綺麗にリニューアルしているといいのにと願いばかりである。
夜の黒んぼの看板〈2011年8月18日撮影〉
◆2015年4月22日更新
TAM氏より、黒んぼの写真を提供いただいたので、写真の差し替えと一部記事を修正しました。
帯広の西三条というと、メインの西二条よりはマイナーなイメージで、個人的には「裏通り」という感じだった。
しかし、その「裏通り」には見逃せない老舗が目白押しで、黒んぼもそんな店の一つだった。
私が帯広のまちで遊んでいた頃ですでに、この看板はまちなかで異彩を放っていた。
しょんべん臭いガキには敷居が高い佇まいを見せ、私は年上の飲み仲間の友人に連れられて、一度しかこの店に入ったことがなかった。
落ち着いたカウンターに本格的なジャズが流れる店内は、特に店自体が入りづらいということではなかったし、お店の人も非常に親切だったのだが、背伸びしきっていた当時の私には1人で訪れる勇気はなかった。
所詮、ポップスカルチャーが似合う青二才だったのだ。
黒んぼの店内〈写真提供TAM〉
それから30年近い月日が経つが、私はあの後一度もお店に行った事がない。
あの懐かしい佇まいの看板や、お店の雰囲気がずっと気になっていたし、古い帯広の友人とも話題になることはあっても、一度も足を運ぶことがなかった。
今回、お店をリニューアルするというニュースが、十勝毎日新聞に掲載された。
十勝毎日新聞『ジャズ響く59年 名店に惜別 バー「黒んぼ」建て替え』
http://www.tokachi.co.jp/news/201504/20150404-0020721.php
お店の開業は1956年昭和31年らしいが、建物自体は築80年とのこと。
ジャズが好きな父に聞くと、若い頃はたまにお店に行ったとのこと。
当時はおばさんがお店にいたが、最近は二代目になっているのではないかということらしい。
新聞記事ではお孫さんが2004年に後を継がれたとのことで、今は三代目。
私がお店に行ったときは、男性がお店にいたので、私がお会いしたのは二代目だろう。
父の記憶がどこまで鮮明かはわからないが、あの当時黒んぼの近くには大きな電気店があり、プロレス中継を店の前で見ていたという話や、アメリカ軍の放出品を扱うお店があったり、焼きラーメンのお店(数件先のラーメンあざみのことらしい)があってとても美味しかったという話など、懐かしそうに話してくれた。
黒んぼは、昼は喫茶店だったが、夜はジャズが流れるバーで雰囲気と居心地のいいお店だったとのこと。
父が黒んぼに行っていたのは、結婚する前後のことらしいので、1964年昭和39年前後の話だろうと思われる。
ラーメンあざみ
ここもすでに営業はしていないが、お店だけが残っている。
父が黒んぼに行ってから50年、私から30年以上の月日が経ち、帯広のまちなかも閑散として、なじみの建物もお店も姿を消していっている。
30年も経っているのだから、すでになくなっていたって仕方がないのだが、なんとなくずっと存在していたものは、これから先も当然のようにあるのだろうと思いたい願望の方が先にたつ。
お気に入りの黒んぼの看板も、2011年に撮影したときは、もうだいぶ黒っぽくなっており、上のほうに書かれているニッカウヰスキーの文字も見えにくくなってしまっていた。
この看板も、リニューアルしてもう見ることがないのかもしれないと思うと、これだけ長い間気になっていたのだから、ジャズが聴ける年齢になってタバコが平気なうちに一度くらいは足を運びたかったと思ったりしている。
タバコアレルギーの私には今はまだ敷居の高いお店だが、そのうちリニューアルしたお店を訪れることができるといいなと思う。
その時には、あの懐かしい看板もデザインはそのままで、綺麗にリニューアルしているといいのにと願いばかりである。
夜の黒んぼの看板〈2011年8月18日撮影〉
◆2015年4月22日更新
TAM氏より、黒んぼの写真を提供いただいたので、写真の差し替えと一部記事を修正しました。
◇帯広市緑ヶ丘の兵舎跡 ― 2012年10月25日 18時52分34秒
緑ヶ丘の兵舎跡
帯広の友人TSから、一枚の写真が届いた。
彼は散歩などの途中で撮影した、帯広の現在の姿と昔の名残の写真を送ってくれる。
故郷を遠く離れて暮らしている私にとっては、故郷がいつまでも記憶の中にある形でいてくれるのがうれしいが、現実はそうはいかない。
帰るたびに帯広のさびれ度は年々増していくし、古い建物は時間を止めたように相変わらず存在するのに、新しい建物がその風景に溶け込んでいかない。なんとも不思議な町である。
彼はそんな帯広の様子を、私に届けてくれるのだ。
今回の写真は、帯広緑ヶ丘にある古い建物。
この建物のある土地は、現在売地になっているらしい。
この建物は戦前に建てられ、今にも崩れ落ちそうだが、私の記憶にある40年ほど前から“今にも崩れ落ちそう具合”はあまり変わらないような気がする。
祖母の家が近くにあり、この建物は祖母の家へ行くバスの窓からいつも見えていた。
一度従姉妹と一緒にこの建物を見に行ったことがあるが、絶対に中に入らないように口うるさく言われた。
友人TSの話だと、この建物は戦時中の兵舎として建てられたもので、戦後は引揚者住宅として使用されたとのこと。
緑ヶ丘は開拓者住宅とか引揚者住宅とかが多く、私の祖母の家ももともとは開拓者住宅の長屋だったものを買い取り、一部リフォームして使用していた。
今のグリーンパークのあたりは今のようには整備されておらず、広い荒野の中でいつも誰かが一斗缶で焚き火をしていた記憶がある。
写真の建物は、緑ヶ丘小学校の近くにあるのだが、赤い屋根が印象的で、私はずっと農業用の建物だと思っていた。
このような歴史のある建物が、帯広のあちこちに廃墟になって残っている。
この建物は比較的原型を留めているほうだと思うが、帯広市はなぜこのような建物を保存するでもなければ処分するでもなく、ただただ長い時間放置してあるのか不思議だ。
帯広の歴史の一つとして、どこかに移築して保存すればいいのにと思うのだが、建物はずっと同じところにただ朽ち果てるのを待っているだけだ。
帯広の建物は、1980年代の比較的景気の良い時代であっても、古い建物が取り壊されることは稀だった。
商業地域であれば、通りに面したところだけがリフォームされ、見えないところはそのままというのがほとんどだった。
昔どうして表向きだけリフォームするのか、ずっと年上の人に聞いたら、「古いものを再利用するのが帯広の伝統だからだ」という返事が返ってきた。
21世紀に入って帯広の「まちなか」を歩くと、それらのリフォームを重ねてきた建物も未だに存在している。中には、地面との平行垂直が保たれておらず隣の建物に依存した建物や、戦後からずっとあるデパートや飲み屋街の建物なども残っている。
しかし、やはり徐々にこのような建物も姿を消す運命にあるようで、「あれ?」っと思ったら忽然と今までそこにあったものがなくなっていることがあったりする。
緑ヶ丘のこの建物も、たぶん土地が売れれば取り壊されてしまうのだろう。
古くからお馴染みだったこの建物が、次に帰省したときにはなくなっているだろうと思うと、ちょっとメランコリックになってしまうのだった。
◇2月10日は豚丼の日 ― 2011年02月09日 23時34分40秒
今月から新聞をとることにした。
久しぶりにチラシチェックをしていると、イトーヨーカ堂のチラシにでかでかと書かれてある文字を見て驚いた。
2月10日は豚丼の日
今日は「豚丼の日」らしい。
いつ決まったのかと気にすると、今年かららしい。
帯広の豚丼は、つい20年ほど前までは、同じ道内でも帯広以外の人は、まったくその存在を知らない人の方が多かった。
札幌の人などに「帯広の豚丼」と言っても、「何それ?」と言われた。
一時期、アメリカ牛の輸入規制で、牛丼屋から牛丼が消えたときに、豚肉を牛丼の肉のように煮たものを「豚丼」として販売されていたことがあったが、あれは帯広出身者からすると“まがいもの”以外の何物でもなかった。
それが、テレビでご当地グルメとして取り上げられ、美味しい豚丼の専門店などが観光の名所となってから、帯広の豚丼は全国区になった。
十勝毎日新聞社ニュース 2月4日
2月10日は「豚丼の日」
十勝毎日新聞社の記事を読むと、2月10日を豚丼の日と制定したのは、芦別に本社のあるソラチという会社のようだ。
豚丼が全国区となって、帯広市内でも昔から豚丼を出していなかったお店でも豚丼を供して活性化を図る一方、帯広以外の会社の帯広進出もあって、ソラチはその一番手の会社のようだ。
内地のスーパーなどで開催される北海道物産展でも、帯広の六花亭のお菓子などと並んで、豚丼は人気商品になっている。
ソラチの豚丼のタレは、もとからあったジャンの豚丼のタレやジンギスカンのタレなどに並んで、こちらのスーパーでも見かけることもある。
こういう取り組みが、なぜ地元帯広の企業などで行われていないのかなど、いろいろと思うところはあるのだが、これが帯広活性化のきっかけの一つになればいいと思う。
久しぶりにチラシチェックをしていると、イトーヨーカ堂のチラシにでかでかと書かれてある文字を見て驚いた。
2月10日は豚丼の日
今日は「豚丼の日」らしい。
いつ決まったのかと気にすると、今年かららしい。
帯広の豚丼は、つい20年ほど前までは、同じ道内でも帯広以外の人は、まったくその存在を知らない人の方が多かった。
札幌の人などに「帯広の豚丼」と言っても、「何それ?」と言われた。
一時期、アメリカ牛の輸入規制で、牛丼屋から牛丼が消えたときに、豚肉を牛丼の肉のように煮たものを「豚丼」として販売されていたことがあったが、あれは帯広出身者からすると“まがいもの”以外の何物でもなかった。
それが、テレビでご当地グルメとして取り上げられ、美味しい豚丼の専門店などが観光の名所となってから、帯広の豚丼は全国区になった。
十勝毎日新聞社ニュース 2月4日
2月10日は「豚丼の日」
十勝毎日新聞社の記事を読むと、2月10日を豚丼の日と制定したのは、芦別に本社のあるソラチという会社のようだ。
豚丼が全国区となって、帯広市内でも昔から豚丼を出していなかったお店でも豚丼を供して活性化を図る一方、帯広以外の会社の帯広進出もあって、ソラチはその一番手の会社のようだ。
内地のスーパーなどで開催される北海道物産展でも、帯広の六花亭のお菓子などと並んで、豚丼は人気商品になっている。
ソラチの豚丼のタレは、もとからあったジャンの豚丼のタレやジンギスカンのタレなどに並んで、こちらのスーパーでも見かけることもある。
こういう取り組みが、なぜ地元帯広の企業などで行われていないのかなど、いろいろと思うところはあるのだが、これが帯広活性化のきっかけの一つになればいいと思う。
◇深夜のガソリンスタンドの思い出 ― 2010年06月23日 00時45分21秒
国道38号線沿いにある、現在のアラブ石油のスタンド跡(写真提供:TS)
都会はどうだったのかは知らないが、1985年当時の帯広の田舎では、まだまだガソリンスタンドの深夜営業はまれなことで、ガソリンスタンドが行楽の日曜日に平然と休んでいるのも珍しいことではなかった。
平日でも、早くて午後6時、遅くても8時には営業が終了してしまうところが多かったので、夜中に突発的にドライブなどに行きたいと思ったときに、ガソリンがないということもしばしばあった。
普通の人たちはどうだか知らないが、私たちの友人はみんな車があるとすぐにドライブに行きたくなってしまう。それが軽であろうがソアラ(誰も持っていなかったけど)であろうがお構いなしであった。
行き先はいろいろで、近場だと当時は24時間営業していた十勝川温泉の大平原だったり、余力があれば大津の海まで行くこともあった。
だいたい人が集まる場所は決まっていて、そこで集った仲間で条件が合い意気投合して行動を始めるのが夜も10時過ぎのことである。
馴染みのお店の店員の仕事が終わるのを待つときは、行動開始が0時を過ぎることもしばしば。 そこで車を調達して、お金を出し合ってガソリンを入れるのだが、そんなときに重宝していたのがアラブ石油だった。
私の記憶では、国道38号線沿いの周囲に街灯も何もない場所の暗闇に、こつぜんとガソリンスタンドが存在しているのが頭に焼きついている。実際にそういう場所だったのかどうかは不明だが、そういう印象だったのだ。
屋根のない二方向の敷居だけの敷地に、給油機と薄暗い明かりがぽつんとあり、車を給油機の前につけると、どこからともなく痩せたおやじが出てきて給油してくれる。
大抵お金がないので満タンなどとは言わず、千円札を取り出して「これで入るだけ」と言って給油するが、千円では10リッターも入らなかったように記憶している。
調べてみると、1985年当時のレギュラーガソリンの1リットル当たりの価格は、146円だったらしい。普通のガソリンスタンドで10リッター入れると1460円(当時は消費税がなかったので、提示価格のまま)なので、深夜営業のアラブ石油では倍くらいの値段だったのではないか。せいぜい千円で給油できたのは、4~5リッターくらいのものだったと推測する。
友人とふとしたことでアラブ石油のことで盛り上がったときに、ちょっと調べてみたところ、古い新聞記事をアーカイブしているサイトで、アラブ石油の名前を見つけることができた。
『太古の新聞記事など』
ウエートレス強盗強姦事件(昭和43年1月4日深夜の札幌市のビル内)の中の記事
http://63164201.at.webry.info/200901/article_4.html
アラブ石油は、1975年から帯広と釧路に深夜営業のガソリンスタンドを営業していた。帯広店は、東一条南8丁目と国道38号線沿いにあったらしい。 東一条店は1977年と1982年に、釧路店は1982年に強盗事件に合い、1982年の強盗事件後に帯広店は東一条店の24時間営業を取りやめ、国道38号線沿いの店舗でのみ三人交代制で24時間営業を続けていたとある。
※『太古の新聞記事など』内ウエートレス強盗強姦事件(昭和43年1月4日深夜の札幌市のビル内)の中の「十勝毎日新聞 昭和57年(1982年)2月16 日 火曜日 9面」と「十勝毎日新聞 昭和57年(1982年)3月9日 火曜日 11面」より抜粋引用。
この記事を読んだときに、あの暗闇の中で客がこないときに給油のおじさんはどうやって過ごしているのだろうと思ったことを思い出す。
お金がないときに千円ぽっちの給油でもいやな顔もせずに給油してくれた、50過ぎくらいの浅黒いおじさんの顔がうっすらよみがえるような気がする。
当時一度だけ、友人の用事につきあって昼間にあのあたりに行ったことがあったが、スタンドの周囲は住宅もまばらで野っ原だった。
友人が送ってくれた写真を見ると、アラブ石油の周囲には立派な社屋が建っていたり、決して新しそうでない住宅も立ち並んでいる。
昔は国道からはずれると砂利道だったと記憶する道も、当然のごとく今ではアスファルト舗装されている。
私の記憶では、給油機しかないスタンドだったが、写真を見ると小さな小屋があって、おじさんはそこにいたのだということが判る。
その後ガソリンスタンドの深夜営業が、一般のガソリンスタンドでも行われるにつれてアラブ石油の需要は激減したものと見られる。
アラブ石油が帯広からひっそりと姿を消したのが、いったいいつのことなのかは知ることができなかった。
ガソリンスタンドの跡地というのは、ガソリンタンクが埋蔵しているので再利用にお金がかかり、そのまま土地活用されずに廃墟になるケースが多いと聞く。
田舎に行けばいくほど、ローカルの小さな昔のガソリンスタンドの廃墟を多く見かけるが、特に目印になるシンボルマークも何もなかったアラブ石油の跡地が、このような形で残っていることに、ちょっとした感動を覚えたのだった。
都会はどうだったのかは知らないが、1985年当時の帯広の田舎では、まだまだガソリンスタンドの深夜営業はまれなことで、ガソリンスタンドが行楽の日曜日に平然と休んでいるのも珍しいことではなかった。
平日でも、早くて午後6時、遅くても8時には営業が終了してしまうところが多かったので、夜中に突発的にドライブなどに行きたいと思ったときに、ガソリンがないということもしばしばあった。
普通の人たちはどうだか知らないが、私たちの友人はみんな車があるとすぐにドライブに行きたくなってしまう。それが軽であろうがソアラ(誰も持っていなかったけど)であろうがお構いなしであった。
行き先はいろいろで、近場だと当時は24時間営業していた十勝川温泉の大平原だったり、余力があれば大津の海まで行くこともあった。
だいたい人が集まる場所は決まっていて、そこで集った仲間で条件が合い意気投合して行動を始めるのが夜も10時過ぎのことである。
馴染みのお店の店員の仕事が終わるのを待つときは、行動開始が0時を過ぎることもしばしば。 そこで車を調達して、お金を出し合ってガソリンを入れるのだが、そんなときに重宝していたのがアラブ石油だった。
私の記憶では、国道38号線沿いの周囲に街灯も何もない場所の暗闇に、こつぜんとガソリンスタンドが存在しているのが頭に焼きついている。実際にそういう場所だったのかどうかは不明だが、そういう印象だったのだ。
屋根のない二方向の敷居だけの敷地に、給油機と薄暗い明かりがぽつんとあり、車を給油機の前につけると、どこからともなく痩せたおやじが出てきて給油してくれる。
大抵お金がないので満タンなどとは言わず、千円札を取り出して「これで入るだけ」と言って給油するが、千円では10リッターも入らなかったように記憶している。
調べてみると、1985年当時のレギュラーガソリンの1リットル当たりの価格は、146円だったらしい。普通のガソリンスタンドで10リッター入れると1460円(当時は消費税がなかったので、提示価格のまま)なので、深夜営業のアラブ石油では倍くらいの値段だったのではないか。せいぜい千円で給油できたのは、4~5リッターくらいのものだったと推測する。
友人とふとしたことでアラブ石油のことで盛り上がったときに、ちょっと調べてみたところ、古い新聞記事をアーカイブしているサイトで、アラブ石油の名前を見つけることができた。
『太古の新聞記事など』
ウエートレス強盗強姦事件(昭和43年1月4日深夜の札幌市のビル内)の中の記事
http://63164201.at.webry.info/200901/article_4.html
アラブ石油は、1975年から帯広と釧路に深夜営業のガソリンスタンドを営業していた。帯広店は、東一条南8丁目と国道38号線沿いにあったらしい。 東一条店は1977年と1982年に、釧路店は1982年に強盗事件に合い、1982年の強盗事件後に帯広店は東一条店の24時間営業を取りやめ、国道38号線沿いの店舗でのみ三人交代制で24時間営業を続けていたとある。
※『太古の新聞記事など』内ウエートレス強盗強姦事件(昭和43年1月4日深夜の札幌市のビル内)の中の「十勝毎日新聞 昭和57年(1982年)2月16 日 火曜日 9面」と「十勝毎日新聞 昭和57年(1982年)3月9日 火曜日 11面」より抜粋引用。
この記事を読んだときに、あの暗闇の中で客がこないときに給油のおじさんはどうやって過ごしているのだろうと思ったことを思い出す。
お金がないときに千円ぽっちの給油でもいやな顔もせずに給油してくれた、50過ぎくらいの浅黒いおじさんの顔がうっすらよみがえるような気がする。
当時一度だけ、友人の用事につきあって昼間にあのあたりに行ったことがあったが、スタンドの周囲は住宅もまばらで野っ原だった。
友人が送ってくれた写真を見ると、アラブ石油の周囲には立派な社屋が建っていたり、決して新しそうでない住宅も立ち並んでいる。
昔は国道からはずれると砂利道だったと記憶する道も、当然のごとく今ではアスファルト舗装されている。
私の記憶では、給油機しかないスタンドだったが、写真を見ると小さな小屋があって、おじさんはそこにいたのだということが判る。
その後ガソリンスタンドの深夜営業が、一般のガソリンスタンドでも行われるにつれてアラブ石油の需要は激減したものと見られる。
アラブ石油が帯広からひっそりと姿を消したのが、いったいいつのことなのかは知ることができなかった。
ガソリンスタンドの跡地というのは、ガソリンタンクが埋蔵しているので再利用にお金がかかり、そのまま土地活用されずに廃墟になるケースが多いと聞く。
田舎に行けばいくほど、ローカルの小さな昔のガソリンスタンドの廃墟を多く見かけるが、特に目印になるシンボルマークも何もなかったアラブ石油の跡地が、このような形で残っていることに、ちょっとした感動を覚えたのだった。
◇帯広市の“まち”のシンボル広小路 ― 2010年06月17日 06時11分03秒
大通り側からの広小路アーケード
先日、従姉が送ってきた春掘りの長いもをくるんであった十勝毎日新聞に、「広小路“出店ラッシュ”」という記事が掲載されていた。
長いもがくるまれていたので新聞はちょっと破れたりしており、ネット調べてみると2010年3月4日の記事だったらしい。
去年の暮れに、長年会っていなかった友人とコンタクトが取れ、なんとなく昔話に花が咲いている。
その友人が、最近の帯広の様子を写真に撮って送ってくれた。
「何かのネタに使っていい」とのお許しが出たので、帯広の今と昔を少し考えようかと思いつつ、いろいろと状況がそれを許さず、友人をずっと待たせたままにしてしまった。 ここでその写真を使用させていただこうと思う。
「広小路“出店ラッシュ”」の記事は、ネット上で『十勝めーる』というところで発見した。
十勝毎日新聞2010年3月4日の記事
「広小路“出店ラッシュ” アーケード再生へ弾み」
http://www.tokachimail.com/obihiro/100308index.html
この記事によると、「老朽化の進んだかつての広小路で、軒並み路面店の撤退が進んでいたが、ここに来てラーメン店などその他2店舗の出店があって、関係者は胸をなでおろしている」ということらしい。
2011年には、アーケード再生事業として「まちなか」の活性化基本計画が推進されるとのことらしい。
しかし、冬の景色だからというのもあるのだが、友人から送られてくる広小路の風景は、30年くらい前にここでカセットを持ち込んで若者が踊り狂っていた場所とはとうてい思えない様相を呈している。
当時、50sファッションの流行で、原宿にクリームソーダという50sファッションのお店があり、その影響からか原宿のホコ天でカセットデッキを持ち込んで踊る50sファッションのローラー族という若者が話題になった。
ちょうど竹の子族などがもてはやされるちょっと前の時期で、そのうち竹の子族とローラー族の場所取りの抗争が話題になったりもした。
その影響で、帯広でも昼間は歩行者天国になる広小路で、50sファッションのローラー族が踊りを踊ったりして話題になった時期があった。
西二条の裏通りか西一条の11丁目(記憶不確か)に、50sファッションのお店もあったりしたのだ。
後に帯広出身の50s風バンド「キャデラックスリム」のメジャーデビューを境に、私が高校を卒業する頃にはローラー族もすっかりなりをひそめていたが、キャデラックスリムのメンバーが広小路で踊っていたとか、いろいろ噂はつきなかった。
私が帯広で一度就職したときの同僚がローラー族で、彼女のBFが乗っていた昭和40年代のフェアレディ(Zではない)のオープンカーの荷台に乗せてもらったりした(フェアレディのオープンは2シーターなので、荷台に乗るのは違法である。今考えるととんでもない)。
荷台に乗ると、一段高いところに座ることになるので、オープンカーの開放感プラス全身で風を切る感じがとても気持ちよかったのを今でも覚えている。
私が高校を卒業する1984年か1985年頃には、とくらビルの地価が一億になったというのがニュースだったような気がする。
広小路には、DCブランドの店が軒を連ね、その間に老舗の店が混在していた。
私も毎日のようにここに通ったが、広小路はアーケードをくぐるだけでちょっとわくわくするような場所だった。
藤丸が7丁目に移転し、ホシビルが広小路の西側にできて、広小路から駅をつなぐ二条通りは本当の意味で帯広のメインストリートであり、広小路はその屋台骨を支えるアーケード街だった。
帯広の七夕祭りには、広小路に仙台の七夕をもっと庶民的にした手作り感満載の七夕飾りが飾られ、平原祭りには花笠音頭のパレードが広小路をメインにまちなかを闊歩した。
広小路は、帯広市民と「まち」の活性化にはなくなてはならない場所だったはずなのだ。
帯広広小路の歴史は長い。
ネットに公開されている帯広の歴史年表(pdf)を見ると、1924(大正12)年に「現在の広小路に露天商組合が設立された」となっている。
1930(昭和5年)には店舗数が90店舗になり、この年の12月に二条8丁目に藤丸デパートも開業している。
1945年(昭和20)年の終戦時に木造の屋根がつけられ、その6年後の1951(昭和26)年に正式に帯広広小路と命名された。
店舗もそれまでは振興マーケット形式だったのが、1953(昭和28年)年には現在の店舗形式の商店街に作り変えている。
その後北側が火事で焼けたり、アーケードが大雪で倒壊したりもしたが、何度も改修を重ねて市民の憩いの商店街として存続してきたのだ。
現在、アーケードの老朽化に伴い、広小路アーケードの撤去の計画も聞かれる。
帯広の「まち」の象徴である広小路が、変わり果てたとはいえ今でも帯広市民の心に「まち」の象徴として残る形なのであれば、昔のようにとはいわないまでも、新しい形で継承していくような場所になるといいのにと、願わずにはいられない。
先日、従姉が送ってきた春掘りの長いもをくるんであった十勝毎日新聞に、「広小路“出店ラッシュ”」という記事が掲載されていた。
長いもがくるまれていたので新聞はちょっと破れたりしており、ネット調べてみると2010年3月4日の記事だったらしい。
去年の暮れに、長年会っていなかった友人とコンタクトが取れ、なんとなく昔話に花が咲いている。
その友人が、最近の帯広の様子を写真に撮って送ってくれた。
「何かのネタに使っていい」とのお許しが出たので、帯広の今と昔を少し考えようかと思いつつ、いろいろと状況がそれを許さず、友人をずっと待たせたままにしてしまった。 ここでその写真を使用させていただこうと思う。
「広小路“出店ラッシュ”」の記事は、ネット上で『十勝めーる』というところで発見した。
十勝毎日新聞2010年3月4日の記事
「広小路“出店ラッシュ” アーケード再生へ弾み」
http://www.tokachimail.com/obihiro/100308index.html
この記事によると、「老朽化の進んだかつての広小路で、軒並み路面店の撤退が進んでいたが、ここに来てラーメン店などその他2店舗の出店があって、関係者は胸をなでおろしている」ということらしい。
2011年には、アーケード再生事業として「まちなか」の活性化基本計画が推進されるとのことらしい。
しかし、冬の景色だからというのもあるのだが、友人から送られてくる広小路の風景は、30年くらい前にここでカセットを持ち込んで若者が踊り狂っていた場所とはとうてい思えない様相を呈している。
当時、50sファッションの流行で、原宿にクリームソーダという50sファッションのお店があり、その影響からか原宿のホコ天でカセットデッキを持ち込んで踊る50sファッションのローラー族という若者が話題になった。
ちょうど竹の子族などがもてはやされるちょっと前の時期で、そのうち竹の子族とローラー族の場所取りの抗争が話題になったりもした。
キャデラックスリム 「孤独のメッセージ」 | |
広小路西一条 | |
西二条の裏通りか西一条の11丁目(記憶不確か)に、50sファッションのお店もあったりしたのだ。
後に帯広出身の50s風バンド「キャデラックスリム」のメジャーデビューを境に、私が高校を卒業する頃にはローラー族もすっかりなりをひそめていたが、キャデラックスリムのメンバーが広小路で踊っていたとか、いろいろ噂はつきなかった。
私が帯広で一度就職したときの同僚がローラー族で、彼女のBFが乗っていた昭和40年代のフェアレディ(Zではない)のオープンカーの荷台に乗せてもらったりした(フェアレディのオープンは2シーターなので、荷台に乗るのは違法である。今考えるととんでもない)。
荷台に乗ると、一段高いところに座ることになるので、オープンカーの開放感プラス全身で風を切る感じがとても気持ちよかったのを今でも覚えている。
私が高校を卒業する1984年か1985年頃には、とくらビルの地価が一億になったというのがニュースだったような気がする。
広小路には、DCブランドの店が軒を連ね、その間に老舗の店が混在していた。
私も毎日のようにここに通ったが、広小路はアーケードをくぐるだけでちょっとわくわくするような場所だった。
藤丸が7丁目に移転し、ホシビルが広小路の西側にできて、広小路から駅をつなぐ二条通りは本当の意味で帯広のメインストリートであり、広小路はその屋台骨を支えるアーケード街だった。
帯広の七夕祭りには、広小路に仙台の七夕をもっと庶民的にした手作り感満載の七夕飾りが飾られ、平原祭りには花笠音頭のパレードが広小路をメインにまちなかを闊歩した。
広小路は、帯広市民と「まち」の活性化にはなくなてはならない場所だったはずなのだ。
帯広広小路の歴史は長い。
ネットに公開されている帯広の歴史年表(pdf)を見ると、1924(大正12)年に「現在の広小路に露天商組合が設立された」となっている。
1930(昭和5年)には店舗数が90店舗になり、この年の12月に二条8丁目に藤丸デパートも開業している。
1945年(昭和20)年の終戦時に木造の屋根がつけられ、その6年後の1951(昭和26)年に正式に帯広広小路と命名された。
店舗もそれまでは振興マーケット形式だったのが、1953(昭和28年)年には現在の店舗形式の商店街に作り変えている。
その後北側が火事で焼けたり、アーケードが大雪で倒壊したりもしたが、何度も改修を重ねて市民の憩いの商店街として存続してきたのだ。
現在、アーケードの老朽化に伴い、広小路アーケードの撤去の計画も聞かれる。
帯広の「まち」の象徴である広小路が、変わり果てたとはいえ今でも帯広市民の心に「まち」の象徴として残る形なのであれば、昔のようにとはいわないまでも、新しい形で継承していくような場所になるといいのにと、願わずにはいられない。
◇帯広市:ホシビル解体に思うこと ― 2010年01月08日 03時59分03秒
1983年に、満を持して西二条9丁目に建設されたホシビル。
これが解体されるという話を聞いたので、調べてみた。
詳細は、「北海道新聞帯広支社」というページに詳しいが、ここは新しいニュースが入るとページがリニューアルされて、前のニュースがどこにあるのかわからないので、記事を転載した。
北海道新聞帯広支社 2010年1月6日 08:04:07---------
http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/
ホシビル 春までに解体*帯広・博愛会*当面は有料駐車場(2010/1/6)
開西病院(帯広)を運営する医療法人社団博愛会(同)の細川吉博理事長は5日、博愛会の関連会社が所有する市中心部の商業ビル「ホシビル」(西2南9)について、春までに取り壊し、当面は駐車場として活用することを明らかにした。
ビルは関連会社のベーシック(同)が、2008年10月に土地と建物を約5千万円で取得した。当初、飲食店などのテナントを入居させる計画だったが、水回りなど設備の老朽化が進んでいて全面改修が必要と分かり、そのままでの活用を断念した。
同ビルは1983年に完成し、百貨店藤丸の道路を挟んで南側に位置する好立地から、かつてはファッションビルとして中心街のにぎわいに貢献していた。建物は鉄筋コンクリート地上6階、地下1階で、延べ床面積約4300平方メートル、敷地面積は約800平方メートル。
解体工事は今月中旬にも始まり、いったん更地にした上で、4月以降、有料の駐車場として営業する。細川理事長は「固定資産税が高額なため、とりあえず駐車場にするが、時機を見て新たな建物を建て、まちなかの活性化に貢献したい」と話している。(長谷川賢)
----------------------------------------------
ホシビルのある場所から、二条通りをはさんで向かいの広小路の端にあるビルは、1986年当時地価(建物込みか?)が一億円になったというニュースが懐かしい。こんな田舎町で、一億円の価値のあるものがあるのかとわくわくした。
世の中はバブルへ向け好景気への期待に胸ふくらみ、専門店が強みの帯広の「まち」は、かねてから流行していたDCブランド熱が高校生を中心にさらなる過熱をみせていた。
帯広の「まち」でDCブランドといえば、マノワール・グレースだった。
ホシビルは、一階は今で言うドラッグストア的な店舗で、二階から上はマノワール・グレースが展開するDCブランドの本拠地となっていた。
一階は、普通にホシ薬局が入っていたのだが、当時の薬局は薬コーナーと化粧品コーナーとが分かれたよくある「薬局」が多かったのに対し、初めて帯広に「ドラックストア」的な店舗を展開したのもホシビルだった。
アンアンなどの雑誌で注目されていた、大手化粧品会社とは違う、独立したコスメ製品が普通に手に入るのは、新し物好きな帯広っ子には大変な魅力だった。
十勝毎日新聞社の2008年2月25日の「検証2008帯広予算」
http://www.tokachi.co.jp/kachi/jour/08kensyou/20080225/03.htm
という記事を見ると、2008年1月にはすでにホシビルの解体計画は存在していたらしい。
この記事で興味深いのは、「中心市街地活性化基本計画」と銘打ち2億6546万円もの予算を組みながら、市と商工会との産業政策の感覚のずれが如実に現れている。
新し物好きで開拓精神旺盛、何よりも自分たちの住む土地を愛している帯広の人たちが、帯広のバブルの象徴ともいえるホシビルを今失うことは、かなり大きな意味を持っていると思う。
これから、昔から栄えていた西二条を中心とした北側駅前をどうにかするのか、それともこの地域は捨てて新しい場所に繁栄の地を求めるのか。
「十勝・帯広の情報サイト 十勝への招待状」
http://www.0155.jp/tokachi/2008/01/09-001469.html
というブログの中でもホシビル解体の話題が書かれている。
ここでも触れているが、現在のホシビルの持ち主が医療団体なのなら、医療を中心とした商業・経済地域にすることだってできるはずだ。
そういう取り組みは、他の自治体でもよく見かけるし、実際に成功を納める地域もあるようだ。
これは邪推だが、帯広はなんとなく病院だけが元気で、高額な医療機器を導入して医療部分だけが高齢化に向けて、どんどん加速していっているような気がしてならない。
帯広はこれから、どういう都市であることを目指すのか。
建物が老朽化しているのなら、建物の表側だけきれいに取り繕ってきた帯広の建物や思想を、いっそ基礎からきれいにするチャンスでもあるのではないか。
離れて暮らす人間としては、故郷の大きな変化は好まないが、一番困るのは気がついたら故郷が機能しない町になって、死んだも同然になっていることだ。
それでは帰ってきても楽しみはないし、なにより自分の家族がそのような地域にいるのは、あまり安心できる状況ではない。
市としての指針が見えず、商工会や市民のいらだちが募る中で、市は帯広市をどう変えていきたいのだろうか。
すでに帯広市民でなくても、それは気になるところだ。
数年前、久しぶりに二条通りを散策したとき、閑散とする帯広の駅前北側でがんばっていたのは、帯広のもうひとつの顔ともいえる、飲食店街の人たちだった。
マルヒロセンターの改造や屋台街などで、昔の繁栄までいかないまで、もここを盛り上げる守っていくという気合を見て取れた。
商工会や市は、この動きや市民の思いをどうとらえていくのか、今後注目したいと思う。
これが解体されるという話を聞いたので、調べてみた。
詳細は、「北海道新聞帯広支社」というページに詳しいが、ここは新しいニュースが入るとページがリニューアルされて、前のニュースがどこにあるのかわからないので、記事を転載した。
北海道新聞帯広支社 2010年1月6日 08:04:07---------
http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/
ホシビル 春までに解体*帯広・博愛会*当面は有料駐車場(2010/1/6)
開西病院(帯広)を運営する医療法人社団博愛会(同)の細川吉博理事長は5日、博愛会の関連会社が所有する市中心部の商業ビル「ホシビル」(西2南9)について、春までに取り壊し、当面は駐車場として活用することを明らかにした。
ビルは関連会社のベーシック(同)が、2008年10月に土地と建物を約5千万円で取得した。当初、飲食店などのテナントを入居させる計画だったが、水回りなど設備の老朽化が進んでいて全面改修が必要と分かり、そのままでの活用を断念した。
同ビルは1983年に完成し、百貨店藤丸の道路を挟んで南側に位置する好立地から、かつてはファッションビルとして中心街のにぎわいに貢献していた。建物は鉄筋コンクリート地上6階、地下1階で、延べ床面積約4300平方メートル、敷地面積は約800平方メートル。
解体工事は今月中旬にも始まり、いったん更地にした上で、4月以降、有料の駐車場として営業する。細川理事長は「固定資産税が高額なため、とりあえず駐車場にするが、時機を見て新たな建物を建て、まちなかの活性化に貢献したい」と話している。(長谷川賢)
----------------------------------------------
ホシビルのある場所から、二条通りをはさんで向かいの広小路の端にあるビルは、1986年当時地価(建物込みか?)が一億円になったというニュースが懐かしい。こんな田舎町で、一億円の価値のあるものがあるのかとわくわくした。
世の中はバブルへ向け好景気への期待に胸ふくらみ、専門店が強みの帯広の「まち」は、かねてから流行していたDCブランド熱が高校生を中心にさらなる過熱をみせていた。
帯広の「まち」でDCブランドといえば、マノワール・グレースだった。
ホシビルは、一階は今で言うドラッグストア的な店舗で、二階から上はマノワール・グレースが展開するDCブランドの本拠地となっていた。
一階は、普通にホシ薬局が入っていたのだが、当時の薬局は薬コーナーと化粧品コーナーとが分かれたよくある「薬局」が多かったのに対し、初めて帯広に「ドラックストア」的な店舗を展開したのもホシビルだった。
アンアンなどの雑誌で注目されていた、大手化粧品会社とは違う、独立したコスメ製品が普通に手に入るのは、新し物好きな帯広っ子には大変な魅力だった。
十勝毎日新聞社の2008年2月25日の「検証2008帯広予算」
http://www.tokachi.co.jp/kachi/jour/08kensyou/20080225/03.htm
という記事を見ると、2008年1月にはすでにホシビルの解体計画は存在していたらしい。
この記事で興味深いのは、「中心市街地活性化基本計画」と銘打ち2億6546万円もの予算を組みながら、市と商工会との産業政策の感覚のずれが如実に現れている。
新し物好きで開拓精神旺盛、何よりも自分たちの住む土地を愛している帯広の人たちが、帯広のバブルの象徴ともいえるホシビルを今失うことは、かなり大きな意味を持っていると思う。
これから、昔から栄えていた西二条を中心とした北側駅前をどうにかするのか、それともこの地域は捨てて新しい場所に繁栄の地を求めるのか。
「十勝・帯広の情報サイト 十勝への招待状」
http://www.0155.jp/tokachi/2008/01/09-001469.html
というブログの中でもホシビル解体の話題が書かれている。
ここでも触れているが、現在のホシビルの持ち主が医療団体なのなら、医療を中心とした商業・経済地域にすることだってできるはずだ。
そういう取り組みは、他の自治体でもよく見かけるし、実際に成功を納める地域もあるようだ。
これは邪推だが、帯広はなんとなく病院だけが元気で、高額な医療機器を導入して医療部分だけが高齢化に向けて、どんどん加速していっているような気がしてならない。
帯広はこれから、どういう都市であることを目指すのか。
建物が老朽化しているのなら、建物の表側だけきれいに取り繕ってきた帯広の建物や思想を、いっそ基礎からきれいにするチャンスでもあるのではないか。
離れて暮らす人間としては、故郷の大きな変化は好まないが、一番困るのは気がついたら故郷が機能しない町になって、死んだも同然になっていることだ。
それでは帰ってきても楽しみはないし、なにより自分の家族がそのような地域にいるのは、あまり安心できる状況ではない。
市としての指針が見えず、商工会や市民のいらだちが募る中で、市は帯広市をどう変えていきたいのだろうか。
すでに帯広市民でなくても、それは気になるところだ。
数年前、久しぶりに二条通りを散策したとき、閑散とする帯広の駅前北側でがんばっていたのは、帯広のもうひとつの顔ともいえる、飲食店街の人たちだった。
マルヒロセンターの改造や屋台街などで、昔の繁栄までいかないまで、もここを盛り上げる守っていくという気合を見て取れた。
商工会や市は、この動きや市民の思いをどうとらえていくのか、今後注目したいと思う。
◇帯広Docco-InnおよびPICOのスパゲティ ― 2010年01月07日 02時10分14秒
とんねるずの「みなさまのおかげでした」で、石橋がスパゲティのことを「ゲッテイ」と呼ぶのを聞いて、パスタとスパゲティの違いについて考えたりしていた。
正しくは、パスタはイタリアでの小麦を使用した麺などの総称で、スパゲティはそのひとつの種類であることは知っている。
しかし、石橋はそういうことを言っているのではないだろう。
70年代、日本でのスパゲティといえばママーで、麺の太さは一種類、そして料理はナポリタンかミートソースと相場は決まっていた。
我が家では、ナポリタンよりミートソースが圧倒的に多かった。
作る手順としては、ゆでたスパゲティをうどんのごとく水で洗い(ぬめりをとると言っていた)、油をひいた鉄板かフライパンで炒めた後、なんらかの味付けがされたり、ソースがかけられたりするのだった。
具が入る場合は、麺を炒める前に具をあらかじめ炒めてから麺が投入される。
ポイントは、「麺を炒める」というところである。
当時、私は友達にも聞いたりしたのだが、私の周辺にいる友人の家でも、「スパゲティは炒めて食べる」というのが主流だったように記憶する。
スパゲティは子供に人気のメニューではあったが、まだまだ本格的に作るというよりは、新しい洋風なメニューが登場してそれにチャレンジくらいの感じだったのだろうと思う。
80年代に入り、友達と喫茶店などに入るようになって、外でスパゲティを食べる機会が多くなった。
子供の頃は「スパゲティといえばナポリタンかミートソース」だったのが、あちこちでたらこスパゲティだとか、醤油味などいろいろな味のバリエーションが増えだしてきたが、「麺を炒める」という基本的なところに変わりはなかった。
また、喫茶店などでは厨房がせまいところも多かったせいか、お客さんの少ない時間帯に大きな寸胴で大量のスパゲティをゆでておき、それを冷蔵庫に保管して、注文が入ったときに炒めて調理する方式が大多数だったように思う。
「麺はゆでたてが一番」が常識の今であれば、「麺をゆでて保管しておく」なんて考えられないことだが、昔はこれが一般的だった。私が後で勤めたいくつかの喫茶店でも、同じようなことがしばらく行われていた。
私が1984年くらいから通っていた広小路にあったDocco-Innとカジノビルにあったピコは、同じオーナーの「O川珈琲店」の姉妹店であったので、メニューの内容はほぼ同じものだった。
ここのスパゲティのメニューは、独自のレシピでいくつかのソースが自慢だった。
ナポリタンなどの定番のものもあったが、納豆ののった醤油味ベースのジャポネや中華風のチャイナなど、独特なメニューが多かった。
しかし、ここでもスパゲティは当然のごとく「炒めた」ものであった。
ジャポネやチャイナも、ソースは上からかけるのではなく、ナポリタンのように麺に絡めて炒めてあるものだった。
納豆ののったメニューはピザもあり、納豆とチーズのミスマッチのマッチングがなかなか絶妙だった。
スパゲティのジャポネは人気メニューだったが、ピザのジャポネはある種ゲテモノ的な印象を受けていたので、これを注文するのはなかなか勇気のいることだった。でも、一度食べるとやみつきになる。
私がピザのジャポネを初めて食べたとき、ピコのカウンターでオーナーのO川さんが「これ、おいしいでしょ」と独特の語り口調で顔を近づけてきたのを、強烈に記憶している(かなり嫌な記憶ではある。でも美味しかったのは事実)。
帯広の他の喫茶店に多く行っていたわけではないので詳しいことは知らないが、たらこスパゲティが美味しい店、ホワイトソースが自慢の店など、帯広には当時独自のレシピを売りにする店が多かったように思う。
そんな中でも、Doccoとピコのスパゲティは、他にはないオリジナリティがあった。
納豆をトッピングしていたり、醤油ベースのスパゲティは、今ではさほど珍しくもないが、Doccoとピコのジャポネやチャイナ(他にもいくつかあったはずだが、思い出せない)は、ただ、醤油で炒めただけのものではなかった。
常連連中はそのレシピを知りたがったが、当時Doccoの店長だったK森さんは絶対にそのレシピを教えてくれなかった(ピコでは、いつもオーナーのO川さんがいたので、聞きづらかった)。
唯一、友人Tがレシピを聞き出したと言っていたが、他に聞いたという話を聞かない。
1985年当時、東京などの都会ではどうだったのかは知らないが、少なくとも田舎にありながら、札幌よりもかっこよくという欲望渦巻く帯広の町で、「本当のスパゲティは炒めない」という概念が定着するのは、もう少し先のことである。
1986年か87年に、帯広の西二条9丁目か10丁目あたりに「本格ゆであげスパゲティの店」がオープンするまでは、「炒めたスパゲティ」が圧倒的に多かった。
ゆであげスパゲティが主流になるにつれ、喫茶店の「炒めるスパゲティ」は徐々に姿を消していくのだが、それでも本格的なイタリアンのスパゲティと平行して、日本独自の味付けのスパゲティは定着していく。
それは、今でも「街のパスタ屋さん」みたいな店で食べることができる。
しかし、Doccoやピコがなくなってしまった帯広で、あの頃のメニューが懐かしく思われることもしばしばあるし、当時の友人と話しても必ずといっていいほど話題に上るのが、Doccoとピコのスパゲティの話だ。
あれらのメニューは、今の「街のパスタ屋さん」みたいなところでも、なかなかお目にかかることはできないからだろう。
しかし、どこか「本格的なスパゲティは炒めない」という事実をつきつけられたとき、「今まで炒めていたのはなんだったんだ? うはーかっこわりぃ」という意識がどこかにあったのだと思う。
それは日本全国、共通した感覚だったのではないか?
そして、スパゲティは「パスタ」という言葉を知ると共に、「日本風のはスパゲティ、本格的なのはパスタ」という、日本人独特の区分けが生まれたように思うのだ。
とんねるず石橋の「ゲッティ」を聞くと、そんな「ちょっとかっこわりぃけど、実は美味しいんだよ」というスパゲティをなんとなく体言しているような気がしてならないのだ。
そして、「ゲッティ」と聞くたび、今は食べることができなくなったDoccoとピコのジャポネたちを思い出し、ちょっと食べたくなったりするのだった。
正しくは、パスタはイタリアでの小麦を使用した麺などの総称で、スパゲティはそのひとつの種類であることは知っている。
しかし、石橋はそういうことを言っているのではないだろう。
70年代、日本でのスパゲティといえばママーで、麺の太さは一種類、そして料理はナポリタンかミートソースと相場は決まっていた。
我が家では、ナポリタンよりミートソースが圧倒的に多かった。
作る手順としては、ゆでたスパゲティをうどんのごとく水で洗い(ぬめりをとると言っていた)、油をひいた鉄板かフライパンで炒めた後、なんらかの味付けがされたり、ソースがかけられたりするのだった。
具が入る場合は、麺を炒める前に具をあらかじめ炒めてから麺が投入される。
ポイントは、「麺を炒める」というところである。
当時、私は友達にも聞いたりしたのだが、私の周辺にいる友人の家でも、「スパゲティは炒めて食べる」というのが主流だったように記憶する。
スパゲティは子供に人気のメニューではあったが、まだまだ本格的に作るというよりは、新しい洋風なメニューが登場してそれにチャレンジくらいの感じだったのだろうと思う。
80年代に入り、友達と喫茶店などに入るようになって、外でスパゲティを食べる機会が多くなった。
子供の頃は「スパゲティといえばナポリタンかミートソース」だったのが、あちこちでたらこスパゲティだとか、醤油味などいろいろな味のバリエーションが増えだしてきたが、「麺を炒める」という基本的なところに変わりはなかった。
また、喫茶店などでは厨房がせまいところも多かったせいか、お客さんの少ない時間帯に大きな寸胴で大量のスパゲティをゆでておき、それを冷蔵庫に保管して、注文が入ったときに炒めて調理する方式が大多数だったように思う。
「麺はゆでたてが一番」が常識の今であれば、「麺をゆでて保管しておく」なんて考えられないことだが、昔はこれが一般的だった。私が後で勤めたいくつかの喫茶店でも、同じようなことがしばらく行われていた。
私が1984年くらいから通っていた広小路にあったDocco-Innとカジノビルにあったピコは、同じオーナーの「O川珈琲店」の姉妹店であったので、メニューの内容はほぼ同じものだった。
ここのスパゲティのメニューは、独自のレシピでいくつかのソースが自慢だった。
ナポリタンなどの定番のものもあったが、納豆ののった醤油味ベースのジャポネや中華風のチャイナなど、独特なメニューが多かった。
しかし、ここでもスパゲティは当然のごとく「炒めた」ものであった。
ジャポネやチャイナも、ソースは上からかけるのではなく、ナポリタンのように麺に絡めて炒めてあるものだった。
納豆ののったメニューはピザもあり、納豆とチーズのミスマッチのマッチングがなかなか絶妙だった。
スパゲティのジャポネは人気メニューだったが、ピザのジャポネはある種ゲテモノ的な印象を受けていたので、これを注文するのはなかなか勇気のいることだった。でも、一度食べるとやみつきになる。
私がピザのジャポネを初めて食べたとき、ピコのカウンターでオーナーのO川さんが「これ、おいしいでしょ」と独特の語り口調で顔を近づけてきたのを、強烈に記憶している(かなり嫌な記憶ではある。でも美味しかったのは事実)。
帯広の他の喫茶店に多く行っていたわけではないので詳しいことは知らないが、たらこスパゲティが美味しい店、ホワイトソースが自慢の店など、帯広には当時独自のレシピを売りにする店が多かったように思う。
そんな中でも、Doccoとピコのスパゲティは、他にはないオリジナリティがあった。
納豆をトッピングしていたり、醤油ベースのスパゲティは、今ではさほど珍しくもないが、Doccoとピコのジャポネやチャイナ(他にもいくつかあったはずだが、思い出せない)は、ただ、醤油で炒めただけのものではなかった。
常連連中はそのレシピを知りたがったが、当時Doccoの店長だったK森さんは絶対にそのレシピを教えてくれなかった(ピコでは、いつもオーナーのO川さんがいたので、聞きづらかった)。
唯一、友人Tがレシピを聞き出したと言っていたが、他に聞いたという話を聞かない。
1985年当時、東京などの都会ではどうだったのかは知らないが、少なくとも田舎にありながら、札幌よりもかっこよくという欲望渦巻く帯広の町で、「本当のスパゲティは炒めない」という概念が定着するのは、もう少し先のことである。
1986年か87年に、帯広の西二条9丁目か10丁目あたりに「本格ゆであげスパゲティの店」がオープンするまでは、「炒めたスパゲティ」が圧倒的に多かった。
ゆであげスパゲティが主流になるにつれ、喫茶店の「炒めるスパゲティ」は徐々に姿を消していくのだが、それでも本格的なイタリアンのスパゲティと平行して、日本独自の味付けのスパゲティは定着していく。
それは、今でも「街のパスタ屋さん」みたいな店で食べることができる。
しかし、Doccoやピコがなくなってしまった帯広で、あの頃のメニューが懐かしく思われることもしばしばあるし、当時の友人と話しても必ずといっていいほど話題に上るのが、Doccoとピコのスパゲティの話だ。
あれらのメニューは、今の「街のパスタ屋さん」みたいなところでも、なかなかお目にかかることはできないからだろう。
しかし、どこか「本格的なスパゲティは炒めない」という事実をつきつけられたとき、「今まで炒めていたのはなんだったんだ? うはーかっこわりぃ」という意識がどこかにあったのだと思う。
それは日本全国、共通した感覚だったのではないか?
そして、スパゲティは「パスタ」という言葉を知ると共に、「日本風のはスパゲティ、本格的なのはパスタ」という、日本人独特の区分けが生まれたように思うのだ。
とんねるず石橋の「ゲッティ」を聞くと、そんな「ちょっとかっこわりぃけど、実は美味しいんだよ」というスパゲティをなんとなく体言しているような気がしてならないのだ。
そして、「ゲッティ」と聞くたび、今は食べることができなくなったDoccoとピコのジャポネたちを思い出し、ちょっと食べたくなったりするのだった。
◇知らない町 ― 2009年11月28日 02時06分00秒
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帯広駅前の現在地図。私がいた場所と父がいたらしい場所
私がいた場所は★、父がいた場所は車のマーク
北海道帯広市は私の生まれた町なのだが、今はまち中よりも郊外の方がにぎわっており、「まち」と呼ばれた繁華街は、昼間は20年前の面影もなくなっていることは、このブログを始めた最初の方でさんざん書いた。
ブログを初めてから何度か帰省し、母の車で運転して移動することも多いのだが、新しくできた道がわからず、自分が今どこにいるのかわからなくなることがある。
東西南北がわかればだいたいの位置を推測することはできるのだが、なぜここの道を走ると、この場所に出るのだろうと、点と点が結びつかない。
カーナビでもあれば別だが、ふだんよその土地に行かないような両親には不要なので、そんなものはついていない。
今回、初めて飛行機ではなく汽車で帯広入りするということになったのだが、駅に迎えに来てくれた父が実は方向音痴であることを初めて知った。
駅に到着してすぐに、携帯に父から電話が入り、今どこにいるのかと聞くと、「ロータリーのある方、駅の西の北側だ」という。
帯広の駅には、西の北口、東の北口、西の南口、東の南口がある。
北口は東西どちらも、古い繁華街に出ることになる。私にとっては馴染みの街並みだが、今の帯広の人にとってはあまり利用しない方向らしい。
私は、昔の出口の方が私がわかりやすいので、父が気を使ってくれたのだと思った。
そして「昔の二条通りの方ね」と聞くと、父は「そうだ」と答えた。
しかし、その出口に出ても父の車は見当たらない。
目の前には昔からある駅のロータリーが東西に広がっているが、そこにはタクシーしかいないのだ。
もう一度父に電話し現在地を聞くと、「十勝バス(昔、西の北口正面にあった)の方じゃない。西の南口だ」という。
南口は現在の栄えている方である。目の前には長崎屋があったりする。
しかし、父の車らしいものは見当たらない。
実は父はそのとき、東の南口にいたのだ。
東の南口には新しい駅のロータリーがあり、そこで待っていたらしいのだが、私にはそんなことはわからない。タクシーロータリーがあるのには気づいたが、そこが一般車が入場できるものなのかどうかもわからない。
その上、父がいるはずの「東の南口」という出口の名前は、父からは一切でてこなかった。
なんだか新しいホテルの名前(ノースランドホテルか?)を言ってはいたが、私の知らないホテルなので「そんな名前のホテルは知らない」と答えるしかなかった。
私の中では、「東側は人のあまり行かないところ」というイメージしかなかったからだ。
日はとっくに暮れているし、雨が降ってきて寒くなってきている。
駅の構内にいたほうが雨風はしのげるが、それでは父がどこにいるかわからないので、仕方なく長崎屋のまん前の交差点で待つことにする。
携帯で父が今どこにいるのかを聞くと、逆に私がどこにいるのか聞かれたので
「長崎屋と駅の間の交差点の駅側にいる。“正面”に長崎屋がある」と答えた。
目の前にとかちプラザがあるかと聞かれたが、目の前のビルがそういう名前のものかどうかがわからないのでそう答えると、「なんでわからないんだ」と言われる。
でも、わからないものはわからない。そんなビル、私のいた頃には存在していなかったんだし。
うんと首をあげてみると、とかちプラザという看板によってその名前を確認できたのは、「とかちプラザ」というビルの存在を知ってから10分後のことであった。
雨の中でたたずみながら、こんなに帯広は知らない町になったのだと思った。
私のいた頃は、駅の南側は「駅裏」と呼んでいたくらいで、何もないところだった。
長崎屋ができて開発されたことは聞いていたし、新しい図書館にも行ったし、駅の南側にも何度も連れていってもらった。
しかし、そんなところは私にとっては知っている帯広ではないし、馴染みもない。
せっかく帰ってきているのに、懐かしいと思えない場所に行くのはなんとなくつまらないだけなので、覚える気もないのだ。
父には、昔の北側のロータリーの方がわかりやすいので、そちらに来てほしいと言ってみたが、父はすでにパニックになっていて、そのロータリーがどこだかわからなくなっている。
北側の街並みが、こんなにも帯広の人たちから遠くなっていることに、ちょっとだけ寂しさを感じた。
結局父に会えたのは、私が帯広の駅について40分以上経ってのことであった。
あまりにあきれ果て、迎えに来てくれたお礼よりも、悪態の方が口をついて出てしまう。
後で聞いた話だが、帯広の人(少なくとも私の父)にとって長崎屋の“正面”とは、パチンコ屋などがある方向で、駅とはまったく逆側らしい。
私は「長崎屋は“正面”に見えている」と伝えたので、父は長崎屋の南側に私がいるのだと思ったらしい。
父にとっては、私はもともと帯広にいたのだからそれくらいわかっているだろうと思っているのだろうが、私は思っている以上に帯広の人ではなく、帯広もすでに私の知っている町ではなくなっていることを、改めて痛感した。
それ以前に、父には是非、最低でも東西南北くらいは認識してほしいと、本気で思うのであった。
◇バイクになった鹿の思い出 ― 2008年02月22日 01時51分19秒
ある日突然、ぱっと頭に昔の記憶がよみがえることがある。そのときだけでまた忘れてしまうことも多いのだが、ずっと忘れていたのに思い出したとたんに頭から離れなくなってしまうこともある。
「バイクになった鹿」の思い出は、ずっと忘れていたのにある日テレビを見ていたらぱっと頭によみがえり、その後ふっとまた思い出すということを繰り返しているのだ。そのテレビがどういう内容だったかは、すでに覚えていないのに。
この思い出は、鹿が実際バイクになったという話ではない。
二十数年前のある日、私は20年来の旧友Kと帯広の西二条通りを、広小路の西一条八丁目にあったD・Iという喫茶店に行くために歩いていた。
広小路に入り歩道のわきに停めてあったバイクをふと見ると、一台のバイクのシートに唐突に石が置いてあった。
石はそのへんにあるような小さな石だったし、バイクも特に変わったバイクというわけでもなかった。
しかし、街中で石を見るというのも唐突だったが、なぜ石がバイクのシートに乗せてあったのか大変不思議に思え、私たちの目はしばらくそこに釘付けになった。
シートが汚れないために何かかぶせてあり、それを止めるために置いてあったのが石だけ残ったのかもしれないし、道端に落ちていた石を誰かが無造作にバイクのシートにのせたのかもしれない。
いや、もしかしたら何かの目印かもしれない。誰かがバイクの持ち主に合図するためのものかもしれない……。
と、私たちの想像は膨らんでいく。
D・Iに到着するまでの間に、「あれはもしかしたら封印かもしれない」という話になった。もともとあれは鹿で、バイクに化身しているのを元に戻らないよう石で封印しているのだと。
D・Iに到着した私たちは、お店にあったお客さん用の落書きノート(昔の喫茶店には、こういうものがよくあった)に、二人で鹿がバイクに化けた話を交代で書いていき、コーヒーを飲み終えて帰る頃には一大話が出来上がっていた。しかし、どういう理由かは思い出せないが、その話は途中で終わってしまったのだ。
その後私が一人でD・Iに行ったとき、ある顔見知りの常連さんに「あの鹿の話の続きはないの?」と聞かれた。最初はなんのことかわからなかったのだが、落書きノートに書いたその話が常連さんの間で小さな話題になっていたらしい。話をKと二人で書いているときにそれを見ていた従業員が、私たちが書いたものだと話したらしいのだ。
後で再びKとお店に行ったとき、その従業員が「あの話の続きが楽しみなのに」と私たちに言ったのだが、その話に対するテンションは二人の間ではすでに終わっていたので、想像力も尽きていたのかもしれない。結局私たちがその話の続きをノートに書くことはなかった。
と記憶はここで終わっている。
私が気になるのは、あの話がどんな内容だったかなのだ。話の大筋は覚えているのだが、ノートに書いた物語の詳しい筋は覚えていないし、D・Iはすでに閉店しているのでそんな昔のお客様ノートが残っているとも考えにくい。一緒に書いたKがこの話を書いたこと自体覚えているかどうかは不明だし、たとえ彼女が覚えていたとしても、確認したところで昔話に花が咲く程度のことで、どうということはないのだろうとも思う。
ただ、なんとなく思い出して確認する術のないものが、ちょっと気になるだけのことなのだろう。
それでも、この思い出自体はなんとなく私の中ではいい思い出だったりするのだ。
「バイクになった鹿」の思い出は、ずっと忘れていたのにある日テレビを見ていたらぱっと頭によみがえり、その後ふっとまた思い出すということを繰り返しているのだ。そのテレビがどういう内容だったかは、すでに覚えていないのに。
この思い出は、鹿が実際バイクになったという話ではない。
二十数年前のある日、私は20年来の旧友Kと帯広の西二条通りを、広小路の西一条八丁目にあったD・Iという喫茶店に行くために歩いていた。
広小路に入り歩道のわきに停めてあったバイクをふと見ると、一台のバイクのシートに唐突に石が置いてあった。
石はそのへんにあるような小さな石だったし、バイクも特に変わったバイクというわけでもなかった。
しかし、街中で石を見るというのも唐突だったが、なぜ石がバイクのシートに乗せてあったのか大変不思議に思え、私たちの目はしばらくそこに釘付けになった。
シートが汚れないために何かかぶせてあり、それを止めるために置いてあったのが石だけ残ったのかもしれないし、道端に落ちていた石を誰かが無造作にバイクのシートにのせたのかもしれない。
いや、もしかしたら何かの目印かもしれない。誰かがバイクの持ち主に合図するためのものかもしれない……。
と、私たちの想像は膨らんでいく。
D・Iに到着するまでの間に、「あれはもしかしたら封印かもしれない」という話になった。もともとあれは鹿で、バイクに化身しているのを元に戻らないよう石で封印しているのだと。
D・Iに到着した私たちは、お店にあったお客さん用の落書きノート(昔の喫茶店には、こういうものがよくあった)に、二人で鹿がバイクに化けた話を交代で書いていき、コーヒーを飲み終えて帰る頃には一大話が出来上がっていた。しかし、どういう理由かは思い出せないが、その話は途中で終わってしまったのだ。
その後私が一人でD・Iに行ったとき、ある顔見知りの常連さんに「あの鹿の話の続きはないの?」と聞かれた。最初はなんのことかわからなかったのだが、落書きノートに書いたその話が常連さんの間で小さな話題になっていたらしい。話をKと二人で書いているときにそれを見ていた従業員が、私たちが書いたものだと話したらしいのだ。
後で再びKとお店に行ったとき、その従業員が「あの話の続きが楽しみなのに」と私たちに言ったのだが、その話に対するテンションは二人の間ではすでに終わっていたので、想像力も尽きていたのかもしれない。結局私たちがその話の続きをノートに書くことはなかった。
と記憶はここで終わっている。
私が気になるのは、あの話がどんな内容だったかなのだ。話の大筋は覚えているのだが、ノートに書いた物語の詳しい筋は覚えていないし、D・Iはすでに閉店しているのでそんな昔のお客様ノートが残っているとも考えにくい。一緒に書いたKがこの話を書いたこと自体覚えているかどうかは不明だし、たとえ彼女が覚えていたとしても、確認したところで昔話に花が咲く程度のことで、どうということはないのだろうとも思う。
ただ、なんとなく思い出して確認する術のないものが、ちょっと気になるだけのことなのだろう。
それでも、この思い出自体はなんとなく私の中ではいい思い出だったりするのだ。
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